第24話 花かんむり
五才のメルは、しゃがんで気分よく花を摘んでいた。
少し離れた切り株にはお父さんが腰掛けている。白いワンピースにエプロン姿の娘を、微笑ましそうに眺めていた。
メルの小さな手には、色とりどりの花が握られていた。さっきはお父さんのお手製のブランコに揺られて楽しく遊んだ。
春のあたたかい太陽と、緑の映える草原と、花の香り。澄んだ小川が水面を光らせて流れている。
どこを見ても平和そのものだった。
お父さんの優しい声が聞こえてくる。
「たくさん摘んだね。こっちに持っておいで」
メルはふり返り、金色のみつ編みをなびかせて嬉しく駆けていった。
切り株まで来て、お父さんにくっついて座り、花を握った手を伸ばす。
「はい」
「じゃあ待っててね。いいもの作ってあげるから」
メルは青い瞳でこくんとうなずき、お父さんの手付きをまじまじと見つめた。
いくらか経って、メルのあたまに花かんむりがのせられた。
「ほら、お父さんからのプレゼントだよ」
「うわぁい。ありがとう」
「とっても似合ってるよ。メル」
褒められて嬉しくなり、お父さんとにっこり笑顔を交わす。小鳥がチチチと鳴きながら前を飛んでいった。
風のない穏やかな日だった。澄んだ青空がどこまでも続いていた。
だが平和なこの大地から数百キロ離れた戦地では、今もたくさんの命が消えているだろう。
建物が破壊され、弾丸や砲弾が飛び交い、主張と主張がぶつかり合っている血なまぐさい世界──。
メルの膝にあった手が、お父さんの手にそっと包まれた。
「よく聞くんだよ、メル」
切実な口調に、メルは深刻さを察した。笑顔を引っ込めて父の目を見つめる。
「実はな。お父さんはもうすぐ、遠くに行かなくちゃならないんだ」
言ってから父の表情に陰りがさした。
翌朝、父はトラックの荷台に乗って運ばれていった。
見慣れない兵隊服を着、背嚢をしょった父は別れの時、こんな言葉を残していった。
『いいかい? 帰ってくるまでお母さんと仲良く暮らすんだよ。お父さんはね、必ず戻ってくるから』
メルはどういう事態なのか分からなかった。父は、『約束するよ』と握手をして誓ってくれた。
それからメルは母の近くで、遠ざかっていくトラックを悲しい目で見送った。
草原にそよ風が吹いて、小波が渡っていく。
ブランコを短く揺らしているメルは、退屈な顔を地面に向けていた。
いつもはお父さんが後ろにいたのに、今は一人ぼっちだ。
空は晴れてぽかぽか陽気である。しかし楽しい気分にはなれない。
山並みの向こうまで続く道からは誰もやってこない。
編み方のつたない花かんむりが、作りかけのままで草に置かれていた。
家のほうからお母さんの声が聞こえた。お昼ごはんが出来たという知らせだった。
メルはブランコから降りて、寂しい表情のまま遅い歩調で進んでいく……。
雨の日だった。
メルは雫の落ちる窓から、草原を眺めていた。
黙って道の向こうを見ながら、ガラスにそっと吐息をかけてみた。
指先を滑らせて文字を書いた。
刺繍をしていたお母さんがそばまでやってきて、メルのあたまに手をおいた。
お母さんが話しかけてくる。
「だいじょうぶよ。きっとね。私たちと約束してくれたから」
母は少し涙声になっている気がした。
メルは何も言わずに母の手から離れ、さっきまで遊んでいた椅子に戻った。
壁にかけていた父の花かんむりは、もう枯れて茶色くなっている。
厚い曇が広がる寒い日。
外はすっかり雪景色だった。山や地面は白く化粧され、小川には冷え切った水が流れていた。
コートを着たメルは首にマフラーを巻き、手袋をつけて遊んでいた。
雪をすくっては宙に放ち、ほっぺを赤くして駆け回っていたが、ふいにつまずいて転んでしまった。
「いてて……」
胸と顔を打った痛みをガマンしながら立ち上がった時、茶色い小鳥が一匹落ちているのに気づいた。
小鳥は横を向いたまま、くちばしを少し開き、まぶたをくっつけた姿で身動きしない。
メルは衣服についた雪を払うのを忘れ、ただ無言で亡骸に視線を落とし続けた。
春のあたたかい午後。
メルは六才になり、去年よりも身長が伸びた。
今日も一人でブランコに座って、道のほうを眺めている。
時おり下を向いては寂しく自分の靴を見つめ、また前を向く。
母が言うには、父の仕事はもう終わったらしい。でもいくら待っても家に帰ってきてくれない。
たまに届いていた手紙はすっかり途絶えている。
いったい、どうなってしまったんだろう……。
そんなふうに考えを巡らせながら、ブランコの紐を持ってうつむいていた。
ふいに誰かの近づく気配がした。
足元の視界に、軍靴が見えた。
「ただいま」
聞き覚えのある声。
メルはハッと顔を上げる。
瞬間、胸が熱くなって目を丸くした。
「戻ってきたよ。メル」
すぐ前に兵隊服を着た父が立っていた。
去年と変わらぬ優しい笑顔を向けてくれた。
手を差し伸べられたメルは、すぐにブランコから降り、父の腰に力いっぱい抱きついた。
「お父さん! お父さん!」
「うん。元気にしてたかい?」
メルは大きくうなずき、潤んだ目を父の衣服に押し付け、懐かしい香りを吸い込んだ。
「おかえりなさい」
「ずっと逢いたかったよ」
「お父さん、大好き」
「うん。お父さんもメルのことが大好きだよ。……これからまた、一緒に暮らそうな」
そう言ったあと、父が背中を包んでくれた。
メルの心は安らぎに満たされ、涙を流しながら微笑んだ。
草原にやわらかな風が吹きわたった時、メルは目を覚ました。
「……」
ブランコの紐に、もたせていた頭を起こすと、それまでの穏やかな笑顔がだんだんと薄らいでいく。
父との再会が夢だと分かり、現実の世界が悲しくなった。
今日も一人。たぶん明日もまた一人。その先の日も……。
お母さんが遊んでくれる時はあるけれど、あまり楽しくなれない。
仲良く暮らすように言われていたのに、なぜかしっくりこない。
微笑んでくれても、どうしてか心を開くことをためらってしまう。その理由はよく分からない。
だからやっぱり、お父さんと一緒にいたい。
メルは一度鼻をすすって空を見上げた。顔を上げておかないと悲しみが増してくるからだった。
そして父が今、どうしているかと想いを巡らせた。
その時だった。
遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。誰かが車に乗ってやってくるのだ。
長い道筋に、車両と薄い土煙が近づいてくるのが見える。
メルはブランコの紐を強く握った。
胸は期待に高鳴り、視線が吸い寄せられた。
立ち上がって、徐々にやってくる車を見つめる。
車はメルの家の前で停止した。
運転席から人が降りてくるのがわかった。
しかしその人物が、父ではないことに力を落とす。
あれはきっと郵便配達員だ。
玄関から呼び出しを受けた母が出てきた。二三会話を交わしたあと、封筒を受け取ったのが見えた。
母は封筒を手にしたまま硬い表情をして、ためらっている様子だ。
メルは不安な心持ちでその姿を眺めていた。車でやってきたのが父だと思ったのに、代わりに手紙が届いたからだ。
それがどんな内容なのか知りたくなり、母のもとへ行こうと思ったが、なぜか怖くて足を前に出せなかった。
そして母は封筒を開けて、便箋を開いた。
ややあってから、両手で顔を押さえ、しゃがみ込む……。
数ヶ月が経った。
緑萌ゆる大地に、まばゆい陽射しが降り注いでいた。
草原に広がる初夏の風景は、今日も穏やかであった。
「こっちにおいで、メル」
背後からお父さんに呼ばれた。
兵隊服ではなく、シャツとジーンズ姿で、小川のほとりに足を入れて座っていた。
メルはびしょ濡れになったまま、困った顔で振り返った。
先ほど魚を捕まえるのに失敗し、水面に頭から突っ込んだのだ。
メルはほとりまで進み、タオルを手にしたお父さんの横に座った。
「ねえサカナって、どうして逃げるのがはやいの?」
「それはね。きっとメルが可愛いから照れているんだよ」
言いながら、濡れた髪や服を丁寧にふき取ってくれる。
「えー、なにそれ」
「メルは世界で一番可愛いよ」
「……」
ほっぺを朱に染めたメルは、まんざらでもない表情だ。
少しもじもじしたあと、思い切ってお父さんの顔にお礼のキスをした。
家のほうからお母さんが声をかけてきた。こっちに向けて手まねきをしている。
屋根の煙突からは炊煙が上がっていた。
立ち上がったメルは、お父さんと手をつないで微笑みを交わす。
「お昼ゴハン、何かなぁ」
「何だろうね。今日はお父さんの好物を作ってくれるらしいよ」
「じゃあきっと、ビーフシチューだね」
仲良く会話をしながら、家に向かって草原を進んでいく。
帰還の遅れを手紙で知らせたお父さんは、先週戻ってきたばかりである。
以来、メルは毎日笑顔を絶やさず、幸せに暮らしている。
そしてお母さんは、二人がやってくるのを温かい目で見つめながら、背中にぎらりと光る包丁を構えていた。
内心で燃えたぎる嫉妬心を、メルとお父さんは知る由もない。
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