第40話 聖・俗・穢(けが)れ

さてこの辺りで、私が何を基準に話し、行動しているか整理しておきたいと思う。

キーワードは、私が涼ちゃんと真理ちゃんに教えた「聖俗の秩序」である。これは正確に言うと、「聖・俗・穢(けが)れの秩序」である。一般の人は、普段このことをまったく意識しない。だが実は、誰もがこの秩序に基づいて物事を考えている。

世の中には、「人生いかに生きるべきか?」とか、「心の健康法」とか、「リーダーシップとは何か?」とか、「会社経営の10カ条」とか、人々がそれぞれに直面する悩みを解くための本が出版されている。これらの本は、みんな良いことを言ってはいるが、根本的な答えではない。ある特定の状況に対応するのみだし、説得力もあまりない。大半の人は、途中で本を投げ出してしまうだろう。

だが私の考えでは、これらの本はみな聖・俗・穢(けが)れの秩序を土台に読者を説得しようと試みている。しかし、著者自身が考え詰めていないため、極めて中途半端なのが実態だ。

なぜ中途半端かというと、巷に溢れるこれらの本は「聖なる世界」ばかりを問題にするからだ。そして、なぜその世界が人に必要なのかを説明しない。例えば、「二十代にこれだけはやっておけ!」なんて本がある(これは、若い頃私も読んだ)。「論語入門」は、いつの時代でも本屋に並んでいる。「ドラッガーの経営哲学」は、10年くらい前にいろんな人が自分の解釈で本を書いた。

 労働(真面目に働くこと)、勉強は「聖なる世界」に属する。この手の本は、みなその世界を目指せと教える。しかし、なぜ「聖なる世界」が必要なのかと問うた時、「聖・俗・穢(けが)れの秩序」を理解するべきだと私は思う。

「聖なる世界」の解説は、もう簡単でいいだろう。それは倫理的、規範的、模範的な行動、生活態度を求める世界だ。そこで今度は、「俗なる世界」について詳しく説明しよう。「俗なる世界」を知り、そこから「聖なる世界」を見てみよう。

「俗なる世界」とは何か?私たちが、普段暮らしている世界である。私はこれを、「愛されたい、評価されたい、甘やかされたい、楽をしたい、怠けたい」世界と単純に定義したい。こんな簡単な言葉から、「俗なる世界」が見えてくる。

 人は誰でも、特定の誰か(好きな人)だけでなく、自分を囲む全ての人から愛されたいと望む。また自分の資質(能力、容貌)を、周りの人により高く評価して欲しいと望む。このせいで、自分より容姿や才能に優れた人を嫉妬する心も芽生える。また好かれたい、甘やかされたいがために、人に媚びたりお世辞を言ったりする。さらに自分の立場を保持するために、誰かを陥れようと悪口を言いふらしたり、罠を仕掛けたりまでする。

 それから、楽をしたい、怠けたいがために平気で嘘をつく。仮病を使って学校や仕事を休んだり、問題を他人のせいにして責任から逃れようとしたりする。これらは全て、はっきり言って自分のエゴである。

 私はこの「俗なる世界」に、きわめて人間らしさを感じる。自分のエゴに四苦八苦し、とても褒められない言動、行動を取る姿こそ人の自然な姿がある。私はそんな俗なる人々に、「愛らしさ」すら覚える。彼らのエゴに接したとき、私は「君の気持ちはわかるよ」と声をかけることにしている。

しかし、この「俗なる世界」でエゴを押し通そうとすると、必ずトラブルが発生する。なぜなら、自分を取り囲む全ての人も、みな同じように自分のエゴを持っているからだ。エゴとエゴが衝突し、人はお互いに傷つく。家族、学校、職場などの人間関係で、散々苦しむことになる。そんなとき人は、強いストレスを覚える。そこから、早く脱出したいと考える。こんなとき、「聖なる世界」の出番が来る。

「聖なる世界」は言い方を変えると、それは「利他の世界」でもある。仏教は煩悩を捨てろと言うし、キリスト教は隣人愛を説く。儒学は、仁と礼を尊べと言う。要は自分のエゴを一部諦め、相手とWin−Winの関係を作れと言っているのだ。先にあげたいろんな種類の本は、せんじ詰めるとこれしか書いていない。だがこれらの本が、時代を超えて生き残るのは根本的な理由がある。単純な利他の心を超えた、根底的な存在理由がある。それは、不安の除去である。

 不安の除去、とは何か?それはただひとつ、自分のエゴと周囲のエゴを調停して、心の平穏を得ることである。では心の平穏とは、どんな状態だろう?それは自分の生を、幸せなものにすることである。では、根本的な「幸せ」とは何か?

 プラトンの著した「国家」という本に、「ギュゲスの指輪」という話が出てくる。紀元前の昔、ギュゲスという男が自分の身体を自由に消したり現したりできる指輪を手に入れた。彼はそれを使って大妃に近づき、彼女と共謀して王を殺して自分が王位についた。プラトンはこの話から、誰にもバレることなく不正を働いて「幸せ」になれるなら、人は正しいことをする気になるだろうか?「聖なる世界」「利他の世界」を目指す理由を持てるだろうか?と問う。プラトンの「国家」は、こんな問題提起から始まる。

「さすが!」としか言いようがない、優れた問題設定だ。プラトンは、誰でも理解できるけれど、それでいてとんでもなく難しい問題を出してくる。「正しいことをする」とは何か?その正体は何であり、そこから何が得られるのか?これは一見そうは見えないが、不安の除去、心の平穏、そして「幸せ」とは何か?という問題にまっすぐ繋がっている。これを徹底して解明するためには、私たちは自分が赤ん坊だったときまで遡る必要がある。

赤ん坊のころ、私たちは母親との関係だけで生きている。お腹が空いたり喉が渇いたり、母親に抱かれたくなったりすると、私たちは声を枯らして泣いた。しかし自分の望みは、いつも叶うわけではなかった。母親が忙しいとき、彼女は不機嫌になる。賭けてもいいが、赤ん坊はまだ小さい頃から母親の顔色をうかがっている。そして、泣くのを我慢することを学ぶ。泣いて自分の望みがすぐに叶うことを諦め、あとで母親が優しくしてくれることを期待するのだ。ここに、人間関係の原点がある。母親と取引することで、親と子の調和した関係を築こうと図る。そして、一息ついた母親に抱かれて、赤ん坊はいっときの幸せ、心の平穏を手に入れる。

赤ん坊は成長するにつれ、父親、兄弟姉妹、祖父母と人間関係を広げていく。もはや小さな子供となった彼(彼女)は、広がった人間関係においても母親と同様の「調和した円滑な関係」を望む。これが実は、人の「幸せ」の原風景である。たくさんの人に愛され、優しくされ、褒められ、甘やかされ、楽をし、怠ける。彼(彼女)は、いろいろな我慢を積み重ねるのと引き換えに、これらの「快」を手に入れる。たったこれだけのことなのだ。この「快」こそ、私たちが「俗なる世界」(一般社会)で求めるものの最終目標である。

そして子供は、学校、そして社会へと進出して、加速度的に自分の活動範囲を広げていく。さらに小さな大人となり、網の目のように広がった人間関係へと身を投じる。ここで注意すべきは、人がいくつになろうと「調和した円滑な人間関係」を理想とすることだ。それは自分自身では、明確に意識されていない。けれど、誰もが真に求めているのはこれなのだ。

 それから彼(彼女)は、進んで競争社会に身を投じる。彼らは周囲の人よりも、少しだけ秀でることを希望する。容貌が美しいこと。スポーツができること。勉強ができることなど。そのことで、周囲の評価と賞賛を得ること。そして何より、自分が好きな人に褒められ、好かれること。「俗なる世界」の快を、人はさらにたくさん得ようと企む。

しかし、もちろん上手くはいかない。ほぼ全ての人が、ここで人生最初の挫折を味わうはずだ。それはだいたい、小学生の半ばくらいだろう。こんなとき重要なのは、家族、友人たち、そして先生たちと、「調和した円滑な世界」を構築できていることだ。そんな関係が周りにあるとき、子供たちは負ってしまった挫折の傷を最小限にできる。逆に「調和した円滑な世界」を築けていないと、子供たちは挫折から立ち直れない。子供たちは、地獄の苦しみを味わうことになる。

 例えば、涼ちゃんと両親の関係は最悪だった。真理ちゃんも、父親はおらず母親は忙しく、友人たちとも衝突して不登校にまでなった。二人とも幼いころ、私が指摘する「調和した円滑な世界」の構築に失敗したのである。これは、子供には相当つらい状況だろう。

 ここまでの話を整理する。人は誰も「調和した円滑な世界」、「幸せ」を目指している。だが、エゴが成長とともに形成され、人より秀でて愛されたい、評価されたいという欲望が強くなると、周囲との衝突(競争、嫉妬、妬みなど)が避けられない。

仮に自分が努力して、勉強でもスポーツでも優れた結果を残したとしよう。すると今度は、周りの嫉妬ややっかみを受けることになる。片方で成果を出したが、もう片方で状況を悪化させたと言える。私たち凡人は、いろんな分野で若くして成功した人を素直に認めない。ここが悪い、あそこが未熟だなどと、評論家気取りで評価してしまう。彼(彼女)の、想像を絶する努力など一考だにしないで。愚かなことである。

 また、容貌の問題も大きい。私は子供時代、まったく女の子に相手にされなかった。悲しいけれど、でも平和だった。一方、涼ちゃんと真理ちゃんは、誰もが認める美少女である。これがまた、問題の原因となる。

真理ちゃんは美しいがために、クラスメイトの女の子たちと衝突し、ついには顔をカッターで切られた。涼ちゃんは実の父親に犯され、さらに家出のあいだ自分の身体を売って食いつないだ。売れるから、売るのだ。全て、美しいせいである。はっきり言って、美しいとは苦労ばっかりなのだ。

 このように、人は小さなころから「俗なる世界」の欲望のために様々な壁にぶち当たる。この謎を、普通の人はまず解けない。独力では、ほぼ不可能と言ってよい。そして行き詰まった人が、先にあげた「聖なる世界」に手を出す。藁をもつかむ思いで。

「聖なる世界」を語る本は、利他の世界を描くと先に書いた。それはつまり、「調和した円滑な人間関係」という小さな子供時代の世界の繰り返しである。成長してもう一度、その世界を手に入れられれば・・・。人は不安を除去し、心の平穏を得ることができる。

 私は涼ちゃんと真理ちゃんを、徹底的に甘やかす。衣食住を十分に与え、こんこんと語り合って彼女たちの様々な不安を拭い取る。と同時に、「ダメなものはダメだ」ときっぱり言って締め付ける。見知らぬ男に、身体を売るなど論外だ。

 それから学校に復帰させ、勉強も教える。自分を落ちこぼれだと思っている二人に、人より秀でる可能性を与える。それから、壊れてしまった家族関係の修復を図る。これらは全て、誰もが描く「幸せ」を彼女たちに与えるためである。不安を除去し、心の平穏を与えるためだ。こうして涼ちゃんと真理ちゃんは、「調和した円滑な人間関係」を取り戻すきっかけをつかむ。

 愛され、評価され、甘やかされ、でも厳しくしつけられ、我慢するところは我慢する。二人は怠けて楽をすることを諦め、その代わりに努力して私の承認を得ようとする。承認が得られれば、また愛され、評価され、甘やかされることができるからだ。これは、正の連鎖と言える。

「この世で、一番重要なのは金だ」と、信じている人は多いだろう。だがこれは、典型的な間違いだ。重要なのは、一度きりの人生で「幸せ」になることだ。金はその一手段に過ぎない。まずまずの衣食住を維持するために、金は必要だ。金がないと、周囲の人より自分は下だという劣等感に襲われる。これはこれでつらい。貧困のつらさは、空腹よりも「普通の人より劣っている。幸せになれない」という不遇感にある。

真理ちゃんの、「新しい革靴が、欲しかった」という話がいい例だ。人は貧乏に苦しみ、最悪の場合犯罪を犯すこともある。だがそれは、派生的な問題だ。まず自分の「幸せ」を求める欲望があり、だが「金がない」と考えるのである。

さて何らかの手段で、十分な金を得たとしよう。金持ちは人より秀でた気分を味わうが、一方でずっと嫉妬され陰口を叩かれて生きることになる。また金があっても、心の平穏を得る保証はない。家族に、周囲の人に愛されるかは、金があるかないかと別問題だ。

 悲劇的な事例として、涼ちゃんのおじいさんとおばあさんをあげよう。世界的な自動車メーカーの社長である涼ちゃんのおじいさんは、周囲というより世界中の尊敬を集めているだろう。金はうなるほどあり、贅沢の限りを尽くせる。だが家族関係で、「調和した円滑な関係」を築けなかった。それでは、何にもならないのだ。涼ちゃんのおじいさんとおばあさんは、今でも精神的に苦しい日々を送っているはずだ。

 つまり二人は、涼ちゃん、涼ちゃんのお母さん、そしてお父さんまで含めて愛されなかったら、本当の「幸せ」にはなれない。心の平穏は訪れない。現に涼ちゃんは、子供の頃から世話になったおじいさんとおばあさんに愛情を見せない。彼らの愛情に、欠陥があるからだ。私はこれから、この問題も解決しようと考えている。

 さて「聖なる世界」に納得できて、心が軽くなる人もいるだろう。一方で、全く納得できない人もいるだろう。まず納得できた人について。この手の人は、今回救われたのはいいがまだ弱い。現在は良くても、また似た穴にハマる可能性がある。要するに、根本的な解決になってはいない。

 次に納得できなかった人について。彼(彼女)は悩みから脱出できず、さらに状態が悪化して、心の病になる可能性がある。さらに最悪なのは、似非新興宗教に入信することだってある(オウム真理教など)。新興宗教とは、見栄えは良くても所詮は教祖のエゴと金銭欲を満たすものである。この手の教祖連中は、私がずっとお話ししてきた聖・俗・穢れの秩序をしっかりマスターしている。その上で、結論を変質させて「俺(教団)に金をよこせ」と言う。押さえるべきところを、しっかり押さえているだけにたちが悪い。いろんな宗教のいいところを継ぎ接ぎして理論を作り、自分の都合の良いように話を変える。これは昔も今も、世界中に存在する。

 さらに、「聖なる世界」に説得されなかった人のうち、「ギュゲスの指輪」のように平気で不正を働く人も出てくる。要は、バレなきゃいいわけだ。彼(彼女)は、巧妙な手口で不正を働く。もちろん捕まる奴もいるが、「バカだから捕まるのさ」と彼(彼女)は言うだろう。彼らはひたすら自分のエゴを満たそうとし、不正をやめないだろう。あれは麻薬と一緒で、一度始めたらやめられない性質がある。だが私に言わせると、彼らは一度きりの人生を無駄遣いしている。とても愚かだ。

 その理由はやはり、「調和した円滑な人間関係」にある。不正を犯す者たちは、家族にも、恋人にも、親友にもそれを隠すだろう。不正を犯して生きることは、自ら望んで両肩に重いバーベルを乗せるような行為だ。彼らはそれを、一生背負っていくことになる。そんなもの、降ろしてしまったほうが楽なのに。


話していいよ

あなたの秘密を明かしていいよ


 これは、Chas Sandford という作曲家が、Stevie Nicks という女性歌手のために書いた曲のサビだ。この曲は、Stevie Nicks の長いキャリアでも代表曲のひとつとなっている。

 Chas Sandford という人は、私と全く同じことを考えている。彼は、秘密(secrets )が人をどれだけ苦しませるか、その人の人生を貧しいものにするか知っている。だから、secrets を明かしていいよと何度も繰り返しているのだ。彼には、「ギュゲスの指輪」を使って不正を働くという選択肢はない。なぜなら、それは secrets を増やし、苦しみを増やすだけだからだ。


「調和した円滑な関係」。「secretsを持たないこと」。これは「聖なる世界」の、重要なキーワードだ。そしてたった一度の人生で、幸せになること。では、材料が大分そろってきたところで、再度「聖なる世界」の正体について話そう。

「聖なる世界」とは、根底的に言えば「真善美の世界」である。この言葉に、倫理も、隣人愛も、煩悩も、愛も、憧憬も、名誉も、利他も自己犠牲も、なんでもかんでも入ってしまう。人は悩む。悩んで知りたいことは何か?それは最終的には、「真(本当のこと)がわかり、善(正しいこと)がわかり、美(何が美しいか)がわかること」である。普段の人々は、この正体をおぼろげに理解している。「真善美の世界」について、おおよそのあてがついている。

なぜなら、真(本当のこと)、善(正しいこと)、美(何が美しいか)がわからなければ、私たちは怒ることもできないからだ。上司が、先輩が、同僚が間違っている。恋人が、家族が、友人が、隣近所が間違っている。政治家が、官僚が、外国人が、他の国が間違っている。私たちは、そこら中に対して怒る。これが出来るのは、まずまずの幸福(安定)が得られ、精神的にも落ち着いているからだ。真善美の軸が、安定しているからだ。それから決して、深刻な怒りには発展しない。過度な言動は、正しくないともわかっているからだ。

だが人間関係がこじれて「調和した円滑な関係」が失われたり、社会生活(働く場、学校、近所付き合いなど)から転げ落ちたり、不正・犯罪等を犯して「secrets」の重みに耐えられなくなったりすると、人は深刻な危機に陥る。こんなとき人は、真善美がわからなくなる。これまで自明だったはずなのに、途端に暗闇に包まれるのだ。片思いに悩む人も、これと同じ状態に陥る。誰かを本気で好きになったがために、霧が立ち込めた謎の世界を彷徨うことになる。

これは、自分の世界が上手く回らなくなったせいで、今まで当然と思っていたことが全て疑わしくなる現象である。これはとても一般的だが、激しい苦しみを伴う。この穴に堕ちた人は、必死で本物の「真善美の世界」を求める。これまでの自分の理解はチャラにして、本物を探す。「本物」を切実に求めながら、同時に苦悩でのたうち回る。耐え切れない場合、自ら命を絶つ。それほどの地獄だ。

十代の頃の涼ちゃんのお父さんとお母さんも、自分たちを救ってくれるものを求めたろう。エリちゃんも、日菜子ちゃんがいなくとも平気でいられる世界を求めたろう。田所さんだって、おじいさんの決めた人生と折り合いをつける真実を求めたろう。だがとても悲しいことに、彼らは何も見つけられなかった。

では、こう問うてみよう。ある種の危機に陥ったとき、なぜ人は今までの「真善美の世界」を捨てるのだろう?そして、本物のそれを求めるのだろう?本物の「聖なる世界」=本物の「真善美の世界」とは、いったいなんだろう?ここからは、かなり話が込み入ってくる。

まず危機的状況の人が、「真善美の世界」を求める理由について。これまでの「真善美の世界」が疑わしくなった人は、今までを乗り越えるリニューアルした「真善美の世界」を探し回る。それは、これまで以上でなければならない。今抱えた謎が、解けなくてはならないからだ。それが得られれば、「心の平穏」も得られると人は思う。では、新しい「真善美の世界」は見つかるのか?

この問いかけの答えは、「見つからない」が正解だ。本当につまらなくて申し訳ない。なぜかと言うと、「真善美の世界」も「聖なる世界」も現実には存在しないからだ。より正確に言うと、箱はあるが「中身は空」だ。まったく話に、ついてこれない人もいると思う。だから、もっと噛み砕いて話そう。

私はお正月の夜に、「概念を、実体化してはいけない」と話した。その例として、有限と無限を使った。「真善美」も、実は同じである。これが「真善美」という実体は、どこにもない。「いや、そんなはずはない」と、私に訴える人は多いだろう。「私は、いや私の尊敬する人は、聖なる世界=真善美の世界を知っている。それに従って、まっすぐに真正直に生きている」と。それは結構なことである。だが具体的な考え方について細かく確認していくと、あなたと私はいろいろ意見が違うだろう。正しいと思うことが、あなたと私は違うだろう。これは異なる宗教が折り合えないのと一緒で、普遍的な食い違いなのである。

言いかえると、「真善美」という概念(=箱、骨組み)は存在する。それが、「聖なる世界」、「調和した円滑な関係」を成立させる土台となっている。およそ人類が今レベルの理性を手に入れた時、「真善美」は生まれた。「聖・俗・穢れの秩序」も生まれた。生きる上で、どうしても必要だったからだ。これらを血の通った身近なものにするため、「神」が発明された。「神話」も書かれた。私はそう考えている。だからどんな民族、国家も、「真善美」、「聖・俗・穢れの秩序」、「神」を持つ。だけれど「これが完全だ」という、「真善美」、「聖・俗・穢れの秩序」、「神」はどこにもない。

私は先に、ハイデガーは自分の哲学で「人類が唯一の神に帰依すること」を目指したと書いた。その理由は、完全な神が存在しないからだ。彼も、「神」の不在に気づいていた。ドストエフスキーの大作「カラマーゾフの兄弟」の中に、「大審問官」という小説内小説が出てくる。この作品において、スペイン宗教裁判所の大審問官がイエス・キリストその人を詰問する。「唯一の神が存在しないから、人類の争いは絶えないのだ」と。

頭が、さらにこんがらがった人も多いと思う。話を最初に戻すと、労働も勉強も愛も「聖なる世界」に属する。これに異論はないだろう。労働、額に汗して働くこと。これは真善美に基づく。だが具体的な内実を持つと、話はやっかいになる。子供たちは、成長過程で自分なりのロマンを形作る。真善美という空箱に、自分なりのロマンを入れて育てていく。

 ある人は、「国家や国連で官僚になって、全ての人の役に立ちたい」と言うかもしれない。別の人は、「世界を一変するくらい、便利なシステムを開発して世の中を完全な世界にしたい」と言うかもしれない。さらに別の人は、「自衛隊員となって、皇国日本を守ることこそ素晴らしい」と言うかもしれない。労働という言葉は同じだが、中身はバラバラだ。

勉強という言葉も、実は中身が空である。私は涼ちゃんと真理ちゃんに、受験勉強ばかり教えたが本意ではない。勉強なんか教えないで、ピアノを教えてもいいと思う。二人が、ピアノを好きになったならばの話だが。強制はしない前提だ。

 なぜピアノが、受験勉強よりいいのか?。ピアノを弾きながら、一音一音の意味を調べてみよう。するとピアノの曲は、緻密に組み合わされた超高層ビルのような仕組みだと気づくだろう。もちろん、ピアノを弾けるけれど音(旋律)の意味を知らない人は多い。彼らはピアノを練習したが、ピアノの勉強はしなかったのだろう。

「聖なる世界=真善美」は、なんでも入る箱である。なんでも入るけれど、人に心の平穏を与えてくれる。まずは、自分にだけ。何をロマンの対象に選んでも構わない。だが、ここから先がさらに重要だが、「調和した円滑な関係」の方は簡単に手に入らない。それは、相手(好きな人、家族、周囲の人、国民、他の国家など)次第だからだ。一人で部屋に閉じこもる人は多い。他人との接触を避ける。こういう人は、「調和した円滑な関係」を得ることを諦めている。

さっきの例を使えば、本人が軍隊に入りたいと言っても、家族や恋人が反対したら諦めざるを得ないだろう。本人が絶対に正しいと思っても、他人の承認がなければ夢は実現できないのである。自分と周囲の大事な人と、真善美が違うのだ。

こんなところに、人が生きていく上での大きな困難がある。例えば太平洋戦争前の日本は、自ら望んで天皇絶対主義の軍事国家になった。その原因は、いろいろ語ることができるのでここでは触れない。だが間違いないのは、日本国民がいろんな問題の解決策として天皇絶対主義を選んだことだ。それが正しいと、たくさんの人が信じた。天皇の存在は、まさに「聖なる世界」に直結した。そのために、政治家へのテロがはびこっても、言論の自由が否定されても構わないとされた。これは決して、一部の軍部のせいではない。国民の多数が、自らの意思で狂ったのである。

「自分は正しい」→「自分と意見の異なる人は、何をしても(殺しても)構わない」。人は簡単に、こういう発想をする。人の歴史で、いつでも存在する。独裁国家が典型例だ。スターリンの粛正、毛沢東の文化大革命、カンボジアのポルポトなど。彼らは、自分の信念と保身のために自国民を何百万人も殺した。

フランス革命の失敗を見た、19世紀のドイツ人ヘーゲルは悩んだ末にこう考えた。「自分は正しい」と考えること自体が、間違っていると。こんな考え方をする人は、滅多にいないだろう。だが彼の考え方は、人類史上いまだ最先端と言える。

人はみんな、「聖なる世界(真善美の世界)」を土台にして物を考え生きていく。だが他人の「聖なる世界(真善美の世界)」は、自分と全然違う。あまりの違いに、人はしょっちゅう驚くだろう。しかし、それが当たり前なのだ。さきのヘーゲルは、「独力で正しいことはわからない」と言っている。

 ヘーゲルの主著「精神現象学」では、自分の正しさの限界に気づいた人が、「行動する良心」となって他人と関わっていく姿が描かれる。そこへ「批判する良心」が現れ、様々な問題点を突いてくる。それはせんじ詰めれば、個性の差でしかない。ヘーゲルはエゴは捨て、他人と正しさを調停し続けろと言っている。それを「絶対知」とか「絶対本質実在」とか言う言葉で語るため、彼の真意は誤解されがちだ。彼もまた、「真善美の箱は空だ」とはっきり自覚している。

真善美の空箱に、子供のときに何を入れるかは人それぞれだ。そして、実は自分でも選べないのだ。自分の中にある何かが、目の前に広がる世界からある物を選び取る。涼ちゃんのお母さんは、実のお兄さんに本気で恋をした。やがて二人は愛し合った。彼らのしたことに、共感できる人は少ないだろう。けれど、まだ小学生だった涼ちゃんのお母さんは、美しいお兄さんを王子様に選んた。他の選択肢は、なかったのだろう。私はそう思う。

私は涼ちゃんのお母さんに、「お兄さんもあなたも、美しかった。だから二人が愛し合ったのは当然だ。あなたたちのせいじゃない」と言った。「これまでのことは、これで良かった」とも言った。近親相姦で子供を作った人に、こんなことを言う人はいないだろう。だが私は、確信犯である。

繰り返すが、「聖なる世界(真善美の世界)」とは空箱だ。ならば、何を入れても構わない。それで「調和した円滑な関係」を築き直し、「心の平穏」が取り戻せるならば。私はみなさんを、「聖なる世界(真善美の世界)」へ連れて行く。あらゆることを調停するつもりだ。人はどうやっても、「聖なる世界(真善美の世界)」を目指さずにはいられない。真面目に働き、努力して勉強し、愛し愛される世界だ。そこを目指すことで、心やすらかになれるのだ。空箱でいい。箱があればいい。


最後に、「穢(けが)れの世界」について詳しく話そう。普通の人は「穢(けが)れの世界」が何なのか、ピンと来ないだろう。だがこれは、実に身近なものである。もっとも身近なのは、自分の体内だ。私たちは、汗や唾、鼻水、耳垢、ふけ、嘔吐物、排泄物など、自分の体内にあった時は気にもしなかったものを、外の世界に出た途端に汚物として扱う。これはちょっと考えてみると、とても不思議なことだ。

 それはなぜかというと、自分の体内が穢れた世界だからだ。例えば転んで、ひどい怪我を負ってしまったとしよう。半ズボンを履いて砂利道で転んだので、石の角で足を深く切ってしまったとしよう。私たちの大半は、ぱっくりと割れた傷口から見える自分の肉や溢れ出る血に目を背けるだろう。怪我を負った人は、急いで傷口を手持ちのハンカチやタオルで塞ぐだろう。止血の意味もあるが、まずその傷口を見ていたくないと思うだろう。人は自然に、身体の内部(穢れた世界)が「俗なる世界」(普通の世界)に露出することを嫌う。

 次に、禁忌(タブー)がある。タブーを破ることは、「穢(けが)れの世界」に堕ちることを意味する。近親相姦や死者の葬いなど、ほぼあらゆる文化に共通するタブーがある。また同様に、性行為はほぼ全ての文化で秘匿される。人前で裸になることも忌避される。だが土台となる宗教(三代宗教、その他様々な小規模宗教、各地の土着信仰を含む)によって、タブーの細かな内実はとても多様である。食文化、服装、男女の生活様式、お祭り、信仰の仕方、マナー(美意識)、性行為の範囲、そもそも裸の定義など、世界中のタブーを比較するとその激しい違いに驚くことになる。

たとえば、パプア・ニューギニアの2,000mを超える山岳地帯に住む民族がいる。彼らは近親者が亡くなると、葬儀のあとに遺体を親族で分け合って食べるのが習わしだった。人肉食という恐るべき行為だが、彼らにしてみればそれは死者を悼む神聖な行為だった。私たちが、どうこう言う問題ではない(人肉食は、白人の植民地にされたあとで禁止になった)。

私たちがすべきことは、これらの相違から一歩身を引くことだ。何らかのタブー(穢れ)が、どの社会にも共通して存在すること。これに目を向けるべきだ。ある社会に属している人が、豚とかタコを食べるのは穢れたことになる。別の社会に属する人にとって、公共の場で女性が髪や顔を見せるのは穢れたことになる。私たち日本人にとってなんでもないことが、別の社会の人々にとっては犯してはならないタブーなのだ。そのタブーを破ると、人は自分が穢れたと感じる。そして人によっては、死にたいほどの自己嫌悪を覚える。

これは、小さな子供が家族の中で成長し、少しずつ言葉を覚える過程で教え込まれる。なぜなら母親が語る言葉に、その文化のタブーが必ず含まれているからだ。さらに言うと、子供が言葉を使って思考能力を身につけることは、最初から母国語が持つ文化の網の目に絡め取られている。つまり、日本人は日本語風に考え、アメリカ人は英語風に考える。それは、言葉(母国語)のせいである。

私は田所家の人々に、「子供は、生まれる家を選べない」と説明した。それは言語にも当てはまる。子供は、使用する言語(生まれる国)を選べない。これは小さくない差異を生む。タブーだけでなく、経済的条件においても。だが私は言語により、論理的思考に差が生じるとは考えない。なぜなら、世界中どの文化圏においても、論理(ロジック)はほぼ変わらないからだ。一元論、二元論。独我論、相対論、懐疑論。欧米人は、世界の他地区に住む人を、全ての面で自分より劣っていると考えがちだ。愚かな白人たちである。記録によればどの地域で文化圏が生じても、まもなく論理的思考が似通ったバリエーションで発生する。そして、尽きることのない論争が起こる。ただそれだけの話で、議論は古代メキシコでも、ケニアでも、マダガスカルでも、カンボジアでも、ハワイでも同じだ。

さて、禁忌(タブー) には同性愛も含まれる。あらゆる宗教が、 公式には同性愛を認めない。しかしこれは、少し事情がある。まず性行為(性的なもの)が社会では公にならないが、まず誰もが日常でそれに触れまいと努める。下手にしゃべると、品位を欠くこと(セクハラ)になる。昔にセクハラという言葉はなかったが、性欲を表に出すことは避けられたはずだ。その一方で、出産は世間で公然と認められている。よく考えると、これも変な話である。実はここに、社会が同性愛を認めたがらない素朴な理由がある。要するに、同性愛では子供ができないからだ。たったこれだけの理由だ。

タブーが存在する理由は、遠い昔の共同体(狩猟採集社会、農耕定住社会、王による神権政治社会を全て含む)の秩序を維持するためだった。それは実は、政治的な理由なのだ。リーダー、支配者が共同体の構成員を統率するために、タブーが宗教と結びつけられて誕生した。つまりタブーとは、支配者たちのでっち上げである。目的が共同体社会の安定なので、その内実はなんでもいい。なんかタブーがあり、破るとバチがあたるか地獄に堕ちるとしてしまう。まだ一部の支配者層が文字を独占していると、文盲である民衆はそれに抵抗する論理的思考力を持てない。間違っていると、反抗できない。

さて同性愛に戻ると、これが実は昔から存在した。古代ギリシアでは男性同性愛は当たり前で、プラトンの「饗宴」も男性同士の愛を讃える本である(古代ギリシアでは、富裕層は結婚して子供を設ける一方、男性の愛人を持った。女性より男性への愛が高尚だとされた)。また旧約聖書では、ソドムとゴモラの街が神の怒りによって破壊されたが、その理由は同性愛がはびこったためである。しかしそれは、ユダヤ教の観点から見た話でとても迷惑なことだ。そして裏を返せば、それだけ昔から同性愛は普通にあったのだ。

ヨーロッパの絵画や、 日本の浮世絵などにも男性同性愛を描いたものが存在する。日本に限れば、それは平安時代の貴族の中で存在したことがわかっている。鎌倉時代に入り、武士が政治の実権を握ると、武家社会にも同性愛は広がった。江戸時代になるとそれは「衆道」と呼ばれ、主従関係の美徳と結びついて「武士道」という新たなベールを被った。江戸中期に山本 常朝が著した「葉隠」という本は、武士道の本であり衆道の本である。また、江戸のような大都市では、遊郭がある一方で男娼館も存在した。

貴族や武士の話だけしているが、それは単に記録があるからだ。町人の社会でも、農村でも事情は同じだっただろう。文字に残っていないだけだ。また女性同性愛の記録が少ないのも、社会的地位を反映して記録されなかったからだろう。江戸時代後期の浮世絵で、喜多川歌麿などが女性同士の性愛を描いている。しかし、男性画家によるもので、興味本位の域を出ない。同じく江戸時代の大奥でも、女性同性愛があったらしい。川柳にも、女性同士の愛を歌ったとみられるものはある。だが、みな推測にとどまる。それは存在したはずだが、文字や絵画や彫刻などではっきり遺されることはなかった。

まとめると、同性愛は人間の歴史と同じくらい古くから存在したのである。だが、表舞台に立つことはなかった。それは子孫繁栄に寄与しないものとして、ずっとタブー化されたのである。過去において、自分の子供は金と直結した。まず、労働力としてである。10歳を越えれば、一次産業の手伝いができる。赤ん坊、つまり自分の弟妹の子守もできる。いざとなれば、誰かに売り飛ばすこともできる。現代よりはるかに死亡率の高い時代では、子供はどんどん生産する必要があった。大人に成長する確率が低かったからだ。これが一般常識の社会において、同性愛が認められる余地はほぼなかったろう。

私は同性愛を、賛美も擁護もするつもりはない。誰が誰を好きになろうと、私は関知しない。それは個人が一度きりの人生で、「幸せ」をつかもうとしているだけだ。ただ相手が、同性というだけの話だ。私が「同性愛を普通」と言うのは、それが個人の自由と平等に関わっているからである。

自由と平等は、フランス革命が打ち立てた不朽の原理である。他人の自由と平等を侵害しない限り、それは絶対に守られねばならない。それは、自分の権利を守るためでもある。他人の権利を承認することで、自分の権利も守っているのだ。

とは言っても、私のような意見は少数派だろう。では、同性愛というタブーに触れた者はどうなるか?その彼(彼女)は、「俗なる世界」から、「穢れた世界」に堕ちることになる。「自分は人とは違う、穢れた世界にいるのだ」と、彼(彼女)は考える。そこは想像を絶する地獄だ。まだ小さい頃の真理ちゃんも、この地獄にハマった。彼女は子供の頃から、死を考えるほど苦しんだ。

それから涼ちゃんのお父さんとお母さんは、「近親相姦」の地獄に堕ちた。涼ちゃんのお母さんは、「自分の中に悪魔が住んでいる」と言った。そんなことはない、ただ、近親相姦というタブーを破っただけだ。だが子供だった二人は、良心の呵責に苛まれた。そして二人は、自らの意思で「俗なる世界」からこぼれ落ちた。自分たちの人生を、自分たちの手でメチャメチャにした。

それから、涼ちゃん。彼女もお父さんに犯されたがために、地獄に堕ちた。彼女が幸いだったのは、真理ちゃんがいたことだろう。それからちょっと恐縮だが、私に出会ったことだろう。彼女は私を使って、子供のころ得られなかった家族の「調和した円滑な関係」を取り戻そうとしている。それに対して真理ちゃんは、涼ちゃんほど私に甘えない。それはきっと、生まれたときからお父さんがいないせいだろう。

同性愛や近親相姦というタブーだけでなく、さらに一般化を推し進めよう。学校や会社に行かなくなる、つまり登校拒否や出社拒否も、「穢れた世界」に堕ちることを意味する。涼ちゃんと真理ちゃんのような家出や、巷でよく聞くひきこもり、さらには学校中退や会社を退職することも、「俗なる世界」からのドロップアウトを意味する。さらには、働く気持ちがあるのに職がみつからないとか、自由な生き方を目指して世間から飛び出すことも、「穢れた世界」への脱落と感じることがある。ただ普通の人と同じ生き方ができないだけで、人は「穢れた世界」の浅瀬に迷い込む。

この「穢れた世界」に住む苦しみは、経験しないとわからない。なぜ「穢れた世界」がつらいかと言うと、「調和した円滑な関係」が得られないということに尽きる。ひきこもりの人は、家族団欒の雰囲気に包まれることはない。仕事が見つからない人も同じだ。家族や親戚、友人たちとの関係は、時間を積み重ねるにつれ険悪になり、深刻な亀裂になっていく。恋人は、まず間違いなく去っていく。この状況は、想像以上に危険なことだ。試しに、過去十年に起こった猟奇的な殺人事件を、詳しく調べてみるといい。犯人たちがことごとく、「穢れた世界」に堕ちていたことに気づくはずだ。

長々と説明したが、私は上記の原理に基づいて考え、結論を下し、行動している。例えば、涼ちゃんと真理ちゃんと暮らし始めて、私はまず涼ちゃんが売春していることに気づいた。私はすぐ二人に、何よりも「調和した円滑な関係」を与えなければと考えた。それを毎日、提供し続けなくてはと思った。

次に私は、涼ちゃんと真理ちゃんを学校に戻した。強引な手を使ったが、二人を「俗なる世界」に戻したかった。競争社会で、貧富の差が強固に存在し、見栄や嫉妬や嘘やインチキや暴力がまかり通るエゴだらけの世界だが、「穢れた世界」にいるよりはずっとマシだ。二人は学校に復帰して、ホッと一息つけたと思う。ささやかな、心の平穏が訪れたと思う。

そして、「聖なる世界」である。涼ちゃんと真理ちゃんは、学校復帰前のわずかな期間だったが、アルバイトをすることができた。ありふれた労働の世界を垣間見、その対価を得、仕事仲間と新たな人間関係を築いた。そこから得るものは大きい。

さらに勉強である。単なる受験対策ではなく、私は二人に「知る喜び」を味わってほしかった。「知る→わかる」ということは、自分自身を土台から救うパワーになる。勉強はとても大事なのだ。自分のために。

さて、私がここまで展開してきた聖・俗・穢れの秩序は、私のオリジナルではない。たくさんの本を読めば、たくさんの人が書いていることである。私の独創は、ひとかけらもない。お勧めは、まず文化人類学や民俗学、心理学、精神分析の本である。彼らが調査した膨大な記録は、私たちにたくさんのことを教えてくれる。

だがここで、注意しておきたいことがある。上記にあげた学問の研究者は、観察者であって思想家ではない。彼らが自分の調査結果から導く仮説は、たいてい底が浅い。とても陳腐で、人の心の機微に疎いのだ。だから私たちはその欠陥を、プラトン、ヘーゲル、ハイデガーなどの哲学を通して埋める必要がある。

 さらに重要なのが、ドストエフスキー、夏目漱石などの超一流の小説家の作品である。彼らは小説という作り話を使い、透徹した視線で人というものの本性を描く。もしかすると、過去から現在までの全ての哲学者も、彼らの作品には敵わないかもしれない。

 夏目漱石の「こころ」に登場する「先生」という人物は、親友を欺いて彼が恋した女性を妻にし、その親友を自殺に追いやってしまった。「先生」は、自分のエゴのせいで親友が死を選んだと苦しみ抜いた。「穢れた世界」に堕ちてしまったのである。そして最終的に、「先生」も自殺を選ぶ。ただ彼は、主人公の大学生にだけ自分が死を選ぶ理由を手紙に書いた。その手紙を読んでやっと、「先生」の孤独な苦しみがわかるというストーリーになっている。

「先生」がすべきだったのは、自分の秘密を一人で抱え込まずに、周囲の人に明かすことだった。彼は主人公への遺書のような手紙でそれを明かしたが、あまりにも遅すぎた。


You can set your secrets free, baby(あなたの秘密を明かしていいよ)


「先生」は自分の妻とそのお母さんに、自分のエゴから犯した罪を明かすべきだったと思う。なるべく早く。そうすることで、彼は救われたはずなのだ。私はそう思う。だから私は、真理ちゃんのお父さん、涼ちゃんのお母さんに自分の秘密を明かせと説得した。その理由は彼らが、「穢れた世界」から浮き上がる手がかりをつかむためだ。

それから日菜子ちゃんにも、私はエリちゃんと会って話せと言った。これも同じ理由である。二人の穢れた思い出を、自然で美しい親友関係へと昇華させたかった。それはつまり、あの夜を封印するのではなく了解することである。

さて次に勧めたいのは、優れた映画や歌(ポップス)である。これらの優れた作品も、私たちに聖・俗・穢れの秩序を教えてくれる。数ある名作の中で、私はここで John Lennon の「Mother」を紹介したい。


Mama don't go(ママ、行かないで)

Daddy come home(パパ、帰って来て)


 この曲の最後で、John Lennon はこの一節をくどいほど連呼する。歌い続けるにつれ感情は昂り、最後は絶叫になって曲は終わる。人を惹きつける強烈な魅力を持った名曲だ。

 John Lennon は、実の両親が生活能力を持たなかったがために、お母さんの姉の家で育てられた。この事実が彼に与えた心の傷は、とても大きかった。子供時代の彼は、情緒不安定で非行少年だったようだ。彼の心の支えは、ハーモニカ、ギター、そして黒人たちのロックンロールだった。

 二十世紀のポピュラー音楽界において、もっとも成功したのは The Beatles であることに反論する人はいないだろう。John は、他の誰も到達できないほどの成功を成し遂げた。金だって、使い切れないほど稼いだ。だが事情は、そんなに簡単ではなかった。

「Mother」は、The Beatles を解散して、ソロになった後の作品である。社会で大成功を収め、世界中で評価されたのに彼には解決できない問題が残った。それは私がずっと問題にしている、家族との「調和した円滑な人間関係」だ。これ以上は望めないほどの富と名声を手にし、30歳も過ぎたというのに彼の心の傷は残ったままだった。

 それから彼は、最初の妻であるシンシアとその息子ジュリアンを捨てて、オノ・ヨーコと恋に落ちてしまった。自分が負った傷を、自分の子にも負わせてしまったと言える。オノ・ヨーコを愛してしまったのは、仕方ないことだったのだろう。だが John は、おそらく自らの行為でさらに深い傷を負ったと思う。そして彼は、「Mother」を作った。

 私の仮説だが、彼がこの曲を発表できたのは、オノ・ヨーコの力が大きいと思う。彼女は John に、「あなたは、この曲を歌っていいよ」と言ってくれたのだと思う。


Mama don't go(ママ、行かないで)

Daddy come home(パパ、帰って来て)


「Mother」は簡単な歌詞に、パパとママを切実に求める想いが込められている。両親の愛が得られなかったとき、人はそれを大人になっても解決できないのだ。ポップスは、他の芸術作品と比較して軽んじられる傾向にある。とんでもない。それは大きな間違いだ。人の心をえぐる、素晴らしい作品がこの世に溢れている。

さらに別のジャンルとして、アニメをあげたい。宮崎駿の一連の作品は、人間の心の深層まで届いている。宮崎駿は、私の言葉を使えば「俗なる世界」から「聖なる世界」への道をいつも表現している。彼は「聖なる世界」を示しながら、「俗なる世界」に住む人へのシンパシーを忘れていない。

彼の代表作、「カリオストロの城」が象徴的だ。ラストシーンで、ヒロインのクラリスはルパンに「泥棒を覚えるから、一緒に連れて行ってくれ」と頼む。命懸けで彼女を守ってきたルパンは、一瞬迷いをみせる。しかし彼はすぐ、クラリスに優しく語りかける。やっと表舞台に出られたのだから、ここに残りなさいと。愛犬カールがクラリスにじゃれているタイミングをついて、ルパンは無言で立ち去る。彼は彼女を、泥棒という「俗なる世界」「穢れた世界」に巻き込むべきではないと考えた。カリオストロ公国の皇妃として、「聖なる世界」にとどまるべきだと。このシーンは深読みすると、「カサブランカ」のリックとイルザの会話を連想させる。

ルパンはもちろん、泥棒稼業に戻っていく。宮崎駿は、そんなルパンを清々しく描く。それから彼を追う、銭形ら警官たちも同じ目線で見つめる。まるで全ては、大人のおとぎ話だとでも言うように。


さてさらに、「穢れた世界」の正体について話したい。私はこれまで「穢れた世界」を、そこに属するだけで激しい苦しみと痛みを感ずる場所と説明した。だが人は望んで、この「穢れた世界」へ向かい、棲みつくことがある。

先に触れたとおり、普通の人にとって体内は「穢れた世界」であり、そこから排出されたものはすべて穢れたものである。しかし私は昔、あるエッセイストのこんな文章を読んだことがある。


「彼女の嘔吐物を飲むことは、私にとって至上の幸福だが彼女には屈辱でしかない」


愛情とは、狂気である。この文章を書いた人は、愛情の深さのあまり「聖なる世界」と「穢れた世界」が一緒になったといえる。これは異常ではない。実はとても、ありふれたことである。

「穢れた世界」に関して、よく知られているのはサディズムとマゾヒズムだ。彼らは好んで、身体を叩いたり、鞭で打ったり、傷つけて出血までさせる。また、唾液や鼻水や小便や大便にまで興味を示す。マニアの恋人同士が、そんな行為を平穏に行っているならいい。しかし、それで済まない人もいる。

よく子供のころ、好んで生物を殺す人がいる。最初は、昆虫などの小さな生き物から始まる。彼らは単に命を奪うだけでなく、生物を残虐に切り刻んで血や露出した内臓などを見て楽しむ。このときに彼らは、性欲に似た興奮を感じている。そしてこの行為は、たいていエスカレートする。子供だから知識もなく、自制ができないからだ。やがて彼らは、昆虫では飽き足らずもっと大きなもの、例えば鳥や野良猫などを殺すようになる。

こんな子供たちはまず間違いなく、両親、兄弟姉妹、友人たちとの「調和した円滑な関係」の構築に失敗している。他人(家族)を避けて一人遊びを好み、本やインターネットで残虐な話やグロテスクな画像、映像を見て喜ぶ。

こんなとき人は、この子供を一人にしてはいけない。そして圧倒的な力で抑えつけ、その子を家族や周囲の人と和解させなくてはいけない。表面的なものではだめだ。心をしっかりと、繋がなければならない。そうしないと、とんでもない悲劇が起こる。十代で殺人を犯した人の多くが、猫殺しを行なっている。

こんな子供の暴走を、真っ先に止めるべきは両親だ。だがそれができない人もいる。私はダメな親の典型を、涼ちゃんのおじいさんとおばあさんに感じる。涼ちゃんのお母さんの話に、おじいさんとおばあさんはほとんど出てこなかった。あの兄妹は、子供のころから親と距離ができたのだろう。彼らも、悪いところがあったかもしれない。だがそこは、親がビシッと叱ればいいだけの話だ。親は子供に寄り添い、導かなくてはいけない。

問題の核心は、距離にある。この距離が、子供たちを「調和した円滑な関係」からの脱落へと追い詰める。子供自身は、自分の人生が失敗しようとしていることなど気づかない。そして、堕ちていく。「穢れた世界」へ。

この現象は、いわゆる挫折体験の結果だ。これまで私は、子供時代に親(と周囲の人)から愛情が得られない挫折について書いてきた。子供の挫折体験で、次につらいものは失恋だろう。その次が、先にも触れた「俗なる世界」(学校、社会)からのドロップアウト(失踪、ひきこもりなど)だ。

前に「愛の狂気」のゆえに、聖なる世界と穢れた世界が一緒になる例をご紹介した。あともう一つ、穢れた世界が聖なる世界と重なる場合がある。それが、様々な挫折体験から生じる絶望だ。挫折の傷があまりに深いために、人は当たり前の幸福を求めなくなる。言い変えれば、幸福を諦める。

手痛い挫折をした人の一部は、絶望の深さのあまり屈折する。そして「穢れた世界」こそ、真実があると考えるようになる。彼らは「聖なる世界」に唾を吐きかけ、人と交わらず、顔は強張り、平気で暴力を振るう。努力せず、働きもせず、酒やドラッグに溺れる。ちょっと考えると、こんな人は誰でも身近に心あたりがあると思う。

例えば、軽微な犯罪を繰り返しては刑務所を出たり、入ったりする人がいる。窃盗や強盗をして、何度も懲役刑を受ける。世間はこんな人を、人間性に問題があると言うだろう。出来損ない野郎で、自分とは違う人間だと。だが、私はそう思わない。

こんな人に多いのは、まともに教育を受けていないタイプだ。ひどい場合、小学校教育すら十分に受けていない人もいる。ちょっと信じられないが、本当にいるのだ。家庭の事情や、本人の問題で、学校に行かなかったのだ。教育を受けなければ、仕事にはつけない。こんな人は人生のスタートで挫折し、絶望する。とても自然に、平然と。労働、平穏、幸せをつかむ、という「聖なる世界」をすべて諦める。

そしてある意味仕方なく、罪を犯す。収監され刑期を務めて出所しても、また仕事にはつけない。だからもう一度罪を犯す。この繰り返しである。さらに運悪く、強盗に加えて殺人まで犯すこともある。この手の犯罪者はよく、反省や贖罪の意識がまったく見えない。冷酷な犯罪者だ。だが事情は違う。この犯罪者は、「聖なる世界」はおろか平凡で平穏な「俗なる世界」すら知らないのだ。「穢れた世界」しか知らない。犯罪しか、選択肢がないと考える。だから裁かれても、心が揺れることはない。もうとっくに、絶望しきったからだ。

私は犯罪者を、擁護するわけではない。しかし、犯罪者を理解するためにも、「聖・俗・穢れの秩序。を知る必要があると言いたい。犯罪者にだって、その人固有の生の世界がある。彼の生きる選択肢が、仕方なく普通の人と異なるのだ。


まとめとして、これだけを言っておこう。人と出会ったら、彼(彼女)をまっすぐに見つめることだ。その人の苦悩が、どこにあるのか突き止めることだ。聖・俗・穢れの秩序の中で、その人はどの世界に住んでいるのか?その人を救う道は、数ある選択肢の中で何か?それをつかむことだ。

 





 

 

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