第19話 死者の残響
中条くんは自室のドアを閉め、背をあずけた時ようやく人心地がついた。
「とんでもないものを見てしまった……」
学生服のネクタイをゆるめて深く息をつく。
目をつむれば、先ほどの光景がまぶたの裏に浮かんでくる。
人が物凄い早さで宙を舞ったところなんてはじめて見た。
しかもそれが名門女子高の生徒で、すれ違う男の誰もがふり返りそうな素晴らしい美貌をそなえていた。
光沢のあるさらさらの長い髪。透きとおるような白い肌。スタイルだって非の打ちどころがない。
二重まぶたのおっとりとした眼ざしからは、今まで両親から愛情をもって大切に育てられた雰囲気があった。
きっと毎日、栄養豊富なものを食べ、人間関係にも恵まれ、清潔で設備の整ったストレスの少ない環境で生活をしているのだ。
見惚れていたら視線が合った。
相手はやわらかく微笑み、そしてちいさく会釈をしてくれた。
中条くんは意外な反応に戸惑った。
自分とは違う高尚なものを感じて目をそらし、異性の優しさに顔を赤くしてしまう。
(ヤベェ……かわいすぎる)
容姿だけじゃなく心まで美しそうな女子生徒は、微笑をたたえたまま凛とした姿勢で歩いていく。
そんな足運びで横断歩道を渡っていたところに、大型のワゴン車が情け容赦なく突っ込んできた。
「ああ! 危ない!」
タイヤの磨り減る凄まじい音に、中条くんをはじめ周囲の通行人が注目する。
なぜ運転手が赤信号を無視したのか、その具体的な原因はわからない。
ただこの瞬間、少女の人生が断たれた。
車のフロントガラスに頭をめり込ませ、首がありえない角度にひん曲がり、バンパーに弾かれるようにして跳ね飛ばされた。
投げられたマリオネットみたく手足の向きがバラバラになって、車の部品といっしょに血があたりに飛び散った。
少女は鈍い音をたてて路面に叩きつけられた。
それでも勢いはおさまらず、数度転がり、血液のすじを引いてうつ伏せに倒れる。
母親が洗濯して丁寧にアイロンをかけたであろう制服のあちこちが、ボロ布のように破れていた。
擦過した皮膚や、ほどよく肉付きのいい腰まわりが下着といっしょに晒された。
くし通りの良さそうな艶のあった髪はすでに血塗れて乱れ、横向く少女の裂けた頭部は、アスファルトの染みになりつつあった。
潰れた鼻梁と、前歯がすべて抜けた口からは、濃い血の混じった胃の内容物がこぼれ出す。
せり出した両の目玉が、こっちをジッと見つめていた。
さきほど優しくほほ笑んでくれた顔が、こんな崩れた形状に変わるなんて信じられなかった。
頭の裂け目のはるか遠くには、あらゆる素敵な感動を記憶しているはずの塊が、ただの桃色の破片となって無残に転がっている。
歩道から呆然と眺める中条くん。
「あっ……うわぁ……大変だ」
周囲の人々はみな、唐突に発生した惨たらしい出来事に、ただ青ざめた顔をしてその場で静止していた。
もしも死人に意思があるならば、いきなりこんな酷い目にあわされてどう思うだろう。
彼女の両親は事故の報告を受けたとき、どんな気持ちになるだろう。
こんなかたちに変わり果てた愛娘を目にしたとき、いったいどれほどのショックを受けるのだろう。
もう二度とかえらない損壊された少女を見ながら、中条くんはビルの壁に背中をつけた――。
ドアから離れて、ベッドに通学カバンをおろした。
さっきのことを思い出すと、動機を打つのが早くなる。呼吸だって詰まったみたいに苦しい。
(事故なんて目撃するんじゃなかった……)
いくら後悔しても脳裏に焼きついてしまった少女のなきがらは離れない。
中条くんは沈痛な面持ちのまま首をふり、重い動きで部屋着にきがえた。
(……なんだか部屋の空気がいつもと違う)
ベッドにもたれ気分転換に読んでいたマンガ本から顔を上げた。
天井あたりをゆっくりと眺め渡した。
もやがかかったみたいに少しかすんで見える。それにうっすら耳鳴りがする。
いつもと変わった雰囲気に違和感をおぼえ、マンガ本をローテーブルに置いた。
さきほど帰宅した際、母親は台所で夕飯の支度をしていた。
できあがるまでたぶん、あと三十分くらいかかるだろう。
(部屋を出て、食卓に移動しようかな。……普段過ごしている自分の部屋だけど、今日はほんとうに居心地がわるい)
鼻をすすると、微妙に血なまぐさい匂いを感じた。
気のせいにしようと思い、立ってリモコンを取り、テレビをつけた。
画面にクイズ番組がうつった。
スタジオに芸能人が集まり、にぎやかに笑って拍手して、誰かの出した珍回答に盛り上がっている様子。
室内に華やかな声が広がるが、違和感のある重い空気が消えることはなかった。
中条くんは、かえって気持ちわるくなって、テレビを消そうとボタンを押す。
が、どうしてか何度ボタンを押しても反応がない。
(ん? リモコンの電池が切れたのか……)
電池をいったん取りだし、はめ直してみても、テレビは操作に応じなかった。
しかたなくため息をついて主電源を押すと、ようやくテレビはおとなしくなった。
周囲に静寂がもどった束の間、どこからともなく、何かを削るようなカリカリという音が聞こえてくる。
音のありかを探すため、壁を見やれば、そこにはスクールブレザーを着たお気に入りのアイドルが、ポスターの中で微笑んでいるだけ。
聞こえてくる方向はそちらではない。
天井から、いや、窓ガラスの向こうの外からだろうか。
もしかすると棚に並べてある美少女やSFキャラのフィギュアが立つあたりかも知れない。
聞こえてくる奇妙な音がだんだん範囲を増し、迫るように大きくなってきた。
困惑した中条くんは耳を塞ぎたくなった。
手を耳もとに寄せた時、音がピタリとやむ。
(な、なんだったんだ今のは……。近所の住人がおかしなノイズでもたてていたのか)
すぐには理解できないものに首をかしげ、ベッドに座ろうとしたら、
「えっ?」
かけ布団がおかしなかたちに膨らんでいた。
ちょうど中で人がひとり、うずくまっているような形状……。
しかも布団の端からは、あぶらでべっとり汚れた長い髪がはみ出していて……。
「うわぁ!」
腰を上げてギョッとなった。
(おかしいぞ。さっきまでこんなふうには、なっていなかった。だいたい布団はまくり上げていたはずだ)
心当たりのない変化にあわをくって、そこから距離をとった。
内側でうごめいているらしく、かすかに布団がゆれはじめ、
(あの中に、誰かがいる……!)
中条くんはうろたえた顔でそこに視線を吸いつけた。
胸に警鐘が鳴り、さらに数歩離れた瞬間、芸能人たちのどっと笑う声が響く。
驚きあわててテレビの方へ目を走らせた。心臓が激しく跳ねていた。
操作などしていないのに、さっきの番組が画面にうつっていた。
(主電源を切ったはずなのに、どうして)
集団でにぎやかに笑う声が大きくなってきた。ほとんど絶叫に近い。
まるで人間の群れが、狂ったみたいに笑い転げているような……。
バラエティ番組で耳にする声をはるかに超えた異常さだ。
クイズに興じている様子とはあきらかにつり合いのとれない哄笑に、中条くんは面食らう。
どう対処していいか判断がつかず、じっと事のなりゆきを見守っていた。
(やばい。どんどん笑い声がおかしくなっていく)
さすがに耐えかね、足を運んでコンセントを手で引っこ抜く。
「うそだろ?」
消えない。
(電気の供給を断ったのになぜ……)
今まで経験したことのない不可思議なものに包まれた。
部屋を見渡す。
しかしどこを眺めてもその答えは見つからない。
ドン! ドン! ドン! ドン! ドン!
壁を叩く音!
まわりがぐらぐら振動する!
棚のフィギュアの数体が、その影響をうけて倒れた!
「なんだこれ! 地震……じゃない! 誰かが殴りつけてるんだ」
正体不明のものに追い詰められた心情で、平静を失い、あたりをキョロキョロする中条くん。
気が動転してパニックになりそうだった。
そして、
殴打する音が消え、代りにすすり泣く声が聞こえてきた。
テレビからだった。
画面にはひな壇に座る回答者。
しかし誰ひとり笑ってなどいず、全員が全員、痩せこけたミイラの顔で疲れたように並んでいる。
乾いた土色の皮膚が横風になぶられ、人物すべてが灰になって消えた。
「……!」
中条くんは声にならない悲鳴をあげた。
画面はちらつき、点滅して、ブロックノイズが幾筋も伸び、バチバチと電気の弾ける音をたてる。
すすり泣く声がやむ。
ノイズの向こうに何かがもぞもぞ動いていた。
画質の乱れにより形がはっきりとしない。
画面はちらつきながらも、抵抗するみたく音声のない映像をうつした。
犬だった。
茶色の毛をした小型犬。
それが画面にむかい、可愛い顔でほえている。
手前から、幼いちいさな手が近づき、犬の頭を優しくなでた。
犬はほえるのをやめ、満足したようなおっとり顔で受け入れる。
(なぜこんなものがテレビに……? まるで8ミリフィルムみたいだけど)
映像の色がぐしゃぐしゃになって、場面が切り替わった。
うす暗い部屋に、ローソクの灯ったホールケーキが映された。
大人二人とたくさんの子供たちが何かを期待する目をして、こっちに微笑を向けている。
数本立ったローソクの火が手前から吹き消され、いっせいに祝福の拍手がとんできた。
部屋の灯りがつく。
女性がケーキを切り分け、正面に座る男性がうしろからリボンのついた大きな箱をとりだした。
また画面の表示が乱れ、回復した時、今度は晴天の下の海がうつった。
日光を反射してキラキラと光る紺碧の海。
水平線の向こうには船がのんびりと動いている。
浜辺で小学生の男女がまちまちにシートを敷いて、楽しそうにお弁当をひろげていた。
目の前で、うさぎの絵がついたお箸がエビフライをつかんだ。となりではリュックを降ろした女の子が幸せそうに笑う。
空と風と、あたたかそうな陽射しの、とても平和な風景だった。
あいだにフラッシュカットで表示されるシーンも出てきた。
一面の雪景色のなかを駆け回ったり、家族団らんとした雰囲気でドライブしていたり、ピアノコンクールの賞状があらわれたり、成長した茶色い犬を散歩していたりなど……。
そしてモニターがザラザラと場面を隠し、新たな場所をうつした。
ここは校舎裏だろうか。
中学生くらいの男子が白い封筒をこっちに差し出す。
男子生徒は迷惑そうな顔で、いらないというふうに首をふった。
なにかを喋っているようだが声は聞こえない。
セーラー服を着た手が封筒をおずおずと受けとった。
男子は片手で謝る仕草をし、急ぐみたいにしてその場から立ち去る。
画面がうつむく感じにスッと下を向く。
水に濡れたようになって、コンクリートの地面がよく見えなくなった。
(なんだよこれ。こんなのどう考えても、テレビの故障じゃないだろ……)
次に出てきたのは教室だった。
窓の外はくもり空。
黒板には大きな字で『祝 卒業おめでとう!』と書かれている。
涙を流す女子生徒が身を寄せ合ったり、笑っている男子生徒が陽気に写真をとったりしていた。
席に座っているところへ色紙がまわってきた。
三年A組という文字を中心にして、それぞれの将来の夢が記されている。
ペンを持った手が動く。
『看護師さんになって人助けがしたい』と、人柄の良さのあらわれる整った字が書かれた。
他にもいろいろな場面がうつった。
電信柱に迷い猫の貼り紙があった。夕暮れのなか草をかきわける手。土手の橋のそばで鳴いている白黒の仔猫。
飼い主らしきおばさんがその猫を抱き、指で涙をすくって喜んでいる。
満天の星空の下。
草の上で星座に指をむけている優しい顔の母親らしき女性。
画面の中の人物は、夜空の広大な世界に感動しているようだった。
中条くんはただ黙って、それらの映像を見ていた。
ふいに見覚えのある風景が出てきた。
(あれ? ここってもしかして)
思わず目をこらす。
通学カバンを肩にかけた男子生徒が、歩道に立ち止まってこっちを見ていた。
なぜか照れたように赤面して視線をそらし……。
「ああっ!」
彼本人だった。
そしてタイヤが路面をかきむしる音が響き――。
映像がプツンと消えた。
部屋は水を打ったように静かになった。
「……」
何も表示していない画面に、自身のたたずむ姿が暗くぼんやりと反射している。
あいかわらず周りの空気はよどんだまま。
微妙に耳鳴りだってする。
重くため息をついた際、はたと思い出すことがあった。
すぐにふり返った。
見た瞬間、かけ布団のふくらみと一緒に、はみ出ていた髪の毛が素早く引っこむ。
まるで奥から何者かに無理やり連れて行かれたように。
「!!」
中条くんは思わず腰を抜かしそうになった。
落ちつきを失わないため、なるべくゆっくりと呼吸をした。
それでも緊迫感のせいで、てのひらや額にじっとりと汗が出てくる。
これからどうしようか戸惑っていた時、携帯の着メロが鳴り響いた。
「わあ!」
突然の出来事に肩がビクンとはねた。
(誰だ。こんな時に……)
無視するわけにもいかず、こわごわと近づき、ディスプレイを見れば、
(文字化けしてる。いったいどこから掛けてきたんだよ)
着メロは鳴り続けていた。
拒否しようと指をずらしたが、気になったので恐るおそるボタンを押す。
「も、もしもし」
応答を待つも、なんら反応はない。
中条くんは、口を一文字にしばって相手の様子をうかがっていた。
いくら待っても相手は何も言わない。
「もしもし……?」
ふたたび声を送った。
だがやはり無言のまま物音ひとつしない。
(なんかヤバそうだ。これ以上関わらないほうがいいな)
もう通話を切ろうと携帯を耳から離した。手が小刻みに震えていた。
受話口からザリザリと息が触れるような音。
(だ、誰だろう。いや、たぶん……)
切ろうとしたが、やおら携帯を耳にあてる。
音での反応はあったが、なおも相手は喋らない。
中条くんは思い切って水を向けてみることにした。
半信半疑の思いで、予想していた言葉を口にのせる。
「なあ。きみなんだろ……? さっき横断歩道で車に」
言ったあと、のどをゴクリと鳴らして返事を待つ。
ややあってから、女の子の弱々しい声音が返ってきた。
『うん……』
か細い声、というよりも涙声だった。つづいて鼻を短くすする音が聞こえた。
中条くんはそこから何を話せばいいかわからず、沈黙してしまう。
電話ごしに、声をひそめて泣いている様子が伝わってきた。
じっと待っていると相手が喋った。
『ここは真っ暗で……』
言葉を切って、一度大きくしゃくり上げた。
『誰もいなくて寂しい』
しぼりだすような声だった。
悲痛な思いが身に染みわたってくる。
『死にたくない……。帰りたい……』
いったい、何と言ってあげればいいのか。
救済をもとめる彼女に対し、中条くんは思案した。
先ほどまで感じていた恐怖は薄らいでいた。
だけど、どんなふうに言えば心のなぐさみになるのか、その答えがみつからない。
ただ、自分が思ったことを正直に言おうと判断した。
「ごめんな……。もうどうすることもできないんだ」
申し訳ない気持ちが胸にひろがり、目をいっぱいに閉じた。
(おれじゃ何もしてあげられない。助けることなんてできない)
彼女の訴えを冷たく突き放してしまった。
中条くんは携帯を持ったまま、壁にもたれてうなだれた。
……彼の言葉をどんなふうに受けとったのだろう。
相手はもう何も喋らず、しばらく一人で静かに泣いていた。
そして突如、何かに遮断されるみたいにして、通話が切れた。
次の日。
中条くんは学校が終わったあと、事故現場におもむいた。
少し抵抗はあったが、知らないふりをして放置する気にはなれなかった。
ビルの角を曲がって件の景色が見えてくると、横断歩道の手前にはたくさんの人が集まっていた。
ほとんどがあの子と同じ制服をきた女子生徒だった。
中条くんはなるべくその生徒たちの表情を見ないようにして、ゆっくりと目的の場所に近づく。
そして買ってきた花束をたむけた。
現場にはすでにそれらのものが供えられていた。
人の輪をさけて、離れた位置まで移動したあと、そっと手を合わせる。
空を見上げればいいのか、それとも地にうつむけばいいのか迷った。
だけど願いをこめて夕焼け空をあおいだ。
「なぜあの子は、おれの所なんかに来たのだろう……」
中条くんは、誰に言うともなくつぶやいた。
それ以来、いつもの日常にもどった。
部屋で起こった不思議な現象は、事故当日それ一度きりだったという。
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