【R15指定】第39話 兄と妹

 釣りに行く前日、私たちは涼ちゃんのお母さんに会いに行った。ずっと前から、実現したかったことだ。私は、涼ちゃんのお母さんに電話をかけた。火曜の、お昼休みだ。

「こんにちは」

「こんにちは」涼ちゃんのお母さんは、弱々しく言った。

「以前に、お電話した柿沢です。今、涼ちゃんを預かっているものです」

「・・・そうでしたね」と彼女は言った。なぜか言葉に、感情が欠けていた。「涼がお世話になって、本当に申し訳ございません」

「実は昨日、涼ちゃんの大学入試が終わったところなんです。ずっと勉強漬けの毎日で、外出もろくにできませんでした。でもやっと、ここで一息つけました」

「涼が大学受験をできるなんて、夢にも思いませんでした。心から感謝申し上げます」

 お母さんは、少し不思議なことを言った。いまどき大学進学は普通だし、そもそも涼ちゃんは名門女子校に通っている。私はお母さんの感慨が、うまく飲み込めなかった。

「そこで、なんですが・・・」でも気を取り直して、話を進めた。

「はい・・・?」

「今週の土日は、お時間はございますか?」

「土日は、何の予定も入っておりませんが・・・」

「それならば、お母さんの家を訪ねてもよろしいですか?」

「そうですね・・・」

 涼ちゃんのお母さんは、少し迷う様子を見せた。涼ちゃんとお母さんは、中一のときから会ってない。彼女の戸惑いは、そのせいだろうか?

「涼に、何と話せばいいのか・・・?。いいえ、私にその資格があるのか・・・?。それすら、よくわかりません」

「資格なんて、ややこしい考えはやめましょう。お母さん。あなたはすぐに、涼ちゃんと会わなくてはいけません。時間は、十分経ちました。もう、大丈夫です」

「・・・わかりました。会います・・・」

 強引な私は、彼女から住所を聞きだした。待ち合わせ場所を決め、土日のどちらに伺うか後で連絡を取ることにした。お母さんは、どちらでもいいと言ってくれた。土日のどちらにするかは、田所さんの都合次第だ。みんなの都合を調整して、土曜日にお母さんの家に行くことになった。

「涼ちゃんの他に、彼女の親友と、涼ちゃんの学校の先生も連れていってもいいですか?」

「私は構いません」と、彼女は小声で言った。最後まで手応えがなく、元気もなかった。母娘の関係も、裂かれてしまうと溝ができるのだろうか?


「涼ちゃん」

 家に帰ると、私はスーツのままダイニングルームに行って彼女に話しかけた。

「土曜日、涼ちゃんのお母さんに会いに行こう」

 涼ちゃんは、目を見開いて私を見た。彼女は、何も言わなかった。それから、とても不安そうな表情になった。彼女にとっても、お母さんとの再会は困難を伴うようだ。

「大丈夫、大丈夫。俺がついてるから」と、私は彼女を励ました。

「ほんとだね?そばにいてね」

「うん」

 すると涼ちゃんは、ソファをパンパンと叩いた。私はスーツのまま、冷蔵庫から缶ビールを出した。それから、ソファに座った。涼ちゃんはすぐ、ドンっと私の膝に乗った。それから、膝に片肘をついて考え込んだ。

「ママに、何を話せばいいんだろ?」

「母と娘が会うんだ。何も悩むことはない。ただ間が、五年くらい空いただけさ」

「まあ、ね」と涼ちゃんは、なかば諦めたような言い方をした。「拓ちゃんの、言う通りにするよ。」

「そうだねー」と、横から真理ちゃんが言った。

「また、パパパと解決してね」と、日菜子ちゃんが言った。彼女はこのところ、平日も家に来るようになっていた。


 涼ちゃんのお母さんは、我孫子の公営住宅に住んでいた。googleのストリートビューで見ると、建物は相当古い。高度成長期に建てたんじゃないだろうか?家賃は安いだろう。でもそれは、彼女が今あまり裕福でないことを示唆していた。

 土曜日、九時三十分出発。我孫子までなら、一時間半で行ける。

「涼ちゃんのママって、いくつだったけ?」と、車内で真理ちゃんが聞いた。

「うーんと。35」と、涼ちゃんは答えた。

「ええっ!?そんな若いの?」私と日菜子ちゃんが、ほぼ同時に聞いた。

「うん。ママは、高校二年生のときに私を産んだの」

「ひええっ」と、日菜子ちゃんが驚きの声を上げた。あまりの若さに、私は嫌な予感がした。

 待ち合わせ場所である、我孫子市公営住宅の入り口に到着した。約束の時間の、20分前だった。するとまだ早いのに、塀の前に一人の女性が立っていた。

「ママ!」涼ちゃんが叫んだ。

 私は、入り口のそばに車を停めた。全員車を降りて、涼ちゃんのお母さんに挨拶に行った。

「おはようございます。今日は、お時間を作ってくださりありがとうございます」

と私は彼女に挨拶した。

「おはよーございまーす」真理ちゃんと日菜子ちゃんが、声を合わせて挨拶した。

「おはようございます」と、涼ちゃんのお母さんはいって深々とお辞儀をしてくれた。私は、「あれっ?」と思った。多分、真理ちゃんも日菜子ちゃんも同じ気持ちだったと思う。

 涼ちゃんのお母さんは、とても35には見えなかった。どう見ても四十過ぎだった。それから彼女は、ぶくぶくと下半身が太っていた。顔は化粧を全くしておらず、肩にかかる髪もボサボサだった。そして髪には、もう白髪が混じっていた。彼女は、全然綺麗ではなかった。涼ちゃんのお母さんとは思えなかった。

 でも、澄んだ大きな瞳、きりりとした目尻、細くくっきりとした眉毛、すらりと伸びた鼻筋、それらの部分は涼ちゃんとそっくりだった。あれ、私は涼ちゃんはお父さん似だと思っていた。実はお母さん似だったのか。私は考えを改めた。

 私は涼ちゃんのお母さんの案内で、公営住宅の来客用駐車場に車を停めた。ここは国道沿いだったので、目の前にファミリー・レストランがいくつも並んでいた。私たちは徒歩で、そのどれかに入ることにした。女性三人の、首脳会談が開かれた。真剣な議論が交わされた結果、COCOSに入ることになった。ステーキが食べたいってことか。

 店に入って、席へ案内された。涼ちゃんのお母さんは、窓際に座ってもらった。その真正面に涼ちゃん。彼女が私の手を握って離さないので、私がその隣。さらに真理ちゃん。日菜子ちゃんは、涼ちゃんのお母さんの隣に座ってもらった。

「涼、大きくなったねえ。そして、綺麗になった」と、涼ちゃんのお母さんは目を細めて言った。「大学の試験を、受けたばかりなんだって?」

「うん。そうなの」と、涼ちゃんは答えた。「でもね、ここまで来るのは大変だった」

「え、どうして?」と、お母さんが聞いた。

「私、去年の夏ずっと家出してたの。社会からドロップアウト寸前だったの。でも拓ちゃんの家に住んで、それから学校に戻って大学受けるまで持ち直したの」

「そうだったの!?」お母さんは、とても驚いていた。それから彼女の目は、なぜか左右に漂った。とても落ち着かない様子になった。なんと言うか、店内のどこかに言葉が隠されていて、それを探そうとしているみたいだった。私たちは、じっとしてお母さんが話すのを待った。

「・・・そこまで、大変だとは・・・想像もしてませんでした」とお母さんはやっと言った。「涼、ごめんね。ママ・・・、何もできなくて」

「ううん」と涼ちゃんは、すぐ首を振った。

「柿沢さん」

「はい」

「そんなに、ご迷惑をかけて・・・。すみません」と、彼女は謝罪した。「そんなにお世話になっているとは・・・。ありがとうございます」とお母さんは、また私に頭を下げた。

「いえいえ、そんな。気になさらずに」と、私はお母さんに言った。

「拓ちゃんは、勉強も教えてくれるんですよ」と、真理ちゃんが説明した。

「柿沢さんは、学校の先生なんですか?」お母さんは、私の目を見つめた。

「いえいえ、普通のサラリーマンですよ」

「仕事をされながら、勉強を教えるなんてご苦労ではないですか?」

「ええ、正直しんどいです」と私は正直に答えて、彼女の笑いかけた。「でも、教えるべきことは一通り教えたので。やり遂げた感はありますよ」

「大学生、ですか・・・。いいですね」と、涼ちゃんのお母さんは遠い目を見せた。17才で涼ちゃんを産んだら、大学なんて行けなかったろう。

「ねえ、ママ。話しておきたいことがあるの」と、涼ちゃんは言った。彼女は、とても真剣な顔をした。「拓ちゃんの隣に座っている、平松真理さん。彼女は、私の恋人なの」

 涼ちゃんのお母さんは、目を剥いた。しばらく、息が止まってしまったみたいだ。

「涼。あなた、女の人が好きなの?」

「いや、女の人が好きってわけじゃない。多分。私は、平松真理さんが好きなの。それから、男は全部嫌い」

「えっ?!」お母さんは、困った顔をした「じゃ、柿沢さんは?」と、彼女は聞いた。

「拓ちゃんは、特別。拓ちゃんは、実質的に私のパパなの」と、涼ちゃんは言った。

 お母さんの顔が、さっと激しく歪んだ。彼女は、しばらく黙った。下を向いて。ちょうど届いたステーキを睨んだ。

「ママ、私あいつが嫌い。大っ嫌い。だから、あいつの話はしないでね」涼ちゃんは、少し興奮して言った。涼ちゃんは、私の手をさらに強く握った。私も、握り返した。

「涼、わかったよ」長い沈黙のあと、お母さんは言った。

 それから涼ちゃんは、お母さんに学校のことや大学受験のことを話した。真理ちゃんも、会話にたびたび参加した。概して、和やかな雰囲気だった。母と子の、久々の再会は成功したようだ。しかしお母さんは、自分の近況のことは、ほぼ何も話さなかった。仕事は何か?再婚しているのか、いないのか?子供はいるのか?一切話そうとしなかった。

 まあいい。今日は最初の一歩だ。これから、距離を詰めていけばいい。次の機会に、またその次の機会に、細かいことを話せばいい。私はそう考えた。

 食事会が終わり、私はいつものように名刺を出した。

「お母さん。困ったことがあったら、いつでも私に連絡を下さい。携帯でも、会社に電話をくれてもいいです。悩みを、自分だけで抱えないで下さい。お母さんのためなら、私はなんでもします。約束します」

 涼ちゃんのお母さんは、少し呆れた顔をして私を見た。確かに初対面で、こんな申し出をする奴はいない。私が変わっているのだ。

 食事を終えて、私たちはお母さんの公営住宅に戻った。明らかにお母さんは、家に帰りたそうだった。何か言いづらい、都合でもあるのか?私も無理に、長居をするつもりはなかった。彼女が今にも別れる素振りを見せたので、私たちは大人しく帰ることにした。涼ちゃんも、何も言わなかった。

「それでは、また来ます」

 そう言って私たちは、涼ちゃんのお母さんと別れた。そして四人で、来客用の駐車場へと向かった。

「あー、すごい緊張した」と、涼ちゃんは言った。そして、「ママに、謝れなかった。失敗した」と、悲しそうな顔をした。

「一度に、いっぱいすることはないよ。今日は、ママに真理ちゃんを紹介したんだ。大成功だよ。次の機会は、すぐに来る。そのときに、今日話せなかったことを言えばいい」と、私は言った。

「そだね」涼ちゃんは、少し気が、楽になったようだった。

 全員で車に乗り込んだとき、私の携帯が鳴った。涼ちゃんのお母さんからだった。私は途端に、とてもイヤな予感がした。私は車を降り、ドアを閉めた。車から離れ、電話に出た。

「もしもし」

「すいません。早速お電話してしまって・・・」と、冒頭から涼ちゃんのお母さんは謝った。

「構いませんよ。いつでも、ご連絡ください。どうかされましたか?」

「いや・・・、あの・・・」

「はい?」

「あの・・・。どうしても・・・」

「はい」

「聞いて、ほしいんです・・・。すいません・・・」

 お母さんの声は、どんどん小さくなった。でも、彼女が強く訴えているのを感じた。話したいのだ、きっと。吐き出してしまいたいんだ。

「ええ、わかりした。大丈夫ですよ」私は努めて、明るく振る舞おうとした。

「その・・・、涼の、ことなので・・・」

「はい」

 焦ったい、会話だった。でも、なんとかして彼女から引き出そう。涼ちゃんのこと、なのだから。

「言います」お母さんが、息を吸い込む気配がした。

「はい、どんなことでしょう?」

「実は・・・。涼の父親は、私の兄なんです」


なんだって!?


私は携帯を耳にあてたまま、その場に立ち尽くした。頭が、真っ白になった。身体が硬直して、しばらく動けなかった。お母さんも、長い間黙っていた。私は、時間の感覚が麻痺してきた。私とお母さんは、どれくらい沈黙していたのだろう?

「涼は、私が17のときに、私と兄の間にできた子なんです」お母さんは、そう言い直した。なぜか今度は、彼女は淀みなく話した。

「そんな・・・」

二人の間で、さらに沈黙が続いた。だいぶ経ってから、私はようやくそれだけ言った。

「すみません」と、涼ちゃんのお母さんは言った。「こんなバカなこと、初対面でお話ししてすみません。でも、涼は柿沢さんを慕っているようなので・・・」

「・・・」

私の頭は、悲しさと虚しさと怒りでグチャグチャになった。混乱して、言葉が何も浮かばなかった。

 私とお母さんは、また黙り込んだ。私たちは、沈黙を気にしなかった。お互いに、好きなだけ黙っていた。おそらくお母さんは、自分の殻に入っていた。私は私で、車からどんどん遠くへ歩いていった。そうすることで、私は現実から逃げたかもしれない。いや、涼ちゃんから逃げた。彼女から離れ、どこかに身を隠したかったかもしれない。


「すいません、すいません、すいません、・・・」

 お母さんは、突然取り乱し始めた。激しい調子で、早口で私に謝った。でも彼女はきっと、謝りたかったんじゃない。単に叫びたかったんだと思う。

「全部私が悪いんです。私は、狂ってるんです。祟(たた)られてるんです。呪われてるんです・・・。私は、汚れてるんです。化物なんです。鬼畜なんです・・・。な、治らないんです・・・」

お母さんは、大声で騒ぎ続けた。とても、興奮していた。途中から、口が上手く回らなくなった。さらに彼女は、今度は聞き取れないくらい小声になった。ブツブツ、ブツブツと何かの呪文を唱えるように、微かにしゃべり続けた。

 お母さんは急に、一方的に電話を切った。私は、ツーッ、ツーッという音に耳を澄ませた。その音に、彼女からのメッセージを探した。私はとても、狼狽していた。

どうする?どうする?どうする?

携帯を耳にあてたまま、私は考えた。実は、途方にくれていたというのが本音だ。知ってしまった事実の重みと恐ろしさに、私は怯えて足がすくんでいた。私は震えていた。私は、怖くて怖くてたまらなかった。

 それから三分くらい経って、私はようやく電話を切った。電話を切ることを、思い出した。そして考えた。私に何ができる?何ができる?

答えは、すぐに出た。私は結局、ひとつのことしかできない。私が車に戻ると、三人ともすっかり動揺していた。私の顔を見て、みんなはさらに不安な表情になった。私も、ひどい顔をしているらしい。三人の女性に、私は無理に笑って言った。

「悪いけど、もう一度同じ店でジュースを飲んで待っててくれる?」

「なんで?どうして?」と、涼ちゃんが聞いた。

「涼ちゃんのお母さんと、二人で話してくる。そうしなければならない。俺はそう思う」

「私は、一緒に行っちゃダメ?」と、涼ちゃんが悲しそうに聞いた。

「来たい気持ちもわかるけど、ここは俺に任せて。俺は昔から、一対一が得意なんだ」

私は車をスタートさせ、さっきまでいたファミリー・レストランに戻った。ウェイトレスが変な目で、私たちを見た。

「じゃあ、行ってくるね」と、私はみんなに言った。

「気をつけてね」と、日菜子ちゃんが言った。別に、夜道を歩くわけじゃないのに。でも彼女は、真剣そのものだった。

「わかった。気をつけるよ」私はそう答えて、店を出た。

店を出るとすぐに、涼ちゃんのお母さんに電話をかけた。しかし彼女は、電話に出なかった。呼び出し音は、やがて留守番電話に代わった。くじけず私は、一分後に電話した。また繋がらない。くそう。また一分待って、電話をかけた。ようやくお母さんは、電話に出てくれた。

「柿沢さん?」彼女は不思議そうに、私の名を呼んだ。まるでもう、用事は全て済んでいるとでも言いたげに。

「お母さん、今からあなたと二人で話がしたいです。正確なご住所を、教えてくれませんか?」

「はあ?・・・」

 お母さんがさっき見せた、あの感情の昂りは跡形もなく消え去っていた。拍子抜けするほど、彼女は手応えがなかった。それから、とても面倒そうだった。渋々という調子で、彼女は正確な棟と部屋番号を教えてくれた。

「すぐ、まいります」

 そう言って、私はそっと電話を切った。そして、ファミリー・レストランの駐車場を出た。国道を渡り、古めかしい集合団地へと戻った。その建物は、さっきよりずっと陰鬱に見えた。いやいや、そうじゃない。涼ちゃんのお母さんが、そう見せているだけさ。別に、大した話じゃない。別に・・・。


 近親相姦は、大昔に人間が狩猟採集生活を行なっていた頃から、タブーとされていたことがわかっている。その理由は何より、子供が先天的な異常を持って生まれるからだ。奇形、脳や身体の障害、内臓の疾患など。原始生活を送っていた人類は、近親相姦のデメリットを知った。実際的な理由で、それをタブーとしたのだ。

 旧石器時代の人類は、せいぜい四、五家族が集まって小さな村を作って生活していた。当然結婚を繰り返すうちに、村の構成員全員の血が濃くなってしまう。そこで当時の人々は、若者の交換を始めた。男も女も、適齢期になると生まれた村を捨ててよその村に移る。違う血を受け入れることにより、近親婚の弊害をなくすことができる。

 二十世紀の文化人類学者、レヴィ・ストロースはこれを「女性の交換」と定義し数式を使って表した。その結果、多くのフェミニストからバッシングを受けることになったのだが、彼は間違っていない。昔は男も女も、交換された。そうする理由があったのだ。

 また近親婚は、古代エジプトなどでは逆に奨励された。高貴な血の、純潔性を守るためだったろう。兄妹、姉弟同士、親と子まで結婚したと記録に残っている。もちろん彼らは、そのマイナスも十分に味わっただろうが。探せば過去には、イラン、中国、朝鮮などでも王族で近親婚があったことがわかっている。

 涼ちゃんのお母さんの家は、私が車を停めた目の前の棟の、405号室だった。私は階段を駆け足で登り、405号室の前に立った。扉は鉄製で、最近オレンジ色に塗り替えたらしかった。朽ち始めた扉に、そんな色を塗ってごまかしても無駄に思えた。私はインターホンを押した。

 涼ちゃんのお母さんは、「はい、お待ちください・・・」とインターホンの向こうで答えた。しばらく間があり、彼女がゆっくりとドアを開けてくれた。でも彼女は、私と目を合わそうとしなかった。

「こんな汚いところで・・・、本当に申し訳ありません」と、彼女は謝った。「散らかってますが、どうぞ中へ入ってください。本当に汚くて、すみません・・・」

 玄関に入ると、すぐに腐臭が鼻をついた。玄関にも、その奥の廊下にも、スーパーのレジ袋が散乱していた。靴を脱いで中へ進むと、それらのゴミが家中にあるとわかった。お母さんの家は、いわゆるゴミ屋敷だった。

 ダイニング・ルームに入ると、腐臭はさらにひどくなった。その匂いの最大の出所は、キッチンだった。シンクから溢れるように、洗っていない皿が積み上がっていた。私はもう、我慢ならなかった。

「掃除しますね」と私は言った。

「えっ!?」

 私はまず、皿を洗剤で洗った。スポンジは、何年前のものかと思うほどボロボロだった。だが、仕方ない。我慢しよう。私は10分くらいかけて、皿を洗い、シンクも洗った。台所に放置されていた生ゴミを拾い集め、手近にあったビニール袋に入れた。そして匂いが漏れないよう、口をきつく縛った。それからその袋を、さらに別の袋に入れて二重にした。

「すいません、すいません、・・・」

 お母さんは私に謝ったが、立ち上がろうとはしなかった。キッチンの前に、小さなテーブルと椅子があった。彼女はそこに座っていた。テーブルの上には、ウイスキーのボトルとグラスがあった。グラスにはすでにウイスキーが注がれていた。彼女は私たちと別れて、すぐ飲み出したのだろう。

 キッチンを綺麗にしても、腐臭はおさまらなかった。部屋のどこかで、いや家のどこかで食べ物が腐っているのだ。しかし、テーブルの四方に膨大なレジ袋が壁のように重なっていた。私は匂いの発生源を突き止めるのは諦めた。私は、涼ちゃんのお母さんの真正面に座った。すると彼女は、ウイスキーをぐいっと飲んだ。

「お母さん」と私は話しかけた。できるかぎり優しく。

「!?」

「それ、飲んでも美味しくないでしょう」と、私は言った。

「へ!?」

「美味しくないけれど、飲まずにいられないんじゃないですか?」

「ええ・・・、その通りです」と、彼女は認めた。

 涼ちゃんのお母さんは、自分で自分を深く傷つけてしまったのだ。お化粧をすることも、部屋を掃除することもできないほど、彼女は打ちひしがれている。しかしすべてを、彼女が選んだのだ。

「涼ちゃんのお父さん、つまりあなたのお兄さんと十月に会いました」と、私は言った。

「・・・はい、知っています。兄から、話を聞きました」

「彼は虚勢を張っていたけれど、とても脆かったです」

 お母さんは突然、両手で頭を抱えた。その姿勢で、テーブルに両肘をついてうつむいた。「ぎゃーあっ!!!」

 彼女は、大声で叫んだ。いや、吠えた。続いて何度も何度も、「あううっ、あううっ」と動物のように唸った。もはや、私の手に負えないかもしれない。今すぐにも、精神科医に診せるべきかもしれない。

「私は、呪われてるんです、呪われてるんです・・・」

 彼女はそう言って、今度は泣き出した。ひいっ、ひいっ、ひいっと、短く悲鳴をあげるような泣き方だった。聞いていて、つらかった。でも彼女には、泣く理由がある。彼女が泣き止むのを、私は大人しく待つことにした。

 私はキッチンに戻り、今洗ったばかりのコップを二つ取った。そそれをもう一度水洗いし、最後に水を十分に入れた。私はコップの一つを、お母さんの前に置いた。

「水を一口、飲んでください」と私は言った。

 彼女はだいぶ経ってから、私が言ったことを理解したらしい。彼女は一口、水を飲んだ。

「お母さん。私はあなたを、責めに来たわけじゃないです。私は、ウルトラマンです。あなたを、助けに来たんです。私に、気がついてくれませんか?」

 ウルトラマンと聞いて、彼女はくすっと笑った。そして両手を下ろし、ようやく顔を上げて私を見た。ずっと泣いていた彼女の顔は、ぞっとするほど恐ろしく、醜かった。私は内心、後ずさりしたくなった。しかしここで、引くわけにはいかない。

「お母さん。あなたは心を開く必要があります。あなたの中に隠れた、秘密を明かす必要があります。話すことで、あなたは少し楽になれる。ウイスキーより、効き目がありますよ。どうか私に、これまでのことを話してくれませんか?」

「はあ?」と彼女は、呆けたような声を出した。「・・・そうですか?」

 彼女は、半信半疑だった。彼女はしばらくうつむいていた。そして時々、とても怖い顔をした。今にも泣き出すか、怒り出しそうだった。でも何度も訪れた感情の波に、涼ちゃんのお母さんは耐えた。

 焦るな、と私は自分に言い聞かせた。涼ちゃんのお母さんは、これほど苦しんでいる。彼女の苦悩は、年月の重みがさらに悪化させているだろう。誰だって、取り返しのつかない失敗をする。私だって、そうだ。問題は、失敗で受けた傷だ。その塞ぎ方だ。止血のために、塩を擦り込んだら激痛だ。かと言って、放置したら傷は腐る。この部屋は、あらゆる種類の腐臭に満ちていた。

 お母さんはうつむくというより、首を折るようになって動かなくなった。眠ってしまったのかな?でも彼女は、もう酒は飲んでいない。それは、いいことだと思う。あれは自分が、タフなときに飲むものだ。頭に苦悩が住みついたとき、酒は効かない。酔えないし、むしろ衰弱してしまう。

 曇っているが、1月にしては暖かい日だった。時間はまだ、午後になったばかりだ。時間はたっぷりあった。みんなには悪いけど、これは長期戦だ。そう覚悟していると、お母さんは本当に眠ってしまった。こっくりこっくりと、規則正しく頭を振っていた。

 私は、台所をじっと見つめた。そこは、とても質素だった。あるいは、女性が住む台所にしては、地味過ぎた。色が少ないのだ。台所の、ステンレスの銀色。わきにかかった、白い布巾。ボロボロのスポンジの、褪せた黄色。それだけだ。台所の隣に、小さな茶色い食器棚があった。でも中は、ほぼ空だった。皿は私が、さっき洗ったもので全部らしい。その皿もみんな、無地の白ばかりだった。模様すらなかった。

 もちろん私だって、台所を飾りたててはいない。でも最低限の、明るさは保っている気がする。コーディネートしてるわけじゃないが、彩りはあると思う。この台所には、それがなかった。あるいは、涼ちゃんのお母さんが否定しているのか?


「兄は、私と二才違いなんです」

「はい」

 突然、お母さんは話し始めた。彼女は、気づかぬうちに目覚めていた。でも首は折ったままだった。真下を向き、自分の両膝か床を見ていた。そのまま、話は続いた。

「私は子供の頃から、兄が好きだったんです。もう三十後半になりましたから、昔の面影はないですけど。でも子供の頃は、本物の美少年だったんです」

「それは、私も気がつきましたよ」と私は答えた。「涼ちゃんと、顔がそっくりでしたから。それに今でも、とても素敵な方だと思いますよ」

 私は、お兄さんのことを褒めた。すると彼女は、さっと顔を上げた。それから私に向かって、子供のように無邪気な笑顔を見せた。私には、彼女の笑顔が怖かった。

「子供のころ、私はいつも兄について回りました。でももちろん、いつも一緒にいられるわけじゃないです。それから兄のことを、学校の女の子みんなが狙っていました」

「それは、そうでしょう。アイドル並みの人気でしょう」私は、そう合いの手を入れた。

「はい。そうなんです」お母さんは、今度はクスッと笑った。でも彼女は、床を睨んでいた。「私は、不安で不安でしょうがなかった。いつか誰かに兄を取られてしまう。私は小学校高学年くらいから、本気で焦っていました。

 あの、こんな話、柿沢さんにしてよろしいでしょうか?・・・」

「いえいえ、是非してください。あなたのためにも、全てのことを私に話してくれませんか?」と、私は頼んだ。

「・・・小学校六年生のとき、私は、実力行使に出たんです・・・」

「実力行使?」

「あの・・・」と言って、天を仰いだ。それからまた、下を向いた。私は焦らず、話の続きを待った。彼女はもう一度、天井を見上げた。それから、話し始めた。

「・・・ある日、兄の部屋に行ったんです。私の胸は、もう膨らみ始めていました。だから、自信があったんです。私は・・・」と言って、彼女は今度は宙を見た。彼女と私のすぐ上に、雲がかかっているように。お母さんは、その白い雲を見てぼうっとした顔をした。次第に、右頬から目の下がピクピクと震え出した。やはり彼女は、とても危険だった。精神的に、とても追い詰められているんだ。

「・・・さっきお話しした通り、兄を他の女に取られたくなかった。・・・だから覚悟を決めて、兄の部屋に入りました」

 お母さんの頬は、震え続けた。痙攣は、止まらなかった。つまり彼女は、今もこの記憶の中にいる。まだ小学六年生のまま、お兄さんの部屋にいる。

「兄は、ベッドに座ってテレビを見てました。兄は、私が部屋に入っても何も言いませんでした。私たちは、仲のいい兄妹だったんです。私は兄の隣に座り、兄の手を取りました。そして、兄に自分の胸を触らせたんです。

 兄は、『おい、よせよ』と、笑って私に言いました。すぐに、手を引っ込めようとしました。でも私は、兄の手を離しませんでした。片手で胸を触らせながら、もう一方の手も取りました。そのとき私は、短いスカートを履いていました。私は兄の手を、自分のスカートの中に入れました。そして下着の上から、兄にお尻を触らせたんです」

 お母さんは、まるで昨日の事のように話した。彼女の視線は、私ではなく窓の外へ向いた。彼女は、少しうっとりしていた。その業の深さが、私の胸を締め付けた。

「兄はまた、『やめろよ』と私に言いました。でも兄も、思春期の真っ最中です。女の身体に興味がないはずがありません。兄は私の胸とお尻を、優しく触ってくれました。私は・・・、私は気持ちよくてたまらなかった。同時に、安堵感でいっぱいでした。これで、兄を私に繋ぎとめられる。小学生の私は、そんなバカなことを考えていたんです」

「それは、あの目黒の家での出来事ですか?」と、私は聞いてみた。口を開くことで、この重苦しさを和らげたかった。

「そうです。父は、今もそうですが仕事人間でした。家になんか、ほとんどいませんでした。母は日中ずっと一階にいました。二階で私と兄が何をしてるかなんて、全然知らなかったんです。

 私は家に帰ると、毎日兄の部屋に行きました。そして、私の身体を触らせました。兄も、どんどん大胆になりました。ひと月もしたら、兄は私の服を脱がせて、私の肌を直接触るようになりました」

 正直言いと、聞いていてこんなにつらい話は記憶にない。だが、この出来事があって、現在があるのだ。私は彼女の話を聞き、そこから謎を解く「キー」をひっぱり出そう。それは、必ず見つかるはずだ。

「私が中学一年生になったとき、兄に彼女ができたという噂を聞きました。兄のことを、学校で知らない人はいませんでした。だから兄は、学校中の注目を受けてたんです。

 私はもう、気が狂いそうでした。本気でその女を、殺すことも計画しました。毒殺するとか、背後から襲って首を切るとか」

 涼ちゃんのお母さんは、少しクスクスと笑った。もちろん私は、全く笑う気分にならなかった。

「私は、さすがに殺人はしませんでしたよ」お母さんは、笑いながらそう言った。でもその直後に、彼女の表情は豹変した。表情に、締まりがなくなった。でもさっきの、右頬の痙攣が再発した。私は、息を飲んだ。

「・・・私は、兄に襲いかかったんです」お母さんは、はっきりそう言った。

「襲いかかるって?」

「私は兄を、レイプしたんです。兄の部屋で」

 私は全身に力を入れた。そして、両足で踏ん張った。そうしないと、私も壊れてしまいそうだった。

「私はある夜、兄の部屋で彼を裸にしました。兄にをベッドに押し倒して、自分も裸になりました。馬乗りになって、兄を犯しました・・・」

「・・・」

「私は、女から・・・、兄を取り返したかったのです・・・」

 私はつい、大きなため息をついてしまった。お母さんはそれを、見逃さなかった。

「呆れられて、当然ですよね」と、悲しげに彼女は言った。「私は、狂ってるんです・・・。子供の頃から。悪魔がいるんです、私の中に。多分、生まれたときから・・・」

「はい」

 それから私たちは、しばらく黙った。会話には、沈黙も必要だ。ベラベラとしゃべり続ければいいわけじゃない。焦ることはない。

 私は視線を、奥の部屋に移した。そこは六畳間で床が見えないほど、大量のレジ袋が積み上がっていた。間違いなく、お母さんは傷ついている。傷ついて、何もできなくなったのだ。

「お母さん」

「・・・はい?」お母さんは、変なあいづちを打った。何か物思いに耽っていたようだ。

「お母さん。お話をうかがってまず思うのは、『仕方なかった』ってことです」と私は、そうお母さんに言った。

「へっ!?」

「だって、お兄さんは、今の涼ちゃん並の容姿だったんでしょう?そしたら、誰だって夢中になりますよ。現に涼ちゃんは、女の子からラブレターやプレゼントやバレンタインチョコをたくさんもらうそうですから」

「・・・確かに、今の涼は昔の兄にそっくりです」と、お母さんも同意した。

「だったら、悪魔の仕業でもなんでもない。あなたは、美しい人に恋をした。それがたまたま、実のお兄さんだった。それだけのことでしょう」

 涼ちゃんのお母さんは、また下を向いた。それから思い出したように、ウイスキーのストレートを飲んだ。

「ウイスキーを飲んだら、水も飲んでください。悪酔いしない、基本中の基本です」

「はい」と言って、彼女は水も少し飲んだ。そして、真剣な顔に戻った。お母さんは、話を続けた。「とにかく・・・」

「はい」

「兄と私の関係は、あの夜で決まってしまいました。私たちは、毎日抱き合うようになりました。でも兄は、だんだん怒りっぽくなりました。以前は優しかったのに、私をしょっちゅう殴ったり、蹴ったりするようになりました。

 それから、家に帰ってこなくなりました。タチの悪い友達と付き合うようになって、真夜中まで遊ぶようになりました」

「それは多分、良心の呵責ですよ」と、私は言った。

「そうなんです。私たちのしていることは、鬼畜の所業でした。兄はそのことで、苦しんでいたのです。私だって苦しかった。でも、兄を失うのはもっと怖かった」

 私は涼ちゃんのお父さんを、ぞんざいに扱ったことを少し後悔した。しかしあいつは、さらに罪を重ねたのだ。

「兄は勉強ができなくなり、最低レベルの高校にやっと入りました。でも、一年で中退してしまいました。どうやらその頃から、ヤクザと付き合い出したようです。どこかに泊まって、ほとんど家に帰らなくなりました」

「そうですか」お父さんは、苦しみから逃げた。苦しみとは、自分の妹だった。そういうことか。

「たまに兄が家に帰ってくると、私は兄のベッドに飛び込みました。寂しくてしょうがなかったんです。殴られても、構いませんでした。兄に触れることができるだけで、私は幸せだったんです。

 私も高校に進学しました。兄は父や母と喧嘩して、しまいには暴力も振るうようになりました。そしてとうとう、完全に家を出て行ったんです。兄のことを気に入ったヤクザの奥さんが、安いアパートを借りてくれたそうです。私は今度は、そこに通うようになりました。そして、とうとう涼ができてしまったんです」

「避妊は、しなかったんですか?」

「バカみたいですけど」うつむいたまま、お母さんは吐くように話した。「兄と妹で、子供なんてできるわけないと信じてたんです。そもそも子供ができることすら、真面目に考えたことはありませんでした。16才でしたから。それは、兄も似たようなものでした」

 あまりにも、愚かだった。だがこれは、現実に起こったことだ。子供たちが犯した、致命的な罪だった。だが子供たちは、いつも愚かだ。だから年上の者が、困っている子供たちの味方にならなくてはいけない。

「生理が来なくなって、私はやっと現実に気がつきました。兄に相談しましたが、まったく相手にしてくれませんでした。兄は、問題を直視したくなかったのだと思います。

 両親に、相談できるわけもありませんでした。兄の子を身ごもったなんて、言える訳ありません。だから、産婦人科にも行ってません。私はどんどん大きくなるお腹を抱えて、ただ恐怖で震えていただけだったんです」

「病院に行ってないんですか?」

「はい、結局行ってません。最後まで」と、お母さんは言った。彼女はだんだん早口になった。「つわりが始まって、私は学校を休むようになりました。父や母は私を病院に連れて行こうとしました。でも私は、頑として従いませんでした」

 これが、涼ちゃんのおじいさんとおばあさんの悪いところだ。自分の子供や孫に、厳しいことを言えない。でも厳しくしなかったら、子供はどうしたらいいかわからなくなるのだ。だから、大人が導いてあげなくてはならない。それから、恋人や親友たちも、その人を救わなくてはならない。

「私は結局、登校拒否ということになりました、一日中ベッドの中にいて、食事も母に部屋まで持ってきてもらいました。母が出かけたいる昼間に、兄が来てくれました。でも、二人ともこれからどうしたらいいかわかりませんでした。本当に、何もできずに時間だけ経ったんです」

 私は悔しさと、やり場のない怒りを感じた。誰かが、お母さんのそばへ行って話を聞けばよかった。そうすれば、打つ手は山ほどあったはずだ。だが結局、誰も何もしなかったということか。

「高二の夏の終わりに、陣痛が始まりました。一日に何度も、痛みに襲われるのです。私はさらに不安になりました。私は死ぬんじゃないか、とさえ思いました。でも、誰にも言えません。私には、兄しか頼る人がいませんでした。

 そして十月に、耐えられない痛みが私を襲いました。私は部屋で大声を上げて叫びました。時間は夜遅くで、珍しく父も帰っていました。私の苦しむ様に、驚いた父母はすぐ救急車を呼びました。

 痛みは強くなったり、弱まったりを繰り返しました。大きな痛みに襲われているところに、救急車が来てくれました。私はすぐに、車内に運び込まれました。

 その時の記憶は、私にはあまりありません。ただ救急隊員の方は、すぐに私がお産で苦しんでいるち気づいたようです。私は救急車のベッドの上で、涼を出産しました。救急車の中だったから、涼も私も助かったのだと思います」

「お父さんとお母さんは、どうされてたんですか?」

「全然覚えてないんです。ただ、びっくりさせただろうなと思います」

 そりゃ、そうだろう。高校二年生の娘が、なんの前触れもなく子供を産んだら、腰抜かすだろう。

「私は、一ヶ月くらい入院しました。幸い涼は、どこも悪いところなく生まれました。顔を見て、すぐ兄に似ているとわかりました。嬉しかったです。本当に・・・」

 私は腕組みをして、彼女に話すべきことを考えた。いろんな言葉が、頭に浮かんだ。しかし今の彼女に、届く言葉でなくてはならない。お兄さん、そしてこの生活。その両方から、彼女は脱出しなくてはならない。

「誰が父親かは、ずっと両親に言わなかったんです。私は高校中退になりました。家は幸い父がたくさん稼いでくれるので、私は何もせずに、家で涼を母と協力して育てました。

 私が十九のとき、兄が突然家に帰ってきました。見かけからすぐわかるくらい、完全なやくざ者になっていました。そして兄は、母に言ったんです。涼の父親は自分だと」

 人には、知るべきことと知らなくていいことがある。涼ちゃんのことは、悲しいけれど前者に入る。おじいさんと、おばあさんにとっては。だが伝え方が、大切だと思う。やり方によっては、全員が心に傷を負う。涼ちゃんのお父さんの伝え方は、最悪と言っていい。

「母は、発狂したみたいに泣き叫んでいました。その横を兄は、私と涼を連れて通り過ぎました。そして外に出て、三人で車に乗りました。兄が私に言いました。『一緒に、暮らそう』と。バカだと思われるでしょうけど、私は涙が出るほど嬉しかったんです」

 お母さんの人生は、お兄さんに支配されている。問題は、お兄さんが美しかったことにある。私が彼女の兄なら、こんなことにはならなかった。この悲劇は、涼ちゃんのお父さんの人生も、お母さんの人生も狂わせてしまった。二人が結ばれることがなかったら、お兄さんも普通に勉強し普通に就職していただろう。彼は妹から逃げ、学校からも、両親との生活からも、社会からも逃げ出した。そうして彼の生きる道は、ヤクザしかなかったのだろう。

「お兄さんは、三人で生活できるほど収入はあったんですか?」

「いいえ、下っ端ヤクザで十万くらいしかもらってませんでした。おまけにそれをギャンブルに使っちゃうんです。仕方ないので私が、紙コップを作る工場で働きました。でも、涼を保育園に行かせるお金もなくて、結局両親に出してもらいました」

 また、甘やかしだ。あの二人は、全然子供のためにならないことをする。次に会ったら、一時間は説教だ。私は、猛烈に腹が立ってきた。

「三人で暮らしていると、兄はしょっちゅう私を殴りました。『俺がこうなったのは、全部お前のせいだ』と言うのです。そのたびに、私は耐えがたいほどの悲しみを感じました。でも私の、兄への思いは揺るぎませんでした。兄のそばに、居られるだけでよかったんです。」

 人の「好き」と言う感情を、理性で律することは不可能である。なぜならこの感情は、狂気と結びついているからだ。「好き」という感情を現実のものにするために、人は平気で愚かな判断を下す。それはどんな人でも同じだ。冷静なときなら絶対しない間違いを、人は「好き」という感情に囚われて犯してしまう。だからそれは、狂気と同じなのだ。

「涼が小学校に入り、私と兄の生活が五年を過ぎると、私たちは毎晩ケンカするようになりました。さすがに私も、兄の暴力と生活力の無さが嫌になりました。なんとか『まとも』になってもらいたいと思い、兄と口論するようになりました。すると涼が、両親のところに逃げてしまうのです。涼に悪いとは思いましたが、私も兄が大事でした。だから毎晩ケンカしていたんです」

「そのあたりの事情は、涼ちゃんから聞いてます」と、私はお母さんに伝えた。

「そんなとき、紙コップ工場の班長が私に声をかけてくれました。私は毎日、顔にあざや傷を作って出勤してました。それで彼は、心配してくれたんです。

 彼は、見かけはごく普通でした。でも優しかった。さすがに兄との間に、子供を作って暮らしているとは言えませんでした。でも亭主が暴力を振るうんだと説明すると、『俺が彼と話をつけてやろうか?』とまで、言ってくれるのです。彼はまだ25歳で、独身でした。明らかに彼は、私に好意を抱いていました。私にとっては、初めての兄以外の男性でした。私は恐ろしいほど、世間知らずだったんです」

「あなたはお兄さんではなく、その方を選んだんですね」

「そうなんです。中学生になって涼は、両親のところに住み着いてしまいました。私は、疲れ果てていました。だから、思い切って彼の家に移りました。

 兄は、何も言いませんでした。多分兄も、私との生活に嫌気がさしていたんでしょう。こうして私たちは、三人バラバラになりました。私は兄にも、両親にも自分の居所を教えませんでした。なぜかそのときは、全てをリセットしたい気持ちだったのです。それまでの自分の呪われた人生を、全否定したかったんです」

「涼ちゃんと離れて、寂しくなかったんですか?」

「もちろん、寂しかったです。でも涼に、私は嫌われたと思っていました。だから仕方なく、その彼との生活を選びました」

「でもその方とは、結婚されなかったんですね?」

「ええ。同棲生活をして三年くらいたったら、彼が二十歳の新入社員と付き合ってるのを知ったんです。私は激怒して、工場もやめてしまいました。彼も、彼の新しい彼女の顔も見たくなかったですから。そして、再リセットしようと、ここに引っ越したんです」

 私は窓の外に目を移した。古ぼけた公営住宅も、柔らかな午後の光に包まれて、穏やかな景色を見せていた。棟と棟の間の狭い道路では、小学生くらいの子供たちが男女入り混じってサッカーをしていた。あんな年の頃から、涼ちゃんのお母さんは実のお兄さんへの欲望を抱え、苦しんでいたのだ。

「もちろん、涼ちゃんはこのことを知らないですよね?」

「もちろんです。兄のことは、パパとしか説明していません」

「ねえ、お母さん。今は隠し通せても、いずれはわかることじゃないですか?」

「うぐううっ!」

 涼ちゃんのお母さんは、また動物みたいな唸り声をあげた。そして今度は両手で顔を覆い、ああっ、ああっと叫びながらまた泣き出した。でも私は、構わないと思った。泣くほど悲しいことなのだから。それほどつらいことを、今日私に話したことに意義がある。

「お母さん。スタート地点に戻りましょう」と、私は言った。

 私がそう言うと、涼ちゃんのお母さんは少しずつ泣き声を鎮めていった。ようやく彼女が泣き止んだところを見計らって、私は話を続けた。

「いいですか。問題のスタートはやっぱり、お兄さんが美しかったことにある。あなたはお兄さんに恋をした。仕方ないです。それは、あなたのせいじゃない。あなたのせいじゃないんです」

 お母さんは、いつのまにか泣き止んだ。きょとんとした様子で、私を見ていた。

「それから、もう一つ。あなたの気がついていない事実がある。あなたは美しい。あなたも、涼ちゃんそっくりだ。そんなあなたに、お兄さんも恋をした。これも仕方がない。お兄さんのせいじゃない。

 あなたとお兄さんがすべきだったのは、外の世界にあなた方と同じ人を探すべきだった。男は結局、母親と似た女性を探して人生の伴侶とするという説もある。あなたたち兄妹も、そうするべきだった。でもできなかった。それはわかりました」

 涼ちゃんのお母さんは、少し口を開けて私の話を聞いていた。おそらく、驚いているのだろう。いや、私に呆れているのかもしれない。

「お兄さんとは、今も連絡は取り合っているんですよね?」

「はい、半年にいっぺんくらいですが・・・」

「連絡を取るのは構わないです。でも、恋人としてではなく、普通の兄と妹として話してください。そう考えると、話すべきことが変わってくる。彼の堕落した生活を、真っ当なものにしようと考えるはずです。ケンカ腰ではなく、優しく諭すことができるはずです。

もちろん、一朝一夕に片付く話じゃない。でも、実の妹としてアドバイスすることはあるはずだ。そして、彼が更生する手助けをあなたはできるはずだ」

 涼ちゃんのお母さんは、やはり何も言わなかった。しかし、口を閉じ視線をテーブルに落とした。そして、何か考え込む様子を見せた。

「そして次に」と、私は言った。「あなたとご両親の関係を、立て直してください。親と子が音信不通で、どこに住んでるかも知らないなんて異常だ。人はね、結局平穏な人間関係を持つことで、精神的に安定するんです。私と一緒に、目黒の家に行きましょう。まず私が、あなたのお父さんとお母さんを一、二時間説教します。この馬鹿野郎、今まで何やってたんだと叱り飛ばします。そのあとで、あなたは今の自分の状況を、率直にご両親に話してください。ご両親は、あなたの力になってくれますよ」

「怖いです」と、涼ちゃんのお母さんは言った。「会うのが怖いんです。両親に会うのが」

「わかってますって。私はウルトラマンだって言ったでしょ?あなたが一人でご両親と会ったら、多分ケンカになります。人はみんな、感情に流されるんです。冷静になれないんです。

 だ、か、ら。私が一緒に行くって言ってるんです。私はもう目黒の家に、二度お邪魔してます。行ったし、あなたのお父さんとも、電話で何度も話してます。もうお互いのことは分かってます。何なら、今お父さんに電話しましょうか?」

「いや、今はいいです」と言って、涼ちゃんのお母さんは焦った顔をした。

「わかりました。今電話するのはやめましょう。でも今晩、私はあなたのお父さんに電話したい気分だ。あなたのお話をうかがって、私はあなたのお父さんとお母さんにとても腹を立てている。ボッコボコに叱りたい気分だ」

「柿沢さん」と、涼ちゃんのお母さんはやっと落ち着いた様子で私の名を呼んだ。「あなたは、ウルトラマンなんですね。やっと、納得できました」

「ええ」と私は、無理に笑顔を作って答えた。「さてと。まずは、掃除しましょうか?」

「えっ?」

「人手はあるんだ。大勢でやれば、この家もすぐ片付きますよ」

「まさか、涼を呼んで掃除させるんですか?」

「その通り。恥ずかしかったら、あなたも一生懸命掃除してください」

 私はそう言って、すぐに彼女の家を出た。そしてファミリー・レストランに戻った。三人は、それは不安そうな表情で私を迎えた。でも、私がやる気に満ちた表情をしていたので、すぐ安堵の表情に変わった。

「掃除することになったから」と、私は言った。

「掃除って、どこを?」と、日菜子ちゃんがたずねた。

「涼ちゃんの、お母さんの家」

「何で?」と、涼ちゃんが聞いた。

「ものすごく汚いから」

「どうして、どうして?」と、真理ちゃんが聞いた。

「人はね、ものすごく傷ついてしまったとき、お洒落する気も掃除する気も失ってしまうんだ。だから、俺たちが手伝ってあげないといけないんだよ」

 こういうモードに入った私は、極めて強権的である。異論反論は一切受け付けない。私たちは店を出て、近くのコンビニに入った。そして我孫子市指定のゴミ袋70Lを30袋、マスク、軍手、タオル、雑巾、ひもを適量購入した。そして、涼ちゃんのお母さんの家に戻った。

 家に入ると、焦ったお母さんがゴミ袋の整理を始めているところだった。しかし、所詮一人では無理である。私は購入したビニール袋を五つ出して広げた。

「涼ちゃんと真理ちゃん。部屋中のレジ袋を開けて中のものを、燃えるゴミ、不燃物、資源ゴミ、プラスチックゴミに分別して。そしてこのビニール袋に入れて。燃えるゴミは多いから、二つの袋に入れてね。

 日菜子ちゃん。あなたはお風呂とトイレの掃除をして。涼ちゃんのお母さん、洗剤はありますか?」

「一応、あります・・・」と彼女は恥ずかしそうに答えた。

「日菜子ちゃん、自分で手に負えなかったら俺が手伝うから。いつでも言ってね」

「お母さん、あなたはバルコニーに積んだゴミを部屋に運びなさい」と、私は彼女に命じた。そして自分自身は、新聞紙や広告、雑誌などの資源ゴミをひもでまとめることから手をつけた。お母さんの居間には、新聞が二、三年分は積み上がっていた。雑誌も、あちこちに散在していた。

 私が資源ゴミを縛っていると、日菜子ちゃんから泣きが入った。「拓ちゃーん。落ちなーい(T . T)」

 はいはい、わかりましたよ。私は風呂場に向かい、風呂釜にこびり付いた垢をゴシゴシこすった。この作業は、結局根気である。どんな汚れも、こすり続ければ落ちる。

「日菜子ちゃん、資源ごみ縛って」

 私にそう言われて、日菜子ちゃんは風呂場からダイニングルームに向かった。涼ちゃんのお母さんは、バルコニーに放置していた雑誌類をせっせと家の中に運んでいた。

 涼ちゃんと真理ちゃんのゴミ分別隊は、居間から寝室に移っていた。

「マーマ!ちょっと、いい加減にしてよ」と、涼ちゃんは怒って言った。

「ごめん、ごめん、ごめん・・・」娘に怒られることも、今の彼女にはいい薬である。

「お母さん、掃除機ある?」風呂場とトイレを片付けた私は、涼ちゃんのお母さんに聞いた。

「一応、あります・・・」

 彼女はそう言って、新品同様の掃除機を出してきた。しかし、念のため開けてみるとごみ収集用の紙パックが入ってなかった。何のことはない。彼女はこの掃除機を、一度も使っていないのだ。

「お母さん、紙パックがないよ!」

 お母さんは、掃除機の箱から新品の紙パックを出した。私はそれを掃除機に装着して、居間中をガーッと掃除した。勢いで、廊下も玄関にも掃除機をかけた。

「拓ちゃーん、ゴミ終わったー」と、涼ちゃんが言った。私は彼女に掃除機を渡し、真理ちゃんには水に浸して絞った雑巾を渡した。

「涼ちゃんが掃除機かける、その後を真理ちゃんが雑巾で綺麗に拭く。いい?」

「あーい!」

 二人はすぐに指示された通りの作業を始めた。日菜子ちゃんは、まだ雑誌やら新聞やらの資源ゴミを縛っていた。一つ縛ると、彼女はそれを玄関の外に運びだした。彼女のような体力がないと、きつい仕事である。

 私と涼ちゃんのお母さんは、物がなくなったバルコニーの掃除に取り組んだ。いろんな物が放置されていたバルコニーは、床に紙やら塗料やらがこびり付いていた。私と彼女は、それを雑巾で懸命にこすり落とした。

「資源ゴミ、終わったー」と日菜子ちゃんが言った。

「雑巾で、家具全部拭いて」と、私は彼女に新たな指令を出した。

 一時間もすると、家は見違えるほど綺麗になった。最後にみんなで、ゴミを指定の捨て場所に運んだ。本当は決まった曜日があるんだろうけど、今日は許してくれよ。新聞や雑誌が、一番きつかった。みんなで交代して一階まで降ろし、いったん車に積んで、ゴミ置場に捨てた。

 全て捨て終わった後で、お母さんの家に戻った。テーブルに座って、みんなでジュースを飲んだ。さすがにお母さんは、もうウイスキーを飲まなかった。掃除を始めて二時間。もう、夕方になっていた。

「あー。楽しかったあ!」と真理ちゃんが、ニコニコしながら言った。

「ねー。楽しかったね!」

 日奈子ちゃんも、同意した。でもお母さんは、とても恥ずかしそうだった。恥ずかしそうだったけれど、彼女はもう悲しんでいなかった。今は、何も悔いてはいなかった。

「マーマ。ママも拓ちゃんと暮らしたほうがいいよ。規則正しいし、拓ちゃんは厳しいから。家をこんな汚くしないよ」と、涼ちゃんが言った。

「うん、よくわかった。柿沢さんは、厳しくて優しい人だね」

「そうなの。拓ちゃん、優しいんだよ」と涼ちゃんが言った。

 もしも私が、高校時代にお母さんと会えたなら、私は何かをしただろう。いい方向に行ったか、それとも間違ったか?それはわからない。けれども、問題を他人と共有することに価値がある。私はお母さんに、何かできたと思う。

「これまでのことはいいです。これから、何をするかです。一緒に、ご両親に会いに行きましょう。そしてごく普通の、親と子の関係を取り戻しましょう」

「お母さん。拓ちゃんは優しいの。私たちの失敗を許してくれるの。拓ちゃんは、過去にはこだわらないの。起きたことはいいから、これから何をするかだっていつも言うんです」と、真理ちゃんが言った。

 真理ちゃんは、自分の体験を話している。でも彼女の言葉は、お母さんには、全く違って響く。真理ちゃんの言葉は、実の兄を愛した自分の半生に語りかける。

「えへへ」と、涼ちゃんのお母さんは笑った。みんなはびっくりしたろう。でも私は、彼女の照れ笑いの意味がわかった。

「部屋は、綺麗になりました。次は、あなたが綺麗になって下さい」と私は答えた。

「ふふふ」と、彼女は笑った。「まず、痩せないといけませんね」

「食べないで痩せようとしちゃ、ダメですよ。こちらにいる日菜子ちゃんは、抜群のアスリートです。彼女のトレーニングとストレッチを相談して下さい。それをこなせば、自然に痩せられますよ」

「そうなんですか?」

「そうなんです。エネルギー吸収に気を使うよりも、好きなものを食べてエネルギー消費を高めたほうがいい。そのほうが断然楽です」

「わかりました。そうします」

 もう日が沈むので、私たちは帰ることにした。明日は、早朝に起きて釣りだ。ハードな毎日である。でも全部、私が望んで仕掛けたことだ。

 帰りは渋滞にハマった。私たちはまずAKBの曲をかけた。真理ちゃんと涼ちゃんが、気持ちよく歌っていた。次に日菜子ちゃんが、ミスチル特集にした。歌わないといけないんだろうなあと思い、知っている曲は歌った。日菜子ちゃんのテンションが、どんどん上がるのがわかった。

 歌いながら、私は今日のことを振り返った。私は正しいことを、涼ちゃんのお母さんに伝えただろうか?わからない。だがこれが、いまの私にできるベストだ。近親相姦の苦しみを解く、私の答えだ。

 私は、狂ったことを言っているかもしれない。だが愛情とは、狂っているのだ。狂人には、狂人のための言葉を伝えるべきだ。それは、常識と外れても仕方がない。その人を救うためならば、頭をフル回転させて話さなくてはならない。私はそう思う。

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