第20話 深夜の帰り道


 残業ですっかり遅くなった佐野さんは、疲れた身体で一人夜道を歩いていた。

 入社して半年経ったが、長時間の残業にはまだ身も心も慣れていない。

 疲労の溜め息をこぼして、スーツのネクタイを少しゆるめた。

(ここまで遅くなったのは初めてだな。明日は早く帰れるといいんだが)

 右手に提げたカバンがなんとなく重い。

 革靴の足音だけが静寂とした空気に響いている。

 いつもなら人がまばらにいるのに、今は深夜のため誰も見あたらない。

(なんか気味が悪いな。早く帰ってご飯にしよう……)

 思った矢先、前の暗がりからスウェット姿でジョギングをしている男性がやってきた。

 アパートのほうに入って、外階段をカツカツと昇っていく。

(夜中に運動して体力づくりか。おれも走れる元気がほしいな)

 そして灯りのとぼしい公園前を過ぎた時だった。

 うしろでガサリと物音が。

「ん?」

 気になったので足を止め、ふり返ってみた。

 うす暗いせいでよく見えないが、黒いゴミ袋が置かれている。

(……なんだ。あれが風であおられたのかな)

 しかしふと思えば、風などいっさい吹いていない。

 他に音がたつような物はなかった。

(気のせいか? でも確かに聞こえたような)

 妙な感じがして目をすがめていると、道の端で何かが動いた。

 ゴミ袋かと思ったそれが、ゆらりと縦に長くなってくる。

(もしかして、人……?)

 影がうごめき、手と足があるのを確認できた途端、ゾクッとした。

 黒い物体がその場でふらふらと左右に揺れている。

 じっと眺めているとこっちにやってきそうな危機感があった。

 佐野さんは目をそらし、なるべく足音を立てないようにして前に進んだ。

 あるていど距離がひらいたところで、ゆっくりと首だけでふり返ってみた。

 さっきの人影がいる様子はない。

 追いかけてこなかったことにホッと安堵の息をつく。

(なんだったんだろうあれ。ずっと道の端でうずくまってたのかよ)

 通り魔だったりすると大変なので、小走りになって自宅を目指した。

 ところがいくら進んでも景色がほとんど変わらない。

 間違えるほど分岐路が多いわけではなく、道なりに進めば自宅のマンションが見えてくるはずなのに、さっきから同じような住宅が続いている。

(おかしいな……。どうなってるんだ)

 足を止めて目線を横にやった。

 すると、すでに通ったはずの公園がそこにある。

 電灯が切れているせいで、入り口から奥はほとんど見えなかった。

 草木の生えるあたりで虫がしんしんと鳴いている。

(やっぱ道を間違えたのか。でもぐるっと回ってここまで戻ってくるような通り方は、してないはずなんだが……)

 疑問に包まれ、なぜこんなことになっているのか不思議に思った。

 視線を公園の暗がりに留めたまま考えにふけっていると……。

 トン!

 右肩に重みを感じた。

「えっ?」

 思わず目をみはり、身をすくめた。

 急な出来事に鳥肌が走った。

 顔が引きつり、身動きがとれない。

(何か……何かが、肩に乗ってる……!?)

 息を殺したまま、じりじりと目を端にずらしていく。

 視界のすみに人間の鼻先がうつった。

(誰かが、顔を乗せている!)

 相手が身体を密着してきた。 

 生温かい息が、ふっーと頬をかすめる。

 口を開き、横目で鋭く睨まれている気配を感じた。

 佐野さんの鼓動は高鳴った。

 呼吸もだんだん荒くなってくる。

 ふと、手に柔らかい感触が伝わった。

「!」

 左手がギュッと握られる。

 カバンを落としそうになったが、力を込めて耐えた。

 微動だにすると危害を加えられそうな予感を感じた。

 相手が刃物を持っているなら、いつ刺されてもおかしくはないだろう。

 そうした戦慄と焦燥が頭の上からふり落ちてきた。血の気がどんどん引いていく。

 通り魔なのか、それとも……。

 思考は乱れ、この状態からどうすればいいのか困惑した。

 男なのか、女なのか分からない。

 ただ自分の肩に他人の顔がある。

 頬がくっつきそうなほどの至近距離に……。

 鼻から向こうはどうなっているのか確かめたかった。

 けれど身体は硬直してしまい、首を動かす勇気が出ない。

 口がわななき、ゴクリと空唾をのみ込む。

 額から汗がひとすじ流れる。

(どうすればいいんだろう……)

 いっそ走って逃げよう!

 意を決するが、足に力が入らない。

 一歩踏み出せば命に関わる目に遭わされる――。

 背中ごしに、そういった威圧感がひしひしと伝わってきた。

 湿った吐息が頬を撫でていく。

 手を固く握られたまま、膠着している状態が続いた。

(いったい何なんだ。おれはこれからどうなるんだ)

 両目を強く閉じ、どうか何もせず立ち去ってくれ、と必死に願う。

 歯噛みをして耐えていると、背後からスッと気配が消えた。

 肩の重みは失せ、握られていた手は外される。

(あぁ……)

 今まで味わったことのない緊張と恐怖から解放され、身体の力が抜けていった。

 靴が柔らかいゴムを踏んでるみたいに不安定になり、その場にストンとへたり込む。

 着ているシャツは汗でびっしょりと濡れていた。

 きっと顔色は真っ青になっているだろう。

(本当に、消えたのか……?)

 疑わしさに包まれ、恐るおそる首だけを動かし、うしろを確かめた。

 とくに誰もいず、物音は聞こえず、ひっそりとした深夜の道が伸びている。

(おれは、助かったのか。……しかしさっきのは何だったんだよ……)

 安堵が脳裏に打ちよせ、思わず涙がこぼれそうになった。

 事後にわななく手と脚。

 夜空を仰ぎながら、まばたきをして鼻水をすすった。 

 その瞬間、耳のすぐそばで女性の絶叫が響く!

「ギャ――!」

 激しい断末魔が鼓膜をつんざいた。

 佐野さんは驚きのあまり、背筋をピンと伸ばした姿勢で失神してしまう。



 ――目を覚ました時、あたりは薄明るくなっていた。

 どうやら夜明けが近いようだ。

 倒れていた身体を起こし、周囲を見まわした。

 かたわらには公園の入り口があった。

 川砂の敷かれた広場にベンチが二基置かれている。

(なんだ、この音……)

 朝刊配達だろうか。

 走っては止まるカブの音が遠くから聞こえてくる。

 佐野さんはゆらりと立ち上がって、スーツの汚れを払った。

(おれはこんな所で意識をなくして、夢を見ていたのか……)

 まだはっきりとしない意識。

 軽い頭痛を覚えつつ、ふたたびあたりを眺めてみる。

 電柱と、その根元には側溝のふたが道につづいて伸びていた。

(あのへんで影が動いたはずだが……)

 凝視してみたが、もうそういった物体は見あたらなかった。


 

 ――その日のニュースで、若い女性が行方不明になるという事件が報じられた。

 翌日、恋仲であった歳の近い男性が出頭してきた。

 彼は取調室で、女性をアパートで殺害したあと遺体は遺棄したと証言した。

 動機などをふくむ事件の概要は、後日報道された。

 以来、佐野さんは公園通りの道を通るのはやめた。

 少し遠まわりになるが、駅までの道のりは繁華街のほうを使うと決意した。

 なぜかというとあの日、黒い影の立った位置には格子状のふたがあり、それを剥がした下には――。

 佐野さんは今でも、あの奇妙な体験を思い出すだび、寒気に襲われ鳥肌が止まらなくなるという。

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