第39話 新たな生活
猟奇事件があった部屋に引っ越した日の夜。
コンビニから戻ったあと、荷物の整理をしていたら室内に違和を感じた。
ふり向けばクローゼットの扉が少しひらいている。……おかしい。さわった覚えはないのに、いつの間にあんな隙間が……?
突然、窓から猫の鳴き声が聞こえ、拍子に肩が跳ねた。ベランダに下り立つ音がして、今度は低くうなりはじめた。
窓辺に向かおうと腰を上げたら、うしろでガタンと音が立つ。呼ばれたように首をまわす。
「……」
なんだろう……。
もしや、あの扉の暗がりの向こうに、何か良くない者が潜んでいるのか……。嫌な予感に胸が苦しくなってくる。
クローゼットが小さく揺れている気がして、中から青白い手が伸びてくるんじゃないかと怖くなってきた。
電話をかけた。数秒後につながった。初老の声が受話口から聞こえ、すぐに状況を伝えた。
大家は眠そうにしていたが、事故物件だという理由でこっちは強気に出る。
「夜分恐れ入りますが、ちょっと部屋まで来てくれませんか?」
大家は一考する様子を見せ、小声で二つ返事をした。そして、「部屋の外で待っていてください」と言い、プツリと通話が切れる。
しんとした静寂がただよう。
部屋を見渡せば、なんだか空気がおかしい……。
外は星が出るほど晴れているはずなのに、室内がじっとりと湿っている。まるで雨が地表を打っている時のよう。
冷房は24度。だけど肌がじめじめしていて居心地がわるい。腕をさすれば薄く汗ばんでいる。外で待つよう言われたけれど、かえってここから動くのが怖い。
クローゼットから三白眼が注視していて、まるでヘビに睨まれるカエルになった重苦しい気分がつづく。身じろぎすれば、すぐさまあの扉をあけて襲い掛かってきそうだ……。
この部屋で住人を殺して解体した犯人は、いまだ見つかっていない。しかもその犯人は被害者を生の状態で食べた。
てのひらに柔らかい肉をのせて、口を赤く濡らしながら無我夢中に食している姿が脳裏に浮かぶ。
恋仲だった同棲相手が容疑者となったが行方不明のままである。事件から2年が経つが、室内の空気を鼻から吸い込めば、生臭い血の匂いが入ってくる感じがする。
早く大家は上がって来ないだろうか。ここは五階だけどもう到着してもおかしくはない。胸騒ぎがする。とにかく待ち遠しい。
「!!」
施錠していたはずの窓が、ふいに、軽い音を立ててひらいた。思わず心臓が跳ねる。カーテンが風をふくんでちいさく波打って、そこに意識を集中せざるをえない状況になった。
どこからか男のうめき声が漏れてきた。動揺しつつ眉をひそめば、出所はクローゼットの中だとわかった。
「早ク、ココカラ出ていケ……」
視線が隙間に吸い寄せられた。暗がりから、何者かが威圧的な声音を響かせたことで、鼓動がどんどん早くなっていくのを実感した。
けれど、どう対応していいかわからず、とにかく従おうと思い、震える足をしかりつけて立ち上がる。
「あっ!」
部屋から逃げようとしたところ、いきなり何者かに足首を握られた。
濡れてべっとりとした感触が肌に伝わり、転び、身体に冷たいものが走った。今まで経験したことのないほどの強い死の予感が迫ってくる。
クローゼットの中で何かがぶつかった。同時に、部屋に飛び込んだ黒猫が、背中の毛を立てて、こっちに向かってうなり声を上げる。
恐怖におののきながら足に目を向けた。手指に包まれていると思ったのに、そこには長い髪を落とした女が、両目に笑みを浮かべ、口を大きくあけてしゃぶりついていた。
かすれた笛の音が繰り返し聞こえてきて、何かと思えば首から下の身体がなかった。断面から漏れる空気の音を耳にしつつ、女の甘美な表情に釘付けになって、背筋が硬く凍りつく。
化粧が濃いわけじゃないのに、奇妙なほどの色っぽさがあった。こんな美貌を持った女は今まで見たことがなかった。
もしや娼婦の霊か。それとも死人が怨霊になる際には、こういう魅惑を得るものなのか。
赤い舌を這わせながら、なまめかしい顔つきで、今度は足の指に吸い付いてくる。淫靡な目がこっちに向く。ねっちょりとした感触に気が遠くなる。
これは彼女なりの魔物めいた誘惑なのだろう。
ところが表情に変化があった。まるで地獄から生還して二度と戻りたくないという追い詰められた形相に切り変わった。
悲痛な表情を浮かべ、ぬめった舌が足指のあいだをせわしく出入りする。かかる吐息。甘噛みされた尖った歯ざわり。湿っていく感触に唇を縛って耐えた。
生首の口から紡がれる求愛の言葉が、何度も耳に流れてきた。
そんな霊の強い執念に引き込まれそうになり、いっそこのまま連れて行かれても構わない気持ちが脳裏に満ちてくる。
そしてこれが事故物件となった被害者だと理解して、目頭が熱くなった。
低い声で威嚇していた猫が、耐えかねたようにして生首に踊りかかった。生首と猫の格闘がはじまり、お互いに激しい顔つきで睨み合い、絡まるようにして転がっていく。
あわただしい様子を、なすすべもなくただ見入っていると、クローゼットからふたたび声が漏れた。
「すみません。やっぱり無理です……」
何のことかわからない。だけど聞き覚えのある声。
「お金は返しますから、今すぐ退去してください」
扉がひらかれ、中から人間が動揺しつつ出てきた。右手に長いコートを持った大家だった。
「まさか本当に、霊が現れていたとは……」
おびえきった顔でそう告げた大家の視線をたどる。怒気を張り付かせていた生首は、室内から消えていた。
猫がひと仕事やり終えた具合に、のん気に毛づくろいをはじめる。
どうやら助かったようだ……。
難を逃れたことにホッとため息をつく。だけど皮膚には濡れて空気のあたる感触が残っていて、以前の記憶が騒がしくなっている。
そして震えながら大家の手を借りて立ち上がり、「早くここから出ましょう」という声に従って、手近な荷物をカバンにつめた。
腕を引かれて部屋を出る途中、座ってこっちを眺めていた猫が、濃い墨色の霧となって消えた。
そんな出来事を目にしつつ、大家の背中に声をかける。
「しかし大家さん……」
呼びかけに振り返った顔は強張っている。
「あなたはなぜ、わたしの下着を身につけているのですか?」
見覚えのあるブラとパンティをつけた半裸の大家が素足を止めた。
大家は口を閉じて逡巡しはじめた。それから長いコートで身体をつつむ。
「……」
「……」
気まずい沈黙のあと、わたしは手首を引かれて部屋を出た。
そのあいだ、霊に襲われたことと、大家の身なりの不気味さがない交ぜとなった、何とも言えない微妙な気分にさいなまれた。
「はぁ……」
そして自室に入っていく下着姿を隠した大家を見送ったのち、わたしは明日、警察署に赴くことを決意した。
なぜなら履いたヒールに目を落とすと、しゃぶられた足指がうずいてくる。以前と同じ舌使いだったことに身体が火照ってきて、いまだに自分は愛されていると実感したからだ。
それに顔の整形をしていたのに、あの子と、そしてわたしの飼っていた黒猫も、ちゃんとわたしのことを覚えていてくれたのが嬉しい。
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