第45話 未来を取り戻せ

 また目黒かよ。

 朝起きてまず、私はそう思った。だが、やらねばならない。今日はとても重要な一日だと、私は考え直した。起き上がって電気毛布のスイッチを切り、裸の日菜子ちゃんに下着から寝巻き、セーターまで着せた。もちろん彼女は起きない。彼女の身体を掛け布団で覆い、私は六畳間からキッチンに移動した。

 まだ5時だった。今日は6時に起きればよかったのだが、パッチリと目が覚めてしまった。まず朝食の下ごしらえをすませ、残った時間は電子ピアノを弾いた。ヘッドフォンをして弾けば、誰にも迷惑をかけない。私はショパンの「別れの曲」を、一時間以上練習した。

 6時半過ぎにキッチンに戻って、本格的に朝食の準備をした。今日は野菜やハムや卵をたっぷり挟んだバターロールである。ソーセージを挟んだものも用意した。それとコーンスープである。

 6時45分に、やっと日菜子ちゃんが目を覚ました。両目が半分以上ふさがっていたが、夢遊病者のようにキッチンに入ってきた。そして、テーブルに食事を並べるのを手伝ってくれた。

 7時に涼ちゃんと真理ちゃんを叩き起こし、ゆっくり朝食。8時過ぎになって家を出た。涼ちゃんのお母さんとの約束は、目黒駅の改札前に10時集合。

 電車の中で、今日の作戦を練り直した。まずは、涼ちゃんのお母さんが自分の両親と和解することだ。そのためには、これまでに自分たちが犯した失敗を見つめ直す必要がある。考えてみれば、斎藤家は失敗だらけだ。これでよく、涼ちゃんのおじいさんは仕事に集中できたものだと思う。あるいは、私生活のつらさを仕事に打ち込むことで誤魔化していたか。

「拓ちゃん、また怖い顔してる」と、隣の涼ちゃんが言った。彼女はいつものように、私の手をぎゅうっと握っていた。

「今日は勝負だからね」と、私は彼女に答えた。

「そうだね」と、涼ちゃんも納得してうなずいた。彼女も緊張しているのだ。自分のお母さんを、おじいさんとおばあさんに会わせることに。

「涼ちゃん、大丈夫だからね。俺に全部任せてね」

「わかってる」と、涼ちゃんは言った。でも表情は少しこわばったままだった。

 私は、昔から難しい仕事が好きである。誰もやったことがない仕事なんて、大好きだ。身体の奥から燃えてくるのだ。よし、今日もこの調子でいくぞ。


 10時10分前に、目黒駅に着いた。みんなで改札を出て、すぐそばの柱に立った。そして改札を出てくる人波の中に、涼ちゃんのお母さんを探した。私の隣には、日菜子ちゃんが立った。今日の彼女は、お気に入りの真っ赤なコートに、下は薄いベージュのフィッシュマンセーター。赤いルージュに、髪をこれまた赤のシュシュで縛っていた。下は深緑のロングスカート。女子大生みたいである。

 そんな日菜子ちゃんを見て、この人って結構綺麗なんだなと再認識した。今さらですけど。それから彼女は、服に相当お金を使っている。給料のかなりを、服代に割いているのではないだろうか?

 日菜子ちゃん綺麗だね、と言うべきだろうか?なんか照れ臭い。でも、言うべきだな、間違いなく。

「日菜子ちゃん。今日は、洋服が似合ってて綺麗だね」

「えへっ!?拓ちゃん、いきなり何?」

 そう言って彼女は吹き出した。

「私も思ってた。今日の日菜子ちゃんは、いい。すごくいい」と、涼ちゃんが同意してくれた。

「私もそう思うけど、昨日のワンピース姿も可愛かった。ほんと、可愛かった・・・❤️」真理ちゃんは、昨日の日菜子ちゃんを思い出してうっとりした。

「ちょっとお。何それ!」と、涼ちゃんが怒り出した。こらこら、ややこしい三角関係になって揉めないでくれ。

 そんなバカなやり取りをしていると、すっと涼ちゃんのお母さんが現れた。彼女は改札から出てきたのではなく、目黒駅の外から私たちに近づいてきた。どうやら、先に着いていたらしい。

 彼女は、髪を真っ黒に染めしっかり整えていた。黒のセーターにベージュのスカートを履き、紺のハーフコートを羽織っていた。首に青いチェックのマフラーを巻き、顔は軽くお化粧をしていた。口紅は薄いピンク。彼女は恥ずかしそうな微笑を浮かべていた。さすが、涼ちゃんのお母さん。きちんとお洒落をすれば、なかなか美しい。

「マーマ!」

 涼ちゃんは、自分のお母さんに駆け寄り、抱きついた。涼ちゃんは、ママが大好きなのだ。

「マーマ。すごく、綺麗。この間と大違い」と、涼ちゃんが言った。

「おはようございます」と私は、涼ちゃんのお母さんに声をかけた。日菜子ちゃんも、真理ちゃんも挨拶した。

「・・・おはよう、ございます・・・」

 とても小さな声で、彼女は答えた。どうやら彼女は、まだ自分の両親に会うことを恐れているらしい。だがダメだ。私は彼女の背中を押す。そしてずっとほったらかしにされていた問題に手をつける。

 私はすぐ、涼ちゃんのおじいさんに電話をかけた。10時5分過ぎだった。

「おはようございます。柿沢です」

「おう、おはよう」と、彼は元気のない声で答えた。

「今目黒駅の改札で、涼ちゃんのお母さんと合流しました。これから10分くらいで伺います」

「・・・わかった。待ってるよ」

 私は電話を切りながら、涼ちゃんのおじいさんの元気のなさが気になった。自分の娘に久しぶりに会えるというのに。人はそれだけ、難しいということだ。

 私たちは目黒駅を出て、涼ちゃんのおじいさんとおばあさんの家へと向かった。大通りではなく、わざと静かな住宅街に沿う裏通りを歩いた。涼ちゃんはお母さんの手を握り、ぶるんぶるんと腕を前後に振り回しながら歩いた。彼女は元気一杯だった。二人が先頭で、私はその後をついていった。

 こんなに愛しているママと、涼ちゃんは六年ぐらい離れ離れだったわけだ。バカげていた。あまりにもバカげたことだ。だが子供は弱い。自分では、ほとんど何もできない。だから大人が何とかするべきだ。何もしないのは、卑怯で卑劣なことだ。

 

「幸子・・・!」

「幸子、あなた・・・!」

 家について呼び鈴を押すと、涼ちゃんのおじいさんとおばあさんが揃って出てきた。二人は朝の挨拶をする私たちを完全に無視した。その代わり、涼ちゃんのお母さんの姿を見て絶句した。

 二人が、涼ちゃんのお母さんの容貌に驚きショックを受けているのは明らかだった。自分の娘の変貌ぶりに、にわかには信じられない様子だった。おいおい。この間に比べたら、これでもずっとマシなんだぞ。甘いんだよ、あなたたちは、と私は思った。この間の涼ちゃんのお母さんを見たら、どっちか心臓麻痺を起こしてたかもしれない。

「マーマ、ドリーと遊んで!」

 ご機嫌の涼ちゃんは、さっそくお母さんを庭に連れ出した。そしてしばらく、愛犬と久々の再開を楽しんだ。残された私たちは、いつものフカフカのソファに座ってコーヒーと紅茶を楽しんだ。そして私は、涼ちゃんのお母さんが帰ってくるのを待った。

「いつも美味しい飲み物を、ご用意してくださってありがとうございます」

 私がずっと黙っているので、たまらず日菜子ちゃんが涼ちゃんのおばあさんに話しかけた。

「いえいえ、全然たいしたものじゃないんですよ・・・」

 その答えたけれど、彼女は半分上の空だった。彼女の頭は、再会した娘で占められていた。おそらくは、いろいろな記憶が彼女の脳裏を駆け巡っていることだろう。

 涼ちゃんのおじいさんも同じだった。ソファに深々と座った彼は、力尽きて眠っているようにすら見えた。うつむき、目を閉じて彼は沈黙していた。でも私は、作戦通りにことを進めるつもりだ。そうしなければ、誰のためにもならない。現実を、直視することだ。嫌なものから目を背けてはいけない。背けている時間は、その人の人生にとって無駄なのだ。この斎藤家全員が、無駄な時間を何年も過ごしてしまった。

 涼ちゃんとお母さんが帰ってきた。

「拓ちゃん、ドリーと遊んで」無邪気な彼女はそう言った。でも、私にはやらねばならぬことがある。

「後でね」と涼ちゃんに答え、私は涼ちゃんのおじいさんとおばあさんを見た。

「さあ、幸子さんと私と、別室でお話をしましょう」

 涼ちゃんのおばあさんは、ビクンと身体を震わせた。おじいさんは、無反応だった。

「涼ちゃん、真理ちゃん、日菜子ちゃん。悪いけど一時間くらい待ってて。俺は、おじいさんとおばあさんとお母さんと、大事な話をしてくる」

 みんなびっくりした様子を見せた。でも私がきっぱりと言ったので、誰も異論は挟まなかった。私が立ち上がると、おじいさんとおばあさんとお母さんの全員が立ち上がった。私たちは奥の食堂に移った。おばあさんが、改めて飲み物を出してくれた。そして、テーブルの中央にクッキーがたくさん入ったバスケットを置いた。そして彼女が、一番最後に席についた。おじいさんとおばあさんが並び、対面に私と涼ちゃんのお母さんだ。私は立ち上がって、食堂のドアをきっちり閉めた。とても子供に聞かせられる話じゃない。


「あのねえ」と、私は明らかにイライラした調子で話を切り出した。涼ちゃんのおじいさんとおばあさんが、後ろに少し身を引くのがわかった。だが、逃さない。

 そこから私は怒った。怒鳴った。吠えた。一時間強、ノンストップで喋り続けた。相手が、大会社の社長とその奥さんだろうが関係ない。涼ちゃんのお母さんのためだ。涼ちゃんのためだ。そして他ならぬ、涼ちゃんのおじいさんとおばあさん自身のためでもある。誰がが、声を枯らして彼らを怒らなくてはならないのだ。

 私が怒った要点は、以下の通りである。

・子供時代の涼ちゃんのお母さんとお父さんを、放っておいたこと。親として、子供をしっかり見つめなかったこと。

・涼ちゃんのお父さんが非行に走り始めたとき、厳しく叱って彼を止めなかったこと。彼の行動がエスカレートし、後戻りできないところまで行くことを許したこと。

・涼ちゃんのお母さんが妊娠したとき、学校を休んで部屋に閉じこもるのを許したこと。

・涼ちゃんが生まれたとき、自分の娘ときちんと話して父親を知ろうとしなかったこと。

・涼ちゃんのお父さんが、お母さんを家から連れ出したとき、本気で二人を追わなかったこと。そして、お金の援助だけしたこと。

・涼ちゃんのお父さんとも、お母さんとも、音信不通になって放っておいたこと。

 今あげたポイントの、どれか一つでも違う行動を取っていればこんなことにはならなかった。なのに涼ちゃんのおじいさんとおばあさんは、すべての分岐点において失敗の道を選んだ。許されないことだ。だから私は怒っている。

 話の途中、涼ちゃんのおばあさんは何度も泣いた。泣きたければ、好きなだけ泣いていい。涼ちゃんのお母さんも泣いた。彼女は声を上げて泣いた。それもOKだ。涼ちゃんのおじいさんは、さすがに泣かなかった。だが、苦悶の表情を浮かべ脂汗をかいていた。

 涼ちゃんのお母さんは、話の途中何度もステンレス製の小さなボトルを出して一口飲んだ。ウイスキー が入っているのは間違いなかった。

「お母さん、一口飲んだら水飲んで。涼ちゃんに、酔っ払った姿を見せないで」

 その一言に、彼女はハッとした顔をした。彼女は急いでボトルをポケットにしまった。


 言いたいことを全て言い終えると、私は一呼吸ついた。そして用意してもらった水を、私もゴクゴクと飲んだ。しゃべりっ放しだったので、さすがに喉が渇いた。

「貴様に、何の権利があるんだ」と、おじいさんは言った。「俺の家の恥部を嘲笑うのか?」彼は静かに、しかし激しい怒りを覚えていた。それは全て、他人の私に向けられていた。いいだろう。受けてやるよ。

「権利があるとかないとか、そんなことどうでもいいです。私はただ、涼ちゃんに幸せになってもらいたい。ただ、それだけです。涼ちゃんが真の意味で幸せになるためには、お母さんとごく普通の親子にならなくてはならない。そして、自分のお母さんが、おじいさんとおばあさんと仲良くなくてはならない。

 なのにみなさんがやっていることは、その逆でしょ!みんな、涼ちゃんのことを愛しているでしょう。ならばなぜ、彼女のために幸せな家庭を作ろうとしないんですか?みんなバラバラになって、それを放っておくんですか?なぜ過去のことは割り切って、涼ちゃんのために仲良くしようとしないんですか?

 涼ちゃんは、しっかり見抜いているんですよ。子供の頃から、みなさんが仲良くないことを。そしてとても傷ついているんですよ」

 涼ちゃんのお母さんが突然、「ぎゃあああっ」と奇声を上げた。両手でせっかくセットした髪をかき乱し、机に突っ伏して両肩を大きく上下させた。「はあっ、はあっ」と大きな音を立てて息をした。その様子に、涼ちゃんのおじいさんとおばあさんは仰天した。「幸子、幸子・・・」と二人は必死に話しかけた。だが、彼女から答えはなかった。

「おい、ウルトラマンが来たよ!」

 私は涼ちゃんのお母さんの耳元に口を寄せて、思い切り怒鳴った。彼女は驚いて身体を起こし、背筋を伸ばした。涼ちゃんのお母さんの表情は、正常な人のそれではなかった。彼女はくしゃくしゃに顔を歪めていた。まるで目も鼻も口も、全部顔の中心に集まったみたいだった。

「悪魔でも鬼でも阿修羅大王でもガメラでも、みんな俺がぶっ殺す。わかった?!」と私は彼女を怒鳴りつけた。「綺麗になるんだよ。あなたは綺麗なんだよ。だから、そんな顔しない。髪を直して、ほら。綺麗な顔をして」途中から私は、彼女に優しく話しかけた。ようやく私の言っていることがわかったのか、彼女は自分のカバンから櫛を出した。そして、無言で髪を整え始めた。

 涼ちゃんのおじいさんとおばあさんは、目の前で繰り広げられた一連の出来事に度肝を抜かれた。ここまで変わり果てた我が娘の姿が、信じられないようだった。いや、信じたくないのかもしれない。

「幸子さんが、どれだけ苦しまれているか、わかっていだけましたよね?」と私は、おじいさんとおばあさんに言った。「彼女は時々発作のように、今見た通りの行動を取ります。とても危険な状態です。それから今の幸子さんは、重度のアルコール中毒です。彼女は、自分が人生で選択した全てのことを悔いています。そして自分がしたこと全てに、恐怖すら覚えています。彼女は気が狂いそうなほど、苦しんでいるんです」

「おおお・・・」おじいさんが、とうとう泣き出した。彼の老いた頬に、不釣り合いな大きな涙粒が溢れて落ちた。それは次から次へと、絶え間なく流れ続けた。しかし、大の男がいつまでも泣いている場合ではない。事実をまっすぐに見つめたらなら、次に何をすべきか考えねばならない。

「幸子さんを今夜はこの家に泊めて、明日朝一番で信用できる精神科医に診てもらってください。アルコール中毒でもあるので、入院が必要かもしれません。幸子さんは、全然お金を持ってません。彼女に治療の機会を与えて上げてください。お願いします」

 私はそこまで話して、泣いているおじいさんとおばあさんに頭を下げた。テーブルに両手をついて、そこに額がつくまで。

「わかりました。わかりました」とおばあさんは言った。「柿沢さん。全部、わかりました」

 おじいさんはハッとしたように、立ち上がった。そして部屋から出て行った。しばらくして彼は食堂に戻って来た。手には携帯が握られていた。彼は明らかに動揺していた。テーブルの周りを席につくでもなくウロウロしてから、ふと思い立ったように、キッチンの中に入った。そして電話をかけ出した。

「・・・・先生、悪いな。今日は、休みかい?うん、・・・、そう、精神科医だ。どこかの病院で、腕のいい精神科医を知らないか?・・・。うん、うん。・・・」

 さて、もういいだろう。

「お母さん。涼ちゃんのところに戻ろう」と、私は言った。「庭でまたドリーと遊ぼう。私はまだ、彼に挨拶してないんだ。さあ、戻ろう」

 涼ちゃんのお母さんは、まだ放心状態だった。私は立ち上がって彼女の腕をとった。彼女は、よろよろと立ちがった。私は彼女を支えてあげなければならなかった。

「柿沢さん、ありがとうございます」と、席を立った私におばあさんが言った。

「いいえ、大したことではないです」とだけ、私は答えた。


 ソファに座った三人は、本当に不安そうな顔をしていた。私がぐったりした様子の涼ちゃんのお母さんと戻ってくると、みんなさらに悲しそうな顔をした。

「さあ、庭に出てドリーと遊ぼうぜ」

 私たちが悩もうと、不安になろうとドリーには関係ない。ドリーは私のことも、真理ちゃんのことも覚えてくれていた。というか、涼ちゃんの匂いのせいかもしれないが。とにかく彼は、大喜びだった。そしてドリーは、涼ちゃんのお母さんに一番甘えた。気を利かせてくれたのかな?みるみるうちに、彼女の表情が穏やかになっていった。


 30分くらい経ったころ、威厳を取り戻した涼ちゃんのおじいさんが庭に出てきた。すぐ後ろに、おばあさんがついてきた。

「柿沢さん、ちょっといいかな?」と、彼は言った。

 私とおじいさん、おばあさんは、みんなの輪から離れた。私たち三人は、庭の中央にある池のさらに先まで歩いた。そこには樹齢百年くらいの樹々がいくつも生えていた。彼らが秋に落とした落ち葉が、まだ足元に少し残っていた。

「知り合いを伝って、明日診察してもらえる病院を見つけたよ。仲のいい医者数人に聞いて、『この人がいい』とみんなが勧める医者も見つけた。忙しい人だそうだが、なんとか幸子を診る時間を作ってもらった。今日のうちに、入院の準備もしてもらう。明日は、俺も会社を休んで幸子に付き添うつもりだ」

「それは良かったです。さすが、速いですね」と私は言った。

 おじいさんは、私の言葉には反応しなかった。彼は言いたいことだけいうと、なぜか足元の落ち葉を見ていた。まるで、全部掃いたはずなのになぜ残ってるんだ?とでも言いたげだった。彼は落ち葉を睨んだまま、黙っていた。彼の表情は、落ち葉に怒っているといより、その存在に驚きうろたえているようだった。

「知らなかったんだよ」と、ようやく彼は言った。「こんなにひどいなんて、知らなかったんだ・・・」

「私も先週幸子さんとお会いして、同じく驚きました。だから早く、おじいさんとおばあさんに会わせなくてはと思ったんです」

 おじいさんは、私の顔を見た。でも彼の目の視点は、ピントが合ってなかった。私を見ているというより、自分の家を眺めているみたいだった。この家には、たくさんの記憶がこびりついているだろう。その多くは、斎藤家全ての人にとって悲しい記憶だった。みんな、そう思っていることだろう。

「君の言う通りだ。俺の人生は、全部失敗だった。たとえ仕事で、成功できたとしても」

「安心してくださいよ。私、もう怒りませんから」

 私の言葉に、ようやく彼はクスッと笑った。でも隣のおばあさんは、厳しい表情のままだった。

「俺と家内の人生は、呪われているよ。鬼畜の人生だ」と、おじいさんは言った。何もかも諦めた男のセリフだった。だが、それは間違いだ。

「それ、先週幸子さんも同じこと言ってました」

 おじいさんとおばあさんは、ぎょっとした顔をした。そして今度は、しっかりと私の目を見た。

「こう考えてくれませんか?あるところに、美しい兄と美しい妹がいた。二人は兄妹だけど、恋をしてしまった。ある意味、仕方なかったんです。そして、二人の間に、美しい女の子が生まれた。彼女は18才になり、まさにこの世の天使です」

「おい、一体何が言いたいんだ?」と、おじいさんは少し興奮気味に聞いた。

「つまり、これで良かったってことです。過去に起きたことは動かせない。でも、現在を見てください。涼ちゃんを愛してください。これで良かったんです。悲しいことは、これから取り返せばいい」

 おじいさんとおばあさんは、私の言ったことをしばらく考えていた。そしておばあさんが、先に口を開いた。

「柿沢さんは、普通の人じゃないですね。ある意味、狂人ですね。正常な狂人」

「そうかもしれませんね」と言って、私は笑った。



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