第38話 釣りと鍋
いやはや、参った。私はこのところ、また眠れなくなった。原因は、日菜子ちゃんである。元旦の夜から、私はすっかり睡眠時間が減ってしまった。薬のおかげで二、三時間は眠れる。だが、夜中の二時か三時に目を覚ますと、毎晩それきり眠れなくなった。
もともと私は、プレッシャーに弱い。涼ちゃんと真理ちゃんと暮らしだした最初の一ヶ月も、私は不眠と下痢で苦しんだ。それがようやく峠を越したところで、日菜子ちゃんが現れた。世の中は、上手くできているのか、いないのか。とにかく私を、そっとしてはくれない。
週末に日菜子ちゃんと寝ているときは、間違いなく眠れなかった。仕方ないので、私はノートPCで授業の準備をしたり、小説の続きを書いて過ごした。日菜子ちゃんは、一度寝たらテコでも起きない。私は朝方まで作業を続け、最後の一時間だけ日菜子ちゃんの頭を肩に乗せ直して横になった。
日菜子ちゃんがいない日でも、状態は同じだった。彼女の存在の重みに、私はギシギシ音を立ててもがいていた。彼女が示してくれる愛情に、私の身体は分解寸前だった。そして私の心は、彼女に「No!」と言い続けた。
どこからどう考えても、日菜子ちゃんが私と付き合うのはマイナスに思えた。絶対に、間違っていると思った。18才も、年が離れているのだ。彼女は同年代と結ばれた方がいいに決まっている。彼女は、普通の幸せを掴むべきだ。
百歩譲って、私と付き合うとしよう。でも、せいぜい一年契約だ。一年間は、二人で楽しい時を過ごす。でも来年の春前に任期が切れたら終了。日菜子ちゃんは、魅力的で精力旺盛な若者と付き合う。でもこんなことを、今の彼女に言ったらまた激怒するだろうな。人の心とは、上手くいかない。
私はあらためて、日菜子ちゃんがたどった人生を考えた。誰もが羨むようなバスケットボールの才能を持ち、大学も早稲田の政経だ。そして今は、名門女子校の教師である。これだけ聞いたら、誰もが彼女は幸せな人生を送っていると思うだろう。
しかし日菜子ちゃんの話を聞いていると、彼女は人生のいっときも幸せでなかったことがわかる。彼女は手に入れたものを、次々と躊躇うことなく捨てた。エリちゃんも、バスケも。自分で捨てながら、彼女はそのせいで深い傷を負った。その傷の深刻さに気づく人、理解してくれる人は少ない。となると、私の出番になるわけだ。
はあ。今夜も真夜中の二時に目覚めて、私は深いため息をついた。どうせもう、朝まで眠れない。次の診察で、もっと睡眠作用の強い薬をもらうしかなさそうだ。まあ、これが私の現在だ。あるがままに、受け入れることにしよう。
私は温めていた次の手を、実行に移すことにした。二次試験は終わった。二月の他の大学の一般入試まで、少し間隙がある。動くなら今だ。私は、田所さんに電話をかけた。
「こんにちは。柿沢です」私はオフィスで仕事中の11時に、彼の電話番号を押した。スリーコールで、彼は電話に出た。
「もしもし、こんにちは。柿沢さん、お元気ですか?」彼は、相変わらず軽かった。
「ご家族とは、上手くいっていますか?」と、私は単刀直入に聞いてみた。
「娘二人は、私の犯した罪を完全に受け入れてくれました。でも妻は、まだ駄目です。私が書いた手紙のせいで、しょっちゅう親戚から電話がかかってくるんです」
「それは、大変でしょう」
「でも、たいてい電話は妻あてなんです。手紙を書いたのは私なのに、親戚はみんな、妻に電話をかける。私じゃないんです。変な気分ですよ」
「人って、そんなもんです。直接、田所さんと話す勇気を持たない。だから、奥さんに電話するんです。でもそれじゃ、奥さんは大変ですよ」
「そうなんです。妻は電話の応対で、てんてこまいです。でもその内容を、私には一言も話さない。だから私は、自分が親戚たちにどう思われてるのかよくわからないです」と、田所さんは苦笑まじりに言った。
「そんなこと、知らなくていいことです。バカバカしい話ですから。それよりもあなたは、自分と自分の大事な人のことだけ考えるべきだ。そのことに、時間を費やすべきだ」
「そうですね」田所さんは、しばらく私の言ったことを考えてからそう答えた。
「田所さん、今週末は空いてますか?」と私は聞いた。
「空いてるも何も、私は家でゴロゴロして死を待つ身分ですから。スケジュールなんて、ガラガラですよ」
「そしたら、約束した釣りに行きましょう。真理ちゃんの二次試験は、月曜に終わりました。あとは合否の連絡を待つだけです。彼女も、張り詰めた状態を緩めたい時期です。だから、田所さんの好きな釣りに行きましょう。真理ちゃんは海が好きなので、お互いに楽しめますよ」
「ありがとうございます」と、田所さんは言った。「あなたがいなかったら、こんなことはなかった。真理ちゃんと釣りに行けるなんてね。最後の釣りを、命をかけてやります。今週末まで、何としても生き残ります」
「場所は、房総半島で田所さんの好きな場所にしましょう。私は釣りがわからないので、その代わりにテントを張って中で鍋を作ります。田所さんは、鍋の具になる魚を釣ってください。大物を期待してますよ」
「うおおお」と、田所さんは電話口で吠えた。弱々しい声だったが、気合いだけは十二分に伝わってきた。「私のテクニックを、すべてつぎ込みます。必ず、美味しい旬の魚を釣って、真理ちゃんに食べてもらいます」
「是非、お願いします」
「ものすごい、やる気が湧いてきた」と、田所さんは言った。そして、「柿沢さん、あなたは人をやる気にさせるのが上手ですね。私の今の気分は、楽しくてしょうがないですよ。ほんと、毎回柿沢さんと話すとエネルギーがもらえる。柿沢さんは、いつもそうなんですか?」
「いや、私はあなたとの約束を果たそうとしてるだけです。田所さんは、その約束の実現が目の前になってやる気が湧いた。そういうことです」
私は田所さんの電話を終えた後、真理ちゃんに電話をかけた。
「今週末、真理ちゃんのお父さんと釣りに行くことになったから」と、私は真理ちゃんに言った。もう学校は長い春休みに入り、高校三年生は家にこもって受験勉強に追われていた。
「ええっ、こんな寒いのに釣りに行くの?」
「大丈夫。浜辺にテント張って、寒くないようにするから。それから鍋を作って、みんなで温まることにする。夏の海もいいけど、冬の海も綺麗なんだよ」
「わかったあ」と、真理ちゃんは答えた。「でも、緊張するな」
「真理ちゃんも、釣りしてみる?」と、私は聞いた。
「ええっ?」
「道具は揃えるよ。でも、初めてで釣れるほど、甘い世界じゃないけどね」
「うーん、でも、挑戦してみようかな?」
「お父さんと一緒に釣りしてよ。寒いから、少しでもいいよ」
「うふふ。わかったあ」真理ちゃんは清々しく笑い、持ち前の母性本能を発揮して答えた。私も田所さんも、丸呑みにしそうなパワーがあった。これが真理ちゃんである。
そこからの調整が大変だった。まず、行くのは日曜日になった。直子ちゃんの仕事の都合である。田所さんから話を聞いて、彼女は絶対参加すると譲らなかったらしい。それから田所さんが、なかなか目的地を決めなかった。彼の優柔不断さが、よく分かる。日中に私に電話しては、この時期はどこがいい、いやあそこがいいと、散々話をした。私が「いい加減、決めなさい!」と一喝すると、彼はようやく内房の保田海岸にすると答えた。
私はまずネットで、初心者用の釣り道具一式をレンタルで注文した。それから、仕事仲間のオートキャンプ好きから、バーベキュー用の装置も借りた。これで魚も、肉も焼く事ができる。鍋には、私の登山用のガスバーナーを使うことにした。二つ持っているので、四人ずつ二チームに分かれて鍋を楽しむこともできる。
涼ちゃんはもちろんだが、日菜子ちゃんもすぐに誘った。答えはもちろん、即答でOK。田所家側は直子ちゃんと、それから沙織ちゃんも参加することになった。田所さんの奥さんだけ、不明だった。仕方ないだろう。とはいえ、直子ちゃんも沙織ちゃんも冬の海と鍋を楽しみながら飲みたいだろう。私はレンタカー屋に電話して、八人乗りの車を予約した。前日の夜に借り、早朝浦安まで田所一家を迎えに行って、西千葉に戻って真理ちゃんたちを乗せて保田海岸まで行く作戦だ。
ここでさらに、田所さんから難題が出された。夜明け前に現地に着かないと、魚が釣れないと言う。魚が食欲を感じるのは、夜のうちに潮が動くときなのだそうだ。だから、潮の満ち引きも考慮に入れないといけない。ということは。一月二十日の満潮は、調べると4時52分。私は、四時に保田海岸に到着しなくてはいけない。逆算すると、私は家を一時に出発して浦安で田所家のみんなを乗せ、三時に西千葉で真理ちゃんたちを乗せて四時保田海岸到着を目指す。ほとんど徹夜じゃん。私の体力も、少し考えてくれよ。
当日、私は少しだけ横になった後、借りた日産セレナで浦安に向かった。ほぼ寝ていないので、ただ疲れしか感じなかった。さすがに高速は空いていて、一時間もかからずに田所邸に着いた。
玄関前に車を停めると、その物音だけで田所さん、直子ちゃん、沙織ちゃんが玄関から出来てた。みんな、防寒装備は万全だった。
「おじさんっ、こんばんは!」
直子ちゃんと沙織ちゃんは、溌剌とした声で私に挨拶した。
「こんばんは。朝早くにお邪魔してごめんね」
「いえいえ、全部パパのせいだから。こちらこそ、こんな真夜中にごめんね」
「お酒の準備は、OK?」と、私は直子ちゃんにたずねた。
「もちろん!」
直子ちゃんはそう答えて、大きな手提げカバンを私に見せた。その中に、焼酎のボトルやビールが入っているのだろう。
やや遅れて、田所さんの奥さんが玄関に出てきた。とても厳しい表情で、加えて途方にくれた様子だった。だが彼女は、分厚いコートを着ていた。襟に何かの毛皮がついた、高級そうな服だ。そんなお母さんを二人の娘が玄関から連れ出し、車の後部座席へ強引に押し込んだ。田所さんは杖をついて、助手席まで来た。私は中からドアを開け、彼を車内に招いた。さあ、乗ってくれ。出発だ。
C'mon Daddy, Get In Let's go!
C'mon Daddy, Get In Let's go!
私はDonald Fagen の名曲、「Trans-Island Skyway」の一節を思い出した。
「今日は、快晴ですよ」と、田所さんは私に言った。彼の年甲斐もないはしゃいだ雰囲気が、私に伝えってきた。
「日本晴れですね。でも、相当冷えそうです」
「そうですね。でも娘が大量にホッカイロを買ってきてくれたので、全員分あります。準備は、万端です」と、彼は言った。こんな断定的で、力強い田所さんは初めてだった。
「私も娘も、マアジを狙います。この時期、夜明け前が狙い目なんです。鍋ではなくて焼いて食べます。採れたての味は最高ですよ」
「直子ちゃんと沙織ちゃんは、釣りをした頃はあるんですか?」と私は聞いてみた。
「それが、中学校以来なのー」と、沙織ちゃんが少し甘えた調子で答えた。その言いぶりに、彼女も気分が高揚しているのが感じられた。「でもねえ、小さい魚なら釣ったことあるよ」
「大物じゃないと。肴にならない」と、直子ちゃんが言った。この人は、ずっと酒のことを考えてるんだろうか?
しばらく釣りの話で盛り上がっていると、ずっと沈黙していた田所さんの奥さんが口を開いた。とたんに、みんな静まり返った。
「柿沢さん、こんな真夜中に浦安まで来てくださりありがとうございます」と、彼女は厳かな口調で言った。
「いいえ、私と田所さんの約束ですから。守らないといけません。そして今日は、真理ちゃんのためでもあります」と私は、きっぱりと言った。
「・・・」田所さんの奥さんは、何も言わなかった。彼女が返事をしないと確信してから、私は話を続けた。
「当たり前の話ですが、子供は親を選べません。自分になんの落ち度もなく、ある場所に生まれるだけです。直子ちゃんと沙織ちゃんは、浦安の家に生まれた。真理ちゃんは、小岩の居酒屋の家に生まれた。自分じゃ、どうすることもできません」
「それは、理解できます」とだけ、田所さんの奥さんは答えた。
「でも世間は子供をほっとかない。誰の子供か、どの家の子供かは、一生ついて回る。それで人を評価する人は、この世に腐るほどいる。大昔から、連綿と続いて来た風習です」
「柿沢さん、あなたは何がおっしゃりたいの?」
「私が言いたいのは、たまには一般常識を疑ってみませんか?ってことです。医者や大学教授や大会社の社長の子供は、きっと頭がいいとみんな思います。運動選手や歌手の子供は、その道に秀でているはずだ。そして、犯罪者の子供は犯罪者だと思うでしょう。
でもそれは、子供にしたら大迷惑な話だ。両親が誰であろうが、関係ない。そう考えて、今日を過ごしてみませんか?」
「あなたのおっしゃる意味が、まだ私にはわかりません」
田所さんの奥さんは、なかなか強情だった。彼女が生きてきた人生は、たった今私が否定した常識で成り立っているだろう。由緒正しい高貴な家系。彼女はきっと直子ちゃんも沙織ちゃんも、私みたいな平民クラスの男と結婚させたくないだろう。汚い血だと、呼ぶだろう。
「親のことは忘れて、平松真理さんという女性を見てくれませんか?見かけは高校三年生そのものですが、精神は中年女性かと思うほど成熟しています。心の重心が低く、つらい状況におかれても笑顔を見せることができます。彼女と会ったら、その魅力に気づいていただけると思います」
田所さんの奥さんは、もう何も言わなかった。私の話に納得したかは、不明だった。だがもうすぐ、本当に真理ちゃんと会うことになる。それが重要だ。
私は湾岸習志野で高速を降りた。あと十分で、家に到着する。私は迷った末に、この話をみなさんに断っておくことにした。
「本当はプライバシーに係ることですが、本日は一日みなさんと一緒に過ごしますので最初に断っておきます。平松真理さんと、斎藤涼さんは恋人同士です。二人とも女性ですけど」
「ぎょえーっ!?」
直子ちゃんと沙織ちゃんが、ほぼ同時に叫んだ。田所さんと奥さんは、何も声を発しなかった。おそらく彼らの生きてきた世界とは、別の場所の出来事なのだろう。
「つ、つまり、レズってこと・・・?」と、直子ちゃんが恐る恐るたずねた。
「そうだよ」
「あ、あのさ、おじさん。気にならないの?、そういうの・・・」と、今度は沙織ちゃんが聞いた。
「いや、まったく」
「もう、カルチャーショックなんだけど」
「いや、実はそんな特別なことでもないんだよ」と、私は言った。「沙織ちゃんや直子ちゃんの周りにも、実はたくさんいるんだよ。ただ、本人が名乗らないだけ。いっぱい、いるんだよ。
私が『気にしない』と言ったのは、誰が誰を好きになろうと気にしないという意味です。気にする人がたくさんいるのは知ってるよ。芸能ニュースやワイドショーは、こういう話大好きだからね。
真理ちゃんと涼ちゃんが恋人同士だと、みなさんに敢えて断ったのは彼女たちに『彼氏がいるの?』とか、『どんな男が好き?』という質問をして欲しくないからです。そんな瑣末な話は忘れて、純粋に釣りと冬の海を楽しんでほしいからなんです」
「わかった・・・」と、直子ちゃんが静かに同意した。他の人は、何も言わなかった。もしかすると田所家で一番発言力があるのは、直子ちゃんかもしれない。
我が家の駐車場に、到着した。予定の三時より五分前だったが、三人は寒い駐車場に立っていた。
「こんばんは」
「こんばんは」
私と田所一家は、いったん車を降りた。そして、真夜中なので静かに自己紹介をしあった。田所さんの奥さんは、静かな目で真理ちゃんを見ていた。でも、決して怒ってはいなかった。
「いや、可愛い・・・」
「本当に可愛い・・・、二人とも」
直子ちゃんと沙織ちゃんは、涼ちゃんと真理ちゃんを交互に見つめてため息をついた。それから、「あの、こちらの方は?」と、日菜子ちゃんを見て言った。
「平松真理さんの担任の、大月日菜子と申します。よろしくお願いいたします」
日菜子ちゃんはそう言って、深々とお辞儀をした。
「ああ、高校の先生なんですね」と、直子ちゃんが言った。
「ええ、真理さんの担任ですが、柿沢さんの生徒です」
「生徒、なんですか?」
ほっとくと日菜子ちゃんが何を言い出すかわからないので、すぐ出発することにした。
座席は真ん中に田所さんの奥さん、直子ちゃん、沙織ちゃん。最後列に、涼ちゃん、真理ちゃん、日菜子ちゃんと座ってもらった。後部座席は少し狭いが、涼ちゃんと真理ちゃんが小柄なので大丈夫だろう。
音楽は、本日の主役である田所さんの選曲に任せた。彼はグレン・グールドが弾くバッハを用意していた。なんか荘厳な早朝である。
みんな緊張のせいか、車の中ではほとんど会話がなかった。私と田所さんだけ、男同士の話をした。
「釣りは久しぶりですか?」
「ええ。二年以上空いてますね。その前は、しょっちゅう出かけてたんですが。ガンが見つかって、もう入院、手術、退院、再発、入院、手術・・・。それの繰り返しでしたから。釣りに行く暇なんてなかったです」
「それはよかった。久々の釣りに、お手伝いできてよかったです」
「柿沢さん」と、田所さんは声を少し潜めて言った。「人の出会いは、不思議ですね。あなたと出会わなければ、今日という日はなかった」
「そうですね。でも田所さんと私を出会わせたのは、真理ちゃんのお母さんですよ」と、私は堂々と言った。私は、後ろにいる田所さんの奥さんに遠慮しなかった。むしろ、聞こえない声でしゃべる方が彼女を緊張させると考えた。
「真理ちゃんと出かけるなんて、予想もしてませんでした」そういう彼の言葉には、様々な思いが込められているだろう。その数々の思いを一つの言葉に置き換えるなら、「後悔」だろう。
「田所さん、いまさら難しいことは考えないでくださいよ。今考えるべきことは、時間通り目的地につくこと。素早く準備して、ベストポイントに釣り糸を垂らすこと。そして、限られた夜明けの時間帯に、ベストを尽くすことです」
「その通りですね」と、田所さんは小さく笑った。「だけど私は、いつも柿沢さんに怒られているな。私もサラリーマン時代、いろんな上司に仕えて毎日のように怒られてました。でも、柿沢さんのような人には会わなかった。なんででしょうね?」
「私が、変わり者だからでしょう」と、私はすぐ答えた。
「いや、違いますね」と、田所さんもすぐ返した。「柿沢さん、あなたは私のことを考えてくれる。私のようなくだらない人間のことを、心配してくれる。もうすぐ土に還る、こんな私に何かしても何の見返りもないのに。私の見るところ、柿沢さんは損得勘定に興味がないようだ」
「いや、田所さん。私を買いかぶりすぎですよ」
「私が今言ったことは、後ろに座っている三人の女性が証明している。何の血縁関係もないあなたに、全幅の信頼を置いているように見える。私が生きてきた人生とは、あなたは対極の生き方をしている」
「まあ、私はただの平民ですからね。田所さんのように高貴な家柄じゃない」
「柿沢さん。あなたはさっき言いましたね。子供は生まれる場所を選べないと。
その通りだ。死を目の前にして、その事実にやっと気がつきましたよ。もっと早く、あなたと出会うべきだった。五年前でもよかった。私の人生の最後は、もっと豊かになったと思う」
「いや、このタイミングがベストだったんですよ。今だから、田所さんと私は真剣に意見を言い合える。今でよかったんです」
「あなたはそうやって、人の気持ちを楽にさせようとする。私も部下に、柿沢さんのように声をかけるべきでした。私がやってきたことは、上司から命じられた仕事を部下に押し付けて、締め切りまでに仕上げないと怒るばかりだった。私の人生は、その点では『無』でした。いや、他の点でもそうかな。『有』と言えることを、探す方が難しい」
「だからさっき、難しいことは考えるなと言ったでしょう」
「いや、柿沢さんのせいですよ」と、田所さんは言った。「あなたの言葉は、人を『日常生活』とか『一般常識』からひっぺがす力がある」
「それ、私も思った」と、後ろから直子ちゃんが口を挟んだ。彼女はずっと、私と田所さんの会話を聞いていたのだ。
「柿沢さんは、パパの幸せを考えてるんだよね。ママや私たちが、困ろうが戸惑おうが関係ない。パパの人生にとって、意味があることをしようとしてると思う」と、沙織ちゃんも言った。
「そんな大袈裟なものじゃないよ。ただ、釣りに行って浜辺で鍋を作るだけだよ」
「それが今の私にとって、巨大な意味がある」と、田所さんは言った。
「でも、真冬で申し訳ない」
「いやいや、それが結構いいんですよ」と、田所さんは笑い出した。「もう暖かい季節になるとね、海岸のいい場所は人に取られちゃんです。花見の場所取りと同じです。ベストポイントは、暖かい季節は真夜中から取られちゃう。だから、みんな寒くて来たがらない真冬の方が、競争力が低くていいんです」
「なるほど」と、釣りがまったくわからない私は感心して相槌を打った。
「港の堤防は、魚にとってちょうどいい隠れ家になってるんです。でも、魚の種類によって居場所が違うんです。今日のマアジを狙うには、堤防の最先端がベストです。港の出入り口を、小魚を探してウロウロしてるところを狙います。だから、早く着いてそこを取りたい。もしかすると、もう取られてるかもな?」
田所さんは骸骨のような顔で、そこから表情を読み取ることは不可能だった。でも言いぶりから、彼がすごく焦っているのがわかった。私は話すのをやめてスピードを上げた。
高速を降りて、保田海岸前の駐車場に到着したのは三時五十分。車は他に、二台しか停まっていなかった。しかし、その二台こそライバルである。私はまず運転席を降りると、助手席から田所さんを引っ張り降ろした。そして、彼を背中に背負って私は走った。堤防に向かって。後ろから、釣り道具と杖を持った直子ちゃんと沙織ちゃんが走ってついて来た。彼女たちも、子供の頃に場所取りの重要性を知っている。
私は田所さんを背負って、ひたすら走った。案の定、すでに堤防の先端に一人の釣り客がいた。彼の場所を邪魔せずに、ベストなポジションに田所さんを降ろさなくてはならない。
「どこ、どこ?」
「どこ、どこ?」と、直子ちゃんも聞いた。しかし先客の釣り人に迷惑をかけないよう、小声で聞いた。田所さんは、沈黙していた。私は背中にいる彼の様子は、わからなかった。しかし彼が、首を左右に振っているのは感じられた。彼は全速力で考えているのだ。真理ちゃんのために、マアジを釣るために。今は、彼が王様だ。彼は持てる知恵と経験を、総動員して考えた。
「ここでいい」
田所さんは、静かに言った。私は彼を、そっとそこに降ろした。彼は海面を、鬼気迫る形相で睨んだ。おそらくそこに、なんらかの気配が、手がかりがあるのだ。彼は無言だったが、モチベーションは申し分なかった。
椅子と、餌と、大きな網を、私と直子ちゃんは車に戻って持って来た。沙織ちゃんと奥さんが、田所さんのそばで面倒を見ていた。それから、釣りに参戦する女性陣の釣竿、そしてホッカイロも用意された。道具はOKである。
私が立って見ていると、田所さんは小さな椅子に腰掛けて素早く準備を整えた。それからひょいっと、両腕を振って釣り糸を海面に落とした。私は彼が、釣竿を投げられるのか不安だった。でも彼は全身の力をほとんど使わずに、軽々と遠くへ釣り糸を投げてみせた。杖をつかないと歩けないほど、弱っているのに。どの世界も、猛者がいる。まるで、日菜子ちゃんのダンクシュートを見るようだ。
田所さんの準備が出来ると、両隣に直子ちゃんと沙織ちゃんが陣取った。彼女たちはMy釣竿を用意していた。釣りの準備も手馴れたものだった。問題は、涼ちゃんと真理ちゃんである。私が用意したウキ釣りの釣竿を渡されても、どうしたらいいのかわからない。ここが、田所さんの出番である。真理ちゃんの釣竿をとって餌をつけ、どこに向かって投げればいいのか教えた。
「えーいっ」
もちろん、一回でうまく行くわけがない。釣り糸は、真下に落ちた。
「魚はね、港の出入り口を泳いでるんだ。だから、その場所を狙うんだよ」と、田所さんが教えてくれた。
「うーん・・・」
狙い目はわかったものの、そこまで投げることはできない。そこで、田所さんは真理ちゃんの釣り竿をとって、「ここだ」という場所に投げて見せた。あとは、ウキを睨むだけでいい。お父さんの面目躍如である。
涼ちゃんの釣竿は、直子ちゃんが投げてくれた。「ありがとう!」と涼ちゃんがお礼を言うと、直子ちゃんは心から幸福そうな笑顔を見せた。直子ちゃんのデレデレとした笑顔を見た後で、涼ちゃんを見るとものすごくカッコよく見えた。涼ちゃんはもともと、美少年顔というか中性的な顔立ちである。釣竿を受け取って、ウキを見つめる目はキリリと引き締まって凛々しい。直子ちゃんがうっとりするのも、わかる気がした。
さて、釣竿を持ってないのは、田所さんの奥さんと日菜子ちゃんと私だけになった。直子ちゃんと沙織ちゃんが、母親に無理やり釣竿を握らせた。「今日釣りしなかったら、しばらく口聞かない」とか、娘ならではの脅迫をした。奥さんは仕方なく、娘に従った。
私はもともと、この企画を考えたときから釣りをする気はなかった。私には私の仕事があった。私はみんなが釣りを始めたのを見届けて、すぐに車に戻った。そんな私に、日菜子ちゃんはついてきた。
私は車に戻ると、トランクから巨大なテントの道具を取り出した。それから、調理道具が入った袋と、バーベキュー用の1m以上もある鉄製の箱も出した。
私は片腕にテントを、もう片方にバーベキュー用の道具を抱えた。日菜子ちゃんは、調理道具の袋を持ってくれた。これだって、土鍋が入ってるので結構重い。まあ、彼女の体力なら楽勝だろうけど。
私は暗闇の中で、テントが張れるちょうどいい場所を探した。そして浜からせり出した平らな岩礁帯を見つけた。ここなら、堤防からあまり離れていなし、周りの釣り人にも迷惑をかけなそうだ。
私はまず、平らな場所の中央にオートキャンプ用の十畳以上もあるテントを張った。しかしこれは、雨が凌げるだけのタイプで、横風や寒さには全く対応できない。そのくせ部品は全部重い。私は日菜子ちゃんに、一つずつ部品の意味を説明しながらそのテントを設営した。次にまた車に戻り、折りたたみ式のキッチン用テーブルと椅子を運んだ。それらを大きなテントの下で組み立て、その隣にバーベキュー用の装置を設置した。脚を四脚広げ、中に炭火を入れていつでも焼ける準備を整えた。それからさらに、ロングタイプの大型七輪。これも大きなテントの中に持ち込んだ。
これだけでは足りない。防寒用に私は、後二つテントを用意していた。このテントは、冬季登山でも使えるタイプである。値段は高いが、軽くて湿度を遮断する。二、三人用のテントを、私は二つ設営した。テントの中には、厚さ5cmのマットを敷いた。これで、地面の冷たさも感じずに済む。全部の作業が終わるのに、三十分かかった。
最後のテントを設営して、私は中で腰を下ろした。あとは、獲物が上がってくるのを待とう。ちょっと小休止である。
日菜子ちゃんはこの作業に、全部付き合ってくれた。と言うより、私から離れて釣りをするという選択肢は彼女になかった。テントの中で一息つくと、日菜子ちゃんはすぐ、その中で私にキスをしてきた。テントの中なので、この間に増して長いキスだった。
「いい子にするよ、いい子にするよ、いい子にするよ・・・」
キスのあと、日菜子ちゃんはうわごとのようにその言葉を繰り返した。
「わかってる」と、私は答えた。彼女の気持ちの昂りを沈めるために、私はテントの中で彼女をお姫様抱っこにした。日菜子ちゃんは私の首にしがみつき、目を閉じて何も言わなくなった。私たちはそのまま、一時間くらいじっとしていた。
夜が明けてきた。五時過ぎ。日の出はまだだが、徐々にあたりが明るくなってきた。
「おんぶして」と、日菜子ちゃんが言った。
「ええっ?」
「さっきの田所さんみたいに、おんぶして」
うむむ。ますます彼女が子供に思えてきた。それとも、肌を合わせることに子供も大人もないということか。古今東西、セックスを意味あるものと大人は言う。しかしその根本は、日菜子ちゃんの「おんぶして」という言葉に凝縮されるかもしれない。つまり、赤ん坊は赤ん坊で不安で、日菜子ちゃんは日菜子ちゃんで不安で、田所さんは田所さんで不安だということだ。私はその不安を除去するために、全力を尽くすべきだと思う。
私はテントを出て、日菜子ちゃんを背中に背負った。彼女は私に、両足まで絡めて抱きついた。私は彼女のお尻の下で手を組み、彼女をぐいっと上に持ち上げた。
「コアラ、コアラ」と、日菜子ちゃんが言った。確かに私は、子供コアラを背負う親コアラみたいだな。
私は日菜子ちゃんを背負いながら、岩礁帯をゆっくり東に向かって歩いた。秒刻みで開けていく朝の光景は、それだけで見ものだった。たまらなく寒かったが、それを上回る絶景だった。目を向けた先には、ゆっくりと富士山が姿を表した。彼は、夜明けとともにコロコロと姿を変えた。まるで、パリのファッションデザイナーがモデルに次々と違う服を着せるように、あっという間に衣を変えた。
私はお洒落な富士山に見とれていると、日菜子ちゃんが「寒いいいー」と言い出した。本当に、もう。私は彼女を一度下に降ろし、着ていた例の革のハーフコートを脱いだ。そしてそれを、日菜子ちゃんに着せた。それから彼女をもう一度背負った。
日菜子ちゃんは私の耳元で、鼻唄を始めた。機嫌の良い証拠である。私は岩礁帯から砂浜に下りた。そしてゆっくり歩きながら、たまに彼女の身体を揺すって、背負い直した。
真冬の海岸は、ほとんど人がいなかった。たまにポツリポツリと、砂浜から釣り糸を垂らしている人がいた。みんな男で、しかも一人だった。彼らは糸の先をじっと睨んでいた。30才の女性を背負ってあやしている私を、誰も気にかけなかった。
砂浜を往復して戻ってくる頃には、完全に夜は開けた。しかしまだ朗報はなかった。田所さんの経験と知識とテクニックを注ぎ込んでも、夜明けという最大のチャンスに釣果はなかったようだ。なんでもそうだ。そんなに上手くはいかないさ。
私は大きなテントの中に入り、まず大型七輪に火をつけた。炭を入れ、点火する。マアジは、これで焼くこともできる。だが何よりこいつの目的は、暖を取ることである。早速日菜子ちゃんが、すぐそばに近寄って両手をかざした。
「さみーーー!」
「死ぬうううーーー!」
遠くから大声でそう叫びながら、涼ちゃんと真理ちゃんが帰ってきた。時計を見ると七時前。約三時間粘ったことになる。それだけでも、大したものだ。
「どうだった?」私はヤカンに水を入れて、七輪にかけながら聞いた。
「これ、修行だよ」と、涼ちゃんが言った。
「勉強より、つらい」と、真理ちゃんが言った。
私はアウトドア用の折りたたみ式の椅子に、みんなを座らせた。そしてコーヒーや紅茶の粉末スティックをカバンから出した。そして、それらをテーブルの上に置いた。
「あったかい飲み物は、みんなからたくさんもらったの」と涼ちゃんが言った。
「そうなの」と、真理ちゃんが言った。
「そう。そしたら俺と日菜子ちゃんだけコーヒーを飲むよ」
「誰か釣れた人はいるの?」と、日菜子ちゃんが聞いた。
「今のところ、ゼロ」と、涼ちゃんが答えた。
「でも、これからでも釣れる可能性はあるって田所さんが言ってた」と、真理ちゃんが言った。
「そうなんだ。なら、まだ期待してていいね」と、私は言った。
一時間くらい休んだ後、涼ちゃんと真理ちゃんは釣りに戻ると言い出した。私も日菜子ちゃんも現場に行ってみることにした。
もう完全に陽は昇り朝になっていた。波は穏やかで、空気は澄み切っていた。顔を上げれば、三浦半島が目の前に見えた。しかし釣り人たちは、目の前に広がる景色など無視した。ひたすら海面を凝視し、わずかな変化も見逃すまいと張り詰めていた。
「いかがですか?」
私は田所さんの横へ行ってたずねた。
「アタリは何度かあったんです。だから狙いどころは間違いない。あとは奴が本気で食いついた瞬間に合わせるだけです」
彼はまだ闘志満々だった。直子ちゃん、沙織ちゃん、そして奥さんを見ると、彼女たちはさすがに疲労の色が濃かった。しかし今日ばかりは、お父さんに付き合う気なのだろう。
涼ちゃんと真理ちゃんが、再び防波堤に腰を下ろした。するとすかさず、直子ちゃんと沙織ちゃんが立ち上がった。直子ちゃんは涼ちゃんに、沙織ちゃんは真理ちゃんに歩み寄り、すぐそばに腰を下ろした。餌を代わりにつけてやり、釣竿を投げてくれた。二人とも、涼ちゃんと真理ちゃんに好かれたくてしょうがないようだ。
「田所さん、私は鍋の準備を始めます。釣れた魚は、鍋に入れても焼いて食べてもいいよう準備しておきます」
「わかりました」と田所さんは答えたが、海面から目を離さなかった。
私は田所さんの奥さんにも、鍋の用意をしてますと断った。
「ありがとう」と、田所さんの奥さんは言ってくれた。彼女の表情は柔らかかった。そのありがとうという言葉は、鍋の準備以外にも向けられている気がした。気のせいかもしれないけれど。
さて私と日菜子ちゃんは、大きなテントに戻った。カスバーナーを二つ点火し、二つの土鍋に昆布だしの鍋用スープをたっぷり注いだ。それをバーナーにかけた。さらに大きな昆布を鍋に入れて蓋をした。あとはゆっくり煮ればいい。
私と日菜子ちゃんは、テーブルの上にまな板を置いて鍋の具を切った。白菜、ネギ、人参、春菊、豆腐、えのき茸、しらたき・・・。煮立ったら、まず白菜の芯だけ入れる。白菜の出汁が、また美味しい。
さて刻んだ具材をボウルに二つに分けて入れ、あとは魚を待つばかりである。実は私は、鱈もたくさん買ってきていた。しばらく待ってから、二つの鍋とも鱈の切り身を一切れ入れた。これで、味がさらに整う。
「静かだね」と、日菜子ちゃんが言った。「こんなにのんびりするのって、久々な気がする」
「そうだね。ここんとこ、俺の授業ばっかりだったから」
「ううん、そうじゃなくて」と、日菜子ちゃんは言った。「私は子供の頃から、のんびりした記憶がないの。バスケはもちろんだけど、勉強も小さい頃からものすごくしてたから。大学も教員免許取るために、勉強ばっかりしてた」
「就職してからは?」
「そうだね。就職してからは、だいぶゆとりができた。でも、私の気持ちがゆっくりできなかった」
それは彼女が、孤独な二十代を送ってしまったからだろう。彼女の周りには、いつもたくさんの人がいただろうに。彼女は心を閉ざし、気の休まることはなかった。
「今は、ゆっくりしていいよ」と私は言った。
「うふふふ」
日菜子ちゃんは折りたたみ椅子を持ち上げて、私のそばまで来た。私のすぐ横に椅子を設置して、私に寄りかかった。
一時間ほどして、田所一家と涼ちゃん、真理ちゃんがそろってテントに現れた。直子ちゃんが、弾けそうな笑顔をしていた。
「拓ちゃん、大物だよ」と、涼ちゃんが言った。
「直子ちゃんが釣ったの。すごい大きさだよ」と、真理ちゃんが言った。
沙織ちゃんが、抱えていたクーラーボックスをテーブルにのせ、フタを開いた。すると中から、50cm以上ある巨大魚が現れた。
「でっけえ」私は思わず、感嘆の声を上げた。
「すご〜い」と、日菜子ちゃんも言った。
「いやあ、今日は娘に完敗ですよ」と、田所さんは言った。でもその話ぶりは、とても愉快そうだった。自分が釣れなくても、一家で大物を釣れればいいじゃないか、ということだ。
「田所さん。こんな大きな魚、とても鍋に入りませんよ」と私は言った。
「任せてください。私がサバきますから」
そう言って、彼は鞄から自前の包丁を出した。直子ちゃんと沙織ちゃんが、大魚をまな板の上に乗せた。まずウロコを剥がし、頭を落とし、腹を裂いて内臓を取った。直子ちゃんに水をかけてもらって、腹の内部を綺麗に洗った。それから、大魚を少しずつ小さな切り身に分けていった。
「これ、この人数でも食べきれないね」と、私は言った。
「みんなで分けて、持って帰りましょう。明日家で焼いてもいいし」と、直子ちゃんが言った。
「そうだね」
さて切り身の一部を、早速二つの鍋に入れた。もう一度煮立ったら、用意した具をどんどん投入。直子ちゃんと沙織ちゃんは、缶ビールを用意した。彼女たちは私に、ノンアルコールビールをくれた。
「では、直子ちゃんの釣った大物に乾杯!」と、私は乾杯の音頭を取った。
「直子に!」と、田所さんが大声で言った。
みんなが直子ちゃんに拍手した。直子ちゃんは照れ臭そうにしながら、缶ビールをぐいぐい飲んだ。
「しかし、あんな大物よく釣り上げたね」と、私は感心しながら聞いた。
「そりゃ、もう。一発目の引きから、ものすごかった。かかってから釣り上げるまで、十分かかった」と、直子ちゃんが答えた。
「拓ちゃん、すごかったんだよ」と、涼ちゃんが言った。
「直子ちゃん、ひいひい苦しそうに叫んで、まるで拷問だった」と、真理ちゃんが説明した。
「こいつが抵抗しまくって、なかなかへばらないの。それに強く引きすぎるとアジ用の細い糸が切れちゃから、ある程度緩めて流した。そしてこいつの体力が尽きるのを待った。そして、『もう、そろそろだろう』というところで、リールを巻いて引き寄せたの。そしたらこいつ、最後の力で逃げようとして。もう、糸が切れんじゃないかと不安でいっぱいだった」
「もう直子ちゃん、体力の限界だなと思って私が加勢したの。二人掛かりで竿を上げて、やっと足元まで引き寄せて。そしたら隣のおじさんが、網ですくってくれた」と、沙織ちゃんが言った。
沙織ちゃんはiPadを出して、魚を抱いた直子ちゃんの写真を見せてくれた。彼女の表情は笑いよりも、深い疲労の方が目立った。
次の写真は、田所さんがその魚を抱えていた。自分の獲物ではないので、彼は少し恥ずかしそうだった。その隣に、奥さんがいた。娘たちが並ばせたのかもしれない。でも、どんな理由があってもいい。この写真には、大きな意味がある。
「この魚との戦いに、意味があるんですよ。十分間の中に語り尽くせないほどの、ストーリーがいくつもあるんです」と、田所さんが私に言った。
「なるほど。そうなんですね」
私と日菜子ちゃんは、用意した丼をみんなに配った。鍋にはオタマを入れた。みんな一斉に鍋へ箸を伸ばした。寒いから温まりたいのだろう。でも誰も、私が用意した二つのテントには移らなかった。気温はどんどん上昇していたし、この八人が作った輪から外れたくないという雰囲気があった。直子ちゃんは、釣りの過程をもう一度再現していた。
「もうね、かかった瞬間の手応えでね。私には無理って思ったの。実は」
「直子ちゃん、最初に悲鳴あげたもんね」と、涼ちゃんが教えてくれた。
「何事かと思った」と、真理ちゃんが言った。
「だけどパパが、『粘れ、粘れ』って言うから。一生懸命我慢したの」
「そりゃもう、こりゃ大物だと思ったからね。諦められないよ」と、田所さんが言った。
釣り好きな人たちは、こうやって釣り上げた思い出話をいつまでも続けるのだろう。それに酒が加われば最高だ。直子ちゃんは、もう焼酎のロックに切り替えていた。
いつのまにか、田所さんの奥さんが私の隣に来ていた。反対側には、日菜子ちゃんがいた。
「柿沢さん。あなたのおっしゃることが、やっと理解できました」と彼女は言った。
「はい?」
「あなたは、真理ちゃんのことだけでなく、私たち一家のことも見つめ直せとおっしゃってるのですね」
「いえ、そんな大それたことは考えてませんよ」と、私は答えた。
「核心に迫ると、あなたはすっとごまかして逃げる。そういう方なんですね」と、田所さんの奥さんは言った。「でもあなたの言葉は、心に残る・・・」
「いえ、そんなつもりではないです」
「ふざけないで、真面目に答えてください!」田所さんの奥さんは、本気で怒った。確かに、照れ隠しのごまかしは不要なようだ。
「わかりました」と、私は答えた。「奥さんも田所さんも、由緒正しい家柄だとお聞きしました。でも朝お話しした通り、それはあなたや田所さんが選んだことじゃない。『人は何の理由もなく、ある家に生まれるんです』。高貴な生まれとは、自慢にもなりますがつらいことも多いでしょう。私は平民だから、気楽なもんです」
「そうですね」と、田所さんの奥さんは答えて視線を海へ向けた。そしてしばらく黙考した。
「私は自分に与えられた全ての条件を、今日まで疑問なく受け入れてきました。両親に、それは厳しく躾けられましたし。私の一番重要な判断基準は、『家の名誉』だったんです。
でもそれは、間違いだった気がします。今日はそんな風に考えてます」
「奥さん。一つお願いがあります」と、私は彼女に言った。
「はい、なんでしょう?」
「直子ちゃんと沙織ちゃんは、いつか結婚したい男を家に連れて来るでしょう。そのとき、彼女たちの恋心を尊重してくれませんか?育ちが良くない男でも、結婚を認めてあげてくれませんか?」
「厳しい依頼ですね。私にできるかしら?」と言って、田所さんの奥さんは笑った。「でも柿沢さんは私に。そうするべきだとおっしゃるのね」
「はい」
「私の周りを、口うるさい親戚たちが取り囲んでいます。些細なことでも、家に介入してきます。本当に、面倒なんです」
「今は、真理ちゃんのことでご苦労されてるでしょう」
「本当ですよ!」と田所さんの奥さんは、私に顔を向けて目を見開いた。でも、表情は穏やかなままだった。彼女は真理ちゃんのことを、もう怒ってはいなかった。「今日ここに来て、本当に良かったです。こんなに楽しい気分は、遠い昔まで遡っても記憶にないです」
直子ちゃんはまだ、魚を釣り上げたときの話をしていた。これは、いくら続けても飽きないのだ。彼女は焼酎のロックを片手に、さらにエンジンの回転数が上がっていた。
私は穏やかな海へ、目を向けた。今日の海は、本当に静かだ。朝方吹いていた冷たい風は、いつのまにか止んでいた。この雰囲気を継続することだ。一日でも長く。
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