第11話 声の正体

 

 残暑の陽射しを受けながら足を前へ前へと進ませていた。

 リュックで背中が蒸れて不快だが俺はひたすら上を目指して登っていく。

 そろそろ中腹にさしかかったなと腕で額の汗をぬぐった。

 空は青くて雲はほとんどない。

 緑の空気はうまいし野鳥の鳴き声が周りから聞こえてきて、まさに自然という感じだ。

 できればもう少し登りたい。せっかくここまで来たのだから、なるべく高い場所まで行くことにする。

 とりあえずここで一旦休憩だ。

 ちょうど傍らに見えた小岩に腰を降ろして、リュックを隣によけた。

 なぜこんなところに岩があるのか気にも留めなかった。いい具合の平らな腰掛けだったので、お礼の意味を込めて掌で撫でさすった。

 時計を見ると針は正午を過ぎた位置を指している。

 昨夜は二時に起きて三時から仕事をした。起きてから一睡もせず山に登ったものだから正直いって体がしんどい。

 もうすぐ三十路も近いのに無理はいかんなと水筒を開けて、中身をグビグビと飲む。

 少しぬるいが味の素晴らしさと喉が潤ったおかげで、「あー美味い!」とつい声に出してしまった。

 まさか誰も見てないよなと周囲をうかがい、またすぐに勢いつけて飲んだ。

 平日の昼間、しかも登山者にはマイナーな山であるせいか、人の気配はまったくない。

 ふもとからここまで来た間に出会ったのは、山道を横切った鹿やウサギだけだった。

 正直言って寂しい気もするがまあ仕方ないだろう。

 天気は相変わらずのんびりと晴れている。このままの天候を維持してくれると有難い。

 俺はポケット式のラジオをつけてニュースを聞きながら、しばしぼーっとした。

 野鳥のさえずりが子守唄となって、だんだん眠くなってきたが、かぶりを振って睡魔を払う。

 できるなら陽が暮れるまでに山を降りたい。分岐路はほとんどない道だが来るのは初めてだし、用心しておこうと思った。

 俺は岩から尻を剥がしてリュックをよっこらせと背負う。次いで世話になった腰掛けに別れを告げた。

 そして再び樹の立ち並ぶ道を進もうとした。……するとどうだろう。

 近くで呼ぶ声がする。

 衰弱したような掠れた声だ。

 一瞬空耳だと思った。ひと気のない山で突として呼びかけられたものだから、なんとなく気味が悪い。

 もう一度聞こえるかと静止して耳に意識を集中させた。

 やっぱり聞こえる。どこからともなく……。

 俺はいくらか逡巡したあと、不審な気持ちが拭えず振り返ってみた。

 背後には大蛇が這ったようなくねくね道が下へと続いているだけ。

 俺が通ってきた道だが自分以外に誰もいない。恐る恐る見たものの、肩透かしを食らった気分だ。

 そういえば何かの本で読んだが、山とは不可思議な者が住んでいると聞いたことがある。

 土地によっては神が祀られているということも。まさかそういう人智をこえた存在が声を掛けてきたのだろうか。

 立ち止まってそんなことを巡らせていると、また誰かに呼ばれた。

「ねえ……ねえ……」

 先ほどよりも声音は聞き取れた。

 くぐもってはいるが呼ぶごとに声は大きくなっている。

「なんだ?」

 思わず返事をしてしまった。警戒心があったため、いくぶん怯えを含んでいた。

 相手は嬉しそうに、「ここだよ」と言葉を返してきた。

 最初は子供かと思ったがそれは女性のものだった。しかもまだ未成年くらいの。

 しかし『ここ』と言われても姿が見えないので、どこだか位置が掴めない。 周囲を見渡してもあるのは樹木や野草、それに岩くらいだ。

「どこなんだ」

 半分自棄気味に俺は口を開いた。怯えた心がそうさせていた。

 空には雲が低い音を立てて太陽を隠している。その影響で辺りは薄暗くなってきた。

 ややあってから少女らしき声が得意げに応じてくる。

「こっちこっち」

「もっと具体的に言え」

 俺は喉を一度ゴクリと鳴らした。

 こちらの焦りも露知らず、声は自分の居場所を当ててもらうのを期待しているように押し黙った。

 答えを待っているのか。かくれんぼみたいな、いたずらっぽさが感じられる。

 冷静になって思考を働かせると、声の在り処がわかり悪寒が走った。

「ハハッまさか、そんなばかなことがあるのか」

 続いて道を外れて岩の横に立つ。

 一応他に登山者はいないが、もしも通りかかった誰かにこんなところを見られたらきっと俺は怪しく映るはずだ。

「なぜ話しかけてきた?」

「いい物もってるね」

 何のことだか分からず首を傾げてしまった。

 少女は含み笑いをしているみたいに、今度は「聞かせてよ」と持ちかけてきた。

「意味が分からんぞ。そもそもお前はなぜ」

「いいから早く。終わっちゃうでしょ」

「だから何のことなんだ」

 少女の不可解な言い分に心が乱されて、鼓動がだんだん早くなってきた。

 呼吸も少し苦しくなってくる。

「さっさと話せ」

「……聞いてたじゃない。さっき座ったときに」

「もしかしてこれか」

 何を示しているのか察した俺は、ポケットから目当てのものを抜き出した。

「つけて」

 言うとおりスイッチを入れた。

 スピーカーから流れる音に少女は耳をすましているのか黙り込んでいる。

 少し経ってから、また注文が入った。

「ここからじゃよく聞こえない。もっと」

 声の主にラジオを近づけて、ついでにボリュームを上げた。

「これでいいか?」

 返事はなくまた無言となった。

 音に聞き入っているのだろうか……。

「なんて言ってるの?」

「自分で聞けばいいだろう」

「そうしたいんだけど、なんだか耳がよく聞こえないの」

 悲しそうな声で弱々しくつぶやく。

 俺は調子を合わせるつもりはないので視線を外した。

 だんだん空模様が怪しくなっている。ねずみ色の雲が増えていまにも雨がやってきそうだ。

 ぐずぐずしてると陽も暮れるので、いつまでもこの少女に構っているわけにはいかない。

 それにこんな不可解なものを長らく相手にしていると、正直あたまが変になりそうだった。

 そんな心情を察してか、少女は寂しそうに甘えた声音でこぼした。

「ねえ、座ってもっと話そうよぅ」

「だめだ。もう行くからな」

「そんなコト言わないでさ。ここは暗くて狭くて……」

 知ったことではないし、もうこれ以上関わりたくなかった。

 無視してきびすを返した俺に少女は、「クスッ」と短く笑う。

「ところでさっき、あたしを飲んだよね」

 俺は水筒を思い浮かべ、口元を拭った。

 手の甲に半分乾いたものがこびり付く。俺の大好きな飲み物だが世間のやつらは鉄臭いと表現するだろう。

 少女が明るくおどけたように、「どんな味だった?」と訊いてきた。俺はもう一切応じるのはやめた。

 周囲をうかがいながら登山道を黙々と歩く。ほどなくして道を逸れた。

 俺は枝をかきわけて蜘蛛の巣をはらい、林の奥へと進む。

 そこかしこで羽を休めていたカラスの群れが四方に散った。

 足場の悪さと背中のリュックの重さに、一度転びかけたがなんとか持ちこたえる。

 慌てた調子がおかしいのか、リュックの中でけらけらと笑い声が起こった。

 先ほど吊るしたラジオから、相変わらずニュースキャスターの声が流れている。

『繰り返します。行方不明となった少女の自室には血液が残されていました。

 警察は先月あったバラバラ殺人事件との関連を調べています。

 アパートの住人によると昨夜三時ごろ……』


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