第4話 黒い怨念

 

 Aさんは部屋の模様替えをして以来、不幸な出来事が続いていた。

 まずは勤め先の会社が倒産した。女子大を出て三年目のことだった。帰り道を鬱々としながら歩いていると、上から鉄骨が落ちてきて危うく下敷きになりそうになる。

 それに後日、気晴らしに入ったカラオケ店では、突然天井が崩れる事故が起こり、ここでもまた押し潰されそうになる目に遭った。

(こんなに不運なことが重なるなんて、絶対におかしいわ……)

 その後も赤信号を無視したダンプカーに轢かれそうになったり、彼氏とデートの待ち合わせに立っていたそばのモニュメントが倒れてくることもあった。

 夜道を歩いていると、いきなり見知らぬ男に襲われ、上から力ずくで押さえつけられて強姦されそうになる。Aさんは大声で助けを呼んだことにより、どうにか難を逃れた。

 そんな不幸が積もり積もって、やがてAさんはアパートの自室に籠もりがちになった。

 再就職先を探す気力はわかず、不安を抱えた日々を重ねていった。強いストレスのためか、やたらと甘い物が欲しくなってくる。

 一階にあるコンビニで菓子パンやケーキを大量に買い漁り、部屋に帰って腹が裂けそうになるほど食べ尽くした。

 心配した彼氏が部屋にやってくるも、Aさんは顔を合わせることを拒んだ。なぜなら強姦未遂を体験したことにより、彼氏から同じ暴行を受けるのではと恐れたからである。

 そしてあらゆる出来事を負の方向に思考する習慣がつき、この世のすべてが悪魔の手で汚く塗り替えられたように映る。

 Aさんは連日の糖分過多な食事のせいで、みるみる体重が増えていった。

 細くてスタイルの良かった身体はダルマのように大きくなり、部屋にある服はどれも入らなくなった。彼氏が買ってきた特大サイズのパジャマを着たきり雀にして、風呂に入らず一人で常に甘い物を食べて過ごす。

 美しかった肌は荒れ、艶のあった長い髪はフケの浮いたボサボサ頭になった。ここ数週間、鏡など見ていない。

 部屋で一日中、恐怖を抱えて胃に食べ物を詰め込む毎日。外に出たら何かに押し潰されそうになる。病院に行って医者からの治療を受けたいが、その行き帰りが怖い。

 やがて彼氏が何度もしつこく訪問してくることに、激しい憤りを感じるようになった。以前は穏やかで物腰が柔らかく、人当たりのいい性格だったのに、今こうして彼氏をドア越しに拒む彼女の顔つきは、夜叉のように変貌している。

「帰れ! またあたしを襲う目的で来たんだろう!」

「違うよ。落ちついて話を聞いてくれ」

「今すぐ消えろ! あたしに構うな!」

 乱れた髪をさらして、体重が三桁寸前の巨体になったAさんは、以前の面影をまったく残していない。汚れたパジャマを着て、がに股の姿勢で帰れ帰れをがらがら声で連呼し、血走った目でドアを睨みつける。

 しかしその夜の彼氏は、かたくなな態度を崩さなかった。

「今日は会わせたい人がいるんだ」

「知らない。帰れ!」

「いいから開けてくれ。大事なお客さんだよ」

 彼氏の後ろには瞑目した霊媒師が控えていた。厳格そうな顔立ちの初老の女性である。

 その隣にアパートの大家が不安そうな面持ちで立っていた。

 大家は当然ながら、Aさんの様子がおかしくなったことを知っている。他の部屋の住民から相次ぐ苦情。大家はその対応に追われて迷惑し、いい加減うんざりしていたのだ。そのため、

「この合鍵を使ってください。チェーンがかけられていたらカッターで切りますから」

 そう話してから、Aさんの彼氏にスペアキーを手渡す。

 受けとった彼氏は、緊張しながら鍵穴に差し込んだ。

 だがこのままドアを開ければ、大柄の獣めいたAさんが襲ってくるのではないか。今夜は特に興奮しているようだ。

 もしかすると刃物で刺してくるかもしれない。ドア越しに喚く彼女が今どんな状態なのか不明なため、言葉ではあらわし難い恐怖感に身体が寒くなり、震えた。

 後ろから大家が顔を寄せてきて、警察を呼ぼうかと持ちかけてきたが、彼氏は一考したあと首を横に振る。

 続いて固唾をのみ、ドアに向ってささやきかけた。

「じゃあ、今から開けるよ。いいかい……?」

「入ってきたら殺すぞ! 刺されて死にたいのか」

 案の定、彼女は手に包丁か何かを握っているらしい。柄で叩いているのか、ドアが激しくドカドカと振動する。

 彼氏はいったん振り返り、霊媒師と大家のほうに視線を戻した。

 大家は困った顔で、やはり通報するべきかとポケットから電話を抜き出した。霊媒師は合掌を解いて、目をひらく。

「わかりました。原因は部屋の中にあるようです」

「どういうことですか?」

 急な切り出し方に、彼氏はその言葉の意味を把握しかねた。

「部屋に何があるんですか?」

「強い苦痛のために混乱して、正しい判断がとれなくなっている怨念です」

 厳然とした声音でそう告げた霊媒師。

「今も暗い場所で苦しんでいます。早く助けないと怨みは増すばかりです」

 やはりこれは霊障であったようだ。

 Aさんの彼氏はさらに詳しく話を聞こうとしたが、霊媒師はおもむろに前に出て、せわしく印を結びはじめた。

 そして一度深呼吸したあと、ドアノブをゆっくりと回す……。


 ──数分後、玄関に血がしたたり落ちた。

 経を唱えたことで落ちついていた彼女だったが、ふいに両目に殺気が走り、刃を勢いよく霊媒師に突き立てたのだ。

 痛みに倒れた霊媒師は、腹部に刺さっている包丁を押さえ、必死な形相で指を向ける。

「タンスです! 部屋にあるタンスを早く!」

 大家はその指示を無視して悲鳴をあげながら外へと逃げ出した。Aさんの彼氏は廊下から、木製のタンスのある部屋に駆け出していく。

 Aさんは天井を仰いで奇声をあげつつ、自身の身体をかき抱いて、床が抜けそうなほど足踏みを繰り返した。

「いだい! いだい! ぐるじい! だずげでー!」

「ひっ!」

 彼氏はその絶叫を背にして怯えながらも、暗くてすえた匂いのきつい部屋までやって来た。電灯のスイッチを入れてから、何が原因となっているのか慌ててタンスを調べはじめる。

「ここからどうすればいいんですか! タンスをどうするんですか!」

「どかしなさい! 早く早く!」

「おもい! がえりだい! もうごごにいるのはいやだー!」

 狂気じみたAさんは、目尻を真上に向くほどに高く吊り上げ、霊媒師の腹部から包丁を勢いよく抜き取った。痛みに咆哮する霊媒師。晒された裂け目から血液があふれてくる。

 泡を含んだそれは、床にみるみる広がっていった。

「早く、どかしなさい……」

 霊媒師は虫の息で指を向け続ける。Aさんは血まみれの包丁を腰だめに構え、彼氏の背中に突撃しようと身をひるがえした。怪鳥のごとく高い奇声を発して廊下をドンドン踏み鳴らしていく。

 彼氏はその接近に背後を確かめようとしたが、迷いを振り切って浮かしていたタンスをずらした。

「ああ!」

 瞬間、背中に激しく衝突をうけた。

 押された勢いでタンスが傾き、ぐらぐらと揺れて倒れこむ。彼氏も一緒になって床に身体をぶっつけた。

 背中の肉を切り裂いた鋭利な刃先に、もだえ、苦しみ、激痛の声をあげて暴れだす。

 Aさんは意識が飛んだように放心し、包丁を握ったまま後退して、壁に身体をあずけて崩れ落ちた──。

 

 そして大家の通報によって、現場には警察官が大勢かけつけた。

 その頃にはもう彼氏と霊媒師の息は絶えていた。

 今こうして冷たくなっていく二つの死体のそばでは、到着した鑑識班が証拠を採取しているところである。

 アパートの敷地には立ち入り禁止のロープが張られ、その外側には騒ぎに集まってきた近隣住民などが、めいめい不安な顔で様子を眺めている。

 部屋の前では、刑事が大家に事情聴取をしており、あたりは緊迫した空気が流れていた。

 鑑識班の一人が、本来タンスのあった位置を気にして、ゆっくりとしゃがむ。

「刺された時に倒したのだろうか……。あっ、ここも撮影お願いします」

 隣でカメラを持った班員が応じて、シャッターを切った。

 フラッシュの当たったそこには、小さな命が果てて横たわっていた

 一匹の黒い蟻である。

 先ほど霊媒師が必死になって訴えていたのは、これであったのだ。なきがらのそばには砂糖の粒が一つ、落ちている。

 Aさんが模様替えの時に、位置を変えた木製タンス。その際に、蟻が下敷きとなって潰れ、死後もなお圧されたままになっていた。

 痛い。苦しい。重い。帰りたい。あいつのことが許せない……。

 つのる怨念。なぜ何の罪もない自分がこんな目に遭わないといけないのか。家族や仲間のために、食事を巣に運んでいただけなのに。

 蟻は死してなお、原因となったAさんを強く怨み続ける。

 その憎悪の念から、Aさんの身の上で不幸が重なり、そして今回、数名の犠牲者が出る殺人事件へと繋がった。

 たとえ小さな虫であれど、そこから発生する怨念をあなどってはいけないのである。


 ──行方不明になっていたAさんは、数時間後、近くの公園で発見された。

 花壇の土を両手で掘り続け、途中で力尽きたのか、穴に上半身を突っ込んで死んでいたのである。 

 

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