第27話 一次試験(日奈子ちゃんの正体)

翌週私は、土日を全部使って「ことば」の解説に費やした。高校三年生が理解できるよう、解説を簡単にするのは一苦労だった。難しく語ろうと思えば、いくらでも難しくできる。でもそれじゃ、涼ちゃんと真理ちゃんの時間の無駄である。私はゆっくり時間をかけて、出来上がった「ことば」と食い破っていく「ことば」について解説した。「ことば」が持つ、過去と未来についての解説を省いたら、かえって説明することが難しくなった。簡単とは、本当に難しい。

 その土日も、日奈子ちゃんは授業に全て参加した。あの夜のことを、彼女は何も触れなかった。澄ました顔で、稲毛駅に現れた。そしてレポートで私に叱られた。これまでと変わりない週末だった。


 さて、12月16日を迎えた。前日の土曜日は、授業を休みにした。そして日奈子ちゃんも入れた三人を、まだ訪れてないプライベートビーチに案内した。朝早く起きてサンドウィッチを大量に作り、テントも持っていって寒いときの避難所にした。

 浜辺で食事を終えると、涼ちゃんと真理ちゃんは切り立った岩陰に向かって歩いてゆき、姿が見えなくなった。私と日奈子ちゃんがその場に残された。

「あの子たち、大丈夫ですか?」と日奈子ちゃんが、少し心配そうに言った。

「あのねえ」と私は呆れながら言った。「二人きりで、海を見たくなったに決まってるでしょ。寄り添い、抱き合って、キスしてるに決まってるでしょ。気を利かせないと」と私は言った。

「そ、そうなんですか?」と、日奈子ちゃんは言った。うーむ、相変わらず機転が利かない。ここまでくると、これも彼女の魅力ではある。

 いつものように帰りは早々にに引き上げ、いったん涼ちゃんと真理ちゃんを西千葉で降ろした。それから日奈子ちゃんと、北千住へ向かった。よく考えるとメチャクチャガソリン代のかかる生活である。あの日以来、日奈子ちゃんは私を部屋に誘うことはなかった。私もそれに、何とも言わなかった。何しろ明日は一次試験だ。私はそれなりに、身構えていた。


 試験日当日は、深夜三時に目が覚めた。それきり眠れなくなった。緊張のせいだ。不安に包まれて、うつの症状が出ているのだ。よくない兆候だった。

 まったく、私が試験を受けるわけではない。私がどんなに気合を入れても、何も始まらない。無駄だとわかっていても、張り詰めた気持ちは解きようがなかった。私は眠るのを諦めて、四時半に布団を出た。そして朝食と、二人のお弁当を作り始めた。

 お弁当は、二人が大好きなパスタにした。涼ちゃんはカルボナーラ。真理ちゃんはミートソース。それぞれの好みに合わせた。それに、数種類のフルーツ。そしてミックスサラダ。栄養のバランスがいいように、二人が試験場で、お弁当箱を開けても恥ずかしくないように。私はカラフルさを追求した。

 朝ごはんは、一転して焼き魚の和食である。ご飯と味噌汁、漬物。これも変化をつけた。朝食の間、会話はあまりなかった。二人だって緊張しているのだ。

 試験は10時からなので、家を7時半に出れば、30分以上前に試験場に到着できる。いつもより、少しゆっくりである。私はキッチンで食器を洗いながら、焦燥感に襲われたままだった。「もともと負け戦さ」と自分に言い聞かせても、「もしかしたら」という期待を捨てられなかった。私は、キッチンでぼうっとしていた。

「拓ちゃん!早く支度しないと、試験に遅れるよ」と真理ちゃんが、いつになく強い調子で私に言った。

「早く着替えてよ。バスに遅れるじゃん」と、涼ちゃんもイライラした様子で言った。

「へ!?」

 何で私が支度するのか、わからなかった。当たり前だけど、私は試験を受けない。

「も、もしかして、俺も行くの?」

 涼ちゃんと真理ちゃんは、すっかり用意を済ませてキッチンの前に立った。そして、二人して黙ったまま私を睨みつけた。

「行く、行くよ。すぐ、準備するから」

 私は三分で着替えて、出発した。いやあ、女子大の入試に、まさか自分が行くとは。夢にも思わないことである。

私たちはバスに乗り、いつもの駅で電車に乗り換えた。幸い八人がけの椅子が空いていて、私たちは座ることができた。

涼ちゃんと真理ちゃんは、私を真ん中に座らせた。そして両側に座り、二人とも私の手を握った。おいおい。これじゃまるで、お父さんとディズニーリゾートに向かう小学生だよ。お父さんと手をつなぐ高校三年生なんて、まずいないだろう。普通の女子高生にとって、父親とはよく言って粗大ゴミ、はっきり言えばゴキブリ以下である。私は二人の幼さに、改めて驚いた。

しかし二人は、私の手を握ったまま口を閉じていた。ひざに肘を置いて頬杖をついたり、「はあ〜」と大きなため息をついて後ろに反り返ったりした。そしてたまに私の肩に頭を乗せ、しばらくじっとしていたりした。不安なのだろう。

私は、自分が大学受験をした頃を思い出してみた。まず、親に一緒に来てもらうなんて、思いつきもしなかったな。私にとって大学受験は、課せられた面倒なタスクでしかなかった。試験前日もぐっすり眠り、目覚し時計の力でやっと起きた。合否なんて気にせず、ただただ試験会場に行くのが億劫だった。私は、自分のことになるとまったくこだわらないのである。試験を受けていても、この学校で楽しいキャンパス・ライフを送ろうなんて考えなかった。ただひたすらに、めんどくさかった。

東京駅で丸ノ内線に乗り換えた。茗荷谷駅で降りて、大学に向かって歩いた。二人は、まだ私の手を離さなかった。

「17時に試験が終わるから、17時15分に校門で待ち合わせね」と涼ちゃんが言った。

「え!?」つまり私に、試験が終わるまで待ってろってことか?

「いやなの?」涼ちゃんは、わざとゆっくり言った。おまけに、微笑を浮かべていたから余計怖かった。

「待ちます、待ちます。大丈夫、大丈夫。17時15分だね。OK、OK」

もはや涼ちゃんと真理ちゃんは、私を操縦する術を心得ていた。どうやって脅せば、私が自分たちの言いなりになるか理解していた。ああ、困ったもんである。

しかし、参ったな。急いで出てきたので、私はノートPCもiPadも家に置いてきてしまった。これでは、作曲も小説作りもできない。さて、どうやって時間を潰したものか?

頭を抱えながら、女子大の校門に着いた。すると、もっと驚くことが私たちを待っていた。校門の隅に、日奈子ちゃんが立っていた。彼女は私たちを見つけると、「来ちゃった」と、恥ずかしそうに言って笑顔を見せた。

「日奈子ちゃーん」

まず真理ちゃんが、日奈子ちゃんに飛びついた。

「私、頑張るよ!」と真理ちゃんが言った。

「落ち着いてね。勉強したことを全部出してね」

次に涼ちゃんが、日奈子ちゃんとハグをした。

「なんとか、やってみるよ」と涼ちゃんはクールに言った。

「焦らないでね。普段通りやればいいから」と日奈子ちゃんは言った。

今日の日奈子ちゃんは、原色の真っ赤なコートを着ていた。いつもの薄い赤ではなかった。そしてその下に、黒のセーターを着てネックレスをしていた。身体にぴったりとフィットしたセーターが、自然に胸を強調していた。そして薄いキャメル色をしたロングのフレアスカートに、濃い茶色のブーツ。加えて日奈子ちゃんは、鮮やかな赤の口紅をしていた。そんな姿で校門の前に立っていると、この大学の学生に見えた。とても、高校教師とは思えなかった。

涼ちゃんと真理ちゃんは、こちらに手を振りながら校舎に入っていった。私と日奈子ちゃんは、手を振り返して見送った。

「ありがとうございます。二人のために、わざわざ試験会場まで来てくださって・・・」と私がお礼を言うのを、日奈子ちゃんは遮った。

「いいえ、当然のことです。週末の勉強仲間ですから」

今日の日奈子ちゃんは、いつになく堂々としていた。そして私に、「さあ、行きましょうか」と言った。そしてスタスタと、校門から駅に向かって歩き出した。

あれ?なんか変だぞ。私は半歩遅れて、彼女を追った。歩きながら私は思った。完全に、イニシアチブを握られてるじゃないか。今日は朝から、女の人に引っ張られっぱなしだぞ。

「試験終了は、17時ですよね?映画でも見ましょう」と、日奈子ちゃんはきっぱりと言った。映画?映画なんて十数年観てないぞ。私は立ち止まり、「ちょっと待って」と日奈子ちゃんに言った。iPhoneで名画座を検索し、早稲田通りに「カサブランカ」を上映している映画館を見つけた。

「カサブランカって、見たことある?」と私は日奈子ちゃんにたずねた。

「カサブランカ?ないです」

「そりゃ、いい機会だ。多くの映画監督が、セリフや場面設定やカメラワークまでパクりまくったスタンダード中のスタンダードだ。これにしようよ」

「拓ちゃんに任せます」と日奈子ちゃんは言った。そして、「早稲田通りなら、歩いちゃった方が早いですよ」と言った。

へえ、そうなんだと私は思った。土地勘のない私は、日奈子ちゃんに道先案内を任せた。私たちは次第に、並んで歩くようになった。私は隣の、現役女子大生みたいな日奈子ちゃんをチラッと見た。若い女性と歩くことに、私はとても違和感を覚えた。でも日奈子ちゃんは、まったく気にしてないようだった。彼女は何も話さず、その代わりに小さく歌を唄っていた。かすかなメロディが聴こえ、横を見ると彼女の唇がわずかに震えていた。そして彼女は、とても活き活きとしていた。弾けるような笑顔をしていた。

目的の映画館は、30分もかからずに着いた。おかげで、10時の第一回上映に間に合った。涼ちゃんと真理ちゃんの、試験開始と同じ時間だ。私は小さく、ため息をついた。

「心配ですか?」と、日奈子ちゃんが笑いながら聞いた。

「いや、緊張するね。怖いくらいだ」と、私は正直な気持ちを白状した。

「大丈夫ですよ。あんなに勉強したんだから」

日奈子ちゃんに慰められて、また私は「あれ、おかしいぞ」と思った。でもダメだ。今日の私は、とても冷静ではいられない。この恐怖と、一日付き合うしかなさそうだ。

映画館は、ガラガラだった。カサブランカは、ゆっくりと人々の記憶から消えようとしているのだろうか?私と日奈子ちゃんは、前から六列目のど真ん中に並んで座った。その列には、他に誰も座らなかった。

五分ほどして、映画が始まった。何度も繰り返し観ているので、ストーリーは細部まで頭に入っていた。でも、面白い。傑作とは、そういうものである。ハンフリー・ボガードの、あらゆる感情を押し殺した渋さと格好良さ。イングリッド・バーグマンの、この世のものとは思えない美しさ。それから卓越した演技力。サムの、絶品のピアノと歌。どこを切り取っても、素晴らしい。

日奈子ちゃんは大人しく、じっと画面を見つめていた。でも三十分くらい経つと、そっと右手を私の膝の上にのせた。しばらくすると手を引っ込め、少し間を置いて今度は私の左手首の少し上を握った。

 この年になれば、彼女の行動の意味はわかる。女性は何度も、相手の身体のあちこちに触れる。そして相手が、自分のそばにいることを確かめる。親しみの情が、そうせずにはいられなくさせるのだ。女性は反射的に、相手に手を出してしまう。それは本能的に行われるので、自分でも止められない。

 日奈子ちゃんは映画の上映中、ずっと私の膝と腕に触れるのを繰り返した。私は彼女の好きにさせた。そしてラストシーンが訪れると、彼女は私の腕を強く握って離さなかった。


 スクリーンにカーテンが下され、場内が照明で明るくなっても日奈子ちゃんは席を立とうとしなかった。映画の余韻を、じっと噛み締めているみたいだった。よかった。カサブランカは成功だったようだ。

 五分くらい待って、私は日奈子ちゃんに「そろそろ、出よう」と声をかけた。次の上映のお客さんが、パラパラと入ってきた。私たちは、席を空けないといけない。

「どうだった?」映画館のロビーに出て、私は日奈子ちゃんに聞いてみた。

「すごい・・・、すごかったです・・・」興奮気味に、彼女は答えた。まだ映画のストーリーの中に留まっている彼女を見て、私も大満足だった。

 時間はもう11時50分だったので、私たちは昼食にすることにした。もうすぐ、午前中の講義が終わる時間だ。上手くいっているだろうか?しかし私には何もできない。ただ、二人の成功を願うしかない。

 日奈子ちゃんが行きたい店があると言い、私をそこへ案内した。早稲田通りから道を折れて、細い路地をしばらく歩いたところにその店はあった。「通」じゃないと、絶対気づかない店だ。

 店はとても小さな店で、カウンターを足しても十五席くらいしかなかった。私たちが最後の二人掛けの席に座り、店は満席となった。そして驚いたことに、この店はコロッケ定食しかメニューがなかった。悩む必要が全くない。席についたらオーダーは完了していた。変わった店である。

「あのヒロインの人・・・」と、日奈子ちゃんが映画の話を始めた。

「イングリッド・バーグマンって言うんだよ」と私は教えた。

「あの人、すごい・・・。もう、・・・」

 日奈子ちゃんは、相変わらず言葉が出てこない。

「あの美しさは、この世のものとは思えないでしょ」

「そう!そう!もう、吸い込まれそうだった・・・」日奈子ちゃんは、映画の一場面一場面を思い出すように、そう言った。「でも主人公も、カッコよかった・・・」

「ハンフリー・ボガードって言うんだよ」と、また私は彼女に教えた。

「身のこなしっていうか、立ち振る舞いがカッコいい。洗練され尽くしてる」と、日奈子ちゃんは言った。なるほど、女性はそういうところに目がいくのか。

 話題は自然と、ラストシーンの話になった。

「あの展開は読めなかった」と、日奈子ちゃんは言った。

「そうでしょ。映画史上に燦然と輝く名場面だから」

「でも、あれでよかったのかな?・・・」

「そうだね。あの映画は、見た人全員にそう考えさせるよね。日奈子ちゃんは、どう思った?」

「うーん」と日奈子ちゃんは考え込んだ。そして、だいぶ経ってから「私は、二人がカサブランカで幸せになって欲しかったかな?」

「でもリックは、自分よりもイルザの安全を優先したんだよ。自分の思いを押し殺して、彼女を逃がしたんだ」

「それはわかる。それは、わかるんだけど・・・」

「なあに?」

「私は、自分に正直でありたい。私だったら、リックと別れたくない」と日奈子ちゃんは珍しく、力強く主張した。やはり今日の彼女は、いつもと違う。

「そうだねえ。そんな余韻をずっと残すから、あの映画は今でも残っているんだろうね」

「でも、今の私は自分に正直なのかな?」と、日奈子ちゃんは自分で自分に問いかけた。

「自分に正直じゃない気がする?」

「思うね」と言って彼女は、小さく笑った。その苦い笑顔に、彼女を取り囲む現実が込められていた。生きづらさや痛みや苦しみが、封じ込まれていた。

「最後の場面で、リックはイルザに『今は良くても、後で絶対後悔するよ』という趣旨のアドバイスをしている。日奈子ちゃんは英語の先生だから、原文で聴き取れるんだよね?」

「はい、一応」と日奈子ちゃんは言った。そして、「重いな、その言葉。今の私には重すぎる」と言った。彼女は箸を置いてテーブルに両肘をつき、両頬を手で覆って遠くを見つめた。そのまましばらく、彼女は黙っていた。

「日奈子ちゃん」

「はい?」

「人は一人で生きてると思う?」

「えっ!?」と彼女は声を上げて、私の顔を驚いた表情で見た。

「人はね、普通は自分で人生を自由に選択してると思ってる。これが、自然な考え方だ。でも、実際には違う。人は実は、自分を取り巻くたくさんの人々の選択によって、生かされているだけなんだ」

「ど、どういうことですか?」と、日奈子ちゃんは聞いた。

「例えば、大学入試だって、教員試験だって合格を判定するのは他人でしょ。日奈子ちゃんがどれだけ努力しても、他人が君を不合格にしたら今の立場はないわけだ」

「それは、確かにそうですね」

「もっと言えば、日奈子ちゃんはこれまでに出会ったたくさんの人々の影響を受けている。ある人に出会ってなかったら、自分は今の考え方をしなかったと思うくらい、重要な人が人生で何人かいるはずだ。そんな人たちに、私たちは自分の心の骨格を作ってもらっているんだよ」

 日奈子ちゃんは、少し口を開けて沈黙した。そして、「確かにそうだ」とボソッと言った。

「イルザも、リックの決心によって人生が変わってしまった。人は自由な生き物だけど、社会生活を送る限り他人に自分の人生を築いてもらっているんだよ。だから、一人で悩むことは全然ない。いま日奈子ちゃんの周りにいる人たちの、助けを借りればいい。そう考えたら、気持ちが楽になるよ」と私は言った。

「そうですね」と彼女は答えた。そして眩しいくらいの笑顔になった。「今日がまさにそうだ。私は拓ちゃんにすがってる。今日だけじゃないな。このひと月くらい、ずっと」

 そう言って彼女はまた私の方へ手を伸ばし、左手首をぎゅっとつかんだ。彼女は食事を忘れて、しばらく私の手を握りしめていた。

 この店の巨大なじゃがいもコロッケは、抜群の美味しさだった。ほくほくと温かくて柔らかく、それでいて身が締まっていた。このコロッケ一本で、店を満席にする理由がわかった。できることなら、私は厨房でこのコロッケの作り方を教わりたかった。しかしそれは、企業秘密というものだろう。

 店を出ると、日奈子ちゃんが「ここまで来たら、私の母校に行きましょう」と言った。そして二人で、早稲田通りをまっすぐ歩いた。すぐに、早稲田大学に着いた。彼女は、この学校の卒業生だった。だから、あんな隠れた名店も知っていたのだ。

 校門前の管理人室に行って、日奈子ちゃんは自分が卒業生であることを名乗った。「校内を見学させてください」と、彼女は頼んだ。管理人が卒業名簿と、日奈子ちゃんの身分証明書を照合した。そしてOKが出て、私たちは外来者名簿に名前と住所を書き、臨時入校許可のバッジをもらった。管理人は名簿に、私たちの入校時間を書き加えた。

13時になった。涼ちゃんと真理ちゃんにとっては、勝負の時だ。午後はまずグループ討論会があり、その討議結果の発表に移る。そして仕上げに、レポートの作成だ。調査書や外部の英語試験成績が悪い二人は、このレポートで一発大逆転を狙うしかない。私はだんだん、胃が痛くなってきた。

「あれが、21号館。隣が20号館。私の授業は、たいていこのどっちかの校舎だったの」と、日奈子ちゃんは説明した。

「日奈子ちゃんは、学部はなんだったの?」

「政治経済」

うげっ、早稲田大学の中でも一二を争う人気学部じゃないか。

「政治経済の生徒だったのに、教師の道を選んだの?」

「うーん」と彼女はうなって、下を向いた。そして、足元を見回しながら、答えを探していた。

「私、会社でバリバリ働く自分を想像できなかったの」と、日奈子ちゃんは説明した。「だから、入学当初から教職の授業も受けてたの」

「そりゃ、忙しかったでしょ」

「もう大変。朝から夕方まで授業の毎日」そう言って日奈子ちゃんは苦笑した。でもその表情に、悔いのような感情は見つからなかった。

「ねえ、会社で働くってどんな感じ?」と、日奈子ちゃんは私に質問した。そういや、似たような会話を涼ちゃんとしたぞ。子供に勉強を教える道を選んだ彼女にとって、会社組織は未知の世界なのだろう。

「まずね、会社は手抜きしようと思えばいくらでもできる。真面目にやろうと思えば、いくら時間をかけても足りないくらい忙しい。まったくおんなじ仕事をしてても、取り組みかたでガラッと変わっちゃう。でもこの辺は、学校の先生も変わらないよね?」

「それは、確かにそうだ」と、日奈子ちゃんは同意してくれた。

「教師とサラリーマンで一番違うのは、やっぱり金かな。二十代でも、億単位、数十億単位の仕事を任されることがある。プレッシャーはすごいよ。失敗したら、会社に大損失を負わせかねないからね。

でも俺の場合、難しい仕事ほど燃えるんだよ。まだ誰もやったことのない仕事なんて大好き。よおし、俺に任せろって気分になる」

「拓ちゃんって、ほんとポジティブ!私と全然違う」

「違うって?」

「私はプレッシャーに弱いの。もうパニック。逃げ出したくなる」と、日奈子ちゃんはうつむいて小さな声で言った。

「だからさっき言ったでしょ。一人で悩むことないって。自分のそばにいる、信頼できる人を頼ればいいんだ。問題解決能力はね、結局は知識と経験がものをいう。日奈子ちゃんはまだ若いんだから、分からなくて当たり前」

日奈子ちゃんは、キャンパスの道端で立ち止まった。そして私の顔をじっと見た。微笑を浮かべているけど、とても真面目な顔だった。

「わかった。そうする」と彼女は言った。そして私の左手首をまたつかみ、ぐいぐいと引きながらどこかへ向かって歩き出した。彼女に手を引かれながら、私が彼女に教えていることは全部自分に帰ってくるなと思った。


林立した校舎群を外れ、だだっ広い運動場が現れた。日曜日の学校で、いろいろなスポーツ部が熱心に練習していた。早稲田大学だ。どの運動部も強いのだろう。私と日奈子ちゃんはそんな彼らを横目に見ながら、運動場脇の街路樹が並んだ道を歩いた。

運動場の隣に、何棟も連なる体育館があった。若者たちの大きな声が、いくつも重なって体育館にこだましていた。その音に覆い被さるように、無数の足音やボールが床を弾む音が聴こえた。

一番手前の体育館に、日奈子ちゃんは私を連れていった。開放された入り口に着き、彼女は時間をかけてロングブーツを脱いだ。そして、体育館の中へ入っていった。中では、女子バスケットボール部がゲームをしている最中だった。

私はどうすりゃいいんだろう?入り口で待ってればいいのだろうか?それとも、中へ入った方がいいのだろうか?悩んだ結果、スニーカーを脱いで体育館に入ることにした。

靴下で体育館の床を踏むと、ちょうど日奈子ちゃんが四十代の女性と話している最中だった。

「日奈子!よく来てくれたね」

四十代の女性は、顔を崩して日奈子ちゃんと話していた。彼女は、この部のコーチか監督なのだろう。

「日奈子、やってみる?」とその監督のような女性は、日奈子ちゃんに聞いた。

「いいですか?ブランク長いですけど」と日奈子ちゃんは答えた。でも彼女の眼は、やる気満々だった。

「10分のミニゲームでやろう」と監督らしき女性が提案した。

日奈子ちゃんは、部員の女の子からシューズを借りて履いた。真っ赤なコートとその下に羽織っていたカーディガンを脱ぎ、黒いセーターにフレアスカートで彼女はコートに入った。すぐにゲームが始まった。

とても日奈子ちゃんらしいのだが、彼女はその監督のような女性にも他の部員たちにも私を紹介しなかった。入校許可バッジをつけてはいるが、私は女子大生の部活を覗いている変質者と変わらない。コートの脇に腰を下ろしてゲームを観戦している女子大生たちが、「なんだ、こいつ?」という目で私を見た。まもなく警備員が、私を強制排除しに来るかもしれないな。まあ、そんときゃ、そんときである。

ゲームは、日奈子ちゃんチームの先攻で始まった。現役選手たちは、みんな女の子なのに180cm前後の身長だった。背の高い日奈子ちゃんも、彼女たちに囲まれたら子供みたいだった。しかし彼女はそのデメリットをメリットに変えた。低い姿勢を取ってさらに自分を小さくし、大柄な敵チームの間を縫うようにドリブルですり抜けた。そして素早く味方にパスを出した。

日奈子ちゃんは、ゴール下に陣取った。壁のような敵チームの選手にマークされながら、彼女は小刻みに動いてパスを待った。ボールは日奈子ちゃんチームにあったが、しばらくサークルの外でゆっくりと回っていた。そして、右から左にコートを横切るようなパスが出ると、日奈子ちゃんが猛スピードで位置を変えた。速いパスがさっと、日奈子ちゃんに通った。当然マーカーがブロックしに来たが、彼女が位置を変えたせいで対応が遅れた。日奈子ちゃんはさらに、軽快なステップを踏んで身体を反転させ、一瞬でマーカーを振り切った。そして、軽く宙に舞った。ボールはゴールに、優しく吸い込まれた。すごい。

敵チームの攻撃に変わった。日奈子ちゃんはサークルの一番前中央で、ディフェンスをしていた。私はバスケットボールに詳しくないが、日奈子ちゃんの位置は彼女がチームのゴールゲッターであることを示していた。攻守が変われば、彼女が一番早くゴール下に行ける。

敵チームのゴールが決まり、日奈子ちゃんチームのボールになった。彼女はまたゴール下に駆けつけ、味方のパスをじっと待った。ボールを持たない日奈子ちゃんチームの選手が、突然ゴール前にダッシュした。しかし、それはフェイクの動きだった。代わりに日奈子ちゃんがゴール前から、サークルの外へ猛ダッシュした。

おそらく敵チームは、急いでマークの受け渡しをしなければいけないのだろう。だが日奈子ちゃんのスピードに、敵チームはついてこれなかった。サークルの外に出た彼女にすぐボールが来た。彼女はダッシュしながら、身をよじってボールを受け取った。そしてテンポ遅れで迫ってくるマーカーを嘲笑うように、ノー・プレッシャーでシュートした。スリーポイントシュートだ。これまた、見事に決まった。

敵チームはもう、日奈子ちゃんを徹底マークした。ゴール下の彼女にパスが入ると、絶対にシュートさせないぞと二人がかりでブロックした。日奈子ちゃんは今度は、この状況を利用した。自分に敵チームの意識を引きつけたところで、ひょいっと走り込む味方にパスを出した。彼女のパスで、日奈子ちゃんチームは次々にシュートが決まった。このボールさばきくらい、言葉が操れたらなと私は思った。

しかしすごいテクニックだ。現役選手相手に、日奈子ちゃんは堂々と渡りあった。他の選手がゴールを立て続けに決めて、自分のマークが緩んだと見るや再び彼女はゴールを決めだした。十分間のゲームで、日奈子ちゃんは15点以上取ったと思う。

ゲームが終わると、日奈子ちゃんは私に駆け寄った。満面の笑顔だった。

「すごかった。メチャクチャ上手いんだね」と、私は声をかけた。

「いやもう、心臓バクバクですう。脚もフラフラ」

ゲームを終えて両チームと控えメンバーたちが、私と日奈子ちゃんの回りに集まって来た。

「みんな、大月先輩のスピードを見たね。それからタイミング。間の使い方。全部しっかりと、覚えておきなさい」と、監督らしい女性が現役選手たちに言った。そして私を見て、「この方は?」と日奈子ちゃんに聞いた。

「私の先生です」と、彼女はタオルで汗を拭きながら答えた。

「ああ、同じ学校の先生ね」

「いえ、違います。会社員の方なんですけど、私の先生なんです」と日奈子ちゃんは、何でもないことのように言った。

 日奈子ちゃん、その言い方はヤバいだろう。誤解を生むよ。監督らしい女性の顔が歪んだ。彼女と女子大生たちは、私を熱帯に住む不気味な昆虫でも見るみたいな目で見た。最悪の展開である。なのに、日奈子ちゃんだけ、その雰囲気に気づいてなかった。

「拓ちゃん、あたしシャワー浴びてくるね❤️」

 あっちゃー。もうダメだ。私は頭を抱えた。拓ちゃん?女性陣の私を見る目は、さらに厳しく険しくなった。憐れみの表情を浮かべて、日奈子ちゃんの後ろ姿を見送る女の子たちもいた。もう、何を言ってもドツボにはまるだけだ。しかし今日は、つくづく女性に振り回される日だな。私は何も言わずに、ただこの時間が過ぎ去ることを願った。なんのなんの。明けない夜はない。

 女子大生たちは、練習に戻っていった。監督らしい女性だけが、私のそばに残った。

「大月さんは、うちのエースだったんです」と彼女は言った。

「そうなんでしょうね。先ほどおっしゃられた通り、間の使い方が上手い。ゆっくりの時と、速い時を使い分けてる。身長差を感じさせないですもんね」

「おっしゃる通りです。卒業するときは、実業団チームからいくつも誘われたんですが、彼女は教師を選んだんです。もったいなかったなと思います。今日でもこの活躍ですから、現役時代はそれはすごかったんです」

「そうだったんですか」

 人の人生は、わからないものである。日奈子ちゃんは、実業団であっても会社に属することを嫌ったのかな?

「ところであなたは、大月さんとどんなお知り合いなんですか?」と彼女は私に聞いた。来た、と思った。けれど本当のことを全部話しても、長いし絶対に信じてもらえないだろう。私は超特急で頭を回した。

「大月先生は、娘の担任の先生なんです。今日は入試の一次試験の日で、大月先生はわざわざ入試会場まで来てくださったんです。私は、娘の試験が終わるまで待たないといけないので、大月先生が私を母校に連れて来て下さったんです」

「なるほど、そうだったんですか」彼女はやっと合点が言った、という顔をした。少し安堵している様子が見て取れた。

「お子さんが今試験を受けてるんですね。それは、心配でしょう」と彼女は、私の気持ちを察してくれた。

「いやいや、こうしていても胃が痛いです」と私は答えた。

「そうですか。大変ですね。いい結果が出るといいですね」

「いやあ、実は実力以上の学校を受けてるんです。日奈子ちゃんも、最初はやめろと言ってましたから」

 言い終わって、私は「しまった!」と思った。しかしもう遅い。口にしてしまった言葉は、取り消しようがない。監督らしい女性は、私の「日奈子ちゃん」という言葉に敏感に反応した。彼女の顔は、さっきよりもさらに歪んだ。軽蔑と嫌悪の入り混じった目で、彼女は私を見た。もう私と、口も聞きたくないという様子だった。

 そろそろ練習に戻りますと言って、彼女は私から去っていった。私はまた体育館の入り口に一人立つことになった。ついてない日だ。私はシュンとして、体育館の外に目を移した。もう女子バスケットボール部の練習を見ていても、不気味なオヤジとしか思われない。しかも偉大な大月先輩と不倫関係にある、年甲斐のない中年男だ。部の全員が、私をそう思っているだろう。

 散々な日ではあるが、まあいいさ。そもそも日奈子ちゃんが入試会場に来てくれたから、こんな新鮮な一日になったわけだ。コロッケは美味しかったし、日奈子ちゃんのプレーも素晴らしかった。総合的に見て、今日はここまで良い一日だ。

 しかし日奈子ちゃんは、なぜここまで私に付き合ってくれるのだろう?それはきっと、彼女が抱えている不安のせいだ。女性にとって30才とは、人生の中でもいくつかある山の一つだろう。そして彼女は疲れている。明らかに。渡り鳥みたいなもんだ。日奈子ちゃんはずっと羽ばたき続け、長い長い旅路を飛んでクタクタになっているのだろう。私の家、というか私は、越冬地なんだ。小さな池だけど、しばらくの間ここで休もうと彼女は決めたのだ。

 それは涼ちゃんと真理ちゃんも同じかな。二人も子供の頃からそれぞれに苦しんで、私の家にたどり着いた。一歩間違えれば、変なやつに殺されてたかもしれなかった。危ないところだったんだ。私の家に泊めて、本当に良かった。

 だがそれも一時のことだ。春になり、暖かくなれば彼女たちはみんな飛び去っていくだろう。みんな輝かしい未来がある。私は、彼女たちに手を振って見送るだけだ。

「お待たせー」

 日奈子ちゃんが、さっぱりした表情で帰って来た。運動してシャワーも浴びて、彼女はさらにご機嫌になっていた。塗り直した赤い口紅が、朝よりも一層光って見えた。

「それでは、失礼します。お邪魔しました。ありがとうございました」と、彼女はコートと監督らしい女性の両方に、深々と何度もお辞儀をした。

「また、いつでも来てね」と、監督らしい女性が言った。

「先輩、ありがとうございました」と学生たちはプレーを止め、声を揃えて日奈子ちゃんにお礼を言った。確かに彼女のプレーに、感銘を受けたことだろう。

 だが日奈子ちゃんは、まだ空気を読んでなかった。彼女は頭を上げると、すぐまた右手で私の左手首をつかんだ。あららー。コート全体に、凍りついた空気が流れた。けれど日奈子ちゃんだけが気づかなかった。私の手を引いて外に出て、時間をかけてロングブーツを履いた。彼女はまた、誰かの曲をハミングしていた。平和だ。ここまで鈍いと、もうありのままに受け入れるしかない。


 私たちはまた歩いて、茗荷谷まで戻った。そして駅前の喫茶店に入った。まだ、15時半だった。17時15分まで待たねばならない。日奈子ちゃんは、最後まで付き合ってくれるつもりのようだ。

 彼女は、バスケットボールの話をした。小学校の頃からずっと続けていたこと。中学や高校で全国大会に出場したこと。でも、練習がとてもつらかったこと。本当は嫌で、何度もやめたいと思ったこと。

「バスケットボール自体は、好きなんだよね?」

「うーん」と、また日奈子ちゃんは考え込んだ。今日は、このパターンが多いな。多分それは、自分の本音を私に伝えたいからかもしれなかった。

「もう子供の頃からバスケ一本だったから、好きなのか嫌いなのかよくわからないんだよね」と、日奈子ちゃんはようやく言った。

「あんなに、上手いのに?」

「あれくらいは、自然にできるの。暗記と一緒。何百回、何千回練習してるから。頭使わないで出来る。私は、頭を使うことができないの、臨機応変に。拓ちゃんみたいに、相手が攻めてきた時すぐさま応戦するなんて無理」

「そうかあ」と私も答えて、自分のことを考えてみた。私は何で、相手の考えていることがわかるんだろう?いつから、人の気持ちがわかるようになったんだろう?

 答えは第一に、本しかない。例えばカントについての解説書を読んでも、作者の導き出す答えはそれぞれ違う。私はそこに、作者の感情の揺れを感じる。作者が生きてきた人生のせいで、カントが書いた書物に対する解釈が揺れてしまうのだ。私はたくさんのカント研究者の本を読んで、そのブレた理解のバリエーションに驚いた。十九世紀以降、古今東西の学者がカントを研究した。しかし、その大半がカントの意図を読み違えていると私は思う。原文に戻れば、私は一つの理解しかカントから受け取れない。彼の主張は、斬新だがとてもシンプルなアイデアだ。だがこれも、私の人生が生んだ解釈ということになる。

 つまり私は、異論反論がある中でこれはダメ、これはここが違うという判断を自分で下した経験があるということだ。だから似たような反論をする相手に、私は「アホか」と言える。それが、正しいかは別として。

 第二に、私はなぜ芸術が人を惹きつけるのかという問題を問うてきた。それは、十代の頃からの謎だった。小説、演劇、映画、ドラマ、ポップス、演歌、ジャズ。時代を遡れば、どんな原始社会にも歌や物語は存在する。それらはいつの時代においても、ひとときの癒しだけでなく善悪判断、物事の良し悪しを人に示す。裏を返せば、たくさんの人が納得できる善悪判断、聖俗の秩序を示したものだけが時代を超えて生き残るのだ。私はそのロジックがわかる。

 もっと簡単に言えば、芸術の価値は「誰もが悩む問題に、答えを出しているか」ということに尽きる。先にあげたどんな手段を使っても構わない。人々の共通の問題に届いていないと、芸術は時間の荒波の中で生き残れない。

「俺が人に攻められても応戦できるのは、この世にあるたくさんの論理ステップを知っているからだと思うよ。それから人が何にこだわるのか、どこで躓くかを大体わかってるからだと思う。

 会社内の揉め事なんて典型的なんだけど、誰かが俺に反論してくると俺は『ああ、あのパターンで来たな』と思う。それがわかるから、それに合った答えがすぐに頭に浮かぶ。俺はその答えを相手に返す。そんな感じかな」

「じゃあ要するに、論理ステップを片っ端から覚えないといけないってこと?」

「日奈子ちゃんが言ったように、バスケも一つのテクニックを何百回、何千回と練習してるんでしょ。人との対話も、それと同じかな」

「気の遠くなる話だね」と日奈子ちゃんは微笑を浮かべながら、少し後ろに反り返った。両手を顔のあたりまで上げ、上半身を少し左右に震わせた。愛らしい仕草だった。

「それからね、俺は『誰もが悩む問題』について知っている。人は、見かけは違うけれど、ほぼおんなじことで苦しんでいるんだよ。だから、俺はそれに答えを提示できる。もう同じ悩みを抱えた人に、何人も会ってるからね」

「人の悩みって同じなの?」と、日奈子ちゃんは聞いた。

「せんじ詰めると同じだね」

「そうなの?」

「悪いけど、同じだよ。みんな、日奈子ちゃんとよく似たことで悩む。俺はもうおじさんというか、もうすぐおじいちゃんだからその悩みが分かるよ。

論理ステップが知りたいなら、俺の授業を引き続き受けてよ。それから、今気がついた。『誰もが悩む問題』についても話すよ。十二月いっぱいやるからさ。受けてみて」

「うん!」と日奈子ちゃんは大きくうなずいた。そして、「一月以降は、どうするの?」と聞いた。

「そこは流動的だね。もしなんかの間違いで今日の一次試験に通ったら、生物学と環境問題をやるつもり。というのは、今年の正規募集の二次試験の問題が「人間と動物の関わり」で、一昨年が「水」だから。地球温暖化や生物多様性の問題を問うてるのがわかる。一月の二次試験も、その方向になる可能性は十分ある」

「去年は?」

「言語のもつ力だった。これは、今日と同じなので大丈夫だろう」

「もし今日ダメだったら?」

「そのときは、現代文の過去問題を掘り下げて教えるつもり。そうやって、二月の私立大学試験に備えようと思う」

「よく考えてるねー」と日奈子ちゃんは感心したように言った。「でも生物学なんて、拓ちゃん知ってるの?」

「大好きなんだよ。大学生のころから今まで、山のように本を読んでるから。言いたいことは、いっぱいあるよ」

「ふーん」日奈子ちゃんはそう言って、また喫茶店のテーブルの上に頬杖をついた。そして私の目をじっと覗き込んだ。まるでその中に、自分の知りたいことがあるみたいに。その視線の強さに、私は少し後ずさりした。


 17時になった。長い一日の終わりである。私はドキドキしながら、日奈子ちゃんと校門前に向かった。校門に着くと、もう涼ちゃんと真理ちゃんが並んで立っていた。私と日奈子ちゃんを見つけると、二人ともにっこりと笑った。試験の出来がよかったということだ。私は二人の笑顔を見て、心の底からホッとした。と同時に、気持ちの張りが緩んで猛烈な疲労を感じた。今日は三時に起きたんだ。私はもうクタクタだった。

「疲れたあああああ!」と、涼ちゃんが大声で訴えた。

「お腹空いたあああああ!」と、真理ちゃんが続いた。

 それって、ここで何か食べさせろっていうことか?私は思わず、日奈子ちゃんの顔を見て、彼女に助けを求めてしまった。

「いい店知ってるよ。そこで、お腹いっぱい食べようよ」と彼女は言った。こういうときは、頼りになる人だ。

 茗荷谷の駅から少し離れた住宅街の中に、小さなフランス料理屋があった。見かけは一軒家と変わりなかった。小さな看板が、玄関のすみに掲示されていた。ここも知っている人じゃないとわからない。

 店に入ると、幸い空いていた。まだ17時過ぎだ。本格的なディナータイムはこれからだろう。私たちは奥の四人席に、ゆったりと座った。テーブルの奥に、試験に疲れた涼ちゃんと真理ちゃんに座ってもらった。通路側に、日奈子ちゃんと私が腰掛けた。

 ナチスドイツの暗号みたいなメニューから、日奈子ちゃんと涼ちゃんが食事を選んだ。私と真理ちゃんは、二人のセレクトに任せることにした。日奈子ちゃんも涼ちゃんも、フランス料理は食べ慣れているんだろうな。

 やがてワインが、氷をたくさん入れたバケツに入れられて運ばれてきた。グラスが四つ並べられ、ウェイトレスが仰々しく上品に、グラスに注いでくれた。あれっ?未成年はお酒ダメじゃないの?

「真理ちゃん、涼ちゃん。試験お疲れ様」日奈子ちゃんはそう言って、四人で乾杯の音頭を取った。まあ、いいか。小さなことには目を瞑ろう。

「どうだった?」

 日奈子ちゃんが、私の代わりに聞きたい質問をしてくれた。

「もうさ、午前中はチンプンカンプン」と涼ちゃんが怒ったように答えた。「先生が、ディノテーションとかコノテーションとか言い出してさ、もう訳わかんないの。そんな難しく考えることないじゃんって思った」

 ということは、先生は完全にソシュール派である。この辺は、今月の終わりに授業で取り上げる予定だった。ちょっと間に合わなかったなと思った。

「私も簡単なことを、わざわざ難しくしてると思ったな。回り道してる感じ」と真理ちゃんが言った。

 二人の発言は、私の教えたことを色濃く反映していた。偏った教え方をしたかな、と不安になった。

「それで、午後はどうなったの?」と日奈子ちゃんは聞いた。

「午後はね、五、六人のグループになってね。真理ちゃんとは別になったの」と涼ちゃんは説明した。

「午後のテーマはね、『商取引におけることばの働き』だった。それについて、知らない女の子たちと話し合うの」と真理ちゃんが言った。「だから私は、拓ちゃんから教わった『新しいことば』の話をしたの。人を惹きつけるために、いろんな分野の人が知恵を絞って『新しいことば』を生み出すって。グループのみんな、ポカンとしてた」

 いいぞ、私の狙い通りだ。

「私のグループもそう。私が『商人は、これまでの商品を念頭に置いて、これまでと違う価値を生み出す商品を提示する』って言ったの。『商人の売り込みことばには、過去が前提にあって、そして新しい商品によって新しい生活を予感させる。だから、人はそのことばに説得力があったとき、その商品によって豊かな未来が描けるとき、その商品を買う』って」

 あれ、ことばが過去と未来を持つってことは、教えてなかったはずなんだが。別のテーマのときに、話してたのかな?

「二人とも、すごいね。私、そんな難しいこと言えないよ」と、日奈子ちゃんは正直に言った。

「拓ちゃんから、教わってるからね」と、涼ちゃんは胸を張って答えた。

「グループ発表は、私も涼ちゃんも代表になって発言したよ。他の子はわかってないのに、発表だけしたがるの。先生にアピールしたいんだよね。それを説き伏せて、代表になった。発表したら、先生は目を白黒させてたよ。完全に圧倒した感じ」と、真理ちゃんは楽しそうに話してくれた。

 パーフェクトだ。私はそう評価した。とはいえ、絶望的な調査書や英語の成績がある。一次試験でそのマイナスを取り返せたかは、わからなかった。

「肝心のレポートは、どうだった?」と私は二人に聞いた。

「テーマはディスカッションと同じだったから、楽勝だった。まあ、先生がどう評価してくれるかわかんないけど」と涼ちゃんが言った。

「私も、サラサラ書けた」と真理ちゃんが答えた。

「一次、通るといいね」と日奈子ちゃんが言った。私は顔をしかめた。そんな甘いものではないだろう。だが、今日はベストを尽くしたんだ。それは素直に祝うことにしよう。

フランス料理は、相変わらず正体不明の食い物だった。チビチビと現れる食べものは原形を留めておらず、いったい自分が何を食べているのかわからなかった。こんなことを言っているから、私は女性に嫌われるんだろう。

食事を終えて店を出たら、涼ちゃんと真理ちゃんはカラオケに行きたいと言い出した。それだけ、精神的に疲労したのだろう。スカッと気分転換したいらしい。私はiPhoneで一番近いカラオケを探し、護国寺の駅前にお店を見つけた。日奈子ちゃんは、カラオケにも付き合ってくれた。

カラオケ屋も空いていた。私たちは、十人以上入れる部屋に案内され、四人で広々と使うことができた。そして私は思い出した。今日は車を運転しないから、アルコール飲んでもいいんだと。私は早速、ビールを注文した。日奈子ちゃんはまたワイン、涼ちゃんと真理ちゃんはソフトドリンクを頼んだ。

まず涼ちゃんは、日本語ラップを歌った。続いて真理ちゃんが、AKBを歌った。二人とも、決して上手ではなかった。

次は私の番だ。悩んだ末に Hey Jude を選んだ。歌い出すと、真理ちゃんが「この曲、知ってるー」と言った。「私も。おじいちゃんがよく聴いてた」と涼ちゃんも言った。最後の「ナナナー、Hey Jude 」は、全員で歌った。

次は日奈子ちゃんの番だったが、彼女は曲を選ばなかった。

「カラオケ、苦手ですう・・・」

その舌ったらずな言い方に、涼ちゃんと真理ちゃんが表情一変させて日奈子ちゃんをガッと見た。しかし彼女は気にしない。もじもじと、肩を左右に振って可愛いらしい仕草をしていた。あーあ。

「カラオケに来て、歌唄わなかったら意味ないじゃん。ミスチルなら唄えるでしょ。ほら、俺が一緒に歌うから」

そう言って私は、自分の知っている曲の中から日奈子ちゃんの好きなものを選ばせた。彼女は選んだのは、「しるし」だった。

曲が始まり私が歌い出すと、かろうじて日奈子ちゃんは私に合わせて唄い始めた。けれど彼女は、典型的な音痴だった。音が取れないのだ。だけど私が歌を被せたので、彼女の音のズレはほとんど気にならなくなった。

こうして私と日奈子ちゃんは、ミスチルを一緒に何曲も唄った。次第に、彼女の声が大きくなった。私も負けじとボリュームを上げた。私はモニターを見ていたが、日奈子ちゃんはマイクを握りながらずっと私の顔を見ていた。

すがっているのだろう。昼間、日奈子ちゃんが教えてくれた通り。けれど、私に出来ることは少ない。ささやかなことしか出来ないけれど、彼女の不安を除去する努力をしよう。私はそう思った。


「日奈子ちゃん、墜ちたな」と、涼ちゃんが怖いことを言った。

「まあ、当然の結果だね」と真理ちゃんが、ワイドショーの解説者みたいに悟りきった顔で言った。

「おいおい、大袈裟だよ」と、私は二人に言った。

日奈子ちゃんと私たちは、本郷三丁目の駅で別れた。私が彼女を家まで送るという選択肢もあったが、涼ちゃんと真理ちゃんを二人で家に帰すのも忍びなかった。二人には、今日一日で私に話したいことがたくさんあるはずだ。

「日奈子ちゃんはね、大人だから表に出さないけどとても悩んでいるんだよ。だから今は、俺を頼っているだけさ」

日奈子ちゃんならば、男なんていくらでも寄ってくるだろう。ずっと年下だって大丈夫だ。年上の女子校女教師。にっかつポルノみたいである。古いか。アダルトビデオかな。いや、今は違う言葉かもしれない。私には、もうわからなかった。

「日奈子ちゃんはもう、拓ちゃんにゾッコンだよ」と涼ちゃんが言った。

「そうかなあ?」

「眼を見れば、一発でわかるよ」と、真理ちゃんが言った。

こうして涼ちゃんと真理ちゃんは、「日奈子ちゃんが私を好きだ」説について熱心に語り合っていた。私は黙って、二人の話を聞いていた。女の人って、他人の恋愛話が好きだもんな。

まあ、いいか。私は自分が正しいと思うことを話し、行動するだけだ。それは私の人生の、贖罪だという気がした。

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