第15話 君ありて幸福
深夜も零時を過ぎた頃。おれは電気スタンドの灯りの中、とある作業に没頭していた。
大学の学部とは畑違いな作業だった。そのためパソコンの画面から専用サイトを見つつ、注意を怠らぬよう手を動かしていく。
このペースでいけばあと少しで完成するだろう。
慣れない仕事だったがなんとか期限まで間に合いそうだ。
数週前から取り掛かり、ようやく終わりが見えてきたことにいくぶん安心感がやってきた。しかし最後まで気を抜かず一つ一つ慎重に進める。
油断して指先の動きをミスるわけにはいかない。手堅くいかないとおれ自身が痛い目に遭ってしまうからだ。
静寂とした薄暗い自室で、機械的に打ち込むおれの後ろ姿は傍目から見てどう映るだろうか……。
その時、背後にあるドアがノックされた。
急な物音におれは一瞬肩をすくめる。こんな時間にいったい誰だろう。
不審に思いながら、恐るおそる「はい」と返事をしてみた。
「お兄ちゃん。わたし……」
夜も遅いことに気を使っているのか、その声はやや遠慮がちな色を帯びていた。
おれはすでにベッドで眠っているのを偽装するため、じっと息を殺して様子をうかがう。
「まだ起きてるんでしょう? 灯り、ちょっと漏れてるけど」
微笑を含んだ物言いだった。おれは散らかった机を見やり、のどを一度ゴクリと鳴らした。
しばらく重い沈黙がただよった。
そのまま踵を返して離れてくれることを物音立てずに念じた。
だが相手は離れるどころか、応答のない模様に痺れを切らしたらしく、ドアノブをカチャリと回してくる。
「待って!」
おれは咄嗟に椅子から立ち上がり、向こうから見えもしないのに手を伸ばして制した。
切羽詰った言い方に気圧されたのだろう。
ノブから手を離して、身を一歩引いた感じがした。
「ねえ。中に入れてよー」
「だめだ」
足早に進み、開けられないようノブを強く握り締める。いくら甘えた口調で頼まれても部屋に入れるわけにはいかない。
おれはドアの平面に顔を寄せ、「何か用?」と声を低くして訊ねてみた。
その対応の悪さが気に障ったのか、相手はぶすけたように短く唸る。
「もう。どうして開けてくれないのよ」
「今とりこみ中だよ。論文の作成に集中してたんだ。来年は卒業だから何かと忙しいんだよ」
「そっか。お兄ちゃんも来年からは社会人だもんね」
幼少期から現在までの暮らしをふり返ったみたいに、のん気そうな声でしみじみと相槌を打ってきた。
どうやら即製のウソは見抜かれなかったようだ。
「お兄ちゃん、ほんと大変そうだね。さっきも慌てて走ってくる音がしたし、何かわたしに手伝える用事ってあるかな」
「いや。特には」
「雑用とか引き受けようか? 資料の整理ならわたしにもできるかもしれないし」
「一人でやりたいんだ」
あまりしつこく食い下がって来られると迷惑なので、相手の意向をはばからずあっさり断じてやった。
「じゃあ、わたしがいると邪魔になるかな」
まったくもってその通りなので早く立ち去ってくれと願う。
だがそんな態度をあまり表面に出すと、機嫌を損ねて長居されてしまうおそれがある。
よって気配り含めてやんわりと促すことにした。
「わるいんだけどもうこの辺にしてくれないか? まだ論文を書くのに集中したいし、終わったら睡眠だってとっておきたいんだよ。明日も講義はあるからさ。正直一分一秒が惜しいんだ」
少し冷たい語調になったかも知れない。
現に彼女はいくらか気を落としたようだ。口を噤んだようにしてひっそりとたたずんでいる。
おれは平静を装いながらも、頭の中で何度も消えてくれと願った。
鼓動は早まり、握った手にはじっとりと汗がにじんでいる。
ドアを見つめる今のおれはおそらく表情が堅く、鋭い目つきをしているはずだ。
そもそもいったいどんな用向きでこの部屋に来たのだろう。
さりげなく声に出して訊ねてみると、相手は変わらず押し黙ったまま、何かしらを考えあぐねている様子だった。
おれは繰り返し問い掛けず、相手と同じようにただ無言に徹して反応を待つ。
いくらか呼吸したのち、彼女の寂しそうな声音が聞こえてきた。
「……ねえお兄ちゃん。今日、覚えてる?」
ずっと気に掛けていたことをようやく口にしたのか、その言葉には表しがたい重みがあった。
ふいに部屋の窓ガラスに夜風があたってわずかな音をたてた。
おれは息を深く入れなおしてその質問に答えると、彼女はそれなりに納得した感じで、「わかった」と小さく返事をこぼした。
その後もおれは、ただひたすら相手が遠ざかってくれるのを待ち続けた。
するうち、「じゃあ、そろそろいくね」と後ろ髪を引かれるようにして、ドアの向こうからそっと気配を消す……。
……どのくらい耳をあてていたのだろう。
確実にいなくなったことを調べるため、慎重にドアノブを回してみた。
隙間から廊下をうかがったあと、顔だけ出して誰一人いない模様を確かめる。
周りはしんと静まり返っていた。どうやら本当に行ったらしい。
何事もなく済んだことに安堵し、壁にもたれて大きく息をついた。
もしもさっきドアを開けられていたら……と思うと、胸中に襲ってくる焦りを抑え切れなかった。
現在、おれは父と母との三人暮らし。
先ほど女性の声で何度も『お兄ちゃん』などと呼ばれたが、この家に妹はいない。
夜が明けて朝になった。
部屋で着替えを済ませたおれは、眠気眼をこすりながら一階に下りて洗面台に向かう。
そのあと線香のかおりが残る和室に立ち入った。
仏壇の前で正座をしてから少し間を置き、りんを鳴らした。
高い音色が響くさなか、遺影を見つめてゆっくりとまぶたを閉じ、おもむろに手を合わせてじっくり拝む。
毎日、顔を洗って歯を磨いたあとの習慣にしている。亡くなってからほとんど欠かした日はない。
父も母も、一日の始まりには同じことをしてから支度に入る。
ダイニングに向かう途中の一室には、場所を占めるほどに色んなぬいぐるみが置かれていた。
机や椅子、棚の上など、さながら雑多な動物園のようだ。愛嬌のある顔をしたそれらはおれの物ではない。
あれはいつ頃だったろう……。確かおれがまだ小学生になる前の思い出だ。
父に連れられて一緒にデパートに買い物へ行ったとき、種々様々なぬいぐるみがおもちゃコーナーに飾られていた。
その中にあった一体に彼女は目をつけた。太くて幅広なウサギのやつに視線を据え、指先をくわえたまま物欲しそうに見上げていた。
見るだけでは我慢がならなかったのか、いきなり指を向けて、「とってとって」と可愛い調子でせがんできた。
Tシャツの裾まで引かれたおれは、ぬいぐるみの脇をとって渡してやる。
すると彼女は瞳を輝かせ、手にするなりその場をくるくる回りはじめた。
そして鼻先を指でつついたり、人目もはばからず気持ち良さそうに頬ずりしていた。
よほど彼女の心を捉えたようだ。あの日の出会いをきっかけに、ぬいぐるみ集めをするようになった――。
残念ながら初めて買ったお気に入りのウサギは、もうこの部屋にはいない。
親戚の子が遊びにきた際、どうしても欲しいと熱望してきたので彼女がプレゼントしてしまった。
廊下に足先を向けたおれは、過去の記憶から離れてダイニングに入った。
テーブルには朝食がならび、新聞紙を開いた父が難しい面持ちで椅子に座っている。
エプロンをかけた母が、お皿を両手にキッチンから姿を見せ、「おはよう」と告げてきた。
ガラス窓の向こうの庭では、綺麗に手入れされた草花たちが日光をうけて瑞々しく輝いている。
プランターにはパプリカやえんどう豆、イチゴなどの野菜が実っていた。ガーデニングは母の趣味だ。
おれは挨拶もそこそこに父の対面に座ってあくびを広げる。食器を置いた母が心配そうな顔で覗き込んできた。
「大丈夫? なんだか眠そうじゃない。昨日は遅くまで起きてたの?」
「うん。まあそんなところ」
おれは加熱中のトースターをぼーっと眺めながら質素に答えた。母はまたキッチンに入って今度はサラダか何かを盛り付けはじめた。
ふと思い出したことがあったので話しかけてみた。
「そうだ。今日うちに誰か来なかった?」
「ん? 今朝は六時ごろから起きていたけど、誰も来てないわよ」
母はミニトマトをつまんだ手を止めてこっちを見ている。
「どなたか家を訪ねてくる予定なの?」
「いや別に」
おれはすげなく返事をして、テレビのほうへ視線を転じた。
画面ではニュースが報じられている。どうやらどこかの一人娘が家族を惨殺したという……。そんなとんでもない事件を、キャスターが緊張感をおびた目で伝えていた。
ここ最近こういったぶっそうな事件が多い。殺害に至るまでにいったい親子間でどんなやりとりがあったのか……。
まあうちの家庭はいつも円満だから一応は対岸の火事、無関係ってことになる。父と母はたいそう仲が良く、いろんな面で相性がいい。
笑ったり泣いたりするツボがほとんど一緒で、二人で足りない部分を自然と補い合い、他人目にも仲睦まじく日々順調に暮らしている仲だ。
喧嘩をする日はあっても、翌日にはけろっと忘れて何事もなかったように普段どおりの会話をしている。
そんなことに意識を向けていたら突然、トースターからきつね色の食パンが飛び出した。
ほどよい焼き加減のそれをとり、イチゴジャムの瓶にスプーンを入れる。
部屋の時計を一瞥して、そろそろかな……と脳中で独りごちた。するとタイミングよく玄関のチャイムが鳴らされる。
キッチンで手を洗っていた母が、「はいはい」と忙しそうにスリッパの音をたてて、壁掛けの受話器をとった。
ややあってから玄関のほうへ小走りで向かった母を、おれは特に気に留めないふりをして見送った。
ところで父はなぜ、さっきから開いた新聞に目をやったままなのか。
いつもなら母と朝の会話に興じているのだが、今日に限ってどうしてか口数が少なそうな様子。
食パンを噛んでなんとなく眺めていたら、こっちの目線に気付いたらしく、父が狼狽したように新聞から顔を上げて口を切った。
「おい! これを見てみろ」
「どうしたんだよ。いきなり」
興奮した物言いだったので何があったのか首を傾げた。
よほど深刻な記事でもあったのだろうか。父が震える手で新聞紙を渡してきたので、不思議に思いながらも受け取った。
食事と父とのやりとりを早々に終えて、カバンを取りに自室へ戻った。
準備を済ませて開け放したドアに向かおうとした際、ふとローテーブルに立てたカレンダーが視界に入る。
今日の日付をじっと見ていたら、だんだん懐かしい気持ちが胸に広がってきた。
そんな思いに駆られた影響で、勉強机の一番下の引き出しをあけてみた。
手を入れて奥のほうから一通の手紙を取り出す。
折りたたんでいた便箋をひらくと、差出人から直接受けとった日の記憶が呼び起こされた。
……そう、あれはちょうど今から四年前。彼女が十六歳を迎えた日の夕暮れだった。
おれが大学に入った年の出来事だ。
帰宅するなり、それを門口で待ちうけていたらしく、制服姿の彼女が一人で立っていた。
そしていつになく真摯な表情で、いきなりこの手紙を突きつけてきた。
「家に帰ってお疲れのところわるいんだけど、これを一人で読んでほしいの」
「なんだよ突然、学校からもどってこんな場所でずっと待ってたのか?」
「とても大事な話だから、お願い。お兄ちゃん」
「ちょっと、おい」
何のことか状況がつかめずうろたえていた矢先、彼女はふり向きもせず自宅へ駆けだして行く。
門口にぽつねんと取り残されたおれは、眉をひそめたまま封筒から抜いた便箋に目を通した。
『お兄ちゃんへ。
急にこんな話をしてごめんなさい。実は今日お兄ちゃんに告白したいことがあります』
こういった出だしで、彼女の想いが丁寧な文字で綴られていた。
物心のついた頃からよくいっしょに遊んだ仲だった。年齢は二つ離れていてもお互いの人となりは知り得ている。
小さい頃はいつも人の良さそうな顔で、誰に対しても分け隔てなくにこにこと笑っていた。
幼稚園や学校を共に通い、楽しいことがあれば笑いあって、時には泣いたり泣かせたりもした。
活発で物事に積極的な性格で、スポーツはさほど得意ではなかったけど、それ以外の学業の成績はたいへん良かった。
彼女は高校生になっても小柄なほうだったが、背筋を伸ばして姿勢が良く、ショートボブの髪を揺らせながらきびきびと歩く姿が印象的だった。
少女期に入ると常に聡明さを体現している女の子だったが、ふいに後ろから軽く「ワッ」と驚かせると、目を一瞬仔猫のように丸くさせたのち、片頬を膨らませてじゃれるようにコブシでぽかぽか叩いてくる。そういう一面もあった。
今まで彼女が手書きの文章を寄越してきたことは何度もある。
しかしそれは年毎のクリスマスや誕生日のメッセージカードくらい。他には幼稚園で書いた解読不能な文字列とかだ。
なのにこんな誠実さのある手紙を渡されたのは、この日が初めてだった。
夕焼け空の下、おれは何か悪い予感めいたものを感じながら続きを読んでいた。
『本当は直接、お兄ちゃんを前にして伝えるべき話だったかもしれません。
結論から言えば、これは不治の病だと思います。
その名の通り、死ぬまでつづくでしょう。
わたしのパパやママにこの病について話したとき、とり乱した様子で、ママはハンカチを目にあてて涙し、パパは立ち上がって近くの壁を見つめたまま、厳しい顔つきをしていました。
わたしはとうぜん謝りました。こんなことになってしまい、とても申し訳なく思っていると。
一人っ子であるため、パパもママもこれまでわたしを人並み以上に大切にしてくれました。
今まで愛情をもって育ててきた娘に、こんな事態が起ころうとは相当ショックだったようです。
だけど毎日一緒に暮らしている家族なので、兆候はうすうす感じていたと、二人は重苦しい雰囲気で話していました』
彼女の両親と同様、おれも前触れは感じていた。相手が幼なじみなゆえ、何度も家に来ていたから気付かないわけがない。
まだ続きはあるが、あの時、おれは手紙を読み終えるなり、門口を飛び出して彼女に会いに行った。
隣家なので、もちろんたいした距離ではない。彼女はバツのわるそうな顔で玄関から出てきた。言うに明日、退学願を出すつもりだという……。
おれは手紙の内容を問い質した。
事態が事態なために自然うろたえ、興奮した口ぶりとなった。彼女は視線を落として時折、すまなそうな上目遣いで答えていた。
責め言葉をいくつか口に出したおれは、ある程度のところで自身の間違いを悟った。
彼女が悪いわけではない。悪いのは病魔のほうだ。彼女を責めるのは、まるで弱った身体にムチを打つようなもの……。
おれは向ける矛先が違うことを反省し、ややあってから「よく聞いてほしい」と前置きした。
「今は自分の未来だけを考えろ。苦労はあるだろうが、何があってもおれはずっと味方で居続ける。だからこれからみんなで協力して頑張っていこう」
戸惑う彼女の両肩をとって伝えると、いきなり堰を切ったように泣きはじめた。顔を押さえて嗚咽を上げ、何度も「ごめんね」と謝ってくる。
おれも目頭が熱くなってきた。鼻の奥がツンと痛くなって、まぶたからこみ上げてくるものがあった。
天を仰ぎ、溢れ出したものをぐっとこらえる。
秋の夕空は打ち震えそうなほど茜色に染まっていた。
ずっと彼女のことが好きだった。いつか恋人にできたらいいなと想い続けてきた。
なのに、こんな形で失ってしまうとは……。
彼女はおれの気持ちを知っていたからこそ、こういう手紙をしたためたのだ……。
――おれは目線を手紙から、部屋のローテーブルのカレンダーに移した。
今日は、彼女の二十回目の誕生日だ。贈るプレゼントは準備してある。
ゆうべ自室で一人、最後の仕上げに専念していたやつだ。おれは机を散らかしつつ、ウサギのぬいぐるみを懸命に縫っていた。
無事に完成して、今はプレゼント用の包装紙でラッピングして押入れに仕舞ってある。
しかし手製のぬいぐるみなんて笑われるだろうか。
当初は店で売っている物を買おうとしていたが、十五年くらい前のモデルのため、どこを探しても新品は見つからなかった。
東奔西走したおれは足を棒にして途方にくれた。しかし一筋の光明が射し込んできた。そうだ、自分で作ればいいんだ……。
慣れない針仕事に悪戦苦闘しながら、二十歳という節目の記念もあって、机に裁縫道具をならべて張り切った。
過去の記憶を頼りになんとか似通ったぬいぐるみに仕上がったものの、所詮は不慣れな技術で作ったから既製品と比べて劣ると思う。
出来はいまいちだろうが、それなりに同じようなウサギなのでたぶん喜んでくれる。
「おーい。早く下りて来いよ」
唐突な呼びかけに意識が戻された。
おれはカレンダーから目を離して耳をかたむけた。
「部屋で何をやってるんだ? まったく今日はほんとめでたい日だな。お前もそう思うだろう?」
父はまだ自慢話をしたいらしく、階下から楽しげな口調でおれを呼んでいる。
さっき新聞のページを見せられさんざん聞かされた。長引きそうな様子にうんざりしたおれは早々に部屋へ引き上げてきたのだ。
たぶんあの新聞は、ひと通り見せびらかしたあと、自分の部屋で大切に保管するつもりだろう。
父は新聞の投稿欄に文書を送るのを趣味にしている。
今朝も報じられていたような、近頃世間を賑わせている殺人事件をテ-マにして書いたら、この度ようやく採用された。
食卓で父は陽気に紙面をかかげて、愉快そうにからからと笑っていた。
四十二歳、会社員のささやかな楽しみである。
おそらく今頃、母にその被害が及んでいると思う。父の名誉と誇りがにぎにぎしくダイニングを満たしているだろう。
おれは「あとで行くよ」と返してから、手紙の最後を読んだ。
『でも、わたしは後悔していません。先ほど死ぬまでつづく病と書きましたが、これはむしろ永久につづくと思います。
今回の話は私個人の意志ではありません。お互いじっくり話し合ってから、出した答えなのです。
わたしはお兄ちゃんといっしょに三人で暮らせる日を待ち望んでいます。
どうぞ今後ともよろしくね』
あのあと彼女は周りの人々から何度も説得されて、せめて高校くらいは出ておけと勧められた。
よって彼女はそこだけは妥協して大人しく卒業式まで待った。
実母はおれを産んだときに亡くなった。もともと身体が弱く病気がちだったらしい。
そのため男二人の生活は杜撰なものだった。部屋のそこかしこが散らかり、台所は特に無残な有様。
食事もインスタントが多く、とてもまともにやりくりができていない。
それを見かねた彼女が幼い頃から合間を縫って、足まめに家事をしにやってきた。
そういう生活様式を改善するために決意した部分はあったようだ。
もちろん根本的には、好きな人と結ばれたい希望が強かったと、彼女は話していた。
――おれは読み終わった手紙を封筒に入れ、机の引き出しに戻した。
廊下から足音が聞こえたので、ゆっくりとふり返ってみた。
入り口にはエプロン姿の母が立っていた。
大きな花束を抱え、香りをかぐように鼻を寄せて、にっこりと嬉しそうな顔を綻ばせている。
「こんな朝にいきなり届いたから、びっくりしちゃった」
先ほどチャイムを鳴らしたのはやはり配達員だったようだ。
おれが日時を指定して贈った、赤いゼラニウムの混ざった色とりどりの花束。
母がまだ何かを言おうとしたが、先におれが切り出した。
「プレゼントはそれだけじゃないんだ。実はもうひとつ用意してある」
おれは後ろにある押入れをちらりと見やって、
「そっちは夕飯のときに渡すから、まあ楽しみにしててよ」
言うなり照れくさくなって顔面がほっこり熱くなってきた。
こっちを見つめていた母は、小柄な身体を傾けてあどけなく笑う。
揺れたショートボブに朝陽が反射して艶やかにきらめいた。
「ありがとうね。お兄ちゃん」
そこには昔と変わらない笑顔があった。
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