第10話 隣の芝生の色は
なんとなく一人で冬の海岸に来てみた。
なんとなくというか、自分なりにいろいろ思うことがあったのだ。
思うこと──。日々蓄積したマーブル模様の鬱屈。
それをこの場所で溶かして消せるんじゃないかという期待を胸にして、足を運んだのだ。
今日は日曜だがシーズオフのため人の数は少ない。夏場だと仮設の店舗が並び、海水浴客で賑わうのだろう。
俺は背伸びをして潮の香りを吸い込んだ。
時刻は午後三時。鈍行列車に二時間揺られてやってきたこの地。
空には厚めの雲が浮かび、地表にかかる太陽光を減らしている。
風の影響で小さく波打ったかたちの砂浜と、やや暗みがかった穏やかな海。
打ち上げられた漂流物を選んで拾っている老年の夫婦が見える。あれはビーチコーミングというやつか。
波うち際では女の子がリードを外した犬とたわむれていた。
たぶん中学生だろう。嬉しそうにキャッキャと跳ねて、ペットと過ごす時間が何よりの楽しみだという陽気さがうかがえる。
棒を振って飛ばすと犬はジャンプして器用に口でキャッチした。それを見て手を叩いて喜ぶ少女は、犬にほめ言葉を与えているらしい。
犬はあたまを撫でられてご満悦な感じに尻尾をパタパタと振る。
他にはボール一つに和気あいあいとはしゃぐ家族連れが見えた。幼少の女の子とその親御だと思う。
母親が優しい手つきで投げたボールを、子供が受けそこねた。転がったボールを追ってトコトコ走って、うつ伏せに倒れてしまう。
どうにか一人で起き上がるも、顔はきょとんとなっている。
母親はそんな砂まみれの顔を見てほがらかに笑った。座って見物していた父親が近寄り、身体についた砂を払ってなだめる。しかし子供はちょっと泣き顔だ。
そこに母がポーチから飴玉らしきものを出した。包みを解いて小さな口に近づけた。子供はそれをぱくんと含んで、にっこりと笑顔になった。
なるほど。一家団らんとはああいう姿をさすのだな。
俺一名を除いて誰もが皆、仲むつまじい様子だ。
立ち見を続けるのもなんなので、とりあえず堤防の下に座り、景色を眺めることにした。
おっと、自販機で缶コーヒーでも買ってくればよかったな……。もちろんあったかいやつを。
手持ち無沙汰なことで退屈感が増す。孤独感も増してきて、こんなところに一人で来てもつまらないと思えてくる。
季節はずれの海って暇な場所なんだな。ゲームやアニメなら突発的な出会いのイベントが発生して……うんぬん。
やはり画面の中の出来事など、実際には起こらないらしい。いい年して現実と空想をごっちゃにしてる思春期まっさかりの少年みたいだなと、軽く卑下してしまう。
孤独さのせいか、離れた流木に腰を掛けて肩をくっつけているカップルに目を細めてしまった。
……相思相愛の間柄か。そういう相手と一緒にいられる人生ってのはさぞかし楽しかろうな。
自分にはついぞ恋人というものが出来たためしがない。これはたぶん、なにかにつけて運の巡りが悪いせいだろう。割を食うことだって多い。
勤続五年目の職場にだって言える。
そうだ、仕事がつまらない。特に目標もない似たような日々の繰り返しだ。
休みが不安定で忙しいわりに、労力と代価がつりあわない。人間関係は微妙。良くもないし悪くもないが何かが物足りない。
みんな外面を良くして、裏で悪口を言うのが好きな奴ばかりだ。俺がその対象になっている時はもちろんあるはず。
好意を寄せていた受付の女がいたが、このあいだ他の部署の男と街で歩いているのを見かけた。
ちっ、よりにもよって、あんな奴と……。
俺のほうがよっぽどマシだろう。あの野郎は女癖がわるいって噂があるのに、まったくなぜ女ってのはああいう遊び慣れたチャラい奴を好む傾向にあるんだ。
社長は社長でいつも気楽な顔をして、社員の仕事ぶりを見にやってくる。人を金で雇って使うだけだからストレスとはあまり縁がなさそうだ。
それに俺よりあとから入社してどんどん出世している奴がいるが、ああやって仕事が順調にいくのも、結局は上に媚びて恩情をかけられているだけだと思う。
俺はそんな光景を浮かべつつ、膝頭を握りしめ、足先を横切っていく小蟹に呪詛を向けてしまう。なにやってんだ、みっともないぜ……。
漂流物を袋に入れていた老夫婦が、いつの間にか近くを歩いていた。
過ぎゆく際、こっちに微笑をまじえて会釈をしてきたので、俺は軽く返礼した。
……物腰のやわらかな夫婦だな。なんとなく全服の信頼を置いている仲に見える。何年連れ添っているのか分からないが、俺も将来はああいう夫婦仲を築きたい。
寄り添いながら歩いていくふたりを見送った。すると老爺のほうが渚にめがけて名前を大声で呼ぶ。
少女とたわむれていた犬が耳を立て、身体を転じてこっちに駆けてくる。
どうやらあれはこの夫婦が飼っている犬らしい。
置き去りにされた少女は、ゆるゆると手を振って別れを告げた。そして一人寂しそうにシュンとなって、海のほうへ三角座りになった。
老爺がそのうしろ姿を見ながら声を発した。
「あれはどこの子だ。前にも見たことがあるような」
「あの子は……腕に切り傷がたくさんある子ですよ。病院に入っていて、このあいだ家に帰ってきたみたいです」
「病院?」
問いかけに、老婆は言いづらそうな顔で答える。
「自分で切る癖があって、困り果てた親が病院に入れたって噂が」
「なんで自分でそんなことをするんだ?」
「さあ、よくは知りませんが、学校生活がうまく行かないみたいです」
老夫婦は立ち止まって話を続けている。
「しかしあれだな。わしらにもああいう年の孫がいればな。つまらん隠居生活にも花が咲くだろうに」
「仕方がないでしょう。あなたが車で事故なんか起こすから」
「わしはあの時、お前に隣に乗ってくれなんて頼んどらんぞ。市場に行くからって勝手に乗ってきたんじゃないか」
棘のある口調に、老婆が眉をひそめた。
「またそれですか。もうその話はしないって何度も約束したのに」
「自分から言い出しておいて、何だその態度は」
「あなたが孫の話なんてするから」
「お前がやわな腹をしとるから、事故ぐらいで子が授からんようになるんだ」
口喧嘩が始まったようだが、夫婦は言い合うのをやめてジッと睨み合っている。
「……」
俺は上着のファスナーを締めて、冷えてきたあごをムートンにうずめた。
そして海の景色に目を戻した。
カップルが流木から立ち、手をとりあってイチャイチャし始めた。
たぶん大学生くらいだろうか。互いのボディタッチにまったく遠慮がない。鼻がくっつきそうになっても笑顔を保っている。
そんな仲の良さから察するに、きっともうやることはやっているように見える。おそらくあれは、すでに裸体を見せ合ったカップルだ。
女が男の身体をするりと抜けて、いたずらっぽく駆け出した。男がそれを追いかけた。どんな軽口を言い合っているのか知らないが、ここまでうれしげな声が届く。
弾けるような瑞々しい笑顔を見ていると、肩に不快な重みが圧しかかってきた。
あの二人は俺とは違って何の悩みもなさそうだ……。
健康そうな赤い頬をして、今日も明日もあさっても、これからずっと楽しい事が続くと、そう信じて疑わない無邪気さが感じとれる。
付き合ってどのくらい経つんだろう。正直言って、恋人のいる奴が羨ましい。愛し合える彼女のいない日々がつらい……。
やがて、追いついた男が女を背中からぎゅっと抱きしめた。身体を折ってはしゃいでいた女が大人しくなる。
そして微笑しながら向き合った。女が彼の両手をとって、胸にそっとあたまをあずける。男がそれを丁寧な所作で包み込む。
静かな海がどこまでも広がっている。空から柔らかい光が降りてくる。
まるでこの海岸の風景が、二人のためのロケーションのようだ。
……なんか、これから唇を重ねそうな雰囲気だな。
そう察した俺は、互いの世界に没入しているカップルから目を外した。
むむむ……。
しかしやっぱり気になって、それを見据えた。
案の定、二人は唇を介して愛を確かめ合っている最中……。周囲の目など微塵も気にしていない。
くそう、できれば俺の視界の外でやってくれ。
俺はお前たちカップルのために準備されたエキストラじゃないんだぞ。だからこの場の主役であるお前らが羨ましいなんて思わないからな。いや、ちょっとは羨ましいかも知れない。いやいや、そんなのやはり認めたくない。
内心に広がる不愉快な気持ち。見知らぬ他人に嫉みねたみを覚えてしまう自分が嫌になる。
他人の幸せなラブシーンなんて見たくもない。そういう場面に期待して今日ここへ来たわけじゃないのに、なぜこうも俺は皮肉な目に遭うことが往々にしてあるのか。
ああだめだ。こんな場所にいると鬱屈とした気持ちが増幅するだけだ。
どうやら一人で来る冬の海は、心を癒すどころか逆に心を病んでしまうようだ。
やはり来るんじゃなかったな……。さっさと駅に戻るとしよう。
今日の六曜は何だったろうと思いながら、ゆっくり腰を上げて尻を手で払う。
暗い憂愁を抱きつつ、地面の砂を蹴っ飛ばした。
去り際にもう一度やつらを見ようと視線を上げた。二人は唇を離したあと、腕を組んで歩きだした。
一歩一歩、同じ歩調で進んでいる。まるで晴れた教会でとりおこなう結婚式のように。
鐘が鳴り、ハトが飛び立つ神聖な場所で、皆に左右から祝福されているみたいな背中を見せて、そのまま海の中に消えていった。
「……」
あれ?
何事もなかったように、波が静かに打ち寄せる。空にはカモメがのんびり羽を広げて、気持ちよさそうに滑っている。
まさか。
何が起こったのか理解した時、全身がわなわなと震え始めた。
「まじかよ……」
いつまで経っても姿が見えない状況に、心臓がさわがしくなる。
立ち尽くしたまま、ただ呆然と眺めている俺。
だがふいに、海面から人の手が現れ、髪をわかめのように濡らした女の顔が飛び出した。
男がその頭に体重をかけて、水の中へと強引に押し込む。バシャバシャと跳ねる音がここまで聞こえてくる。
浮いたり沈んだりの繰り返しが続く。
あがく女は目を見開き、どうにか酸素を吸おうと口を金魚のように忙しく動かした。男に力負けして絶望を感じたのか、歯と舌をさらして怪鳥じみた叫びを発する。
水に隠れ、ふたたび見えた時、さっきとはまったく別物の、嘘みたいな形相が飛び出した。
人は苦痛の極みに達すると、あんな醜い表情に変わるのかと、俺の心は凍りつく。
女を沈めようと鬼気迫る男の面持ち。岸に救いの手を向けてもがく女。
やがて男女は、海面に白い泡を残して消えてしまった。海は人間のやることなど素知らぬていで凪いでいる。
「うわぁ……」
この一連を傍観していたのは俺だけではなかった。
近くには老夫婦と犬が、離れた渚には女の子が、そして家族連れが棒を飲んだようにして立っている。
ある程度時間が過ぎ、道路からサイレンの音が聞こえてきた。
警察やレスキュー隊が到着し、堤防沿いの道には野次馬がどんどん集まってくる。
俺はその群れに混じって、アクアラングを装着したダイバー達が海へ入っていくのを見守った。
あのカップルにどういった事情があったのか分からない。きっとそれだけの理由があって、二人一緒に入水したのだろう。
「あなた! しっかりして!」
「おとうさん! おとうさん!」
近くで突然、騒ぎが起こった。
何事かと視線を走らせれば、三十代くらいの男が地面に突っ伏して血を吐いている。
そばには奥さんと娘らしき家族。それに野次馬をしていた男二人が声をかける。
「おい! 大丈夫か」
「大変だ。誰か救急車を! あそこに停まってるやつで運べないか」
地面の血溜まりがどんどん広がっていく。海を注視していた救急隊員が気づき、駆けてくる。
誰が喀血しているのかと思えば、さっき砂浜で見た仲むつまじい家族の一人……。
必死に背をさすっていた奥さんと思しき女性が、救急隊員に向けて涙ながらに訴えた。
「主人はもう末期なんです! どうか早く病院に戻してください」
「おとうさん! 死んじゃいやあ!」
父親の上着を小さな手でつかみ、泣き叫ぶ女の子。
さっきは飴を含んであんなに無垢な笑みを浮かべていたのに、今やあふれる涙に汚れて悲痛な顔になっている。
男は吐くものを吐ききった虚ろな目をし、口と手を血まみれにしたまま、死人のように弛緩した身体で運ばれていった。
その様子を俺は黙って眺めているだけだった。
背筋に悪寒が走り、なんとも言えない感情が胸に染み込んでくる──。
やがて俺は電車に乗り、車窓から夕陽を浴びつつこう思った。
人は外見だけでは幸福かどうか判断できないものだ……。皆それぞれどんな重い内情を抱え、それに苦悩しているのか分からない。
これからはもう、他人に嫉妬や羨望を抱くのはやめよう。
もしかすると日々、自分と並行している大きな幸せを、うっかり見落としているのかもしれない。
俺は今日の出来事をふり返り、また明日からがんばろうと思った。そして目もとを伏せて少し泣いた。
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