第26話 眠りをさまたげる者
「兄上。起きてくださいまし……」
肩をさわさわと揺すられ、何事かとぼうっとしながら目を開くと、凛とした色白の美しい顔が見下ろしていた。
紺の内掛けを羽織った着物姿で、うしろに束ねた長い黒髪がつやを帯びている。
「一階のほうから物音がするのです」
整った細い眉を八の字に下げて、不安げな表情と声音でそう訴えてくる。
「我が家に、何者かが侵入したのでは」
「……」
なんだこの状況は? なぜ深夜にパジャマじゃなく姫っぽい衣服をつけている? もしや夢の中の出来事だろうか?
新卒で会社に就職してまだ一年未満の俺。
昨日、課長に叱られたストレスで、こんな変な夢を見ているのだろうか。
と思ったが、手を動かしてみたら動いたので現実だと認識した。
俺は動揺しつつ口を開く。
「えーっと……」
いろいろと謎というか、疑問があったので、まず何から訊こうか選んでいると、ふいに『ガチャン』と物音が響く。
「ひッ!」
正座のまま、俺に手を置いた状態で、肩がビクンと跳ねた。表情は乱れないものの目が左右に泳いでいる。
それから小さな鈴の音のような声で、俺に再度話しかけてきた。
「兄上。いかが致しますか。わたくし、このままですと、恐ろしくて寝られません……」
そう告げたあと、困ったような目線をふすまのほうに移す。
「うー。こわや、こわや」
「あのさ、まずひとつ、訊きたいコトが」
「兄上。どうか」
しかたがないので、俺は上体をゆっくりと起こした。
そして寝ぼけまなこを擦っていると、横から厳かな瞳で見据えられた。背筋を伸ばし、どうやら俺に無言の圧力をかけているらしい。
察するに、一人で確認するのは不安なので、今すぐ俺に付いて来てほしいようだ。
「やれやれ。なんなんだこんな夜中に」
「いったい誰なのでしょう。気持ちが落ち着きません。こちらまで上がってきて、襲われたらと思うと」
「確かに、こっちに来る可能性はあるな」
俺は布団から出、よろつく足で立ち上がった。それから上着を着ようと思ったが、探すのが面倒なのであきらめた。
「おー、寒い。寒い」
俺は両肘をとって身震いしたあと、前に進み、ふすまを開いて廊下に出た。そして後ろにむけて声をかけた。
「で、いつから物音がしてたんだ?」
「急急如律令。アノクタラサンミャクサンボウダイ。宇宙天地與我力量降伏群魔──」
「ヲイ! 何をやってるんだ」
何やら立ち止まり、目をつむって必死にまじない言葉を唱えつつ合掌している。両手をこすりこすり、
「ナウマク、サンマンダ、バザラ、ダンカン、ヨゾラニホシガマタタクヨウニ、トケタココロハハナレナイ」
「……途中からおかしくなってるぞ」
着物姿で懸命な表情を浮かべ、おでこには汗がたらりとひとつ。俺は体が冷えたことにより、軽くくしゃみをひとつ。
詠唱を中断させ、さっさと前に進むよううながした。
足音を立てないように階段を一段ずつ降りていく最中、今度は『ガラガラガラン』と何かが崩れる音がする。
「!!」
瞬間、よほど驚いたのか、背後で両足がピョンと20cmくらい跳ね上がった。
そのあと、心なしか、まぶたのふちに涙の玉が浮かんだように見えた。
「こっ、怖い……」
「恐れてちゃ何も始まらん。とにかく行ってみるか」
「はぁー」
身をこごめて、俺を盾にするみたいにして、前方に狼狽した目を送っている。
「兄上。盗人ならば逃げましょうね」
「そうだな。ってか実家を出て戸建て暮らしの初日に、ドロボウとか迷惑千万だな」
「体力には自信がありませんが、走ろうと思います」
身体がブルブルと震えているのが手首から伝わってきた。華奢な肩をすくめ、脚をやや内股にして、今にも涙を落としそうな顔で俺を見上げてくる。
階段を抜き足差し足で降りきって、一階の廊下の板敷きに到着した。
どうやら現場は台所のようだ。
ガサゴソという音が廊下まで聞こえてくるので、闖入者は家主を無視して何かを物色している最中なのだろう。
俺は部屋に入る前に深呼吸をした。次いで背後で身をくっつけて、緊張した面持ちで先を注視している姿に話しかける。
「ところでさ。ひとつ訊きたいことがあるんだが」
「あっ! そこを!」
俺の問いかけに被さるようにして、腕が前に出て指をさした。薄暗がりを示しているので俺はそこに目を向けた。
俺はもしも泥棒などの危険人物が相手だったらと戦慄し、自然とコブシを固めてファイティングポーズをとる。
うっすらと見えた物に対して、二人で息をひそめて凝視した。
何か小動物らしき物体がシンクから降りて、テーブルの下に入っていくのが見えた。
俺は壁に手をあて、鼓動が早くなるのを感じながら手探りして、室内灯のスイッチを入れた。
部屋が明るくなった。
俺たちは、『それ』が何であるか認めた瞬間、同時に安堵の息を漏らす。
「なんだ。驚かせやがって」
「どうやら、取り越し苦労でしたか」
さっきまでの怯え方は何だったのかと思うくらいの切り替わりようで、俺の背後から姿勢正しく出て、『それ』に向かって前かがみになった。
「こっちにおいで。猫や」
返事をするように、茶トラのそれが「にゃ~ご」と間抜けた鳴き声を立てる。
室内を見渡すと、台所の小窓が少し開いているのが分かった。
「兄上。この子はきっとお腹がすいていたのですね」
「まあそうなんだろうが、勝手に台所を荒らされても困るぞ」
「ここはひとつ、なにか食べ物を与えては」
「いいけど。俺はもう寝るからね。明日も出勤で朝が早いんだ」
俺がそう言うと、テーブルの陰でしゃがんだ猫に向かって、「チチチ」と呼びかけている。
「ところで、訊きたいコトがあるんだが」
「なんでしょう? あっ、この子を飼いたいのですが。もちろんわたくしがお世話をします」
と、寄ってきた猫のわきをとって、正座をした膝に乗せ、頭を撫でながら言った。
「野良じゃないかも知れないだろ」
「では飼い主がいない場合は?」
俺は、「そうなら好きにしろ」と返事をしてから、猫を愛でている姿に向かってこう問いかけた。
「さっきから『兄上』、『兄上』とか言ってるけどな」
「はい」
「キミって、誰なんだ?」
「……」
しばし水を打ったように静まる。
「俺はこの家で一人暮らしをしてて、そもそも俺には妹なんていないんだが」
「……」
少女は猫を床にそっと置き、手を膝にそろえて、真顔になって静止した。
斜め上をじっと見ながら、答えに迷っているらしかった。
そして少女は立ち上がり、なぜか頬を染めつつ一礼したあと、ボワワンと煙に包まれ消えてしまった。
「……おいおい」
それから俺は、皿にのせた煮干を猫に食わせている間、盛り塩を作って自室の四隅に置いた。
台所に戻ったあと、食事の終わった猫を胸に抱き、二階へ上がって布団で一緒に眠ることにした。
猫の喉の音を聞きつつ、布団から顔を半分出して目を閉じていると、どこかから見られている気配がする。
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