第37話 二次試験

精神的にハードな一日の後、私は目覚ましで5時半に起きた。日菜子ちゃんの腕を解いて布団から出、私はまずサンドウィッチ作りを開始した。フライパンにたっぷり注いだ油を火にかけながら、隣の小さな鍋で卵を三個茹でた。火を使いながら、まな板の上で野菜を小さくカットした。刻み終えた野菜は、用意した大きなボウルに次々と放り込んでいく。もう慣れたものだ。

日菜子ちゃんが起きてきた。パジャマを着て、半分眠った顔でキッチンに現れた。

「まだ、寝てていいよ」と私は彼女に言った。しかし返ってきた答えは、「寒いいいい〜」だった。火元から離れたくなかったので、私は自分の着ていた厚手のセーターを脱いだ。そして、日菜子ちゃんにそれを着せた。寝ぼけている彼女は、自分でセーターを着れなかった。私は彼女の頭にセーターの首を通し、両腕にもそれを通して着せた。いやはや、まったく。

私はカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、ポットでお湯を入れてかき混ぜた。キッチンに小さな椅子を置いてそれに日菜子ちゃんを座らせ、コーヒーカップを手に握らせた。彼女はコーヒーを無言でチビチビ飲んだ。まだ目が覚めないようだ。私は彼女に背を向けて、温まった油でロースカツを揚げた。適量出来上がると、今度は鶏のもも肉も揚げた。そうしながら、卵の火を消した。ちょっぴり半熟が理想だ。

日菜子ちゃんの意気込みは理解していた。彼女は私の手伝いがしたいのだ。しかし、眠気はいかんともしがたい。コーヒーカップを片手にまぶたをほぼ閉じ、口を少し開けて呆けた表情の彼女は、言い難いほど愛らしかった。とても高校の先生ではない。普通の、小さな女の子だ。

私は玉子の殻をむき、それを庖丁で細かくカットした。さらにそれを小さなボウルに入れてすり潰した。同時にオーブントースターのスイッチを入れ、軽くそれを温めた。

日菜子ちゃんが、ようやく立ち上がった。

「私も、手伝う・・・」

申し出はありがたいが、寝ぼけ眼では火も庖丁も無理だ。私は彼女にパンを焼く仕事をお願いした。八枚切りの食パンを1分ずつ焼くのだ。焼きあがったら、バターを薄く塗っていく。私はその間に、キャベツを少量千切りにした。ロースカツのためだ。

さて、日菜子ちゃんが焼いてくれたパンに具を挟んでいく。それぞれに野菜をたっぷり入れ、ものによってはマヨネーズやマスタードやソースも少量かける。上から別のパンを重ねて、斜めにカット。出来上がったサンドウィッチを、日菜子ちゃんと一個ずつラッピングする。そして最後に、近所のパン屋でもらった茶色い紙袋に丁寧に詰める。最後に涼ちゃんの袋にプリンを、真理ちゃんの袋にブルーベリー味のヨーグルトを入れ、忘れずスプーンも入れた。二人の好みに合わせた。真理ちゃんの袋には、10枚入りのウェットティッシュも入れた。彼女は必ず、涼ちゃんに渡してくれる。これで完成だ。時計を見ると、6時半だった。たっぷり一時間かかった。

余ったサンドウィッチを日菜子ちゃんと食べた。玉子サンドとハムサンドだ。

「美味しい!」

日菜子ちゃんはやっと、両目をしっかり開いた。食欲が満たされて、目が覚めたようだ。まだ若いからかな?

五分くらい休んだら、今度は朝食だ。いや、毎日のことながらキツいぜ。昼がパンなら、朝は和風だ。目の覚めた日菜子ちゃんに、大根と野沢菜の味噌汁を作ってもらい、私はカジキマグロの醤油炒めを作った。そしてお新香の盛り合わせと、ぬか漬けの胡瓜を別に用意した。胡瓜を一口大にカットして、四つの皿に分ける。見上げると、時計は7時を指していた。

涼ちゃんも真理ちゃんも起きてこない。試験当日に、大した度胸だ。二人を起こしに部屋に入ると、涼ちゃんと真理ちゃんは抱き合ってぐっすり寝ていた。本当に、もう。

私は二人の肩を同時に揺すって、無理矢理起こした。むぐむぐ言って起き上がる二人を部屋に残して、私はキッチンに戻った。

「日菜子ちゃん、ご飯をよそってくれる?」

私は彼女に茶碗を四つ手渡し、自分は煎茶を四つの湯呑みに注いだ。寝巻きの上にカーディガンやセーターを着た二人が、ダイニングルームに現れる。髪はボサボサ。そしてたいてい、機嫌が良くない。これが我が家の、平均的な朝の風景だ。

朝食の後が大変だ。女性が三人いるのに、洗面台はひとつだからだ。私は一足先に食事を済ませ、急いで顔を洗ってヒゲを剃っておく。うっかり女性陣の後になったら、遅刻しかねない。食事を終えた女性たちは、順番に洗面台へ行く。暗黙の了解で、涼ちゃん、真理ちゃん、日菜子ちゃんの順と決まっていた。時間が短い順である。

涼ちゃんは、髪型にあまりこだわらない。たいてい首の後ろで、髪を縛ってしまう。真理ちゃんは、そうはいかない。テープを手に入れる前の厚化粧はしなくなったが、長い髪に時間をかけてウェーブをかける。彼女がその出来栄えに納得してくれるまで、相当の時間がかかる。最後が日菜子ちゃんだ。彼女はショートカットの髪をほとんど自然のままにしていたが、その代わり、大人の女性らしく大量の化粧品を持ち込んだ。鞄に十数本の正体不明のボトルを入れて、日菜子ちゃんは洗面台に入る。しかし、これはキリのない作業だと思う。

まるでバスケットボールを、五人ではなく十五人でするようなものだ。パスコースは増え、戦術は複雑化し、一人一人の役割分担も増える。その結果、様々な攻め方が生まれて毎日どの手で行くか迷うんじゃないだろうか?それが化粧だと、言ってしまえばそれまでだが。

「日菜子ちゃーん、そろそろ出かけるよ」

私が声をかけると、日菜子ちゃんはやっと出てきた。やはり、真っ赤なルージュを彼女は選んだ。これで、一次試験を突破したんだ。今日もこれに賭けよう。

私は昨日買った服を、全部着た。自分じゃないみたいだ。マフラーはまた、真理ちゃんに結んでもらった。さて、出発だ。

「拓ちゃん、新しいブーツはまだ自分の足に馴染まないから、あちこち当たって痛いからね」と、涼ちゃんが教えてくれた。

「OK。必ずどこか痛くなるんだね」


行きの電車では、誰も話さなかった。涼ちゃんと真理ちゃんは私を挟んで座り、それぞれ自分が書いたノートを読み返していた。手は繋がなかったが、その代わりに自分の肩から脇腹、太ももまでを私にぴったりくっつけた。そうすることで、不安を和らげているのだろう。まるでお母さんと肌が触れ合うことで安心する、赤ちゃんみたいだ。日菜子ちゃんはその隣で、神妙な面持ちをしていた。受験生を気遣う、担任の先生に戻っていた。

茗荷谷を降りて、大学へ向かう。この街は、もう何度目だっけ?一般入試と違い、道を行く人はまばらだった。今日は、一次を通った人しか来ていない。さらに合格者は、せいぜい二、三人だろう。とんでもない狭き門だ。

校門に着くと、まず涼ちゃんが私に抱きついて頬にキスした。

「頑張ってくるね。応援してて」

涼ちゃんは、少し涙目でそう言った。昨日の自信と気合いは、案の定消えていた。

「背伸びすんなよ。自分がしっかり理解できていることだけ、書くこと。うろ覚えの知識は、先生にすぐばれるからね」

「わかったあ」

次に真理ちゃんが私に飛びついた。彼女は腕だけでなく、両足も私の腰に絡ませた。そして涼ちゃんの真似をして、私の頬にキスをした。

「私も拓ちゃんから習ったこと、100%出すよ」

「考え過ぎちゃダメだよ。いっぱい書かなくていい。その代わり、短い文章を何度も考えて読みやすいものにしてね」

「うんっ」

二人は校門から校舎に向かって、ほとんど駆けていった。はあ。私は猛烈な焦燥感に襲われた。今日も一日、こいつと付き合わないといけない。

私は、日菜子ちゃんと校門に残された。振り返って彼女を見ると、表情は高校教師から少女に変身していた。彼女は輝くような微笑みを浮かべていた。堪えても、笑いがこみ上げてしまうようだった。

 日菜子ちゃんは当たり前のように、私の手を握った。私にとって今日は、涼ちゃんと真理ちゃんの二次試験の日だ。だが日菜子ちゃんにとっては、大切なデートの日だった。

もちろん私は、ちっともいい男ではない。いわゆる魅力ある中年男性とは、かけ離れている。真理ちゃんのお母さんがいつも指摘する通り、パッとしない中年男だ。ではなぜ、私を囲む女性たちは、私に最上の笑顔を見せるのだろうか?これには、単純な理由がある。

まず第一に、私が彼女たちを守るからだ。守るといっても、暴力で守ればいいわけじゃない。世間でいろんな難癖をつけてくるやつに、勝てないといけない。これは頭を使わないとできない。第二に、私は彼女たちの悩みを解き、事態を改善するからだ。彼女たちの話を深いところで理解し、私は今できる最善の策を立てて実行しなくてはならない。それができるには、やはり散々勉強して頭が良くなるしかない。そして頭を抱えて、懊悩するしかない。その結果で、彼女たちは私を判断する。

加えて、断っておくべきことがある。私が一回、判断ミスを犯したとする。彼女たちを取り巻く状況を、悪化させてしまったとする。すると彼女たちは言うだろう。私に「裏切られた」と。これまでの積み重ねは雲散霧消する。つまり、一度のミスも許されない。過酷な綱渡りである。


「また、バスケやっていい?」と日菜子ちゃんは言った。

「いいよ。今から?」

「うん。ちょうど朝から、練習してるから」

つまり日菜子ちゃんは、最初から母校に行くつもりだったようだ。もちろん私に、反対する理由はない。私は茗荷谷から散歩がてら、早稲田大学へ向かった。

昨夜のことがあるだけに、私は歩きながらエリちゃんのことを思った。バスケで活躍する、日菜子ちゃんを追った彼女の半生を。それは喜びとともに、激しい痛みを伴ったはずだ。同時に彼女は、何人かの女性と付き合ったことだろう。しかし残念ながらその誰も、日菜子ちゃんを上回らなかったのだろう。恋愛とは難しい。

早稲田大学まで歩く間、日菜子ちゃんはほとんど話さなかった。だがいつものように、ずっと鼻歌を歌っていた。彼女はとても機嫌がよかった。悪いことではないけれど、彼女は私のようにエリちゃんのことを思ったりしないようだ。彼女は目の前にある幸福に満足していた。私にはそれが、荷が重かった。

前回と同じく大学の受付で許可証をもらい、私たちは真っ直ぐ体育館に向かった。ズラリと並んだ体育館の中で、今日は手前から三番目を女子バスケットボール部は使用していた。数ある運動部で、体育館を取り合っているのだろう。

 時計を見ると、十時ぴったりだった。試験開始の時間だ。涼ちゃんと真理ちゃんが問題用紙を開く様子が、頭に浮かんだ。さて、どんな問題だったのだろう?

靴を脱いで体育館へ入った。すると前回とは違って、年配の女性が笑顔で入り口に立っていた。彼女は手を広げて、私たちを出迎えてくれた。

「柿沢さん、それから日菜子。よく来て下さいました」

一年生らしい女の子が、パイプ椅子を二つ運んで来て壁側で組み立てた。年配の女性が、私にそこに座るよう促した。私がそのひとつに腰掛けると、年配の女性は私の隣に座った。日菜子ちゃんはいつのまにか、どこかにいなくなってしまった。

「横路(よこみち)と申します。この部の監督を、二十年しております」

そう彼女は、私に自己紹介した。やはり彼女は監督だった。今日は事前に、日菜子ちゃんが私と来ると説明していたようだ。横路監督も部員たちも、私を前回のように変質者扱いしなかった。

「柿沢と申します。この間は突然お邪魔して大変失礼しました」

「とんでもないです」と、横路監督は片手を大きく左右に振って言った。「是非ご都合の合う時は、日菜子を連れて来て下さいませんか?もう、部員全員の刺激になるんです。前回来ていただいたときも、しばらく部全体の興奮が収まりませんでした」

「私はバスケットボールは門外漢なので理解が至らないのですが、日菜子ちゃんは相当上手いんですね」

「それはもう。彼女は私が指導してきた中で一番です」と、横路監督は言った。やっぱり相当なようだ。

「私は、野球とサッカーならわかります。日菜子ちゃんのプレースタイルは、サッカーに例えるとわかりやすいですね」

「へえ、それはどんな解釈ですか?」と横路監督は、興味深そうに身を少し私に寄せた。

「まずカウンター、速攻がある。日菜子ちゃんは持ち前のスピードを存分に活かす。次に遅攻。日菜子ちゃんは完全に敷かれた防御を、チームの仲間と協力して崩す。サッカーには、マリーシアという言葉があります。良い意味で、ずる賢いということです。日菜子ちゃんは、敵チームを欺くアイデアが豊富だ。そして自分で点も取るけど、チームの仲間にも点を取らせるのが上手いですね」

「おっしゃる通りです。彼女自身のテクニックも一流ですが、周りを活かすプレーもできるんです」

私はここで、気になっていたことを横路監督に聞いてみた。

「日菜子ちゃんは、学生時代に部の中でとくに親しい友人はいましたか?」

すぐに横路監督は、苦虫を噛み潰したような表情を見せた。

「柿沢さん、さすが日菜子をよく見られてますね」と、彼女は言った。「日菜子は在学中、部内で友人を作らなかったと思います。私は彼女に、日常でチームメイトとコミュニケーションを取ることの大切さを説きました。何度もです。しかし彼女はいつも、私の言っていることが理解できないという顔をしていました」

それは多分、エリちゃんのせいだろう。彼女はエリちゃんから逃げて大学に入った。日菜子ちゃんは、その罪悪感をずっと背負っていた。エリちゃんを避けていながら他に友人を作ることは、彼女にはできなかったのだ。でも大学時代の日菜子ちゃんは、この理由を明確に意識できてはいなかったろう。彼女は知らず知らずのうちに、人と関わることから逃げていたのだ。

その上、一年生から付き合った男のせいもある。彼はどうやら、日菜子ちゃんを全身ごと包むような力を持っていなかった。そのせいで、日菜子ちゃんはしょっちゅうエリちゃんを思い出し、そのたび自己嫌悪に襲われた。この状態では、自分のことで手一杯だろう。

「私は日菜子ちゃんの、学生時代の気持ちが理解できる気がします。プライベートなことなので内容は伏せますが、多分、人と関わることに困難を覚えていたのではないかと思います」

「そうですか・・・。柿沢さんは日菜子が、チームに溶け込めなかった理由をご存知なのですね。私には、四年間かけてもわからなかった・・・」

 横路監督は深いため息をついて、足元へ視線を落とした。気落ちした彼女の気分を紛らすために、私は話題を少し変えた。

「監督、長い指導者生活の中では、日菜子ちゃんに限らず唯我独尊のエースっているじゃないですか。そういうタイプには、どう指導されていたんですか?」

「そういうタイプには、まずリーダー役をやらせますね。キャプテンはもちろん、学年ごとのリーダーを任せます。そうすることで、全員の和を保つことの難しさを教えます。強豪高校のエースで天狗になっているタイプは、こうやって鼻を折ってやるんです。

でも日菜子には、その役はとても無理だと思いました。下手に任せたら、チームがバラバラになり兼ねないと思いました」

「それで良かったんだと思います。大学の頃の日菜子ちゃんにリーダーを任せていたら、チームだけでなく日菜子ちゃん自身も壊れたかもしれない」

「あの頃の日菜子は、そこまでひどかったんですか?」と、横路監督は驚いて私に聞いた。

「はい。みかけはおっとりしてマイペースで、悩みなんて何もないような笑顔を見せる。でも中身はそうじゃなかったんです」

 そこで私は、また話題を変えた。

「大学時代の日菜子ちゃんは、後輩を指導していましたか?」

「いいえ。彼女は教えることにまったく興味を示しませんでした。教員を目指して勉強していたのに。私には、それも謎でした」

「やっぱり」と、私は短く答えた。

日菜子ちゃんが今日は、ユニフォームに着替えて現れた。現役選手から借りたのだろう。ユニフォームの胸に、「野口」と小さく刺繍があるのに気がついた。私はゆっくり立ち上がった。

「横路監督。私に20分、時間をいただけませんか?」と私は言った。

「へ?構いませんが、どうされるつもりですか?」

「日菜子ちゃんに、リーダーになることを教えます」

私は、コートに今にも入ろうとしている日菜子ちゃんに声をかけた。

「日菜子ちゃん、今日はミニゲームではなくてパターン練習をしよう」

「えっ、何するの?」

「ほら、昨日エリちゃん家で見たじゃん。ゴール下でボールが膠着したときに、それを破る練習をしよう」

私は横路監督に頼んで、一年生から9人選抜してもらった。オフェンスが四人、ディフェンスが五人。日菜子ちゃんの指示で、みんながコート半分のあちこちにポジションを取った。

私は小声で、「日菜子ちゃん、昨日のあれやって」と頼んだ。

「あれって?」

「パスする振りして、シュートするやつ」

「うん、わかった」

日菜子ちゃんはゴール下にポジションを取ると、大声で「はい、スタート!」と叫んだ。そして、二、三回ボールを足元でバウンドさせた後、パスする振りをしてゴール下に潜り込み、簡単にシュートを決めた。

可哀想な一年生たちは、誰もついてこれなかった。日菜子ちゃんのスピードも速いが、パスと騙された影響の方が大きかった。ゴール前のディフェンス役は、完全に棒立ちだった。

「ストップ。オフェンスチーム集まって」と私は大きな声で言った。日菜子ちゃんとオフェンスの四人は、走って私のところに来てくれた。私は小声で指示を出した。

「さあ、今の一発で、ディフェンスの注意は日菜子ちゃんに集中してる。その裏をかいて、日菜子ちゃんは君たちにパスを出す。ゴールを決めるのは君たちだ」と私は、集まった四人の一年生に言った。

「日菜子ちゃん、ゴール下からパスを出す攻撃パターンを三つくらい指示して。それを選んで攻撃して」

日菜子ちゃんは専門用語を沢山使って、彼女たちに指示した。十五秒くらいで事前打ち合わせは終わり、日菜子ちゃんたちはコートに散った。

「ディフェンスのみんな、オフェンス側はフリーで攻めてくるからね。どんなパターンでも止めるんだよ」と私は、ディフェンスチームに向かって叫んだ。

「はい、スタート!」と、日菜子ちゃんが叫んだ。声に張りがあった。彼女も乗っているようだ。スタートしてすぐに、オフェンス側が二人同時に動き出した。ディフェンスは慌ててそれについていく。でも、日菜子ちゃんはボールをキープしたままだ。日菜子ちゃんが単独シュートの可能性もある。そう見せかけて、ゴール下にたどり着いた味方に日菜子ちゃんはワンバウンドのパスを出した。しかし彼女はパスを取り損ねてしまった。

「はーい、ストップ」と私は大声で叫んだ。「日菜子ちゃん、今の攻守両方で気がついたことを言って」

「あなたね、私のパスを取れなかったのは・・・」と、日菜子ちゃんは言いかけた。

「日菜子ちゃん!相手のことは名前で呼んで!」と、私は少し強い口調で言った。

「山口さん」と、日菜子ちゃんは胸の刺繍を読みながら声をかけた。「パスを受ける自分をイメージして。走りこむスピードを緩めずに、先に起こることを読んで・・・」

「それから、平田さん」と日菜子ちゃんは、山口さんをディフェンスしていた女の子にも声をかけた。「今みたいに、簡単に振り切られてはダメ。山口さんの動きは当然あり得る動きだから。思いつく動きを全部頭に浮かべて。そしてその全部に対応する動きを準備しておいて・・・」

ひとしきり説明を終えると、日菜子ちゃんはゴール下の戻り「はい、スタート!」とまた大声で言った。またオフェンスの二人が動き出す。日菜子ちゃんは、山口さんをはっきりと見ていた。見ておいて、反対側のもう一人の一年生にパスした。ノールックパスである。パスされた女の子は、ボールをしっかり受け取った。しかし緊張のせいか、パスを受ける時点で明らかにスピードダウンしてしまった。彼女はシュートしたが見事にブロックされ、ボールは敵チームに移ってしまった。

「はーい、ストップ」と私は言って、日菜子ちゃんを手招きした。そして小声で、「全員のプレーの中で悪いところを指摘するだけじゃなく、いいところは褒めて上げて」

「うん」

 日菜子ちゃんはゴール下に戻ると、まずディフェンスの二人に声をかけた。

「まず、高松さん。いいブロックだったよ。今の反応を忘れないで・・・」

「日下さん、ナイスリバウンドだよ・・・」

「さあ、出来るまで続けるよ」と私は大声で叫んで、みんなを煽るようにパンパンと手を叩いた。練習は続いた。しかし、なかなかゴールは決まらなかった。よく見ていると、その最大の理由は日菜子ちゃんのパスの難しさにあった。さっきのノールックパスもそうだし、テンポも難しい。日菜子ちゃんの動作から考えて、このタイミングでボールがくるという予想と、実際が少しズレているのだ。

誰でも日菜子ちゃんの両腕の動きや、踏み出した足の向きや力加減でパスを頭に描く。速いのか、ゆっくりなのか。ストレートなのか、山なりなのか、ワンバウンドなのか。日菜子ちゃんのパスは、その予想をことごとく裏切るのだ。

だから一年生は、パスを受け取るだけで精一杯だった。でも日菜子ちゃんは、敵の裏をかくためにそんなパスを出しているのだ。それはある意味、楽器のソロ演奏に似ている。

一年生にとって、これは超えねばならない試練である。わかりきったパスを出したら、敵にカットされる。日菜子ちゃんクラスのパスを受け取れなければ、レギュラーの道は遠い。私はゆっくり歩いて、横路監督の隣に戻った。

「すみません。大切な練習時間を余計なことで潰してしまって」と、私は彼女に謝った。

「とんでもない。一年生には、すごくいい勉強になります。続けさせてください」

彼女は三、四年生に、ランニングと筋力トレーニングを課して外に出してしまった。20分経ったところで、横路監督は一、二年生の中からオフェンスとディフェンスの九人を入れ替えた。日菜子ちゃんはビシビシと指導し、長所もみつけるたびに指摘した。

「もう流れは作ったので、ほっといて大丈夫ですよ」と私は言った。

「日菜子のあんな姿、記憶にないです」と、横路監督は少し驚いたように言った。「あんなに後輩に熱心に教える、日菜子を初めて見ました。あなたが指示したんですか?」

「私もサラリーマンの管理職ですから。叱って規律を守らせること、褒めてやる気を出させる方法を知ってます。さっきそれを少し、日菜子ちゃんに教えただけですよ」

「でも、そんなタイプじゃなかったんですよ」と、まだ横路監督は納得できない様子で言った。

 日菜子ちゃんはそんなタイプじゃなかったと彼女は言うが、その評価は学生時代の日菜子ちゃんに対して酷だろう。誰だって頭が割れそうな悩みを抱えたら、そこから脱出する方法を探るだけで精一杯だ。とても、周りの人に気を配る余裕はない。やはり横路監督は、日菜子ちゃんの心に住む闇に気づかなかったのだろう。

「大人になったせいもありますが、今の彼女は精神的に安定してるんです。だから彼女は、初めてのことに挑戦できてるんです」

「それは、あなたがいるからですか?」

「いやあ、それはどうでしょう?」と私はトボけた。

 私のせいではない。私の家のせいだ。涼ちゃんと真理ちゃんがいて、私と暮らしている。その中に彼女は入り、居ついてしまった。そこに安らぎがあったからだ。これは、一人ではできないと思う。暖かい空間があり、みんなが思い思いのことを言う。でも、全体の調和は守られている。これを維持することだ。全精力をかけて。私は船の錨みたいなもんだ。みんなが好き勝手に喋っても、私はその重心を支えて、外れないよう見張るのだ。

 時計を見ると、十一時を過ぎていた。涼ちゃんと真理ちゃんは頭を抱えて、問題と格闘しているだろう。頑張れ。私は祈った。それしかできない。

 コートに入る選手は、20分交代で横路監督がどんどん変えた。日菜子ちゃんは、ゴール下でパスを出すだけなので余裕だった。でも20分間走り回った部員たちは、息を切らしてヘトヘトだった。

 ほぼ全ての一、二年生は、変幻自在な日菜子ちゃんのパスに対応できなかった。ディフェンス側だった人も、オフェンス側に回ったときにその難しさを思い知ることになった。ほんと、面白いもんである。目の前で散々見たんだから、見様見真似でできるだろうと言いたいところだ。だが、実際やってみるとできない。日菜子ちゃんが、「何千回も繰り返して覚えた」とよく言うのがわかる気がした。これは厳しい。

 一人だけ、鮮やかにゴールを決めた女の子がいた。紀藤さんと言う人だ。彼女は日菜子ちゃんの難しいパスをさらりと受け、ディフェンスを交わしてゴールを決めた。すると、日菜子先生は厳しい。次の回で彼女は、もっと難しいパスを紀藤さんに出した。ギリギリまでボールをキープし、紀藤さんがボール下まで全速力で走りこんだところで猛スピードのワンバウンドパスを出した。

 すると紀藤さんも大したものだ。受け取ったパスを、もう一度ワンバウンドで日菜子ちゃんに返した。日菜子ちゃんは即座に反応した。ディフェンスに切り込んでシュートする姿勢を見せ、打つ瞬間で紀藤さんにまたパスを返した。彼女はノーマークで楽々とシュートを決めた。

私は立ち上がり、ゴール下の日菜子ちゃんへ駆け寄った。そして彼女に、小声で言った。

「紀藤さんばかり、パスしちゃダメだよ」

「うん、わかったあ」

「日菜子に何を伝えたんですか?」

私が椅子に戻ると、横路監督が聞いてきた。

「紀藤さんにばかりパスするなと、言ってきたんです。みんなの練習になりませんからね」

「驚きです。現役の頃の日菜子は、私の指示なんてほとんど聞きませんでしたから」

「本当ですか?」

監督の指示を聞かないなんて、いいことじゃない。しかし学生時代の日菜子ちゃんは、それほど混乱し、ある種の人間不信に陥っていたということか。だから実業団の誘いも、全て断ったのかもしれない。もしかしたら、オリンピックにだって出れたかもしれないのに。私はあらためて、彼女が当時抱いていた苦悩を思った。

「しかし紀藤さん、すごいですね」と、私は横路監督に言った。

「わかりますか?彼女は、うちの次のエース候補なんです」

「今のパス交換でわかりますよ」

「バスケを知らない柿沢さんでも、わかるんですね」

「誰よりも、日菜子ちゃんがよくわかってると思います。これまでで一番難しいパスを出したのに、紀藤さんはちゃんと次がイメージできて対応してる。自分がシュートしてもいいし、日菜子ちゃんがシュートしてもいい。二人で短い瞬間にコミュニケーションを図ってる。いいコンビになれますね」

「どうして、日菜子のことまでわかるんですか?」

「表情でわかります。手応えを感じた顔してるじゃないですか」

 日菜子ちゃんが紀藤さんに近づき、小さな声で言葉を交わした。離れている私には聞こえなかったが、とても高度な話をしたことだろう。

 日菜子先生は厳しい。次からは、紀藤さんを囮に使った。彼女にボールを渡すぞと見せかけて、他のメンバーにパスを出した。しかし、パスを出された方はしどろもどろになった。ボールはこぼす。ディフェンスにブロックされる。苦し紛れに打ったシュートは外す。失敗が続くと、日菜子ちゃんは単独で鮮やかにシュートを決めた。そして、もう一度自分で決めるぞと見せかけて、またメンバーを使った。いいコンビネーションだ。

 日菜子ちゃんは、紀藤さんをたまにしか使わなかった。彼女のフリーランニングが、ディフェンスに多大な脅威を与えることをわかっていた。だから彼女にはパスを出さず、他の人にボールを渡した。紀藤さんのダッシュが緩むと、日菜子ちゃんはすぐに注意した。これも、いい判断だ。彼女がシュートする必要はない。彼女がゴール前に突進するだけでOKなのだ。彼女はチームのために、黙々とそれをこなすべきだ。

「私の出る幕ないですね」と、横路監督は言った。

「そんなことないです。あなたは土台を支えてください。今日うまくいくことが、明日うまくいかないことがある。そのときにあなたが、方向をきちんと示さないといけないんです」

 しまった。また、やっちまった。バスケなんて全然わからないのに、私は監督に説教をしている。でもこれが私である。もう五十に近いんだから諦めよう。

ほぼ一、二年生全員が、この練習に参加した。オフェンスも、ディフェンスもやった。みんな膝に手をついて息をしていた。疲労困憊の様子だった。身体も疲れたろうが、頭もぐったりだろう。

そこへ、三、四年生が帰ってきた。

「監督、ミニゲームやりますか?」

「いいですね。レギュラークラスでやりましょう」

横路監督は、十人のメンバーを選出した。もちろん、日菜子ちゃんも選ばれた。監督は戦術の指示を両チームに出し、試合が始まった。

 試合ははっきり言って、日菜子ちゃんの一人舞台だった。彼女は、現役選手とレベルがワンランク違った。日菜子ちゃんはコートを走り回り、面白いようにゴールを決めた。

10分経過したところで、日菜子ちゃんは交代した。代わりに入ったのが、おそらく現在のエースだろう。彼女も上手かった。だが、バリエーションが少なかった。周りを活かすプレーもあまりなかった。素人目だが、敵チームは彼女を徹底マークすれば抑えられる気がした。

「監督、日菜子ちゃんと紀藤さんを同じチームに入れてみませんか?」

「不思議ですね。私も今、それを考えてました」

横路監督は、現在のエースと別のチームに、日菜子ちゃんと紀藤さんを同時投入した。真剣勝負をさせる、ということだ。おそらく現在のエースがいる方が、今のレギュラーチームだ。それに、控えメンバー+日菜子ちゃん+紀藤さんが立ち向かうという構図だ。

 効果はすぐに現れた。レギュラーチームがゴールを決めた後、日菜子ちゃんチームのメンバーが紀藤さんにパスを出した。受け取った紀藤さんは全身を使って振りかぶり、力一杯のスピードで日菜子ちゃんへパスを出した。日菜子ちゃんは全力でゴールへ走り、ボールが自分に届く前にジャンプを開始した。空中で身体をひねってボールを受け取ると、さらに上へと昇った。そしてもはや目前のカゴに、バコンとボールを押し込んだ。まるで機嫌の悪い人が、力を込めてゴミを捨ててるみたいだった。

「あああああああ・・・」

 コートの脇に座った一、二年生たちが、歓声ではなく艶かしい溜息を吐いた。そりゃそうだよな。格好いいもの。

 しかしレギュラーチームも、意地でも負けられない。エースにボールを集めて、どんどんゴールを決めた。しかし、日菜子ちゃんと紀藤さんは別世界に行っていた。

 日菜子ちゃんチームがボールをカットして奪った。すぐに、チームメイトは日菜子ちゃんにパスを出した。その時、日菜子ちゃんと紀藤さんは並行してゴールへダッシュしていた。

 日菜子ちゃんはすぐ、紀藤さんにパスを出した。するとすぐに、紀藤さんは日菜子ちゃんにパスを返した。二人とも全速力でボールへ走っているのに、目まぐるしいパス交換を交わした。ディフェンスはパニックだ。どうすりゃいいの、である。その零コンマ単位の五、六回のパス交換の後、紀藤さんが華麗にゴールを決めた。高さは、日菜子ちゃんには及ばない。でも、スピードは互角に近い。

「日菜子は、紀藤の眠っていた力を引き出しましたね」と、監督は言った。

「そうですか。それは、素晴らしい」

 そう答えながら、私は軽いひっかかりを覚えた。紀藤さんのことだ。

 試合は、レギュラーチームの勝利に終わった。だが今日は、勝敗などどうでもいいだろう。

「今のエースの方は、なんとおっしゃるんですか?』

「田中です」

「田中さんは今日、とても刺激を受けたでしょう。私は、田中さんと紀藤さんのコンビが見てみたいですね」

「うん。それが私の課題ですね。田中も紀藤も、日菜子くらい難しい性格なんです」と、監督は言った。

 つまり彼女たちも、自分の心の深淵と戦っているということだ。二十歳前後なら、仕方のないことだろうけど。

「それなら彼女たちから、日菜子ちゃんに連絡をください。日菜子ちゃんはそれをすぐ私に話すだろうから、私からアドバイスをしますよ」

 そう言った私に、横路監督は不審な目を浴びせた。

「あなたは、若い女の子の心理がわかるんですか?」

 私の発言は、彼女の長い指導歴からくるプライドを傷つけたようだった。言い方が、少し怒気を含んでいた。でもそれは、しょうがないことなのだ。

「私はバスケットボールの、技術の話をしてるわけじゃありません。二十歳前後の女の子が悩む、恋愛の問題の話をしてるんです。それを上手く解いてあげないと、彼女たちはその穴にハマって抜け出せなくなる。その影響は、スポーツにも出てしまう。結局、頭で競技をしてるわけですからね。

 私は日菜子ちゃんから、たくさん話を聞かせてもらったので彼女の苦悩がわかります。大学時代どんなにつらかったかも、想像できます。どんなに試合で活躍しても。

 田中さんには田中さんの、紀藤さんには紀藤さんの、個別の苦しみがある。それにじっと耳を傾け、その都度適切な対処をとることです。今すぐすべきこともあります。その逆に、今動いてはいけないこともあります。本人が『今動いてくれ』と言うのを待つべきこともあります。まず、耳を澄ますことです。次に、徹底的に考えることです」

 あーあ。また、やってしまった。私と横路監督の重苦しい雰囲気を、日菜子ちゃんが簡単に破った。

「拓ちゃーん。楽しかったーあ」

 とても30歳の、高校教師ではなかった。彼女は甘ったるい喋り方をして、はしゃいでいた。それでいいのだ。

 日菜子ちゃんは、シャワーを浴びてくると言ってその場を離れた。バスケ部のメンバーも、めいめい外へ昼食を食べに出て行った。でも、横路監督と私はパイプ椅子に並んで座っていた。

 十二時を過ぎた。昼食の休憩時間だ。涼ちゃんと真理ちゃんは、サンドウィッチの袋を開けながら、試験問題の話をしているだろう。私がした、授業の話をしているかもしれない。

横路監督は、席を立とうとしなかった。しばらく何も言わずに何か考え込んでいた。彼女は無人になったコートを睨んだ。とても厳しい目をしていた。私は黙って、彼女が思案を巡らすに任せた。

横路監督は、日菜子ちゃんが抱えた問題を見つけられなかった。それは競技ではなく、プライベートにあったから。監督はおそらく、そこまでは踏み込まなかった。プライバシーは難しい。誰にでも、隠しておきたい過去を持っているからだ。

だが、問題を根本から解決するためには、私たちは相手の個人的な秘密まで知らねばならない。そうしないと、ピント外れな対応をしてしまう。だから、当人から秘密を聞き出すしかない。当人が、それを話したくなる気分にするしかない。

「耳を澄ますってなんですか?」

 ずいぶん経ってから、横路監督は私にそう言った。続けて、「田中と紀藤に、私は何をすればいいんですか?」と言った。少しイライラした様子で、容易に納得しそうもなかった。

「田中さんと、紀藤さん。それぞれと、一対一で話す機会を作ってください。食事でも、遊園地でもいいです。そして彼女たちに、精一杯優しくしてあげてください。そうすると彼女たちは、ポツリポツリと断片的に話を始めます。その中に、ヒントがたくさん隠れています。それをかき集めることです。それを何度も繰り返すことです」

「もちろん私は、彼女たちと個別に話し合っています」

「でもそれは、監督と選手としてでしょう?私が言ってるのは、人と人として二人と話せと言ってるんです。これには、大きな違いがある」

 横路監督は、またうつむいてしばらく考え込んだ。私は、少し言い方がキツかったなと反省した。しかし、ここは重要なポイントだ。力を込めて、主張すべきことだ。

「横路監督」と、私は今度は優しく呼びかけた。「繰り返しですが二十歳前後の女の子たちは、みんな大なり小なりプライベートな問題を抱えている。田中さんと紀藤さんの性格の難しさは、そこから来ていると私は思います。彼女たちの本音を引き出し、彼女たちの問題を解くキーを手渡すことです。そうしないと、下手をすると危険な状態に陥ることもある。それは絶対に防がないといけない。だから、日常の会話が大切なんです」

 日菜子ちゃんが、いつのまにか私たちのそばに立っていた。私も横路監督も、彼女のことに気がつかなかった。日菜子ちゃんは、途中から私たちの会話を聞いていたようだ。

「監督。柿沢さんの話、難しいでしょ?」と、日菜子ちゃんは言った。

「難しいね、すごく」と、横路監督は白状した。

「でもね、拓ちゃんはなんでも解決しちゃうの。昨日も私のせいでちょっと事件があったんだけど・・・。拓ちゃんは、パパパと解決しちゃった」

 昨日のエリちゃんの問題は、私はまだ何もしていないに等しい。まあ、昨日すべきことは全てやったという程度か。

「ねえ、田中と紀藤だけど、柿沢さんは彼女たちが困ったら日菜子に連絡しろって言うんだけど。あなたどう思う?」と横路監督は、日菜子ちゃんに聞いた。

「いいよー。いつでも」と日菜子ちゃんは明るく答えた。

「日菜子、変わったねえ・・・?人が違うみたい」

「田中さんと紀藤さん、何かあったら私に連絡してって言ってください。バスケのことならなんでも答えられるから。でも難しいことは、全部拓ちゃんに任せる。だから、大丈夫だよ」

 そう来たか。

 横路監督は、しばらく黙っていた。また無人のコートを睨み、思案にふけっていた。そして思い切ったように、私に言った。

「柿沢さん。二人と話してみます。監督と選手ではなく、人間同士として。そうすればいいんですよね?」

「はい、その通りです」

「上手くいけば、彼女たちの本音が聞けると言うことですね?」

「そうですが、一つ気をつけてください。人は思っていることを、そのまま言葉にしないってことです。ひどいときは、自分の思いと真逆のことを言います。だから、言葉を鵜呑みにしないことです。わかりやすく言うと、『大丈夫だ』と本人が言っても簡単に信じないことです。

 彼女たちが語る、『つらいこと』『悲しいこと』を集めることです。それをテーブルに並べて組み合わせていくと、彼女たちの『生き難さ』『性格の難しさ』の正体が見えてくる。そのとき初めて、自分が彼女たちのために何をすべきかが見える。私は、そう思います」

 横路監督は、少し口を開けて呆れた顔で私を見ていた。何も言葉が浮かんでこないようだった。

「監督。拓ちゃんはいつもこうだから」と、日菜子ちゃんが言った。

「そうなの・・・」

また監督は、しばらく何事か考えていた。その表情から、彼女なりの苦悩が見て取れた。彼女はだいたい、五十代半ばだろう。そこまで生きて、二十年子供たちを指導しても、解けない謎があるということだ。

彼女はふと思い出したように、「午後は、どうされるご予定ですか?」と私と日菜子ちゃんに質問した。

「15時に、茗荷谷に行かないといけません。それまでは、予定はありません」と私は答えた。

「それでは、午後の練習の始めだけ、お付き合い願えませんか?田中と紀藤に、ご挨拶をさせます」と、横路監督は言った。そして、「茗荷谷ということは、今日はお子さんの試験日なんですね」と、付け加えた。

「あら!」と、日菜子ちゃんが大きな声を出した。そしていたずらっぽく目を光らせた。

「監督、彼は独身なの。その子は柿沢さんの実の子じゃないんです。家出してるところを彼が自宅に招いて、一生懸命育てて勉強も教えてるの。しかも二人!すごいでしょ」

横路監督の心は、もう宇宙の彼方まで飛んで行った。口をさっきよりさらに開けて、深海魚でも見るような目をした。

「だから、田中さんも紀藤さんも任せて!」

日菜子ちゃんだけが、ノリノリだった。


もう12時半だった。涼ちゃんと真理ちゃんは、サンドウィッチを食べ終えてプリンとヨーグルトを食べているだろう。さて、どんな問題が出たことか?。私の読みは当たっただろうか?まったく予想外だったら、キツいな。

試験は図書館入試と言って、図書館の中で行う。本を読んでいくらでも調べ物をしてよい、という形式だった。だが現実には、本を読んで回答を考えるのは難しいだろう。おそらく時間切れになってしまう。試験時間は、午前、午後の二時間で合計四時間。そんな時間じゃ一冊も読めない。

つまりスタートで問題を読んだ直後から、どう回答文を書くかイメージできないといけない。本は、自信のないところを確かめる程度だ。図書館で試験をしても、時間の大半は文章を磨くことに費やすべきだ。

「涼ちゃんと真理ちゃんのこと、考えてるの?」と、日菜子ちゃんが聞いた。

「そりゃそうだよ」と私は答えた。「自分のことじゃないからつらい。俺自身のことだったら、こんなに焦ってないね」

「上手くいってると、いいね」

「うん」

もうそれ以上は、何も言いようがなかった。私と日菜子ちゃんは、大学の中の食堂で昼食をとった。学生食堂か。懐かしいな。安いし、ボリュームもある。

午前の練習に参加して、すっかりお腹の減った日菜子ちゃんは、親子丼と蕎麦のセットに、サラダも別に頼んで食べた。私は、きつねうどんを食べた。私は身体がむずむずするような焦りを、ずっと感じていた。私は頭を振って、雑念を追い出そうとした。さっきバスケットボールに集中していたときは、ここまでひどくなかったのだが。

つまり私は、もし一人だったらこの想いに耐えられなかったということだ。私は正面でガツガツご飯を食べる日菜子ちゃんに感謝した。付き合ってくれて、本当に助かった。


13時過ぎに、体育館に戻った。私は日菜子ちゃんのために、頑張ろうという気になっていた。

練習はもう始まっていた。部員全員が、体育館全体に広がってドリブルなどの基礎テクニックのトレーニングをしていた。横路監督が、田中さんと紀藤さんだけ練習をやめさせて、私と日菜子ちゃんの前に連れてきた。私たちは体育館の入り口のすぐ脇で向かい合った。

「こんにちは」と、私は大きな声で二人に挨拶した。

「こんにちは」と、紀藤さんは視線を斜め下に落としながら言った。

「こんにちは・・・」と、とても小さな声で田中さんが言った。彼女は私を見ていたが、その目は怯えていた。

私は二人の表情を見た。これは強敵だぞ。横路監督が手を焼くのもわかる気がした。

「紀藤さん、午前中は素晴らしいプレーを見せてもらいました。特に、日菜子ちゃんとのコンビは最高でした」

「あの・・・、日菜子さんって大月先輩のことですか?」と、紀藤さんは今度は私の目を見て聞いた。

「そうです。日菜子ちゃんでいいよね?」と、私は日菜子ちゃんの顔を見て聞いた」

「うん、いー」と、日菜子ちゃんは笑顔で答えた。

「紀藤さん、ところで質問なんですけど、今日のレベルのプレーは普段も出来てますか?」これが私の聞きたかったことだ。

紀藤さんの顔が、たちまち歪んだ。図星ということだ。普段の彼女は手を抜いているのだ。

「あのう・・・、午前の大月先輩みたいに・・・、リズムが合うってことなかなかなくて・・・」と、紀藤さんは悩みながら、言葉を探しながら答えた。

「わかるよ」と、私は言った。「私はギターを弾くんだ。そうするとね、はっきり言って他のメンバーが下手なこともある。そういうときは、スゴくイライラするよ」

「・・・」紀藤さんは、息を飲んだ表情をした。けれど何も言わず、また視線を床へ落とした。

「 紀藤さん。提案だけど他の人のリズムに合わせてみませんか?ギターの例えに戻ると、この世にいい曲はゴマンとある。簡単で、いい曲を弾けばいいのさ。そうするとね、今度は簡単な曲の難しさがわかってくる。そんなものだよ」

紀藤さんは、唇を噛み締めた。おそらく彼女は、チームメイトたちのことをバカにしている。他の人の実力を見下している。だから普段手を抜くのだ。日菜子ちゃんレベルの選手がたくさんいる学校に行けば良かったろう。だが君は、今ここにいる。ここで出来ることをするべきだ。

「目的は、当たり前だけどチームが勝つことだ。紀藤さん。あなたはチームのために、たくさんのことが出来るはずですよ。どうか、みんなのリズムに合わせてみませんか?」

「・・・わかりました・・・」紀藤さんは小さく答えた。

彼女には、今日はこんなもんで充分だろう。私は今度は、田中さんの方を見た。彼女は私に視線を向けられただけで、少し後ろに後ずさりした。典型的な、自分に自信のないタイプだ。

「日菜子ちゃん、今日の田中さんのプレーで、良いところと改善すべきところを教えてくれる?」

「いいよー」と日菜子ちゃんは答えて、細かく解説してくれた。しかし、バスケの専門用語だらけで、何を言ってるのかさっぱりわからなかった。

日菜子ちゃんのプレー分析が終わった後で、私は田中さんに話しかけた。

「田中さん、日菜子ちゃんの目をじっと見てください」

「ええっ!?」彼女は、明らかに戸惑った様子で私を見た。

「いいから、いいから」と私は言った。田中さんは恐る恐る日菜子ちゃんを見た。

彼女の弱点は、この小心さにあるだろう。それは人付き合いだけでなく、試合でも悪影響を与えるだろう。練習試合では活躍できても、公式戦の大事な試合では実力の半分も出せないなんてことになるだろう。うかうかしていると、紀藤さんにレギュラーを奪われかねない。

「田中さん、日菜子ちゃんを『このやろう』と考えてください」

「えええ・・・!?」

「この人より、絶対上手くなるって想像してください」

「・・・」田中さんは黙っていたが、しっかりと日菜子ちゃんをみつめた。頭には、日菜子ちゃんが見せた華麗なプレーが駆け巡っているだろう。

「日菜子ちゃん、上手くなるにはどうしたらいい?」

「うん、おんなじことを何千回も繰り返すことかな?」

「その通りだね。田中さん、おんなじことを何千回も繰り返して練習してますか?」

「・・・いえ、そこまで出来てないです・・・」

「じゃあ、やってみることにしましょう。今日から。紀藤さんもね」

「はい」と、紀藤さんははっきり返事をした。しかし、田中さんはまだ迷いを見せていた。まあ、いいさ。いますぐ納得する必要もない。今夜にでも、ゆっくり考えればいい。

私は脇に置いていたリュックから、ノートPCを出した。そして起動させてiTunesを開いた。

「何をされるつもりですか?」と、ずっと黙っていた横路監督が聞いた。

「紀藤さんと田中さんのために、歌を歌います」

私は、ミスチルの「GIFT」を選んだ。歌は言葉よりも、力を持つことがある。私はノートPCのボリュームを最大にし、床に置いた。プレイボタンを押すと、結構響いた。


いちばんきれいな色ってなんだろう?

いちばん光ってるものってなんだろう?


手近にモップがあったので、それをマイクスタンド代わりにした。この曲なら、彼女たちも子供の頃に聞いたことがあるだろう。勝負に勝つ者にも、負ける者にも価値があり、お互いが支え合っているという内容は、スポーツ選手にはぴったりだ。

いつのまにか、練習していた部員たちが手を止めてしまった。誰もが突っ立って、モップを手にした変なおっさんのことを見ていた。体育館はすっかり静まり、ノートPCのわずかな音と私の歌だけが響いた。


部員たちが一人、また一人と私に近寄ってきた。やがてほぼ全員が、私たちの周りに集まった。LaLaLa〜 のところは、何人かが一緒に歌ってくれた。

「どうも、失礼しました」

そう言って紀藤さんと田中さんを見ると、二人ともとても柔らかい笑顔に変わっていた。日菜子ちゃんはというと、両目が❤️マークになっていた。

さて帰るかと、PCを仕舞おうとしたら大ブーイングを受けた。

「おじさん、もっと歌って」

「お願い」

私は、横路監督を見た。彼女は笑っていた。

「いいんですか?」

「今日はもう、仕方ないです。明日、倍練習しますよ」と、監督は言った。

しょうがないなあ。若い人が知ってそうな曲と考え、ミスチルの「足音」と「himawari」を続けて歌った。


 集まった少女が、どんどん身を乗り出してくるのを感じた。私がいつもの体育館の端に作った、奇妙な空間に意表を突かれて興味を示していた。彼女たちが発する熱が、次第に上がっていった。

「365日!」

「himawari」を歌い終えると、日菜子ちゃんがそう叫んだ。おじさんがラブソングを歌って、果たして少女に受けるのだろうか?でも、異論は出なかった。


 歌い終えると、自然に拍手が起こった。それは、すぐに手拍子に変わった。げっ。このままじゃ、引き際がつかめないぞ。

 私は趣向を一転させて、Joe Cocker の「You Are So Beautiful」、Beatles の「Let It Be」、 Queen の「Bohemian Rhapsody」を続けて歌った。これには、横路監督の方がノッていた。

 さて、「Bohemian Rhapsody」の勢いを引き継いでWhitesnake の「Here I Go Again」を歌い、それからまたミスチルに戻った。私は「any」を選んだ。


「今の場所が 望んだものではなくても間違いじゃない」


私は紀藤さんが、この歌詞を聴いて何かを思ってくれたらいいなと思った。

続いて「エソラ」を歌うと、「Rock Me Baby Tonight」の部分はみんな歌ってくれた。さあ、最後の曲として「 innocent world」を歌った。驚いたことに、古い曲なのに半分くらいの子が歌詞を知っていて、最初から全部歌っていた。

 

「いつか何処かで また会えるといいな」


 紀藤さんと田中さんを見ると、田中さんは一緒に歌い、紀藤さんはリズムをとっていた。今日という日が、彼女たちにとって何か意味を残せばいいのだが。

「ありがとうございました。では、この辺で失礼します」と私は言った。「ええ〜!」と不平の声が上がったが、15時に校門前にいなかったら、涼ちゃんと真理ちゃんにめちゃくちゃ怒られる。私は大急ぎで、ノートPCをリュックに仕舞った。

「今日は、ありがとうございました」と、横路監督が言った。「みんな、柿沢さんと大月先輩にお礼を言って」

「ありがとー、ございましたーあ」と全員が言った。子供たちが声を揃えると、本当に可愛いなあ。

「また来て、くださーい」とも、何人かが言った。

「また、お邪魔しまーす」と、日菜子ちゃんと二人で答えて体育館を出た。


「楽しかったあ〜」と日菜子ちゃんが、歩きながら言った。

「今日の日菜子ちゃんのプレーは、この前よりさらにキレてると思ったよ」

「うん、今日は楽しかった・・・」

日菜子ちゃんの口ぶりは、意外にも少しトーンダウンした。彼女は少しうつむいた。そして私に言った。

「前にも話したと思うけど、私現役時代ちっともバスケが楽しくなかったの」

「うん、そう言ってたね」

「もう、子供の頃から毎日毎日バスケだったから。朝起きて朝練して、放課後に夜まで練習して、土日はどっか行って練習試合。それで、勝っても負けても監督に怒られる。地獄で釜茹でにされてる、そんな気分だった」

「バスケが嫌いになってたの?」

「うん。嫌いだったね。だから大学になって日本代表に呼ばれなくなったとき、『ああ、さらにバスケやらなくていいんだ』って、せいせいしたもん。監督は、おかしいってえらい剣幕で怒ってたけど」

学生時代の日菜子ちゃんは、純粋にプレーする喜びを感じられなかったようだ。それが今になって、やっとそれを思い出したのだろう。時間は戻らないし、これで良かったのかもしれない。だが現在の日菜子ちゃんのことを考えると、名門女子高で汲々とする教師生活とは、違う彼女の人生を考えてしまった。

「今の学校で、バスケを教えようとは考えなかったの?」

「考えなかったねー。もう、バスケのない生活がしたかったから。大学でバスケは卒業。そう決めてた」

「ふーん」

「もう、やっと解放された感じだった。でも、正直に言うと『張り合い』もなくなったなー」

「教えてほしいんだけど、日菜子ちゃんは今でもトレーニングはしてるの?」

 私は、30歳で現役学生を凌ぐ動きを見せる、彼女の体力が信じられずにいた。

「実はやってる。太りたくない、衰えたくないっていう恐怖が一番だけど、身体を鍛えてないと気持ち悪いんだよねー。筋トレとストレッチは、毎日やってる」

 なるほど。

「でも、家に来たときはしてないよね」

「私ね、拓ちゃん家に入るとスイッチが切れちゃうの。ブチって。授業受けてるときは気を張ってるけど、平日の緊張感に比べたら、もうダラダラになっちゃうの」

「それで、家にくるの好きなんだ」

「それだけじゃ、ないけど」と言って、日菜子ちゃんは少し頬を膨らませた。

 早稲田大学から茗荷谷までは、徒歩で30分もかからない。おまけに日菜子ちゃんは、とても早足だった。アスリートらしく、大股でスタスタと歩いた。

「バスケを人に教えたのは、初めて?」

「うん。ちょっとアドバイスしたことはあるけど、こんなコーチみたいに教えたのは人生初」

「どう思った?」

「すっごい、難しい。学校で授業をするのとは、全然別だって気がついた。私の言葉が、相手に伝わったのかとても不安。でも、拓ちゃんが『相手のいいところを褒めなさい』って言ってくれたから、少し楽になった」

 自分が考えて発した言葉の意味が、相手に正確に伝わることはない。これは哲学では、主観と客観の一致という問題だ。今だにこの問題について、大学で研究している学者がたくさんいる。しかしこれは、馬鹿げた問いだ。

 日菜子ちゃんがたくさんの一、二年生に伝えた言葉は、彼女たち一人一人の個性が解釈する。そこから導かれる意味は個性の数だけあり、かつ今日と明日で異なることもある。みんなは日菜子ちゃんの言葉を、今日の自分で受け止めるのだ。それは、どんなバリエーションがあって構わない。主観と客観の一致なんて、絵に描いた餅でしかない。

「みんな、日菜子ちゃんの言葉をいろんな意味に受け止めたと思うよ。合点が行くこともあるし、わからないこともある。わかったと思っても、日菜子ちゃんの意図と違う方向に受け取ってることもある。でも、それでいいんだよ。人はみんな生きてて、それぞれの問題を抱えているんだ。人からアドバイスを受けたとき、誰でも自分の問題に引き寄せて考える。だからいろんな解釈が生まれる。でもそれで、刺激を受けてくれればいいんだ」

「それで、紀藤さんと田中さんにあんなこと言ったの?」

「そうだよ」

「正直、びっくりした」と、日菜子ちゃんは言った。

「今日紀藤さんと田中さんに会って、あの短い時間の中で言うべきことはこれだと思ったんだ」

「ううーん、わっかんない」と日菜子ちゃんは困った顔をした。「私だったら、あんなセリフは出てこない」

「俺は年をとってるからさ」

「そうじゃないと思う」と、日菜子ちゃんは私の言葉を即座に否定した。

「なんで?」

「うーん、なんでだろう?」日菜子ちゃんは、顔をあげて考え込んだ。空を見上げて、そこに答えを探すみたいに。

「例えば、監督がいるじゃない」

「横路監督?」

「そう。監督はいい人だけど、拓ちゃんみたいなことは言わない」

「そんな感じだね」

「バスケの知識はすごいんだけど、なんていうか・・・、うーん・・・」

「頼れる存在じゃ、ないんじゃないの?」

「そう!そう!」と、日菜子ちゃんは大きな声を出した。「大学時代、監督と何度も二人で話したけど、心に響くことはなかった・・・」

 横路監督に欠けているのは、「導く」という知恵だ。彼女は日菜子ちゃんのような心に傷を負った少女に出会ったとき、それを解きほぐす術を知らない。その欠如は、二十歳前後の女の子だって簡単に見抜く。だから自分の根元にある部分を、監督に明かしたりしない。無駄だからだ。

「横路監督は、生徒と一緒に悩んじゃうタイプだね」

「だから拓ちゃん、ガンガン監督に説教してたんだ」

 私はすっかり薄くなった頭を掻いた。思ったことを、すぐ口にするのが私である。

「日菜子ちゃんは、全然監督のいうことを聞いてくれなかったって言ってたよ」

「そんなこと、ないよー」と、日菜子ちゃんは弁解した。「私はちゃんと、監督の指示に従ってたよ。でも、そういうことを監督にしゃべらせるのが拓ちゃんだよねー」

「うん。途中から半分怒ってたからね」

「でも、拓ちゃんは言いたいことは言うんだよね」

「そうだね」

「羨ましいー」と、日菜子ちゃんは言った。「私、そういうこと全然できないから」

「焦ることはない。徐々に出来ればいいよ。今日コーチしたみたいに、人に自分の言葉を投げかけること。人は、自分の意図通りには受け取ってくれないから、さらに言葉を重ねること。すると人は、あれっと思う反応を返してくることがある。それがいい方向に転がって行く。それを繰り返せばいいんだよ」

「涼ちゃんと真理ちゃんにも、そうしてたの?」

「そう、だね。彼女たちとは、そりゃあたくさん話したから」

「それで、二人の信頼を勝ち取ったんだ」

「信頼というか、ただの甘えん坊になったね」

「私も、仲間入りー」と、日菜子ちゃんは言った。そしてコートのポケットに手を入れた私の腕に、自分のそれを絡ませた。そして私の肩に、自分の頭を乗せた。それきり、しばらく話さなくなった。


校門前には、二時半についてしまった。あとはただ、待てばいい。私は、日菜子ちゃんに話しかけた。

「日菜子ちゃん、ものすごくモテるでしょ」

「ええっ?なあに、いきなり」

「だってさ、あんな格好よかったら、男も女も日菜子ちゃんの大ファンになっちゃうよ」

「拓ちゃんも、私のファンになった?」日菜子ちゃんはまた、いたずらっぽい目をして私に聞いた。上手く切り返された。

「素直に言うよ。ファンになった」

「うふふ」

日菜子ちゃんは、それは満足そうな顔をした。

「そもそも日菜子ちゃんは、普段も魅力的な女性だよ。ルックスも服装も文句なし、性格も素直だ」

「拓ちゃん、いったい何が言いたいの」と、日菜子ちゃんは突然不機嫌になって言った。

「つまりさ、日菜子ちゃんの未来は、いくらでも選択肢があると思うんだよ」

所詮私は、渡り鳥の越冬地である。暖かくなれば、広大な世界へ飛びたつこともできる。だが私は、彼女はそれを選ばない気がしてきた。彼女が私に寄せる気持ちは、本物だと感じつつあった。それは、長い目でみれば危険なことだ。

そのとき私と日菜子ちゃんは、校門を背にして並んでいた。日菜子ちゃんは、すっかり機嫌を損ねてしまった。校門に寄りかかりながら、履いているブーツで腹立たしそうに、足元のコンクリートをガッ、ガッと蹴った。

「もうわかってくれてると思ったんだけど」と彼女は言った。「でも確かに、私の気持ちをちゃんと伝えてないよね」

日菜子ちゃんは何も言わずに、上半身をひねって私に向けた。彼女の不機嫌な表情は一瞬で消え、代わりに驚くほど真剣な顔になった。日菜子ちゃんは私をじっと見た。あまりの視線の強さに、びっくりするほどだった。

「あなたが好き。この世の誰よりも。人生で出会った誰よりも。あなたのいない毎日なんて考えられない。私の頭は、あなたでいっぱい。これだけ言えばわかる?」

「わかった。俺は君を守るよ。ずっと守る」

日菜子ちゃんは、一転して笑い出した。

「ここで『守る』としか言わないのが、拓ちゃんなんだね。いいよ。そしたら私が仮に、誰か別の人と結婚しても守ってくれるの?」

「もちろんだよ。絶対守るよ」

「ばか、そんなことあるわけないじゃん」と日菜子ちゃんは、また怒り出した。「ねえ、責任取ってよ。私をこんなに、本気にさせたんだから。私の面倒をずっと見て。私のわがままずっと聞いて。私に、ずっと優しくして」

ここまで来ては、私のシャキール・オニールと子供三人案は脆くも崩れさった。だが、私は五十近い不能男だ。若い日菜子ちゃんには申し訳ない。私はまだ、彼女の別の明るい未来を考えてしまった。

「でも、子供が・・・」と私は、一人ごとのように言った。

「子供?!もう、二人もいるじゃない!もっと欲しいの?!」

日菜子ちゃんは、怒鳴るように言った。彼女は、涼ちゃんと真理ちゃんのことを言っているのだ。確かに彼女たちは、大学に入っても私の家から通うと宣言している。私と生活することを、当たり前のように選んでいる。

「拓ちゃん、いじめるのはやめるよ。お願いするよ。私のそばにいて。私には、拓ちゃんしか考えられないの。私の未来には、拓ちゃんしかいないの。いい子にするよ。真面目に働くよ。勉強もするよ。だから、そばにいさせて・・・」

今度は日菜子ちゃんは、涙目になっていた。あまりに目まぐるしい、感情の変化に私は驚いた。急いで、彼女の右手を握った。すると彼女はさっと身体を反転させて、私の正面に立った。それもすぐそばに。そしてそっと唇を近づけ、私にキスをした。長いキスだった。一分くらいしてたと思う。そばを通り過ぎる女子大生たちが、「なんだ、このおっさんたちは?」という目で私と日菜子ちゃんを見ていた。

なんとか日菜子ちゃんを、落ち着けなければならなかった。私は昼間の女子大の校門で、彼女を抱きしめた。力を入れてきつく。興奮した日菜子ちゃんは、「はあっ、はあっ」と荒い息遣いをしていた。ドクドクッと、彼女の心臓は荒れた海のように脈打っていた。しかし抱きしめる力を緩め、優しく背中を撫で続けるとやがて呼吸は落ち着いてきた。私たちはそのまま、十五分くらいじっとしていた。何も言葉を交わさずに。

「さあ、そろそろ涼ちゃんと真理ちゃんが出てくるよ」

「うん」

日菜子は私から身体を離した。そのとき彼女が、ずっと泣いていたことに気がついた。目は腫れ、アイシャドウは崩れてしまった。日菜子ちゃんはハンカチを出して、目の周りや頬の涙を拭いた。それから鞄から手鏡を出して、応急処置をした。


十五時を過ぎてすぐに、涼ちゃんと真理ちゃんが校舎から出てきた。真理ちゃんはすぐ私たちに気づいて、笑顔で手を振ってくれた。それに対して涼ちゃんは、難しい顔をしてうつむき加減だった。

「どうだった?」

無理矢理笑顔を作りながら、日菜子ちゃんが聞いた。

「うーん、まあまあかな?」と真理ちゃんは答えた。彼女なりに、手ごたえを感じている様子だった。

「うーん」と涼ちゃんはうなって、まだ考えこんでいた。そして私の手を見た。それを察した日菜子ちゃんが、握った私の手を離した。すぐに涼ちゃんは、私の手を握った。

真理ちゃんも、私の反対の手を握った。涼ちゃんはまた、私の腕をぶるんぶるんと前後に激しく振った。

「試験問題はね、『地球の将来について、自由に論ぜよ』だったの」と、真理ちゃんが言った。

「そりゃまた、抽象的な問題だな」と、私は言った。

「私はね、これは地球温暖化や資源枯渇の話をしてると思ったの。そして解答を書いた。でも、涼ちゃんは違ったの」と、真理ちゃんは言った。

「私はね、これは人類の問題だと思ったの。人類を全滅させるほどの核兵器を持つ、核大国をどうにかしないと地球の未来なんてないと思ったの」

「いいねえ、二人ともいい着想だよ」と、私は言った。

「答え方が思いついたら、拓ちゃんから習ったことを思い出しながら書いたよ」

「私も」

私たちは、茗荷谷の駅へ向かってゆっくり歩いた。もう試験は終わった。急ぐ必要は何もない。

「これから、どうする?」と、私は涼ちゃんと真理ちゃんに聞いた。

「千葉みなとの、夜景が綺麗なホテルに行きたい」と、涼ちゃんが言った。

私は彼女の答えに凍りついた。あそこは涼ちゃんから、お父さんの性的虐待の話を聞いた場所だ。もう一度行っていいものか?彼女の深い傷に、また触れることにはならないか?

「夜景が綺麗なホテルって、どこ?」と、真理ちゃんが聞いた。

「港のそばでね、船とかその先の工場とか、真下の国道が見えるの。いろんな光が重なるの。すっごい綺麗」

「えーっ、いつ行ったの?」と、真理ちゃんが少しムッとして聞いた。

「ごめん。真理ちゃんがバイトしてるとき。拓ちゃんと二人で行った」と、涼ちゃんがバツが悪そうに答えた。

「ずるーいっ!私も行くーっ!」と、真理ちゃんが叫んだ。こうして、今夜の行動予定は決まった。おそらく涼ちゃんは、ホテルの夜景と私と話したことを切り離せている。これなら、大丈夫だろう。ではまず、真っ直ぐ家に帰る。荷物を置いて、そのホテルへ出かけよう。

茗荷谷の駅につくと、日菜子ちゃんが「ちょっと待ってて」と言って女子トイレに入った。お化粧直しのためだ。私たち三人は、トイレから少し離れたところで彼女を待った。

「拓ちゃん、日菜子ちゃんを泣かしたでしょう」と、真理ちゃんが少し怒った顔で言った。

「いやっ、・・・その、あのさあ・・・」

「言い訳はいらない。泣かしたんでしょ?」と、真理ちゃんはさらにキツい口調で言った。

「サイテーだね」と、涼ちゃんも言った。

「あ、あのさ・・・」

私がしどろもどろになっていると、二人は顔を合わせて笑い出した。

「拓ちゃんてさあ、どんなときも落ち着いて堂々としてるのに、女の人のことになるとボロボロになるね」と、真理ちゃんが言った。

「ほんと。全然ダメだね。すごい不思議」と、涼ちゃんも言った。

私は何も言えず、困り果てた。すると二人は優しかった。

「あのね、今の日菜子ちゃんが泣くのは当然。ちょっとしたことでも、泣いちゃうよ」と、真理ちゃんは解説した。

「そうそう」と、涼ちゃんも相槌を打った。「感情の起伏が激しい時期だからね。いちいち深刻に受け止めると、疲れちゃうよ」

「そうなのかなあ?」と私は言った。

「そうなんだよ。拓ちゃんは、普段通りにすればいいだけ。日菜子ちゃんは、普通の拓ちゃんが好きなんだから」と、涼ちゃんは言った。

 私は高校三年生に、恋愛のアドバイスを受けていた。そのどれも、なるほどと思わせた。この道は私より、涼ちゃんと真理ちゃんの方が上なのだ。私は彼女たちの助言に従うべきだ。

 何も知らない日菜子ちゃんが、女子トイレから出てきた。涙で乱れたお化粧を、なんとか修復したようだ。真っ赤なルージュも、もう一度塗り直していた。そういや、私の口にもあれついてるぞ。私は大急ぎで、ハンカチで口を拭いた。

 銀座線で東京駅まで行き、JRの総武線に乗り換えた。快速電車に乗ると、運良く八人掛けの席に並んで座れた。涼ちゃんと真理ちゃんは、私の両脇に座ると私の肩に頭を乗せた。そして、あっという間に眠り始めた。口を少し開け、コックリコックリと首を振った。

「いいパパで、良かったねー」

日菜子ちゃんは眠っている二人に、そう話しかけた。彼女は私に甘える涼ちゃんと真理ちゃんの姿を見て、とても気分良さそうだった。

 パパか。重い言葉だ。私は涼ちゃんと真理ちゃんの、父親代わりを務めているのだろうか?私は二人の、親友のつもりだった。年は離れているが、私たちはいつも対等に話し合う。ちょうどさっきの、茗荷谷駅のときのように。でも私に寄り添って眠る彼女たちは、確かに私の娘のようだった。

 稲毛駅で降りて、西千葉行きの各駅停車に乗り換えた。車内のあちこちに、晴れ着姿の女の子たちがいた。そういえば、今日は成人の日だ。

「いいなあ」と、真理ちゃんがボソッと言った。

「晴れ着のこと?」

「うん、可愛い」

「あと二年経てば、着れるよ」と私は言った。

「二年かあ、ものすごく遠い先に聞こえる」と、真理ちゃんが言った。「私の成人式には、拓ちゃんも来てね」

 嘘だろ、と思った。成人式に保護者がついていくなんて、聞いたことないぞ。だけど私は、「うん」とだけ答えた。あと二年経ったら、彼女の考え方もだいぶ変わるだろう。

 西千葉駅で降りて、家へ向かって歩いた。冬の短い昼間のせいで、もうあたりはすっかり暗くなってしまった。しかし、これから私たちは夜景を見に行く。暗くなるのは歓迎だ。

 車で行くと私がアルコールを飲めないと、涼ちゃんが主張した。それで、私たちは近くの私鉄線に乗って千葉まで行き、そこから千葉みなと行きのモノレールに乗り換えた。千葉みなと駅を降りると、雪でも降りそうな気温になって来た。私たちは早足で五分ほど歩いて、目的のホテルに着いた。

「うわっ、すっご〜!」

「ほんとだ〜!」

 真理ちゃんと日菜子ちゃんが、最上階に着くと同時に歓声を上げた。ホテルの窓の外には、色とりどりの光があった。それらが束になって、私たちの目に飛び込んできた。やっぱりいいなあ。このホテルは、私が二十代の頃からのお気に入りだった。

窓際は二人席しかないので、私たちはすぐそばの正方形の席に座った。頼んだ飲み物が運ばれてくると、涼ちゃんは自分の分をすぐ取った。そして席を立って私のそばに来て、当然のように私の膝に乗った。はあ。

「今日は、二次試験お疲れさま!」

日菜子ちゃんの音頭で、私たちはグラスを合わせた。私は生ビール、日菜子ちゃんもそれに付き合ってくれた。涼ちゃんと真理ちゃんは、アイスクリームとかフルーツとかポッキーやらがたくさん入ったジュースだ。

「しんどかったー」と、涼ちゃんがため息混じりに言った。

「図書館の本は読んだ?」

「チラッと見には行ったけど、本探してる間に時間が過ぎちゃうじゃん。こりゃ、非効率的と思ってやめた」と、彼女は言った。

「私も。読んでる暇なかった」と、真理ちゃんも言った。

「そんなもんだと思うよ。よっぽどスマホ使ってOK、の方が意味があるかも」と、私は言った。

「それいいかもね。今の若い人には合ってるね」と日菜子ちゃんは、私に同調した。しかし彼女は、私と目を合わさなかった。まだ怒っているのか。それとも取り乱したことを、今になって後悔しているのか?帰り道は普通だったのに。

私は生ビールを口に含んだ。試験も大変だったと思うが、私も疲れた。昨日も今日も、それなりにしんどかった。

私は涼ちゃんと真理ちゃんに、どんな解答を書いたか聞かないつもりでいた。いまさら聞いてもしょうがないし、解答に私ががっかりした様子を見せて二人を傷つけたくなかった。それよりも次のことだ。

「さて、今日はゆっくりしていいけど、明日からはまた勉強するんだよ」

「えーっ」

「ぶーっ。拓ちゃん、それ今夜は言わないでよ」と、真理ちゃんが抗議した。

「わかった。もう、今夜は言わない」

私たちは自然に、夜景へと視線を戻した。そして口を閉じ、それぞれの個人的な物思いに耽った。私は港のすぐ脇を通る、国道を眺めた。おそらく一度に、百台は視野に入った。しかし、それらは猛スピードで視界から消え、新たな百台に入れ替わった。もちろんその百台も、一瞬にして見えなくなった。そしてまた新たな・・・、これはキリがなかった。

その莫大な量の車に、最低でも一人の運転手が乗っている。つまり運転手の数だけでも、無数の生きる苦しみがあるということだ。私は紀藤さんと田中さんを思い出した。彼女たちにも、無数の運転手たちにも同乗者たちにも、誰かが語りかけなくてはいけない。ただ「大丈夫か?」と聞くだけじゃなく、個々の生き難さを解くキーを渡さないといけない。気の遠くなる作業だ。だが、取り組む価値はある。

いやはや、私は人が変わったなと自分で思った。以前は、こんな考え方はしなかった。私も人と同じように、バカなやつをバカにし、できるやつに嫉妬した。なぜ変わったんだろう。私は、自分の頭を引っぺがして考えてみた。心あたりは、すぐ見つかった。うつ病だ。私は悩みの極限まで悩んで、その経験から人の悩みに敏感になったんだ。

家出少女がいる。酔っ払って、幸せそうに寝ている。そして寝過ごして最終電車の、終点まで来てしまった。普通の男は、疚しい企みしか頭に浮かばないだろう。

 だが私は気がついていた。彼女たちが抱えている苦しみに。それがどんな姿かはわからないけれど。確かに私は、涼ちゃんと真理ちゃんと出会ってそれを感じた。それは、うつ病の経験のおかげだ。そうなると、うつ病になるのも悪くないということだ。

「そういえばさあ、初めて家に来たとき、涼ちゃんと真理ちゃんお酒飲んでたよね?」

涼ちゃんも真理ちゃんも、突然の私の話題にビクッと反応した。

「ああ、あの日は、私の誕生日だったから・・・。半分ヤケでお酒飲んだの」と、涼ちゃんは言った。

「美味しかった?」

「ううん。全然、美味しくない。このジュースの方がずっといい」

「私も」と、真理ちゃんが言った。日菜子ちゃんは、聞こえない振りをしていた。

「なんで、そんな前のこと聞くの?」と、真理ちゃんが私に聞いた。

「いやさ。あのとき俺は、涼ちゃんと真理ちゃんが何か悩んでるなって、感じたのを思い出したんだよ」

「ええっ、そうなのー?」

真理ちゃんは明るく答えたが、私の膝に乗った涼ちゃんは何も言わなかった。私の言葉が、彼女が負った傷に軽く触れたのを感じた。でも今夜はそれでいい気がした。涼ちゃんは、確実に強くなっている。自分の傷のありかを、じっと見つめる準備が整いつつある。

彼女はテーブルに、ジュースをそっと置いた。身体を後ろに倒し、背中を私の胸とお腹にのせた。そして、上半身をぐいっとひねって自分の顔を私の方へ向けた。そして両腕を、私の首に巻きつけた。彼女がよくするポーズだが、ホテルの暗いバーの中だと、ススキノのその手のお店みたいだった。

「拓ちゃん」と、涼ちゃんは言った。「私、人にお礼言うの下手だけど、拓ちゃんにはたくさん『ありがとう』を言うよ」

「うん」

「迷惑かけっぱなしだけど、それでもお願いしたいの。私と真理ちゃんだけじゃ、どうにもならないことがあるから。だから、これからも助けて。入試が終わったら、また働く。家のいろんなお金は、必ず払うよ。学校に受かったら、真面目に勉強する。だから、これからも助けて 」

「わかった」と私は、できる限り力強く答えた。涼ちゃんはしんみりした顔をした。そして顔をさらに私に近づけ、自分の額を私の耳に軽くつけた。

「私も、おねがいー」真理ちゃんは明るくそう言った。両手でピースサインをしながら。でも彼女の、この天真爛漫さにだまされてはいけない。彼女は、涼ちゃんとの関係を継続するという爆弾を抱えている。私はその爆発時の被害に、備えなくてはならない。

「この前ここに来たときね、私、拓ちゃんにあいつのこと相談したの」と、涼ちゃんは日菜子ちゃんに向かって言った。私はその話題に、心臓が止まりそうになった。

「あいつって誰?」と、日菜子ちゃんが当然の質問をした。

「私の実の父親。ヤクザで、毎晩ママと喧嘩ばかりして、私あいつが大っ嫌いなの」

「そうだったんだ・・・」と、何も知らない日菜子ちゃんは気の毒そうに答えた。そのそばで、さすがの真理ちゃんも心配そうな顔をした。

「私ね、寝てるとよく子供の頃の夢を見るの。あいつとママが喧嘩してる場面。それで、いつのまにか泣いてるの。眠りながら」

「・・・」日菜子ちゃんは、相槌も打てなかった。涼ちゃんになんと声をかければいいのか、思いつかない様子だった。

「そしたらね、拓ちゃんが翌日あいつに会いに行って、私に近づいたら殺すって言ってくれたの」

「そんなことあったね。『逃げても探し出して殺す』、とも言ったよ」

「ふふふ」耳元で、涼ちゃんが笑った。

「すごい、嬉しかったよ・・・」涼ちゃんは、額をさらに私の耳に押し付けた。

「拓ちゃん、そんなこともしたの!?」と、日菜子ちゃんが呆れた様子で聞いた。

「うん、まあ」と、私は返事をした。「あれは、勝ち戦だったからね。楽勝だったよ」

「勝ち戦?」と、真理ちゃんが意味がわからないという様子で言った。

「つまりさ、どっこからどう考えても俺が圧倒的に正しいからさ。正しいことを、涼ちゃんの実のお父さんに伝えただけ。彼はほとんど、言い返してこなかったよ」

「でも、ヤクザなんでしょ?」と、日奈子ちゃんがまだ納得できないという感じで聞いた。

「見かけはね。でも会ってみると、俺は彼の弱さが見えた。だから楽だったよ」

「そんなものなの?」

「そんなもんだよ」

 日奈子ちゃんが私の言ったことを考えていると、涼ちゃんが話題を変えた。

「私、最近夢で泣いてないの」と、涼ちゃんが言った。

「そうだね。最近、涼ちゃん全然泣いてないよ。うーん、二ヶ月以上はないよ」と、真理ちゃんが教えてくれた。

「それはよかった」と、私は言った。


 ホテルのおつまみでは全然お腹にたまらないので、ホテルを出た後すぐそばのラーメン屋に入った。カロリーは高めだが、たまにはいいだろう。

 家に帰ると三人は、ダイニングルームでテレビを見たりiPhoneをいじったりして過ごした。私は一人で、六畳間にこもった。好きな曲をかけて、それに合わせてベースを弾いた。

 24時近くになり、順番にお風呂に入った。私は一番最後に入り、シャワーだけ浴びた。六畳間に戻ると、パジャマに着替えた日奈子ちゃんがとても緊張して待っていた。彼女はいつものように、布団の上にペタンと座っていた。でも落ち着きがなく、目がくるくると回っていた。私をちらっと見たと思ったら、すぐに逸らして意味もなく洋服ダンスを見たりした。

「さあ、日奈子ちゃん寝ようよ」と、私は彼女に声をかけた。

「うん」

 私は先に布団に入り、リモコンで電灯を全部消した。日奈子ちゃんは、今夜はパジャマのまま布団に入った。

「ごめんね」と、日奈子ちゃんが言った。

「どうして?」

「好き勝手なことばかり言って」

「いや、構わないよ。気にしなくていいよ」

 日菜子ちゃんはパジャマのまま、私に身体をピッタリとくっつけた。私は右腕を、彼女の背中に回した。日菜子ちゃんは顔を私の胸に乗せ、両手を握って口元に添えた。彼女の両方の乳房が、私の胸とお腹の境目あたりに押し当てられた。さらに彼女は、両足を私の右足に巻きつけた。右の脇腹から腰のあたりに、日菜子ちゃんのお腹、そして下腹部までを感じた。

 可愛いなあ、というのが嘘偽りのない私の感慨だ。私は赤ちゃんを抱く父親の気分だった。私の身体の感触に、彼女は安心を覚える。それしか思いつかなかった。私には、性欲というものが欠けていた。それは消えてしまったが、私は別のものを手に入れた。人の苦しみに対する感度だ。両方あれば、もちろんもっといいのだけれど。性欲、あれはあれで厄介だ。エゴの源泉だから。

 今の私は、これでいいんだ。



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