第29話 恋のお守りと告白

 

 五月のある日の夕方。

 俺は学校の水飲み場に座って、ひとけの少ないグラウンドを見ながら考えを巡らせていた。

 今日は運動部の部活は休みなので、放課後一人で時間を過ごしていたのだ。

 するとふいに靴音が近づいてきて、聞き慣れた声がとんできた。

「どうしたんだ谷村よ。こんな所で何をしている。さてはお前、悩み事があるな?」

 同じ空手部の三年の田中山先輩だった。

 どうやら俺が一人でじっと思案しているのを見つけ、声をかけてくれたのだ。

「先輩。実は今日、クラスメイトのルミちゃんって子に、告白しようと思っているんです」

「ルミちゃんとは、もしやお前のクラスのあのアイドル的人気の、オッパイが大きいルミちゃんのことか」

「知っているんですか先輩」

 角刈り頭の先輩は、学ランの袖をまくった姿態で、俺の隣にドカっと座って股をひらく。

「おー知っているともさ。あの子は成績優秀だし、性格も良しで可愛いよな。長い黒髪は光沢を帯びていてサラサラしているし、顔や身体の造形は人形のように整っていて、胸のサイズがなんとHカップもあるらしいじゃないか。まだ高二でそのサイズは希少価値が高いぞ」

 声の抑揚から、先輩の関心度が一気に高まったのが伝わってくる。

「お前の学年だとトップクラスの美人だよな。いや、我が校の全女生徒286人の中で3本の指に入る美貌だ。園芸部に入っていて、花壇の手入れをしながら植物を愛でている姿がとてもよく似合う。しかも自宅がこの近くにあって、おしゃれな花屋をやっている家の子だろう?」

「そうです。そのルミちゃんです」

「ハハッハ。やめとけやめとけ。おまえじゃあ高嶺の花だろうに。そんな相手を理想に抱いて関わってしまうと、お前程度の凡庸な地味メンなんぞは当たって砕けてしまって、2000ピースくらいのばらけたジグソーパズルになるのがオチだ」

 空に向かってからからと豪快に笑いながら、俺の肩をばしばし叩いてくる。

「そんなコト言わないでくださいよ先輩。俺は何の根拠もなく告白しようと思っているわけじゃないんです」

「と、すると、何か自信になる要素があるというのか?」

 俺は先輩の目を見て、コクリとうなずく。

「このあいだ俺の誕生日だったんですけど、ルミちゃん、それをちゃんと覚えていてくれて」

「まさかプレゼントを贈ってもらったのか」

 俺はふたたびうなずいた。心なしか微笑んでしまう。

「誕生日を知っていてくれたのは驚きでした。たぶん新学期の日に、みんなで自己紹介をした時、俺が言ったのを記憶していたんだと思います」

 そう話しつつ、学生服の内ポケットに大事に入れてあったそれを抜き出して先輩に見せた。先輩の興味深そうな顔がまじまじと近寄ってくる。

「ほう。神社のお守りか。しかしこれは微妙な贈り物だな。値段はせいぜい800円くらいだろうし、まさかこういう物で自信の根拠があると言うんじゃないだろうな?」

「先輩。こういうのは値段じゃないと思うんです。見てください。ホラ」

 俺は表側がよく分かるようにして差し向けた。

「なるほどな。縁結びのお守りか。『恋』の一文字が刺繍されてあるから、そういう意味合いだな」

「そうです。女子って何かと自分の言いたい事を、遠まわしに伝えたがる子が多いじゃないですか」

「物事を示唆することで、否定された時に、自分がキズつかないための防御線を張っているワケだろう。俺だって女の二人や三人と付き合った経験はあるから、その程度の知識は存じておる」

 先輩は、あなどるなとばかりに立派な眉を持ちあげた。

「しかしだな谷村。そういうのを貰ったからといって勘違いだったという場合はあるぞ」

「俺はこのお守りから、俺への好意を伝えているように思うんですが。なぜなら何の縁も持ちたくない相手に、こういうお守りを誕生日にプレゼントするでしょうか?」

「ふむ。それを渡された時、ルミちゃんはどういう感じだった? 頬を赤らめていて渡すのが照れくさいせいで躊躇している様子だったか?」

 俺は三日前の金曜日を思い出した。

 部活の終わった夕刻のオレンジ色に染まる校舎。昇降口に立って靴を履いていると、下駄箱の向こうから姿を見せたルミちゃん。

『谷村くん、練習おつかれさま……』。『あっ、花崎さん。どうしたの?』。『谷村くん。今日誕生日だったよね?』。『えっ? あっ、うん』

 そんな情景を回想していると、だんだんと胸に甘い気持ちが芽生え、心地よくほんわかと広がっていく。ふいに、先輩の手が眼前で上下に振られたのが映った。

「おいおい谷村。ぼーっとし過ぎだろう。おまえが頬を赤らめてどうする?」

「すみません先輩。あの時ルミちゃんは、お守りの入った紙の小袋を俺に手渡して、すぐに廊下を走っていきました」

「表情はどうだった?」

「正直微妙です。表情から女子の詳しい内心を読み取れるほど、俺は女の子に精通していないから……」

 少し自信がなくなってきた。

 確かに先輩の言うとおり、俺の勝手な勘違いだという可能性は否めない。

 しかしせっかくの高校生活なのに、好きな女の子と付き合う恋愛経験が一度もないのはさびしいことだ。

 俺の理想の女子であるルミちゃんを彼女にして、甘い甘いバラ色の日々を送りたいという強い願望がある。

 俺は迷いを打ち消し、先輩に向かって声を張った。

「教えてください先輩! 俺はどういうふうに告白をしたらルミちゃんからYesの返事をもらえるのでしょうか?」

 先輩は誠実さのある顔で聞いていたが、否定するように手を振った。

「いやいや待て待て、逸るな谷村よ。今はまだ時期尚早だろう。ここはもう少しルミちゃんの気持ちを確かめてから、告白する流れを選ぶべきだ」

「しかし鉄は赤いうちに打てという先人の言葉があります。こういった時期を活用しなければせっかくの好機を逃してしまうのでは」

 俺の高ぶった情熱が通じたのか、先輩は反論するのをやめ、腕を組んで瞑目して考える様子に変わった。

 そこへ俺は、言葉を重ねた。

「実はもう約束をしてあるんです。今日、ルミちゃんの部活が終わったら、校舎裏で会う約束を」 

「なんと! おまえは変なところで行動力を発揮するんだな。だが、まだ仲の良い関係を充分に築いていない状態なのに、やはり果たしてそれが成功するか疑問なのだが」

「今日の六曜は大安じゃありませんが、撰日は一粒万倍日ですし、二十八宿は縁談や契約に吉が出ているたたらぼしですからね。告白には良い日なんです。今朝、自室の日めくりカレンダーにて確認してきました」

 先輩が唸りながら首をひねったので、俺は前もって考えていた選択肢を話すことにした。

「まずプレゼントのお礼を伝えようと思います。そこで雰囲気がいいようなら告白をしようと思っていて、そうじゃなければお礼だけを言って、今日はそれで終わろうかと考えているんです。ただ、できるなら告白したいです」

「むう。俺は後者を選んだほうが無難だと思うぞ。なぜなら告白が失敗したらどうする? 向後ルミちゃんと顔を合わせづらくなって、もう良好な関係を築くためのチャンスを失うのではないか?」

 先輩は腕組みを解き、自身の膝頭に手をのせて、真摯な表情で言葉を継いでくる。

「俺がお前ならもう少し様子を見て、なおかつもっと告白するべき段階に至ってから自分の思いの丈を伝えるぞ」

「……」

 確かに、先輩の言い分は理解できる。

 しかし俺は焦っていた。どうしてかというと、なぜならルミちゃんはクラスの人気者だ。

 クラスで人気が高いということは、同学年の間でも人気者なのだ。もっと言えば校内どころか、通学途中や他の日常生活でルミちゃんを見かけるすべての男がライバルになっているというわけなのだ。

 噂ではルミちゃんは、今まで彼氏がいた経験はないらしい。

 理想が特に高いというわけではなく、ルミちゃんは遊びやなあなあの関係で彼氏を作らないというのが信条らしいのだ。

 悪く言うなら堅物、良く言えば堅実。きっと本当に惚れた相手としか愛を育みたくないのだろう。俺もそうだ。同じなのだ。

「先輩お願いします、もう時間がありません」

 俺は先輩のほうに身体を捻って頭を下げた。

「どうか告白へ向けた良き助言をお与えください。先輩は俺よりも一年上級ですし、恋愛経験もあって未熟な俺よりも知識はあると思うのです」

「ふむ。しかしなあ……」

 その時、下校時間を告げるチャイムが鳴った。鐘の音のメロディが、茜色になった空に高らかに響いていく。

 先輩は眉間に縦皺を刻んでいたが、それをゆるやかに戻した。そして意を決したように深くうなずき、膝をひとつ打った。

「よし。わかった。ではまずお前に問おう。お前はルミちゃんをどれほど好いておるのだ? たといどんなトラブルが起きようと、我が生命を犠牲にしてでも守り通したい頑強な意志を持ち備えているか?」

「もちろんです先輩! 俺はルミちゃんのためなら火の中水の中、ピナツボ火山のマグマの深部だろうと、マリアナ海溝約7マイルの底にだって喜び勇んで向かうことができます。なにせルミちゃんは俺の女神なのです。クラスで少々孤立している俺みたいな奴でも、分け隔てなく明るい笑顔で親切に接してくれます。心に雨がしとしと降っている陰りのある日でも、彼女の美しい声音を一言聞くだけで、胸の中の雨雲などどっかに霧散して、澄んだ青空が広がり、燦然たる陽光が全身に降り注いできます。もしもルミちゃんと付き合えたのならば、俺はどんな逆境が来ようと彼女を守護し、そして幸せにする努力を惜しみません!」

 俺はガッツポーズをとって、それが本気だという自信を示した。すると先輩の目がギラギラと燃え立ち、やる気に火がついたのがわかった。

「ほう。よくぞ言ったな俺の可愛い後輩よ。なかなかの覚悟だ。俺の腑にすんなりと落ちたぞ。それでは谷村、告白にいたるという方向で相談に乗ることにし、お前に助言を与えてやろう」

「ハッ。ありがたき幸せ。田中山先輩はこの学び舎に通う生き字引きであることに期待しております。それではよろしくお願いします」

 ひらにひらに頭を垂れると、先輩は背筋を伸ばして、いかめしい口調で語ってきた。

「よく聞くんだ谷村。まず女というものはな、とにもかくにも強引たる男に弱いものだ」

「と、仰いますと?」

「渡してもらったプレゼントに対する感謝の意を述べる際に、距離を一気に詰める寸法をとるのだ」

「も、もしや。お礼にハグやキッスをすればいいのでありますか?」

 思いついた動作を口にしてみたが、先輩は重々しくかぶりを振る。

「いや、その程度じゃ足りない。お前はまず制服ズボンとトランクスを何のてらいもなく景気よく同時にずらし、下半身を空気にさらして勃起した男根をルミちゃんの秘部にあてがい、無理やり突き刺してやれ」

「とどのつまり俺はこう言えばいいんですね。『ルミちゃん! 俺は自身の肉体をもってプレゼントの謝意を厚く伝えたいので、俺のそそり立つ赤ペニスをどうか甘んじて受けとめてくれ!』、と、そう懇願しつつ、強引にルミちゃんの膝丈スカートをたくし上げ、おそらくは白色であろうショーツを下ろし、まだ奥に光を浴びた経験のないビギナーサーモンピンク生殖器めがけ、一気に俺の性の猛りの象徴たる童帝ルーキーミートスティックを突き込んでやれば、これからのルミちゃんとの深い深い関係をコンプリートできるってわけですね」

 俺が早口にそう言って、てのひらをポンと打って言葉を締めると、先輩は口を一文字に引き締めて首肯した。

「そうだ。そしてお前の溜まりに溜まった熱い青春期の雄たけびを白いビームになぞらえ、ルミちゃんの子宮肉ベッドの奥に鎮座しているミニマムエッグに、一発で届けとばかりにド派手に撃ち放ってやるのだ」

「しかし待ってください先輩! それだと俺はただの強姦魔に成り下がってしまいます。冗談はそのくらいにして、そろそろマジメなアドバイスを所望したいのでありますが」

「ハハハッ! 少したわむれが過ぎたようだな。お前が俺の調子に合わせてくるから俺もそういった流れに乗ってしまったぞ」

 先輩は肩をゆすって哄笑したのち、上着のポケットの中から丸い包みを掴んで抜き出した。サランラップにくるまれた白飯のおにぎりだ。

 俺は大層うまそうなそれに一瞬目を奪われた。しかし大事な相談に乗って戴いている立場のため、食欲を悟られないよう表情を引き締める。

「主旨を戻しましょう先輩。俺との約束どおりに校舎裏まで参じてくれたルミちゃんに、どういったアクションを起こせば状況は好転するでしょうか?」

「いやはや、ここはもうシンプルに事を進めようじゃあないか。お前の申し出を守って校舎裏にやって来た巨乳Hカップ乳輪の大きさまでは詳細不明のルミちゃんに、ただ一言、『好きだ!』と告白してしまえ。もちろんおふざけナシの誠心誠意まごころのある態度を終始貫き通すのだぞ」

「そんなやり方でだいじょうぶでしょうか?」

「応。頭を捻くりまわして、あれやこれやと細工しても意味はない」

 言ってから、開いた口に大きな握り飯を近づけ、ガブリと豪勢に噛み付く。

 頬張ってもしゃもしゃと噛んでいた白米を飲み込んだあと、俺に握り飯をぐいと差し出してくれた。どうやら一口くれるらしい!

 よって俺は遠慮がちにお礼を申し上げ、指でお握りをむしって口に放り込んだ。先輩の話は続く。

「もとからお前を好いておるなら、ここは威風堂々と愛の告白をすればルミちゃんは、『私もよ谷村クン! 今まで相思相愛だったのネ!』、と目をハートマークにして歓喜の色を示すだろう」

 俺は口を動かしながら聞いていた。

「そしてお前たち二人は赤い夕陽を浴びながら互いの若き身体を包み合い、上空からは全裸に羽を生やした天使の幼児の集団が舞い降りてきて、抱き合うお前たちを取り囲み、祝福のミニラッパを奏でてくれるはずだ」

「しかしもしも俺のラヴ・コンフェションが失敗した場合、その場をどう取り繕えばいいのでしょう? 気まずさ全開の、穴があったらしおしおと入って合掌し、ルミちゃんに上から角スコップで土を被せておくんなまし状態に移行すると予測されますが……」

 あっさりとフラれてしまえば、お互いの距離を縮めるのが目的だったのに、逆にそれが大きく開いてしまう。

 告白という勝負事に惨敗したことで、これからは同じ教室で過ごしづらくなってしまうのだ。

 そんなふうに起こるであろう苦境をいろいろと頭に巡らせていると、心はだんだんと深い悲しみの色に変わっていく。

 気を落としかけ、俺が不安な目を向けた時、先輩はサランラップをくるめてポケットにしまい、身をかがめて小石を拾った。そしてそれを手で弄びながら俺の目を見つめてくる。

「その時には再度、俺のところに向かって来い。失恋の手痛い涙をぬぐうコトを忘れたお前は、先輩たる俺の胸板に飛び込めばいいのだ。俺は厚く深くお前の青春のココロの悲哀を受けとめて、陽が落ちるまでしっかと抱きしめてやる。何ならその後、俺の自宅におもむき、甲類焼酎大五郎でも酌み交わしながら朝まで語り明かそうじゃないか。ただし俺は酒が入るとムラムラくるたちでな。性欲が高まると男や女などの性別などみさかいなしに相手を押し倒し、暴るる裸体を取り押さえ、万年床にお姫様だっこで運んで、無我夢中で腰をぶっつけて夜明けまでのべつまくなしに事を成すけれどな」

「そ、それは謹んでお断りします!!」

 狼狽しつつ、拒否の意味を込めて両てのひらを見せてブンブン振ると、先輩はまたドッと笑う。

「ワッハハハ。冗談に決まっておろう。上級生の軽口を同じ程度のジョークでいなせるようにならないと、お前後輩としてまだまだの域だぞ」

「話を戻しましょう。要するに俺はルミちゃんに男気のある牽引力をアピールすれば、状況は好ましい方向へと進む可能性が少しでも高まるっというコトでいいんですね?」

 どうでしょう? とばかりに話の先をうながすも、先輩は大股で腕組みをしたまま顔を下に向けた。

「せからしい!」

「エッ?」

 なぜか強く舌打ちをしてオモテを上げた先輩に、俺は理由が読めずキョトンとしてしまう。

「せからしいと口にしたのだ。または『しゃーしい』だ。俺はこのあいだ普通自動車第一種運転免許を取得したのだが、今から最寄りのレンタリースに向かってボンゴブローニイを一乗借りてこよう」

「してそのココロは?」

 前のめりになって問いかけると、先輩は握ったコブシを前に突き出す。

「単純明快。俺がドライバーズシートに乗り込み、校舎裏でお前の話に意識をとられているルミちゃんに横付けし、有無をいわさずかっさらおうと思う」

「拉致するんですね。その際、俺はどうすればいいでありますか?」

「車両サイドのスライドドアを開く任務を与えようぞ。俺は運転席から降りて、事態が把握できずにうろたえているルミちゃんを脇にかかえ、お前が開きたるサイドドアに放り込む。そしてお前は動揺しているルミちゃんの隣に乗り込んで、廃屋に到着するまでの間、どうにかこうにか説得を駆使して対象をなるたけ大人しくさせてくれ」

 先輩がやる気に漲った目を虚空に据えてスックと立ち上がったので、俺は慌てて差し止めた。

「待ってください先輩! そのやり方だと先ほどの強姦魔のくだりとほとんど変わらぬ不適切な方法になってしまうのでは? ──って、ああ! 先輩! いきなり走ってどこへ行くんですか? ま、まさか本気でそんな作戦を遂行する気でありますか? ルミちゃんを監禁して翌朝に小鳥のさえずりがピチピチとはじけるまで、二人がかりで俺のクラスのアイドル的存在の巨乳処女の肉体を堪能して汁まみれにしようというワケですか。すみませんが俺はそういうハレンチクライムな展開は希望しておりません! どうかどうかもう一度よく考え、お手伝いしていただけるのなら、もっと別の清らかで健全な流れへと軌道修正してください! オーイ。オーイ。……ど、どうしよう。先輩は俺の反論を総スルーして、あとをも見ずに全力で駆けて行ってしまったぞ」

 グラウンドに長い砂煙を引いて去った方向に手を伸ばすも、先輩の勢いを止めることなどできなかった。

「あっ谷村くん。こんなトコロにいたんだ」

「うわぁ! なんだ急に!」

 ルミちゃんの唐突な出現に、ひっくり返りそうになった。

「チャイムが鳴ってから、ずっと校舎裏で待っていたのよ? なのにいつまで経っても来ないから、探しに来ちゃった」

 高そうなシャンプーの甘い香りと、鼻通りのいい清涼感のあるセーラー服の匂いが、横からふんわりと流れてくる。

「ねえ谷村くん。今さっき、いったい誰に向かって叫んでいたの?」

 俺は驚きのあまり足を浮かせてM字開脚になっていたが、すぐに姿勢を戻し、サッと起立して服のほこりを払う。

「エーット……そうだなあ(ポリポリ)。まずどのあたりから聞こえていたの?」

「ハレンチどうのってあたりから」

「そうか。そのへんなら問題ないと思うよ。もう少し前の言葉を聞かれていたら、だいぶ気まずいことになってた」

「??」

 ルミちゃんは小首をかしげて口端に一本指を添えた。何のことかと意味を把握しかねているらしい。

 っていうか、先輩は本気でレンタリースに行ったのだろうか。

 もしもそうなら、のんきにこんな場所にいると、目を三角に吊り上げた先輩が、2.0リッターのディーゼルエンジンを搭載した重量約1.5トンの、鉄とガラスとプラスチックの集合体に乗って、アクセルベタ踏みでやってくる。

「おう谷村ちょうどいい。サイドドアを開くんだ」

「ぬぁんと先輩! もう戻って来たんですか! また2分と経っていないのにあまりにも早すぎます!! 異空間のワープホールでも通ってきたんですか?」

「任務を遂行しろ。サイドドアだ」

 白いボンゴブローニイの運転席にいる先輩が、親指でうしろを差し示す。俺は隣で呆気にとられているルミちゃんの手をとった。

「急ごう! ここから離れるんだ」

 走ろうとして足踏みを始めたが、ルミちゃんは別のものに意識をとられている様子だ。

「どうしたんだ? 走らないと」

「ねえこの人って谷村くんの部の先輩よね? どうしていきなりウチの車に乗って登場したの?」

 俺は駆け出すのを一旦やめて、彼女と並んで立つ。

「ウチの車って、もしかしてこれ花崎さんちの車なのかい?」

「だってここにロゴが書いてあるもの」

 細くて綺麗な指を差していた。俺はその先に視線を置くや目が丸くなってしまう。

「ああ! 本当だ。車体の横に《フラワーショップ花崎》って店名がペイントしてある! 先輩。常識を考えてください。パクってきたんですか!?」

「おい谷村、何をやっているんだ。とっとと車両に対象を積み込め。もたもたしていると建物から教師どもがやってきて邪魔をされてしまうぞ」

 先輩が運転席から顔を出してあごをしゃくった。俺はその命令を無視してルミちゃんに声をかける。

「事情はあとで割愛して説明するから、今はここから逃げないと大変なことになるんだ。行くよ花崎さん!」

「ええ? どこに行くの? ちょ……あっ!」

 校舎沿いに駆け出した俺に引っ張られるようにして、ルミちゃんも走りはじめた。

 俺は彼女の手を離すまいと誓いつつ、ふり返ることなく無我夢中で走った。背後から唸るエンジン音が聞こえることで、車が追いかけてくるのが分かった。

「谷村くん。ちょっと腕が痛いわ。もう少し優しく引いて」

「早くあの角刈り先輩から逃げてなるべく距離をとらないとってあーいけない! 何てことだ。無意識だったとはいえ、花崎さんの手を不躾に握ってしまった」

 荒れ狂うバンがもう真後ろまで来ているのがわかった。

 俺はカカトで急ブレーキをかけて2メートルほどスリップしたあと、ルミちゃんを校舎の壁にひっつけた。俺も同じく壁に背中をくっつけた。

 赤マントで挑発されて興奮しまくった鼻息荒い闘牛のような勢いで、先輩の運転するバンが目の前を過ぎ去って行く。突風が吹いて俺たちは髪をなぶられ目を閉じた。

「すみません花崎さん。いくらとっさのコトでも気安く触れてしまって申し訳ない」

「それは構わないんだけど、どうしてあの先輩はわたしたちを追いかけてくるの?」

「いやなんというか。何もわるくない花崎さんをトラブルの渦中に突然放り込んだみたいで、すまない気持ちでいっぱいなんだ。とにかくまずはどこかの窓から校舎の中に入ろう。そうすれば追っ手である先輩から逃げられると思うんだ」

 開けられる窓はないかと忙しくガチャガチャ動かしてみるも、どの窓も施錠されていて開かない。

 早くしないと先輩がスピンターンして戻ってくるかもと危惧した矢先、本当にスピンターンして戻ってくる態勢に入った。

 片輪を浮かせて半回転してから、リアタイヤを激しく空転させて芝生を削る。先輩のその一連のハンドル捌きはものすごく早かった。

 暴走車が咆哮をあげて加速しながらぐんぐん迫ってくる。

「花崎さん。避けて!」

 俺は目をぱちくりさせるルミちゃんの頭を胸につつみ、一足飛びで芝生に突っ込み回避した。自身の肩や腰を地面に衝突させることで、大切な女の子の身を守ることが適う。

 車が走り去った先で、何やら大きな音が飛んできたが、今はそれどころではない。

「だいじょうぶかい花崎さん。怪我がないのならすぐに立ち上がろうってうあああああ! 今度は強く抱きしめてしまっている!」 

 その通りに、俺はルミちゃんとその場にしゃがみ、抱き合ったかたちになっていた。

「!!」

 なんとHカップの豊満なムネが俺の身体に密着している。ムニュっとつぶれた心地よい感触に、ココロは快感を覚え、じんじんと痺れた。

 幸福感が充満してきて、ルミちゃんに何かを喋ろうと思っても、言葉が一つとして出てこない。

 ああ、このおっぱいをじかに掴んで、好きなだけ揉みしだけたらどんなに素敵だろう。

 そう考えただけで、身体に流れる血液が股間に集まってくる。

 Hカップの感触にお別れを告げて、上体をゆっくりと離すと、恋焦がれた相手の顔がすぐ目の前にあった。ルミちゃんは目と鼻のあいだをほんのりと朱に染めて、俺を無言で見つめていた。

 とても可愛くそして美しいと思った。彼女の瞳の表面に、驚いた俺の顔が映っている。

 俺たちは、お互いの肘をとった。

 ルミちゃんは恥ずかしそうにして細めた目を一度横にそらし、また戻してから、桜色のくちびるを少しひらいて、言葉を紡ぐ。

「……谷村くん。守ってくれてありがとう」

「あっ、うん。花崎さんが無事で、なによりだよ」

 見つめ合うことがだんだんと照れくさくなり、俺はつい目線を外してしまう。

 先輩の車は、中庭に建てられた初代校長の銅像に乗り上げていた。

 車体前部の底が、禿げあがった卵頭に引っかかってスタック状態になっている。

 あれならもう追撃は不可能だろう。どれだけ必死にアクセルを踏もうと、タイヤは虚しく土と空気をかき混ぜるだけだ。

 俺はホッと安堵の息をついた。

 校舎から教師が6、7人、怒声を上げながら駆け出してきた。口さかしいタイプの教師の顔ぶれが揃っており、皆が皆、中庭の元暴走車を目指していく。

 先輩は運転席の窓枠に腕をおいてこっちを見つつ、満足そうに親指を立てた。

 俺はふたたび彼女と向き合う。

 そうだ。まず伝えなければいけないことがある。

「花崎さん……。いや、ルミちゃん! このまえくれた誕生日プレゼント、とってもうれしかったよ」

 感謝の言葉に、彼女は微笑みながら黙ってうなずいてくれた。

「今日はそのお礼を伝えたくて、キミを呼び出したんだ。それともう一つ、あの、その……」

 つのる緊張感のせいで息がつまってしまい、話の先が言い出せなくなる。

 だが俺は心臓の乱れをおさえ、喉を一度ゴクリと鳴らしたあと、身体に力を入れて意を決した!

「ル、ルミちゃん! 俺、入学式の日からずっと、キミのことが。……つっ、すっ、好きでした!!」

 懸命に言ったあと、まぶたを思いっきり閉じる。

 ルミちゃんは答えに迷っているらしく、お互いが無言になるという、居心地のわるい間ができてしまう。

 返事を聞くのが怖かった。しかしすでに賽は投げられた。一度口から出た言葉は、元に戻すことなどできない。

 まるで命綱もなく崖っぷちに立たされている気分だ。いつ背中を突かれて奈落の底に落とされるかという、生まれて初めて感じる強い不安にさいなまれる。

 勇気を出して目をそっと開くと、ルミちゃんは地面を見つめ、すまなそうな表情になっていた。

 悪い予感が脳裏をよぎる。

 そして俺の告白に対する反応を示すため、唇が動き出した。

「……ごめんなさい」

「えっ?」

「わたし、実は、物理の大河原先生と付き合っているの。だから谷村くんの気持ちには、応えられない」

 語られた情報が耳を通り、頭で理解した瞬間、耐え難い絶望感がのしかかってきた。

 そ、そんな……。

 俺はフラれたあげく、教師と深い仲になっている相手に告白してしまったのか。他に好きな人がいたとはいえ、よりにもよってその対象が教師だなんて……。

 彼女がまさか、そういうふしだらな女の子だとは思わなかった。普段の様子からは絶対にわからない。

 もしかすると、この世のどんな女の子にもこんな二面性があるのかと、人間不信になりそうだった。

「あっ、この話はみんなにナイショにしててね」

 深く落ち込む俺とは対照的に、彼女は場の空気を明るくする感じに、気軽な調子でぱちりとウインクをする。

 一応、うなずいておいた。

 俺はもう気力が尽きかけていたが、疑問が頭に残っていたので質問することにした。

「どうして、神社の縁結びのお守りを、プレゼントに贈ってくれたの??」

「縁結び?」

「ほら。これだよ」

 力の抜けた手をポケットに入れ、中の物を取り出した。

「ここに、『恋』って文字が縫ってあるけど」

 お守りの表側を上にして見せると、たちどころに彼女の目が丸くなる。

「あっ、これは『恋』じゃないわ。『変』よ」

「……変??」

「それにこれって既製品じゃなくて、私の手作りなの。クラスメイトの誕生日には、その人に印象のある一文字を考えて、刺繍してプレゼントしていたのよ」

「……」

 花崎さんは上目遣いになって、いたずらっぽく笑う。

「刺繍がまだ上手じゃないせいで、字が読みづらかったみたいだね」

「……」

「谷村くんってちょっと『変』なトコがあるから、少しシャレを効かせてみたんだけど、通じなかったかなあ?」

 テヘっと笑って舌を出した。

 俺は彼女の説明を耳にしながら、二の句が継げずに固まっていた。お守りを手にのせたまま、まるでヒビの入った石像のようになっている。

「わたし、そろそろ行くね」

 彼女はそう言ってから、立ち上がってスカートの生地を二度ほどパンパンと叩く。

「谷村くん、これからも仲良くしてね。じゃあ、また明日」

 微笑を浮かべながら手を振って、きびすを返したあと、ステステと進んでいった。

 俺は、夕陽に溶けるようにして去っていく後姿を、崩し正座で見送った。

 そしてクラスメイトからもらった珍奇な『変』のお守りを、手の中で握る。

 すると胸の内であらゆる感情がないまぜになって、目頭に熱いものが滲んできた。

 まぶたを強く縛ると、頬に一筋の青春の光が流れて落ちていく。



 ──その後、ほとほとのていで家路についた。

 家の玄関を通り、自室でいつもの芋ジャージに着替えたあと、学習机の椅子の背もたれに身体をあずけて、ボーっとしていた。

 ショックが大きかったので、夕飯はほとんど喉を通らなかった。お風呂に入っても気分は落ち込んだままだった。

 そして夜も更ける頃、俺は机に投げ出していたお守りを手にとり、それをベッドのふちに座って眺めながら、放課後の出来事を回想していた。

 花崎さんのいろんな表情を浮かべていると、一杯食わされた自分が面白おかしく思えてきた。

 独りよがりな想いの末の肩透かしだったが、まあこんなコトもあるだろう。

 しばらく失恋の痛みを引きずるだろうけれど、彼女の予想外の関係を知って衝撃を受けたぶん、あきらめもつく。

 所詮はそういう子だったのだ。しかしお守りを使ってイタズラするとは思いもしなかった。

 俺は重いため息をひとつこぼし、縫いこまれた文字に目を落とす。

 変、変、変……。

 うーん。いや、やっぱりこれはどう見ても、『恋』に読める。漢字の脚はちゃんと『心』で刺繍されている。

 俺は何がどうなっているのかと不思議に思いつつ、何度も首をひねった。

 少し時間が経ってから、なんとなく、お守りの中には何が入っているのか気になってきた。

 こういった物の中を開けてみるのははばかるけれど、イタズラで作られた代物ならギリ大丈夫だろうとあたりをつけ、結い紐をほどいて口を開く。

「なんだ、コレは?」

 中には、白い厚紙とは別に、二つに折った紙が入っていた。

 ひらくと数字が並んでいるのがわかった。090……。電話番号だ。

「なぜお守りの中に、こんなものが入っているんだ?」

 天井を見上げて理由を探っていると、もしやと思い、ベッドから勢いよく立ち上がった。

 次いで、ハンガーにかけた学ランに入れっぱなしだった携帯をつかむ。

 フラれてしまって今更なことだし、時間も時間なのでどうしようかと迷った。でも結局、紙を見ながら番号を押した。

 電話を耳にあてていると、妙な期待と不安がグルグルと混ざり合う。いったい何が目的でこんな紙を入れたのか……。

 ほどなくしてコール音が止まり、受話口から花崎さんの声が聞こえてくる。

「もしもし」

「……えっと、俺だけど」

「あっ、もしかして谷村くん?」

 話し口調から、特に迷惑ではなさそうだ。

「うん。あの……。お守りに、番号が入ってたから」

 俺は戸惑いながらも返事をする。気後れしたことで、ちょっと呼吸が苦しい感じがあった。

「谷村くんって、お守りの中とか見ないほうだよね?」

「まあそうなんだけど、花崎さんと今日、あんなことがあったから、なんとなく気になったんだ」

「刺繍の文字、何て読める?」

 俺は見たままの読み方を告げる。

「『恋』、だよね」

「うん。合ってるよ。その通り」

 花崎さんは、やや嬉しそうな声音でそう答えた。

 俺はそこから何を喋っていいのか迷った。

 話の流れが把握できないことで、次にどう言えばいいのかわからない。

 刺繍に『恋』の文字を入れたのなら、俺に好意はあるって意味だろうか。それとも彼女なりの冗談が今も継続しているのか。

 いろんな情報が交錯しているために、沈黙していると、ふたたび受話口から声が流れてきた。

「ねえ。12時を回ったら、もう一度電話して」

「えっ、どういうこと?」

「その時に、わたしのほうから伝えたいコトがあるの」

 花崎さんは一度言葉を切って、続きを話し始めた。

「今日のカレンダーを確認するとわかるよ。日めくりがあるなら見てみて」

 日付にどんな答えがあるのかと、俺は机の横にかけてある日めくりカレンダーに目を向ける。

 紙面を隅々まで眺めながら眉をひそめた。すぐにはどういう意味なのか理解できなかった。

 けれど、旧暦が四月一日になっているのを見つけた途端、散っていたパズルのピースが徐々に組み込まれていく実感を得る。

 俺がハッと息を呑んだのが聞こえたらしく、花崎さんの微笑する声が漏れた。

「ちょうど今日は、『それ』だったから演技しちゃった」

「演技ってことはあの話って、全部うそなの?」

「だって谷村くん。先輩といっしょになって、わたしを拉致とか監禁とかって話をしてたでしょ。その仕返しに」

 やばい……。そうだったのか。たまにやるノリをあんな場所でやるんじゃなかった。

 今後は先輩とやりとりする時は場所をよく考えよう。それが好きな子の耳に入ると深く後悔するはめになる。

 俺の顔はその恥ずかしさに、だんだんと熱くなってきた。

「あの話、聞いてたんだな」

「うん。途中からだけどね。でも、ああいう物騒なコトは、たとえ冗談でも言っちゃダメ。わかった?」

「はい。ごめんなさい……」

 少し厳しい口調で叱られたので、その申し訳なさと気まずさから素直に謝罪の言葉を口にした。

「それとね。わたし、賭けをしていたの」

「賭け?」

「うん。もしも谷村くんが番号を見つけたら、そのときは恋の神様が導いてくれたってコトにして、前から想っていた気持ちを伝えようと決めていたんだ」

「えっ、あの、それってどういう」

 どんな反応をすればいいのかと、うろたえた数秒後、ぷちりと通話は切れた。


 俺は接続の切れた携帯を手にしたまま、話の流れをうまく処理できず、放心したみたいになっていた。

 前から想っていた気持ちって何だろう……。あと数分後に、俺にいったい何を伝えるというのか。

 花崎さんの真摯な声の具合から、それが冗談ではない雰囲気を察した。

 この先何が起こるのだろうかと、慣れない緊張感から気分が落ち着かなくなり、室内を行ったり来たりした。

 壁のかけ時計の針は、もうすぐ真上を差す。

「き、期待していいのか?」

 画面に表示した電話番号を見つめていると、胸はどんどん高鳴ってゆく。

 そして時刻はてっぺんを回った。

 俺は深呼吸をしてから、「よし」と通話ボタンを押し、受話口を耳にあてた──。


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