第30話 悲愴な男


 登山中に鹿の親子を見つけ、珍しさのあまりはしゃいで追いかけていったら、すっかり迷ってしまった。

 さきほど頂上で休息をとり、午後に下山していた際の出来事だった。

 ここはいったいどこだろう……。

 あたりは静かな森で、足元にはゴツゴツとした小岩が埋まっていて、歩くのに不安定な場所だ。

 木漏れ日の乏しい薄暗い自然の中で、どこから来たのか周囲をうかがうも、道となるものは見当たらない。

 風は絶えている。湿った土や草の匂いに混ざって、鼻にカビ臭さがまとわりつく。

「変なところに来てしまったな」

 ハンカチで汗をふきつつ、不安な気持ちに胸がもやもやしていると、いきなり野鳥のギャーという奇怪な声がこだました。

「うわ!」

 思わず身をすくめ、頭をかばい、上から襲ってくるのかと警戒してしまう。

 どうしよう。俺はどっちに進めばいいんだ。山でひとり迷うなんてしゃれにならないぞ。

 前方はやや右上がりの斜面になっているが、果たしてそれが山の上りか下りかが不明……。方角だってどっちが北なのかわからない。

 やってしまった。俺はもしやこんな標高約1000メートルの誰もいない山中で遭難してしまうのだろうか。

 今まで感じたことのない重苦しい不安にとらわれていると、だんだん息苦しくなり、心拍数が増してきた。

 軽くめまいもしてきて、自身に圧しかかった危険な空気にどんどんのまれそうになる。

 とりあえず動こう。そしてどうにか日暮れまでに、山道を見つけなければ……。

 そういえば、山で迷ったときは頂上を目指せと聞いたことがある。

 だから俺は、梢の間から見える山の稜線をたよりにして、一歩目の足を前に出し、未知なる場所へと進みはじめた。 

 地面に落ちた小枝や葉を踏む乾いた音をたてて、時折ふらつき、孤独に前進した数十分後、さっきよりもさらに森が深くなった感じがしてくる。

 目指す頂上はまだまだ遠くにある。と言うか、距離が縮まったようには見えない。

 おいおい。どうなってるんだ。こっちが上りだと思うのに、間違ってしまったのか。

 腕時計の針は午後四時四十四分をさしている。迷ってからもう一時間半は経過したことになる。

 地図やコンパスを持たずに入山したことを今更ながら後悔した。

「ああっ!」

 突如、くぼみに足をとられ、手と膝を突いて横向きに転んでしまった。

「つつ……。なんてことだ」

 てのひらの皮が削れて、赤い擦り傷が斜めにできていた。

 ジーパンの膝は破れなかったが、地面の硬い石にぶっつけたせいでジンジンと痛みが広がってゆく。

 脚を怪我なんてしたら、歩くのに障害になってしまう。ただでさえ困った状況なのに、問題事が増えてしまった。

 リュックを肩から降ろして、近くの岩に背をあずけた。ジーパンの裾をゆっくりまくってみると、膝頭が紫色に変色し、こんもりと腫れ上がっていた。

 これは酷い打ち身だ。道理で痛むはず。

 怪我の手当てをしようにも、リュックの中には薬やシップなんて入れていない。

「まったく、災難だな……」

 患部にそっと両手をあてて、ゆっくり瞑目したあと、痛みよなるべく引いてくれと願った。

 いくらか経ち、目を開いて天を仰げば、梢の間から見える青空が、困り苦しむ俺を無常に見下ろしている。

「はぁ……。こんな軽装備で山に入るんじゃなかった。でもまさか、自分にこんな事態が起こるなんて思わなかったな」

 誰にともなく嘆いて、うなだれていると、ふとひらめくものがあった。

 そうだ。電話をかけて救助を呼べばいいんだ。

 心に安堵が広がったが、そんなものは一時の喜びだった。ズボンのポケットの携帯は、画面が無残にもクモの巣状に割れていたのだ。

 きっと転んだ際に、石に当たってしまったのだ。

「なぜ俺はリュックに入れておかなかったんだろう。うっかりしていたとはいえ、携帯が壊れるなんて運が悪いったらありゃしない」

 首をがくりと落とし、「こんな厄日に山に登るんじゃなかった」と重いため息をついた。

 とりあえず気休めに、水筒の水を一杯だけ飲んだ。そしてまた嘆息し、痛む脚に鞭を入れて立ち上がった。

 リュックを背負って樹木に手をつきながら、ゆるゆる歩いていると、太めの枝が落ちていたので、それを即製の杖にした。

 杖に身体をあずけて歩を進めるも、足場の悪い荒れた森が続くばかりで、まったく抜け出せる様子がない。

 あまりにも似たような景色が続くせいで、同じ場所をぐるぐる回っているんじゃないかと、錯覚におちいりそうだ。

 ためしに手をメガホンにして、森の奥に向かって声を上げてみた。

「すみません。誰かいませんかー!」

 続けてもう二回、返事を期待して問いかけてみたが、自身の声が虚しく響くだけだ。

 今から数時間前、山を登っていた途中に、他にも上りの登山者はいた。頂上に着いた時も人はまばらにいた。いったいその方達は今どこにいるのだろう。

 誰か一人でも声を聞きつけて、ここに迷った者がいることに気づいてほしい。……けれども願いは空回りするばかり。

 まずい。このままでは太陽が沈み、夜が来てしまう。現にもう陽は沈んでいるらしく、周囲のかげりが増している。

 麓とは違って街路灯などないから、もうじきあたりは真っ暗になるはずだ。

 リュックの中にあるヘッドランプを使って照らしても、闇の中では視界が落ちるため、行動がしづらくなる。

 そのうえこの膝の怪我だ。いっそ行動するのはやめて、どこか木の下で朝まで留まろうか……。

 いや、重ね着をするための上着などないから、まだ春先のこの時期の気温だと、夜が明ける前に凍え死んでしまう可能性がある。

 これは本格的に困ったことになってしまった。

「やばい。やばいぞ……」

 脚の痛みをこらえながら歩いたせいもあって、だんだん気力と体力がなくなってきた。おでこの汗を袖口でぬぐって、足を踏ん張ってもそろそろ限界が近いのがわかる。

 そしてあたりは暗くなり、ヘッドランプを頭に巻いた。その光をたよりに、斜面を上ったり下ったりして進んだ挙句、とうとう脚に力が入らなくなった。

 杖を落とし、顔から崩れるようにして転んでしまう。

 も、もうだめだ。動けない。

「どうすればいいんだ。俺は本当にここで果ててしまうのか」

 生まれて23年の間で、こんな重い危機感を覚えたのは初めてだ。

 歯を食いしばり、うつ伏せのまま、身体のあちこちからやってくる痛みに耐えていた。ところがふいに、誰かの声が聞こえた気がした。

「えっ?」

 顔を上げ、耳から入る音に集中した。すると……、

「オーイ。オーイ」

「あっ」

 間違いない。誰かが呼んでいる声がする。これは男の声だ。しかし、いったいどこだ? どこからなんだ。

 ライトの光を走らせ、起伏した地面の向こうを見ていると、ふたたび声がした。

 距離はどのくらいか量った末、たぶん100m以内だとあたりをつけた。あのさほど強くない上り勾配の先に、人がいるのだ。

 俺は痛む身体を地面からはがし、半分泣きそうな声になりつつそこに向かって叫ぶ。

「こっちです! 助けてください!」

 森の中に悲痛な声がこだまする。

 相手にしっかりと届いただろうか。

 返事は来ないが、とにかく立ち上がって杖を拾うことにした。続いて頬についた土をぬぐった。手の甲を見ると土に血が混じっていた。

 俺はリュックの肩がけを整え、杖を握って足を一歩前に出す。するとまた声が飛んでくる。

「オーイ。オーイ」

 木々が邪魔をする坂の上で、ライトの光が点滅している。大きく∞を描いて、こっちだと知らせてくれている。

 人のかたちは見えないが、きっと斜面の先で俺の姿が見えているのだろう。そして山道はここにあると教えてくれているのだ。 

 俺は進みながら声を張った。

「いまそっちに行きます! 膝を怪我してて、すぐには行けませんが、そこで待っていてくれますか」

「オーイ。オーイ」

 ありがたいことに、また声を届けてくれた。 

 俺は傾斜の途中で杖を捨て、四つんばいになって上がりはじめた。

 くっ。……あと少し。あと少しだ。ここを乗り越えれば、俺は助かるんだ。

 這いずりながら自分自身に渇を入れ、息を荒くつきながらも、ようやく山道にたどりつくことができた。

「はぁー。助かったぁ」

 地面に向かって大きく息をついた。

 長らく胸に溜まっていた暗澹たる気持ちが一気に晴れ、嗚咽をあげたくなるほどの安堵感に満たされる。

 だからすぐに感謝の意を伝えるため、四つんばいのままだったが厚くお礼を述べた。

「ありがとうございます! お蔭で助かりました」

「……」

「声をかけてくれなかったら、遭難して大変なことになっていました」

 肺に入る酸素が不足していたので、下を向いて息を整えようと努めた。

 顔を少し上げると、道を挟んだ向こうに、黒色のジャージを穿いた足元が見える。俺はふたたび話しかけた。

「すみません。あとで必ずお礼をします。しかしよくわかりましたね。僕があんなところに倒れているのが」

「オーイ! オーイ!」

「あっ、もう大丈夫です……。って、あれ?」

 相手の足元に違和感がある。

 よく見れば、履いている白いシューズが、少し浮いているのだ。

「……!」

 まさかと思い、ハッと顔を上げた。

 木の枝から伸びたロープに、短髪の男が、首を掛けてぶら下がっていた。

「うわあ!」

 なんだこれは。首吊り死体じゃないか! 頭が前に傾いたまま、微動だにしない。

 俺は身体の痛みを忘れ、驚きのあまり上体が伸びたあと、そのまま後ろに手をついて腰を抜かしてしまった。

 ヘッドランプの光を反射する青白い顔。突き出た目玉が地面の一点を見つめていた。なめくじみたいな舌が口端から垂れている。

 あっ、この顔や服装に、見覚えがある!

「こ、この人。たしか頂上にいた人だ……」

 俺は死体からできるだけ身を遠ざけようと、足を蹴って後ずさった。

 すると、ゆるやかな風にのって、糞尿らしき悪臭が顔にあたって流れていく。息を止めないと胃が波打ってしまいそうだ。

「わわわ……」

 あたりを眺めても他に誰もいない。

 ということは、さきほどから俺を呼んでいたのは、この男以外にありえないのだ。

 信じられない出来事に強いショックを受けたせいか、尻が地面についているのに、平衡感覚がおかしくなった。視界がグラグラと揺れ始める。

 人魂らしきものが、明滅しながら木々を縫ってさまよっている。

 そして俺は、男の死体に目をすがめながら思った。

 俺を導いてくれたこの死体のおかげで、俺は助かることができた。

 しかしこの人は、けして他人を助けるために、声をかけたのではないのだと……。

 自殺か他殺なのかわからない。だが現場が道沿いなのに、誰にも発見されなかったことが悲しかったのだろう。

 もしかすると、発見者はいても死人のむごたらしい顔におののき、見捨てて逃げ去ったのかも知れない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る