第45話 偏頗


 靴底から死人のうめきが伝わってくるようだ……。

 うす暗い通路の奥からただようカビ臭さが鼻をつく。腐った板敷きを一歩進むごとに巨大な魔物の口の中へと自ら入っていく感覚にとらわれる。

 すでに10年以上は人の手が及んでいない街はずれの屋敷。一家惨殺事件の現場であるが、もはやここは害獣とニュートリノのねぐらと化しているのだろう。彼らにとっては自由の楽園だろうが、人間には強い忌避を与える世間から放置された廃墟でしかない。

 板のきしむ音を耳にしながら天井を見上げた。ほこりと蜘蛛の巣がお祭りをひろげ、湿った空気とつきまとう怖気に寿命が縮んでいくようだ。早くここから出てしまいたい。だけど隠されたランドセルを見つけるまで退出するわけにはいかない。

 そんな決意を固めるも、僕の胃の腑はしゅくしゅくと痛むばかり。奮い立たせた勇気などたいして役には立たない。

『お前はいつも生意気なんだよ!』

 突然、頭のてっぺんを縦笛で殴られた時の声が響く。幻聴……。だが耳朶にこびりついて離れない言葉。

『大人びた喋り方をするな!』

 今から32分と18秒前。ひったくるようにして奪われたランドセルは、嘲笑する群れといっしょに離れていった。返せという一心で追いかけるも、僕のつたない脚力ではとてもじゃないが届かない。

涙を拭こうとすれば夕焼け色の道路に吸いこまれるように転んでしまう。追走する意欲だけが前を転がっていく。

『あすこの死人屋敷に隠したぞ。見つけて来いよ』

 ケタケタと笑って見下ろす無数の陰をおびた顔。夕焼けの色と重なって、濃い紫色にぐるぐる回って混ざりあい、三つ又の槍を手に踊る悪魔に変じた。

 僕は地下壕に幽閉された囚人の気持ちが少しだけわかった。そして暮れゆく闇に取り込まれないよう過去の深い傷を頭に浮かべ絆創膏代わりにする。

 今年のサマーキャンプはさんざんだった。口に入った土を吐き出せば、とめどもなく落ちてくる手足。煮えたカレーで火傷した背中はまだ痛みを覚えている。骨折して固めたキプスは功績を誇った腕章じゃないのに、クラスメイトが冷やかし混じりに集まってくる。身も心も常に怪我をしている僕がそんなに面白おかしいのか。

『おい。見つからないのかよ!』

 遊園地のおばけ屋敷よりも陰惨とした一室に入るなり、またもや幻聴が頭頂部を叩いた。

 電気も水道もないこの空間は、肉眼に映らない狂信的な存在の領土であることを誇示しているみたいだ。血の色が変わってしまいそうな重苦しい時間から早く脱出してしまいたい。

 だが湿って窪んだ畳にはまった足が抜けない。焦れば焦るほどに畳が沈んでいく。見えないところで無数の手に靴を掴まれている錯覚にとらわれた。

 僕は我を忘れ、ただの血肉と骨と魂の集合体でしかない自分という存在を誉めそやした。それにここで死ぬ意味はないのだから、この声が聞こえるなら誰でもいい、未来を賞賛してくれと願う。

 やがて僕はどんよりとした気持ちを抱え、二階へと続く階段を見上げていた。

『何か忘れてないか?』

 僕の精神に日々打撃を与える一名の声に意識をとられ、ソックスだけになった片足に目を落とす。だが引き返すわけにもいかず、階段に足を一段ずつ慎重にのせていった。

 二階に上った先の部屋から、音楽の授業で習った異国の歌が流れてくる。迷ったのち、ドアを開ければ、レコードの針が静電気を拾う音が曲に混ざって聞こえてきた。

 散らばる汚れたおもちゃから饐えたミルクの匂いを感じた。黙って心をあずけていると、小学校に入学した日を思い出した。そんな僕はもう来年には中学生になる。

 親からもらったプレゼントの腕時計は、巻いた翌日から盤面に罅が入っている。13日と5時間42分前の国語の時間。作文には、競争心を煽って洗脳教育を義務づける教師が劣った人間であることを書き連ねたら、放課後、2時間かけて恐怖心を克服せざるを得ない目に遭わされた。

 立派な大人になる僕たちに戦争ごっこを強要する大人ども。唱える宣誓の剣はいともたやすく折られ、数多の砲撃音とともに約束された土地はいくつもあると嘘で塗り固めてくる。

 そして僕は子供部屋をあさった末、喜びを実感した。ざまあみろ。やはり僕は恐怖心との戦闘を継続して勝利を得られる無敵の兵士なのだ。

 勇敢な選択肢が実を結び、英雄となった体験をあいつらに語って聞かせたい。だが連中はこの勝利を笑うだろう……。

 背後に何かの降り立つ音がした。身を縮めて振り返った。おもちゃの散乱する部屋の中で、人の手当などとは縁のない無垢な幼児が二名、僕の心を様々な角度からつかまえる。

 首にやわらかい物を感じた。頭蓋骨に爆弾を押し込まれて生涯ぬぐえない汚泥が満ちてくる。

 これは冗談だろうか。自分を力づける言葉が見つからない……。人間を超越した優れた存在が僕を未知の闇へと放り込もうとしている。

 そして僕は膠着状態に入る間もなく、金属のない世界に仲間入りすることを押し付けられた。

 最初で最後の旅路を引きずられつつ、この世よりも凄惨な体制に憎しみを感じるも、あらゆる苦悩を解決できる夢物語に期待を抱く……。

 

 

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