第49話 うらぶる帆船
友達がいない。彼女がいない。何か良い事はないだろうか……。
この三つが彼の口癖である。
彼──。一ツ橋ユキは、決断に迷っていた。
ハロワ帰りの食堂。昼時だけに賑やかである。ユキは黙ってサイフを握り締める。初夏なのに、座った椅子は心なしか冷たい。
壁の品書きを見た。トンカツ定食に胸がときめいた。だが視線が下がればその輝きは消えてゆく。
──千五百円。
みすぼらしいサイフの中身がうらめしい。定食は八百八十円もする。久しぶりに肉が食いたい。
八百八十円。肉。八百八十円。肉──。
脳裏で呪詛のように唱えた。
腹の虫が早く注文しろと急かしてくる。だが残金六百二十円になるのがとてもつらい。
この調子だと実家にまた金の無心に行かなければならない。先月頂戴した三万円は今やこの有様だ。ギャンブルは一切やらないが金のやりくりが下手なのである。
壁にふたたび目をやった。ややあってまぶたを縛った。
やはり店を出よう。そしてスーパーに寄ろう。芋コロッケ三つ入り百円のパックを買って、すごすごと部屋に帰ろう。
見切りをつけて立ち上がった。その時だった。
「オイ兄ちゃん。金持ってないのけ?」
知らないおっさんだった。
おそらく土木作業員だろう。食い終わった丼を前に足を組んで、仲間たちとこっちを眺めている。
貧弱な体型のユキとは対照的に、誰もがガタイの良い体をしていた。おっさんがポケットからタバコを抜き出した。
「腹が減ってるんだろう?」
「えっ」
唐突な問いに、どう反応すればいいのか戸惑う。目が泳いで緊張してくる。
おっさんはすぐに返事をしないユキに少し苛立ったようだ。
「どうなんだ? 言ってみろよ。腹が減ってんだろ?」
ユキは固唾を呑んだ。神妙にうなずいた。おっさんがしかめた眉をほどいてニカっと笑う。
「じゃあよ。一品だけ奢ってやるよ」
思いも寄らない幸運を受けて、ユキの目に光が宿った。
──定食を食べながら、腹も心もほかほかと温まっていた。
ソースのかかったトンカツの衣はサクっとしていて、噛みしめるたびに甘い肉汁が広がる。白飯をかきこむ。もぐもぐと味わう。
揚げたてのトンカツと、ほっこり湯気の立つ米は相性ばつぐんであった。彼は涙のちょちょ切れる思いで感謝をした。
おっさんはタバコを吹かして見守っている。
「よっぽど腹を空かしてたんだなァ」
感心したように言い、仲間に先に行っててくれと手で伝えた。
ユキは流れてくる紫煙が気になった。だがそれよりも気がかりなことがあった。食事の代価として、ある条件を出されていたのだ。
箸を止めて、顔を上げた。
「……あの、本当に仕事の世話をしてくれるんですか?」
「おう。だってよ、無職なんだろう? ちょうど一人辞めたところでよ。誰か働けるやついねーか探してたんだ」
さきほど注文したあと、おっさんと話をした。
おっさんは土木会社の社長だった。ユキは質問を受けて、現在求職中であることを伝えた。
高卒の二十三歳であることも話したが、どの仕事も長続きしないことは伏せておいた。
おっさん、もとい社長は、小太りの気のいい中年作業員に見えるが、怒らせると怖い印象があった。ちなみに条件とはその会社で働くことである。
ユキは千切りキャベツをしゃくしゃく噛んだ。苦手なトマトも臭みがなくてうまかった。
本来は食事の手を止めて会話をするべき状況だが、その時はまだ、礼儀というものに未熟であったのだ。
社長はタバコを灰皿に押し付けた。
「じゃあ明日からってコトでよ。朝六時に会社前に集合な」
住所を書いたメモを残し、会計のあと、のれんを上げて出ていく。
ユキは平らげた食器をよけた。メモを手にして、文字を読み取った。
働き口が決まったことは喜ばしい。だがその表情はさして明るくない。
「土木作業か……」
初めての職種に、不安を感じたのである。
──翌日の正午前。
ユキは肩を落として歩道をあるいていた。
足取りは重く、しかし自宅に帰る前にハロワに寄ろうかと迷っている。
さきほど現場でどやされた声が、まだ耳にキンキン残っているようだ。
遅刻はしなかったものの、現場での彼はまったく使い物にならなかった。
「やはり力仕事は向いてないな。それにあの手の職人は気性が荒くて波長が合わない」
などとこぼすも、彼に合う職業があること自体が疑わしい。波長の合う人間だって存在するのか怪しいものだ。
ユキは今後の展望が見えないまま、うつむき加減に足を運んでいた。すると突然カメラを持った若者が話しかけてきた。
「すみません。今ちょっと街頭インタビューしてるんですけど」
そんな切り口で説明を受け、相手がyoutuberであることを知った。聞くに登録者数は20万を超え、なかなかの月収があるという。
相手と別れたあと、ユキは青空を見て誓った。
「よし。俺は一念発起して動画投稿をはじめるぞ!」
そしてyoutubeデビューを果たすのである。
しかし現実は甘くなかった。
自作コントというジャンルを選び、台本を作ってみずから陽気に演技をした。すぐに動画をアップするも、視聴者の反応はかんばしくない。
ユキは負けずに動画を六本アップした。けれどもバッドマークと批判コメントがつくばかり。モチベはどんどん落ちていく。
だが彼は負けなかった。市場調査をして、食べ物関連の伸び率が高いことを知った。
そして七味一本丸ごと入れたカップ焼きそばを作った。彼はそれを早食いする動画を上げた。
半信半疑で作った動画はそこそこ伸びた。彼の必死なる食いっぷりが意外にもひょうきんだと評価を受け、口コミで広まっていったのである。
気を良くしたユキは動画を次々と載せた。デスソースをはじめとする、世界じゅうの香辛料を用いた。
そして最終的には超大盛りカップ焼きそばに、工業オイル1リットルを丸々投入したのである。
動画はなんと10万再生を遂げた。手を叩いて喜んだ。しかし代償として入院するハメになってしまう。
病室のベッドにて、ユキは口を結んでシーツを見つめていた。
……やっぱり俺は、何をやってもダメなんだ。
動画のみならずチャンネル自体が炎上した。食品メーカーからクレームがついた。広告は剥がされアカウントは削除されてしまった。
……俺はこれからどうすればいいんだ。
ほぞを噛む思いで拳をシーツに叩きつけた。そんな様子を看護師が見ていたらしく、彼に近寄り、そっと手をおいた。
「一ツ橋さん。どうか気を落とさないで」
カルテを胸に包んだ小柄な女性──広谷冬美は、チャンネルの一視聴者だった。
入院時からユキの担当になっており、心身のケアを丹念にしてくれていた。
「看護師さん。いえ、広谷さん。俺は昔からいつもこうなんです。何か思い切ったことをすると失敗ばかりしていて」
「……」
「俺は夢を持っちゃいけない人間なんですよ。世間の日陰を選んで貧困にあえぎなら、地味に生きるしかないんです」
「そんなコトないわ。元気をたくわえて、また何かを頑張ってみようよ」
彼女の真摯な瞳を見つめるユキ。しかしその視線はちょくちょく豊満な胸のほうへと降りていく。
ユキは巨乳が好みだった。顔は多少劣っていても、胸が大きければ魅力は補えると思っていた。
「でも広谷さん。頑張ろうとか言われても、気力がわいてこないんですよ」
「だいじょうぶ。私が支えるわ」
「支えるって、どうやって……」
ユキは沈んだ顔でうつむく。冬美がスマホをとりだして微笑を浮かべた。
「ねえ。私とライン交換しない?」
冬美は低身長である。二十一歳という割りにあどけない顔立ちをしている。
ぱっちりとした二重まぶた。ふたつ結びの黒髪。桜色の唇から紡がれるキュートな声は、耳に心地よく入ってくる。
──何もかもが、ユキの好みと一致していた。
そして人生初の、甘い恋が始まったのである。
退院後、交際は順調に進んだ。
最初のデートにはプレゼントをもらった。小箱をあけるとアナログの腕時計だった。
退院祝いということで、ユキは初めて女の子から贈られたものに心が温まった。刻まれる秒針は、これからの幸せを運んでくるようだった。
そして二ヶ月目の秋祭りの夜。ユキは帰り道、浴衣姿の彼女を抱きしめた。
公園の灯りのもと、ベンチで身を寄せて唇を重ねた。ユキは初めての感触に脳がしびれた。
ふくらんだ胸に手をのせてみた。冬美がそっとうなずいた。五指を縮めると、冬美が頬を染めて吐息を漏らした。
二人は雰囲気に流されてホテルに入った。
シャワーを浴びたあと、今度は裸身で抱きあった。ユキは女の生肌がこんなにも柔らかく、そして優しいものだと興奮しながら夢中でむさぼった。
乳をたらふく吸い、くどいほどにディープキスを続けた。ユキのたぎった欲求を、彼女は嬌声で応えてくれた。
だが挿入の段階になって異変が起こった。
いや、異変というよりも、通常の男なら起こるはずの状態にならないのである。
そう。……勃たないのだ。
なぜだ! なぜだ!
ユキは焦燥した。
しかしいくら焦ろうと、股間のモノはなめくじのように縮んだままだ。萎びた性器からカウパーがだらだら流れてくるだけ。
実は初キスの時から違和を感じていた。彼女の肌身を堪能しているあいだも同じように感じていた。
けれど挿れる段階になれば勃起すると思っていたのに、あてが外れてしまったのだ。
冬美は仰向けで股をあけて待っている。ユキは股間を握ってシゴいた。変化がなかった。自棄くそになった。張り手を加えた。なめくじは天狗の鼻に昇華してくれない。
ユキの醜態に、彼女の顔はみるみる曇っていく。だが仕方なさそうに鼻から息をこぼした。
「ちょっと貸してみて」
ユキはまたもや初めてを経験した。
惚れた女性の口に吸い込まれた瞬間、短いうめきを上げてしまう。
股間に顔がうもれ、滑らかにストロークしながら唾音が耳朶を震わせた。ユキは天にも昇る心地よい感触に、上を向いて瞑目する。
だが──。
……帰り道、気まずい空気を味わった。
ホテル代は無駄になった。彼女は隣を歩いているが、心は遠く離れていた。
どんな言葉をかければいいのかわからなかった。居心地のわるい空気を変えたかった。しかし気の利いたセリフがまったく浮かんでこない。
ユキはコミュ力の低い自身を恨み、そして勃起しなかった股間に失望を感じた。
それから二ヵ月後。
「もう! 私じゃムリ!」
冬美の尖った声が突き刺さる。
胸を押されたユキは、シーツを剥いでベッドから降りた。座った。うなだれた。ため息が落ちた。
背中に、冷めた声音が流れてくる。
「……ねえユキくん。一度風俗に行ってきなよ。きっとそのほうがいいよ」
何も言えなかった。
「プロの人にしてもらいなよ。ああいう人のほうが、どうにかしてくれるって」
恋人に風俗を勧められることがとても情けなく感じた。同時に好意が尽きていることもわかった。
「いろいろやったけど。ほんと、私じゃムリだから」
壁を張るような厳しい口調のあと、寝返りを打つ音が聞こえた。
ユキは間の悪さに耐え切れなくなった。立ち上がってシャワーを浴びることにした。
戻ってみると、冬美がベッドに腰掛けて髪をとかしていた。ユキはそちらを見ないようにして服をとった。袖を通していると、カチリと音がした。
ズボンをつかんだ瞬間、漂ってくる匂いに嫌な予感がした。
顔を向けてみた。足を組んだ冬美が口から煙を吹いた。ユキは冷たい水の底に沈んだ気持ちにさいなまれた。迷ったが話しかけてみた。
「……タバコ、吸うんだね」
冬美は灰皿を引き寄せ、慣れた手つきで灰を落とす。ユキは胃が重くなる。
「吸ってたなんて、知らなかったよ」
「……」
彼女は無言を貫いた。
それはユキの知らないところで長らく吸っていたと示唆しているようだった。
服をつけたユキは部屋を出た。閉じたドアを背にこう思った。
あどけない顔のキミに、タバコは似合わない──。
この日を最後に、冬美と会うことは二度となかった。
やがて秋が過ぎ、曇り空から雪がちらちら落ちてくる頃。
ユキはハロワの帰り、食堂のカウンターに座っていた。昼の賑わしい店内。壁を見て、サイフに目を落とす。
──九百六十円。
白飯と、みそ汁。それにお新香に……。などと金の計算をしていると、隣の席から視線を感じた。
「!!」
ガラのわるい若者が、鋭い双眸で威嚇していた。
ユキは目をそらす。だが若者は執拗に睨んでくる。席を移動するため立ち上がった時、若者のパンチが腹に埋まった。
「ぐっ!」
ユキは身を縮めてうめいた。サイフが落ちて小銭が散らばった。十円玉をヤンキー靴が踏みつけた。
髪の毛をつかまれ、引きずられるようにして外に連れて行かれた。
路地裏で五発目のパンチを浴びた時、ユキはつくづく自分は不運だと感じた。
単に目障りという理由で絡まれ、乾いた小便くさいコンクリートに顔をうずめる。肋骨に追撃のキックが入り、激痛が走った。
いつ終わるか分からない攻撃に、ユキはただ身をかばって耐え続けた。
やがて嵐のような暴力がおさまり、去っていく靴音が薄らぐ意識のなかに聞こえてくる。
数分後。ユキは身をはがして、壁に背をあずけた。鼻血をすすって口から吹き捨てた。鉄の味がしつこかった。
冬美からもらった時計が割れて、秒針が止まっていた。
「……なぜ俺は、こんな変わった目にばかり遭うんだ」
幼少の頃からだ。
何かにつけて、悪い方面の珍しい目にばかり遭う。
自分はやはり何者かに祟られているのだろうか。祟りの影響で、これからも運気がどんどん悪化して、人生は下降線をたどっていくのだろうか。
今年は厄年だ。しかも本厄だ。いや、それよりも以前から不運が続いていた。その正体は神か。仏か。霊魂か。
そんな具合にしてユキは、今までそれらに原因があると焦点をあててきた。
だが目に映らない存在のせいにしても、何ら進展は起こらない。
ユキは頭をふって邪念をはらった。ボコボコに殴られた顔面が痛んだ。そして過去のあらゆる失態をふり返り、決意した。
男たるもの強くなければならない。強くなれば星の回りが良くなり、人生が上向きになるかもしれない。
そうだ格闘技だ。格闘技をはじめよう。古代ローマの詩人、ユウェナリスはこう唱えた。
健全な精神は、健全な肉体に宿ると──。
そして、やるなら実戦に近いものと思い、総合格闘技の門戸を叩く。
年の明ける頃。
うずまく声援と熱気にまみれたフロアにゴングが鳴り響く。
ユキは7m×7mの金網の空間に、命の炎を燃やしていた。
今日は晴れてデビューの日である。アマチュアの地下試合だが、初めての本戦に緊張を隠せなかった。
ユキは顔への連打を浴びた。ガードするもローキックをうまくカットできず、相手のペースに乗せられダウンする。
全身彫り物だらけの相手がせせら笑う。セコンドの叫びは聞きとれない。ユキは観客の野太い罵声を受けつつ立ち上がった。
息も絶え絶え、ファイティングポーズをとった。だがここで持病のパニック発作が鎌首をもたげた。
しばらくぶりの発症だが、この世の終わりにも等しき強い恐怖が思考に浸透してくる。
試合どころではなかった。動悸と呼吸の乱れに意識を奪われ、真っ青になってしゃがみ込んだ。
視界が溶けたようにゆらぐ。逃れられない死の予感。深い深い渦の中へと引っぱられてゆく。周囲の人間がユキの異変に気づく。
だがどれだけの数に気づかれようと、何の救いにもならない孤独感にあえぐばかり。
誰かこの苦しみを消してくれ! ──視線で訴えるも自分と他人は別の個体である。今のつらさ苦しさは自分一人だけのものである。
人はいくら強い絆で結ばれようと、所詮は苦痛を共有できない一人ぼっちの生き物だ。
ユキはドクターに寝かされた。慌てるセコンドの肩からタオルが落ちた。
過呼吸のさなか、ラウンドガールも近寄ってきた。心配そうな顔で膝立ちになった。ユキの汗をタオルで拭いてくれた。コロンの匂いに混じって、女性らしい甘い香りが鼻をかすめる。
横を向けば、間近にきわどい角度のVゾーンがあった。ふり落ちてきそうな巨乳に意識を持っていかれた。
途端、快方に向かう予感がやってきた。何度も経験しているのでそれがわかった。まるで晴天が雲を割って波紋のように広がり、不調が嘘みたいに去っていく感じだ。
死の恐怖がじょじょに遠ざかっていく。入れ替わってハイな気分がやってくる。
冷えた身体に血液がうまく巡ってきたのが喜ばしい。窮地から生還できたことの多幸感を隠せない。
試合には負けた。だがそんなものは些細なことだ。殴り合いの勝ち負けなど本当にどうでもよかった。今生きていることがやたらと嬉しくて、目を交わす人全員と固く握手を結びたくなった。
そしてユキは観客に手をふり、笑顔でありがとうと言いながらケージを降りた。飛んでくる野次などまったく気にならなかった。
──それから年月は流れ、ユキは満開の桜並木を歩いていた。印刷業の面接に落ちた帰り道だった。
微風に花びらがさらさら落ち、こんな天気の良い日は、好きな女性と散歩できればさぞ幸せだろうと思った。
現に幸せそうなカップルとすれ違った。ユキは嫉妬と劣等感を受けて視線を下げた。
「はぁ……。なぜ俺の人生はこうも苦渋に染まっているのだろう」
流れる花びらに独りごちた。
ショルダーバッグから履歴書を取り出し、ねじってゴミ箱に捨てた。すると面接先であしらわれた場面が浮かんでくる。
──どれだけ職歴があるんですか?
退社数はごまかしたが、それでも担当者に呆れられた。履歴書が机を滑ってきてその場で不採用となった。
ユキは気が重くなって、歩を止めた。黙って桜を見上げていたら、あらゆる願望が泉のようにあふれてきた。
長く続けられる仕事に就きたい。給料は安くてもいい。代わりにストレスが少なく、毎日憂鬱にならずに出社できる職場と出会いたい。
結婚して所帯を持ちたい。家族の笑顔に囲まれて、自分の力で妻や子供を養っている誇りを持ちたい。
結婚が無理ならせめて彼女は欲しい。異性から注がれる愛情というぬくもりが欲しい。
異性だけじゃない。腹を割って語り合い、困った時には助けあえる親友だってほしい。
……けれども現実は、手ぶらのまま時間が過ぎゆき、乾いた風が冷たく吹くばかり。
美しかった桜が涙でゆがんできた。ユキはため息をついて、まぶたをぬぐった。
この世に生まれて来たこと──。それを悔やんだ日は数え切れないほどある。親に矛先を向け、粗悪品の製造者として恨むこともあった。
商品に不良品があるならば、それをゼロの状態から作ったメーカーの責任だ。
自分は両親の快楽の犠牲となってしまった。そして頼んでもいないのに無理矢理この世にひり出されてきたのだ。
親が悪い。人との巡り会わせが悪い。なぜなら人生とは自分ではなく他人が作るものだ。
自分はたったの一つ。他人は約八十億もいる。自分一人の些細な力よりも、他人から受ける影響のほうがはるかに大きい。だから何もかも他人が悪い。
……しかし、どれだけ腐ろうと現実は好転してくれない。人のせいにしていると人生はうまく回らない。それは停滞ではなく劣化しているのだ。
苦悩する時間がもったいなく感じる。どの道変えることができないなら、開き直って進んだほうがまだマシだ。
人生とは答えを探し続ける孤独な旅路。どんな足枷があろうと、生存し続けることが生命に与えられた試練なのだ。
だから自分は生きてゆかねばならない。無能という十字架を背負って生きねばならない。
誰かが言っていた。もしも地獄という世界が存在するなら、この世こそが地獄であると。
「いいだろう。立ち向かってやろうじゃないか」
こんなゴミじみた人生が終わる際、いったいどんなエンディングが用意されているのか確かめてみたい。
自死を選ばなかったifの先に、どんな景色が待っているのかこの目で見てみたい。それはそれでとても楽しみなことだ。
……などと、調子よく述べているが、彼は単に死ぬのが怖いだけである。
恐怖心を綺麗事でごまかして、汚いものに対し、自作の稚拙なイラストで蓋をしようとしているだけなのだ。
何でもいい。瞬間的に終われる方法はないだろうか……。そうすれば恐怖も苦痛も感じずに消えることが叶う。
できれば一人じゃなく、地球規模の大勢のほうがいい。
ふと足先を見ると、何かが落ちていた。小石だった。
気になったので、かがんでつまみとった。黒色のそれは指で撫でるとざらざらしていた。空には珍しく大きなアドバルーンが昇っている。
ユキは小石をかざして、青空を上目づかいに睨んだ。
──彼が脳裏に果てしない宇宙を描きながら、何を思っていたのかは分からない。
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