第32話 年越し(ロマンの世界)

 さて、大晦日である。いつものように八時前に、私たちは稲毛駅に日菜子ちゃんを迎えに行った。すると彼女はまるでこれから成田空港に行って、海外旅行でも出かけるような大荷物で現れた。

「そんなに、何を持ってきたの?」と私はすぐ聞いた。

「着替えとか、いろいろです」と彼女は答えた。着替え?私が途方に暮れていると、「日菜子ちゃんは、今夜家に泊まるんだね」と真理ちゃんが言った。

「はい!」と、元気に日菜子ちゃんは答えた。

「わーい、一緒に年越ししよ!」と、涼ちゃんが言った。そういうことか。


 家に戻ると、早速授業を始めた。以前に話した通り、今の大学入試の現代文はポストモダン思想が色濃く反映された文章が出題されている。そのキーワードを三つ挙げるとしたら、無意識、システム(構造)、一般常識の否定ということになる。この三つの言葉を繋げると、「私たちは、無意識のうちに構築されたシステムに支配されて生きており、それに基づいて常識とは異なる判断を知らず知らずのうちに下している」てな感じとなる。この「無意識のうちに構築されたシステム」(哲学では、これを『外部』と言う)という考え方はとても便利で、これを使えば何でも著者の言う通りのような錯覚を読者に与える。

 私はこの思考方法を、批判せずにわかりやすく説明することに努めた。実際の大学の過去問題も紹介しながら、その特徴を簡単に解説した。手応えは、まあまあだった。みんなのレポートもまずまずだ。


 さて、今日は忙しい。大急ぎで昼食を済ますと、私はみんなを車に乗せて千葉に行った。そして、美味しいと評判の蕎麦屋に行き、手打ち蕎麦を購入した。年越し蕎麦を作るためである。千葉の街は、人通りはそんなに多くなかった。でも、道行く人はみなどこかせわしなかった。誰もがどこかへ急いでいた。街のあちこちに、正月の飾りを売る店がたくさん現れ、店員が明日に向けて懸命に働いていた。元旦は、近くの千葉神社に初詣に訪れる人がたくさんいるだろう。彼らはその人たちをターゲットにしているのだ。彼らは今夜徹夜だ。

 いかにも年末の雰囲気だった。去年までの私は、年末なんて関係ないので家でゴロゴロして街になんか出なかった。年越し蕎麦も、二十年くらい食べてない。でも、今年はそういうわけにはいかないだろう。涼ちゃんも、真理ちゃんも、日菜子ちゃんも落ち着きがなかった。とてもワクワクしているのが見てとれた。たかが、年が変わるだけだ。また一つ、老いていくだけだ。どうでもいい一日だ。そんなことを口にしたら、袋叩きに合いそうなので黙っていた。


 長い行列に並んで蕎麦を無事購入すると、大急ぎで家に戻り、午後の授業。テーマは孤立主義だ。イギリスのEU離脱や、トランプ政権に代表されるように、現代の世界は自国中心主義が席巻している。世界は第二次大戦後、膨大な時間をかけて築いてきた国家間の信頼関係を自ら放棄しようとしている。なぜか?

 問題は、一部の過激な政治指導者にあるのではない。その政治家を支持する、たくさんの人々が存在するのだから。政治指導者は、彼らの訴えを代弁しているだけだ。その支持者個人が感じている不遇感、不安、幸福の追求について考えなくてはいけない。

 現代だけを見つめても、答えは見つけにくい。ヒントは常に過去にある。例えば、産業革命最中のヨーロッパを思い出そう。一部の資本家が潤う中、莫大な数の工場労働者は過酷な労働環境に置かれ、不衛生な貧民街で生活せざるを得なかった。そんなとき人は、「こんな世界は間違っている」と痛切に思う。何とかしなければ、と真剣に考える。

 やがて労働組合運動が生まれ、資本家と武力衝突を繰り返した。そしてわずかずつ、労働条件の改善を勝ち取っていった。さらに急進的な考えを持った人々は、マルクス主義に助けを求めた。自由経済を廃止し、最終的には国家そのものもなくそうとした。

 EU脱退を目指すヨーロッパの孤立主義者やトランプ政権の支持者は、ほぼ経済的な敗者たちであることを忘れてはならない。彼らの心の中に、「こんな世界は間違っている」という思いが芽生えている。この言葉に不遇感、不安から解放されて、自分なりの幸福を実現したいという願いが込められている。

そんな彼らは、まず移民に反対である。自分たちさえまともに就職口も見つけられないのに、なぜさらに仕事の奪い合いが激しくなるような政策を取るのかと。

 孤立主義は、世界を良くはしない。むしろ深刻な世界的不況を招く可能性が高い。なぜなら、インターネットに象徴されるように、もう世界経済は緊密に結び付けられてしまったからだ。この流れは、一度その利便性を知ってしまったら不可逆の流れとなる。もう昔には戻れないのだ。今その流れを無理矢理断ち切ると、お金の流れがせき止めらた箇所がいくつも発生し、通貨暴落、銀行の信用不安による破綻、さらに国家の財政危機にまで行き着くことになる。

 ではどうすればいいのか?あまりにありふれた答えだが、努力しかない。エネルギー革命が起きて石炭から石油へ全ての産業がシフトしたとき、炭鉱労働者はみな失業に追い込まれた。彼らがいくら炭鉱で働き続けたいと願っても、コストの高い石炭は石油に勝てなかった。彼らは誰も、ゼロから生活を立て直したことだろう。そして、新しい生活の基盤を築いただろう。

 トランプがいくら頑張っても、アメリカに自動車産業や鉄鋼産業の隆盛は戻らない。世界中から安くて質のいい製品を買えるからだ。過去にしがみつかず、これから稼げる新しいアイデアを生み出していくことだ。ギアチェンジするのだ。歴史を振り返れば、そんなことの繰り返しだ。今が特別なわけではない。

 このチェンジに失敗したとき、国家は衰退していく。アメリカ経済は縮小し、莫大な国防予算を組めなくなる。米軍はやがて、世界中から撤退していくだろう。かつてのイギリスのように。

 私は大晦日の夕方まで、そんな話を熱く語った。我ながら、めんどくさい男である。涼ちゃんのおじいさんの言う通りだ。はあ。


 さて全員のレポートチェックが終わると、すぐキッチンに入った。年越し前に蕎麦を食べるので、夕食は早めに軽く済ませておく必要がある。忙しい。私も、街で見かけた人たちと変わらない。

 日菜子ちゃんがキッチンに入ってきて、手伝ってくれると言い出した。それならばと、私は準備していたポトフを日菜子ちゃんに任せ、私は明日朝の雑煮の準備に入った。コンロが二つしかないので、狭いキッチンを私と日菜子ちゃんは行ったり来たりした。何度も身体が触れ合ってしまったが、日菜子ちゃんは全然気にしない風だった。

 二人でキッチンに立っていると、まるで新婚夫婦みたいだと思った。結婚したみんなは言う。最初の一年は、幸せだと。問題は、それ以降だそうである。

 テレビはずっと歌番組だった。この後、紅白歌合戦を見ることになるんだろう。自慢じゃないが私は、20才くらいから紅白をまともに見たことがない。全然好きじゃないジャンルの音楽だし。Led Zeppelin や King Crimson が出てくるなら熱心に見るが、そんなことはあり得ない。アイドルの歌と演歌が、交互に延々と続くだけだ。でも今夜は、付き合わないといけないだろう。

 19時に軽くポトフを食べた後、みんなでずっとテーブルに座ってテレビを見た。AKBではない、女性アイドルグループが出てきた。たちまち真理ちゃんのテンションが上がった。一緒に歌い、同じ振り付けで踊った。

「真理ちゃん、このグループは何ていう名前なの?」と私は聞いてみた。

「・・・」

 真理ちゃんはすぐ教えてくれたが、私は聞いた直後に忘れた。老化現象だ。

「日菜子ちゃんは、歌番組でいい?」と、日菜子ちゃんに聞いてみた。

「もちろん。大晦日っぽくていい!」と、彼女は元気に答えた。「私、このところずっと一人で年越ししてたの。だから、みんなで過ごせるなんて嬉しい」

 ということは、日菜子ちゃんにしばらく彼氏はいなかったということか。二十代前半で、つらい失恋を経験したのかな?教師の仕事もつらいみたいだし、バスケットボールからも身を引いてるし、彼女の二十代は相当ハードだったようだ。おまけに、例の親友のこともある。あの彼女は今夜、どこでどうしているだろう?

 

 紅白歌合戦が始まった。28年ぶりだ。でも番組の作りは、昔と変わってなかった。変わらないからいいんだろう。私は冷蔵庫からビールを出し、六畳間からノートPCを持ってきて久々に小説の続きに取り組んだ。

 前にも触れたが、この小説のテーマは醜い男である。私は幸い今夜、美しい女性三人と大晦日を過ごす幸運に恵まれている。だが、醜い男にそんなことはあり得ない。自分の醜さは、小学校の頃から周りの態度で繰り返し思い知らされることになる。中学になっても、高校になっても、それは変わらない。むしろ悪化する。目を背けられたり、無視されたり、いじめにあったりする。そんな子供時代を過ごした少年は、まず人生を前向きに考えるなんて無理だ。とにかく逃避する。音楽、映画、小説、ゲーム、ネット、アダルトビデオ、そして過去の犯罪者。

 この小説の主人公の親友は、連続殺人鬼という設定だ。彼は言う。「この世はクソみたいな世界だ。でも、そんな中にハッとするほど美しいものが見つかる。俺はそれをもっと見てみたい」と。主人公は気がつかないが、この動機のもとに彼は殺人を繰り返す。涼ちゃんや真理ちゃんみたいな女の子を捕まえ、全裸にしてナイフで切り刻んで殺す。しかも時間をかけ、被害者が痛みに苦しむのを楽しむ。そして、絶命後も死体を傷つけ続ける。

 我ながら、物騒な小説を書いてるよな。自分でそう思った。だが私はここに、解かねばならぬ問題があると考える。ニュースを見れば、信じ難い猟奇的な犯罪が定期的に起こる。それは現在増えたわけではない。大昔からずっとあるのだ。つまり世界は、人がサディスティックで残忍な犯罪を犯す仕組みを持っているということだ。この仕組みをつかまねば、犯罪を減少させることはできない。罪なき多くの人が犠牲となり、その犯人を死刑にするだけの繰り返しだ。

「ねえ、どんな小説を書いてるの?」隣に座っていた日菜子ちゃんが、肩を寄せながら話しかけてきた。

「連続殺人鬼の話」と、私は答えた。

「やだっ、そんなの大晦日に作らないでよ」と、彼女は驚いた顔で言った。

「拓ちゃんはね、男の醜い部分にスポットライトをあてたいんだって」と、私の代わりに涼ちゃんが解説してくれた。なんか、阿吽の呼吸である。

「男の醜い部分?」と、日菜子ちゃんはまた思考停止に陥った。それと、連続殺人が結びつかないのだろう。まあ、仕方のないことだ。

「男の醜い部分といっても、かっこいい男が女を取っ替え引っ替えする話ではないよ。まったく女の人に相手にされない男の話なんだ。それが子供時代から続く。そしてとうとう、彼は絶望する。そして女の子と親密な関係を築くことを断念して、自分の欲だけを追求する。そんな話」と、私は説明した。

「なんかさあ、私の話みたい」と、涼ちゃんが意外なことを言った。

「えっ、なんで?」と私は聞いた。

「私も、男のことは諦めてるから。無理」と、涼ちゃんは言った。

 なるほど。そういう解釈もあり得るな、と私は思った。キーは絶望にある。蓄積されたものであれ、突発的なものであれ、人は一切を絶望することがある。それはその前に、理想があったことが前提だ。自分の理想が永遠に叶わないと悟ったとき、人は絶望し二度とそれを振り返らない。それは、見たくもない過去の記憶となる。

「私も、男に絶望してるよ」と、日菜子ちゃんが言った。

「えっ!?」つい私は、大きな声を出してしまった。

 もう紅白どころではなくなった。画面に見入っていた真理ちゃんも、こちらへ振り返った。

「私はバスケ漬けの毎日だったし、例の親友のこともあったから、男の人と付き合ったのは大学一年の時が初めてだったの」と日菜子ちゃんは言った。

「その相手は、同じ大学の四年生。普段は優しいんだけど、実は全部嘘なの。結局、私の身体が目当てなの」

 うーん、耳の痛い話だ。私だって大学生の頃は、似たようなもんだった。有り余る精力を持て余してた。

「その人とは、二年くらい付き合って強引に別れた。二年我慢したって感じ。好きなんて感情は、ほとんどなかった」

 みんな日菜子ちゃんの話に引き込まれた。テレビのことは完全に忘れた。今AKBが出てきても、真理ちゃんですら気がつかなかったかもしれない。

「大学三年のとき、別の大学の二十代のコーチと知り合ったの。見かけもよかったし、デートしても楽しかった。でも、結局性欲を吐き出すが目的なの。その目的のために、優しい振りをしてるの。私はトイレかと思った」

 トイレか。悲しいけれど、的を得た表現かもしれない。

「その人とは、卒業して教員になっても付き合ってた。彼も教員だったし、このまま結婚するのが後々のことを考えても安全かなと思った。でも・・・」

 日菜子ちゃんは、そこで言葉を切った。彼女はまた、私の手首をぎゅうっと握った。そして私の肩に、自分の肩をつけた。

「二十五のとき、彼に他の女がいることがわかったの。それも二人。しかも彼は、学生にも手を出してることがわかったの」

「そりゃ、無茶苦茶だ」と、私は思わず言ってしまった。

「でもね、よく考えたら不思議じゃないの。彼は毎日、自分の欲を吐き出す場所があればいいの。私でも、ほかの人でも構わないの」

 とんでもない大晦日になってきた。

「一言だけ彼を弁護するとすれば、ものすごい寂しがり屋なんだと思うよ。一人でいられない。だから誰でもいいから、一緒にいてくれる人を探す。その結果、手も出しちゃう。俺みたいに、一人で本読んでれば満足なんて考えられないんだろう」

「拓ちゃんは優しいからそんなこと言うけど、そんなロマンチックなもんじゃなかった。あいつの正体は。全身性欲の塊」と、怒りの治らない日菜子ちゃんは言った。

「私もモデルやったからわかるけど、結局あいつら身体なんだよね」と、真理ちゃんが同調した。

「その後もいろんな人と会ったけど、みんな私の身体を見てる。私のことなんてどうでもいいの。身体だけ」と、興奮の鎮まらない日菜子ちゃんは言った。

 私も一応男なんだけどな。でも日菜子ちゃんは、男に怒りながら私にしがみついていた。手首を握るだけでなく、次第に腕を絡ませていた。彼女にとって、私は男から外れるのだろう。

 そういや私は、性的な目で日菜子ちゃんを見てないな。いや、一回だけある。涼ちゃんと真理ちゃんの一次試験のとき、校門で待っていてくれた日菜子ちゃんの胸に目を奪われた。黒いピッタリしたセーターに、ネックレス、真っ赤な口紅。それらに強調された魅力的な胸のふくらみ。私がそこを見ても、彼女は怒った様子は見せなかった。むしろ、ご機嫌だった。一日中。

 いや、これはこれ以上言葉にするのは無駄だ。日菜子ちゃんは、私の腕にしがみついている。その事実だけで、言葉は不要だ。私は黙っていることにした。

 それから女性三人で、しばらく男批判が続いた。だが、真理ちゃんお待ちかねのAKBが出てきて話は終わった。真理ちゃんは椅子を降りてテレビの前にペタンと座り、また歌いながら踊った。涼ちゃんも一緒に歌ってた。ようやく、落ち着きを取り戻した夜になった。

とはいえ、もう私は連続殺人鬼の物語を作る気になれなかった。仕方がないので、私はすでに書いた話を手直しすることにした。「てにをは」を書き換え、濁点を打つ場所を直し、長い文章を二つの短い文章に分割し、漢字をあえてひらがなに戻した。要らない文章は、思い切って全部消した。これをやっているだけで、かなりの時間がかかる。

ここに集まっている女性たちは、理由は違えどみんな男が嫌いなんだな。だけどその理由の僅かな違いが、彼女たちの未来への道を変えていくだろう。真理ちゃんが男を好きになることはないだろう。だがそれでも、気の許せる男と生活を共にする可能性はゼロじゃない。真理ちゃんは子供を産み、その子に全ての愛情を注ぐかもしれない。

涼ちゃんも、あのバカ野郎の親父の記憶を克服できれば、男を許せるかもしれない。困難な道のりだが、不可能ではない。この世に絶対はないのだから。

日菜子ちゃんは、彼女の「こころ」を評価してくれる男に出会えばいい。男だって、本当に求めているのは心の繋がりだ。フロイトは、男の恋愛感情を母親との関係にまで戻した。そのせいで、エディプス・コンプレックスなんていう近親相姦みたいな説になってしまったが、彼もバカじゃない。的は外してしまったが、的自体は見えていた。

男も女も、成長していく中で自分のロマンを形作っていく。その仕方は人それぞれだ。誰もが小さな子供のころから、自分独自のロマンの世界を生み出す。これはみんな言葉を使って作るのだが、いざ言葉で表そうとすると言葉にならないという厄介極まりないものだ。「本当の自分」という表現を使うとわかりやすい。確かにそれは頭にあるのだが、ぴったりな言葉が見つからない。

次に子供たちは、自分のロマンを築く梃子(てこ)を選ぶ。おもちゃ、スポーツ、歌、ダンス、機械、生物、花、アニメ、ゲーム、小説、そしてインターネット、それから勉強も。例を挙げたらキリがない。子供たちが、なぜ自分のロマンの梃子にどれかを選ぶのか?なぜ多くの選択肢から、何かひとつを選ぶのか。私たちは、これを解明する原理を未だ持っていない。

というよりは、これはなんとでも言える問題なのだ。いくらでも説を作れるが、その優劣がつかない。これは、カントが禁じ手にした理性の限界の問題である。

しかし子供たちが何を選ぼうと、彼らが自分のロマンの世界を作ることは間違いない。それは、みんな自分の子供時代を思い出せばわかることだ。問題は、そのロマンの世界が「どのように傷ついて成長するか?」にある。

誰もが子供のころから、大小の挫折を経験する。スポーツが下手だ、歌やダンスが下手だ、勉強ができない、見かけが醜い、などなど。多くの人がこの傷を負いながら、自分を鍛えていく。自分の身の程を知る。

しかしこの厳しい成長過程が平和裏に進むためには、一定の条件を必要とする。まずまずの衣食住が与えられること。両親や兄弟との関係が、そこそこ円満であること。親しい友人を持ち、第三者の考えを知る機会を得ること。このあたりが最低の基礎条件だ。

この基礎的条件が一つでも欠けると、子供たちは自分のロマンの世界を人と共有できるかたちに育てあげられない。自分のロマンの世界に逃げて引きこもったり、攻撃的になって相手に自分の考えを押し付けるようになったりする。具体的には、登校拒否や家庭内暴力、最悪は犯罪となる。

この最初の関門で、涼ちゃんと真理ちゃんはつまづいてしまったと言える。二人の家庭環境はかなり過酷だ。涼ちゃんは小学生の頃から、両親の喧嘩に耐えかねて二人を見限っていた。そして中一のとき、涼ちゃんと両親の関係は完全に破綻した。

真理ちゃんは、女性を愛するというロマンの世界を選んだ。それは、想像を絶する茨の道だ。そのせいで、彼女が死を考えるほど苦しんだことはすでに書いた。それに真理ちゃんは、両親を持たなかった。父親だけでなく、母親も。真理ちゃんのママは仕事に忙しく、真理ちゃんは一人で成長するしかなかった。


次に現れる関門は、恋愛だ。誰もが自分の育てたロマンと、合致する相手に恋をする。しかし、ほとんどの人が失恋を経験する。恋する人に振られた子供たちは、挫折感と無力感を味わうことになる。

では、上手くいけばいいのか?いや問題は、そんなに簡単ではない。運良く恋した相手と、恋愛関係を築けたとしよう。だが遅かれ早かれ、破局が待っている。付き合ううちに、お互いのロマンの世界の違いが露呈するからだ。相手を思う気持ちが強いほど、この破局で受ける傷は深い。

十代から二十歳くらいで受けた恋愛の傷を、一生治せない人は多い。彼らは年老いても、若い頃に受けた傷を悔いる。結婚し家庭を築いても、その傷から抜け出せないのだ。

日菜子ちゃんを傷つけた男たちは、彼女と会う前に自分のロマンの世界を傷つけていた可能性がある。手酷い失敗を経験をした男たちは、女性の中に自分のロマンが実現することを諦める。女性を信用せず、自分のロマンを隠し、ただ束の間の「恋愛ごっこ」を繰り返す。性行為によって、自分が負った傷をごまかし続ける。

彼らは女性たちに言うだろう。「もし俺が自分のロマンの世界を明かしたら、君はそれを傷つけるだろう。だからしない」と。だからといって、女性たちが持つロマンの世界を傷つけていいわけはない。それは、お互いさまなのだ。

では、どうすればいいのか?それはやはり、自分のロマンの世界を正しく育て、相手のそれと連結する術を覚えなくてはならない。それは、恋人一人の力では足りない。以前日菜子ちゃんに話したとおり、複数人の助けを必要とする。彼らが恋人とともにその人の「こころの骨格」を形成する。年齢関係なく優れた友人たちに恵まれたとき、人は最大の危機も脱することができる。

ここまで考えて、私はやっと気がついた。なんでこの三人が、私と一緒にいるのかを。そうか、自分に良い影響を与える、親友や先輩の役目を私にやってくれということだ。こりゃあ、私の責任は重いな。


23時になった。私はキッチンに戻り、年越し蕎麦の準備を始めた。大晦日とはいえ、真夜中の食事だ。身体にいいはずはないので、私は質素な蕎麦を作るつもりだった。すると、日菜子ちゃんがすぐキッチンに来て、自分が作ると言い出した。

「いいよー。日菜子ちゃんはお客さんなんだから。寛いでてよ」

そう私は言ったのだが、彼女は譲らなかった。私は折れて、テーブルの席に戻った。日菜子ちゃんは、美味しいお蕎麦を四人分作ってくれた。

蕎麦を食べ終えるころ、紅白歌合戦が終わった。今年は、紅組の勝利だった。歌に勝敗をつけるなんて、ナンセンスだと思ったがこれも顰蹙を買う発言なので黙っていた。

番組は、「行く年来る年」に変わった。私の長いお勤めはもう終わりだ。年越しの時間が近づくと、日菜子ちゃんが鞄からクラッカーを四つ出して配った。

「10、9、8、7、・・・」

とほほ。こういう儀式も、私の感性と相容れない。でも、三人ともノリノリだった。合わせよう。楽しいかもしれないし。

「ゼロ!」と、三人は叫んでクラッカーを鳴らした。私だけ、遅れた。バンドなら、クビになりかねない失態だ。だが、三人とも笑って許してくれた。

さて、寝るかと私は考えた。だが、ことはそうは運ばなかった。

「初詣ーーーー!」と、涼ちゃんが大きな声を出した。

「行きたいーーー!」と、真理ちゃんが続いた。

「わかった。明日の午前中に行こうか」と、私は提案した。しかし、

「今、行きたいーーー!」と、涼ちゃんが上を向いて怒鳴った。

「行くーーーー!」と、真理ちゃんが両目を閉じてこぶしを握り、地団駄を踏んだ。もう、おもちゃ屋の前から動かない子供と同じである。

私はこの場で唯一大人の、日菜子ちゃんに聞いた。

「これから、初詣行く?」

「行きたーーーい!」と日菜子ちゃんは、舌ったらずなしゃべりかたで答えた。

だめだこりゃ。昔懐かしい、ドリフターズのコントだ。


私たちは、真夜中の道を駅へ向かって歩いた。確かに、元旦の深夜は一晩中電車が動いている。涼ちゃんも真理ちゃんも日菜子ちゃんも、とても気分が高揚しているのがわかった。そういや、私も確かに高校生の頃は、大晦日の夜は友達と一晩中過ごしたっけ。私は、童心に帰ろうと心がけながら、駅へ急いだ。

駅への道は、24時過ぎだというのに人通りが多かった。家族連れや、若い恋人同士、学生らしい数人のグループなど。みんな真っ直ぐに、駅へ向かって歩いていた。彼らはどこへ行くのかな?明治神宮か、成田山か。

どうせ行くならば、合格祈願で有名な千葉神社だろう。千葉駅で電車を降りて神社へ向かうと、真夜中だというのに人でごった返していた。昼間見た正月飾りの出店あたりから、人が鈴なりになっていた。人波をかき分け神社の近くまで進むと、もう境内の外まで長蛇の列が出来ていた。いやはや。こりゃ、賽銭箱までたどり着くのに何分かかるんだ?

「お願いすること決めた?」

 私は、涼ちゃんと真理ちゃんに聞いたのだが、日菜子ちゃんが真っ先に手を上げて答えた。

「決めたー!」

「何にしたの?」

「ひ、み、つっ❤️」

 私はサーっと、血の気が引くのを感じた。しかし、日菜子ちゃんはご機嫌である。さっき男に絶望したと語っていたときと、まるで別人だった。彼女は真夜中の初詣を、心底楽しんでいるようだ。

 境内に入ると、まるで満員電車みたいな混雑だった。私の大嫌いな場所だ。三人がいなかったら、死ぬまでこの神社に初詣に来なかったろう。涼ちゃんと真理ちゃんはすぐに、それぞれ私の両手を握った。出遅れた日菜子ちゃんは、後ろから私の右の肘のすぐ上をつかんだ。そのままみんなほとんど何も言わずに、列が進むのをひたすら待った。

 さっき私は、優れた友人が人の心に重大な影響を与えると考えた。しかし人生において、疑いもなく信頼できる人に出会う機会はとても少ない。私も自分の過去を振り返って、十人もいない。それほどこの世界は、不安定で混乱した残酷な世界だ。

 やっと賽銭箱までたどり着いた。私はまず、涼ちゃんと真理ちゃんの大学合格と二人の幸せを祈った。続いて、日菜子ちゃんの幸せを願った。これで終わりにしようと思ったら、真理ちゃんのお父さんが頭に浮かんだ。続いて、涼ちゃんのお母さんがよぎった。私は二人の幸せも祈った。すると、涼ちゃんのおじいさん、おばあさんのことまで考えてしまった。そして真理ちゃんのお母さん、果ては涼ちゃんのお父さんまで現れた。しょうがない、全部祈ろう。祈った後で、千円札を賽銭箱に放り込んだ。普段なら百円玉だが、今年は願いが多すぎた。

 初詣を終えた後、また列に並んで絵馬を買った。合格祈願のためである。涼ちゃんと真理ちゃんは、「必勝」とか「突破」とか威勢のいい言葉を書き込んでいた。これも私だったら、絶対にやらないことである。他人と付き合うと、気づくことは多い。

 最後に、四人でおみくじを引いた。これが最悪だった。涼ちゃんと真理ちゃんは、なんと「大吉」。日菜子ちゃんは「吉」だった。なのに私は、「凶」だった。

 おい、ほんとかよ。神社も客商売なんだから、「凶」なんかおみくじに用意するか?いい気分でお客を帰らせて、また来たい気分にさせればいいじゃない。それなのに、「凶」なのか?

「拓ちゃん、『凶』なの?」と、真理ちゃんが聞いた。

「そうだよ」

「引き直してみたら?」と、涼ちゃんが言った。でも、何度も引いたらおみくじじゃないだろう。

「いいよ、俺は凶で」と私は答えた。つまり去年を上回る、難問が私に舞い降りるということだ。いいだろう。去年だって私は頑張ったんだ。今年も頑張る。それだけさ。私は「待ち人来らず」だとか、ろくなことが書いてないおみくじをほとんど読まずにサッサっとたたんだ。それから、用意された木の枠に結わえてある紐に縛り付けた。そして私たちは、家路についた。


 家に帰ると、もう二時半だった。だけど、涼ちゃんと真理ちゃんが、今度は初日の出を見ると言いだした。

「見たいーーーー!」涼ちゃんと真理ちゃんが、声を合わせた。

 もういいです。言う通りにします。かくして明日は、六時半起きとなった。あと四時間しかない。私はさっさと六畳間に引き上げたが、女性陣はそうは行かない。三時過ぎまで、洗面室を行き交う彼女たちの様子がうかがえた。日菜子ちゃんは、空き部屋の母親のベッドで寝てもらうことにした。

 私は布団に入り、iPhoneのアラームを6時にかけた。初日の出を見たあと、すぐ朝食を食べられるよう準備するためだ。なんかホテルの従業員みたいだな、と自分で思った。

 薬を飲み、灯りを消して布団に横になった。そして私はまた、人のロマンの世界について考えた。私はなぜか、新渡戸稲造の「武士道」のことを思い出した。

恥ずかしながら、私は彼のこの本を読んでいない。しかし、おおよその予想はつく。この「武士道」という言葉は、以前「国」という言葉で話した通り、まず統一見解は作れない。この言葉に込める意味が、人により大きく異なるということだ。しかし今は、そのことは重要ではない。

昔から多くの人が、武士道という言葉とその世界を、自分のロマンを形成する梃子(てこ)にしたということだ。どうすれば一番カッコ良く、美しくなれるかを「武士道」を土台に考えたということだ。それは一見かけ離れているように思えても、長大なゲームを解いていく少年と変わりない。なぜなら、両者ともヒーローになりたい、社会から賞賛を得たいという願望を根っこに持っているからだ。


そんなことをボンヤリ考えていたら、キイっとダイニングルームとリヴィングルームを隔てる扉の開く音がした。誰かが、ここに戻ってきたのだ。私は、忘れ物したのかなと思った。しかし次に、六畳間の襖が開いた。そこに寝巻き姿の、日菜子ちゃんが立っていた。カーテンから差し込む、街灯の光が彼女の姿をうっすらと照らしていた。

彼女はとても、真剣な顔をしていた。頭をひねって、レポートを書いているときの表情だ。日菜子ちゃんは厳しい視線を、私の掛け布団の上に漂わせていた。その尋常じゃない様子に、私は彼女に声をかけられなかった。

日菜子ちゃんは何も言わずに、寝ている私の腰のあたりにしゃがんだ。そしてすぐに、掛け布団をめくって中に入ってきた。私と平行に身を横たえ、頭から足の先まで全身を私にくっつけた。私は、昔飼っていた雄猫のことを思い出した。

 その雄猫は、24時過ぎに私の枕元に来たものだった、「ミイ」と一声鳴き、私に掛け布団を上げさせた。手抜きな猫だった。私が掛け布団を高く持ち上げると、彼はスルスルとその中に入った。私の腰にあたりまで進むと、彼は身体の向きを反転させた。そして私の脇腹に、ドスンと身を横たえた。猫と言っても5kgくらいの重さがあるので、お腹にぶつかると結構効く。その体勢で、彼はしばらくぐっすりと眠った。

 彼は朝4時頃になると、また私の胸のあたりまで上がって来て、「ミイ、ミイ」と鳴いて私を起こした。そして私に、また掛け布団をを上げさせた。彼は掛け布団の中から出ると、ヒラリとベッドから飛び降りた。そしてものすごい速さで、部屋を出て行った。

日菜子ちゃんはモゾモゾと動いて、身体全身を掛け布団の下に隠した。やがて彼女の右手だけが、外に出てきた。彼女は畳の上に、寝巻きの上着を置いた。それからズボンも脱いで、上着に重ねた。

日菜子ちゃんはゴソゴソ動き続けた。やがて暖かそうな長袖シャツが現れた。彼女はそれも、脱いだ寝巻きの上に置いた。さらに日菜子ちゃんは動き続け、最後に小さなショーツが出てきた。彼女はそれを、重ねた寝巻きの下に押し込んだ。

 さて日菜子ちゃんはもう、掛け布団の下で何も着ていないことになる。彼女は私の胸に頭を乗せ、両手を軽く握って顎につけた。全身を私の身体に擦りつけ、足を軽く絡ませた。

 ありゃまあ、とんでもないことになったぞ。だが日菜子ちゃんに裸で身体を密着されても、私の男の機能はピクリとも反応しなかった。それはまったく起動しなかった。頭も、身体も。私はただ、じっとしていた。

 戸惑っている私をよそに、日菜子ちゃんは「スーッ、スーッ」と寝息を立て始めた。寝つきがいい。羨ましい限りだ。

 しばらく思案したが、このまま全てを放っておくことにした。日菜子ちゃんは眠ってるんだし。私が何をすることもない。そのうち日菜子ちゃんは、いびきをかき始めた。

「ぐうー。ぐううー」

 よっぽど疲れたのだろう。考えれば朝早くから起きて、真夜中まで活動していたんだ。疲れて当たり前だ。私は彼女のいびきを子守唄に、うつらうつらと眠り始めた。

 一時間くらいして目が覚めたので、私は日菜子ちゃんの頭を敷布団の上にそっと下ろした。そして押入れから毛布を二枚出して、布団に戻った。掛け布団を自分の身体に掛け直した後、日菜子ちゃんの身体の上にだけ毛布を二枚重ねてかけた。日菜子ちゃんはまったく目を覚まさなかった。一度寝たら、絶対起きないタイプなのだろう。時計を見ると、四時を過ぎていた。私は少し焦って、もう一度寝直した。

 六時に、目覚ましの音で目を覚ました。すぐに切ったら、日菜子ちゃんは起きなかった。私はまた彼女の頭をそっと下ろし、布団を抜け出した。そしてキッチンで雑煮を作りながら、買い込んできた出来合いのおせち料理をせっせと皿に並べた。冬の六時は、まだ闇の中だ。窓の外は、いつもにまして静まり返っていた。

「あけましておめでとう!」と、涼ちゃんと真理ちゃんが同時にダイニングルームに現れた。

「おめでとう」と私は、平静を装って挨拶した。しかし、日菜子ちゃんは六畳間で眠ったままだ。ううむ。でも、いつかはバレることだ。気にしないことにしよう。

 とはいえ、初日の出を見るならそろそろ出発だ。私は六畳間に戻って、日菜子ちゃんの両肩をブルンブルンと揺すった。

「日菜子ちゃん、初日の出を見に行くよ」。

 ようやく目覚めた彼女は、布団の上で掛け布団をかぶったままぼうっとしていた。私はキッチンから、熱い煎茶を作って持って行った。いやはや、この調子でよく社会生活が勤まるな。煎茶の力でやっと意識の戻った彼女は、掛け布団の中で脱いだ服を一つずつ着始めた。私はキッチンに戻った。

「Happy new year,dear hinako!」と、六畳間から出てきた日菜子ちゃんに真理ちゃんが挨拶した。

「Happy new year.What a wonderful morning!」と、涼ちゃんも言った。

「Ooh,you speak English?」と日菜子ちゃんが二人にたずねた。

「A little bit」と、涼ちゃんが答えた。「Taku taught me how to learn English」

「Really? It's wonderful!」と日菜子ちゃんが驚いて言った。

「Now we got to get out.Let's go to the rooftop」と真理ちゃんが言った。こうして私たちは、玄関からまだ薄暗い外へ出た。

 

エレベーターで屋上に出ると、風がとても冷たかった。真夜中は気にならなかったのに、やはり十四階建のマンションのせいだろうか。骨にしみる寒さだった。すでに、マンションの住民が何組かが、私たちと同じく屋上で日の出を待っていた。

 ちょうど、東の空からまさに太陽が姿を表そうとしていた。東の地平線が、ライターで火を点けられたように、オレンジ色に明るく燃えていた。その炎はどんどん周囲に燃え広がり、やがて東の空全体が明るくなった。そしてついに、火の玉のような太陽が頭を少しだけ出した。

「うわあああ・・・」と、真理ちゃんが歓声をあげた。

 私たちが彼の出現に驚いていることなど気にせずに、彼はどんどん高度を上げていった。たちまち周囲が明るくなってゆき、彼が放つ暖かい光が私たちの身体を刺した。あらためて、彼の存在のありがたみがわかった。

 太陽がその姿を全てを現すと、今度は真正面に富士山が現れた。雪をたっぷりかぶった富士山は、今日も堂々としていた。焦らず、うろたえず、胸を張って微笑を浮かべながら、彼は無言で立っていた。

 2019年か、と私は思った。今年もやることは多い。解決しなければいけない問題が山積みだ。だが、勝算はある。私には、アイデアがある。一つ一つ、片付けて行くさ。

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