第42話 生き続ける苦しみ
次の日私は、オフィスで仕事中に涼ちゃんのおじいさんにショート・メールを送った。
「今日、何時頃なら電話で話せますか?」
30分くらい経って、返信が来た。
「今会議が終わった。今から5分なら大丈夫だ」
「今すぐ電話します」
私はそうメッセージを返すと、走って廊下に出た。そして、涼ちゃんのおじいさんに電話した。
「どうしたんだ?何かあったのか?」涼ちゃんのおじいさんは、とても不安そうだった。
「お忙しいところ、すみません」
「君なら構わん。何でも言ってくれ」
「手短かに、お話しします。昨夜、敢えてお話ししなかったことです」と、私は断った。「実は、先週涼ちゃんと彼女のお母さんに会いました」
「!!!」涼ちゃんのおじいさんの、凍りつくような緊張が伝わってきた。
「涼ちゃんのお母さんから、全部聞きました。子供のころから現在まで、全てです。聞いたのは、私だけです。涼ちゃんは聞いてません」
「・・・」
「涼ちゃんが、あなたの二人の子供の間にできた子供だと理解しました」
「・・・」涼ちゃんのおじいさんは、押し黙ったままだった。
「今週の日曜日に、涼ちゃんのお母さんも目黒に来るよう誘いました。お話を聞いて、そうするべきだと考えたからです」
「て、てめえ、な、何様のつもりだ・・・」
涼ちゃんのおじいさんは、突然怒り出した。しかし、それは弱々しい怒りだった。口調に、怯えが混じっていた。私は畳み掛けた。
「はっきり申し上げます。私は、とても怒っている。あなたと、あなたの奥さんに対してです」
「や、やめてくれえ・・・」と涼ちゃんのおじいさんは、今度は哀願するような口調に変わった。
「駄目です」と、私はきっぱり言った。「この問題は、もはや当事者では解決できません。第三者の目が必要です。その役目を、私が引き受けます。すべては、涼ちゃんのためです。私もあなたと同じくらい、涼ちゃんを愛しています。彼女のためなら、何でもします」
そこまで一気に話して、私は言葉を切った。涼ちゃんのおじいさんは、また黙っった。
長い沈黙が続いた。私は焦らず待つことにした。これはあまりにつらく、悲しすぎる物語だ。もし同じ立場に立ったら、冷静でいられる人はどれだけいるだろう?
「涼のため、なんだな・・・」絞り出すように、涼ちゃんのおじいさんは言った。
「その通りです」
「わかった・・・」
とても小さな声だった。私はそれで十分だと思った。
「では、日曜日に涼ちゃんと涼ちゃんのお母さんとうかがいます。よろしくお願いいたします」
涼ちゃんのおじいさんは、また沈黙した。私は1分くらい、彼の返答を待った。しかし、静寂が続くだけだった。私は諦めて、こちらから電話を切った。
廊下からオフィスに戻りながら、私は自分がとても興奮していることに気がついた。それは、やるせない怒りのせいだった。
一方で私は、自分に正しいことをしているか?と問うてみた。答えはすぐに出た。これは、やらねばならぬことだ。なぜなら、涼ちゃんのおじいさんとおばあさんだってずっと苦しんでいたはずだからだ。おそらく、涼ちゃんのお父さんが非行に走り家庭内暴力にまで及んだとき、そして涼ちゃんが生まれ、それが近親相姦による子だと知ったときから。二人はこの苦しみに耐えながら生きてきたのだ。我が子が二人とも音信不通になり、この解決不可能な問題に悩み抜いてきただろう。
しかし二人とも、未だ答えを持っていない。苦しみに慣れることしか、身につけていない。ならば私が、答えを告げる。涼ちゃんのおじいさんとおばあさんを、本気で叱る。自分たちのどこが間違っていたのか?それからその間違いは、どうすれば取り返せるのか?。それを私が教える。全部、涼ちゃんのためだ。
よし、と私は思った。私のしていることは、間違っていない。そう考えてから、涼ちゃんのことを思った。ああ、彼女は、もしかすると長く生きられないかもしれない。ならばだ。悲しんでいる暇はない。涼ちゃんの人生を、今すぐ実りあるものにしなきゃいけない。そうだ。私は今度はパワーが湧いてきて、代わりに怒りが鎮まっていった。
オフィスに戻って席に座ったが、とても仕事に集中できる状態ではなかった。メールソフトを開いて眺めていると、ぱかぱかとどうでもいいメールが次々に届いた。全部、件名だけでくだらないとわかった。ちょっと自分で考えればできることを、わざわざメールを打って私に送ってくる。全部、「バカ!」とだけ書いて返信しようかと思ったが、あんまりなのでやめた。
そんなところへ、携帯に電話がかかってきた。なんと、舞ちゃんからだった。
「おじさん、今話しても大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
私はそう答えながら、もう一度オフィスから廊下へ出た。
「私ね、次の土曜日は今年初の休みなの!」
「ほんとに!?」
私は思わず、腕時計を見て日付を確かめた。今日は、1月23日だった。
「ほんと!うちの会社は零細会社だからさ、慢性的人手不足なの。私、報道担当だから、毎日ネタが尽きないの。火事現場にも行くし、冬山の遭難現場にも行くし、毎日真夜中に車で長距離移動の毎日」
「心配になってくるよ。身体、大丈夫?」
「身体は大丈夫。というか、心が元気かな。私には、エリちゃんがいるから」
舞ちゃんは、嘘偽りなくそう言った。彼女の言葉は、私の胸に深く突き刺さった。彼女はおそらく知らない。この間日菜子ちゃんが、エリちゃんの家に泊まったことを。そして、何があったかを。
「ねえ、おじさん。お願いがあって電話したんだけど」と、舞ちゃんはいつになく自信なさげにたずねた。
「何?どんなこと?」
「また大月さんと、エリちゃんを会わせてくれないかな?」
私には、予想外の申し出だった。もちろん、近いうちエリちゃんに会うことも考えていた。だが、舞ちゃんも一緒にとは、考えてなかった。
「舞ちゃんは、大丈夫なの?」
「おじさんは、私のこと気にしてくれるの?」そう言って舞ちゃんは、カラカラと笑った。「私は平気。ホントを言えば、つらい気持ちも少しあるけど。でも、エリちゃんに、本当に明るくなってもらいたいから」
私はこの女性に、心から畏敬の念を覚えた。まだ、二十代前半だろうに。彼女はエリちゃんと日菜子ちゃんが、15年かかって解けなかった問題に挑もうとしている。私は彼女に、年令に似合わない豊富な人生経験、そこから生じる透徹な目、物事を見抜く力を感じた。
「エリちゃんが明るくなるなら、大賛成だよ。日曜日は約束があるけど、幸い土曜日は空いてる。そうだな、今度はうちに遊びにきたらどう?早朝に、車で迎えに行くよ」と、私は言った。
「いいけど、わざわざ申し訳ないんだけど。それに土曜日は、大月さんもおじさん家に来るの?」当然の疑問だった。
「いや、今月から毎日家に来てる。自分の家には、たまに荷物取りに行くだけ」
「あーら、そう」と、舞ちゃんは感慨深げに言った。彼女は事情をすぐ理解したらしい。「それなら、おじさんの家に行くよ」
「例のバスケの映像も、少し持って来てよ。また、日菜子ちゃんとバスケの話をしよう」
「うわ〜!すごい楽しみ!」と、舞ちゃんは声をあげた。けれどすぐに、黙り込んでしまった。
「どうしたの?」
「おじさん、私ね」と、舞ちゃんは言った。「エリちゃんに早く、大月さんから卒業してほしいの。そこにとどまるのは、一種の地獄だから」
「うん。俺もその通りだと思う」
「おじさんもわかる?」
「わかってると思う。日菜子ちゃんの話を聞いて、彼女もエリちゃんから卒業しなきゃと思ったから」
「それはつまり、大月さんもエリちゃんのことで傷ついたんだね」
「そうなんだよ。だから身勝手な願いかもしれないけど、二人は普通に、一生モノの親友になってもらえればと思う」
「それがおじさんの願い?」
「うん、そうだね」
「私は違うな。早く大月さんを忘れて欲しいから。でもおじさんは、無理だと思ってるんだね」
「無理だと思う。だって、中学生の頃から、一番多感な時期を二人で過ごしたんだよ。忘れるなんて、無理な話だと俺は思う」
「そうだね。そうかもね・・・」舞ちゃんは、沈んだ声で答えた。
「早くあの日菜子ちゃんのビデオを、見なくなることだ。でも今はまだ無理。彼女は十代の頃から、あのビデオを何度も見直してきたんだ。そんなエリちゃんを想像すると、俺ですら胸が裂けそうになる。少しずつでいいから、日菜子ちゃんから卒業するしかない」
「エリちゃんとは、レズビアンのための出会いパーティーで知り合ったの。この世には、そういう世界があるの。おじさん、知ってた?」と、舞ちゃんは話題を変えた。
「ちらっと、聞いたことはある」
「私はエリちゃんの、知的な佇まいに強烈パンチを食らったの。で、もう猛烈アタック!
そういうパーティーって、満遍なく知り合うために頻繁に席替えするの。私はエリちゃんの両隣に座ったやつらを、これでもかってくらい睨みつけてた。手を出すんじゃねえぞって」
「ははは、そりゃすごい」私は会社の非常階段で、一人声を上げて笑った。いつでも恋が始まる話は、人を愉快にさせてくれる。
「エリちゃんとは、付き合ってまだ半年なの」と、舞ちゃんは言った。
「半年で、あのビデオ画像を整理したの?すごいね」
「一応、それで飯食ってるから」と、彼女は平然と答えた。
時刻はもう昼休みになっていた。この調子だと、いくらでも舞ちゃんと話せそうだった。
「とにかく、土曜日に家に遊びにきてよ。日菜子ちゃんの他に、俺の同居人がいるから紹介するよ。高校三年生の、レズビアンのカップルなんだ」
「ぎょっ、ぎょっ、ぎょえ〜!?」舞ちゃんは、とんでもない大声で叫んだ。
「わけわかんないでしょ。でもその理由は、土曜日に。エリちゃんが一緒のときに説明するよ」
「おじさんって、いったい何者?」
「俺はいたって平凡な、退屈な男だよ。でもいろんなことが、成り行きでしょうがなかったんだ」
「そう。秘密は全部、土曜日にお預けね。わかったあ。エリちゃんにも話しとく」
そう言って私たちは、土曜日の8時にエリちゃんのアパート待ち合わせの約束をした。そして別れの挨拶をして、電話を切った。私はオフィスに戻り、遅れて昼食を摂った。
食事を摂りながら、あらためて舞ちゃんの懐の深さに驚いた。恋人に忘れて欲しいと思う人のビデオを、あんなに完璧にまとめたのだ。舞ちゃんは、それが今のエリちゃんに必要なことだと考えたのだろう。そこまでした上で、エリちゃんが徐々に日菜子ちゃんから離れることを彼女は望んでいる。
私が舞ちゃんの立場なら、同じことができるだろうか?無理だな。そんな昔の好きな人を思い出させることを、私はしようとは思わないだろう。でもエリちゃんの心は、今も大量のビデオに囚われたままだ。舞ちゃんの年令の頃の私だったら、この問題は手に負えなかっただろう。
その日の午後は13時に、年下の同僚が仕切る原発新設ミーティングに参加した。同僚は、パワポの資料をモニターに映し熱心に演説していた。今や日本で、新たな原発を作るのは不可能に近い。住民が求める安全対策のせいで、コストがかかりすぎるのだ。そこで同僚は、アジアへの進出を主張した。私は何も言わなかった。会社では、もう私に発言権はない。誰も私の言葉に、耳を傾けない。ただそこに、座っているだけだ。
14時に席に戻り、私は大量の書類を分類して適切なファイルに閉じた。こんな地道な仕事は、二十年してなかった。でも、誰かがやらねばならぬことだ。これが今の、私の役目だ。
14時半を過ぎた頃、また電話がかかってきた。直子ちゃんだった。
「今、摩周湖にいるの」と、直子ちゃんは言った。
「摩周湖!?寒くないの?」私はまた廊下に出て、非常階段に向かいながら聞いた。
「寒いに決まってるでしょ!零下30度だよ。おまけに吹雪」
「なんでこんな季節に、そんなとこいるの?」
「お客さんが、行きたいって言って譲らなかったの。到着したけど、猛吹雪の中。摩周湖どころか、1m先も見えない」
私は笑ってしまった。不謹慎だけど。
「ネットの紹介でね。冬の摩周湖が一番綺麗だとか書いてあるの。でもそんなの、不安定な北海道の山岳地帯で、ほんのたまに晴れるときだけだよ。それにお客さんが騙されてさ。今は道も通行不可能で、摩周湖の観光案内所に閉じ込められてる」
「これから、どうするの?」
「今市役所の除雪車が、私たちみたいな観光客を救いに来るところ。それを、ボーっと待ってる」
「そりゃ、大変だ」
「でね、昨日おじさんが家に電話くれたって聞いてたから、電話したの。仕事中にゴメンね」と、直子ちゃんは急に神妙な言い方をした。
「全然、俺は構わないよ」
「来週、また釣りに行くことになったんだって?」
「そうだよ。でも全ては、直子ちゃんの仕事次第」
「来週の土日なら、今のところ大丈夫。何か仕事が入ったら、同僚か上司に押し付ける。絶対行くよ」
直子ちゃんらしい話だ。この調子で仕事を頼まれたら、誰でも断れないだろう。
「田所さんは、直子ちゃんに負けたのが悔しくてしょうがないらしいよ」
「そうなの。帰るとパパは、毎日釣りの話ばっかりするの。『次は、絶対勝つ』って」
「田所さんの体調はどうなの?」
電話口の直子ちゃんは、ふうっと大きなため息をついた。
「もう杖を使っても、歩くのが困難になってきた。来週は車椅子になるかも」
「そうなんだ」
「でもね、体力は落ちていくのに、パパのやる気はドンドン上がってる」
「そりゃ、いいことだ。やる気を持つことは、長生きの秘訣だ」
「ねえ、おじさん」と、直子ちゃんが言った。「あんなに楽しそうなパパを見るのは久し振り。それにね、最近パパとママが仲良いの。私が子供の頃は、ママがいつもパパを叱ってた。パパはママに怒られても、黙ってるだけ」
「なんとなく、想像はつくよ」
私は奥さんに怒鳴られて、小さな子供のようにうつむく田所さんが目に浮かんだ。でも世間の家庭の大半は、田所家と大差ないだろう。家族は父親を相手にせず、家に居場所のない世のお父さんは、帰宅せずに酒を飲んでストレスをごまかす。
「ねえ、パパは変わったよ。短期間で一気に。それは、おじさんがパパと家に来てからだと思う」
「いや、田所さんが変わったとすれば、やはり第一に真理ちゃんと会ったからじゃないかな。第二に、真理ちゃんのことを家族のみんなに伝えたからだと思う」
「おじさん、理屈っぽいね」
「そう?」
「自分で自覚ないの?相当だよ」と言って、直子ちゃんは笑った。彼女はお客さんを、放っておいていいのだろうか?
「ママが最近明るいの」と、直子ちゃんは言った。「釣りに行った後から」
「あの企画は、成功だったみたいだね」
「そりゃあ、もう。うちの家族にとっては、とんでもなくでかかったよ」
「直子ちゃんが、大物を釣って盛り上げてくれたから」
「ううん、そんなことは小さなこと」と、彼女は否定した。「うちの家族と、おじさんの家族。一緒になって楽しめた。それが、でかかった」
直子ちゃんの言っていることは、とても大事なことだと思う。まさに私が獲得すべく、もがいていることだからだ。彼女は気がついてくれている。そう知って私は安心した。しかし、「おじさんの家族」か。なんとも、変な気分だ。
「今、除雪車が到着した。私、仕事に戻るね」と、直子ちゃんは言った。
「了解」
「来週の釣り、楽しみにしてるね」
「うん。またポイントは、お父さんに選んでもらおう。早く選ぶようPushしてね」
「オッケー!じゃあ、おじさんまたね」
そう言って直子ちゃんは電話を切った。零下30度の摩周湖で、エネルギッシュに跳ね回る彼女の姿が目に浮かんだ。
オフィスに戻ると、15時を過ぎていた。くだらないメールはさらに増えていた。私はそれを読まずに、人事異動に伴う各種システムのマスタ変更に着手した。これがなかなか面倒だ。退屈だけど、間違えることは許されない。
10分と経たずに、また電話が鳴った。iPhone を取って画面を見ると、田所さんからだった。ホントかよ。
「お仕事中すみません」と、彼はまず謝った。「今少し、話しても大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」と、私は答えた。あーあ。今日はもう、開店休業だ。
「昨日は娘と女房に電話を取られて、柿沢さんと全然話ができなかったものですから」
「なぜか、そうなっちゃいましたね」私はそう答えながら、また廊下に出て非常階段に向かった。
「午後、二度ほどお電話したのですが、つながらなかったので」
「いや、実は直子さんと話してたんです」
「直子とですか?」田所さんは、とても驚いて言った。
「今摩周湖にいて、吹雪で閉じ込められてるそうです。除雪車が到着して、これから脱出できそうです。
そうそう、直子さんは来週の釣りをとても楽しみにしてましたよ。土日どちらでもいいそうです」
「そうですか。あなたは私より、娘のことをご存知だ」そう言って、彼は笑った。「そうなると、天気と波ですね。それをしっかり見極めて、土日のどちらか決めましょう」
「田所さんの言う通りにします。それから、行く場所も決めてくださいね」
「次は、外房にしようと思ってます。太平洋の波は荒いですけど、日の出を楽しみながら、釣りができます」
「それはいい。真理ちゃんも喜びます」と、私は答えた。
「柿沢さん。私はまだ、真理ちゃんとほとんど話してない」と、彼は言った。「この間も会話しようと試みたのですが、沙織が真理ちゃんを独占して離れない。チャンスがなくて、参りましたよ」
「それはそれで、素敵なことです。真理ちゃんは、あなたの隠し子なんだから」
「ハハハ、そりゃそうだ。普通じゃありえないですね」田所さんは、これから死を迎えようとする人とは思えないほど明るかった。
「あなたが、この間言った言葉が忘れられない」と、彼は突然言った。
「私、何か言いましたっけ?」
「あなたは言った。『子供は生まれる場所を選べない。なんの落ち度もなく、ある家に生まれる』と。
あなたが、真理ちゃんのことを言っているのはわかりました。でもね、私には自分のことを言われている気がした」
「つまり、どういうことです?」と私はたずねたが、彼が問題にしたいことはすぐわかった。それは、高貴な家柄だ。
「私はね、田所家に生まれたせいで、何一つ人生を選択できなかったんです」
「はい」
「高校も大学も、両親、というよりじいさんがうるさかったんですが、猛勉強させられて入った。私には弟がいるんですが、彼は脱落した。高校を卒業すると家を捨てて海外を放浪してた。今は、行きてるか死んでるかもわからない。弟は、落伍者として家から切り捨てられたんです」
私はなんとも答えようがなかった。私が黙っていると、田所さんは話を続けた。
「私は子供のころから、機械いじりが好きだったんです。ラジコンから始まり、小学生のうちに自分でラジオを組み立てた。ハンダゴテを使ってね。車も電車も、飛行機も好きですよ。だから将来は、できればそういう道に進みたかった。大学も理系でした。
でもね、じいさんが銀行に就職しろっていうんです。旧財閥系のね。面接一回受けて、就職決まり。じいさんが手を回したんでしょうね。義理で就職試験受けて、何点だったかわからないですけど、私の内定は決まってた。そして、55歳までそこで働いたんです」
「私とは、別世界ですね」
「そうだと思います。普通じゃないです。女房も、以前お話しした通りじいさんが決めた。私は人生で、何も選択しなかったんです」
「でも、おじいさんはあなたのためにそうしたんです」と、私は言った。
「柿沢さんのご指摘も、もっともだと思います。じいさんはじいさんなりに、私の幸せを考えてくれた。銀行なんて、今みたいに潰れるわけないって時代でしたからね。一番安定した道に、私を導いたわけです。じいさんとしては」
「そうですね」
「柿沢さん。私はあなたに、嘘をついていることがある」と、田所さんは言った。
おいおい、その話は次の釣りのときにしようぜ、と私は思った。だが、みんながいる場所では、憚られる話もある。彼は、今そんな話をしようとしていた。
「私はあなたに、愛したのは真理ちゃんのお母さんだけだと話しました。それは、半分嘘です。確かに、真理ちゃんのお母さんへの想いは本気だけれど、私には女房と結婚する前の彼女がいた」
田所さんは、自分の人生を全部振り返って私に晒そうとしていた。よし、いいだろう。私は、受け止めよう。私は非常階段の踊り場で、少し背筋を伸ばした。
「その彼女には、結婚前に全部事情を説明して別れました。とても温厚で、ちょっとのことでは動じない女性でした。別れ話も、彼女はあっさりと納得してくれました。
でも、自分の都合で別れながら、私は彼女の想いを断ち切れませんでした。女房と結婚しても、毎日彼女のことを考えて過ごしました。女房には、かけらの愛情も覚えませんでした。ただ、一緒に家にいるだけです。私は、別れた彼女を思い出しては後悔ばかりしていました」
「弟さんのように、全てを振り切ることは考えなかったんですか?」と、私は思い切って聞いてみた。
「それはできなかった。弟が先に、やってしまいましたからね。うちは、三人兄弟で、姉がいます。男は私と弟の二人です。私までコケるわけにはいかなかったんです。私も、結局家の名誉に縛られてたんですね」
「私は第三者だから、田所さんの幸せと同時に、奥さんの幸せも考える。事情が込み入っているのはわかる。でもあなたは、まず奥さんの人生を考えるべきだ」
「耳が痛いです」と、彼は言った。「二十代の私は、女房のことなんて全く考えなかった。きっと彼女も、私と結婚して不幸だと感じていたと思うんです。完全な、セックスレスの夫婦でしたから。外面だけです。私と女房の生活は、空っぽだった」
「その、別れた彼女はどうされたんですか?」
「彼女は」と言って、田所さんは言葉を切った。「彼女は、なかなか結婚しませんでした。そしてたまに、私に電話をくれるんです。ちょうど携帯電話が普及し出しました。長話はしなかったけれど、お互いの近況を伝え合いました。彼女と話した後は、いつも救われた気分になれました」
歴史において、王族や貴族階級の政略結婚は当たり前である。そこに自由恋愛の発想は全くない。望まない相手との結婚だから、当然別に「愛人」みたいなものを作る。そこにこそ、本来の恋愛関係が生じる。これは、世界中共通した話だ。
だが現在は、そうはいかない。浮気、不倫をすることは倫理上許されない。だが許されない関係に「本当の愛情」を見つけたとき、人は重大な決断をすべきだと私は思う。なぜなら、自分を偽った人生を送ることは、ある種の地獄だからだ。
「仮面のような結婚生活を十年続けて、女房が『子供が欲しい』と言い出しました。でも、私は彼女を抱く気が全く起きなかった。それで、不妊治療を受けました。三十代前半でしたが、私はボロボロだったんです。性欲なんて、全然ありませんでした。だから、病院で個室に入って、エロ本とビデオで無理矢理オナニーしました。それを採取して、女房の体内に容れる。不自然なことやりましたよ。それで、直子と沙織ができたんです」
私は彼に語るべきことを考えた。候補は、いくつも頭に浮かんだ。だが、全部話を聞いてからにしようと決めた。田所さんは、続きを話した。
「私に一人目の子、直子ができたことを彼女に伝えました。彼女は、いつものように落ち着いていました。しばらくして、彼女も別の男と結婚すると聞きました。
私は・・・、私は、子供を作っておいてですが・・・、身を切られるようにつらかった。この期に及んで、私はまだ彼女を他の男に取られるのが嫌だったのです。ハハハ、バカみたいですよね」彼は、虚しく笑った。
「いいえ、あなたの気持ちはわかります。こういう気持ちはね、田所さん、あなただけじゃないんですよ。多かれ少なかれ、結婚した人は男女どちらもあなたのような思い出を抱えています。あなたが特別なわけじゃないです」
「ふふふ」と、彼は小さく笑った。「あなたは私の苦しみも、お見通しなわけですね」
「いえ、そんな大したもんじゃないです。自分の経験から、話してるだけです」
「柿沢さん。その後が、つらかったんです」と、田所さんはあらたまって言った。
「何があったんです?」
「彼女は、お産に失敗したんです」
私は口をグッと閉じた。身体中が引き締まるのを感じた。私は沈黙したまま、彼の言葉を待った。
「ひどい早産だったんです。それが一つ。そして彼女の子宮は、元から欠陥を抱えていた。出産に耐えられる身体じゃなかったんです。まず、彼女が出産時に死にました。そして生まれた未熟児の子は、二日後に死にました」
私はゴクリと、唾を飲み込んだ。与えらえた衝撃に、私は携帯を持っていない腕を壁についてバランスを取った。そうしなければ、私も座り込んでいたと思う。
「私は彼女と共通の友人から、ことの顛末を聞きました。その瞬間から、私は昨日までの自分に戻れなくなりました。空からありとあらゆるものが、落っこちてきた感じです。自分はゴミの山に囲まれて、悲しみに暮れ、途方に暮れてどこにも行けませんでした」
人生とは、苦しみの連続である。仮に田所さんと彼女は結婚できたとしても、彼は出産で彼女を失っただろう。だが、生きる過程によって、受ける傷の深さは異なる。田所さんは、十年以上前に彼女を捨ててしまった。そして、その呵責に苦しんだ。そこへ彼女の死が重なる。
「その頃から、真理ちゃんのお母さんの店に通うようになりました。直子も沙織もまだ赤ん坊なのに、私は育児を放棄しました。何もしないで、居酒屋のカウンターに一人座って泣いてたんです。一年くらい、その生活でした。家には帰りたくなかった。女房がいるからです。あいつの目尻を上げて起こる顔を思い浮かべるだけで、ゾッとしました。私は閉店近くまで居座って、ベロベロに酔っ払って泣いてたんです」
「田所さん。あなたは自分を責めるべきじゃない」と、私は言った。「その彼女が出産に失敗したのは、彼女の人生の問題だ」
「はい、おっしゃる通りです」と、彼は答えた。「私が悲しんだり、後悔しても何もならない。それは、わかってました。でも、毎日昼間から、ふと自然に涙がこぼれるんです。堪えられなかった。
そんな頃に、真理ちゃんのお母さんと知り合ったんです。毎日店で泣いてる私に、声をかけてくれてんです。彼女は、今からは想像できないほど魅力的でした」
「ちょっと、想像つかないですね」
「ハハハ、ごもっともだと思います。真理ちゃんのお母さんは、まだ三十前でした。それなのに、もう店の経営者でした。なんでも、銀座でホステスをしてお金を貯め、起業したそうです。私は彼女の勇気と才覚と行動力に、感銘を受けました。一方で私は、仕事がイヤでイヤでしょうがなかった。毎日適当に仕事をこなして、夜になると真理ちゃんのお母さんの店に直行してました」
「真理ちゃんのお母さんは、なんておっしゃってました?」私は、少し意地の悪い質問をした。
「いやあ、クソミソに怒られましたよ」と、田所さんは言った。電話の向こうで、彼が苦笑しているのが伝わってきた。
「でしょうね」
「柿沢さんも、彼女をよくご存知だから想像がつきますよね。私は彼女に、洗いざらい話した。そしたら彼女から返ってきた言葉は、『だから、何?』でした。『あなたが何を考えようが、彼女は別の男と結婚し、そして死んだだけだ。彼女は、自分で自分の人生を選んだ。何も問題はない。あんたには関係ない話だ』ってね」
「私も、真理ちゃんのお母さんに賛成です」と、私は言った。
「柿沢さんと、真理ちゃんのお母さんは似てますね」
おいおい、私はあんな偏屈な性格じゃないぞ。だが田所さんは、自分の説に満足なようだった。
「真理ちゃんのお母さんは、こうも言いました。『あんたとその彼女は、お互いに気持ちを引きずってたみたいだ。でも、別れるって納得したんだろ?二人で決めたんだろ?大人なら、一度決めたことを曲げるな』とね」
ずいぶん優しいな、と私はいぶかしく感じた。それはつまり、真理ちゃんのお母さんも一人の女として田所さんに接したからだろう。
「私は、徐々に立ち直ることができました。と同時に、真理ちゃんのお母さんに魅かれていきました」
「奥さんは、不審に思わなかったんですか?」
「その頃の銀行は、深夜まで残業当たり前でした。ちょうど2000年前後ですね。不良債権問題で各行とも人員削減して人件費を減らし、生き残り合戦でしたから。夜に帰らなくても、まったく怪しまれなかったんです」
「なるほどね」
その頃は、私の会社も冬の時代だった。新しい建設計画は、銀行の融資が得られずことごとく頓挫したものだ。うちの課でも、今月受注ゼロなんてザラだった。
なんとか仕事を取ろうとしているところに、重要な戦力のベテランが肩を叩かれて辞めていった。その皺寄せは、残ったものがこなすしかなかった。
「そして、真理ちゃんが出来てしまったんです」と、田所さんは告白した。「私は自分で不能だと思ってましたから、びっくりしましたよ。でもすぐに、自分が犯した過ちの重大さに気づきました。私は・・・、実は・・・、中絶してほしいと真理ちゃんのお母さんに頼んだんです・・・」
そこまで話して、彼は深いため息をついた。彼はこの判断も、今は悔いているのだろう。
「でも、堕ろさなかったんですね」
「真理ちゃんのお母さんは、私の意見なんて最初から聞く気はなかったんです。『子供は産む。あんたには、関係ない』の、一点張りでした」
「彼女らしいですね」
「彼女は、養育費も一切要らないと言いました。私は少しでも払いたかった。でも、給与口座の通帳もキャッシュカードも女房に渡していました。私が自由に出来る金はなかったんです。恥ずかしながら。私は家にいくら貯蓄があるのかすら、知らないんです」
「それが典型的なご家庭じゃないですか?あなたに出来ることは、何もなかったということです」
「そうですね・・・」
田所さんは、消え入りそうな声で答えた。彼が真理ちゃんに対して何もしなかったことを、本気で恥じているのが伝わってきた。
「真理ちゃんのお母さんは、いつの間にか真理ちゃんを生みました。店にしばらく出勤しなくなり、そろそろだとはわかっていました。でも彼女は、一切私に頼りませんでした。そしてこのことは、私にもう一つ傷を作りました」
田所さんの独白は、終わりが見えなかった。私はもう、今日という日を捨てることにした。もうここまで来たら、とことん付き合うしかない。
「家に帰れば、直子と沙織がいました。子供は可愛かった。でも私には、真理ちゃんもいる。なのに、彼女には何もしていない。
柿沢さん。私はまた、死んでしまった彼女をしょっちゅう思い出すようになったんです。彼女なら、この私の不始末をどう思うだろう?間違いなく軽蔑するに違いないと。そのうち私は、生きていることが本気で嫌になりました。ほとほと、自分という人間に嫌気がさしました。死ぬ手段を、真面目に検討しました。電車に飛び込むのは止めよう、家族に損害賠償請求されるので。首吊りは?首吊りで死ぬと、全身の筋肉が緩んで、小便や大便を垂れ流すそうです。そんな無様な死に方は嫌だ。で、最終的に、飛び降りが良さそうだと思いました。宙を飛ぶのは気分がいいし、地面でグシャッと潰れて終わり。ゴキブリのようで、私に似合う気がしました」
「でも、思いとどまったんですね」
「ええ。それは真理ちゃんのお母さんが、赤ん坊を店に連れてくるようになったからです」と田所さんは生気を取り戻したように言った。「親バカと言われればそれまでですが、真理ちゃんは本当に可愛かった・・・。この世にこんな綺麗な赤ん坊がいるのかと思いましたよ」
まあ、真理ちゃんならそうだろうな。ところで、私は気になっていたことを聞いてみた。
「真理ちゃんのお母さんのお店で飲むお金は、どうしてたんです?」
「全部会社の会議費で処理しました。管理職でしたから、経営難でも交際費には困らなかったんです」
「さすが、大手銀行ですね」
「今振り返ると、恥ずかしい話です。私は個人的な理由のために、会社の金を使ってたわけですから」
「当時はそれが当たり前だった。過去をほじくるのはやめましょう」
「そうですね。とにかく私は、今度は真理ちゃんに会いに、店に通いました。彼女はすくすくと、さらに美しく成長していきました。小学生になると、もうこの世の人じゃなかった。天使そのものでした」
「まあ、今もそうですからね」
「でも、あるときから、真理ちゃんは店に来なくなった。成長して、家でテレビを見たり好きなことをするようになったのかな、と思いました。それ以来、真理ちゃんに私は会えなくなりました。真理ちゃんのお母さんに頼んでも、彼女は私を真理ちゃんに会わせてくれませんでした。『忘れろ』。彼女は、それしか言いませんでした」
「そういうところが、真理ちゃんのお母さんらしい。普通じゃない」
「そうなんですよ。彼女は、とてもドライな考え方をする。『人はみんな孤独だ』。これが、彼女の生活信条なんです」
「その意見には、賛同しかねます。だから私と真理ちゃんのお母さんは、いつもケンカになる」
「はっはっは」と、田所さんは大きな声で笑った。「柿沢さんと、真理ちゃんのお母さんのバトルは見物ですね。お互いに、確固としたポリシーの持ち主だ。ものすごい衝突になりそうです」
「そうなんです。いつも戦ってますよ」
「ハハハ」田所さんは、しばらく笑っていた。私は、気が済むまで笑えばいいと思った。笑うことは、とても重要だ。とくに、田所さんのような人にとっては。
「その頃、『認知』を考え出したんです」と、彼は言った。「会社の顧問弁護士に、プライベートな相談をしたんです。彼は無償で相談に乗ってくれました。そして、真理ちゃんを『認知』することにしたんです。私の本籍は実家のままでしたから、その役所に認知の手続きをしました。そしてすぐに、本籍地を今の浦安の家に移しました。こうすることで、私の実家の戸籍謄本を取らない限り真理ちゃんのことはバレない。もちろん、プロが見ればすぐわかります。でも、様々な手続きで必要なのは、現本籍地の謄本です。全部、その弁護士のアドバイス通りです」
「その作戦が、上手くいったわけですね」
「そうなんです。でも私は、これで公的に真理ちゃんを自分の娘と認めることができたんです」
「でも、真理ちゃんの戸籍謄本には、『父 田所』と記載されてるはずですよ」
「はい、そうです。でも、今日の日まで問題にはならなかった。多分真理ちゃんは、自分の謄本をよく見る機会はなかったんだと思います」
田所さんが真理ちゃんを認知したことにより、様々な相続問題を起こすことはすでに指摘した通りだ。だが私はここで、それを蒸し返す気はなかった。
「私はこれで、少し肩の荷が下りた気がした。そしてようやく、飲んだくれ生活から脱出できたんです。
会社というのは不思議なところで、ろくに働いていない私がどんどん昇格していくんです。これも、じいさんの力かと思いました。私は、54のとき取締役になりました」
「そりゃ、すごい」
「いいえ。全部嘘っぱちです。私は銀行の取締役を務められる能力はない。そもそも私は、その年になっても銀行の仕事が好きになれなかった。偽りの人生が、さらに悪化した気持ちでした」
確かに田所さんは、ちょっと接しただけでリーダーになれないタイプだとわかる。いつもそばで、誰かが助けてあげないといけない人だ。参謀が必要なのだ。一番身近な適任は、直子ちゃんだろう。
「そこへ、癌が見つかったんです」と、田所さんははっきりと言った。「肝臓癌でした。入院して治療を受けましたが、やがて肺やリンパ節に転移が見つかりました」
「そんなに、早く?」
「ええ。肝臓は血管が多いので転移しやすいんだそうです。柿沢さん、私が癌の宣告を受けて何を考えたか分かります?」と、彼は珍しくいたずらっぽい調子で私にたずねた。
「検討もつかないです」
「私は、最初に医者から癌だと言われたとき、『ああ、これは彼女がしたことだ』と思ったんです。もちろん、結婚前に別れた彼女のことです」
なるほど、と私は思った。ようやく謎が解けた思いだった。何事につけ頼りない田所さんが、死を目前にして堂々としているのかを。彼は自分が癌になったことを、死んだ彼女に対する贖罪と捉えているのだ。
「私は、気が楽になりました。おかしな話ですが。がん保険にはしっかり入っていたので、金に困ることもない。取締役になる時点で退職金はもらっていたし、癌のせいで退任するときも、結構な金をもらうことができました。沙織の教育費や、直子も含めて結婚費用も大丈夫だ。女房の老後も目処が立った気分でした。私は死の病になって、むしろ肩の荷が下りたんです。
もちろん、この間柿沢さんに怒られたとおり、自分の死後の具体的な計画は全然立ててなかった。今は例の『認知』を勧めてくれた弁護士と、遺言の詰めをしてます。安心してください」と、彼は言った。とても爽やかな言いぶりだった。
私は非常階段の踊り場に立ち、目を閉じて考えた。この男は、自分で答えを出している。だがやはり、この男は思慮が浅い。舞ちゃんと比べたら、年齢が逆かと思うくらいだ。私は今の田所さんの心に、届く言葉は何か全速で考えた。
「田所さん」と、私は彼に言った。「まず何よりも、奥さんのことを考えてください。愛情が有る無しはどうでもいい。まもなく彼女は、未亡人になるんだ。あなたがいなくなった後、彼女が豊かな毎日を送れるよう知恵を絞ってください。いいですか。再婚の選択肢もありだ。彼女はとてもしっかりした、魅力的な女性だ。まだ50歳くらいですか?」
「44歳です」と、田所さんは答えた。
「なんだ、私より年下じゃないですか。田所さんは、その亡くなった彼女のことを考えてらっしゃる。それはそれで大事なことです。でも、あなたの奥さんの人生はまだこれからです。あと、三、四十年あるんだ。あなたから、再婚も検討するよう伝えてください。田所さんの口から話すことに、大きな意味がある」
「はっ、はあ〜」と田所さんは唸った。まるで、テレビの水戸黄門のラストシーンみたいだった。
「あらためてわかったな」と、彼は言った。「柿沢さんは、私が思いつきもしないことを考える。わかりました。この電話の後、すぐ女房に再婚の話をします。約束しますよ。その結果を、来週の釣りの時に報告します」
「いいですね」と、私は答えた。「その話ができると想像するだけで、来週が楽しみになりました」
「ハハハ、それも女房に伝えます。柿沢さんが、お前の答えを期待してるぞと。ハハハ」田所さんは、とても愉快そうに笑った。
こうして私と田所さんは、笑いながら電話を切った。私はようやく、オフィスに戻った。ずっと席を開けていたので、私の机の上には、書類が山積みになっていた。全部、どうでもいい書類だ。今すぐ火を点けて燃やしても、誰も困らない。だがそれをやったら、狂人だ。私は黙々と書類を処理し、上司に回した。
そこへ、また電話がかかってきた。おい、いったいなんて日だ。机に置いたiPhoneを拾い上げると、涼ちゃんのお母さんからだった。
「怖いんです」と、 冒頭から彼女は私に訴えた。
「何がですか?」
「日曜日です」と、涼ちゃんのお母さんは言った。「あの家に、戻るのが怖いんです」
彼女の声は震え、そして少しかすれていた。
「お母さん、もしかして、もう飲んでます?」と、私は優しくたずねた。私はまら、非常階段の踊り場に立った。今日は何時間ここにいるんだろう?
「・・・はい・・・」
「今日は、仕事に行ったんですか?」
「・・・いいえ」と、彼女はさらに小さな声で答えた。
やはり、この人は自分の力ではもう立ち直れない。仮に私が全力を注ぎ込んでも、それでも無理だろう。だから、彼女はお父さんとお母さんに会わねばならない。そして二人と協力して、この地獄から、一刻も早く引っ張り出さねばならない。彼女は、医者の治療が必要だ。
「お母さん、今はどんな仕事をされてるんです?」私は話題を変えてみた。
「ヤクルトの、販売員です」と、涼ちゃんのお母さんは答えた。「でも、私見かけが悪いから全然売れないんです」
そう言って、彼女は自虐的に笑った。事情は私もすぐ飲み込めた。今の彼女の苦しみで歪んだ、半ば狂気の混じった表情を見たら、誰もヤクルトを飲む気は起きないよ。
「お母さん」と私は子供に話しかけるように言った。「あなたは、涼ちゃんのお母さんですよ。見かけが悪いわけないでしょ?問題はね、あなたが笑わないからです。ニコニコしてセールスしないと、売れるわけないでしょ?」
「私、笑う気なんて、おきないです・・・」
電話口で、涼ちゃんのお母さんの喉がゴクッと鳴る音が小さく聞こえた。ウイスキーを一気に飲んだようだ。
「だ、か、ら。私と一緒に、お父さんとお母さんに会いに行きましょ?」
「つらいんです」と、彼女は言った。私の話なんかちっとも聞いてなかった。
「生きてるのが、嫌なんです。もう、耐えられない・・・」そう言って、とうとう涼ちゃんのお母さんはしくしく泣き出した。これは長期戦だぞ、と私は覚悟した。
「死んだほうがいいんです。私は、何もかも台無しにするんです。あ、悪魔が、頭に住んでるんです・・・」
彼女はこの間の話を、蒸し返し始めた。仕方ないだろう。子供のころからずっと、彼女は悪魔の囁きを聞き続けたのだから。彼女は自分の醜いエゴに囚われ、その結果引き起こしたすべてを悔いている。わかっているさ、そんなことは。
「ああ、あのお母さんの中の悪魔の件ね」と、私は注文を確認する食堂の店員みたいに答えた。「あなたの悪魔。鬼でも、サタンでも、ゴジラでもなんでもいいんだけど、私がぶっ殺します」
「はあ?」
「私はウルトラマンだと言ったでしょ?番組は30分だ。25分あたりで殺します。後はめでたし、めでたし。あなたの問題は解決だ」
我ながらバカなこと言ってるな、と思った。でも相手は強敵だ。正攻法じゃ歯が立たない。
「お母さん。あなたは、美しいお兄さんに恋をした。そして、美しい子供が生まれた。18歳になった涼ちゃんは、まさに天使です。なんの問題があるの?何をあなたはそんなに苦しむの?」
「・・・」
倫理的に、いろいろ問題のある発言だとは分かっている。でも私が今すべきことは、涼ちゃんのお母さんを救うことだ。そのためなら、嘘八百並べたって構わない。
彼女は黙ってしまった。ううっと、唸る声がたまに聞こえた。でも、返答はなかった。私はしゃべり続けた。
「お母さん。まず、綺麗になりなさい。髪を染めなさい。髪を整えなさい。それから、若者の服を買いなさい。ミニスカートでいい。リボンがついてたっていい。高いものじゃなくていいから、かわいい服を買って日曜日に着てください。
それから、日曜の朝にちゃんとお化粧をすること。涼ちゃんが、がっかりしますよ。安くていいから、口紅を塗ってください。ねえ、思い出してよ。あなたは綺麗なんだ。人が羨むほどだ。涼ちゃんと並んで、引けを取らないくらい綺麗になること。いいですね!」
涼ちゃんのお母さんは、何も言わなかった。沈黙が、ずっと続いた。いいですよ。付き合いますよ。
「わかりました・・・」小さな声で、涼ちゃんのお母さんはだいぶ経ってから答えた。
「OK!。日曜に、涼ちゃんと目黒駅で待ってますからね。遅刻しちゃダメですよ。時間に遅れたら、涼ちゃんが怒りますよ!」
「・・・はい・・・」
かすかな返事だったが、彼女の興奮が収まったのが感じ取れた。もう、悪魔だ鬼だという雰囲気ではなくなった。よし。別れの挨拶を交わして、私たちは電話を切った。
いやあ、散々な一日だった。ようやく席に戻ると、もう就業時間を過ぎていた。残業して帰りが遅くなると、涼ちゃんと真理ちゃんにメチャクチャ怒られる。私は未読メールを、全て無視することにした。こんなもの、明日で構わない。誰も死なない。
振り返れば、今日の話は全て「生き続ける苦しみ」を巡っていた。エリちゃんも、田所さんも、涼ちゃんのお母さんも生きる苦痛にもがいていた。死ぬのは恐ろしい。だが、生き続けるのもつらいのだ。それは程度の差こそあれ、誰でも同じだろう。だが、ある種の人は、死の恐怖を生きる苦しみが上回る。そんな人が身近にいたら、私たちはウルトラマンにでも神にでもなってその人を止めればならない。なぜなら、止められなかったら自分も、一生傷を負って生きることになるからだ。その人を、救えなかった。見殺しにしたと。
さらに考えれば、日菜子ちゃんも、涼ちゃんも、真理ちゃんもそうだ。彼女たちも、ずっと苦しんできた。生き続ける苦しみだ。さあ、私に何ができる?どうすれば、みんなの痛みを少しでも和らげることができる?
さあ拓郎、考えろ。穴が開くまで。地の底に届くまで。
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