第41話 試験結果
さて。
私は、現実を見つめねばならなかった。涼ちゃんは、実の兄と妹の間に生まれた子供だ。幸い今のところ、涼ちゃんに目立った異常はない。だが身体のどこかに、先天的な欠陥を抱えている可能性はある。まだ、顕在化していないだけかもしれない。
父が育った小さな村では、神に取り憑かれた人がいたそうだ。それは現代の視点では、脳の障害による精神的異常を抱えた人々だ。典型的な、近親婚の弊害である。だが村人たちは、その人の異常な言動を「神の代弁者だからだ」と解釈した。彼(彼女)を、「聖なる世界」に住む者として受容したわけだ。小さな共同体の秩序を守る、防衛本能の現れである。
私は悲しむことをやめた。事実を、あるがままに受け止めることにした。私は涼ちゃんのお母さんに、「全て仕方なかった。あなたのせいじゃない。そして、これまではこれで良かった。問題は、これから何をするかだ」と言った。私は、彼女が犯した大罪を赦した。自分の言ったことに、ひとかけらの嘘も悔いもない。
私の頭の中で、様々な人々の思念が渦巻いていた。私はそれら一つ一つに、じっくり向き合うことにした。さて、次に取るべきアクションは?。それを考えながら、毎日を過ごした。
家に帰ると、まずポストの郵便物を取るのが日課だ。私は問題をいろいろ抱えながら、一方で毎日の郵便物にも注意を払っていた。毎日毎日、くだらないダイレクト・メールが届いた。近隣の店のチラシもたくさん入っていた。取り出して、すぐゴミ箱行きの代物だ。だがその夜は、分厚い封筒が二つ届いていた。茗荷谷の女子大からだ。
ダイレクト・メールたちと一緒に、私は大仰な郵便物をぎゅっとつかんだ。私は、自分の部屋へと走った。焦りのあまり、鍵穴に鍵が入らなかった。私がようやく玄関を開けると、涼ちゃんと真理ちゃん、そして日菜子ちゃんが玄関前に立っていた。
「来た来た来た来た来た」と、私は興奮状態でそう言った。
私たちは、みんなでダイニング・ルームに走った。テーブルについて、私は少し震えながら、分厚い封筒を涼ちゃんと真理ちゃんに手渡した。日菜子ちゃんも息を呑んでいた。ところが、涼ちゃんと真理ちゃんは意外に冷静だった。
涼ちゃんは、封筒をバラバラに引き裂いた。一方真理ちゃんは、はさみを使って丁寧に切った。二人とも、中から「合格通知」と書いた書類を引っ張り出した。それを、私が読める方向にしてテーブルの上に置いた。
「やった・・・」
私は絶句して、天井を見上げた。信じられなかった。全身から力が抜けて、床に倒れそうだった。落ち着け、落ち着け。私は自分を説得しようとした。けれど、あま効果はなかった。私は何度も、テーブルに乗っている文書の「合格」という文字を読み直した。
「自信あったから。当然だよ」と、涼しい顔で真理ちゃんが言った。
「テストの出来はイマイチだったけど、頑張ったからね。やっぱり、当然かな」と涼ちゃんが言った。日菜子ちゃんが、一番びっくりしていた。
ようやく落ち着いてきた。私は、数十ページもある入学手続き書類をざっと読んだ。何より重要なのは、入学金と初年度の授業料である。これを期日までに支払わなければ、全てがパーだ。私は費用が記載された項をチェックした。安い。さすが国立だ。
「来月の受験は、もう受けなくていいよね?」と、涼ちゃんが聞いた。
「そりゃそうだよ。第一志望に受かったんだ。もう受けなくていいよ」
「受験料、無駄になっちゃった・・・」と、真理ちゃんがバツ悪そうに言った。
「当然当然。大学はいくつ受けても、結局一校しか行けないんだから。小さなこと気にしなくていいよ」
各種手続きが書かれた分厚い書類を読みながら、私は二人にそう言った。彼女たちの表情は見なかったが、安堵した雰囲気が伝わってきた。一通り読むと、部屋からノートPCを持ってきた。テーブルに置き、電源を入れた。PCが起動すると、私が利用している銀行のサイトにアクセスした。IDとパスワードを入力してログインすると、すぐ振込手続きのボタンをクリックした。
入学手続きの案内に従いながら、私は二人分の入学金と初年度授業料を振り込んだ。まず、これで一安心だ。既成事実を作っておくことが重要だ。金を払っとけば、あとは淡々と、入学書類を書き上げ、役所で証明書を用意すればいい。
「入学金と、一年生の授業料は明日付でもう振り込んだから。安心してね」と私は言った。涼ちゃんと真理ちゃんは、わかっているという顔で大きくうなずいた。二人とも、にっこりと笑っていた。
それから私は、急いで六畳間に戻りスーツから部屋着に着替えた。そしてキッチンに走り、夕食の準備に取り掛かった。今夜は、卵六個を使った巨大オムレツである。人参と玉ねぎを細かく刻み、フライパンにひき肉を少々入れ炒める。火が通ったら、人参と玉ねぎを入れ調味料で軽く味を整える。
その間、日菜子ちゃんに卵を全部割ってボウルに入れ、といておいてもらう。別のフライパンに卵を流し込んで軽く炒める。固まってきたら、さっきの材料をを卵の上に乗せ、二つ折りにして包む。これで完成。大きな皿に乗せて包丁で切り分け、軽くケッチャプをかける。
サラダは日菜子ちゃんに任せ、私は朝作っておいた、コンソメスープを温め直した。それを四つのカップに注ぎ、テーブルに運んだ。食べたい人のために、バターロールも用意した。トースターで軽く焼き、テーブルの端においた。中央は、もちろん巨大オムレツである。
これで、みんなの夕食準備は完了。私は六畳間に戻って、コートを着直した。
「ちょっと、出かけてくるから。先に食べててね」
そう言って私は、玄関を出た。仕事がたくさんあるのだ。私はマンションの玄関を出て、目の前の国道沿いに立った。そしてまず、涼ちゃんのおじいさんに電話をかけた。彼はまた、私の電話にすぐに出た。
「合格しました」と、私は短く言った。
「聞いたよ。涼からLINEが、たった今届いたところだ」と、涼ちゃんのおじいさんは興奮気味に言った。
「ちょっと、信じられない気分です」
「俺だって、そうだ。なあ、涼は夏に学校を退学したんだぞ。それが、大学に合格するなんて・・・。こんなおかしな話はちょっとないぞ」おじいさんの声は、少し上ずっていた。
「涼ちゃんが頑張ったんです。彼女は合格通知を受け取っても、びっくりするほど落ち着いてました。受かったのは、『当然だ』って言うんです。これには私も驚きました」
「君が鍛え上げたからだろう。なあ、俺には君みたいなことはできないよ。一応、会社の社長は務めてるが。君みたいなどんでん返しはできない。今度ゆっくり、君のやり方を教えてくれよ。俺も、君の授業に参加したいよ」
「そうですね。大学は受かったけれど、授業は別の角度からやろうと思ってます。今までは面接や論文対策に特化してたので、英語とか歴史とか入学前に押さえておくべきことをやろうと思ってます」
「そうか。すまないな。君には世話になりっ放しだ」
「いいえ、事情は違うんですよ」と私は言った。「涼ちゃん、そして真理ちゃんが私にエネルギーをくれたんです。『お前頑張れ』と、私を奮い立たせてくれたんです。全部、彼女たちのおかげです」
「そうかあ、そうなのかな?うん、そうかもしれないな」
涼ちゃんのおじいさんが、電話の向こうで幸せそうに笑っているのが想像できた。しかし私は、こいつを思い切り叱らねばならない。だが今夜は、喜びに浸らせてあげよう。明日電話して、涼ちゃんのお母さんと会ったこと話せばいい。事実を全て知ったと、伝えればいい。
「今週の土日の、ご予定はいかがですか?」と、私は聞いた。
「ちょ、ちょっと、待ってくれ。確認する」と、涼ちゃんのおじいさんは言った。ゴソゴソと動く気配が伝わってきた。きっとパソコンで、予定を見ているのだろう。
「土曜日はダメだ。臨時取締役会がある。日曜日の午後は、夕方から経団連の会合だ。だから、日曜の15時までは家にいれると思う」
「わかりました。日曜の午前10時に、合格の報告にうかがいます」
「嬉しいよ。楽しみでしょうがない。わかった。日曜の午前だね」
「はい」
私はそう答えて、少し彼と彼の奥さんが可哀想になった。なぜなら、私は二人をボコボコに怒るつもりなのだから。でも、それは伏せておこう。今夜だけは。私は電話を切った。
私は次に、涼ちゃんのお母さんに電話をかけた。
「もしもし、こんばんは。柿沢です」
「ああ、あらあ、こんばんは・・・」涼ちゃんのお母さんは、私からの電話に少し動揺した様子だった。
「お母さん、今はお酒飲んでますか?」と、私は聞いた。
「はい・・・、飲んでます・・・」と、彼女は素直に白状した。
「飲みたいなら、飲んでいい。でも、一緒に水も飲んでください。いいですね?」
「はい」と、涼ちゃんのお母さんは小さく答えた。少し恥ずかしそうだった。
「ところで、今夜大学から涼ちゃんの合格通知が届きました。涼ちゃんは四月から、国立の大学生です」
「・・・」涼ちゃんのお母さんは、しばらく何も言わなかった。
「毎年、十人ちょっとしか受からない難関を突破したんです。褒めてあげてください」
「褒めるというか・・・」と、彼女は言いよどんだ。「私には、そんな資格があるのか・・・」
「あのね、お母さんになるのに国家資格でも取る必要があるの?ないでしょ。あなたは、涼ちゃんのママなんだ。彼女の頑張りを、何も考えないで褒めてあげてください」
「はい・・・。わかりました・・・」涼ちゃんのお母さんは、まだ自信なさげだった。だが私は容赦しない。次の手を打った。
「たった今、あなたのお父さんと日曜の10時に目黒の家で会う約束をしました。あなたもそこに来てください」
「ぐううっ」と、彼女はまた変な声を出した。
「今週の日曜、予定はある?」と、私は少しぶっきらぼうにたずねた。これは演技である。
「ないです」
「なら、いいでしょう。10時10分前、JR目黒駅の改札で待ち合わせ。いいですね!」
「わ、わかりました・・・」
「涼ちゃんが待ってます。必ず来るんですよ!」
「はい・・・。わかりました・・・」
よし、終わり。私はおやすみの挨拶を交わして、彼女の電話を切った。
さて次だ。忙しいぜ。私は、真理ちゃんのお母さんに電話をかけた。そして、真理ちゃんの大学合格を伝えた。
「金はないって話は、言わなくていいです。私が真理ちゃんに貸しますから。真理ちゃんは、働いて返してくれると言ってます。だから、何の問題もありません」と私は強引に断った。
「ふん。真理が好きなようにすればいいさ。私はもう、何も言わないよ」と、真理ちゃんのお母さんは答えた。
「でも、嬉しくないですか?」
「私は大学なんか行ってないからね。よく分からないよ」
この人を、彼女が口にする言葉から判断してはいけない。現に彼女の声は、ちょっと裏返っていた。
「申し訳ありませんが、真理ちゃんは私の家から大学に通うと行ってます。どうか、許可してください」
「まったく真理は。女が好きと言うかと思えば、あんたみたいな中年男に惚れ込む。私にゃ理解不能だね」と、呆れたように彼女が言った。でもその言い振りは、どこか楽しげだった。
「そういやね、田所が家族連れてうちの店に来たよ」と、真理ちゃんのお母さんは淡々と言った。
「ええっ!?本当ですか?」
「ということは、あんたは知らなかったんだね?」
「はい、知りませんでした」
「私はてっきり、あんたが仕組んだんだと思ったよ」
「違います。違います」私は、きっぱり否定した。
「となると」と、真理ちゃんのお母さんは思案げに言った。「田所にそんな勇気はないから、あの二人の娘かな?」
「うん、あり得ますね。田所さんの娘さんは、二人ともエネルギッシュですから」
「とにかく、参ったよ。田所は奥さんまで連れて来たんだから。隠し子作った、不倫相手に家族で会いに来るか?」
「でも、全部あなたのせいですよ。あなたが田所さんの問題に、私を引っ張りこむからこんなことになったんだ」
「ふん」と、真理ちゃんのお母さんは不満そうに鼻を鳴らした。でも、決して怒ってはいなかった。
最後は、田所さんである。真理ちゃんのお母さんとの電話を終えた後、私は腕時計を見た。もう、22時だった。私は迷った。療養の身の彼は、もう床についているだろう。だが、今日伝えなければならない。合格したと、一言だけでも。真理ちゃんは彼の、実の娘なのだから。
田所さんに電話をかけると、彼はすぐに出た。
「こんばんは。夜分遅くにすみません」と、私は最初に非礼を詫びた。
「とんでもない。あなたからの電話なら、いつでも歓迎ですよ」と、田所さんは言ってくれた。
「真理ちゃんが、茗荷谷にある国立女子大に合格しました。今日、合格通知が届いたんです」と私は言った。そして、「涼ちゃんも、同じ学校に受かりました」とも伝えた。
「そりゃ、すごい。おい、沙織、沙織。真理ちゃんと涼ちゃんが、国立女子大に合格したってよ」田所さんは、そばにいるらしい沙織ちゃんに話しかけた。「ギョエーッ」という彼女の叫び声が、遠くで聞こえた。
「もしもし、おじさん?」と、沙織ちゃんが田所さんの電話を奪った。
「そんな難しい学校、よく受かったね」
「今でもまだ、信じられないよ」
「予備校に通わせて、徹底的に受験勉強させたの?」
「いや、予備校には行ってないよ。効率悪いから。その代わりにAO入試に的を絞って、土日に私が授業をしたんだ」
「おじさんが教えたの?」
「うん。面接と論文だけやればいいから。コミュニケーション能力と、論理的思考能力を教えるのに集中した」
「うえ〜、信じらんないー」と、沙織は半ば呆れたように言った。それから話題を変えた。
「ねえ、おじさん。おととい、真理ちゃんのお母さんの店に言ったんだよ。家族全員で」
「うん。それ、さっき真理ちゃんのお母さんから聞いた」
「直子ちゃんが、真理ちゃんのお母さんがどんな人か会ってみようって言い出して」
「すごい発想だよ」
「で、嫌がるパパとママを無理矢理連れてったの。そしたら、びっくり」
「どうして?」
「真理ちゃんのお母さんは、私たちのテーブルに挨拶に来てくれたの。もう、貫禄の凄さに圧倒されたよ。真理ちゃんと大違い」
「うーん、みかけは年令が違うからしょうがない。でも性格は似てるよ。芯が太くて、ふところも深い。それから、勝気なところも似てるな」
「へーえ、真理ちゃんの正体はそうなんだ。おじさんは分かるの?」
「たぶん。真理ちゃんとは、それはたくさん話したから」
「あのね。直子ちゃんが立ち上がって、真理ちゃんのお母さんのそばまで行ったの。そして、『パパのどこが良かったんですか?』って聞いたの。ママの前で」
おいおい、ホントかよ。直子ちゃんは、ものすごい度胸の持ち主だ。結婚したら、その旦那さんは一生彼女に頭が上がらないだろうな。
「そしたらね、真理ちゃんのお母さんはしばらく考えて、『頼りないところかな?』って言ったの。直子ちゃんが、『おっしゃる通り!』って答えて、もう私と直子ちゃんは爆笑。ママも笑ってた。真理ちゃんのお母さんも笑って、笑ってないのはパパだけ」
結局田所さんの弱点は、みんな分かっているのだ。しょうがないな、と思って我慢してきたのだ。だが恋愛においては、田所さんの弱さが魅力に変わることがある。真理ちゃんのお母さんは、彼の頼りなさを愛したのだろう。他人がどうこういう問題ではない。そして、直子ちゃんも沙織ちゃんも、そんな頼りないパパを愛したのだ。
「こんばんは。柿沢さん」
電話は今度は、田所さんの奥さんに変わった。彼女はいつもの、落ち着いた重々しい雰囲気で私に話しかけた。
「こんばんは。夜分遅くにすみません」
「いえいえ、娘の無駄話に付き合わせてしまって誠に申し訳ございません。真理ちゃんが、大学に合格されたそうですね。心から、お祝いを申し上げます」と彼女は言った。
「ええ、何とかここまで来ることができました。本音を言えば、なかなか大変でした。でも、終わり良ければ全て良しです。今夜は、純粋に合格の喜びを噛み締めてます」
「前から不思議でした。柿沢さんは血の繋がっていない他人に、なぜそこまで強い思いを抱くのですか?」
「その答えは簡単ですよ」と私は言った。「私と真理ちゃんは、親友なんです。30歳も離れてますけどね。私たちは対等なんです。親友のためなら、私は何でもします。それは、当然でしょう?」
「30歳も離れた少女を、親友と呼ぶ男はあなたぐらいでしょうね」と、彼女は笑った。その様子に、私は彼女がいろんなことから吹っ切れているのを感じた。田所さんの裏切り、真理ちゃんの存在、そしてそのお母さんの存在。今の彼女は、それらを笑い飛ばす強さを備えていた。
「でも本当なんですよ。真理ちゃんは私を叱るし、脅したりもします。私は彼女に敵わないんです」
「ははは。それはわかります。宅も、直子には誰も敵いませんから」
「直子さんは、魅力的な人だ。人の上に立つ器です」と私は言った。それから、「でも、沙織さんも素敵ですよ」と付け加えた。
「ありがとうございます。そう言っていただいて、二人とも喜びます」奥さんは、とても機嫌良さそうに答えた。
ちょっとママ代わってよ、と電話口で沙織ちゃんが言うのが聞こえた。
「ねえ、おじさん。また、釣りに行こうよ。パパは直子ちゃんに負けたのが悔しくて、毎日釣りの仕掛けを準備して作戦を練ってるの。直子ちゃんより大物を釣るんだって」
「それは、いいことだ。田所さんほどのベテランなら、狙いを大物に定めればきっと成功するよ。でも生憎、今週末はもう予定があるんだ。来週ならどうかな?」
「了解。来週末でスケジュールを練るね。一番ネックは、直子ちゃんの仕事だから。今から開けるように、説得しとく」
「OK。調整お願いね」
「わかったあ」と、沙織ちゃんは答えた。
こうして田所家との長い電話は終わった。肝心の田所さんとは、最初しか話せなかった。だがまあ、家族がいい方向に回っているのだ。彼とは、また釣りに行く車の中でゆっくり話そう。私は田所さんが、来週末まで体力を維持していることを祈った。
合格報告は、こんなもんでいいだろう。腕時計を見ると、もう22時半を過ぎていた。おまけに身体も冷え切っていた。私は急いで家に帰った。
玄関のドアを開けると、女性陣がまた三人揃って立っていた。忠犬ハチ公みたいである。
「ええとね、涼ちゃんのおじいさん、お母さん。それから、真理ちゃんのお母さんと田所さんに合格の連絡をしといたから。みんな、びっくりしてたよ」
ダイニングルームに戻ると、テレビにはAKBが映っていた。彼女たちの曲は明るくて前向きだから、試験合格の夜には合ってるかもしれない。
「それからね。日曜日の午後、また涼ちゃんのおじいさんとおばあさんの家に行く約束をしたから。涼ちゃんのお母さんも誘ったから」と、私は言った。
たちまち、涼ちゃんの顔が曇った。やはりそうだ。涼ちゃんは、おじいさんとおばあさんがお母さんを嫌っていることを知っているのだ。だから、ダメなんだ。
「涼ちゃん、心配しないで。俺が上手くやるから。まかしといて」
涼ちゃんは苦笑いを浮かべながら、小さくため息をついた。こいつは何を言っても聞かないだろう、という彼女の諦めが伝わってきた。その通り。俺は諦めないんだ。それが、涼ちゃんのためなら、なおさらだ。
私が冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、珍しく真理ちゃんがソファをパンっ、パンっと叩いた。急いでソファに腰掛けると、真理ちゃんは横向きに私の膝に乗った。彼女は両腕を私の首に巻きつけ、自分に強く引きつけた。そして私の右肩に頬をこすりつけた。彼女の長い髪が、私の頬や鼻に触れた。とてもいい匂いがした。
「パパ・・・」
真理ちゃんは私の耳元で、小さくそう言った。私は、彼女の身体に両腕を回した。すると彼女は、さらに身体を私に押しつけた。大きな乳房が、私の胸の下のあたりにぴったり触れた。
真理ちゃんはそれきり、何も言わなかった。大好きなAKBも観ていなかった。その姿勢のまま、じっとしていた。私は右手で彼女の身体を支えながら、左手でビールをちびちび飲んだ。
そんな真理ちゃんと私の様子を、涼ちゃんと日菜子ちゃんはチラチラと見ていた。本当は涼ちゃんも、膝に乗りたかったかもしれない。でも、今夜ばかりは先客がいる。我慢してもらうことにしよう。
30分もすると、真理ちゃんは眠ってしまった。時折小さないびきをかきながら、彼女は深い眠りに落ちた。
「・・・拓ちゃん・・・、・・・拓ちゃん・・・」
夢の中で真理ちゃんは、何度も私の名を呼んだ。はい、私はここにいますよ。私はまた両腕で彼女を強く抱いた。
もう真理ちゃんは、完全に熟睡していた。「寝ちゃったよ」と涼ちゃんに言うと、ベッドに運ぼうということになった。私は真理ちゃんを、お姫様抱っこにして立ち上がった。軽い。こんなに、小さくて軽いんだ。ダイニングルームと部屋のドアを涼ちゃんに開けてもらい、真理ちゃんをベッドまで運んだ。そして彼女を、ベッドの半分より奥にそっと下ろした。できる限り優しく。彼女が目を覚まさないように。
ここで、予想外のことが起こった。寝ぼけた真理ちゃんが、私の首に回した両腕を離してくれないのだ。私は腰を90度に折った姿勢で、悪戦苦闘した。そしてようやく、真理ちゃんの両腕から首を抜いた。
「珍しいね」と私は涼ちゃんに言った。
「拓ちゃんのせいだよ」と、微笑を浮かべた涼ちゃんが答えた。
「なんで?」
「拓ちゃんが優しいから」
そうかな?私は普段と変わりないのだが。
涼ちゃんは、ベッドの半分から手前に横たわり、真理ちゃんを優しく抱き締めた。私は、二人に掛け布団をかけてあげた。こっからは、二人の世界だ。二人とも普段着のままだし、お風呂にも入ってない。真理ちゃんの、傷のテープも貼り替えないといけない。でも、全て涼ちゃんに任せることにしよう。私は灯りをつけたまま、部屋のドアをぴったり閉めた。
私の責任は重大だな。私は、あらためてそう思った。今夜はいい。合格通知が届いたのだから。だがこれから、数限りない困難が二人を待っている。私は涼ちゃんと真理ちゃんと、それらに立ち向かうことだ。そして問題を、片っ端から解決してみせねばならない。
ダイニングルームとリヴィングルームを仕切るドアを、しっかりと閉じた。声が漏れてしまわないように。そんなことを考えていると、目をギラギラさせて私を見つめる日菜子ちゃんに気がついた。やれやれ、今夜はただじゃすまないぞ。まあ、いいか。
時計はまもまく、23時半を指そうとしていた。私は遅い夕食をとることにした。
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