第44話 チークダンス
私はもちろん、阿部寛ではない。
背も低いし、ごくごく平凡なおじさんだと思う。というか、まもなく「じいさん」だ。だから当然、世の中の女性は私に見向きもしない。例えば電車に乗って、運良く座れたとしよう。すると隣の二十代の女性は、席を立ってどこかに行ってしまう。
四十を過ぎて、初めてこれをやられたときは本気で傷ついた。だが、次第に慣れた。今では席が空いていても、隣が若い女性なら座らない。関わらない方が、お互い平和だ。私は吊り革につかまって本を読んでいる。
会社でもそうだ。私に話しかける女性はまずいない。彼女たちと、世間話をすることなど皆無だ。仕事で仕方なく彼女たちに話しかけると、決まってすごく嫌な顔をされる。書類を、投げて渡されたこともある。
廊下ですれ違っても、私に挨拶する人はいない。会社では、私は存在しないも同然だ。もちろん昔は違った。課長だったころは、誰もが私に一目置き、気を遣ってくれた。つまり会社の人たちは、私という人間ではなく課長という役職の人と付き合っていたわけだ。
うつ病になり、降格となった私を最初はみんな普通に接してくれた。しかし、二回めの休職が大きかった。誰もが私を見限った。誰も私を相手にしなくなった。
二、三十代の女性たちと、見かけのいい上司、そして若手の男たちがそろって退社することがある。多分飲み会が企画されているのだろう。私は今の課で、そういう会に一度も誘われたことがない。まあ、仮に誘われても何も話すことがないけど。
つまり私は、一般社会ではいない方がいい人間なのである。蛆虫みたいなもんだ。できれば、見ることも近寄ることも避けられている。
そんな調子で社会生活を送っているので、家に帰ったときのギャップは凄まじい。家では、すべてが私中心に動く。三人もの女性が、私を慕っている。女子高生二人と、若い女性教師の四人で暮らしていると会社の人に言ったら、おそらく誰も信じてくれないだろうな。
千葉に向かう電車の中で、そんなことをぼんやりと考えた。そして、メリットもいろいろあるぞと思った。まず私は、閑職に置かれているので早く家に帰れる。みんなのために、夕食を作ることができる。飲み会に誘われるのは困る。朝のうちに夕食を準備しておかないといけないし、なんと言っても私の帰りが遅いとみんな怒る。とくに涼ちゃんは厳しい。そんな会、呼ばれなくて好都合だ。
それから休日。重い仕事をしてると、休日出勤しないと追いつかない。付き合いのゴルフもある。そんなことで休日が潰れると、本当にしなければいけないことができない。涼ちゃんのおじいさんと同じだ。それは困る。今の私が置かれた状況にとって。
考えなければならないことは、たくさんあった。しかも、時間の勝負だった。今日は、エリちゃん。明日は、涼ちゃんのお母さんだ。一刻も早く、対策を打たねばならない問題だ。会社で働いてる場合じゃない。田所さんは典型だ。彼の命が尽きる前に、真理ちゃんと彼を結びつけなくては。
「おじさん。どうしてそんな苦しい顔してるの?」舞ちゃんがたずねた。
「いやー、悩み事が多くてね・・・」と、私は答えた。
「みんな、私たちの悩みだよね」と、真理ちゃんが朗らかに言った。彼女はいつも笑顔だ。
「そう。ごめんね」と、バツが悪そうに日菜子ちゃんが謝った。その通り。今日の主役は、君だ。
「私が一番、拓ちゃんを悩ませてるかも」と、涼ちゃんが言った。
「そんなことないよ」と、私は即座に答えた。「なんかさあ、全てが同時進行だから。誰が特にどう、ってことはないよ」
「ねえ、舞ちゃん。拓ちゃんって呼んでよ。それから、エリちゃんも」と、真理ちゃんが屈託のない笑顔で提案した。
「ええーっ。それは、ハードル高いなあ」と、舞ちゃんが答えた。
「私も、柿沢さんをそんな風に呼ぶのは・・・」と、エリちゃんも困った顔をした。
「無理して呼んでよ。親近感が、全然違うから」と、真理ちゃんは譲らなかった。
それは、そうかもなと思った。呼び方一つで、相手の存在はぐっと身近に感じるかもしれない。言葉とは、そういう力を持っている。
「うーん、頑張ってみる。おじさん、笑わないでね」と、舞ちゃんが言った。
「そこで、拓ちゃんって呼ぶの!」と、真理ちゃんが言った。いっせいに、みんなが笑った。いい雰囲気だ。
京成千葉駅を降りて、みんなで千葉そごうに入った。私はもう、後についていくだけ。お目当てのフロアについたら、休憩所でみんなを待つつもりだ。
エリちゃんを先頭に、私たちはエスカレーターで3階に上がった。涼ちゃんとエリちゃんは、もう洋服について熱い議論を交わしていた。チラッと聞いたが、何を話してるんだかさっぱりわからなかった。
千葉そごうに、真理ちゃん好みの服はない。だから、まず涼ちゃんの服を買うことになった。春になり、入学式を迎え女子大生らしい服を買ってほしかった。そこまで考えて、入学式!と気がついた。入学式に着るスーツを買わなきゃ!
そのことをエリちゃんに相談すると、「任せて!」と力強い言葉をいただいた。スッゲー、頼もしいぞ。スーツを作るなら、真理ちゃんの分もよろしくとお願いした。
「真理ちゃん。フォーマルなスーツを買うんだよ。大きなリボンとかダメだからね」
「う、ううーん」真理ちゃんは悲しそうな顔をしたが、しぶしぶうなずいてくれた。
さて、服選びで私にできることはない。私は化粧室前のソファに座り、女性陣が洋服を選ぶのを待つことにした。どうせ、二時間はかかるだろう。今は15時半。日が暮れてから、真理ちゃんの服を買いに行こう。
私はiPadminiを取り出し、書きかけの小説を書こうと思った。でも今日は、どうにも連続殺人事件の話を考える気分じゃなかった。私は早々に、その小説を書くことを諦めた。
その代わり、私はすでに作っている曲の歌詞を考えることにした。テーマはもちろん、エリちゃんだ。
私は最初、マイナーキーのジャズ・バラードの歌詞を考えようと思った。しかしその曲のメロディは、あまりにも悲しすぎた。エリちゃんが負った傷を、そのメロディーに載せるのは酷だと思った。そこで私は、同じく歌詞が決まっていない、メジャーキーの早いボサノヴァ調の曲の歌詞を考えることにした。
歌詞は、詩とは違う。歌詞は、メロディという圧倒的な制約を受ける。思いつくままに、言葉を吐き出せばいいわけではない。メロディに、綺麗にのらなくてはならない。それから歌詞は、韻を踏まなくてならない。短いメロディの切れ目ごとに、同じ母音を使わなくてはならない。そうしないと、聞いていてノリが悪くなってしまうのだ。
英語ならば、situation、infomation、education、temptation のように。「-ation」を多用したり、take、break、fake、snake のように「-ake」を使ったりする。だが、日本語はそうはいかない。
例えば、悲しくて、寂しくて、切なくて、苦しくて という言葉を、メロディの切れ目に使う。そうすると、全部「-kute」で終わることになる。これをメロディに乗せると、とても聞きやすくなる。
しかしこれじゃ、AKBならいいけど私のやりたいことは違う。誰もが悩む、共通の問題を歌詞にしたい。素人ですけど。韻は多少外しても、伝えたいことを歌にしたい。
今日は 晴れマーク
なのに君は 雨の中を歩く
沈んでる
携帯の電源もOFF
謎を解きたい 早く
即興で作ったのが、これだ。一応全部「 -u」で終わるようにした。舞台には、エリちゃんと舞ちゃんが立っている。暗いステージに、スポットライトを浴びた二人が立っているイメージだ。舞ちゃんはエリちゃんを見つめているけど、エリちゃんはうつむいて日菜子ちゃんを考えている。
こんな空だから 出かけようよ
過去のことは 話さなくていいよ
過ぎたこと
私は何もできない
でもあなたを 包む
ここは最初は、「-o」を続ける。でも、日本語である以上、それでは押し通せない。最後の二行は「-i」と「-u」をあえて使う。それが舞ちゃんの想いだからだ。そして、サビに入る。
カラフルな
服のような
秋の山
紅葉が
絶対
君を誘惑する
今度は、「-a」を続けて、最後の二行は「-i」と「-u」で終わるパターンを考えた。日本語の動詞は、「-u」で終わるので使わざるをえない。あとは、メロディに対してどれだけ自然かで決まる。
ここまでパッと作ったが、あまりいい詩とは言えない。第一矛盾がある。「 謎を解きたい 早く」と言っておきながら、「過去のことは 話さなくていいよ」と言うのは矛盾だ。実際私は、エリちゃんの子供時代からほじくり返した。ほじくらないと、真実は見えてこない。そして話しかけるべき言葉も、真実を知らねばピント外れになる。
舞 ターンして
ミニの裾を 翻がえしてみせて
君がいる
私が沈んでても
過去の恋を悔やんでても
舞 教えてよ
笑うことって 私難しいよ
君がいる
赤ワインを飲もう
おつまみは私が作るよ
つらいよ
自分がヤダよ
時々 ひどくなる
それでも
君はそばにいる
これはさっきより、大分マシだと思う。主人公はエリちゃんに絞り、舞ちゃんに話しかける形式にする。舞は、「My」と同じだからリズムに乗りやすい。
しかし、だ。これも気に入らない。まず、日菜子ちゃんは出てこない。彼女の存在を歌わなきゃ、エリちゃんのつらさは謎のままだ。うーむ。
日菜子ちゃんがしょっちゅう、私を呼びに来た。試着した涼ちゃんと真理ちゃんを、私に見せるためだ。はっきり言ってこの二人は、何着たって似合う。だが呼ばれたからには、何か感想を言わないといけない。
女性陣は、黒にするか濃紺にするかで激論を交わしていた。黒なら、今後いろんな場面で役に立つ。でも、喪服みたいだと考えると、違う色にしたくなる。それで濃紺だ。グレー案はすでに却下されていた。
「拓ちゃん、どう思う?」と、涼ちゃんが真剣な顔で聞いてきた。
「黒でいいじゃん」と私は答えた。「ブラウスを可愛い色にして、アクセサリーでアクセントつければ黒でもオシャレに見えるよ」と、私は分かったような口を聞いた。なんのことはない。さっきiPadで、大学入学式の服装を調べたのだ。
「拓ちゃん、その通りです」と、エリちゃんは初めて私を「拓ちゃん」と呼んだ。
「問題は、黒の質だね。ここは、エリちゃんのセンスに頼ろう。とびっきりの黒をお願いします」と私は言った。
それだけ言って、私は休憩席に戻った。今度は女性陣は、どの黒にするかで揉めに揉めていることだろう。それが楽しいのだ。楽しいことはいいことだ。人生で楽しい時間は、驚くほど少ない。私は洋服のことは忘れて、作詞活動に戻った。
ねえ 叶わない
恋をしたよ どうしようもなく
親友と 彼女は思ってくれる
でもそれがとてもつらい
舞 忘れるよ
彼女のことを 頑張ってみるよ
遠くなる
彼女と過ごした日々 消していくのはつらい
今までで、一番いい気がする。韻は、あえて無視した。それより、本音を重視した。サビは、一転してこうである。
彼女の写真を
何度も見返す
こんなこと
何にもならない
まあまあ、である。曲に仕上げるには、さらに推敲が必要だ。だが、いい骨格はできた。ロックやポップスにおいて、一番とサビはとても重要である。これが決まったら、二番や三番、そして大サビはそれに沿った言葉を選べばいい。つまり、一番とサビの歌詞で全部決まってしまうのだ。
今日はこんなもんかな、と思いながら私はiPadを鞄にしまった。そして、エリちゃんのことを考えた。今日私が伝えた言葉は、彼女に届いただろうか?もちろん、そんなことはわからない。エリちゃんが、じっくり考えればいいことだ。50歳を目前にして思うのだが、人が幸福な人生を送ることはとても少ない。それはいろんな事情があるが、恋に的を絞って話せば、好きな人と結ばれることは滅多にない。
日菜子ちゃんが、エリちゃんを本気で愛することはない。日菜子ちゃんが本気で愛しているのは、なんと私だ。エリちゃんに本当に申し訳ないが、それが現在の事実だ。
舞ちゃんは、エリちゃんに日菜子ちゃんのことを忘れて欲しいと言った。それは無理な相談だ。十数年間も、本気で人を好きになったのだから。これからもずっと、エリちゃんは節目節目で日菜子ちゃんを思い出すだろう。だが、時間は流れていく。誰だって、自分なりの幸せを目指して努力しなくてはならない。
だが、待てよ。そんな偉そうなことを言っている私は、自分の幸せを獲得しようと努力したか?していない。私は、諦めた。何もかも諦めた。このまま静かに、何も考えず死んでいくつもりだった。土くれに還るつもりだった。
だがそんな私を、涼ちゃんと真理ちゃんが変えた。毎日全力で努力することを、二人は私に教えた。彼女たちのために戦う、という生きがいを教えてもらった。私は、涼ちゃんと真理ちゃんのために生きている。
二時間以上かかって、やっと洋服が決まった。入学式は黒で決まり。涼ちゃんが学校に通うための服は、茶色のジーンズと白とベージュのスカートに決まった。白のスカートは、涼ちゃんにしてはびっくりするほど短かった。春だと、やっぱり白なのかな。
会計をすると、とんでもない金額だった。でもいいさ。これが私の生きがいなんだから。そういや、涼ちゃんのおじいさんからもらった500万円は、手をつけないままだった。私はほっとくことにした。何か特別な事態が起こったら、使えばいいさ。
涼ちゃんのあとは、真理ちゃんの普段着である。みんなはまた、千葉駅から離れた細い路地にあるあの店に向かった。もう陽は沈み、あたりは暗闇に包まれていた。しかし女性陣は、やる気満々だった。洋服を選んでいると、疲れとか感じないのだろう。私には理解できない世界だ。
私はまた、店の外の路地に立ってみんなを待った。もともと私が入っていい店じゃない。私なんかが店内をウロウロしていたら、他のお客さんが帰ってしまう。世間では、私は蛆虫なのだ。蛆虫は蛆虫らしく、暗がりで大人しくしていよう。
また二時間くらいかかるだろう。私はまたiPadを出して、創作活動で時間を潰すことにした。殺人事件の小説は、まもなく完成する。そこで私は、次回作の構想を練ることにした。
私は小説を作るとき、びっくりするほど事前準備をしない。私がこだわるのは「きっかけ」である。書き出しのストーリーと、中間部の小クライマックスをいくつか考える。出だしのストーリーと、小クライマックスのストーリーがピタリと組み合わさったとき、私は小説を書き始める。もう、登場人物たちの性格や行動が固まったからだ。第2話を書き始めると、登場人物たちは勝手に喋り出す。目的地は、小クライマックスである。そこへ向かって、びっくりするくらい簡単に新たなストーリーが思いつく。
例えば、私が「海に行く」という話を書こうと考えたとしよう。朝起きて、車に乗り海へ向かう。登場人物たちは何かしゃべるか、あるいは沈黙する。彼らの性格で、取る行動が必然的に決まる。海へ向かってどんどん進むうちに、次第に活発な会話が始まる。会話はだんだん、問題の核心へと近づいて行く。このときも作者である私は、ほとんど何も考えてない。やはり登場人物が、べらべらしゃべるのだ。彼らならこんなことをしゃべるだろう、というのが自然に決まっちゃう。私は彼らが話す言葉を、まるで会議で議事録でも取ってるみたいにPCに打ち込むだけだ。
漫画家のあだち充さんも、同じことを言っていた。新しい連載を始めると、最初は登場人物たちを一生懸命動かすそうだ。そうすることで、彼らがどんな個性を持つ人間かが決まる。ある地点まで到達すると、あとは登場人物が自分でどんどん動き始めると。私は、彼の言わんとすることがよくわかる。
さて私の小説の特徴は、やたら理屈っぽいことだろう。普通の小説では、こんな長々と論文形式の話を書いたりしない。だが、誰かを本気で救おうとするなら、知識と経験が不可欠だ。知識と経験は、コインの表と裏の関係にある。どちらかではダメだ。知識があるから、経験から意味あることを引き出せる。経験するから、知識の裏付けができる。そしてこの二つから得たことを、シンプルな論理にまとめる。シンプルでなければ、自分が救いたい人に届かない。最後にモノを言うのは、論理なんだ。
例えば村上春樹さんを例にあげよう。おそらく彼の最高傑作を争う「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では、まったく異なるストーリーが一話ずつ順番に進むという彼得意のパターンで作られている。「世界の終わり」という話では何不自由ない、だけど変化や刺激が皆無の生活が淡々と語られる。一方「ハードボイルドワンダーランド」では、主人公が大企業間の情報戦争に巻き込まれ、命からがら逃げ回る大活劇となっている。
だが私の考えでは、この小説の表層のストーリーに村上春樹さんの言いたいことはない。それは巧妙に隠され、様々な登場人物が小出しに話す形を取っている。例えば、スパイ小説さながらの戦いを演じるのは、「計算師」と「記号師」というグループだ。この二つのグループの対立を、「計算師」の組織を作った老博士は「同じ人間の右手と左手」だと評している。
さらりと交わされる会話に、深い洞察が隠されている。この小説が発表された1980年代は、米ソ冷戦の真っ只中だった。彼らは直接対決する代わりに、世界各地で代理戦争を行った。朝鮮、キューバ、ベトナム、アフガニスタン、・・・。だがここで、資本主義と社会主義をシンプルに比較しよう。
資本主義は、自由を重んじ不平等(格差)を認める社会である。社会主義は、平等を重んじ自由を制限する社会である。スタートが自由か平等かというだけで、その差は驚くほど小さい。
また「記号師」という名前から、記号言語学を土台としたポスト・モダン思想とヘーゲルに代表される観念論の争いも連想される。村上春樹さんは、それも同じ人間の右手と左手だと言っているのだ。
彼が生きた戦後の世界は、社会主義をとるか、資本主義をとるか、あるいは記号言語学をとるか、観念論をとるか、の選択を迫られる時代だった。だが歳を重ねて考えれば、その違いはわずかだとわかる。一人の人間がどちらを選択しても良いし、そもそも人間の本質はその選択の中にはない。どちらでもいいのだ。だがその違いのために、気の遠くなるほどたくさんの人が死んだ。それが、歴史的事実だ。
「世界の終わり」の後半で、一見完全に構成されていると思えた街が、実は大量の動物たちの死で支えられていることに主人公は気がつく。彼は自分の影と、街を脱走することを計画する。街では、脱走は重罪とされる。だが主人公と影は、多くの犠牲の上に成り立つこの街を許すことができない。
この部分は、すぐに南北問題を連想させる。発展途上国の貧困と犠牲があって、先進国の贅沢な暮らしが成立している。実際、村上春樹さんの世代はこの矛盾をよく理解していた。だから、激しい学生闘争を繰り広げることになった。彼らは、世界の終わりの主人公と影と同様に、世界から、自分の属する場所から脱走した。
だが、逃げ出して何になるのか?これが、村上春樹さんの力を入れているところだ。土壇場で、主人公は影に「自分はここに残る」と言う。影がいくら説得しても聞かない。「僕には、ここに残る責任がある」と。責任があるから、脱走するわけにはいかないと。
おそらくこの小説を読んだ大半の人が、この結末に首をひねるだろう。それはひとえに、主人公の言葉に説得力がないからである。毎年ノーベル文学賞の候補に上がる、大小説家を捕まえて大変失礼だ。だが、あまりに言葉が足りない。
ラストシーンで、影が「この街を作ったのは、君自身だ」と言う。このことは小説では、「世界の終わり」というストーリー自身が、もう一方のハードボイルドワンダーランドの主人公が頭の中で空想した世界だからだと説明される。しかし、村上春樹さんの本音はそこにはない。
日本という国に、私たちは住んでいる。日本は近隣諸国の森林資源を伐り尽くし、食べ物を買い占め、中東から化石燃料を大量に購入して浪費し炭素ガスを吐き出し、海洋資源を世界中で漁りまくった。所得倍増計画を立てて高度成長を実現し、国民の誰もが贅沢を謳歌した。テレビ、冷蔵庫、洗濯機である。これが「世界の終わり」の完成された矛盾のない街の、現イメージである。
そのせいで近隣の発展途上国は、深刻な環境破壊に直面した。日本国内でも、企業は排ガスや産業汚染水を垂れ流し、国中で悲惨な公害問題を引き起こした。そんな問題のある工場は、都市圏にはない。地方都市にある。村上春樹さんの世代は、貧しい発展途上国の現実や地方都市の公害問題に直面し、自分たちが外の世界に矛盾を追い出して幸福な生活を享受していると思い知ったのである。
「この街を作ったのは、君自身だ」という言葉は、実はそういう意味である。日本人はみんな望んで、この国を作ったのだ。だがそれは、深刻な悲劇をもたらした太平洋戦争から、もう一度立ち上がろうとした世代の努力の結果である。空襲のあとの一面焼け野原から、文字通りゼロから国を立て直した。多大な苦労を味わいながらそれに耐えた人々を、一概に責めることはできないと私は思う。この視点が、村上春樹さんには欠けている。彼は自分の父親の世代がしたことを、素直に認められないのだ。
そして、主人公が街に残ること。私ならこう書く。確かにこの街は矛盾に満ち、みんなそれを見て見ぬ振りをしている。だが、この街を作ったのは私たち自身だ。こうありたいと願って、この街を作ったのだ。その願望と努力を、簡単に否定するべきじゃない。
ならば当然、ここから私たちは立ち去るべきではない。ここには自分が守るべき、大切な人たちが暮らしている。その人たち全てを捨てて、自分だけ別の世界に逃げるのか?ふざけるな。私たちには、ここでやるべきことが山ほどあると。矛盾を解け。一つずつ。時間がかかっても。
実はこの時代を生きた、世界中の先進国の若者が自分の世界から逃げ出した。ヒッピーとなって、世界中を放浪するものがたくさんいた。外国の軍隊に入り、戦争やテロに加担するものもいた。その心境は、「世界の終わり」の影の考え方と同じだ。
「この世界は間違っている。ゆえに、どこかに正しい世界がある。この推論は完全な誤りだ」
これは、ニーチェが書いていることを意訳したものだ。私はこの意見に、全面的に賛同する。日本が矛盾に満ちた社会だからといって、どこかにガンダーラがある証拠にはならない。こんな簡単な間違いを、多くの若者が犯した。
村上春樹さんは、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」をもっと自分の体験に即してわかりやすい論理で書くべきだった。この小説は、一見探偵小説みたいな娯楽作品の顔を持っている。その裏で、彼の同世代の若者がたどった思考の軌跡が封じられている。
私は村上春樹さんのような、謎が残る小説は書きたくない。実際彼は結論を書かないで、いく通りも解釈できる作品にすることを楽しんでいる風がある。それでファンが多いんだから、これ以上は何も言わない。でも私は、疑問のないよう徹底的に理屈っぽくありたい。私の小説を読んだ人が、自分が抱えている謎を解くためだ。この世はそんなに難しくない。大丈夫だ。解けない問題はない。開けない夜はない。
「拓ちゃん、拓ちゃん!」
涼ちゃんと真理ちゃんが、二人一緒に店から飛び出してきた。二人は、iPadを持ってウンウン唸っている私の手を、グイグイ引いて店内に連れていった。
試着室の前には、日菜子ちゃんが立っていた。彼女は鮮やかな水色のワンピースを着ていた。巨大なフリル付きの白い襟の先端に、小さな紺のリボンが巻かれていた。腰はまた巨大なリボンで縛られ背中で蝶々結びになっていた。スカートはふわっと前後左右に広がり、スカートの端は全て白のフリルだった。それからスカート自体が、ドキッとするほど短かった。おいおい、ホントかよ。
これは、30歳が着る服じゃないだろうと思った。だが、そんなこと言ったら殺される。私は黙っていた。
「拓ちゃん、どう?」と、エリちゃんが言った。どうやらエリちゃんは、日菜子ちゃんの服装に納得しているらしい。
日菜子ちゃんは、とても恥ずかしそうにうつむいていた。でも、目の前の全身鏡に何度も目を移して、服を確認した。実は気に入っているようだ。
「大月さん、可愛い服も似合いますねー」と、舞ちゃんが私に言った。まるで、セールストークみたいだ。
「いいんじゃない」
私はようやく、それだけ言った。もう女性陣の意見は、一致しているのだ。私が異論を挟む余地はない。しかし日菜子ちゃん、この服をいつ着るつもりだろう?公共の場ではキツいぞ。家にいるときか、ドライブに行くときとかに着るつもりかな?
真理ちゃんの服も、もう決まっていた。いつもと同じお姫様ファッションなので、これは違和感ない。私はむしろ、さっきのスーツ姿の真理ちゃんが可愛かった。でもそれを口にしたら、きっと涼ちゃんと日菜子ちゃんが怒り出す。発言は常に、気をつけねばならない。
会計を済ませて外に出た。この店は、とても良心的な値段である。エリちゃんも「安い!」を連呼していた。さすが、真理ちゃんが探し出した店だ。
「生地ってね、凝り出したらキリがないの。お金に糸目をつけなければ、とんでもない値段の服が買える。でもね、服って総合力だから。高くない生地を組み合わせても、デザインである程度補える。要は、相手に与える印象が大事だから。世間の人で、生地を褒めてくれる人はまずいない。むしろその服が、その人の人格に合ってるかで評価するの」
エリちゃんは、自分の洋服哲学を熱く語った。いいことである。
「確かに。男なんて、女の人の服が高いか安いか、まずわかんない。その代わり、可愛い服かどうかに目がいくな。もっと言うと、胸元とか、スカートからチラッと見える太ももに目が行っちゃう」と、私は答えた。
「ヤッダー、サイテー」と、涼ちゃんが言った。
「でも、それ大事だと思う。服を着て、見せるところは見せるの。どうだ!って」と、舞ちゃんが私の意見に賛同した。らしい発言だ。
「そうだねー。私も、次は胸を強調した服を買おうかな?」と、真理ちゃんが言った。もちろん彼女は、女の子に見せるのが目的である。すぐに、涼ちゃんの顔が怖くなった。いるんだよ、こういう人。彼女がミニスカート履くだけで怒るやつ。
私たちは普通な会話のようでいて、女性に愛されるための服装について議論した。これだよ、と私は思った。私は今日、ここまでたどり着きたかった。
日菜子ちゃんは、なんと買ったばかりのワンピースを着て、その上に分厚い黒のロングコートを羽織って歩いていた。着てきた服は、お店でもらった紙袋に詰めていた。この服を、人に見せたくてしょうがないようだ。それならば、と私は作戦を変えた。
私は千葉駅の西口を通り過ぎて、反対側の東口に回った。そこに、Kento’sという店がある。生バンドがオールディーズを演奏していて、それを楽しみながらお酒を飲む店だ。店に入ると、ちょうどステージの最中でバンドが Elvis Presley のHound Dog を演奏しているところだった。店に入るなり、生演奏にみんなのボルテージが上がるのを感じた。
店内は十分に暖房が効いていた。狙い通り。日菜子ちゃんはコートをカウンターに預け、春服のワンピース姿になった。それでも十分暖かった。時間が早いので、お店はまだ空席がたくさんあった。私たちはステージ正面の、特等席のテーブルに丸くなって座った。
「俺は、エリちゃんと舞ちゃんを送るからジュースでいいよ」と、私が言うと、「子供じゃないんだから、電車でちゃんと帰れます。拓ちゃん、好きなの飲んで」と、エリちゃんに言われた。
それならば、お言葉に甘えて。私がジン・トニックが好きなんだと言うと、驚いたことにエリちゃんも舞ちゃんも日菜子ちゃんも同意した。それで、最初の一杯は生ビールを飲んで、そのあとはジンのボトルをトニック・ウォーターで飲むことになった。もちろん、涼ちゃんと真理ちゃんはトロピカル・ドリンクである。
1回目のステージが終了した。ラストの曲は、Procol Harum の「A Whiter Shade of Pale」だった。定番である。
「拓ちゃん、この店よく来るの?」と、真理ちゃんが聞いた。
「うん。大学時代からだから、もう30年になるかな?最近は少しご無沙汰だけど、昔の友達と定期的に通ってる」と私は答えた。
「バンドがずっと演奏するの?」と、今度は涼ちゃんがたずねた。
「30分に一回だよ。30分演奏して、30分休み。その繰り返し」
「どんな曲を、演るの?」と、日菜子ちゃんが質問した。
「基本は、1950、60年代のシンプルなロックンロールやポップス。あと、70年代、少し80年代もやるね。みんな有名な曲だから、どこかで聴いたことがあるよ」
「ふーん」と、涼ちゃんと真理ちゃんが声を揃えた。
生ビールとトロピカルドリンクが運ばれてきて、私たちは乾杯した。何に乾杯したんだ?深く考えると、いろいろとつらくなるからやめた。その代わり、私はまた村上春樹さんの小説を考えた。
自分の影か、と私は思った。「世界の終わり」において、街は高い壁に囲まれている。街に入るためには、影を自分の身体から切り離さないといけない。この設定が意味することは簡単だ。人は誰しも、俗なる世界の欲望を持つ。「愛されたい。評価されたい。人より秀でたい。甘やかされたい」と。子供から大人になる過程で、人は例えばレーシングレーサーだったり、パイロットや外交官だったり、オリンピックの金メダリストだったりと、いろんな夢を描く。それは、俗なる世界の欲望の具体化だ。何者かになり評価される資格を得て、成功し社会の賞賛を得たいと望む。
だが夢の実現には、超人的な努力と膨大な犠牲を必要とするだろう。ほとんどの人は、夢の途上で挫折し諦める。だがその夢を抱く自分を、大人になるまで大切にとっておく。これを一言で、ロマンと言う。
影が自分から切り離されるのは、子供っぽいロマンは捨てて社会生活を営むことを意味する。多くの見知らぬ人々たち、自分と異質な人々たちと一緒に働き、職場が定めたルールに従う。社会生活において、自分のロマンにかまける時間はほとんどない。
だがほぼ全ての人が、子供の頃から育んできたロマンにこそ「本当の自分」があると言うだろう。自分はそれを捨てるか、押し殺して社会で働いているのだと。村上春樹さんもそう考え、影の存在にに「本当の自分」を重ねている。
だが、「本当の自分」とはなんだろう?この問いにすぐに答えられる人は、ほとんどいないんじゃないかな。ロックの歌詞では、「本当の自分を大切にしろ」とか、「本当の自分を失いたくない」という歌詞がたくさん出てくる。だがその正体を知るものは少ない。
村上春樹さんの世代では、真面目で純真で勉強ができた人ほど「この世界は、間違っている」と考えた。そしてそれを打破するために、学生運動に身を投じ、過激化し、最後には殺人にまで突っ走った。つまり、「世界の終わり」の街に入ることを拒否し、自分の影を切り離すことを拒んだ。そしてこの社会から、脱出した(逃げ出した)。そこまでしないにしても、若者なら誰しも、会社に入って一生を終える人生に本当は疑問を持っているだろう。
ロマンとは、社会に参加することを拒むだけではない。それはむしろ、恋愛において現れるほうが多い。エリちゃんは、中学生のときに日菜子ちゃんに出会って恋をした。彼女が理想とする空想上(ロマン)の人と、日菜子ちゃんはピッタリと重なった。それは最初は淡い憧れに始まり、次第に日菜子ちゃんそのものを自分のものにしたいという激しい欲望に変わった。別に、悪いことじゃない。誰だっておんなじ経験をするものだ。つらいのは、エリちゃんがその想いをずっと諦められなかったことだ。
私は今日、二人を決定的に引き離すべく画策している。日菜子ちゃんだけでなく舞ちゃんも巻き込んで。うちの庭で、エリちゃんが泣くほど説教までして。ひどい男だ、我ながら。だが自分の影(本当の自分)など、ひきづるものではない。
本当の自分という問いかけの正解は、「その都度違う」である。人は身につけた知識、経験、その場の状況で様々な異なる答えを出す。それを人は「本当の自分」と呼ぶ。それは、自分の周りを囲む(親しい、大切な)人々に多大な影響を受けている。いろんな意見を総合して、人は答えを出す。それが今の「本当の自分」だ。それは形はなく、影として切り離したりできるものではない。だが普通の人は、それがわからない。
実は私は、これまで意図的に「本当」という言葉を多義的に使用してきた。「本当の自分に、素直であるべきだ」とか、「傷ついてこそ、本当のことを知る」というように。その理由は、多くの人が「本当」という言葉に込めている意味が共通しているからだ。普通人は、「本当」という言葉にいつか辿り着くべき究極の真理を連想する。そして今の自分が、それからどれだけズレているかを気にするものだ。
ちょっと考えればわかることだが、一年前のベストな自分と現在ベストな自分は違う。自分を取り囲む状況が異なるからだ。リスのように走り回るべきときもあるし、図書館に何日もこもって勉強すべきこともある。周囲の人に対して、出来得る限り優しく接すべきときもあるし、反対に怒鳴って叱って大暴れすべきときもある。「本当の自分」は、社会の中で七変化しなくてはならない。だから、村上春樹さんのように、それを「自分の影」と実体化してはいけない。
繰り返していうと「本当の自分」とは、誰もが子供の頃から時間をかけて構築したものだ。それは子供自身のようにすくすくと成長し、変化してきた。言い換えれば、生まれたときから「本当の自分」のコアがあって、変わることなく体内に居座っているわけではないのである。
だが『本当の自分のコア存在』説の方が、世の中の常識ではある。だから人は、「本当の自分でなくなる(本当の自分に嘘をつく)」とか「本当の自分を見失う」とか言うのだ。
私の右隣が日菜子ちゃんで、左がエリちゃんだった。なんとなく私は、二人に割って入るように座った。意図したわけじゃないんだが。エリちゃんの隣は、もちろん舞ちゃん。向かいの椅子に、涼ちゃんと真理ちゃんがステージに背を向けて座った。
「拓ちゃんは、ずっと独身なんですね?」と、エリちゃんが私に聞いた。その言葉に、舞ちゃんと日菜子ちゃんも身を乗り出した。
「そうなんです」
「どうしてです?こんなに素敵なのに」
「素敵ではないですよ。汚いオヤジです」
「拓ちゃん。謙遜はいいからさ、ずっと独身の理由を教えてよ」と、舞ちゃんが離れた場所から大きな声で言った。
「うーん。まず私は、今よりずっとわがままだった。自分のことしか考えてなかった」
「それ、誰でもそうなんじゃない?程度の差はあっても」と、舞ちゃんが言った。
「舞ちゃん、さすが優しいねー」と私は彼女の気遣いに感心した。「それにね、俺は結婚になんの憧れも希望も持ってなかったんだ」
「なんで?」と、エリちゃんが不思議そうに言った。
「なんでだろうね。多分それは、変に知識を身につけてたせいかもしれない。結婚しても、愛情は続かない。恋愛は必ず終わる。そのあとは地獄の日々だって、気がついてたな。若いときから」
「えー、それは私には理解できない」と日菜子ちゃんが、口を尖らして言った。
「私も、そんな考え方したくない」と、舞ちゃんが言った。エリちゃんだけが、黙っていた。
「二人の関係を維持するのは、恐ろしく難しい。初めは手をつなぐだけで感動的だったのに、時間が立つにつれ、それは日常に変わる。もう感動しなくなる。流まり、相手に飽きてしまう。それは仕方のないことなんだ」
「ない!私には、ない!」と、日菜子ちゃんが力を込めて宣言した。水色のワンピースは、お店の薄暗い照明を浴びてさらに映えた。彼女はまた、女子大生くらいに見えた。エリちゃんには、そんな彼女の姿がどう見えるだろう?
「私は、拓ちゃんの言うことわかります」と、エリちゃんは意外な発言をした。「私も、いろんな人と恋をしました。そしてその全員と、別れたんです」
エリちゃんの言葉に、場は静まり返った。彼女の言っていることは、私は半分分かった。だが彼女たちと別れたもう半分の理由は、日菜子ちゃんへの想いにあるはずだ。だがもちろん、私は何も言わなかった。
「私は信じてる。今の気持ちが続くことを」と、舞ちゃんが力強く言った。格好いいー。エリちゃんが、さっと彼女へ視線を向けた。
「こんな風に考えてみよう。今大成功している会社がある。でもおんなじことを繰り返していると、次第に売れなくなる。SONY も SHARP も、昔はどんどん斬新な製品を出していたのに、今はさっぱり元気がない。同じやり方を続けていたらダメなんだ。どんどん変化していかないと。そして新しい自分を、相手に見せる。そして新たな気持ちで好きになってもらう。これを繰り返すこと。これが、ずっと好きでいる秘訣だと思う」と私は言った。そして、「でも俺は、そんなこと一度も出来なかったけど」と、付け加えた。
二回めのステージが始まった。スタートは、Rock Aroud The Clock だった。客席は次第に埋まり始めていた。気の早い客たちが、一曲めからステージの前に立って踊り出した。この店は、ステージと客席の間に広い空間が作ってある。客がダンスするためだ。
「ねえ、この店踊っていいの?」と、涼ちゃんが私に聞いた。
「そうだよ。踊れるのが、この店のウリなんだ」と私は答えた。
二曲めは、The Supremes の You Can't Hurry Love だ。さらにステージ前に出て踊る人が増えた。
「すごーい」と、真理ちゃんが感心して言った。
踊っている人の年齢層は、幅広かった。二十歳くらいから、五十代くらいまで。圧倒的に女性が多い。男は恥ずかしがって、なかなか踊らない。
「ねえ、涼ちゃんと真理ちゃんも踊ってみる?」と私は聞いた。
「ええっ、どーしよ?」
「恥ずかしいな・・・」
「みんなに紛れちゃえば、関係ないよ」
私は立ち上がった。三曲めは、Shocking Blue の Venus。偉大なる一発屋。私は涼ちゃんと真理ちゃんの手を引いて、ステージ前に強引に連れて行った。
「どうすればいいの?」と、涼ちゃんが不安そうに聞いた。
「リズムに乗って、身体を動かしてれば何でもいいよ。ただし。サビのところでキメのポーズがあるからね。俺の真似して」
Well, I'm your Venus
I'm your fire
At your desire
この歌詞の最後で、右手でステージを指しながら身体を左に傾けるのがお決まりのポーズである。涼ちゃんと真理ちゃんは、ちょっと遅れてついてきてくれた。
周りのお客さんが、涼ちゃんと真理ちゃんを見てびっくりしていた。やっぱりこの二人は、どこに行っても目立つ。本人たちからすれば、どうでもいいことだけど。
もう前に出てしまったら、勢いである。次々にかかる曲に合わせて、私たち三人は踊った。もう、全員汗びっしょりである。ノリのいい曲が続いた後、最後のチークタイムになった。曲は、Elvis Presley の Can't Help Falling In Love である。
照明が落とされ、大半の人が席に戻ったが数組のカップルが抱き合ってチークダンスを始めた。
「これ、なに?」と、涼ちゃんが私に聞いた。
「チークタイムっていって、恋人同士が抱き合って静かに踊るんだよ」と私は教えた。そして、席に戻ろうとした。
「やりたい!」と涼ちゃんは言い、私に飛びついた。両足は浮き、ただ私にしがみついてるだけ。踊る気まったく無しである。そんな彼女をしっかり抱きながら、私はゆっくりリズムを取って足を動かした。涼ちゃんの小さな身体を改めて感じて、私は胸が揺さぶられた。こんなに小さいんだ、こんなに細くて脆いんだと。
「涼ちゃん、ずるーい!」と、真理ちゃんが怒り出した。真理ちゃんの勢いに押されて、涼ちゃんは私から離れた。すぐに今度は、真理ちゃんが私に飛びついた。グラマラスな彼女の身体を感じたが、私はそれよりも頬を私の胸に埋める彼女の様子に心を奪われた。彼女だって、たくさん不安があるんだ。若いから仕方がない。さらに、いろんな可能性がある。エリちゃんが言った通り、みんな別れてしまうのだ。涼ちゃんだって、そうかもしれない。そう考えると、彼女を抱く腕に力が入った。
「拓ちゃーん。私より気合い入ってない?」
涼ちゃんが、得意のとても怖い顔をした。しかし今ばかりは、真理ちゃんを抱いた腕をほどくわけにはいかない。私は曲が終わるまで、しっかり彼女を抱きしめた。
照明が明るくなり、2回目のステージが終わった。私たちは席に戻った。
「すごーい。よかったよー」と、舞ちゃんが言った。
「見てるだけで、楽しめた」と、エリちゃんもニコニコして言った。よかった。彼女も楽しんでくれているのだ。
だが、日菜子ちゃんだけは違った。明らかに不機嫌だった。この人は、本当に嘘のつけない人だ。顔を見れば、何を考えてるか全部わかる。
「日菜子ちゃん。あなたも、次のステージは踊るんだよ。チークダンスも踊ろう」と私は、あえてきっぱりと言った。
さっそく日菜子ちゃんの表情が、パアッと明るくなった。ホント、わかりやすい。
「楽しかったあ」と、真理ちゃんがとびきりの笑顔を見せて言った。
「拓ちゃん、真理ちゃんにばっかり優しい」と、涼ちゃんが不平を言った。そして奥のソファに座っている、私の腕をつかんだ。そして、自分の方へ引っ張った。私は仕方なく席を立ち、テーブルを回って彼女のそばに行った。すると涼ちゃんは席を立って、私に「ここに座れ」と目配せをした。私がその通りにすると、涼ちゃんはいつものように私の膝に乗った。
エリちゃんと舞ちゃんは、目を剥いてびっくりした。でも涼ちゃんは気にしない。自分のトロピカル・ドリンクを両手で取って、ゆっくり飲んで澄ましていた。
「あの、これが家では普通ですから」と、私はエリちゃんと舞ちゃんに説明した。「しょっちゅうですから」
「そうなの?」と、エリちゃんは驚きを隠せない様子だった。
「涼ちゃん、そんな格好いいのに。実は甘えん坊なの?」と舞ちゃんも、目をパチクリさせて言った。
「涼ちゃんは、すごい甘えん坊なんです」と、真理ちゃんは冷静に微笑を浮かべて言った。そして、「でも、日菜子ちゃんの方が上かな?」と言った。
「そうなの!?」と、舞ちゃんが大声を出した。
「そうですよ。家では毎朝、拓ちゃんが日菜子ちゃんに服着せてるんです」
「!!?」
真理ちゃんの発言に、エリちゃんと舞ちゃんは完全に固まった。私も驚いた。私が朝、裸の日菜子ちゃんに服を着せてるのを見られていたらしい。まあ、一緒に暮らしてるんだから、いつかはバレて当たり前か。
「やだあ、やめてよ。もう」と、日菜子ちゃんが顔を真っ赤にして恥ずかしがった。でも本当のことなんだから、しょうがない。
私は、エリちゃんを見ていた。彼女は視線を落とし、物思いに沈んだ様子だった。だが真理ちゃんの素直な発言で、日菜子ちゃんが今考えていることはあらためて明らかになった。彼女が昼間、エリちゃんに伝えたことに嘘偽りはない。もともと嘘をつける人じゃない。エリちゃんは、さっと顔を上げた。何かを振り切ったように、笑った。
「ヒナ、よかったね」そう彼女は言った。はっきりと。
「うん・・・」と、日菜子ちゃんは小声で恥ずかしそうに答えた。
「私ね、最初は拓ちゃんと日菜子ちゃんをくっつけるのは無理だと思ったの」と、涼ちゃんが言った。「年が離れすぎてるし、拓ちゃんって決して格好良くないから厳しいなって」
はっきり言うな、涼ちゃん。人の膝に座って甘えておいて、と思ったが黙っていた。
「でも日菜子ちゃんが、私と真理ちゃんの受験のための授業に生徒として参加するようになって。あ、拓ちゃんが先生だったんだけど。で、その授業が決め手だったと思う」と、涼ちゃんが言った。
「そうだね。毎週の授業を受けてるうちに、日菜子ちゃんどんどん綺麗になっていったもんね」と真理ちゃんも言った。「そして、どんどん明るくなった」
「わかるんだよね」と、涼ちゃんが言った。「拓ちゃんを好きになる理由が。拓ちゃんは早いから。とにかく早い。私や真理ちゃんが悩みを相談すると、すぐ行動開始。相手が私のおじいちゃんとおばあちゃんだって、真理ちゃんのお母さんだってお父さんだって、どんどん交渉して話をまとめちゃうの」
「そうなんだ。でも、なんかわかる。エリちゃんが落ち込んで酷かったとき、わざわざ大森まで来てくれたから」と、舞ちゃんが言った。
私は自分を褒められるのが、あまり好きではない。背中がムズムズしてくる。私は、自分が思ったことに従って行動しただけだ。「本当の自分」とは、その都度違う。今最善は何かを考え、決めたらすぐ行動に移す。実は簡単なことだ。勇気があればいい。つまり、自分の行動を人に晒して、批判を甘んじて受ける勇気と心構えがあればいい。
三回めのステージが始まった。
「今度は、全員踊りに行こうよ」と、私は言った。
エリちゃんと舞ちゃんは、ギョッとした顔をした。私たちもですか?とでも言いたげだった。だが、日菜子ちゃんが二人の背を押して席から立たせた。振り返ると、ステージ前は一曲目から人でいっぱいになっていた。店内を見回すと、いつのまにかほぼ満席になっていた。
一曲目は、Madonna の Material Girl だった。続いて、Culture Club の Karma Chameleon 。80年代のメドレーだ。私はこれらの曲が流行ったころ、まだ中学生だった。あのころ私は、まさか自分がこんな生活を送るとは夢にも思わなかった。漠然と、もっと幸せになれると思っていた。いや、今は十分幸せかな。
曲はディスコ・ミュージックへ移った。Kool & the Gang の Celebration 。Earth, Wind & Fire の September 。Wild Cherry の Play That Funky Music 。人気の高い曲のオンパレードだ。ステージ前のお客たちは、もう大騒ぎだった。ステージ前が人で埋まってしまったので、後ろの座席の人たちは通路に立って踊っていた。
エリちゃんと舞ちゃんは踊っているというより、周りのお客さんに押されてよろけて漂っているという様子だった。それに対して、日菜子ちゃんは違った。彼女はリズムにピタリとのって踊っていた。彼女は身体を動かすことになると、抜群の才能を発揮する。歌は下手だけど。
日菜子ちゃんは自分の水色ワンピースの裾を、これでもかと振り回した。離れた人からは、下着が見えちゃってるんじゃないの?と思ったがほっといた。彼女はキラキラしていた。両腕も大きく振って、ノリにノっていた。私のすぐそばに立ち、私の目をずっと覗き込んでいた。
曲は一転して、ロックンロールに変わった。Chuck Berry の Johnny B. Goode 。
「サビはみんな歌うんだよ。Go Johnny go go!だよ」
私はみんなに教えて回った。サビになると、踊っている人だけでなく、客席の人まで一緒に歌った。その真似をして、みんなすぐ歌えるようになった。
Go Johnny go go!
お店全体が一体になってこの曲を楽しんだ後、パッっと照明が落ちた。またチークタイムである。席に戻るお客さんもたくさんいたが、今回は二十組くらいのカップルが残った。私はずっと考えていたことを、エリちゃんと舞ちゃんに伝えた。
「エリちゃんと舞ちゃんで、チークダンスを踊りなよ」
「ええーっ!?」とエリちゃんが、珍しく大きな声を出した。舞ちゃんもどうしようかと戸惑って、ステージ前に突っ立っていた。
曲は、Billy Joel の Just the Way You Are だった。チークタイムの曲としては珍しい。でも、今の私たちには合っている気がする。
「いいねー。私も涼ちゃんと踊る!」と、真理ちゃんが言った。そして二人はすぐ抱き合って、ゆっくりリズムをとって揺れ出した。さすが長年の恋人。抱き合う姿が様になっている。
涼ちゃんと真理ちゃんに触発されて、エリちゃんと舞ちゃんもお互いの手をとって踊り出した。でも恥ずかしいのか、ぴったりくっついたりはしなかった。
私はもちろん、日菜子ちゃんと踊った。彼女は両腕を私の首に巻きつけ、私の首筋に額をつけてじっとしていた。私は小さな声で、この曲を味わって歌った。
楽しいときがあり
つらいときもあるだろう
僕にはありのままの君でいい
エリちゃんが今夜、舞ちゃんの存在を再認識してくれればいいな。舞ちゃんが、エリちゃんのこれまで別れた全ての元恋人とは違う存在になれば。もちろんこんなことは、ただのおせっかいだ。
それよりも、エリちゃんが日菜子ちゃんのことをすっぱりと割り切ってくれたら。ヒナは親友なんだと。中学時代からの大切な人で、これからも親友なんだと。だけど、それ以上の存在にはならないんだと。
私は、人の人生に深入りしすぎだな。自分でもそう思った。だが、と私は思った。人はそんなに強くないのだ。自分では、どうしようないことがたくさんあるんだ。苦しんでいる人がいたら、誰かが勇気を出して声をかけなくてはいけない。「大丈夫?」と。そして、肩を叩き「大丈夫だよ。君は今のままで」と伝えるんだ。私はおっかなびっくりで舞ちゃんと踊る、エリちゃんを見つめながら考えた。
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