第43話 謎を解くこと

 土曜日の朝、私は5時に起きてみんなの朝食を作った。日菜子ちゃんは全裸で寝ていた。私は彼女のために、電気毛布を購入した。夜に、彼女が満足して眠りにつくと、私は彼女の身体の下に電気毛布を敷く。これまでは『こと』が終わるとパジャマを着せていたのだが、それも無粋な気がした。そして何より、日菜子ちゃんが嫌がった。で、電気毛布である。これで日菜子ちゃんも裸のまま、風邪を引かずに朝を迎えることができる。このアイデアに、日菜子ちゃんも大喜びだった。

しかし、私は暑い。布団の中は真夏のようで、ちょっとした拷問になった。全然眠れない。でも日菜子ちゃんは、スヤスヤと寝ている。

なんだかなあ。


金曜日の夜、大学生のときに付き合っていた女の子の夢を見た。どうやら、田所さんに感化されたらしい。

彼女も、理由を言わずに私から去っていった。当時の私は、彼女なりの理由があるのだろうと考え納得した。無様な姿を晒して、彼女を追い回したくなかった。私にストーカーの才能はない。その代わり、50近くになっても彼女を忘れられないということか。若かった私は、負った傷をほったらかしにした。

歳をとるとは、心の傷を増やすことだ。取り返しのつかないことを、増やすことだ。この言い分は、半分くらい正解だ。歌ならば、これだけ言って余韻を楽しんでも良い。

だが現実は違う。傷は、治さなくてはならない。ほったらかしにしてはいけない。何もしないと、ずっとその傷に苦しむことになる。

傷を負ったとき、私たちはそれをしっかり見なくてはならない。傷口を覗き込み、出血量や露出した赤い肉を凝視して、傷の深さを確かめなくてはいけない。そして、「なんだ、大したことないじゃん」と気付ければ素晴らしい。

傷口を直視しない人がすることは、たかが知れている。夜な夜な街を彷徨い、酒に逃避する。ドラッグに手を出す人だっている。誰かにすがりたくて、ロクでもないやつに頼ることもある。その結果、騙されたり金をふんだくられることもある。

だが、ここでちょっと冷静になって考えてみよう。何の傷も負わずに、一生平和に暮らした人がいたら、その人は魅力的だろうかと。その人の人生は、豊かなものだろうかと。

私の意見は、「傷を負わない人生など、つまらない」である。なぜなら人は、傷に立ち向かってこそ、「ほんとうのこと」を知る機会を得るからだ。「人のこころ」を、真に理解する可能性をつかむからだ。そして何より、今までの自分よりも強くなるチャンスが到来するからだ。

いくら傷ついてもいい。傷つくたびに、問題と向き合うことだ。一人で、謎を解かなくていい。友人、先輩、恋人、家族まで、何人巻き込んだって構わない。あなたが傷ついたままなら、今あげた全員が悲しむ。だから、付き合わせていいのである。

傷は、人を成長させる。人により深い知識を与える。「こころの強さ」を届ける。傷を適切に処理できたら、人はまた同じことが起こっても動じない。すでに知っていることだから。そして重要なことだが、人は別の人を助けられるようになる。傷を負って戸惑っている人に、治癒のための「鍵」を渡せる。傷は、悪いことばかりじゃない。

だが以前も話したが、「致命的な傷」を負ってはならない。もしそれに近い傷を受けたら、羞恥心やプライドをかなぐり捨てて、「傷を知っている人」に助けを求めてほしい。そんな人は、誰でもよく見回せば必ず近くにいるはずだ。今すぐに、その人を頼ってほしい。バカなことは、考えないでほしい。


 全員分の朝食を用意すると、私の分だけ大急ぎで口に放り込んだ。家を出たのは、5時半。真冬なのでまだ真っ暗だった。

高速は、土曜日だが運良く空いていた。予報は曇りのち雨とのこと。観光地に出掛けるのを、世の人は避けたのかもしれない。だが、私たちの今日の予定に、天候は関係ない。車の中で古いロック・ミュージックをフル・ボリュームでかけた。そしてうろ覚えの英語で、大声で歌いながら大森を目指した。よし、エネルギーが充ちている。今日もアクセル全開で行くぞ。

前のめり過ぎたせいで、大森駅に6時半に着いてしまった。私は線路沿いの有料駐車場に車を停めた。少し歩いたところにセブンイレブンを見つけ、ホット・コーヒーを買って車に戻った。

しょうがない。もし事故渋滞があったら、8時にここに来れなかったかもしれないから。私はトランクから、アコースティック・ギターを出した。早めに着いたら、こいつで時間を潰すつもりだった。私は後部座席の真ん中に座り、ギターを弾いた。歌も歌った。通りがかる人には不気味なオヤジだ。でも、不気味なオヤジは私だけじゃない。どう思われようが、人に迷惑じゃなけりゃいい。線路沿いの駐車場の前は飲食店が並ぶ通りで、人気はなかった。これなら、OK。私はギターを、ジャカジャカ弾いた。

私は今ここに、日菜子ちゃんのためにいる。彼女がずっと抱えた謎を解くためだ。

今の私にとって、何より大事なのは涼ちゃんと真理ちゃんだ。私は彼女たちに、深い愛情を抱いていた。それは、親が我が子に感じる気持ちに一番近いだろう。私は赤の他人である二人に、実の子のような想いを寄せている。

さて、日菜子ちゃんだ。彼女は私の中で、だんだん涼ちゃんと真理ちゃんのレベルに近づいていた。彼女のために、自分の出来ることは何でもしようと考えている。だが、それは恋人に対する想いではなかった。やはり、我が子を慈しむような感情だった。この辺が、上手くいかないところだ。

そしてさらに、私はエリちゃんのことも真剣に心配した。彼女は何度も、死の淵まで行っている。本当に危険な状況だ。私は、彼女の謎も解かねばならない。

そして、舞ちゃんだ。この尊敬すべき若者が、エリちゃんを心配して心を痛めている。私は彼女のためにも働きたかった。そこまで考えて、「おいおい、これはキリがないぞ」と自分で思った。

でも、いいのである。どうしてかというと、私は彼女たちに働きかけることで、彼女たちからエネルギーをもらっているからだ。私は働きバチみたいに、彼女たちのために動き回っている。その対価を、私は彼女たちから「笑顔」というかたちで受け取る。大袈裟と言われるかもしれないが、私はそれに「自分が生きる理由」を感じる。

偉そうなことばかり言っているが、私もつい最近まで個人主義者だった。人に深く関わることを避けてきた。愚かな人生を送ったと思う。自由だけれど孤独な日々より、忙しいけれど人に奉仕する方がいい。人の問題と戦う毎日の方が、生きるエネルギーが湧いてくる。ヘミングウェイの言葉を借りれば、


この世は素晴らしい。戦う価値がある。(「誰がために鐘は鳴る」より)


なのだ。


8時10分前に、私は車を降りてエリちゃんの家に向かった。最近物覚えが悪くなったので、何度も道を間違えた。でも、 なんとか8時ぴったりに、エリちゃんのアパートに到着できた。

呼び鈴を押すと、すぐ舞ちゃんが出てきた。

「おはよ、おじさん」

舞ちゃんは今日も、溌剌として私に挨拶してくれた。彼女は準備万端で、小さな鞄だけ持って玄関から出てきた。上半身はまた分厚いダウンジャケットを着ているのに、下半身は膝の根元のところでカットしたジーンズだった。ロング・ブーツを履いていたけど、ストッキングでしか覆われていない太ももはとても寒そうだった。でも、これがこだわりなのだろう。

「エリちゃん、先出てるよー」と、舞ちゃんは玄関のドアを閉める前にエリちゃんに声をかけた。「わかったー、すぐ行くー」と、部屋の奥からエリちゃんの声が小さく聴こえた。

「おじさん、ほんとありがとね」と、舞ちゃんはお礼を言ってくれた。私と舞ちゃんは、アパート全体の玄関の近くまで歩いた。そしてそこに並んで立った。

「いえいえ、日菜子ちゃんのためだから」と、私は正直に言った。

「そうだねー。私もエリちゃんのため。ねえ、わかる?私、すっごい緊張してるの。大月さんと会うから。昨日の夜から、ずっと」

「なんで?日菜子ちゃんとは、この間もう会ってるよ?」

「うん、そうなんだけど・・・。この間は、おじさんと大月さんが突然来て、心の準備する暇なかったから。でも今日は、おじさんと電話で話したあとずっと、『大月さんに、会うんだ、会うんだ』って考えてた。仕事中は忙しくて気が紛れたけど、昨日会社出てから、超緊張。今、おじさんと話しててても、ふわふわした感じ」

そう言われて舞ちゃんの顔をよく見ると、目の下にクマが出来ているのに気づいた。おそらくお化粧で隠そうとしただろうが、隠しきれていなかった。

「昨日、あんまり寝てないの?」

「あら、やだ。おじさん、わかるー?」舞ちゃんは、とても照れくさそうな表情を見せた。「実は、うーんと、3時間くらいしか寝てないの。エリちゃんも同じ。だからメイクに時間かかってるの」

私はそれだけで、ピーンと来た。伊達に、涼ちゃんと真理ちゃんと暮らしていない。でももちろん、黙っていた。ただ、「行きの車の中で、寝てればいいよ」とだけ言って、いったん舞ちゃんから目を逸らした。

「えっ!?」っと、舞ちゃんは驚きと狼狽の入り混じった声を出した。「おじさん、まさか?わかるの?」

そう言われて、私は返答に窮した。舞ちゃんは、私が「心得た」と納得した表情をしたのを、見逃さなかった。私は土曜の朝に、人のプライベートな世界をほじくるつもりはなかった。とはいえ、彼女に嘘もつきたくなかった。

「ええ、まあ・・・」

私は、曖昧な返事をした。

「こえー、おじさんに隠し事は出来ないなー」と、舞ちゃんは真剣な顔をした。そして、「なんで、わかっちゃうの?」と私にたずねた。

その問いかけに、私はさらに困った。なんて答えりゃいいんだ?もともと、舞ちゃんとエリちゃんは恋人同士だ。二人が何しようと勝手である。私が立ち入る話じゃない。問題は私が、少し話しただけで「昨夜、したかしないか?」をわかったことにある。そんなこと、気がつかなきゃよかった。私は深く反省した。

「あのさ、話した通り、俺は女子高生のカップルと暮らしてるからさ、あのさ、やっぱりわかるから。いいことがあったり、ロマンチックな風景見たり、逆に不安だったりとかさ、感情が動くとね、そうなんだよ。だから、わかるのかな?」

私はしどろもどろで、舞ちゃんに事情を説明した。

「ふーん」と、興味深そうに彼女はうなった。「おじさん、平気なの?」

「何が?」

「声とか聴こえて」

「全然、全く。むしろ、仲がいいなと安心するくらい」

「ひえええーっ」と、舞ちゃんは小さな悲鳴をあげた。

「あのさ、断っとくけど俺はかなり特殊だからね。普通の男は平常じゃいられないと思うよ」と、私は強調した。

「そうだよね。おじさん変わってるよね」と、舞ちゃんはまだ動揺しながら言った。「でも、『感情が動くとき』かあ。確かにそうかもね」

やっとエリちゃんが玄関から出てきた。丸い身体で、転げるようだった。

「すいません、すいません、すいません・・・、せっかく来ていただいたのに、お待たせして・・・」エリちゃんは、本当に済まなそうに、何度も腰を折って謝った。

「エリちゃん、おじさんは私たちが寝坊した理由をわかるんだって。高校生のカップルと暮らしてるから、すぐわかっちゃうんだって」と舞ちゃんがエリちゃんに教えた。

「ええっ!?」

かわいそうなエリちゃんは、心臓が止まったような顔をして、舞ちゃんを見た。そして次に、恐る恐る私を下から見上げた。彼女の目の周りも、はっきりクマができていた。

「まあ、行きの車は寝ててくださいよ」

私はさっきのセリフを繰り返した。そしてあらためて、エリちゃんという人を見た。

彼女は、典型的な小太りの体型だった。紺のハーフコートの下にセーターを着て、赤が基調のチェックのマフラーをしていた。下は落ち着いたブラウンのロングスカート。そして低いヒールの靴だった。

エリちゃんは、ごく十人並みの容貌だった。丸顔にストレートの長い黒髪。頬や額には、まだニキビが残っていた。私の周りにいる人は、なぜか綺麗な人が多い。でもエリちゃんは、ごく普通の人だった。

「駅前に、車を停めてます。出かけましょう」

私が先頭を歩くと、二人は後から並んでついてきた。肩を寄せ合いながら、小声で懸命に話し合っていた。女性は彼女たちだけで、話すべきことがある。私は二人から少し離れて、黙って歩きながらエリちゃんのことを考えた。

彼女の気持ちは、今どんなだろう?エリちゃんも、舞ちゃんと同じように緊張しているのだろうか?私の誘いに、彼女はどう思っているだろう?私は彼女を、少しでも落ち着かせることができるだろうか?それとも、彼女の傷口をもう一度開いているだけだろうか?

わからない。全ては、エリちゃん次第だ。日菜子ちゃんは、エリちゃんがそばにいてもいつも通りだろう。私に普通に、甘えるだろう。気が利かないから。それも真実だし、長い付き合いのエリちゃんならわかるだろう。その結果、どんな答えが夕方でるか。私はやれるだけ、やってみるさ。

しかしよく考えると、私が普通に家族を持っていたらこんなことできなかったな。まず、お金がない。私は奥さんから、昼飯代くらいしかお小遣いをもらえないだろう。今日の高速代もガソリン代も出せない。

そもそも、家出少女を二人も家に住まわせるなんて無理だった。涼ちゃんと真理ちゃんの食費も、ドライブの費用も、化粧品も、可愛い洋服も、下着も生理用品代も出せなかった。奥さんがお金をくれるわけがない。

そして今日だ。30歳の女子校教師のために、家に友だちを連れてくる。しかも二人は同性愛の関係を持ったことがある。だから、それを昇華させるために家で会わせる。

私の架空の奥さんは、私の言うことがまったく理解できないだろうな。つまりこんなことは、私のような独身で、人生の落伍者にしかできない。世の中は、上手くできてるかもな。


大森の街は、ゴミゴミとして殺風景な印象を受けた。店があるのは駅周辺だけで、あとはマンションやアパートが所狭しと立ち並んでいた。だから決して騒々しいわけでもない。でも殺伐とした風景に感じるのは、極端に緑がないせいだった。

 都会育ちの人なら、全然気にならないだろう。だけど私みたいな田舎者は、樹がないだけで不安になる。

駐車場に着き、二人を車に乗せた。二人とも、後部座席に並んで座った。私は車をスタートさせ、ドビュッシーのベスト盤を小さなボリュームでかけた。そして、首都高へ向かった。

運転している間、私は何も言わなかった。「寝てていいよ」と、言ったんだから口を聞く必要はなかった。たが運悪く、首都高は混んでいた。予定より遅れることを、連絡しなくてはいけない。私はハンズフリーで、涼ちゃんに電話をかけた。

「おはよう。ちゃんと、起きた?」

「うん、7時に起きたよ。ご飯も食べたよ」と彼女は答えた。声がとても明るかった。

「OK。だけど、高速が渋滞しててね、家に戻るのは10時くらいになりそう」

「わかったあー。じゃあ、真理ちゃんに代わるね」と、涼ちゃんは言った。

「もしもし」と、真理ちゃんが言った。クスクス笑っているような、しゃべり方だった。

「おはよう。ご飯、ちゃんと食べた?」

「うん。ちゃんと、食べたよ」

「残してない?」私はちょっと意地悪く聞いた。

「残してないよ。全部食べたよ。ねえ、遅くなるの?」

「そうなんだ。高速は渋滞しててね、家に戻るのは10時くらいになりそう」

「しょうがないね。みんなで待ってる。じゃあ、日菜子ちゃんに代わるね」と、真理ちゃんは言った。

後部座席に、少し張り詰めた雰囲気が流れるのを感じた。

「拓ちゃん、遅くなるの?」と、日菜子ちゃんが不満そうな声で言った。

「うん、高速が渋滞しててね、家に戻るのは10時くらいになりそう」このセリフは、これで3回目である。

「今どこ?」

「箱崎の手前。いつも混むところだ。ここを抜ければ、すんなり帰れると思う」

「そう・・・」と、日菜子ちゃんは少しがっかりした様子で言った。「10時より遅くなりそうだったら、また連絡してね」

「わかった。そうする」

「じゃあね」

「じゃあね」

そう答えて、私は電話を切った。音楽に紛れるくらい、小さな声で話したつもりだ。ほんとは車内で電話なんかしない方がいい。でも遅れるのに電話しなかったら、みんなにメチャクチャ怒られる。仕方なかった。

「すごおい」と、舞ちゃんが後ろで大きな声を出した。「みんな、完全におじさんになついてるんだね。誰も、血の繋がりはないんでしょ?」

「そうだよ」

「高校生なんてメチャクチャ難しい時期なのに、どうしておじさんみたいな中年の人を慕うんだろう?」

舞ちゃんは、本当に理解不能の様子だった。私だって、実はよくわからない。

「自分の地で、やってるだけなんだけどね」と私は言った。

「ふーん」と舞ちゃんは言ったが、まだ納得していなかった。エリちゃんは、何も言わなかった。寝てるのかな?私はバックミラーを見て、後ろの様子をうかがった。だが、二人とも鏡には映っていなかった。

彼女たちが私を信頼する理由は、ひとつ心あたりがある。意外かもしれないが、それはスピードだ。涼ちゃんと真理ちゃんと暮らしだして、大小たくさんの問題が見つかった。私はそれを見つけ次第、すぐ動き手を打った。または、彼女たちが助けを求めるのをじっと待ち、「助けて」と言われてから行動をスタートさせた。

車を運転しているとしよう。正面に問題が現れたとき、たいていの人は急ブレーキを踏んで停止する。そしてそこに停車して、一日、二日、三日、一か月、一年、十年・・・、と停まったままでいる。あるいは、ブレーキを踏む余裕もなく、問題に正面衝突する。そして重傷を負ったまま、手前で停まった人と同じくじっとしている。でも、これではダメだ。

私ならば、目の前の問題を見つけたらハンドルを右か左に切る。そして衝突を避けて、走り続ける。言われれば当たり前の話だ。だが世の中の多くの人は、これができない。

なぜかというと、右に曲がればいいのか、左に曲がればいいのか、みんな迷うからだ。どちらを選ぶべきか自信がなくて、大半の人が問題の目の前で停まる。だが、これでは一緒に乗っている人たちは困ってしまう。ハンドルを握る人は、常に決断をしなければならない。

まず瞬時に判断する智慧を、身につけることだ。それから挫折と失敗と敗北の経験を積み重ねることだ。それらを自分の腹の中で、しっかり消化しておくことだ。そうすれば、突然の問題にもうろたえなくなる。私はある時は右にハンドルを切り、別の機会は逆にする。どちらも、私は自信を持って選択している。私の「智慧と経験」が、「今は、右だろう」と教えてくれるからだ。

私に頼る人々は、私の一挙手一投足を見ている。迷いを、彼らに見せないことも大事だ。右を選ぶ理由を、しっかりと説明する。そんなことを繰り返すと、人々は私に何もたずねなくなる。理由をきかなくても、私のすることがわかるようになる。この理屈は、家庭でも、会社でも、政治でも、軍隊でもみんな同じだ。

「ディズニーランドだあ」と、舞ちゃんが大きな声を出した。「ねえ、久しぶりに行こうよ」と、彼女はエリちゃんに問いかけた。

「・・・うん、そうだね・・・」エリちゃんは、気乗りしない様子で答えた。小さな声だった。

私もディズニー・リゾートはしんどい。あそこはある年令を境に、冷たい滝に打たれて修行するような場所に変わる。人混みで溢れ、アトラクションひとつ乗るのに一時間も二時間も並ぶ。まるで震災にあって、水をもらいに並んでいるような気分になる。また、ミッキーに握手されても、戸惑うだけだ。

だけど、そんなこと言ってはいけない。私も高校生くらいまでは好きだったんだから。エリちゃんも私も年を取ったんだ。自分は楽しめないけど、舞ちゃんのために無理して笑わないと。

「ヒナと中三のときに、二人で行ったの。貯めたお年玉持って、真冬に。寒かったけど、楽しかったな・・・」

「そう・・・」

舞ちゃんは、張りのない返事をした。気落ちしてるのが、すぐわかった。私はハンドルを握っていたが、頭を抱えたくなった。「エリちゃん、そりゃあんまりだよ」と言いかった。だが私たちは、まだ親しくはない。私はぐっと我慢した。

エリちゃんは、いつもこの調子なのかもしれない。ずっと日菜子ちゃんとの思い出に沈み、それをいつまでも反芻してきたのかもしれない。だが彼女には、ずっと恋人がいたはずだ。日菜子ちゃんによれば、高校を卒業するころにはエリちゃんに彼女がいたという。彼女たちは彼女たちなりに、エリちゃんを愛しただろう。エリちゃんには、ずっと誰かがそばにいてくれた。

なのにエリちゃんは、ずっと日菜子ちゃんのことを考えた。その苦しさは、私にも想像できる。だが、日菜子ちゃんを想うことは、エリちゃんの恋人に対する裏切り行為だ。彼女たちは一人残らず、傷ついただろう。そして、いつしかエリちゃんのもとを去っていったのだろう。

いつもの私なら、ここでキレる。「日菜子ちゃんが諦められないなら、恋人なんかつくるな。あなたの態度が、恋人をどれだけ悲しませるか考えられないのか」と。だが私は、もう一度口を強く閉じた。そして考えた。今日、何か前進しなくてはならない。エリちゃんにとっても、日菜子ちゃんにとっても、そして舞ちゃんにとっても。

時間はまだある。一日は長いのだ。問題という、ピンチでありチャンスが巡ってるくるはずだ。私はその瞬間にかける。そして仕留める。

「ねえ、おじさん」と、舞ちゃんは私に話しかけた。「同居人の女子高校生は、おじさんをなんて呼んでるの?」

「拓ちゃん」と、私は答えた。

「うっそー、かわいー」

「俺は嫌なんだけどね。この歳で、ちゃんづけは厳しいよ。でも、そう呼ばれるから仕方ない」

「どうやって、年が離れた女子高生の信用を得たんですか?」と、今度はエリちゃんが口を開いた。

 その質問に他する答え方は、いくらでもある。だが、今のエリちゃんに届く言葉でなくてはいけない。

「そうですね。まず、女性が女性を愛するのは普通のことだと教えたこと。それから彼女たち一人一人と、とことん話したこと。それが理由でしょうね」

「おじさんみんたいな人は、滅多にいないよ」と、舞ちゃんが言った。

「とことん話せば、理解してもらえるんでしょうか?」と、エリちゃんは私の答えにこだわった質問をした。

「まあ、話すことは第一歩でしかないですね。話し合って理解しあっても、彼女たちが私を愛し、性欲を抱くわけじゃない。なぜなら彼女たちは、それぞれ自分たちの理想を持ってますから。その理想に近い人を見つけ、愛し、上手くいけば恋人になる。私はそこに割り込まない。むしろ、自分の気持ちに素直であることを推奨します」

「つまりおじさんは、女子高生が同性愛の関係であることを勧めるってこと?普通の男は、間違いなく否定するよ」と舞ちゃんが言った。

「普通の男はそうだろうね。でも俺は、普通じゃない。そして歳も取ってる。女子校生二人が愛し合う気持ちを大切にしたいんだ。長い人生で、お互いに愛しあえる、お互いに好きであることはびっくりするほど少ない。どんなに誰かを愛しても、自分の気持ちを受け入れてもらえることはとても少ない。愛し合うというのは、ちょっとした奇跡なんだ。滅多にないことだから、その気持ちを大事にしたいんだよ」

 舞ちゃんもエリちゃんも、しばらく何も言わなかった。私が言った言葉は、エリちゃんに向けられていた。彼女は果たして、気がついてくれただろうか?

 湾岸習志野で東関道を降り、357号線を南に向かう。幸い朝の下り線は、車が少なかった。すんなり帰れそうだ。あと、15分くらいかな。車内も温まり、私はエアコンの暖房をOFFにした。

「柿沢さんは、私のことを言っているんですか?」と、意を決したようにエリちゃんが言った。声色が、少し怖かった。

「そうです」と私は言った。そして、それ以上は何も付け加えなかった。車内はシンと静まり返った。舞ちゃんも、何も言えないようだった。


 私の家に着いた。駐車場に入り、二人に先に降りてもらった後、立体駐車場に車を収めた。そしてエリちゃんと舞ちゃんを、私の自宅へ案内した。

 玄関で私が鍵を差し込んでひねると、中からドタバタと走る物音が聞こえた。玄関を開けると、涼ちゃんと真理ちゃん、そして日菜子ちゃんが並んで立っていた。猫みたいである。私が昔飼っていた猫は、私が家に帰ると必ず迎えに来てミイミイ鳴いたものだ。

「ギョエー!」と、舞ちゃんが叫んだ。

「・・・」エリちゃんは、息を飲んで沈黙した。なんのことはない。二人とも涼ちゃんと真理ちゃんがあまりに美形なので、びっくりしたのだ。

「この方が、日菜子ちゃんの中学校からの親友、エリちゃん。そしてこの方が、エリちゃんの恋人の舞ちゃん」と、私は涼ちゃんと真理ちゃんに紹介した。

「おはよーございまーす!」

「よろしく、お願いいたしまーす!」二人は元気に、エリちゃんと舞ちゃんに挨拶した。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします・・・」と、舞ちゃんがボソボソっと言った。

「お休みのところ、お招きくださり、ありがとうございます・・・」と、エリちゃんもつっかえながら言った。

「こちらが、斎藤涼ちゃん。こちらが平松真理ちゃん。二人とも大学に受かって、ほっと一息ついているところです」と、私は紹介した。そして、「さあ、どうぞ上がってください。車で疲れたでしょうから、中でゆっくりしてください」と言った。

 二人をダイニング・ルームへ案内した。私はコーヒーと紅茶と、煎茶、レモンを絞った水を用意しておいた。みんなに好みを聞き、コースターの上にそれらを乗せた。

「エリ、寝てないの?」と、日菜子ちゃんはすぐ彼女の寝不足に気がついた。私は黙っておいた。

「舞さん、格好いいですね」と、ファッションにうるさい涼ちゃんが言った。彼女は、舞ちゃんのワイルドな魅力が気に入ったようだ。

「たいしたことないよー。それより、涼ちゃん。あなたこそメチャクチャ格好いいね」と、舞ちゃんが返した。

「そうなんです。涼ちゃん、格好いいんです。だから学校の女の子が、何人も狙ってるんです」と、真理ちゃんが説明した。

 そうか。今日は、レズビアンの会なんだと私は気づいた。エリちゃんと日菜子ちゃんのことばかり考えていたが、今日は気兼ねなくレズビアンの話ができる日なのだ。

「真理ちゃんも、可愛いですね。着てる洋服が素敵。すごくいい色の服だと思う」とエリちゃんが言った。

「拓ちゃんに、買ってもらったんです」と、真理ちゃんが目をキラキラさせて答えた。

「私、服飾デザイナーの仕事をしてるの」と、エリちゃんは言った。「だから服にはうるさいんだけど、涼ちゃんも真理ちゃんもすごくセンスがいいね」

「ありがとうございまーす。でも服のこだわりは涼ちゃんの方が上なんです。私の服も、涼ちゃんのOKが出ないと買えないんです」と真理ちゃんが答えた。

 その日の涼ちゃんは、薄いベージュのセーターに真っ赤なフレアスカートを履いていた。シンプルなデザインの服だけど、彼女の魅力をさらに引き立てていた。

「涼ちゃんの服も素敵」とエリちゃんが言った。

「ありがとうございます。でも私の服も、拓ちゃんが買ってくれたんです」と、涼ちゃんが答えた。

「なんでも拓ちゃんなんだね。すごい影響力」と、舞ちゃんが言った。

「そういや、春物の服をそろそろ買わないといけないね。大学に着て行く服を揃えないと」と、私が口を挟んだ。

「それ、私にも意見を言わせてもらえますか?涼ちゃんと真理ちゃんを見ていて、アイデアが浮かんできました」と、エリちゃんが目を輝かせて言った。デザイナーとしては二人に、ファッション・モデルみたくキラリと光る服を着せたいのかもしれない。

「それならさ、お昼を食べた後に涼ちゃんと真理ちゃんの洋服を買いに行こうか?」と私は提案してみた。

「賛成ー」と、涼ちゃんと真理ちゃんが声を揃えた。

「大丈夫ですか?エリちゃんは、生地とか糸とかすごい細かいところまでうるさいんですよ」と、舞ちゃんが言った。

「うるさいのは涼ちゃんも同じですから。涼ちゃん、いい機会だからエリちゃんに服のことを教えてもらいなよ」と私は言った。

「うん、そうするー!」えらく気合の入った声で、涼ちゃんは答えた。

 こうして今日の会合は、上々の滑り出しを見せた。気になるのは、日菜子ちゃんがずっと黙っていることだ。今彼女の心に、何が去来しているのだろう?社会生活のスイッチを切って寛ぐ場所の我が家に、エリちゃんがいることが彼女を戸惑わせているのだろうか?だが我が家で二人を対面させることが、私の作戦だ。街中の店ではなく、あらゆる鎧を外して二人は向かい合う必要がある。

「エリさんと舞さんとお会いできて、本当に嬉しいです」と、真理ちゃんは言った。彼女はルンルン気分だった。それはそうだ。新しい、レズビアンの仲間と知り合えたのだから。溢れそうな笑顔で、彼女は二人に話しかけた。

「私はもう小さな子供のころから、自分はレズビアンだと気がついたんです。もうだだっ広い地下室に、照明を消されて閉じ込められたような気分でした」

「わかるよ、すごくよくわかる」と、エリちゃんが心を込めて言った。

「でも今は大丈夫ですよ。涼ちゃんがいるので。あ、それから拓ちゃんも」と、彼女は幸福そのものという様子で笑った。それから、「あの、少し教えてもらってもいいですか?」と言った。

「なあに?なんでも聞いてよ」と、舞ちゃんが答えた。

「普段するとき、どんな風にしてますか?」

 ピッキーンっと、ダイニング・ルームの雰囲気は張り詰めた。

「するときって、アレのこと?」と、舞ちゃんは念押しで聞いた。

「はい!」と、真理ちゃんは溌剌として答えた。「こういうことって、なかなか聞けないじゃないですか。だから、教えてほしくって」

 真理ちゃんの隣の涼ちゃんは、顔を真っ赤にして下を向いた。涼ちゃんは、こういうのダメなのだ。私がいるから尚更だ。だが、真理ちゃんは違う。いつも、堂々としている。彼女は研究熱心、勉強熱心なのだ。

 もう私の出る幕はない。私は席を立ち、海老のように六畳間へ後退した。だが、襖を閉めると呼び出される。私の姿が見えないと、涼ちゃんと真理ちゃんは気に入らない。だから襖は開けたままにしたが、レズビアンのテクニックについては耳を塞いで聞かないことにした。

 さてと。私は、安物の電子ピアノの前に座った。耳を塞ぐのなら、BGM役でもやるか。私は、昔覚えたドビュッシーの「月の光」を弾き始めた。会話を邪魔しないよう、小さな音で優しく弾くことを心がけた。

「月の光」は、美しいメロディの曲である。最初で、I−Ⅳm−Ⅰ−Ⅴと、Ⅳmを使っているのが効いている。だが弾いてみると、十本の指をほとんど全部使っているのに、彼の和音は意外に平凡だ。ドミソを重ねているだけだ。

 中間部の、Ⅴ−Ⅵbm−Ⅵm−Ⅶm−Ⅰ−Ⅱm−Ⅲbと上行する展開もドラマティックだ。だが、やはり響きに深みがない。彼の時代の限界が見える。彼も当時としては革新的な作曲家だったのだろうが、ビル・エバンスと比べると圧倒的な差がある。クラシックの人とジャズの人を比べるのは、邪道かもしれない。実際現在でも、いろんな楽器でクラシックを覚えた人はブルースを理解しない。Ⅴ−Ⅰの進行が頭に染み付いてしまっているからだ。ブルースは、ⅣーⅠが命である。

 私は続いて、エリック・サティの「ジムノペディ」を弾いた。誰でも聴いたことのあるこの曲は、ⅠM7とⅣM7が軸になっている。ドビュッシーにはなかった響きだ。エリック・サティの、これまでにないことを演ってやろうという意気込みがうかがえる。曲も長調で始まり、中間部は短調になって強引に長調に戻るというのを繰り返している。The Beatles も多用した長調と短調のごちゃ混ぜだ。だが両者には、決定的な違いがある。The Beatles がジャズと同じく、ブルースを土台にして調を動かしていることだ。

 続いて、坂本龍一の energy flow 。この曲は静かなピアノの曲だが、中身はロックンロールだ。コード進行をLed Zeppelin の「天国への階段」と比べると、そのそっくりさに驚くことになる。「天国への階段」が、Am - AmM7(9)onAb - Am7onG - DonF# - FM7なのに対し、 energy flow は、Am - Am7onG - F - ConE - DmonC - E7sus4onB - E だ。「天国への階段」がF(Ⅵb)でAm(Ⅰm)に戻るのに対し、 energy flow は、しっかりE(Ⅴ)からAm(Ⅰm)に帰っている。おそらく坂本龍一さんは、クラシックっぽさを大事にしたのだろう。

私が持っている energy flow の譜面には、演奏の指導が書かれている。その中で先生は、この曲を「素朴な曲」だと評している。その理由は、曲中で現れるブルージイな響きのせいだろう。クラシックという、上から目線の発言だ。


さて。私はピアノをやめて立ち上がった。そしてダイニング・ルールを抜けて、キッチンに入った。今日のランチは茄子とベーコンのトマトソースのスパゲティだ。まず六人分のスパゲティを茹でねばならない。私は大きな鍋で湯を沸かし、沸騰したら弱火にして、スパゲティを少しずつ鍋に入れた。そしてゆっくりかき混ぜた。

日菜子ちゃんが、キッチンの中に入ってきた。手伝ってくれるのだ。私は茄子とベーコンを冷蔵庫から出し、彼女に手渡した。

「これを、ちょうどいい大きさに切ってね」

「うん!」

日菜子ちゃんはモチベーション申し分なしで、作業に取り掛かった。私は菜箸で鍋の中を攪拌しながら、エリちゃんのことを考えた。

まるで新婚夫婦みたいに協力する私たちを、エリちゃんはどう思っているだろう?多分、いい気分ではないはずだ。

「涼ちゃんと真理ちゃんは、いつから付き合ってるの?」と舞ちゃんが二人に聞いた。

「中二の秋からです」と、涼ちゃんが答えた。

「長いねー。ええっと、もう4年以上?」と、舞ちゃんがしっかり計算した。

「そうですね」と、今度は真理ちゃんが答えた。

「すごーい」と、エリちゃんが短く称賛の声を二人に贈った。

「ねえ、浮気したことないの?」と、舞ちゃんが意地悪な質問をした。

「ないですね」と、真理ちゃんが堂々と答えた。

ベーコンと茄子を切り終えた日菜子ちゃんに、レンジでドリアを焼くのを頼んだ。小さなお皿に入れたので、一回で三皿作れる。

私はベーコンと茄子を炒め、その上へ六人分のトマトソースをかけた。フライパンと菜箸を操りながら、日菜子ちゃんにサラダの用意も頼んだ。大きなガラスボウルに、たっぷりと複数の野菜を混ぜて入れる。それを各自好きなだけ採って食べてもらう。我が家の定番メニューだ。

「私の場合・・・」と、涼ちゃんが少し考え込みながら話した。「私は、みなさんに申し訳ないですけど、女が好きなわけではないと思うんです」

「えっ、そうなの?」と、舞ちゃんがすぐ反応した。

「私は、真理ちゃんが好きなだけで、女の人が好きかと言われるとちょっと困る・・・」と、涼ちゃんは言った。「私は、小学校の時は男の子が好きだったんです。普通に」

「そうなんだ」と、エリちゃんが少しがっかりした風に言った。

「私、父親がダメで。やくざ者で毎晩ママと喧嘩して。私は、おじいさんとおばあさんの家に逃げてたんです。それで男が大嫌いになって。そこに、真理ちゃんが現れたんです」

私と日菜子ちゃんは、出来上がった料理を次々とテーブルの上に並べた。ランチの用意が整っても、エリちゃんと舞ちゃんは話の続きを聞きたがった。

「私は真理ちゃんと付き合って、生きる気力を取り戻した感じ。だから、真理ちゃん以外の女の人と付き合うのは想像できない」と、涼ちゃんは真面目な顔で言った。

 えらいぞ、涼ちゃん。と、私は思った。みんなの前でお父さんの話ができている。自分のトラウマを、客観的に捉えて人に説明できている。あんなつらい記憶をだ。涼ちゃんは確実に、逞しくなっている。

 私たちは、スパゲティを食べ始めた。美味しいと思ってくれるかな?私はとても不安だった。

「涼ちゃんの話、すごくわかる。私もいろいろあったから」と、舞ちゃんは言った。「私も高校から大学の途中まで、何人か男と付き合ってたから。でもね、私の場合、中学の頃から本気で好きになるのは女の子だった。だけど、自分の中の自分が、『そっちに行っちゃいけない。それは、ただの勘違いだ』ってずっと言ってたの。だから普通の人と同じように、男と付き合ってた」

「楽しかったですか?」と、日菜子ちゃんがやっと口を開いた。

「うーん」と、舞ちゃんは悩む様子を見せた。「遊んでる分には楽しいんだよ。まあ、男友達と遊んでると思えばさ」

「私が、拓ちゃんと遊んで楽しいのと同じかな?」と、真理ちゃんが言った。

「そうかもね。でもさ、肉体関係になるとね。心のズレが大きくなっちゃう。興味はあったんだよ。普通の女の子と一緒でさ。でもデートの終わりにホテルに入ると、『私、何してるんだろう?』っていつも思った」と、舞ちゃんは言った。

 女の人を愛する女の人を、一括りにレズビアンと片付けるのはバカげたことだ。だがこのことを、真剣に考えたことのある人はほんの一握りだろう。みんなそれぞれの道を歩んで、今ここにいるのだ。社会の枠組みが頑然と存在し、女は男を求めることを義務付けられる。だがそれでは、100%の人を救えない。様々な道を辿り、ある人々は女として女を愛することを選択する。いや、必然だったのだろう。選びようもなく、彼女たちは女性を愛した。

涼ちゃんと舞ちゃんの話を聞いていると、真理ちゃんとエリちゃんとの微妙なズレを感じる。優しさと強さと容姿が全て揃った男ならば、涼ちゃんと舞ちゃんは彼にエロティシズムを感じられるのではないか?つまり二人は、レズビアンではない。バイセクシャルに近いかもしれない。だが二人の心は、かなりレズビアンへと傾いている。そういう人は男性にも多い。結婚し子供も作っても、ホモセクシャルな感情をずっと持ち続ける。金に余裕があれば、同性の愛人を作る。

 スパゲティもドリアも、なかなか好評だった。誰も会話に心を奪われて、料理を褒めてはくれなかった。でも、食事の進み具合が私に手応えを感じさせた。みんな用意した食事を綺麗に食べてくれた。

 好みを聞いて、コーヒー、紅茶、煎茶、それぞれホット、アイスを配った。みんな、物思いに沈んでいた。みんなこれまでの人生に、思いを馳せていた。その大半は、苦い記憶だろうと思う。

「大学三年のとき、ゼミで一緒だった女の子を好きになったの」と、舞ちゃんは言った。「もう強烈な恋だった。彼女の優しさ、気配りにも惹かれたけど、彼女の髪、首筋、二の腕、乳房、お腹、お尻、太もも、ふくらはぎ、足の先まで私は恋をした。『もうダメだ』と、自分の中の自分が言うのを感じたね。私は女性が好きなんだと、覚悟を決めて認めたよ。当時付き合ってた男とは、すぐ別れた」

「その人とは、上手くいったんですか?」と、すかさず真理ちゃんが聞いた。

「ダメダメ。彼女は付き合ってる男がいたから。なかなかいい男で、お似合いのカップルなわけ。私の出る幕なし」そう言って、舞ちゃんは自虐的に笑った。見ていて悲しくなるほど、痛々しい笑いだった。

「彼女とは、今でもよく顔を合わせるよ。仲のいいゼミで、しょっちゅう同窓会と称して飲み会があるから。もちろん、私が彼女のことを好きなのは隠してるよ」と、舞ちゃんは加えた。

「なんか、私とエリみたいですね」と、日菜子ちゃんは言った。

 さすが、日菜子ちゃん。と、私は思った。普通の人が気を使って言えないことを彼女は口にできる。でも、日菜子ちゃんは正しい。

「大月さん」と、舞ちゃんは日菜子ちゃんに話しかけた。「おじさん、あ、柿沢さんは行きの車の中で、『長い人生で、お互いに愛しあえる、お互いに好きであることはびっくりするほど少ない』って、教えてくれたんですよ。だから、好き同士でいられる時間を大切にしなきゃって」

「それ、私も言われたー」と、涼ちゃんが言った。

「言われたねー。最初のドライブのとき」と、真理ちゃんが続いた。「拓ちゃんは崖に囲まれた、小さなプライベート・ビーチに私たちを連れて行ってくれたの。それで、自分はどっか行っちゃった。私と涼ちゃんを二人きりにしてくれたの。私と涼ちゃんは、太平洋を目の前にして自然にキスしちゃった。ねえ、拓ちゃん。あれ、狙ってたの?」

「もちろん計画通りだよ。涼ちゃんと真理ちゃんがキスしたくなるだろうなって場所に行って、自分はしばらく隠れてるつもりだんたんだよ」と、私は種明かしをした。

「お互いに好きでいられる時間は少ない。だから、この時間を大切にしなきゃいけないんですね」と、エリちゃんが落ち着いた調子で言った。

「ねえ、エリ」と、日菜子ちゃんが口を開いた。どこか、思いつめた様子だった。「私、拓ちゃんが好き。人生で出会った誰よりも。おそらく、これから出会う誰よりも。エリ。私の頭の中には、拓ちゃんしかいないの。自分では、どうすることもできないの。私の全身を、拓ちゃんが支配してるの。ねえ、わかってくれる?」

 ダイニング・ルームを静寂が包んだ。誰も言葉を発しなかった。誰もが、他ならぬエリちゃんの言葉を待った。耳を傾け、その瞬間が訪れたら聞き逃すまいとした。

「ヒナ、わかったよ」と、エリちゃんははっきり言った。彼女は微笑を浮かべた。諦めの微笑とも取れた。「ヒナは、柿沢さんを愛してるんだね。強く、とても強く。その理由が、今日ここに来てわかった気がする」

もう一度、部屋が静まりかえった。舞ちゃんはギョッとした顔で、エリちゃんを見つめた。だがエリちゃんは、意外なほど穏やかな顔をしていた。やがて彼女はすっと私を見た。そして、「よろしくお願いします」と言って軽く会釈した。

私は考えた。これはある季節、いや時代の終わりかと。わからない。だが確かにエリちゃんの心は、日菜子ちゃんの告白にカタカタと音を立てて動いた。それは間違いない。

「ねえ、日菜子ちゃんのプレー集を見ようよ。舞ちゃん、持ってきてくれたんだよね?」と私は言った。

話しかけられた舞ちゃんは、明らかに困った顔をした。授業のときと同じく、テーブルの端に iMac を用意していた。だからUSBメモリを插すだけでよかった。でも舞ちゃんは躊躇した。

「見ようよ。涼ちゃんと真理ちゃんに、ヒナの全盛期を見てもらお」

エリちゃんは優しくそう言った。彼女の言葉が、舞ちゃんの背中を押した。舞ちゃんはUSBメモリをセットし、デスクトップにファイルをコピーした。

それでいい。映像の中の日菜子ちゃんは、エリちゃんにとって昨日までとは違って見えるかもしれない。親友の、日菜子ちゃんになるかもしれない。エリちゃんは素敵な映像を準備してくれた舞ちゃんに感謝し、彼女を見つめるべきだと思う。この献身的な恋人を。


画面に、高校生のときの日菜子ちゃんが映し出された。真理ちゃんが最初に発した言葉は、「可愛いー❤️」だった。そこかよ。

真理ちゃんは両手を胸の前で組み、目をトロンとさせて完全に夢見る乙女だった。隣の涼ちゃんが、ものすごい形相で彼女を睨んだ。でも、美少女を目の前にした真理ちゃんは動じない。

「日菜子ちゃん、いい。すごくいいよー❤️。多分デビューできたよ」

「私はバスケばっかりの、学生生活だったから」と、苦笑いしながら日菜子ちゃんが答えた。

やがて、映像がスタートされた。もちろん日菜子ちゃんのプレーは、超絶技巧テクのオンパレードである。「ええっ、ええっ!?」「うそ、うそ、うそーっ!?」涼ちゃんと真理ちゃんは、日菜子ちゃんのルックスなど忘れた。もう大騒ぎ、大盛り上がりだった。

「このプレーはね、・・・」と舞ちゃんの簡潔にして要を得た解説が入り、「このときはね、・・・」と日菜子ちゃんから本人コメントが入った。しかし何度見ても、日菜子ちゃんは上手い。

私はエリちゃんへ目を移し、注視した。彼女はずっと、穏やかな微笑みを絶やさなかった。目を細め、少しぼんやりと画面を見ていた。そのうち私は、彼女が映像を見ていないことに気がついた。日菜子ちゃんのとびっきりのスーパーゴールが決まって、みんながさらに大声を出しても彼女は沈黙したままだった。

おそらく彼女は、思い出を見つめていた。映像には映っていない、日菜子ちゃんとの甘く苦しい記憶を。エリちゃんには、日菜子ちゃんとはしゃいで走り回ったディズニーランドや、二人で並んで歩いた桜並木の通りや、中三のエリちゃんの部屋にあったベッドや、それを淡く照らすスタンドが見えているのだろう。県営体育館の広々とした客席や、声を枯らして応援する観客たち。それから試合後、チームと行動する日菜子ちゃんとは別に、一人でバスを待った停留所。すべては美しく、それでいてつらく残酷だった。

「エリさん」と私は席を立って彼女のそばに行った。そして、椅子に座っている彼女の脇にしゃがんだ。

「はい?」

エリちゃんは、少し驚いた様子をした。記憶の彼方から、突然現実世界に戻されてびっくりしたみたいだった。

「誰かを、深く長く愛することは、誰にもできることじゃない。たいていみんな、簡単に諦めますから」

「私にそれができなかった、そうおっしゃりたいのですか?」と、エリちゃんは小さな声で聞いた。

「違います、違います。その逆です。あなたはこれほど深く愛することで、ほとんどの人が知らない本当のことを知ったんです」

「本当の、こと?」エリちゃんはキョトンとした顔を見せた。

「そうです。あなたは本当のことをつかんだ。つらく苦しくて、何度も自己嫌悪のなられたと思います。でもその引き換えに、貴重なものを手に入れた」

「ふふふ」とエリちゃんは、一転して小さく笑った。「柿沢さんは、ものすごいロマンチストなんですね」

「そうかもしれません。でも私は信じてる。あなたの人生は正しかったと」

エリちゃんは、目を剥いた。呆れ果てた顔で、私を見た。

「ねえ、どうして今そんな話をするんです?」と、エリちゃんは聞いた。

「エリさんが、過去の記憶をずっとなぞっているとわかったからです」

 エリちゃんは両眼を閉じて、後ろに少し仰け反るような仕草を見せた。長くまっすぐな黒髪が、顔からハラハラと剥がれて落ちた。彼女はしばらく、少し天を仰ぐような姿勢したままでいた。

「怖いですね。舞が言った通り、柿沢さんに隠しごとはできないですね」

 エリちゃんは少し無理に笑顔を見せた。でもそれは次第に、自然なそれに変わっていった。いい兆候だ。

「二人で、庭に出ませんか?」と、私はエリちゃんを誘ってみた。

「いいですね。来たときから、庭のお花が気になってしょうがなかったんです」

 私とエリちゃんは、コートを着て庭に出た。狭い庭だけど、庭中に私はパンジーを植えていた。天気予報は外れ、暖かい陽が差してきた。

「こんなにたくさん花を育てて、大変でしょう?」と、エリちゃんは私にたずねた。確かにたくさんある。鉢に三つずつパンジーを植えて、色違いもたくさん組み合わせて全部で24鉢。それから、両脇の壁に、壁掛け用の鉢が6鉢ずつ、12鉢ある。

「それが全然。三日にいっぺん、ホースで水撒くだけです。死んだ母がいつも花を植えてたんで、真似したんです」

「いいです。花を見てるだけで、気分が良くなります」

 実際エリちゃんの表情は、すっかりリラックスし柔らかくなった。幸いコートを着ていれば、庭は少しも寒くなかった。風はなく、陽も差している。私たちはついている。

 エリちゃんは植木鉢の傍にしゃがみ、じっくりと一つずつ花を見た。

「生き生きしてる。肥料はしょっちゅうあげてるんですか?」

「いいえ。最初に観葉植物用の肥料入りの土を買ってきて、それに花を植えてるだけですね。パンジーはね、すごく生命力強いですよ。強風が吹いても、雪が降って冷え込んでも、平気な顔して咲いてます」

「あはは、羨ましいなあ。私も、パンジーになりたい」と、エリちゃんは言った。そこに冗談の香りはなく、彼女の心底から出た言葉だとわかった。

「私は小学校三年生のとき、自分の異常に気がつきました。真理ちゃんと同じです」とエリちゃんは言った。「年末年始とお盆にうちに遊びにくる、いとこに恋をしたんです」

「はい」

「あの、そのいとこは、もちろん女です」と言って、エリちゃんは笑った。「高校生で、私の面倒を見てくれました。公園で遊んだり、食事に行ったり、一緒にお風呂に入ったり。私はそのときに、初めて性欲という感情を知りました」

 そこまで話して、エリちゃんは言葉を切った。そして、花壇の下に敷かれたタイルを見つめた。自分で自分に、戸惑いを感じているのがわかった。私は、いったい何を話してるんだと。

「エリさん。私は慣れてますよ。日菜子ちゃんはなんでも話してくれるし、涼ちゃんも真理ちゃんもそうです。だから私は、この道はかなり詳しいですよ」

 エリちゃんは、私の言葉に大きな声で笑った。春の鳥が鳴くような、爽やかな笑いだった。

「柿沢さんには敵わないですね。それにあなたと話していると、自然と自分の話をしたくなる。不思議ですね。私普段、こんな話誰にもしないんですよ」

「うーん、なんか私にはスイッチが備わってるらしいです。レズビアンの問題だけでなく、人は様々な秘密を私に話してくれます。なぜだか、自分ではわかりませんが」

「あなたは自分の能力を、自分ではわかってないのね」と、エリちゃんは言った。「でも自然に、人から秘密を吸い取るのね。わかりました」

エリちゃんの視線は、またパンジーに戻った。うちの庭のパンジーは、全部で七色くらいかな。白、黄色、ピンク、水色、紺、ピンク、赤、紫に白が混ざったやつ、ピンクに白が混ざったやつ。全部で九種類か。エリちゃんはそれらを眺めながら、話の続きをした。

「私は、そのいとこに夢中でした。お風呂で見た彼女の裸を、一生懸命デッサンしました。私はその頃から絵を描き始めていたので、いとこの美しい肉体をなんとか絵に表そうと悪戦苦闘しました。そうしながら、やっと気がついたんです。私は女なのに、女を好きになっていると」

 エリちゃんは立ち上がった。そして私のそばにきて、私の左腕をつかんだ。女でも男でもなく、何かにすがりたい気持ちが伝わってきた。

「同級生はもう、どの男の子が好きだとかクラスで騒いでいました。私はその気持ちがよくわかりませんでした。まだ子供だし、誰かを好きになるなんて先のことだと。でも私はしっかり恋をしてたんです。その高校生のいとこに。しかも性欲を抱いていたんです。その点では、私はクラスの最先端を突っ走ってました」

「間違いなく、トップですね」と私は言った。

「あはは、そうなんです。私はいとこが来ると、偶然を装って彼女の身体に触れました。その度に、身体に電流が走るような感動を覚えました」

「それ、わかります。私の周りの女の人もそうですから」

「そうなんですか?」と、エリちゃんは驚いた顔をまた見せた。

「しょうがないんです。ついつい触れちゃうんだから」と私は答えた。

 エリちゃんは、私の家の壁の先を見た。そこには、レンガを敷いた小さな公園があった。でも、壁があって公園を見ることはできなかった。

「いとこは大学生になったら、家に来てくれなくなりました。新しい世界に入って、親戚同士の付き合いに興味がなくなったんでしょうね。悲しかった。でもしょうがなかった。いとこは神戸に住んでて、私は東京だった。子供が行ける距離じゃない。彼女は京都の大学に進学して、学生生活を楽しんでいたんだと思います。私のことなんて、忘れてしまったんです」

 誰かを本当に理解しようとするならば、子供時代まで遡る必要があるのだろう。そこに、大人になったエリちゃんの謎を解く鍵がある。それを知ることは、とても困難なことだけれど。

「私はいとこの裸体画を完成させました。もちろん、誰にも見せられませんでしたけど。私は自分の絵と、空白の日々を過ごしました。子供の私はぼんやりと知りました。『大切なものは、なくなる』と。それが嫌ならば、何かしないといけないと」

 これが小学生だった、エリちゃんが出した結論なのだろう。今の私でも、なるほどと思わせる。だが結論とは、実はいく通りにも解釈できる。普通の人は、これがわかっていない。そしてエリちゃんも、自分のいいように解釈したのだ。

「ヒナとは、中学一年生の時に同じクラスだったの。最初私は、意外だけど彼女にそんなに惹かれなかった。ただのスポーツ少女だったから。アート路線を進んでた私とは、方向が違った」

「そうだったの。びっくりだね」と私は答えた。人の運命とは、不思議なものだ。

「でもね、ヒナがお昼休みとか、自習時間とか、一人でポツンと黙って座っているの。当時すでにバスケの有名人だったし、みんな一歩引いてた。孤立してたのね。あまりに可哀想だったから、私が声をかけたの。それが地獄の始まり」

 エリちゃんは、ニコニコしながらそう話した。私という話の聞き手を得て、彼女の発する言葉は活き活きしていいた。エリちゃんという人間の、生きてきた実感が伝わってきた。

「わかるなあ。日菜子ちゃんはいまだに友達を作ったり、仕事場の人間関係を上手くやるのが苦手なんだよ」

「そう、だから私が一生懸命面倒見た。話しかけて、部活の練習も見に行って、練習試合も応援に行った。最初は、寂しそうなヒナのためだったの。でも、いつの間にか立場がひっくり返ってた。私はヒナに夢中になってた。もう、強烈な恋」

 そこまで話して、エリちゃんはクスクスと笑った。日菜子ちゃんの思い出を話して笑ったことは、おそらくあまりないのではないだろうか?

「なるほどね」

「ねえ、柿沢さん」とエリちゃんは言った。「あなたは、女の人のことはなんでもわかるの?」

「いや、女の人はわからないです。わからなくて失敗ばかりで、いまだ独身ですから。でも、レズビアンの方のことはわかります」

「中二になる頃から、私はヒナでマスターベーションしてたの。やってもやっても、止まらないの。ごめんなさい、こんな話して。でも、本当なの」

「構わないです。本当の話をしましょう。私と話すときは、そうしてください。みんな、そうしますから」

「中二のとき、ヒナとキスしたの。彼女が家に泊りにきたとき。私は・・・。もう、このまま死ぬかと思った。死んでもいいと思った。今でも、あのとき死ねば良かったと思う・・・」

 エリちゃんはつかんだ私の腕を、さらに強く握った。そして視線を落とし両眼を閉じた。激しい感情が、激しい後悔が彼女を襲っていた。彼女はまともに立っていられなかった。

「こらこら、部屋に舞ちゃんがいるんだよ。それにあなたが死んだら、日菜子ちゃんがどれだけ悲しむかわかってるの?」

 私はここで、中年男に戻った。エリちゃんを空いた手で抱き寄せながら、ビシッと叱った。そうするべき場面だ。

「ごめんなさい」と、エリちゃんは素直に謝った。「私は、自分のことばっかり考えてるんだよね。私のダメなところだと思う」

「わかってるなら、OK」と、私は言った。

「ヒナとの関係は、だんだんエスカレートしたの。でも私は、受け入れられてると思ってた。お互いの家に泊まり合って、一つのベッドに入って彼女の身体に触れた。パジャマの上からだけど。もう衝撃で、頭がおかしくなりそうだった。ヒナに触れるだけで、私は天にも昇る心地を経験できたんです」

「でも、限界があった」

「そうなんです」と、エリちゃんは今にも泣き出しそうな顔をした。そうして、今度は両腕をしっかり私の左腕に絡ませた。彼女のような女性には、とても珍しいことだと思う。だが、そうせずにはいられない。今話しているのは、それくらいつらい話だ。

「柿沢さんもご存知のことですが、高校に進学する前の春休みに私はヒナを抱いてしまいました。ゆっくりと時間をかけて彼女を責め、絶頂まで導きました。私は、悪いことをしてるつもりはなかったんです。でも、ヒナはそうじゃなかったんですね・・・」

「事実を、ありのままに話しましょう」と、私は言った。「それが、物事を理解する一番の近道です。私の考えでは、日菜子ちゃんは人と性的関係を持つ心の準備が出来ていなかった。だから、エリさんがしたことに恐れを覚えたんです。簡単に言うと、性に対する罪悪感を感じたんです」

「そうですか・・・」と、エリちゃんは視線を落としたままつぶやいた。「私は、さっきもお話しした通りヒナに受け入れられていると思ってた。でも結局、自分のわがままをヒナに押しつけただけだったんですね」

「ねえ、エリさん。私は日菜子ちゃんからエリさんの話を聞いたとき、『これは、深刻な傷だぞ』と直感しました。彼女はエリさんにはそう見えなくても、ずっとあなたのことを考えて生きて来たんです。もちろん、男とも付き合ってます。でも、あまりいい男じゃなかったせいもあって、男との恋愛にも絶望しました。そして彼女の心は、何度もあなたに戻りました。だけど、ここが難しいですが、日菜子ちゃんはあなたと恋愛関係になることを恐れた。そしてあなたから、逃げた。でもそう行動することで、日菜子ちゃん自身は深く傷ついた。エリさんを傷つけていると、わかっていたからです」

「そうだったんですか・・・」と、エリちゃんはそれだけ言い、少し震えだした。私は空いている右手で、彼女をさらに引き寄せた。

「もちろん今の話は、私の仮説も入ってます。日菜子ちゃんから聞いた話を総合して、私が出した結論です」

「私は」と、エリちゃんは言った。「私は・・・。ヒナを諦めようと思ったんです。高校になってから、いや、あの春休みの夜から、ヒナは離れていってしまったから。悲しくて、耐えられなくて、死ぬことも考えました。でもヒナの試合があると、練習試合でも公式戦でも見に行っちゃうんです。コートで活躍する彼女を見るのは、私の心の支えでした。おかしな話ですが、片っぽうでヒナのことに絶望しているのに、もう片方でヒナの勇姿に勇気付けられてたんです」

「それが、あの膨大な映像なんですね」

「そうなんです。ちょうど軽量で高画質のデジタルビデオが、安く手に入る時代になってました。電気屋で望遠の機能が充実した製品を選んで、ヒナの試合に行くんです。もっと性能のいい製品が発表されると、値段関係なく買ってました」

「貴重な映像ですね。みんなビックリしますよ」

「そうなんです。ヒナの実力はすごくて、高二の時に日本のフル代表に召集されました。もう、私の手の届かないところに行ってしまった気分でした」

「でも、一緒にお昼を食べたりはしてたんでしょ?」

「ええ、たまに屋上に行って並んでご飯を食べたりしました。でも、ヒナは私の家に泊りにくるような話題は一切避けてました。もう、あんな経験は嫌なのだとわかりました。私たちは、当たり障りのない会話だけしてご飯を食べました。あれは私にとって、ある種の拷問でした」

 つまりエリちゃんは、ことを急ぎすぎた。「自分のことばかり考えてしまう」と言う通り、彼女は自分の欲望に忠実過ぎた。もしもおっとりとした日菜子ちゃんが、大人の戸口に立つまで成長したとき。そのとき、エリちゃんが彼女を抱いたのならば、二人は涼ちゃんと真理ちゃんのような関係を築けたかもしれない。だがそれは全部、起こらなかった。私は自分の仮定を口にしないことにした。

「エリさん。確かに日菜子ちゃんは冷たかったかもしれないです。でもね、それはさっき話したとおり、単純に性の恐怖だったと思うんです。まだ高校生だったんだ。仕方ないでしょう。そしてエリさんは、別に恋人を作った」

「そんなことまで、ヒナは話してるんですね」と、エリちゃんはまた驚いて言った。

「問題をね、深く掘っていったら辿り着いちゃうんですよ。先も言いましたが、エリさんの話を日菜子ちゃんから聞いて、『こりゃ、絶対解決しなきゃいけないことだ』と私は思った。そして、彼女と話を続けていくと、どんどん細部まで入る事になりました。でもね、細部にこそヒントがある。人の心の移り変わりを理解する手がかりがある」

「私は・・・」と、エリちゃんはまた言いよどんだ。「寂しかったんです。とにかく。人の温もりが欲しかったんです。正直言って、ヒナ以外の誰でも良かったんです。誰かを抱き、誰かに抱かれたかったんです。」そして、エリちゃんは一呼吸置いた。そして、「いっときでもヒナを、忘れたかったんです」と言った。

 さてと。ここに至って、おじさんは言うべきことを言わねばならない。私はそう思った。エリちゃんは30才だけれど、人生から見ればまだ子供だ。知らないことがたくさんある。

「エリさん」と、私は言った。「はっきり言いますが、日菜子ちゃんを忘れるために恋人を作るのは、相手に対して失礼です。恋人は、エリさんを求めているんですよ。なのにあなたは、日菜子ちゃんのことで頭がいっぱいだ。これはフェアじゃないです」

 えっ、えっ、ええっと、エリちゃんは静かに泣き出した。でも両手で私の左腕をしっかりつかみ、肩を私にくっつけていた。いいよ。気がすむまで泣いて。私はそう思った。

「つ、つらかったんです・・・。寂しかったんです・・・」

「実は、OKです。若者がすることなんて、みんなそんなもんですから。自分のエゴばっかりで、相手のことなんて考えられない。若いから、しょうがないです」と私は言った。

 エリちゃんはしくしくと泣いた。私は話を続けた。

「でもね、もうあなたも大人の女性だ。過去を振り返って、冷静にそれを解釈する力がある」

 エリちゃんは、泣き続けた。両頬から、いく筋も涙が流れ落ちた。それは私の庭のタイルの上に、梅雨の雨のようにキリなく落ちた。

「日菜子ちゃんへの想いは、今日で過去の記憶にしてしまってください。そしてまっすぐに、舞ちゃんを見つめてください。私は彼女と話して思うのですが、こんな素敵な方は滅多にいないと思いますよ。彼女に優しくしてください。彼女に愛情を注いでください。彼女を甘やかして、わがままをたっぷり聞いてあげてください。彼女のために、できることをなんでもしてください。彼女を失わないでください。そんな事になったら、エリさん。あなたはもっと傷ついいてしまいますよ」

 エリちゃんは、私の肩に頭を乗せた。ようやく、彼女は泣き止んだ。まるでチークダンスでも踊るように、私とエリちゃんはユラユラと身体を揺すった。

「ヒナがあなたのことを好きな理由が、納得できました」と、だいぶ経ってからエリちゃんは言った。「私もあと一押しされたら、危ないです」

「ハハハ、そりゃもっとややこしくなりますね」と、私は笑った。

「涼ちゃんも真理ちゃんも、そんなあなたが好きなんですね」

「ねえ、エリさん」と私は言った。「あなたにも過去があるけど、私にもそれがある。楽しくない思い出です。それは人ぞれぞれ、ある意味同レベルなんですよ。つらさは、心の傷はみんな同じなんです。それを肯定しないと」

「そうですね」また、しばらく考えてから彼女は答えた。

「最後にもう一つ。片思いというのはとても素敵なことです。なぜなら、恋人同士になると、お互いのメッキが剥がれていくのも見ることになるからです。自分の理想と、生の相手とのギャップを見続けることになります。片思いはそうじゃない。恋する相手は理想のままです。だから美しい。でもあるときに、線を引かないといけない。これまでは良かった。だが現実に生活して、幸せを築かないといけない」

「わかりました」と、エリちゃんは今度ははっきり言った。「舞には、世話になりっぱなしでしたから。これからは、彼女の言うことを聞きます。彼女の好きなことをします。私にできることをします」

「まず、彼女のファッションセンスから手をつけたらどうだろう?」と私は言った。「彼女はもっと、綺麗になれると思う。ファッションデザイナーのエリさんなら、それができるでしょ」

「あはは、そうですね」

「真冬に、超ミニはないんじゃない?明らかに上着とアンバランスだし、見てる方も寒くなる」

「ははは、ほんと、その通りです」

 

 私とエリちゃんは、長い話のあと部屋に戻った。もう誰も、日菜子ちゃんのビデオを見ていなかった。みんな、私とエリちゃんに注目していた。ダイニング・ルームにただならぬ雰囲気が漂っていた。まあ、仕方ないさ。

「さてと。じゃあ、涼ちゃんと真理ちゃんの春の服を買いに行こうか」と私はみんなに言った。「ファッションデザイナーのエリさんがいるんだから、そのアドバイスに従うんだよ」

「あーい」と、涼ちゃんと真理ちゃんが大きな返事をした。それから真理ちゃんが、日菜子ちゃんに「ねえ、私と同じ服を着てみない?」と言った。真理ちゃんは、まだ高校生の日菜子ちゃんにこだわっていた。

「えっえー?!」と日菜子ちゃんが、明らかに当惑して答えた。

「エリさん、どう思う?」と、私はエリちゃんに聞いてみた。

「ヒナは童顔だから、イケると思う」と、エリちゃんは言った。これで話は決まった。

 六人では車に乗れないので、電車で千葉に向かった。その頃になってようやく、私は自分が今日の問題の重要な当事者であることに思い当たった。エリちゃんと日菜子ちゃんのことばかり考えていたので、自分にまで考えが回らなかった。

 日菜子ちゃんの告白により、私は正式に彼女の恋人となっていた。もうすぐ50で、おまけにあそこも勃たないのに、30才の女性の公式恋人に格上げされていた。

 なんだかなあ。本当に世の中は、うまく行かないものである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る