第8話 弱者の立場であれど


 最期に見たのはフロントガラスの向こうで驚愕するハチマキ頭のおっさんだった。

 瞬間、手にしていたレジ袋が自分と共に吹っ飛び、中身が宙を舞う。

 視界はあっさりとブラックアウトした。


 ……やがて彼は、ふっと目を覚ます。

「どこだ。ここは……」

 細身の男は不安な面持ちで独りごち、やおら身を起こした。

 思い返せば、公園に入ろうと道を渡っていた時、横合いから魚屋のトラックに跳ねられたはずだ。

 なのにジャンパーやジーパンに破れ目などあらず、身体に痛みなんてどこにもない。

 今自分のいる場所がどれほど広いのか把握できない。座ったところだけほんのりと明るく、辺りは真っ暗だ。

 何がなんだか戸惑っていると、闇からスーツにネクタイ姿の男が二人やってきて、いきなり両脇をとって持ち上げられた。

 どちらも頭はスキンヘッドだが、短いツノらしきものが二本生えている。

「No.1856783。名前は多度津丸次郎くん、あなたの番です。どうぞこちらへ」

「え? え?」

 ワケもわからず連行され、彼は暗闇の中をぎこちなく進み、木製のドアの前までたどり着いた。


 彼を残して他は真っ暗な場所で、指示通り、黙って椅子にかけて待っていた。

 奥のほうでドアの閉じる音がし、周囲がパッと明るくなって、威厳のある声が響く。

「起立!」

 丸次郎は状況が読めずにうろたえた。とりあえず言うことに従ったが……、なんだろうここは、まるで法廷のようだ。

 部屋に数名いる者たちと礼をして着席したあと、すぐに前のほうに呼ばれ、証言台らしき位置につく。

 さっきのスーツの男と同じツノの生えた人物が、法服のようなものをつけて高みの席にいた。室内を統率する厳かな風格を放ち、丸次郎は検分の目を向けられる。

 そして名前と生年月日を答えるように言われ、おずおずと口にしたあと、左の席にいた男が立った。

 男は手にしていた薄っぺらい帳面のページをひねくって話し始める。

「えー、彼は三十二年間、ろくな人生を送っておりません。高校を卒業したあと職業を転々とし、大方は無職生活をして実家に居座り、両親に負担をかけていました」

 続いて、生涯収入はいくらだったの、配偶者はいないだの、そもそも女性経験はないだの、交友関係はなきに等しいだの、他にも人に知られたらこっぱずかしい自分の経歴を開けっぴろげに晒された。前の席ではそれをさらさらと書き取って記録している者がいる。

 丸次郎は話す内容について口を結んで聞いていたが、そろそろここらで自分は今、死後の世界にいるという自覚がやってきた。

 いくらか経った頃、彼は証言台からうしろの椅子へと移動するように指示され、逆らうことなく応じる。

 初めて会う未知の存在を相手に気後れし、これから自分がどうなるのか心配になってきた。

 指をいじくっていると、何やら背後で憎悪めいた不穏な気配を感じ、背筋がぶるっと寒くなる。

「なんだ。いったい……」

 そうっと振り返ってみれば、まるで傍聴席みたいなスペースに、見覚えのある人物の顔が並んでいた。

 だがその表情は、どれも彼を歓迎する穏やかなものではなかった……。


 やがて二十代らしき女が証言台に立ち、興奮のためか声を張りながら法服の男に訴えていた。

「この人がラブレターなんか渡してきたせいで、それがトラウマになって私は病気で早死にするはめになったのよ!」

 聞いていた丸次郎の頭に、中学二年生だった頃の、桜並木の情景が浮かぶ。

 今、声を荒げている女は当時のクラスメイトだ。

 あの頃は綺麗なロングの黒髪と、色白い肌の引き立つ日本人形のような美少女だった。

 だから中学に入学してすぐに惚れてしまい、一年間想い続けた末、勇気を出して恋文を書いたのだ。

 なのに今は茶色い髪にちりちりパーマをかけて、赤系のロングドレスを着、顔に施された化粧はとても色濃い……。これじゃあまるで田舎の安ホステスみたいだ。

「ぜんぶこいつのせい。あのラブレターには私を不幸にする呪いが込められていた。そうよ。きっとそう。あれから私の人生はおかしくなったの!」

 まくし立ててサッとふり返り、こっちに恨みの目を向けた。両目の下にクマがあるようだが、なぜそうなっているのか分からない。

 次に高校の時の担任教師が前に出てきた。

「はい。彼はですね。とんでもない劣等生でした。成績は学年最下位で、放課後に僕がどれだけ懇切丁寧に教えても、まったく点数が上がらなかったんです。おそらく学習能力が著しく欠如しているんでしょう」

 先ほどに続いて酷いことを言われ、丸次郎の胃袋はしゅくしゅくと痛む。

 小学生の頃から勉強は大の苦手だった。

 あれは四年生だったか。算数の授業で分数のたし算が出たあたりから、他の教科の授業にもついて行けなくなってしまった。

 中学三年時の入試前には、高校は県内で一番偏差値の低い学校しか選べない有様だった。

 最終学歴が中卒なのは嫌だった理由から、関心の持てない職業高校にどうにか合格する。

「運動もまったくダメでした。とび箱やマット運動は小学校の低学年並だし、走れば一番ビリで、特に球技がひどかったです。クラスでサッカーをやればオウンの帝王とか綽名されるし、野球では振ったバットにたまたまボールが当たれば何を思ったのかいきなり三塁側に走ったんです」

 運動だけじゃなく、音楽や習字などの文化系の授業でも悪目立ちの対象だった。

 あと教師から喫煙常習者だったと言われたが、タバコについては濡れ衣だ。

 クラスの不良生徒に命令され、自販機に買出しには行かされるし、休み時間にトイレの前で見張りを強いられるのは常のことだった。

 不良生徒から暴力めいた脅迫をされたせいで、幾度、自分が代わりに校則違反で罰される目に遭ったことか。

「この劣等生がいたから僕は何度も主任に呼び出されて、責任うんぬんで叱られたんだ。のちに心を病んで駅のホームに落ちたのはこいつが原因です!」

 話のあと、教師は鼻息を荒くしつつ、うしろの席に戻った。

 続いて証言台に、大人の姿に成長している小学校時代の旧友がやって来た。

 ここでも丸次郎は子供時代の悲しい記憶を掘り起こされて、惨憺たる思いを味わわされた。

 次に元職場の上司や先輩が来て、自分が機械に挟まれて死んだのは、こいつの仕事っぷりを叱ったことで血圧が上がり、集中力が欠けてボタン操作を誤ったからだ。とか、結婚が破談になったショックで自分がうっかり転落死したのは、職場に弁当を持ってきた婚約者とこいつが目を合わせてキモがられたせいだのと、聞くに堪えない言いがかりが矢継ぎ早に語られた。

 代わって今度は生前、よく立ち寄っていた公園の元管理人が登場する。

「この男はすこぶる迷惑なヤツでした」

 そんな切り出し方で、元管理人のおじさんは話を続ける。

「よく敷地内に居座っていたことで、他の利用者から苦情が来ていました。昼夜問わず、公園に不審人物がいるからと住民が通報して、警察の方からさんざん注意されたのに、それでも翌日またやって来るしつこいヤツなんです」

 丸次郎はここでハタと思い出すことがあり、心中でこんな言葉を紡ぐ。

 すっかり胴忘れしていたぞ。自分は今、事故で身体を無くしてこの場所に来ている。もう現世だった場所には帰れないはずだ。

 ということは……。

 自分の人生はたいして価値のないものだった。だから死んだという事実に対してあまりショックは受けなかった。

 けれども一つだけ、名残惜しいことがある……。

「この男が公園を汚しに来るせいで、よく掃除をさせられました。来れば来るほどに被害は拡大して、しかも住民からの苦情の矛先は私に向くんです。いちいち対応に追われて毎日がストレスまみれで、酒を飲む量が増えていって……」

 話を聞いていた丸次郎だったが、彼は他のことについて悲しんでいた。

「この迷惑者が原因なんです。私が連日酒と寝不足でフラフラして、ゴミ出しの日にバックしてきた清掃車の下敷きになって死んだのは!」

 公園の話なんかされたら、気がかりなことがどんどん頭の中を占めていく。

 帰れない場所について、自分が死亡してしまった事実を悔やんでしまう。

 しかし今更どう思おうが、またあの場所に戻ることなんてできない。

 丸次郎はもう耳を押さえてうつむいていようと考えた。

 部屋の左側の男や、法服の人物は、ただただ淡白な顔つきで事を進めていた。

 管理人はプンスカ憤りつつ、丸次郎の横を過ぎる際、睨みながらチッと舌打ちをする。

 だがその時、懐かしい和室のたたみの匂いが鼻をかすめた。

 管理人と入れ替わるようにして進んできたのは、白髪の老人であった。

「お、お爺ちゃんだ……」

 丸次郎は顔を上げて一言つぶやく。

 祖父がうしろの席に来ていたことは気づかなかった。さっきは怖い面をした集団に睨まれて見落としていたのだ。

 十年前に亡くなって以来の再会。生前、丸次郎のことを大切にしてくれた唯一無二の存在……。

 子供の頃はとくに可愛がってくれた。

 デパートで好きなおもちゃを買ってくれたり、昔の楽しい遊びを教えてくれたり、親に叱られている時なんかは、ちゃんとかばってくれたり……。

 昔の楽しかった記憶がよみがえり、胸にあたたかい気持ちが染みてくる。

 祖父が亡くなり、葬式の時は終始ぼんやりとしていた。棺が火葬のために霊柩車で運ばれる時も祖父の死についてピンとこなかった。

 だけど火葬炉の中に棺がゆっくりと入っていく時、亡くなったという実感に襲われ、いきなり号泣した覚えがある。

 そんな祖父が生きてきた頃と同じように、弱っていた足を引きずって、証言台に手を添えた。                           

 ……お爺ちゃんならきっと、自分に有利な話をしてくれるはずだ。

 というのも現在、死後の世界で、次にどこへ行くのか審理されているわけだ。

 さっきまでの散々な調子が続けば、おそらく生命があった頃よりもさらに凄惨な地に運ばれ、常時何らかの苦痛を与えられるだろう。

 おののく彼の脳裏に、『地獄』、という二文字が現れ、恐怖と焦燥感に身が硬くなる。

 丸次郎は固唾をのんで、背中を見守った。

 ほどなくして、祖父は肺に息を吸い込んでから、こんな言葉を発した。

「丸次郎を、地獄に落としてくれ!」

 室内に響く力強い声。

「そんな……」

 耳に信じられない言葉が飛び込み、拍子抜けしたことで椅子からずり落ちそうになる。

「わしは、わしはあえて心を鬼にして孫にこう教えたい。生前はいろいろと甘やかしてきたが、人迷惑な生涯を送った報いに、不帰の客となったあとはそれ相応の罰を受けるべきじゃと」

 くぼんだ目に力を込め、拳固で台を叩く。

「わしは家に居ることが多かった。孫が昔からうだつのあがらん奴だというのも存じておる。だが他人様にここまで迷惑を掛ける愚か者じゃとは知らんかった。ここでいろんな人の話を聞いていてわしは恥ずかしかった」

 紅葉を散らした顔を高みに向け、悲愴感のこもる怒り口調で嘆く。

「まったくもって情けない。もしも孫の醜態を知っておれば、このわしがいろいろと教育してやったのに。……丸次郎よ、なぜわしに相談せずに黙っておったんじゃ!」

 赤らむ形相をこっちに半分見せて凄む。

 こんなふうに怒られたのは初めてだ。せめて身内ぐらいは味方になってくれると信じていたが、これだと完全な否定派である。

 この状況は絶望的としか言いようがない。

 丸次郎は期待が外れたことで、暗澹たる思いにさいなまれつつ、首をがっくりと落とし、もはやこれまでと観念する。

 頼みの綱であった祖父は、足をゆっくりと運ばせて横を過ぎて行った。そして席に戻って鼻水をすすりながら嗚咽し始めた。


 左の席の男が椅子から腰を上げて、粛々としたていで話す。

「以上です。お聞きの通り、彼を擁護する者は一名たりとも存在しません。ここにある資料からも鑑みて、彼は生前、これといった功績は何一つ残しておらず、社会にとって不必要かつ迷惑な人物であったと立証されます」

 丸次郎は再び前に呼ばれた。

 雰囲気から察するに、そろそろ審理の結果が告げられるようだ。

 のしかかる重い疲労のせいで、立って歩くのがつらかった。

 指定の位置について肩を落としていると、何か話したいことはあるかと訊かれた。

 彼はうつむいたまま、黙ってかぶりを振った。

 何かしら思うことはあったが、昔から口下手だし、どんなふうに自己主張していいのか分からない。

 こんな状態で喋っても、うまくコミュニケーションがとれず、挙動不審になるだけだろう。

 じっと待っていると、両足がだんだん床に沈んでいく感覚があった。

 そして今まさに判決が下されようとする時、横のドアがノックされる。 

「……あの、裁判長」

 審理の最中、すまなそうな感じでスーツの男がそっとドアから顔を見せた。

 法服の男が何事かとそちらへ目線を向ける。

「どうしました?」

「外にですね。弁護したいと言う者が大勢やって来て、騒いでいるのですが」

 こんな土壇場にいったい誰だろうと、室内の皆は不思議に思った。

 裁判長は、一つコホンと咳をして問いかける。

「それは何者ですか」

「猫です」

「……猫?」

 少しの間、部屋は静まり返った。

 それから裁判長は、左の男を見、相手がうなずいたのを確認してから、

「わかりました。どうぞ中へ通してください」

 ドアで待っていた男にそう伝える──。


 入室の許可が降りてまもなく、色とりどりの猫たちが二本足で立って、ぞろぞろと入ってきた。

 身なりはあまり綺麗とは言えない。むしろ汚れていると言っていいだろう。どう見ても野良猫である。

 その数はゆうに二十匹を超え、うしろの席に次々と腰かけ、やや賑わしくなったことで、「静粛に」と、注意を受ける。

 丸次郎は驚きの目を向けていた。猫の毛色や模様など、どれも見覚えがあったからだ。

 生前、彼が足しげく公園に通い、エサを与えていた猫の集団である。

 先ほどの元管理人が、心当たりのあることで、あからさまに不機嫌な顔で猫たちを睨む。

 そんな態度とは裏腹に、メスのブチ子が丸次郎と視線が合うや、にっこりと笑って前足を振った。彼女は天気のいい日に、よく彼の膝で昼寝をしていたのである。

 他にも懐かしい顔ぶれがそろい、皆が皆、こっちに好意的な表情を向けていた。

 丸次郎の頬はゆるみ、もしや同窓会とはこういった心地のよい感じなのかと、感慨を覚える。

 そうこうするうち、中から代表者として老年のハチワレが出ようとしたが、いやここはボクが行くとオスのミケが起立して、証言台につく。

 彼は開口一番、高みの席に向けてこう主張した。

「この人は、とってもいい人ニャ」

「いい人ニャー!」

 一言目のあと、他の猫たちの発する可愛い声のシュプレヒコールが室内に響き渡る。

 ミケは続けて口を開いた。

「毎日ごはんをくれて、ボクたちを大切にしてくれたニャ」

「そうだニャー!」

 猫の群れが立ち上がらんばかりの勢いで、こぶしを天井に突き上げた。

 そんな様子に裁判長は、他は黙るようにと促した。しかし猫たちの興奮はなかなかおさまらない。

「冬は寝床を作って持ってきてくれたニャ。ダンボールに毛布を敷いてくれたお家は、とてもあったかくて過ごしやすかったニャ」

「うれしかったニャー!」

「公園でリードを外した犬や、カラスの群れが襲ってきたときは、この人が身をていして守ってくれたニャ」

「命の恩人だニャー!」

「僕らが死んだときはお墓を作って、とむらってくれたニャ」

「なむあみだぶつだニャー!」

 聞いていた丸次郎は心を強く打たれ、胸に熱いものが込み上げてくる。

「くっ、お前たち……」

「どうかこの人を助けてあげてくださいニャ。ボクたちと引き換えにそうしてくださいニャ。さっきみんなで決定した総意だニャ」

「おねがいしますだニャー!」

 うしろの席があまりにも騒がしいため、呼ばれたスーツの男数名が、もがく猫を両脇にかかえて室外に運んで行く。

 ミケは一匹になっても嘆願を続け、前足をハの字に置き、立派ないでたちで裁判長を見上げた。



 ──こうして丸次郎は地獄落ちを免れることができた。

 寄り集まっていた猫は、誰も引き換えや犠牲にはならず、無事に元いた死後の穏やかな世界へと戻る。

 結果として丸次郎は、あの世にある魂の更正施設へと送られるだけの処分となった。

 数年経てば出所でき、その後は大事にしていた猫たちのいる世界に移され、そこで一緒に暮らせるようになると約束してくれた。

 

 たとい世間から疎んじられた野良の動物といえど、親切にしておけば窮地で助けにきてくれる……かも知れない。

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