第25話 迫り来る境界
この霧の多い街で殺人事件が連続している。
いや、実際のところは、それは殺人なのか事故なのかは不明なのだ。
ただ死体のどれもが何かしらの強い圧力を受けて、無残にも平らに潰れていた。
生前の姿を留めない形の、まるで強力なプレス機に挟み込まれたあとのように……。
人間の力とは思えない有様だった。
そしてその事件に平行して、住民が行方不明になる事態も起こっていた。
どちらも事件であるならば、おそらく同一犯の仕業であろう。
私はその正体を確かめたく、今夜も一人で街をさまよっている次第。
黒いコートに帽子を目深にして街角に潜んでいるが、手がかりはまったくなし。
時間的に周囲にはひと気はなく、ただ濃い霧が立ち込めているだけ。
懐中時計のふたを閉じ、煙草でも吸おうかとポケットをまさぐった時だった。
霞んだ舗道の向こうから、何者かが近づいてきた。やや早足で進んでくる。
あれは、見回りの警察官だろうか……。 いや、たぶん違う。
念のため、私は建物の陰に身を潜めてやり過ごそうとする。
それは徐々に輪郭をあらわし、やがて性別が確認できるほどになった。
コート姿の女だ。
紺色のハイヒールと、長いブロンドヘアーが特徴的である。
しかしなぜ、こんな深更に一人で歩いている?
物騒な出来事については、この街に住む者なら知っているはず。もしや酒場で酔っ払って帰宅する途中だろうか。
私は彼女の身が心配になり、陰から姿を見せて、声をかけてみた。
「こんばんは。このあたりは危険なので、離れたほうがいいかと」
女は一瞬、身をかばうようにコートの合わせを閉じて警戒したが、すぐに応えた。
「あるものを、探しているんです……」
「何を探しているのでしょう?」
私の問いに、女は顔を下に向けて言いよどむ。目が左右のあちこちに動き、確かに何かを探している様子だ。
「よければ聞かせてください」
「……あなたに訊いても、おそらく『わからない』と答えるでしょう」
「ふむ。しかしこんな時間に、一人歩きは危険ですよ。早く帰ったほうが身のためです」
「でも……」
「明るくなってから探したほうがいいと思います。なんならお送りしますよ。お住まいはどちらでしょう?」
私はたばこに火をともし、一口吸って紫煙を吹きだす。女にかからないよう一応の気遣いは示した。
「ここは人死にが多発している現場ですからね」
「だからこそなんです」
女は面を上げ、真摯な目で訴えてきた。
「私は出口を探しているんです。この街から逃げられる出口を」
「何のことかな?」
「あなたには見えないの? あの向こうで私たちの運命を握っている神の存在を」
「神……?」
「私も危険。あなたも危険。ここに現れる人はみんな死と隣りあわせなのよ。いえ、人だけではなく街そのものが」
女の切実なる言葉を訊いて、私はやや辟易とした気分になった。
酔っ払っているのか。それとも冷たいものを食ってラリっているのか知らないが、長く相手をしていい者ではないのは判断できる。
ふいに私は、あらたな人の気配を感じ、女の肩越しに視線をやった。
今度は僧侶のような長衣をまとった子供が進んできた。
いや、正確にいうなら子供というよりも少年だ。年端は十二あたりか。小柄で細身な体型であり、角度によっては少女かと見紛う。
少年は肩に麻袋をかけたまま歩を進めていた。
別に見過ごしてもよかったのだが、気になったので声をかけようと思った。
女には手を向けて、少し待ってもらうことにする。
「キミ。ちょっと尋ねたいのだが、誰か不審な人物は見なかったかな?」
少年は私の横に来て足を止める。
「おじさんは、ここに来たばっかだから知らないようだね」
「何を?」
「連続殺人の犯人だよ」
少年の発した言葉に、私はややおののき、身構えた。
「キミはもしかして、犯人を知っているのか?」
「もちろんだよ。ほら、あそこで僕らを監視してるじゃないか」
少年は困惑した顔で、人差し指を左に向けた。
指の先の景色は、霧に霞んでいるせいで、何があるのかよく確認できない。
「あすこに犯人がいるのかい?」
「そう。犯人──。つまり神だよ。この街にいると、あの神の手によって空が降りてくるんだ。いや、空というよりも天井だね」
「すまないが、どういう意味なのかよくわからないのだが」
「神は今も僕らを見ている。そしてその神の手で、この世界にいる人間はやがて圧し潰されて死ぬんだ」
「……」
私は煙草を地面に捨て、靴先で踏み消した。
神など天井などと言っているが、もしやこの子供の戯言ではないか。
いや、さっきの女も『神』の存在について強く訴えていた。
そんなことを黙って考えていると、少年が話しかけてきた。
「ねえ、おじさん。そこの地面を見てみなよ」
霧の湿気に混じって、血のにおいが鼻先をかすめていく。
私はその異臭と少年の言葉にうながされ、目を移した。
!!
なんと、先ほどの女が死んでいる。
その変わり果てた姿に、我が目を疑う。
まるで麺棒で平らにされたパン生地のような薄さになって、赤く潰れているのだ。
うつ伏せで、髪もコートもぺしゃんこになって、鮮血や体内のモノを広げ、皮膚一枚動かなくなっている。
いったいいつの間に。
少年と話をしていた隙になぜこんな形になってしまうのだ。
私が狼狽してかすかに手足を震わせている横で、少年はどこか諦観した口調でこう言った。
「もうすぐ僕らの番だよ。空というオブジェクトに圧し潰されるか。それとも死ぬ前に、この世界から消滅するか。それは神の気分次第なのさ」
少年は肩の荷物を背負いなおして言葉を継ぐ。
「おじさんはどっちがいいの? あそこにいる神様に訊いてみなよ。ほら、よく目を凝らしてごらん」
私は少年の指す濃霧の奥に、目を凝らした。
しばらくすると、薄っすらとだが四角い枠が見えた。確かにその中に、人の輪郭があるようだ。
「あれが……犯人? 神?」
「なんにせよ手遅れだよ。そもそもこの世界に存在した時点で終わっているんだ」
少年は微笑する。
「じゃあおじさん、頭上に気をつけてね。あっ、気をつけると言っても対策のとりようはないんだけど。でも運が良ければ、苦しまずに消えることができるよ」
「私は、どうすればいい……?」
「お互い神様に祈ろうよ。どうか楽に終わらせてくださいってね。何の罪もない僕らが圧し潰されて死ぬなんてあまりにも哀れだし」
「キミはどこへ行くんだ?」
「僕は離れたところで、このヴァイオリンでも弾きながら、自分の運命を受け入れることにするよ」
少年は背負った荷物に視線をやって、そっと足を前に出す。そのあと何も言わずに霧の中へと消えていった。
ややあってから、どこからともなくヴァイオリンの、哀愁ただよう音色が流れてきた。
さっきの少年がどこかで弾いているのだろう。
頭上を仰ぐと夜空が降りてくるのが見えた。夜空という形の、広大な天井が。
目を見張るも、なすすべがない。いったいどこへ逃げればいいのか分からない。
鼓動が忙しくなり、全身が冷たくなった。
空というオブジェクトに圧し潰されるか──。この世界から消滅するか──。
それがどちらであれ、私はもうじきやってくるであろう自身の『終わり』を覚悟するのであった。
……そして神は、スクロールを続けるか、ウィンドウを閉じるか、その判断をする。
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