第12話 落し物


 深夜徘徊が趣味になったのはここ最近のことである。

 コンビニまで向かい、適当にジュースや食べ物を買って自宅に戻るだけの散歩みたいなもの。

 その日の気分によって歩く距離は変える。

 今夜はいつもとそう変わらぬ気分だったが、ここ最近運動不足であったため、迷わないよう気をつけながら慣れない道を選んで進んだ。

 空を仰ぐとすらりと細い月が浮かんでいた。

 陽の明るいうちとは違い、住宅街には誰一人として見あたらない。

 森閑とした空気を鼻から吸い込むと、やや湿った夜の匂いがした。

 外灯が途切れた塀の上から気配を感じ、首を動かせば猫が目を光らせてこっちを注視している。

 たまに巡回中のパトカーが通っているのが見え、何か悪いことをしているわけではないのに、公園の茂みや電柱の陰に身を隠し過ぎ去るまでやり過ごす。

 そうこうしながら自宅を出て三十分ほど歩いた時だった。

 前方の、灯りの乏しいマンションの出入り口付近で、誰かがうずくまっているのが見えた。

 ある程度近づいてわかった。

 スーツ姿の男だった。

 背中と後頭部しか見えないが、おそらく二十代か三十代くらい。

 歩を進めつつ腕時計に目を移せば、時刻は二時半を指している。

 こんな夜遅くにあの人は何をやっているのだろう……。

 怪しい気持ちが胸にじわじわやってきて、自然と目を細めて警戒してしまう。

 とは言っても自分は人のことを言える立場ではないのだが。

 そしてちょうど真横まで来た時、男が独り言をぶつぶつ零しているのが聞こえてきた。

「眼鏡。眼鏡……」

 絶望の間際のような切羽詰った声音だった。

 身を落としたままの男は両手であちこち地面を撫でている。

 どうやら一人で探し物をしているらしい。

 しかもその対象は彼の言葉から察するに眼鏡のよう。

 もしかして夜の遅くまで残業か飲み会でもして、うっかり眼鏡を落とし、なくしてしまったのだろうか。

 そう見当をつけてすでに立ち止まった状態で、哀れに映る男の後姿を眺めていた。

「すみません……」

 急に呼びかけられた。しかも相手は地面を見下ろし手探りを続けたままで。

 どうも足音からこっちの存在に気付いたようだ。

 夜のしんとした静かな場所であったから、まあ気付かないのも変な話だろう。

 探し物に夢中になって他にものに意識を向ける余裕などないように見えたのに……と、少々不気味なものを感じた。

「すみません……」

 男の姿をじっと凝視して返事をせずにいたら、再度声がかかった。

 無視するのもおかしいので、周りに誰もいないのを確認して口を開く。

「はい。なんでしょう」

「探すのを手伝ってくれませんか。どうしても見つからないのです。お願いします」

 嘆くような声で男が頼み込んでくる。相変わらず背をこっちに向けて両手を動かしながら。

 薄気味悪く感じたが、よほど困っているらしいので、聞こえないようにため息をこぼして近づいた。

「どのあたりに落としたんですか」

「わかりません。たぶんここらだと思うのですが、急に見えなくなって……」

 悲しげな声が途切れていった。

 どうやらこの男はかなりの近視なのだろう。

 自分も眼鏡をかけているから分かるけど、確かに歩行中に何らかの原因で眼鏡を落とせば、どこへ行ったのか一時的に分からなくなる場合がある。

 彼とはやや離れた位置で腰を落とし、同じような体勢になり、付近を一渡り眺めてみた。

 だが灯りの少ないコンクリートの地面のどこにも、それらしき物がある様子はない。

「眼鏡。眼鏡……」

「あの、本当にここらに落としたんですか? 眼鏡なんてないみたいですけど」

「眼鏡。眼鏡……」

 男は質問したのが聞こえなかったみたいにして、まるで何かに憑依された態で首を左右に動かし、忙しく手を滑らせている。

 ちょっとアレな人だろうか。

 それとも一担ぎする目論見のイタズラなのか。

 訝しく思いながら立ち上がり、念のためもう一度周りの地面を確かめてみたが、やはり眼鏡なんてどこにも落ちていない。

 コンタクトレンズならいざ知らず、眼鏡なんてすぐに発見できると思うのだが。

 正直だんだん付き合いきれなくなり、立ったままで男の背中を見下ろした。

 見下ろしていたら――、ふと、背中が透けて、地面が見え――。

「あれ?」

 なんだこれは。

 目の錯覚か?

 いや違う……。

 まぶたを何度擦るも、視界に映る奇怪な状態は変わらない。

 この男が半透明に透けて見える。間違いない。

 確実なものだと実感した瞬間、心に警鐘が鳴り、全身に鳥肌が立った。

「眼鏡……。眼鏡……」

 彼の呪詛のような嘆きがだんだんおぞましい響きを含んできた。

 よく聞けば、言葉の発音がおかしい。

 眼鏡の『ね』の部分が『ねえ』に聞こえてくるのは、この場の気味悪さによる自分の思い込みのせいか。

 探していたのは眼鏡ではなく、もしかすると別の物――。

「めがねえ、めがねえ……」 

 男の執拗な態度と、怨むように震える口調に怖気が走った。

 どうやら自分はとんでもない聞き間違いをしていたらしい。

 危険な空気を察し、この場にいるのが窮屈になってくる。

 もうこのまま黙って立ち去ることにしよう。

 覚られないよう口を締めて息を止めたまま、少しずつ後ろに下がった。

 あと数歩後退したら、できるだけゆっくりと、音を立てないようにして踵を返そう。

 彼がこっちを振り仰ぎ、言葉の真相が明らかにされる前に……。


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