第16話 とある帰りに交わした約束
民家の並ぶ住宅街。
やけたアスファルトの陽炎の向こうから、スモック姿の女児が走ってきた。
栗色がかった髪をはずませ元気に両腕を振って、目的地を目指している。
べつに誰かに追われているというわけではなく、単にお腹を空かせているから自宅へ帰る途中である。
今朝はふりかけごはんだけだったから空腹になるのが早い。
小柄な女児は空を見ながら昼ごはんに思いを馳せていた。
今日はレトルトカレーだ。でも本当は大好きなナポリタンが食べたい。ママ得意のナポリタン。
しかしカレーもけっこう好みだ。そういえば白米が多めに余っていた日に作ってくれた、ちらし寿司もおいしかったな。
そんな感じのことを考えていたら、空に浮かぶ雲がだんだんシュークリームに見えてきた。
いやあれはバターたっぷりのクロワッサンに見えなくもない。食後にあんなデザートがあればいい。
女児――カナコは、流れるヨダレを一度そででぬぐって足を速めた。頭の中は食べ物のことでいっぱいだ。
いくらか帰路を進んだ時、ふと視界のすみに何か小さいものが映る。気になったのでカカトで急ブレーキをかけて方向転換した。
道路に何かが落ちていた……。
カナコは目当ての物の近くでストンとしゃがみ、首を下げてまじまじと見た。
いったいこれはなんでしょと瞳を大きくさせる。
そこにはセミが一匹、腹を天に向けて動かなくなっていた。足を縮めて微動だにしない。試しに指先でつついてみると、小船みたいに左右へ揺れるだけだった。
カナコはおもてを上げて道の前後を見た。
日頃から人通りの少ない道路であるためか、今のところ誰も通らない。
これからどうすればいいか思いつき、そっと両手でセミをすくい上げた。
立ってあたりに首を巡らせる。近くに空き地があるのを発見して、そこへ小走りで向かい、敷地の端で腰を下ろした。
指先をスコップ代わりにして地面をがつがつ掘った。ほどなくしてセミを土へと埋葬し、目を閉じて粛々と手を合わせる。
どうか天国へ行ってください。あとできれば今度は人間に生まれ変わってわたしの友達になってください。
……そんなことを脳裏でつぶやいていると、背後から伸びてきた影が女児の背中を覆う。
誰かが近づいてきたらしい。はたと気付いたカナコは合掌したまま首だけで振りあおぐ。
「見ていましたよ。一部始終を」
知らない男性だった。
青白く能面みたいに無表情……。しかもまだ九月の始めなのに、生地の分厚そうな黒いロングコートをまとっていた。
頭にはこれまた黒い丸帽子をかぶって自身の目元を翳らしている。逆光のためもあってか歳はよく分からなかった。二十代に見えるし三、四十代にも見える。
まっすぐそびえ立つ男から不穏な気配が漂っていたが、女児は特に警戒することなくぼんやりとした目で見上げた。
男の後ろに広がる空は青かった。飛行機がゆっくりと尾を引いていく。
「突然のことで申し訳ない。少しだけ私の話を聞いて欲しいのです。どうしてもあなたに伝えたいことがありまして」
何の用だろうと、カナコはのんびりと立ち上がっておじさんを正面にした。
そして遅まきながら身体を折ってあいさつをする。母親と幼稚園の先生からそうしろと教わったためだ。
彼の表情がいくぶん柔らかくなった。
「あなたのような素晴らしい子に出会ったのは初めてです。私は今、あなたがとった行為にとても感動しています」
いきなり感極まったみたいに目を閉じ、口を結んで動かなくなった。
まるで溢れる涙をこらえているように見える。言われたカナコは何のことだか分からず鼻水を垂らした。
次いで男はエスコートするように手を後ろに伸べて、言葉を発した。
「良ければこれから私と一緒に来ませんか。是非ともあなたにお礼がしたいのです」
どうやらこの人は自分に感謝をしているらしい。
カナコはお礼という言葉からそう連想したが、とたんにママの厳しく叱る顔が脳裏に浮かぶ。
『もう二度と、知らない人について行っちゃいけませんヨ!』
以前デパートへ買い物に行ったとき、警備員の立ち並ぶ部屋でそう言われたことがある。
ママは一本指を立てて戒める顔つきをしていた。
過去をふり返ったカナコは眉を八の字に下げた。つづいて男を見ながら困った目でかぶりを振る。行くことはできないという意思表示。
「そうなのですか。それはとても残念です。確かにあなたにもご都合はあるようですね。しかしこのまま立ち去るのはとても心残りです。何かいい方法があればいいのですが……」
男は思案するように肘を持ってあごを撫ではじめた。ややあってから何かを思いついた感じにポンと手を打つ。
「じゃあこうしましょう。今から私はあなたにプレゼントを持ってきます。あなたはただここで待っているだけでいいのです。……いかがでしょう?」
プレゼントと聞いて瞳に星つぶが宿ったのは一瞬のことで、知らない人から物をもらっていいのか疑問に思った。
女児は考えながら口をポカンとあけて空を見上げた。
大事な母親をこれ以上心配させたくない。かといってせっかくの好意を断るのも憚るものがある。
さてどちらを選べばよいものか。
天秤のお皿にそれぞれを載せて比べてみたが、どっちをとっていいのかすぐに判断がつかない。早く返事をしないと相手を待たせてしまう。
おじさんを前にして、カナコはぼけっと雲の流れを見ているようだが頭はしっかりと働いていた。
しかし考え事は得意ではなかったので今度は反対側の穴から鼻水が出た。
試しに何をもらえるのか訊いてみると、「今あなたが一番もとめているものです」と答えた。
もとめているもの……。もとめているもの……。そういえばさっきからお腹の減りは募るばかり。
早く家に帰ってごはんにしたいところ。今食べたいもの。カレー。シュークリーム。ちらし寿司……。
「ナポリタン!」
指を口元にあてていたカナコは陽気な声で発した。
いきなりのことで男は意味を量りかねたのか、虚を突かれたような顔で首を傾げる。しかし時間を少し経て、女児の言い分を把握したように口だけで小さく笑った。
「わかりました。よほどそれが好物のようですね」
その通りと言わんばかり何度も元気にうなずく。
カナコの頭の中はナポリタンに占領されていた。本当に食べられるのかと期待で胸がふくらみ、わくわくした気持ちを隠しきれなかった。
そんな想いを抱きつつ、血色のいい肌をしながら相手を見つめつづけた。
男はコートの裾をひるがえして、「ここで待っていてくださいね」と念を押す。それから道路の先の陽炎に溶け込んでいった……。
ただ待つのも退屈だったため、石に腰掛けてアリの行列でも眺めることにした。
アリたちはひとかたまりになって獲物を担いでいる。
虫の死骸を神輿のように運んでいくさまを、カナコはしげしげと見下ろしていた。
あれをみんなで協力して巣まで運んでごはんにするのだろう。ひとつの食べ物をみんなで揃って食べるのはきっと楽しいだろうな。
観察しながら、そういえば自分はまだお昼を食べていないことを思い出した。カナコはなんとなく腰を浮かせて座りなおす。拍子にお腹がぐーっと鳴った。
アリの観察を終えて道路に視線をやったが、さきほどから誰も通らない状態が続いている。
カナコは瞬きしたあと息を吸い込んで、『幸せなら手をたたこう』を口ずさんだ。
唄に合わせてリズムよく手を叩いていると、退屈な気分が和らいでくる。
幼稚園の先生が以前、「これは幸せな時の唄だけど、元気を出したい時にも口ずさんでいいのよ」と、そう勧めてくれたからだった。
ひと通り唄い終わって周囲に目線を一巡させた。
コートの男はまだ戻ってくる気配がない。ここに来てどのくらい時間が経ったのだろう。女児の空腹感は増してゆく。
けれど、くれると言っていたプレゼントが気になるし、そもそも待つと約束したわけだからここを離れるわけにはいかない。
カナコはそう思いながら、てのひらでお腹をさすって、「もうちょっと待っててね」とつぶやいた。
そして背筋をぴんと伸ばし、男の帰りを気長に待つことにした。
時間は無常に過ぎていった。
太陽は西へと傾き、空はだんだん茜色に染まっていく。いつのまにか微睡んでいたカナコはふと目を覚ました。
まぶたを擦ったあと、慌てて周囲をキョロキョロする。
空き地には他に誰もいなかった。
待ち人来たらずの状況に、重いため息をついた。続いて夕日で焼けた雲がから揚げに見えたために、またお腹の虫が鳴ってしまう。
遠ざかっていくカラスの群れと、ヒグラシの切ない鳴き声がさらに女児の心を締めつけた。
背中を丸めたまま、しゅんと肩を下げて、男が来るであろう道のほうへ悲しげな視線を向けている。
あのおじさんはどうしたのだろう。
家に着くなり自分のことなど忘れてテレビでも観ているのだろうか。それとも何か用事ができて手が離せなくなっているのだろうか。
そんなふうに考えていたら突如、心に恐怖が走って女児の目が深刻なものに変わった。
……もしかして、プレゼントを取りに行く途中、交通事故にあって今頃……。
これ以上想像してはいけないと思い、カナコは首を激しく横に振って、余計な考えを払った。
太陽はもうすでに山稜の向こうに隠れている。
東の空から濃紺のとばりが降りてきて、星がいくつか瞬きはじめた。カナコは退屈しのぎにやつれた目で星を数えだす。
指を向けてひとつ、ふたつ。……そうしていると、だんだん暮色の空が滲んできて星がいくつあるのかよく見えなくなった。
視界は過剰な水分に覆われてしまった。
待っても人は来ない、かといって帰るわけにもいかない。そんな進退きわまる状況に置かれてしまい、カナコは寂しさのあまり膝を抱きすくめた。
顔を隠したまま、ひとり背中を震わせる。しゃくるような短い呼吸をくり返し、何度も洟をすすった。
冷えた夜風の吹く空き地に、ぽつんと小さな孤独が漂っている。
その時だった。薄暗いなか、どこからかサンダルの忙しい足音が聞こえてきた。
それは何かを探しているように時おり立ち止まり、また慌てたように駆け出した。
聞き覚えのある足音にカナコは思わず赤くなった鼻を上げる。目が左右にせわしなく揺れた。
女性の声が何かを叫んでいた。明らかに懸命な声音で誰かを呼んでいるところだ。
カナコはそれが自分の名前だと分かって、同時に負けないくらいの声で呼び返した。
「ママぁ!」
女児のすがる声はすぐに相手に聞き届けられた。
「カナコ!」
道路のほうからエプロン姿で、今にも泣きそうになっている母親が現れた。
カナコがふらつきながら立ち上がって両手を差し伸べると、走って来た母親にすぐ持ち上げられた。
「こんな所で何をやっていたの? なかなか帰って来ないからずっと探していたのよ」
心配していたことを表すように強く胸へ抱き込まれる。母親の身体から優しい匂いがした。
いい香りに包まれたことで安堵し、カナコのまぶたから大粒の涙がこぼれていく。それから何度も母を呼び、濡れた顔で精一杯ほおずりをした。
――あれから八年が経った。
隣町へ引っ越したカナコは今年で中学生になり、今日はセーラー服姿で自転車を漕いでいた。
夏休みの部活でバレーの対外試合があったために、昔住んでいた地域からの帰りだった。
途中、カナコはふと気になった場所でブレーキをかけて足をついた。そこにはあの頃と同じ空き地があった。
そういえばまだ幼かった頃、ここで不思議な人と待ち合わせをしたことがある。あのおじさんはいったい何者だったのだろう。
懐かしさに誘われたカナコは自転車のスタンドをかけた。
それからセミのお墓を作ったところまで歩を進めた。
土を盛ったと記憶している位置で、スカートに手を添えて腰を落とす。
セミの合唱を聞きながらその位置を見つめていると、昔ここであった出来事が蘇ってくる。
あの日――。病院からの帰り道で、セミのなきがらを見つけお墓を作った。
そしてふいに現れた男との約束を守って帰りを待った。でも、結局あのおじさんはここに帰ってこなかった。
帰ってこなかったけど――。約束はきちんと守ってくれた。
あの時どれほど嬉しかったか今でもよく覚えている。
『あなたが一番もとめているもの』。彼の言うとおり確かにそれはカナコのもとに戻ってきた。
今頃きっと台所で鼻歌でもうたいながらナポリタンを作っているだろう。フライパンを手に彼女の帰宅を待っているはず。
幼い頃、カナコの母親は身体が弱く入退院をくり返していた。あの日、男と待ち合わせたときも母親は病院のベッドで病に伏していた。
それがどういうわけか、体調は全快しカナコに逢いたい一心で自宅に帰って来たという。
しかし娘の不在を知って、それが心配になりそこかしこを探し回っていたんだとか。
あれ以来、身体の弱かった母は入退院をくり返すことなく、健康そのものになった。
おかげで見舞いに行く必要はなくなり、食事もふりかけやレトルトだけで済ますこともなくなった。
回想から戻ったカナコは、お墓だったところを見つめながらそっと手を合わせて目を閉じる。
ほどなくして瞼を開いてゆっくりと立ち上がった。セミは相変わらず賑やかに合唱を続けている。
午後の陽射しを受けつつ、カナコは手でひさしを作って顔をあお向けた。青空に浮かぶ雲がもう食べ物に見えることはなかった。
それからスカートをひるがえして自転車のほうへと進む。
戻る途中、一度お墓にふり返って、「まさかね」と柔らかく微笑んだ。
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