第17話 「お兄ちゃん。代わりにお願い!」


「あちしのパンツ返せ!」

 ドアがバコンと開かれたと同時に、半泣きの妹が前蹴りを出し終えたポーズで立っていた。

「パンツ!」

 どう見ても怒り心頭の様子に、おれは金鍔焼きのかけらを口から落としてしまう。

 無言で注視して湯呑みのお茶を一口すすった。すると涙をぬぐった妹が厳しい目をたたえ、開け放たれたドアを平手でバンと叩く。

「なくなっているの。洗濯機の中から。いったいどこにやったのお兄ちゃん」

 察するにお風呂上りらしく、肩まで伸びた髪が湿気を帯びて、肌はほんのり桜色にほてっていた。せめてTシャツくらいは着て欲しい。

 上下白の下着姿で来るなんてやり過ぎだろと思ったが、本人が勝手にしている格好だし、出るところがさほど出ていない小柄な体型なので指摘しないでおく。

「だんまり決め込まないでなにか反応してよ。洗濯機の中から消えちゃってたの。パクったのお兄ちゃん以外にありえない!」

 そんな一方的な具合で両こぶしを必死に振って、「パンツ返せ」をあと二十回ほど連呼し、

「たとえ兄といえど、あちしは下着ドロの犯人に暴力を向けることも辞さない厭わない」

 目前の空気をおれに見立てたように睨み、口で音をたてながら小刻みに身体をふってシャドーボクシングを始めた。

 まるで仇敵との試合中みたいな迫力で、さまざまなパンチをものすごい速さで繰り出している。

 あまりの勢いにおれはローテーブルの前に座ったまま呆然とするしかなかった。

 そんなノーリアクションに憤りが募ったのか、妹はずれたブラの肩紐をなおし、素肌からボディソープの匂いをぷんぷんさせて威圧的に接近してきた。

 おれの前で腰を落とし、くずし正座になって気色ばんだ顔を近づけてくる。

「お兄ちゃんがこんな悪事を働く人だなんて思わなかった。実妹のパンツを使って汗みずくの身体をよじりながら、ただれた欲望を解放していただなんて。あちし同じひさしの下に住む家族として居た堪れないほど情けないわ。こんなの羞恥の極みよ」

 そこまで言うかと呆れてしまう。あと『ひさし』は違うだろとツッコミを入れるのは面倒なため差し置いた。

「なんだよ藪から棒に。お前のパンツなんて知らないぞ」 

「持って行ったねあちしのパンツ。しかも脱いで間もないシミ付きのやつ」

「シミが付いてるのか?」

「お兄ちゃんが一番よく知ってるクセに!」

「なんでおれが履いてる本人より詳しいんだ」

 こっちの言い分などお構いなしに、膝頭に手をのせて捲くし立ててきた。

「お兄ちゃん、あちしの使用済みのパンツを鼻に押し付けて、シミの香りを嗅覚で堪能しながらドーパミン出しまくったでしょ」

「一度最寄りの病院へ」

「あちしの腰気の匂いを嗅いで一体どんな行為にふけったのか白状して。あっ、そういえばさっきお兄ちゃんの部屋から小刻みに揺れる音がして、あちしの部屋にあったグラスのジュースが短く波打ってたけどあれってまさか……!」

 信じられないものを見るような目をしつつ、手を頬に押し付けて身を引いた。

 おれはあまりの言われっぷりに自分の顔がこわばるのを感じた。

「そこまで響くわけないだろう。お前の作り話に決まってる。あといつまで下着姿でいる気だ」

 するとなぜか妹は淫靡な顔つきに変わって、自身の肩をいやらしく抱き込んだ。しなやかな指がピアノを弾くようにゆっくり動く。

「いいのよ別に。お兄ちゃんがあちしの汚れたパンツで己を慰めていても」

「気色のわるい真似はやめろ」

「きっとこんなことをしたのよ。蕩けきった顔のお兄ちゃんは全裸で四つんばいになってパンツを顔に装着し、生地から発される芳醇な香りに酔いしれつつ妹に想いを馳せ、獣じみた声をあげながらそそり立った陰部を無我夢中で摩擦した!」

「うん、その妄言を最後に立ち去ってくれると嬉しい」

「こんなしがない兄を持ったあちしに暖かな光を!」

 言った途端、十指を組んで天に泣きそうな眼差しを向けた妹は、片膝立ちになって祈りはじめた。

 おれはそんな神々しい妹に辟易しつつ手を広げて制した。

「断じて否だ。おれはお前の下着なんか盗ってないし、ましてやそれを悪用して妹の部屋に振動が伝わるほど激しく自家発電なぞに夢中になった覚えはない」

 矢継ぎ早に喋ったせいで呼吸が苦しくなり、ぜえぜえと息を継いでいると、妹は祈祷をやめて迷惑そうに顔の前で手を左右に振った。

「なんかこの部屋ってタコ臭くない?」 

 例えた魚介の足の数が二本少ないだろ、という訂正は入れずに、立ち上がったおれは妹の手首を握って出入り口を睨む。

「もういいから出てけ。お前とこんなくだらん泥仕合をするつもりはない。なくしたパンツはおれが買ってやるから自分の部屋に帰れ!」

 ドアの位置まで急かしてみたが、妹は掴まれた自身の手首を見やり、まつ毛をふせて卑猥な目になった。

 続いて手首を握ったおれの手の甲をそろそろと撫でさすってくる。

「あちしのパンツを被ったまま、こんなふうに強く握り締めて上下にしごいたのね。それで高まる淫欲をこらえきれず放物線を描いて子種を飛ばした。……ねえ、その撃ち放った汁はちゃんと拭き取ったの? 床にぶちまけたやつが残ってない? まさかあちしが足の裏で踏んでたりしないよね?」

 不安そうに眉を曇らせながら、片足を持ち上げて調べ始めた。

 おれは撫でられた部分から鳥肌が立ちそうだったので、手を荒く離して抗議する。

「床に落としたことなんてない。そもそも出したやつはしっかり拭いてる」

「したの?」

「したよ」

 瞳を大きく見張った妹は、ショックを受けたみたいに口を手で覆った。

「やっぱり……!」

「いや勘違いするな。したと言ってもお前のパンツなんかまかり間違っても用いていない。いつもそれ以外の媒体で処理してる」

「お兄ちゃんも一人でするんだ」

「彼女なんていないしな。まあ昔よりか回数は減ってきたけど、たまにはやるよ」

「あちしのパンツを使って?」

「いやだから人の話を聞こうよ。なんでさっきからそっちの方向へ誘導しようとするんだ」

 話が通じないためおれが頭をかきむしっていると、妹はふざけたように自身の掌をくっつけて波型にゆらした。

 まるでおたまじゃくしの尾っぽの動きのように。

「どこへ消えた、あちしのパンツ」

 歌うように言った妹の手を、軽くはたき落としてやった。

「なくしたパンツはおれが買う。もうそれでいいだろう?」

「ダメ! 一枚こっきりのくまのパンツ。略してくまパン!」

 出した提案が不服だったようだ。妹は両目を鳥の足跡みたいに閉じて荒っぽく地団駄を踏む。

「くまあパン! くまあパン!」

「お前ってその歳でくまプリントのパンツなんか履いてるの?」

「べつにいいじゃん。まだまだ似合うよ!」

 聞くところによると、どうやらその下着は大のお気に入りで、もうそれ一枚しかないらしい。

 そのため代わりがないことで失くした事実に、怒りと悲しみをあらわにしていたんだとか。

「じゃあこうしよう。もう一度洗濯機の中および周辺をよく探して来い。それでもない場合はあらためてお前の話を聞く。どうだ?」

「いやだ」

「ここで水掛け論をしても話は進まないだろうが。もういっぺん探しにさっさと風呂場に行って来いよ。あと早く服を着ないと風邪を引くぞ」

 肩を押して急き立てると、妹は口を尖らせ、不承不承といった感じにきびすを返した。

 こちらに背中を向けた際、おれの目線がとある一か所に留まる。

「……おい。それって何だ?」

 指差した方向に、妹は首だけで振り返って不機嫌そうに見下ろした。そしてお尻の部位を確認して、驚きと焦りのためか目を見開く。

 そこにはプリントされたくまが口をV字にして微笑んでいた。

「あれれ?」

「それってくまだよな? もしかして、今履いてるやつがそうじゃないのか」

 ふり返ったまま身を硬直させている妹の額から、冷汗らしきものがたらたらと流れ始める。

 動揺しているのか黒い目玉がせわしく泳ぎはじめた。

「なぜゆえこんなところに?」

「ということは失くしていたパンツって……」

 汗をぬぐった妹は腑に落ちない様子でしかめっ面になり、眉間に指をあてて推理中の探偵のようなポーズをとる。

 呆れた有様に肩をすくめたおれは、外国人みたいに持ち上げた手をひらひらさせてから、

「お前は着替え用のと勘違いして、洗濯機に入れたやつを二度履きしたんだよ」

 ビシッと指先を向ける。

 妹は自分の落ち度を悟ったのか推理モードを解いてこう一言発した。

「弁解の余地はある……?」

「ありません」

 おれは硬く目を閉じて腕組みをし、きっぱりと断った。まあ疑いが晴れたのであとはどうでもいい。

 ところがおれの胸をドンと突いて、傲慢に足を開いてきた。

「なんだよいきなり」

「もしかしてお兄ちゃんが今しがたあちしの隙をついて、忍者みたいに瞬間的に履かせたんじゃない?」

 ぶっきらぼうな口調で濡れた髪をうしろへ雑に払った。

 そんな支離滅裂な言い分と、開き直った態度におれは厳しく言い放つ。

「いい加減にしろよ。自分のボケをおれの所為にするな」

 怒号を浴びせて大きく足を踏み鳴らしてやった。

 妹は気圧されたように身を引いて焦った顔になる。次いで手が阿修羅のようにばたついた。

「な、なによ。いきなり怒鳴らないでくれる? 大声であちしを脅そうってわけね。調子にのって暴力を振るうつもり? DVD! DVD!」

「どんな理由があってもそんな乱暴なまねはするわけないだろ。あと『D』が一つ多いぞ」

 妹は汗しながらもどうにか反発したいらしく、困惑したように目を瞬かせて口をもごもごさせる。

「やっぱりそうだ! あちしが他所を向いてるあいだ、お兄ちゃんがパンツを履き替えた。もしかしてさっきまでお兄ちゃんが直穿きしてたんじゃないの? 生地がほんのり温かいような……」

「ふざけるな!」

 おれは往生際のわるい妹に再び大声一喝をくらわせた。そして仁王立ちになり相手を見下ろすかたちになる。

 影を受けながら妹は怯えたように身をすくめ頭頂部をかばった。

「お兄ちゃんやめて!」

 涙目で萎縮している妹に、「いいか? 落ち着いてよく聞けよ」とたしなめる。それから、

「あのな。どこに好きこのんで古希を過ぎた婆さんのパンツを盗むヤツがいる?」

 ついでに、「お前今年で何歳になるんだ」と訊ねた。

 妹はしゅんとした目のまま小声で「七十三」と答えた。

 おれは腰に手をあててため息をつく。

「おれは五つ上。つまり今年で七十八歳だ。若い頃と違って性欲なんて尽きかけてるわ。ましてやその対象をどうして七十を超えた高齢の妹になんか向けると思ったんだ?」

 続いて、「歳を考えろ、歳を」と諭してやった。

 頬が赤くなった妹は、ブラとパンツだけの身体を諸手で包むようにかばった。

「べ、別にいいじゃない。年寄りが下着姿で家の中を歩いちゃいけない決まりでもあるの?」

「そんな話はしてないぞ。お前は洗濯用と着替え用のパンツの区別もつかなくなるほど頭がボケてしまったのか」

「頭ははっきりしてるほうよ。このあいだのゲートボール大会では準優勝だったし」

「それとこれとは別だろう? 兄への責任転嫁など見苦しいからやめるんだ。いつまでも少女みたいにはしゃいで、いいかげん自分の歳に自覚を持つようになれ」

「あ、いや。だから……」

 自分の勘違いから起こった出来事に、妹は言葉が継げず、指先をいじってすまなそうに足元へ視線を置く。

 おれはようやく事が収まったと思いまた吐息を漏らした。

 そして沈むような重い沈黙が漂った。

 何も言わなくなった妹は猫背になり、しおしおと廊下に出て自室へと帰っていく……。


 妹を見送ったあと、テーブルに戻って金鍔焼きの残りを食べながら、ぬるくなったお茶をすすっていた。

 まったく世話の焼ける奴だ。部屋でくつろいでいるところに妙な言い掛かりをつけてきて、夕食後の楽しいはずのお茶の時間に水を差されてしまった。

 あんなに騒ぐと、ご近所に迷惑が掛かるかもしれない。まあ、ああいった掛け合いは今に始まったわけではないが、うるさい妹を持つとめんどうなことが少なくないな。

 しかしたった一人のきょうだいの頼みごとだ。むげに断るのはかわいそうだし、たまにはこういうやりとりに付き合うのもいいだろう。

 そんなことを思いつつ茶のおかわりを注ごうとしたとき、ドアがカチャリと開かれ妹が明るく笑顔を咲かせる。

「どうだった?」

 おれは腰にさしていた台本をテーブルに置いた。

 妹はさっきと同じ白の下着姿のままだ。

 もう終わったわけだからバスタオルを巻くかパジャマでも着てもらいたい。

「なかなか良かったでしょ。わたしの書いたシナリオ」 

「これ文化祭で発表できる内容じゃないな。こんなの顧問の教師に提出したらその時点でおとがめを食らうと思うぞ」

 演劇の練習に付き合わされたおれは、そう言って後頭部をかく。

 対面に寝転がった妹はリラックスした様子で天井を眺め、「いちおう出してみるね」と笑った。

 高校に入学して初めての文化祭だから、妹なりに張り切っているのはまあよしとしよう。

 しかし抜けているのかわざとなのか、このシナリオの重要な点について一切ふれようとしない。

 現にクッションを枕にして、組んだ足をぶらぶらさせながらのん気に鼻歌なんかうたってる。

「お兄ちゃんも観に来てね。同じ高校なんだし」

 これは早めに教えておいたほうがいいと思ったので、天井に視線を置いていた妹に声をかけた。

「言っちゃなんだが、お前大事なことを見落としてるな」

 日頃、趣味で小説を書いているおれが改善点を挙げると思ったらしい。

 素早く起き上がって正座になった妹は、尻尾をふる仔犬みたいな目で興味しんしんと見つめてきた。

「なになに? 教えて」

「かなり基本的なことだ」

 妹は頬杖をついて瞬きをくり返した。おれは一呼吸おいて口を開く。

「これって、演劇部が体育館の壇上でやるんだよな?」

「うん」

「この話ってさ。実は兄妹が年配だと思わせるオチなんだろ?」

 コクコクとうなずく妹は、まだおれが言おうとすることに気付かないようだ。

「というコトはお年寄りの格好をして壇上にあがるわけだ。ならば客に登場人物を見られてる時点で、すでにネタバレしているんじゃないか?」

 脚本家兼役者の妹は宙を見て首を傾げていたが、ふいに背筋を伸ばして「あ!」と声を発した。同時に両目が米粒みたいに小さくなって固まってしまう。

 開けていた窓から夜風がさらさらと流れてきた。

 その風はテーブルの上の薄っぺらい台本を飛ばしていった。

 ほどなくしてハッと自失から立ち戻ってきた妹は、拝むような感じに掌を合わせた。そして片眼をつむって口を切ろうとする。

 これから言うセリフが何なのか、おれには予測がついた。


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