第31話 目黒再訪
涼ちゃんのおじいさんは、約束通り30日を一日開けてくれた。私たちは日菜子ちゃんも誘い、四人で目黒の家に遊びに行った。
電車はめんどくさいし、年末は高速も空いているだろう。私たちは車で行くことにした。北千住で日菜子ちゃんの家に寄り、首都高に乗り直して目黒に向かった。予想通り、車はほとんど走ってなかった。
涼ちゃんのおじいさんとおばあさんの喜びようは、半端ではなかった。それなのに、涼ちゃんはまたクールだった。うーん、なぜだろう?再び私は考え込んだ。それは、おじいさんとおばあさんが好きではないというよりも、この家が子供時代のつらい記憶と結びついているからかもしれない。彼女は両親が喧嘩するたびに、暗い夜道を歩いておじいさんとおばあさんの家に逃げ込んだという。この家はその思い出を、涼ちゃんの脳裏に蘇らせるのかもしれなかった。
私たちは応接間に入り、またふかふかのソファに腰を下ろした。巨大な三人掛けのソファは、詰めれば四人座れた。涼ちゃんと真理ちゃんは小柄だし、日奈子ちゃんは背は高いけどスポーツ選手らしく締まった身体なので、ぎゅうぎゅうになったけど収まった。お互いの身体が触れ合うことになったが、それで不平を言うものはいなかった。
私は今日は、極力黙っていようと心に決めていた。私がしゃべり出すと、またおじいさんとおばあさんに喧嘩を売りかねない。むしろ、涼ちゃんや真理ちゃん、そして日奈子ちゃんが二人と自由に話す一日にしたかった。
会話は、日奈子ちゃんが加わったおかげで話題豊かになった。日奈子ちゃんが話す学校の苦労話は、あの名門学校の実態を明かしてくれた。おじいさんは、
「先生は、みんなそんなに窮屈な思いをしてるのか。俺が今度、理事長に話すよ。なんなら、今日だっていいぞ」と言った。
「是非、お願いします。いい学校になると思います」と、私はここだけは口を挟んだ。
「わかった。任せとけ」と、おじいさんはやる気満々で言ってくれた。
みんながワイワイと話している中、私はトイレに行くために席を外した。そして、応接間には戻らずに広い庭に一人で出た。早速、ドリーが近づいてきた。
彼は警戒しながら、ゆっくりと歩いて私との距離を詰めた。私は立ち止まって、彼を優しく見つめた。ドリーはついに私の足元まで来て、私の膝あたりに顔をこすった。きっとまた、私の身体に残る涼ちゃんの匂いを確認しているのだろう。間違いないと彼は確信したのか。私の目の前に腰を下ろして、尻尾を大きく振り出した。口を開け舌を出して、さも機嫌良さそうな表情に変わった。
「おはよう、ドリー。久しぶりだね」
私はそう言って、彼の頭をそっと撫でた。さらに尻尾が、ブルンブルンと力一杯振られた。おい、ドリー。そんなに頑張ったら疲れちゃうぞ。
私とドリーは、小さな池の前にあるベンチに移動した。私がそこへ向かって歩き出すと、彼は喜んでついてきた。私は、そのベンチの左端に腰を降ろした。するとドリーは、ひらりと飛んでその右側に乗った。そしてゴロンとベンチに横になり、頭を私の左膝の上に乗せた。そして彼は、しばらく昼寝を始めた。その様子は私に、この間の日奈子ちゃんを思い出させた。
ドリーを膝に寝かせながら、私は真理ちゃんのお父さんのことを考えた。あれからまだ、彼から連絡はない。だが、彼にとって家族と過ごす最後の年末年始だ。波風を立てて、気まずい年越しをすることもないだろう。私はもうしばらく待つことにした。
とはいえ、彼が生きているうちに解決しなければいけない問題だ。彼が動かなかったら、私はどうする?答えはすぐに出た。真理ちゃんと私の二人で、彼の家を訪ねるしかないだろう。そして堂々と、彼の家族に名乗ることにしよう。できれば娘が二人とも来ているときが望ましい。いや、それは絶対条件だ。お母さんと、娘さん。三人同時にこの話を聞いた方がいい。誰か一人だけ知らないのは、その人にとってつらいことだから。
真理ちゃんには、私が田所さんに「家族に真理ちゃんのことを話せ」と言ったことをまだ説明していない。なにしろ突然、実のお父さんが現れたばかりだ。彼女にこれ以上気苦労をさせたくなかった。本来なら、勉強に集中しなければいけない時期だ。そんな時期に、余命二、三ヶ月とは。まったく世の中は上手く行かない。
それから私は、今度は涼ちゃんのお母さんのことを考えた。彼女とは、まだ一回しか話していない。そもそも、他人の私がしゃしゃり出る問題でもない。これは、絶対に涼ちゃんのおじいさんとおばあさんの協力を必要とするだろう。自分の実の娘なんだから。もしかしたら、今日何か進展があるかもしれない。
「拓ちゃん、ここにいたの」いつのまにか涼ちゃんが一人で、ベンチのそばまで来ていた。
「いや、ドリーが寝ちゃったからさ。動けなくなったんだよ」
「ドリー、ずるい」と涼ちゃんが言うと、彼女の言葉が聞こえたのかドリーが飛び起きた。わん、わんと心から嬉しそうに吠えて、彼はベンチを軽快に飛び降りた。それから彼は、後ろ足で立って涼ちゃんにまとわりついた。涼ちゃんは自分の周りを飛び跳ねるドリーと、しばらく遊んだ。それから彼女は、私の真正面まで歩いて来て背を向けた。そして私の膝にドスンと座った。
いや、おじいさんとおばあさんの前では、膝に座っちゃマズくないか?しかし、座ってしまったものはどうしようもない。彼女は膝から下を両足とも前後に振って、とても気分良さそうな様子を見せた。これじゃドリーと、あんまり変わんないぞ。
ドリーはまたベンチに飛び乗り、腰掛けながら体重を涼ちゃんに預けた。そこへ、応接間にいたみんなが庭に出てきた。あーあ。みんなが近づいてきても、涼ちゃんは膝を降りなかった。
「なんてまあ、涼ったら。柿沢さんの膝に子供みたいに乗って・・・」
まずおばあさんが、そう言って絶句した。
「涼ちゃんは、すごい甘えん坊なの。だから拓ちゃんに甘えるのが、大好きなの」と真理ちゃんが説明した。
おじいさんは、どう思っただろうか?彼は苦い思いを、感じているかもしれなかった。なぜなら、私の役割は本来おじいさんの娘、つまり涼ちゃんのお母さんが務めるべきだからだ。お母さん、そしてお父さんの不在が、涼ちゃんをこの年になっても甘えん坊にさせたのかもしれない。もちろん、全部仮説に過ぎないけれど。
お昼になった。私たちは庭から応接間に戻った。ドリーは、少し寂しそうだった。昼食は、応接間の隣のシックな洋室に用意されていた。八人掛けのテーブルがあり、ナプキンと食器が綺麗にテーブルの上に並んでいた。メインディッシュは、巨大な皿に盛られたシーフードグラタンだった。
「涼は野菜が大嫌いなんですけど、シーフードはみんな好きなんです。涼の好みに合わせてすみません」と、おばあさんは言った。
「今は野菜食べてるよ」と、涼ちゃんはすぐ反論した。
「うちでは、毎食サラダを出すんです。涼ちゃんは私に気を使って、全部食べてくれてますよ」と私は言った。
「この間もそううかがいましたけど、まだ、信じらないです」
涼ちゃんは用意されたサラダを小さな皿にとって、ドレッシングを少しかけてモリモリと食べた。その様子を見て、おじいさんとおばあさんは目を見開いていた。
話題は大学受験に変わった。涼ちゃんは、茗荷谷の女子大が第一志望だけど、駄目なら千葉にある大学を受けると宣言した。
「なんで千葉なんだい?」と、おじいさんは不思議そうにたずねた。
「だって、西千葉から近いじゃん」と、涼ちゃんは当たり前のように言った。私も初めて聞く話だが、まあいいだろう。真理ちゃんも、家から大学通うって言ってたし。自然な話だ。
「柿沢さんは、ご迷惑ではないですか?」と、おばあさんは心配そうに私に聞いた。
「私はまったく構わないですよ。独身で一人暮らしですから。部屋も余ってますし」と私は言った。
食後は、お手伝いさんが二人いて食べ終えた皿をささっと片付けてくれた。その代わりに、煎茶やコーヒー、紅茶を何種類も用意してテーブルに置いてくれた。私は、コーヒーをブラックで飲んだ。
「柿沢さんもそうですが、平松さんもこのわがままで気難しい涼に、お付き合い下さって本当にありがとうございます」とおばあさんは、真理ちゃんにお礼を言った。
「いえ、私の方こそ涼さんに救ってもらったんです」と、真理ちゃんは説明した。
「そうなんですか?」と、おばあさんはびっくりした様子で言った。彼女にとって涼ちゃんは、いつまでもわがままな子供のままなのだろう。
「涼が、平松さんを救ったってどういうことなのかな?」と、今度はおじいさんが真理ちゃんに聞いた。
「あの・・・、私は・・・」と言いかけて、真理ちゃんは少しためらった。ヤバい話になりそうだった。でも、本当のことだ。私は黙っていることにした。
「私は、女の人しか好きになれないんです。子供の頃からです。理由は、全然わかりません」と真理ちゃんは言った。背筋を伸ばし、少し怖いくらいの面持ちで彼女はみんなに宣言した。
涼ちゃんのおじいさんとおばあさんは、高校三年生の女の子の勇気ある発言に圧倒された。二人とも言葉を失っていた。
「そんな私を、涼さんは受け入れてくれました。私を、一番の親友にしてくれました」と、真理ちゃんは言った。
「親友じゃないよ、恋人だよ」と、涼ちゃんが訂正した。「私の親友は、拓ちゃん。真理ちゃんは私の恋人なの」
多分涼ちゃんが、おじいさんとおばあさんに真理ちゃんとの関係をはっきり説明したのは、今日が初めてだろう。今日は、記念すべき日となったわけだ。とてもいいことだと思う。
しばらく誰も、口を聞かなかった。部屋の隅でぶったまげているお手伝いさんを含めて、私たちはしばらく涼ちゃんの言葉の余韻に浸った。
「わかった。事情は柿沢さんから聞いていたけれど、今日平松さんと涼から話を聞いてようやく理解できた」と、涼ちゃんのおじいさんは言った。
「私も、涼の口からはっきり聞いて理解できました。涼はわがままで大変な子だけど、平松さん、どうか涼をよろしくお願いします。この子を助けてください」と、おばあさんは言った。
真理ちゃんは、何も言わずににっこりと笑った。あの、誰の悩みも吹き飛ばす、慈愛に満ちた笑顔だ。「どうだ、参ったか!」である。
「ねえ、拓ちゃんと日菜子ちゃんってどう思う?」と、突然涼ちゃんが言った。まさに、急にバズーカーをぶっ放すような発言だ。私は椅子から飛び上がった。日菜子ちゃんも同じだろう。
「どうって?」と、話の意図が飲み込めないおばあさんが涼ちゃんに聞いた。
「お似合いかどうかってこと」と、涼ちゃんは言った。
「あら、まあ・・・」と、おばあさんは何というべきか困っている様子だった。
「大月先生は、今おいくつなんですか?」と、おじいさんは日菜子ちゃんに聞いた。
「さ、三十です」と、日菜子ちゃんは動揺しながら答えた。
「ちょっと、年が離れすぎだよなあ」と、おじいさんは言った。ごく真っ当な意見だと思う。
「関係ありません!」と、突然日菜子ちゃんは生徒を叱るような調子で言った。あららー。
「それじゃあ、大月先生は柿沢さんが好きなんですか?」と、おじいさんは畳み掛けた。
「い、いやっ、そ、それは・・・、その・・・」日菜子ちゃんは答えに窮した。その様子に、涼ちゃんも真理ちゃんも笑っていた。私はもう、一切関知しないことにして黙っていた。
午後はまた広い庭に出て、ドリーと遊びながら森を歩いたりベンチに休んだりして過ごした。自然とグループが別れ、私はおじいさんとおばあさんと三人で木々の間をゆっくり歩いた。涼ちゃん、真理ちゃん、日菜子ちゃんは飽きることなくドリーと池のそばで遊んでいた。
私はおじいさんとおばあさんに、涼ちゃんのお母さんの話を切り出した。
「涼ちゃんのお母さんと、連絡は取られましたか?」と私は言った。
「この間君と電話で話した後、連絡を取ったよ」と、おじいさんは私に言った。「年下の君に、俺の不始末を怒られて立場がなかったからな。娘の昔の友達に片っ端から電話をかけて、携帯の電話番号を聞き出した。そして娘と話したよ、七、八年振りかな」
「それは良かったです」と私は答えた。
「娘の名は、幸子っていうんだ。幸せになって欲しくて名付けた。でも、名前と正反対の人生を選びやがった」と、おじいさんは苦々しそうに言った。
「結論を出すのは、早いです。幸子さんには、まだ時間が十分にあります」
「そうやって、俺の意見を即座に否定するのが君なんだよな。ほんと、君と話してると新鮮だよ」と、おじいさんは言った。
「失礼を言って、申し訳ありません」
「馬鹿野郎、心にもないことを言うな。貴様はきっと、俺が次に話すことも否定するだろう。だったら、先に本音だけ言ってくれ」
「わかりました。私の考えていることをお話ししましょう。」と私は言った。「この間の電話でも少しお話しした件ですが、受験が終わったら幸子さんと涼さんが会う機会をセットしましょう。この家で。私の考えでは、二人はお互いにお互いを見捨てたと考えている。涼ちゃんはお母さんを捨てて、この家に逃げたと考えている。幸子さんは、男を作って涼さんを捨てたと考えている。この溝を埋めましょう。深い深い溝です。一回で済む問題ではないと思う。でも、私たちは協力して、二人の間を取り持ちましょう。そうしないと、涼さんが過去の両親の喧嘩を夢に見て、眠りながら泣く夜を減らすことができない。私は、少しでもその回数を減らしたい。起こってしまった事実は消せない。涼さんはこれからも、つらい夜を思い出すでしょう。でも、私たち大人は、涼さんのつらい記憶を和らげる努力をすべきだ。立ち止まっている場合じゃない。自分にできることは、全部やりましょう。その上で、涼さんと幸子さんに判断を任せましょう」
いかん。また、やっちまった。私は涼ちゃんのおじいさんとおばあさんに、コンコンと説教をしてしまった。
「柿沢さんは、本当に情熱的な方なんですね」と、おばあさんは言った。
「いや、こいつは情熱だけじゃないんだ。しっかり準備して答えを出してくる。相手に有無を言わせない。だから、こいつの言うことはキツいんだ」と、おじいさんはおばあさんに説明した。
「わかった。俺たちが七、八年間ほったらかしにしていた問題に手を出すよ。幸子は、今さら家にも来れないし、涼にも会えないと言った。ほんの二、三日前の話だ。でもそれを、君は間違いだというんだな」とおじいさんは言った。
「その通りです。幸子さんのお考えは、涼ちゃんにとっても、幸子さんにとっても良くない考えです」
「君はつくづく、涼を愛しているんだな。俺たちも君には負けそうだよ」とおじいさんは言って苦笑した。「涼は、俺にとって命なんだけどな」
「あまりにも涼さんが近すぎて、見えないことができてしまうかもしれません。灯台下暗しです。私は赤の他人です。だから、冷めた目で涼さんを見れるかもしれません」
「涼を膝に乗せるくらい可愛がって、赤の他人もないだろう。涼と平松さんにしている授業だって、莫大なエネルギーをかけているだろう。この間も話したが、博士号を持ってる家内だってわからないんだぞ。それを18歳が理解できるまで解きほぐすのは、並大抵のことじゃない。君はあれに、どれだけ時間を掛けて準備してるんだ?」
「基本的には、行き帰りの電車の中です。そこで論理展開を作って、家に帰ってから寝る前にプレゼンテーションを作る。そんな感じですかね。そんなに時間はかかってないですよ」と、私は説明した。
「つまり答えは、最初からあなたの頭にあるんですね。ゴールがわかっているから、短時間でできるんでしょう」と、今度はおばあさんが言った。
「そう言えば、私の授業でわからないことがあるそうですね。ぜひ教えて下さい。涼さんと平松さんと一緒に説明しますよ。そうすることで、彼女たちの復習にもなる。なんでも聞いて下さい」
そして私は、池のそばで遊んでいる女性たちに大声で声をかけた。
「おーい。これから、勉強の時間だよ。家の中に戻って」と、私は言った。
「ええーっ」
「やだーっ、今日は休みじゃないの?」
涼ちゃんと真理ちゃんが不平を言った。しかし、駄目である。
「ダメッ。すぐ、家に戻って」と私は言った。みんな渋々、家に戻った。
それから私たちは、昼食を食べたテーブルに戻った。おばあさんはまず、宗教が作る聖俗の秩序について質問した。無理もない。これに気がついている人はこの世にそんな多くないと思う。民俗学者や文化人類学者なら、この説を唱えている人はたくさんいる。だがそれは、世の中の一般常識じゃない。
次におばあさんは、科学の便宜性について知りたがった。これも確かにわかりにくい。人が世界(または自然)と向き合う、その根本の構えとは何かという問題だから。
私が答えるより先に、涼ちゃんや真理ちゃんが発言して熱心におばあさんに説明した。おじいさんは、最初から白旗をあげていた。彼は車を売ることに専念するから、難しいことは奥さんに任せるとでも言いたげだった。一番熱心だったのは日菜子ちゃんだった。彼女は集中した目をして、私たちの討議を一言漏らさずという様子で聞き入っていた。
そんなめんどくさい話をしていると、あっという間に日が暮れた。涼ちゃんのおじいさんとおばあさんは、また豪華な夕食を用意していた。手のこんだ前菜の後、メインは小ぶりのステーキだった。火に炙ったまま台の上に乗せられて一人一人に配られたので、自分の好きな焼き具合のところで皿に移して食べることができた。
夕食の話題のメインスターは、日菜子ちゃんだった。涼ちゃんも真理ちゃんも、日菜子ちゃんの授業はわかりやすいと褒めた。真理ちゃんの英語の偏差値は35だけど。褒められた日菜子ちゃんは、顔を真っ赤にして下を向いた。とても可愛らしかった。
「ねえ、大月先生は、バスケがすごい上手いって知ってる?」と私は聞いた。
「ええっ、そうなの?」と、涼ちゃんが驚いた。
「全然知らない。だって日菜子ちゃん、地学部の顧問だよ」と、真理ちゃんが言った。
また人の難しいところだ。今の学校で、日菜子ちゃんは自分の過去を封印しているらしい。彼女がバスケットボール部の顧問になれば、学校はたちまち強豪校になるだろう。いや、違うな。名選手、名監督にあらずだ。日菜子ちゃんの普段のコミュニケーション能力から予測すると、彼女は自分のテクニックを生徒たちに教える術を持たないかもしれない。私にもう一つ、課題ができた。
「俺はこの目で見たけど、ものすごいスピードなんだよ。一瞬にしてマーカーを振り切るんだ。それで、敵のマークが自分に集中してると見ると、今度は味方にパスを出してゴールを決めさせる。もう、ほんとすごいんだよ」と私は言った。
「ほんとなの?」
「学校の誰も知らないよ、そんな話」
「大月先生は、バスケットボールでどのレベルまで行かれたんですか?」と、おじいさんがたずねた。
「高校のときは、日本代表に選ばれました」
へええーっ、と驚きと感嘆の声が部屋中を包んだ。
「でも大学になると、もう代表には呼ばれませんでしたね。もっと、身長の高い女の子が選ばれるんです。私はバスケをするには、背が足りなかったんです」と、日菜子ちゃんは説明した。
「でも日菜子ちゃんのプレーは、身長関係なかったけどな。身を屈めてドリブルするから、大柄な敵チームは日菜子ちゃんを止められなかったよ」と、私は言った。
「ドリブルで攻め込むことはできます。でも、あるレベル以上になると、もうブロックが厳しくてシュートまで持ち込めません。
それから、私のプレースタイルを研究されたのも限界を感じた理由です。大学のころは、徹底マークされて思い通りにはできませんでした」
「それでも、点はたくさん取ってたんでしょ」と、私は聞いてみた。
「そうですね。平均30点くらいかな」と、日菜子ちゃんは答えた。
「そりゃ、すごい」と、おじいさんが口をはさんだ。「理事長には、大月先生をバスケットボール部の顧問にしろ、とも言っておくよ」
「いやあ・・・、私は・・・」と、日菜子ちゃんはすっかり歯切れが悪くなった。
「わかるよ。きっと、どう教えたらいいかわからないんだよね?大丈夫。今度、俺が教え方を教えるよ」と、私は日菜子ちゃんに言った。日菜子ちゃんの表情が、いっぺんに明るくなった。
「大月先生にも、柿沢さんが教えるんですか?」と、おばあさんがびっくりして私に聞いた。そのとき私は、やっと気がついた。自分が大月先生を、この家でも日菜子ちゃんと呼んでいることに。しまった。だがもう、取り返しはつかない。
「バスケットボールを、日菜子ちゃんに教えるわけではないです。彼女はあらゆるテクニックを身体で覚えてるので、それを言葉にするのが難しいんだと思うんです。だから、自分が出来ることの、言葉への翻訳の仕方を覚えればいいんだと思います」
「また、ややこしいことを言い出した。まったく面倒な男だ」と言って、おじいさんは笑った。
「拓ちゃんは、面倒な人なんかじゃないよ」と、涼ちゃんが少しムッとしておじいさんに言った。
「柿沢さんは、涼には優しいんだろう。だけど、俺にはキツいぞ。痛いところを何度も突いてくる。今日の昼間も、ブスッと刺されたよ」と、おじいさんは苦笑いしながら言った。
「そうなの?」と、涼ちゃんは不思議そうな顔をして、私の方を向いてたずねた。
「まあ、ね」私は、曖昧な返事でごまかすことにした。
時計は20時を指した。そろそろ帰らなくてはいけない。涼ちゃんのおばあさんは、また「泊まっていけば?」と誘ってくれたが、私は「明日も一日中、授業をしますので」と言って、丁重に断った。
「大晦日も勉強するのか?」と、おじいさんが呆れたように言った。
「もう、時間がないんです。今日はゆっくりしてしまったので、明日はしっかり勉強しないといけません」と、私は答えた。
おじいさんとおばあさんはとても寂しそうだったが、勉強と聞いて諦めてくれた。
車に乗って走り出すと、三人ともさっさと眠ってしまった。私は眠気覚ましに、Bill Evans の You're Gonna Hear From Me を小さく流しながら、スイスイと夜の首都高速を走った。
明日は大晦日。今年も終わりか。私は珍しく、人並みな感慨に耽った。振り返ればとんでもない一年だった。というか、十月から私の人生はまったく変わってしまった。突然現れた、涼ちゃんと真理ちゃんによって。私は彼女たちのために、ベストを尽くしただろうか?しばらく考えて、まあまあだろうと自己採点を下した。
しかしまだだ。明日の授業は午前中がポストモダン、午後が現代の孤立主義だ。両方とも、現在の大学入試の傾向から最重要ポイントだろう。最短の時間で、必要なことを押さえなくては。
私は明日のことを考えながら、自分が「生きがい」を感じていることに気がついた。九月までの私は、ただの腑抜けだった。何の見通しも目的もなく、ただ一日一日を食い潰していた。そんな私に、涼ちゃんと真理ちゃんが生きる理由を与えてくれたんだ。二人に感謝しないといけないな。
北千住のマンションに着いたので、眠っている日菜子ちゃんを起こした。彼女は熟睡すると、なかなか起きない。目を覚ましてくれるまで、結構時間がかかった。
「明日も来る?」と、やっと目覚めてくれた日菜子ちゃんに私はたずねた。
「はい、朝から参加します!」半分寝ぼけながら、それだけはしっかり答えた。
彼女はいつまで、私の家で休むつもりなんだろう?まあ、まだ焦る話じゃないさ。バスケ部の顧問になれば、いろんな学校との交流も増えるだろう。バスケという共通の趣味を持った、いい男に巡り会うかもしれない。
というわけで、私は自分の置かれている状況をさっぱり理解していなかった。
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