第3話 謎の飛行船

 

 高校二年になって最初の日曜日。

 部屋で一人読書をしていると、ふいに誰かに呼ばれた気がした。

 なんとなく気になったので、本を置いて立ち上がり、窓のレースカーテンをひらいてみる。

「おっ」

 青く澄んだ上空に、飛行船が浮かんでいた。

 こっちに横を向けて、のんびりとした雰囲気をおびながらのろのろ進んでいる。

 今まで飛行船が移動しているところなんて見たことがない。よって僕は興味を覚え、棚から双眼鏡をとって、レンズを空に向けた。

 船体はやたらと白く、太陽の光を浴びて美しく光っていた。

 珍しいものに意識を奪われ、まじまじと見物していたら、いくつか並ぶ四角い窓の先頭に、人が立っているのが見えた。

 船長だろうか。割と老年のひげを蓄えた男性が、詰襟の服を着て進行先に顔を向けている。

 そこを注視していると、やおら男がこっちに首を巡らせた。

「……」

 男はじっと立ったまま動かない。

 なんとなくだが僕と目があっているような感じがする。

「ははっ。まさかな……」

 顔から双眼鏡を離して、ふたたび見直すと、男が微笑しながらこっちに手を振っていた。

「えっ?」

 信じられない出来事に一瞬、身体が硬直した。しかし偶然そういう動作をしただけだと思い、僕はそのまま注視し続けた。

 ところがどうだろう。

 男は手を振るのをやめず、こっちに視線を置いた体勢を変えようとしない。奇妙な半笑いを浮かべつつ、手をゆるゆると左右に動かしている。

 気味の悪さがだんだん増してきたので、目を外して双眼鏡を降ろした。

 飛行船は穏やかな速度で空を進んでいる。

「たまたまだよな。そうだ。たぶん……」

 やや焦る気持ちを落ち着かせながら、大きく深呼吸して、もう一度レンズを覗いてみた。

「……ああっ!」

 目を疑う光景が、船内で起こっている!

 横に並ぶ窓という窓すべてに、幾人もの男女が両手を張ってガラスにとりついていた。

 誰もが口をいっぱいに開けて狂ったように窓を叩き、僕に救いを求めているような……おぞましい姿である。

 まるでガス室に閉じ込められて、その苦しみにあえいでいるように見える、地獄の亡者みたいな群衆。

 乾燥した青白い顔。泥か何かで汚れたボロボロの衣服。油ぎって乱れた頭髪。眼窩の部分は空洞になっているのか目玉というものが確認できない。

 ここから出してくれ! そっちへ帰りたい! そんな悲惨な心情がひしひしと伝わってくる。なんという阿鼻叫喚だろう。

 何かの見間違いだと思い二度見するも、やはりその異様な光景に変化はない。

 飛行船で運ばれていく得体の知れない者たち……。

「あの中で、いったい何が起こってるんだ」

 僕は恐怖に包まれ、冷たいものを感じ、双眼鏡を床に落とした。

 動揺する心をおさえつつ、数歩あとずさったあと、はたと気付いて電話をとった。すぐさま番号を呼び出した。

「あっ、もしもし、今なにやってる!?」

 電話に出たクラスメイトに声を送った。すると相手はだるそうな口調で返答する。

「すげー暇。やることなくって退屈なんだけど」

「だったら空を見てみろよ。飛行船が──」

 そんな切り出しで僕は、彼に現在の状況を説明する。

 以前、家に遊びに行ったときに、彼の部屋にも双眼鏡はあったので、

「おまえん所からも見えるはずだ」

「ほいほい」

 僕は焦りをおさえながら床の双眼鏡を拾い、電話を肩と耳に挟んで相手をせかした。

「早くしろよ」

「おー、見える見える」

「見えるか? 気持ちの悪い連中が窓のところでうごめいてるだろう」

「おー。いるいる。いっぱいいるな」

「なんでそう落ち着いていられるんだよ。お前はあれを見て何とも思わないの?」

「いいから手ェ振ろうぜ。おーい。おーい」

 ……おかしい。なぜかいつもと口調が違う。

 普段まじめで軍人めいた堅苦しい物言いをする奴なのに、どうしてか今は軽い態度に変わっている。

「おまえ、もしかして頭でも打った?」

「なんで知ってんの?」

「いや、なんとなくそう思ったんだけど、なんか今日のおまえ変じゃないか?」

「だって仕方ないじゃん!!」

「お、おい。なんで急にキレるんだよ。……まあ、いいや」

 とりあえず僕は警察に通報しようかと考えた。もしかすると今あれを確認しているのは僕たち以外にいるかも知れない。

 そういったことを彼に伝えようと口をひらいたが、先に相手がのんきな声音で喋ってきた。

「んなコトよりさ。早く手を振れよ。こっちだよーん」

「こっちって何のことだ?」

「見える、見えるってバ」

「は?」

「家の窓のところで、あせってるお前の顔が」

 受話口から聞こえるくぐもった声。

 いったいどういうことかと、その意味を把握しかねた。ややあってから、僕は双眼鏡を持つ手に力を込めて、飛行船に目を凝らした。

「…………?」

 悲惨な面持ちの亡者の中に、一人だけ笑っている者がいた。正確には顔の上半分がなく、鼻から下の口だけが笑っている。

 受話口から再び声が流れてくる。

「じゃあオレ、そろそろ行くわ。ほなの。なんちゃって。ギャハハハハハ」

「お、おい!」

 通話がブツリと音を立てて切れた。

 飛行船の窓を叩いて荒れ狂っている亡者の中で、腹を抱えて大笑いしている奴がいる。こっちに指を向けたあと、手を叩いてのけぞっている。

 そこへ四方から大勢の者がとりつき、もみくちゃにされ、引きつった口になって奥へと飲まれて行く。

 やがて飛行船は雲間に隠れ、見えなくなってしまった。

 僕は電話と双眼鏡を持ったまま、事の状況がうまくつかめず、ただ呆然と窓際に立っているだけだった。

 遠くのほうで救急車のサイレンが聞こえる……。


 その日の夕飯時、交通事故を報じるニュースがテレビで流れた。

 交差点を横断していた高校生が跳ねられ、頭を強く打って即死……。被害者にクラスメイトの名前が表示される。

 僕は食事の箸をとめ、驚きの声とともに椅子を倒した。

 事故が起こった時間は、空を漂う飛行船を発見した少し前……。

 あの時、彼との通話が切れたあと何度も掛け直したが、結局繋がらずじまいだった。もしかすると冗談やイタズラかもしれないと思った。

 いちおう外に出て彼の家に向かおうとしたが、なぜか靴を履いている途中、それをやってはいけない危機感めいたものを感じたのだ。

 よって明日の朝、教室で話そうと判断して、今まで微妙な気分のまま自宅で過ごしていた。

 やはりあの飛行船の中で笑っていたのは彼だったのだろうか。変わり果てた姿でよく確認できなかったが、やっぱりそうであったような気がする。


 あの日以来、上空を飛んでいく謎の飛行船を見ることはなかった。

 結局答えは出ないまま、僕は今もこの世界で時を過ごしている。


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