第27話 夜景のマンション
「あれはクリスマス・イブの夜でした」
Nは顔を曇らせて語りはじめた。
その日は会社を定時に出、自宅のマンションまで真っ直ぐ帰ってきたという。
カバンを置き、スーツを脱いで着替え、夕飯のあと缶ビールを手に一人でテレビを観ていた。
やがて時刻は十時を回る。
「今ごろ全国のあちこちで、カップルたちが熱く抱擁しながらまぐわってるんだろな……」
Nは現在三十二才。
女性と聖なる夜を過ごすどころか、付き合った経験自体がない。
炬燵にあたったまま、ビールをちびちびやりながら天井を仰ぐ。
「やっぱり参加したほうが良かったカナァ」
今夜、恋人のいない会社の同僚たちで飲み会を開くことになっていた。
Nはなんとなく参加を断り、こうして孤独な時間を過ごしている。
たまに騒がしくなる左右の隣人も外出しているのか、しんとした静寂が冷たい壁越しに伝わってくる。
どちらの部屋も二十代の女性だったはず……。
Nは脳中であれやこれやといかがわしい妄想をしていると、なんだかやり切れなさにとらわれ、飲み干していた缶をグシャリと潰した。
「まあいいや。他人は他人、俺は俺。もう一本飲んであったかい布団にくるまって寝るとしよう」
冷蔵庫に向かおうとした際、物入れのバスケットに置いてあった双眼鏡が目につく。
「おっ」
ふと興味がわきおこり、少し逡巡してから双眼鏡を手に窓を開けてベランダに出た。
「うー、寒い寒い」
雪は降っていないものの、夜風は冷たくセーターとスエットだけでは頼りない。
けれど、そう長く外にいるわけではないので、鼻をすすって目に接眼レンズをあてた。
ちなみにここは九階である。
冬空の下に、きらびやかな夜景が広がっていた。
「今もあの光りのあちこちで、男女がちちくりあってるんだろうな」
派手な電光のラブホテルを見ながら、Nは軽くため息をついた。
やがて、双眼鏡にふちどられた視界の向こうに、カーテンを開いたマンションを発見する。
十階の室内に、カップルが立っているのが見えた。年齢は二十代半ば。お互いに容姿は整っているほうだ。
二人は夜景を楽しむためか、男を前にして部屋からベランダに出てきた。
ずいぶんと幸せそうだ。笑顔をかわし合い、じゃれあったりして浮かれているのがわかる。
年に一度のイブの夜。恋人同士にとって、もっとも深く愛を確かめ合えるイベント日なのだろう。
「まさしく幸せ者って感じだな。反面、俺ってやつァ、どうしてこうも女と縁がないんだろう……」
Nは、ぐぬぬと歯噛みしたくなる気持ちをおさえ、じっとその様子を眺めていた。
女が手すりをとって、男の耳に何かをささやいている。
それから肩をくっつけて視線を交わし、熱いキスをするかと思いきや、二人一緒に手すりを越えて、真っ逆さまに暗闇に落ちていった。
「ええっ!」
Nは目を見開き、口を大きくあけた。
レンズ越しに入ってきた情報がうまく頭で処理できない。
双眼鏡を離し、でもやっぱり目にあててベランダを射るように見る。
「…………」
間違いない。飛び降りた!
Nは呆気にとられ、寒さなど忘れて、動揺しまくった。
とんでもないものを目撃してしまった。なぜいきなりあんなことをしたのだろう。
二人はなぜ、息を合わせたみたいにして、手すりから落ちていったのか。
「とりあえず深呼吸だ。深呼吸をするぞ!」
Nは胸に手をあてて目を閉じ、平静を取り戻そうと努めた。
ややあってから、気分の乱れは幾分おさまり、自分とは無関係な出来事だから、すべてをなかったことにしようと思ったけどやっぱり無理だった。
あの高さから落ちて無事なわけがない。今頃あのマンションの下で、二人はいったいどんな形に成り果てているのか……。
万が一生きている場合はある? いや、十階から逆さまに落下して、そんな可能性はなきに等しい。
Nは部屋に戻り、双眼鏡を座椅子に放って上着をつかみとった。
Nは息せき切って現場に到着した。
「おかしいぞ。確かにこのあたりのはずなのに」
てっきり潰れたスイカやトマトじみた物体が、あたりに散乱していると恐れていたのに、地面は綺麗なままだ。それらしい染みすら一つも見あたらない。
現場は何事もなかったみたいにして、野次馬の人っ子一人いず、普段と変わらない様相を呈している。
間違って別のマンションの下に来てしまったのだろうか。いや、そんなことはない。
手に握ったスマホに表示している地図ではこのマンションなのだ。
空を仰げば同じ形をしたベランダの出っ張りが、上に高く順繰りに続いている。
Nは、きつねにつままれた思いで敷地を一回りしたり、植え込みの中を探ってみた。しかし人体らしきものは何ら発見できなかった。
いったいあれは何だったのだ。俺は酔っ払ったことで、幻覚を見てしまったのか……。
先ほどの出来事を何度も回想した。
刷り込まれた記憶に間違いはないのに、結果がこれでは納得がいかない。
俺はどうすればいい? どうすればいいんだ……。
夜のマンションの下で一人焦燥するも、このままでは事態が進まない。
それに、あまりこんな時間に男が一人うろうろしていると、不審者として通報されてしまう。
Nは、落ちた人間を探すのはやめ、もうこれ以上追求せずに、自分の部屋に帰ろうと思った。
はっきり言うと、こんな理解のできない出来事に関わるのは、危険な予感がしたのである。
そうして身を返し、違和感を残したまま、来た道を戻ろうとした時だった。
薄暗い道の奥から、誰かの歩いてくる靴音が近づいてきた。
だんだんと話し声も聞こえてきて、身体の輪郭がわかるまでの位置になった。横並びになっている二つの人間。若い男女だ。
すでに道の端に寄っていたNは、相手の顔を見とめた途端、思わず声を上げそうになってしまう。
さっきの二人じゃないか!
ベランダから頭を下にして闇に落ちていったはずの──。
髪型や服装も同じ。なぜこんな現象が起こっているのだ。
Nは目を疑い、信じられない気持ちにとらわれた。冬の外気とは関係のない寒さを感じ、血の気が引いていくのがわかった。
前を通過する相手は、こっちの存在をまるで気にしていない風つきで、楽しげに会話に興じている。
Nは焦りつつ、口の中でつぶやいた。
『……も、もうやめよう。すべてをなかったことにして、うちに帰ろう』
きっと自分は先ほど見間違いをしたのだ。今夜はたまたま体調が悪く、アルコールの影響でおかしなものを見た気がしただけ。
強引にそう解釈付けようとした。腑に落ちないものは全部まぼろしだと自身に言い聞かせながら、去っていく二人を背にして足を踏み出す。
「ねえ。ずっと見てたでしょ?」
女の冷たい声。唐突な質問。
「えっ……?」
「どうして、あんな事をしたの? 理由を教えて」
Nは恐怖のあまり、足が地面に張り付いた。手を強く握りしめるも、ふり向くことができない。
男女が立ち止まって、こっちに視線を据えている気配がする。
周囲に人はいなかったため、きっと自分に問いかけているのだ。
だが理由と訊かれてもうまく答えられない。
Nは肩をすくめたまま口を縛った。あわ立った肌から脂汗がにじんでくる。
もう両足に根が生えたようになって、いっさい身じろぎできなくなった。微動だにすると、相手が一気に距離を詰めてくる威圧さがあった。
目には映らないクモの糸じみたものに絡みとられ、自分は獲物として捕捉されてしまった恐怖感。
相手は答えを待っている。いったい何と返事をするべきなのか。
黙ってこらえていると、やがて気配は薄らいでいった。Nは、金縛りが解けたみたいに身体の力を抜いて、呼吸を整える。
ほどなくしてNは一度もふり返ることなく全力で駆けて行った。
後日。
Nはマンションの管理会社に電話をかけて、問い合わせをした。
聞くところによると、あの部屋は現在、空き室らしい。
入居者が決まっても、どうしてか引っ越す前に何かしらの事情が起きて、人がまったく入らないという。
ではなぜイブの夜に、部屋の灯りがついていたのだ。なぜ施錠してあるであろうベランダの窓が開いたのだ。
あの部屋には今も、不可思議な者が暮らしているのだろうか。
Nの疑問は晴れないまま月日が経ち、やがて記憶からこの出来事は薄らいでいった。
そして一年後のクリスマス・イブの夜。
Nは去年と同じように、一人で寂しく炬燵にあたり、テレビを観ながら缶ビールに口をつけていた。
今年こそは彼女を作って、イブを幸せに過ごそうと目論んでいたが、結局は何の成果も出せないまま以前と変わらない状態であった。
Nはカーテンを閉じた窓に視線をやりつつ独りごちる。
「……そういえば、一年前の今日、ベランダからとんでもないモノを見たっけな」
棚の上に置いてある双眼鏡に目を移した。
炬燵に手を入れて天井を仰ぎ、しばらく逡巡した。
そしてNは、おもむろに立ち上がり、双眼鏡を手にして窓をカラカラと開く。
夜の冷えたそよ風を受け、思わず身震いした。
「確か、あのマンションだったな」
目に双眼鏡をあてて、建物にあたりをつけたのち、十階の例の部屋に来て動きを止める。
カーテンが開かれ、灯りがついていた。
さてはもう住人がいるのだろうか。あれからだいぶ経つから、入居者が決まっていてもおかしくはない。
「おや……?」
室内から人が歩いてくるのが見える。それも二人だ。
Nはそれが見覚えのある人物だとわかった瞬間、脳裏でフラッシュバックが起こった。
「わっ、わわわ!」
顔から血の気が引いていく。口は乾き、落ち着かなくなる。
それでもNは目から双眼鏡を外さなかった。
男女が睦みあいながらベランダに出てきた。笑顔を交わしてとても幸せな様子だ。
やがて女がベランダの手すりに触れた時、室内の奥から何者かが走ってきた。
二人はそれには気づかない。互いに穏やかな顔で視線を重ね、向き合った瞬間、飛び出してきた大男に突き飛ばされた。
男女は向き合ったかたちで手すりを越え、闇に向かって真っ逆さまに落ちていく。
「……!」
二人をベランダから落とした大男は、下を確認することなく、部屋に戻ってまた駆けて行った。
一連の出来事をしっかりと肉眼に焼き付けてしまったNは、手から双眼鏡を落とし、尻餅をついて呆然としていた。
口をぱくぱくと魚のように動かし、冬の夜空を見上げながら目を泳がせ、顔は真っ青になっている。
そして一言こう言った。
「あれは、俺だ……!」
──空気の冷えた薄暗い取調べ室で、Nは語り終えた。
ストーカー行為の末に、二人を殺害した犯人であるNが、この署に連行されて三日目のことであった。
二年前のクリスマスイブの夜に起こった殺人事件は、ようやく解決のめどがたちそうだ。
しかし以前から精神を病んでいたこの男を法的に裁けるかは、不明である。
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