第7話 思い出のロールケーキ
お話は昭和二十年代から始まります。
小学六年生のよし子は、口に入れたお菓子の味に感動して、思わず身を打ち震わせました。
隣の席にいるお友達の正美さんは、ほくほくとほっぺたの落ちそうな顔で食べていました。
それからもう一人のお友達である貴子さんは、丁寧な所作で平然とお菓子を口に運んでいます。
よし子はフォークを手にしたまま、対面の席にいる貴子さんのお母様のほうを見ました。
「あの、これは何という名前のお菓子でしょうか?」
お母様は、身につけた綺麗な洋服に似合う、清楚な顔と声音でこう答えます。
「西洋の、スイスロールという名のお菓子ですよ」
「……」
答えに対し、よし子は黙ったまま、高そうなお皿にのせられたお菓子をまじまじと見下ろしました。
貴子さんのお父様は貿易商をなさっていて、よくお土産を買ってきてくださるそうです。それに時折、外国の料理やお菓子の調理法を、お母様に教えるそうです。
今回そのレシピをもとに、お母様がこのお菓子を作ってくれました。
「あなた、スイスロールをご存知ないの?」
お母様の問いに、感銘を受けていたよし子は深くうなずきました。
今しがた耳にした六文字の名称が、まるで魔法の言葉のように思えてきたのです。
試しに小さく唱えてみると、心の中に壮大な光が広がりました。さながら雨天の日に雲が円状に割れて、太陽が姿を見せた感じです。
同時に頭がくらくらするほどの恍惚感を覚え、学芸会の話し合いという用向きで、この邸に呼んでくれた貴子さんと、今日という幸運な日に感謝をしました。
フォークを持ったままで、身動きしなくなったよし子を不審に思ったのでしょう。紅茶を手にして眺めていたお母様が話しかけました。
「どうしたのかしら? お口に合わないならお皿を下げましょうか」
しかしよし子の耳には届いていません。
スイスロールを介して、晴れた海の向こうにある遠い外国の景色が脳裏を占めていました。
もちろんよし子は外国に行ったことは一度もありません。けれど以前、学校の先生が見せてくださった舶来物の絵本や写真集をもとにして、いろいろとその場面に素敵なお洋服を着た自分を重ねて、豊かに想像を巡らせていたのです。
それまで落ちついた面持ちのお母様でしたが、ふいに不機嫌な表情になって、カップをソーサーにのせました。
「よし子さん。あなた、大丈夫かしら?」
「……」
隣の正美さんが心配そうな顔で脇をつついてきます。ちなみにこの正美さんは学級で一番の仲良しです。
「ねえ、ねえってば。よし子さん。どうしちゃったの?」
「…………」
だけどよし子は夢心地な様子で反応しません。
黙って見据えていたお母様の目が厳しいものになって、
「人の家に来て何です? ぼーっとしてはいけませんよ」
責めるような声音で言われました。よし子はそんな口ぶりに、はたと意識が戻ってきます。
それから放心していたことをすぐに詫び、姿勢をぴんと張ってお菓子と向き合いました。
ところがここで、よし子の心情に変化があらわれました。
じっと眺めていると、だんだん心に暗雲が立ち込めてきて、なんだか申し訳ない気持ちになってきたのです。
この世に生まれて十二年来、こんなに美味しい物を食べたことはなかったため、ふたたびこのお菓子にフォークを通していいのか迷いはじめました。
それくらい恐れ多く感じ、自分のような貧しい家の子が口にしていい物かどうか、戸惑ってしまったのです。
このお皿一枚だけでも、よし子の着ている衣服の何十着分にも相当するでしょう。他の生活用品だってたくさん買えそうです。
今いるこのお部屋もそうです。広々とした室内はどこも磨かれたみたいにピカピカと光っています。棚の上に鎮座している高級ラヂオには気安く目を向けられません。
貴子さんにお招きしていただいた時からいろいろと感じていましたが、ここで居づらい気持ちが大きくなってきました。
よし子はおそるおそる、木製の綺麗なドアのほうに首を巡らせました。
「あの、わたし、そろそろおいとまします」
お母様は不思議そうな顔で問いかけます。
「あら? それはどうして?」
「……えっと、もう学芸会のお話は、終わっていますので」
「だからお茶していたんでしょう? 何か問題あったかしら」
向かいの席で、優雅に口許をナプキンで拭いていた貴子さんが、すました顔でたずねます。
「わたしたち、何かいけないことをした?」
「いえ、そういうわけじゃないんです……」
うつむき加減になったよし子は、居た堪れない気持ちがぐるぐる回り、自分の破れた信玄袋をとって席を立ちました。
それからドアの前まで進んで、お母様たちのほうに向き直り、頭をぺこりと下げます。
「どうもおじゃましました。それでは失礼いたします」
借りていたスリッパの音をなるべく立てないようにしながら、よし子は玄関まで小走りしました。
家に帰ったあと、よし子は一つのちゃぶ台をきょうだいと囲んで、夕飯を食べていました。
弟や妹はみんなわいわいと賑わしく、あまり騒ぐと古い天井が落ちてきそうです。
対面で欠けたお茶碗を手にして、黙々と麦飯を口に運んでいた母親に、よし子は話しかけました。
「今日は貴子さんのお家に、お呼ばれしていたんです」
「ほう。あの金持ちのウチにかい? あんた、無礼なことはしなかっただろうね!」
弟がちゃぶ台に膝をかけ、他のきょうだいのおかずを取ろうとしたところ、母親が頭を叩いてやめさせました。
よし子は妹の汚れた口を拭いてあげながら、返事をします。
「はい。たぶん……」
「おまえみたいな子はあんな家に入っちゃいけないよ」
今度は別の弟が、汁だけの味噌汁のお椀に箸をつっこんで、うずまきを作って遊び始めました。よし子はそっとたしなめて、母親の言葉に答えます。
「なるべく、失礼のないようにしたんですが」
「何言ってんだい。ああいう金持ちの人にとっちゃ、おまえが家に上ること事態失礼になるんだよ」
「そうなんですか……?」
「おまえが家に来るのは、ねずみかゴキブリを家に上げるようなもんだ」
母親は拾ってきた薬缶から、白湯をお茶碗に注いで鼻をフンと鳴らしました。
「とにかくもう呼ばれても行っちゃいけないよ。適当に理由をつけて断るんだよ。わかったね!」
「はい……」
よし子はお茶碗とお箸を持ったままうつむきました。
ややあってから、一番伝えたかったことを言うため、また口を開きます。
「お母様。『すいすろうる』というものは知っていますか」
母親は飯を噛みながら首をかしげ、たくあんを摘んで口に放り込みます。
「知らないね。どこか異国の女の名前かい?」
「いえ、とても美味しい食べ物なんです。今日貴子さんのお家でいただいて」
「あんた、その物の言い方もうやめな。何べん言ったらわかるんだい」
布地に包まれて顔を出していた一番下の妹が、突然泣き出したので、母親は胸をはだけて乳をあたえ始めました。
「……」
よし子はもう黙って食事をすることにしました。
その夜、よし子はせんべい布団の中で夢を見ました。
真っ暗な世界に、突如スイスロールが現れたのです。その人間くらいの大きさのスイスロールには細い手足が生えていました。
つづいて同じような物体がわらわらと群がってきて、よし子を取り囲みます。
驚いてしゃがんだところを中心にして、楽しそうにかごめかごめをやり始めました。
よし子はどうしていいか分からず、ただ顔をせわしく動かして見上げるばかりです。
やがて手足は消え、直立したスイスロールが一斉に倒れこんできました。影がどんどん大きくなってきて、おびえたよし子は自分の頭をかばいます。
しかしそこへ別の一体が割って入り、あやうく押し潰されそうになったよし子を救出しました。
そして暖かい陽射しの降り注ぐ木陰の下で、隣合わせに座りました。
とてもいい気持ちでのんびりと時間を共有していると、ふいに隣からスイスロールの載ったお皿を差し出されたのです。
よし子はぱぁっと笑顔を咲かせ、食べてもいいかと隣に問いかけます。お皿を持ったスイスロールは、もちろん構わないとうなずいてくれました。
お皿を受け取ったよし子は、輪切りになっていた一つを手にして、澄んだ青い空にかざしました。
しばらく眺めたあと、少し齧って小さく噛みます。覚えのある味と再会したことで、ほんわかと幸せな気分に包まれました。
そして一切れを完食して、残りは母親やきょうだいに持って帰ろうと思いました。家の方角はどちらだろうと周囲を見渡します。
ところがそこで、なぜか母親やきょうだいが目の前に登場しました。貴子さんとそのお母様も来ています。正美さんが木からひょっこり顔を出しました。
みんな機嫌の良さそうな表情で、ニコニコとしています。
どこからか音楽が流れてきました。
この場に合う、ゆったりとした外国の音楽です。曲名はわかりませんが、音楽の授業で聞いた覚えがあります。
全員で草の上に車座になって、向かい合いになりました。一切れのスイスロールは人数分いきわたって、みんなで一緒に口にしました。
母親やきょうだい、正美さん、それに貴子さんとお母様。みながみな美味しそうな顔をして微笑んでいます。
よし子はそんな姿を眺めながら、とてもうれしくなってきて、お皿を手に胸の中がぽかぽかとあったかくなってきたのです。
……目を覚ますと涙が顔を伝っていました。
薄闇の中、家族の安らかな寝息が聞こえてきます。
しばらくぼんやりしたあと、よし子は涙をぬぐって誓いました。
わたしは、美味しいスイスロールを作って、たくさんの人たちを幸せにできる人物になりたいと……。
そしてよし子は十五歳になりました。
一人で東京に出て、お菓子職人の修行に励むことにしたのです。毎日苦労を重ねながら、立派な職人になれるよう努力を繰り返しました。
やがて年数を重ね、どんどん技術は磨かれて、あらゆるお菓子を焼ける腕前を持ちそなえることが叶いました。
つらい修行を経験した彼女は、どんなお菓子だってお手の物です。
さらに時は流れて、よし子は東京の片隅に、一軒の洋菓子店をオープンしました。
今日はとてもよく晴れていて、お天気は最高です。
そこへ一人の女性がやって来て、そっと立ち止まりました。
「ここが評判のお店ね。あら、かわいいデザインの看板だわ」
入り口の上には、大きなお菓子の看板が掲げられています。まるでこれだけを専門にしているお店みたいです。
ここは日本ではまだ珍しいとされるスイスロールを販売していて、人気上昇中のお店なのです。
外観を眺めていると木製のドアが引かれ、中から綺麗な洋服を着た母子らしきお客が、包みを大事そうに持って出てきました。
昔見た覚えのある二人でしたが、よく確認できないまま通り過ぎていきます。母子は高級車の後部座席に乗って帰っていきました。
見送ったあと、顔を向きなおして店内に入りました。漂ってきた香りに、思わず鼻をそびやかしてしまいます。
「とても甘くっていい匂いがするわ。お店の中もセンスがよくって素敵」
そんなふうに独りごちた向こうに、商品を陳列しているガラスケースがありました。その奥には白くて立派な衣装をつけた女性が、姿勢を正して立っています。
「いらっしゃいませ」
凛とした声でお辞儀をされ、丁寧に迎え入れてくれました。
お客の女性はあいさつを返し、商品ケースの前まで進みました。
つづいて特に種類の豊富な品を見て、店主に声をかけます。
「このバニラ味をいただくわ。あとできれば今ここで、食べてみたいんだけど」
一つ輪切りにして欲しいと頼むと、店主は礼儀よく応じてくれ、食器の用意を始めました。
やがて準備は終わり、待っていた女性はお皿にのったスイスロールにフォークを入れます。
それから一口食べて、感心した顔で大きくうなずき、指でわっかを作ってOKのサインを見せました。
「うん。確かにこの味なら評判になるわね。よく仕上がってる」
「どうもありがとうございます」
店主が頭を下げてお礼を述べたあと、お客は微笑して話しかけました。
「お久しぶりね。よし子さん」
「……?」
唐突な言葉にその意味を量りかねた店主は、身体の前に手をそろえたまま、少し首をかしげます。
それを見て一拍置いたお客は、自分のことを製パン会社の社員だと自己紹介しました。次いでカバンから取り出した名刺をガラスケースの上に滑らせます。
氏名の欄には苗字のあとに、正美と記されていました。
「今日はね、あなたに協力して欲しいことがあって来たのよ」
小さくウィンクをした正美さんを見て、よし子は思わずカウンターから出てきます。
二人は再会したことを喜び、手をとり合って笑顔を向けました。
──そしてスイスロールは製パン会社によって全国展開され、日本でも有名なお菓子になっていったのです。
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