第26話「ことば」の秘密

 願書はもう出してしまった。検定料も、二人分振り込んだ。願書には、調査書、直近の外国語試験成績、志望理由書、活動報告書を同封した。

 まず調査書は、ボロボロであろう。日奈子ちゃんが真理ちゃんの三年間の総合評価を、AからDまでの五段階で評価しているはずだ。良くてC、あるいはDだろう。この女子大の募集要項には、調査書はA評価であることが望ましいとある。この時点でキツい。

 外国語試験成績は、家出前に学校で受験したTOEFLの結果を入れた。怖くて点数を見れなかった。今なら、きっといい点が取れるのにな〜と思ったが、時間は巻き戻せない。

 志望理由書と活動報告書は、涼ちゃんと真理ちゃんが自分で書いた。私は一切タッチしていない。そもそも、私が代筆しちゃまずいだろう。涼ちゃんと真理ちゃんは何日も夕食の後二人で部屋にこもり、「キーッ」とか「ギョエーッ」とか騒いでいた。おそらく、志望理由書と活動報告書と格闘していたのだろう。

 さて後は、12月16日の第一次選考に万全で臨むのみである。第一次選考は、大学の先生が午前にセミナーを行い、午後にグループワーク、ディスカッション、レポート作成を行うのだそうである。もし受験するのが私だったら、うんざりする一日だ。

 このセミナーは、選択することができた。涼ちゃんと真理ちゃんに、「何を選んだの?」と聞いたら、二人は「プレゼミナールのご案内」というパンフレットを持ってきた。5つのセミナーが掲載されていたが、涼ちゃんと真理ちゃんは「ことばラボ:ことば素材の分析を通じて人間や社会について考える」というセミナーを指差した。

「これが、拓ちゃんの授業に一番近いと思って」と二人は、選んだ理由を説明した。

「ことば」かあ、と私は思った。「ことば」も、私の二ヶ月間プログラムには入ってないぞ。動物と水に続いて、もう一匹難敵が現れた。

純粋に「ことば」について考えるならば、現代は大きく言って三つの主要な派閥がある。一つ目が、スイスの二十世紀初頭の言語学者、ソシュールの流れ。彼は「ことば」とは他の「ことば」との違いで意味を生むのであり、一つの「ことば」自体に意味はないとした。次は、二十世紀半ばのイギリスの学者、ウィトゲンシュタインの流れ。彼は数学を使って言語を分析した後、自説を撤回して「ことば」だけからは意味が決定できないことを力説した。最後に、フッサールーハイデガーという、ドイツ現象学の流れ。フッサールは意識を徹底的に分析することから言葉の意味を抽出し、その弟子ハイデガーは「生きている自分」という観点から「ことば」の意味を捉え直した。

「ことば」とは、不思議なものである。例えば「国」という言葉を、例に考えてみよう。右翼は脇においても、オリンピック選手とか様々な分野で世界を相手に活躍する人や、海外で働くサラリーマンなどにとって、「国」つまり日本は、自分のよって立つところ、自分が帰るべき場所、母のように自分を包む神々しい存在と思えるだろう。

 それに対して、国に不信感を持つ人たちはどうだろう。彼らにとって、国とは個人の人権を制限、侵害する存在と考えるだろう。文科省は、隙あらば皇室を崇める教育を復活させようと画策している。財務省は歳出カットを目指し、社会保障費を削減して弱者の生活を悪化させようと企む。防衛省は軍備を増強し、国民に自衛隊の存在価値をアピールする。平気で中国やロシアと、戦争することを計画する。厚労省は公害や薬害について国の責任を認めず、被害者に金を出すことを渋る。

 国に傷つけられたり見捨てられた経験を持つ人や、それに気がついた人々にとって、「国」とは常に監視し、不正を見つけたら戦うべき存在となる。「国」という「ことば」をとっても、個々人によってこれだけ意味が変わってしまうのである。

 次に、文章について考えてみよう。問題は、「付き合ってください」にしよう。言語学者たちは、これを字面だけ読んでこの文章の意味は決定不可能だなどと言う。確かに「付き合ってください」だけ読んだら、何と付き合うのか、全くわからない。誰かが恋人を散歩に誘ってるのか、サラリーマンが仕事帰りに飲みに行こうと同僚に声をかけてるのか、あるいは警察官が容疑者に任意聴取を求めているのか、確かにどれかわからない。でもこんな分析は、バカげている。

 真理ちゃんは中学二年生のときに、涼ちゃんに「付き合ってください」と言ったそうである。真理ちゃんはその日まで涼ちゃんへの思いに苦しみ抜き、幾夜も絶望で泣き暮らしたそうだ。その絶望に打ち勝って、彼女はこの「ことば」を涼ちゃんに伝えた。もちろん真理ちゃんは、文化祭の実行委員会で涼ちゃんと話すうちにかすかな勝算に気づいていたはずだ。だから、勇気を振り絞って涼ちゃんを屋上に誘い、告白できた。

 涼ちゃんは、真理ちゃんの「付き合ってください」という「ことば」に、ものすごい迫力を感じたそうである。断ったら、真理ちゃんは屋上から飛び降りそうだったとも言っていた。それほど真理ちゃんは、鬼気迫る形相で「付き合ってください」と言ったのだ。断るのは不可能だったと、涼ちゃんは言った。私が軽い気持ちで誰かに「付き合ってください」というのとは、「ことば」の重量が月とスッポン、スケールが桁違いなのだ。

 二つの例で感じてもらえたと思うが、「ことば」とはそれを使う人の人生によって七変化するのである。生きている人から切り離した「ことば」は、意味もいのちも失ってしまう。ただの記号でしかなくなる。そしてそもそも、そんな風に「ことば」を生活で使用している人など一人もいない。つまるところ、生活から切り離して「ことば」を分析してもしょうがないのである。この点で私は、ハイデガーの考え方に近い。

 しかし、12月16日の第一次試験では、『ことば素材の分析』をするのだそうだ。講師は、それができると信じているのだろう。そんなやつに、「問題設定が気に食わない」と冒頭から喧嘩を売ってもシラけるし、不合格になるだけだ。付き合って、対策を立てなければならない。どう涼ちゃんと真理ちゃんに教えるべきか、私は頭を抱えた。


 願書を出して十二月に入っても、私は当初のプログラム通り授業を続けた。その理由は、『ことば素材の分析』という問いかけに答えが出せなかったからである。どう言ったら、この講師のハートを射止められるか。しかも、ツーパターン回答を用意しなければならない。涼ちゃんと真理ちゃんのためである。二人が同じ答えを書くわけにもいかない。うーむ。こりゃ、仕事より難しいぞ。

 大月先生は、十一月の最終週も土曜日に家に来た。また稲毛駅まで迎えに行き、「おはよう、日奈子ちゃん」と私が彼女に声をかけると、後部座席でピキッと緊張感が走るのを感じた。大月先生も、「拓ちゃん、おはようございます」と返したので、後部座席の動揺はさらに高まった。早速二人の、小声による秘密会談が始まった。まあ、どうでもいいんだけど。

 毎週土曜に来るので、大月先生は日曜に彼氏と会ってるんだろうと私は予想した。しかし十二月になると、彼女は土日とも出席するようになった。後で聞いたら、十一月の最終週の日曜日は法事だったそうだ。「本当は来たかった」と、彼女は残念そうに私に言った。

 日奈子ちゃんは、極めて熱心な生徒だった。授業中莫大な量のメモを取りながら、わからないところはどんどん質問してきた。彼女にはハンデがあった。十一月の上旬、中旬の授業を受けてないので、涼ちゃんと真理ちゃんがすでに理解していることがわからないのだ。とはいえ彼女も、高度な教育を受けて教職免許まで取った人である。しかも子供たちに、勉強を教える立場である。それでも彼女は、あちこちで躓いた。私にとっては、新鮮な驚きだった。

 しかし彼女は挫けなかった。マインドマップの時間になると、制限時間三十分なのに、いつも五分くらいで書き上げた。そして二、三分すると、それをグシャグシャに丸めて捨て、ゼロから新しいマインドマップを書き出した。

「日奈子ちゃん、マインドマップは色をつけて絵を描いて完成なんだよ。その時間をとっといて」と私はアドバイスした。彼女は十分前までマインドマップを書き直し、書き終えると「My色鉛筆」を鞄から出した。三十六色の豪華版だった。さらに彼女は、絵が上手かった。彼女のマインドマップの中央には、いつも美少年が描かれていた。ジャニーズが好きなのかな、と私は思った。

 レポートの出来も申し分なかった。先生なんだから、当たり前ではある。論旨も文句のつけようがなかった。しかし日奈子ちゃんの文章には、致命的な弱点があった。平凡なのだ。皮相な理解なのだ。言っていることはわかるのだが、人を惹きつける魅力がない。悪い意味でノーマルなのだ。なんだか、上手いんだけど聴いてて飽きるカラオケみたいだった。

 私は彼女には、涼ちゃんと真理ちゃんと違う教え方をせざるを得なかった。

「日奈子ちゃん。『人々の自由と平等を求める運動はヨーロッパ中に広がった。その中で、マルクスに代表される共産主義が生まれた』って書いて、これで終わってるけど、『人々の自由と平等を求める運動』ってこんな軽いもんだったっけ?当時の彼らは、命かけてたんだよ。実際膨大な死者が出て、結局革命が失敗に終わった国もたくさんあるんだよ。それを、こんな簡単に書いていいの?」

「共産主義も、当時の絶望的な状況をなんとか解決したいという切実な欲求から生まれたんだよ。それはマルクスだけでなく、様々な社会主義者からアナーキストまで多様な意見があったんだ。それが、全然書いてないじゃん。彼らの思想は、授業で説明したよね?それを全部、切り捨てちゃっていいの?」

 もう全然、大学入試対策じゃないです。まあ、相手が高校教師なんだからしょうがないけど。私がそう叱ると、日奈子ちゃんは今にも泣き出しそうな顔をした。しかし私は譲らない。書き直しを命じられて、彼女はダイニングルームに戻った。

 とはいえ、日奈子ちゃんの存在はとても有難かった。まず、真剣な授業への取り組み姿勢。積極的な発言。マインドマップやレポートにかける溢れるようなエネルギー。涼ちゃんも真理ちゃんも、そんな日奈子ちゃんを見てギアが二段階くらい上がった。しかも私に叱られて、彼女は泣きそうな顔でテーブルに戻る。そんな日菜子ちゃんの姿に、二人はビビったことだろう。


 いつのまにか涼ちゃんも真理ちゃんも、自然に大月先生を「日奈子ちゃん」と呼ぶようになった。

「日奈子ちゃんは、どんな男の人が好きなの?」と涼ちゃんが聞いた。

「日奈子ちゃんは、どんな女の子が好き?」と真理ちゃんが聞いた。

 もう私には、手に負えない話である。食事を早々に終えて、六畳間に退散した。あとは勝手にやってくれ。ノートPCを起動してヘッドフォンをし、自分が作った曲をかけてちょこちょこと手直しすることに専念した。

 しかし日奈子ちゃんは、毎回ケーキを作って持ってきてくれた。だから、食後のデザートに付き合わなければならなかった。みんなが食事を終えると、私は六畳間を出た。食器棚からケーキにふさわしい皿を四つ用意し、フォークとスプーンと一緒にテーブルに並べた。冷蔵庫で冷やしていたケーキを、日菜子ちゃんが四つに切り分けてくれた。

私は成人してから、ケーキを食べた記憶がほとんどない男だ。でも日奈子ちゃんのケーキは美味しかった。相当な努力を積み重ねているのだろう。涼ちゃんも真理ちゃんも、彼女のケーキを毎回それは美味しそうに食べた。

「ねえ、日奈子ちゃんは女の子と付き合ったことある?」と真理ちゃんが聞いた。

「あるよ」と、日奈子ちゃんが答えた。

 また私は逃げ出したくなった。女性同士の会話に、私は関与すべきではない。相手が、私に助けを求めるなら別だが。私は席を立とうとした。だが、まだ日奈子ちゃんのケーキが半分残っていた。残すのは失礼だと思い、私は席にとどまった。日奈子ちゃんが思い出話を始めた。

「中学のときからの親友がいて、共学だけどおんなじ学校に進学したの。高校生になる頃に彼女は、私に親友以上のことを求めてきて・・・」

「どこまで、行ったの?」と涼ちゃんが言った。涼ちゃん、それ聞くかと私は思った。

「全部」と、日奈子ちゃんは答えた。我が家のダイニングルームは静まり返った。まあいいか。涼ちゃんと真理ちゃんは恋人同士だし。我が家だから、できる会話である。

「その人と、別れちゃったの?」と、真理ちゃんは聞いた。表情は、真剣そのものだった。

「別れたというか、微妙なんだよね」と日奈子ちゃんは白状した。

「微妙って、どういうこと?」と、今度は涼ちゃんが質問した。

「高校生になると、女の子同士で男の子の際どい話するでしょ。私も興味があったから、積極的に話してた」

「あーっ。私の一番嫌いな話題!」と真理ちゃんが言った。

「私は嫌まで行かないけど、他人事だな。勝手にしてって感じ」と涼ちゃんが言った。その後彼女は私の顔を見て、「でも、拓ちゃんは好きだよ。安心してね」と言った。

「私も、拓ちゃんが好き!ねえ、日奈子ちゃんも拓ちゃんが好きでしょ?」と、真理ちゃんが言った。おいおい。

「好きです」と、日奈子ちゃんはかしこまった表情で言った。あーあ。

「それで、その親友とはなんで別れたの?」と、真理ちゃんは話題を元に戻した。

「別れてないの。今でも付き合ってる。でも高校生になって、私の部活が忙しくなってから徐々に距離が開いていった。さっき話したとおり、私は他の女の子たちと男の子の話ばかりしてた。だから彼女とは、高校になってから何もしてないよ」と、日奈子ちゃんは言った。

「その親友は、今も独身?」と涼ちゃんが聞いた。

「独身」と日奈子ちゃんが答えた。

「わかる、わかるよ」と真理ちゃんが両手を合わせながら言った。今にもお祈りを始めそうだった。

「その人とは、しょっちゅう会ってるの?」と、涼ちゃんが聞いた。芸能レポーター並みのツッコミである。

「ううん。一年に一回あるかないか、かな?」

「なんで?」と、今度は真理ちゃんが聞いた。

「それは多分・・・。最後までいっちゃった仲だからだと思う」

「最後までいっちゃったから、後になって会いにくくなっちゃったの?」と、真理ちゃんが悲しそうに聞いた。

「うん・・・。お互い違う道を進んでたから。大学を卒業して、二年経ってから久しぶりに彼女と二人で食事したの。でも大した話はしなかった。お互いの仕事のこととか、共通の友人のこととか。私たち自身の話題は、二人とも避けてた。でも別れるとき、彼女が私に言ったの。『あなたが好き』って。あれは、忘れられない」

 ダイニングルームは、もう一回静まり返った。しかし私は黙りながら、「これだ!」と考えた。つまり「ことば」とは、単なるコミュニケーションの道具にとどまらない。「ことば」は、過去と未来を持つのだ。一言で言って。

 日奈子ちゃんとその親友が交わす「ことば」は、夥しい記憶の蓄積の上に成り立っている。そしてさらに、「これからどうすべきか」という決断を常に迫る。野暮な言い方をすれば、「私を選ぶのか。それとも男と世間的な生活を選ぶのか?」という意味が常に隠れている。だから、二人がいわゆる恋人の関係を解消して数年経った後でも、「あなたが好き」という「ことば」が複層的な響きを持って相手に届くのだ。まるでギターの複雑なコードのように。

「拓ちゃん、助けて」と真理ちゃんが、私の方を向いて言った。彼女は日奈子ちゃんの話に、自分の未来を重ね合わせていた。

「シンプルな話だよ。その親友が何より大切ならば、彼女のもとへ行けばいい。その親友より大切なものがあるならば、そう彼女に伝えればいい。日菜子ちゃんは、後者じゃないかな」と私は言った。

「そうですね。彼女は確かに、一番じゃないです」と日菜子ちゃんは答えた。

「ならば次の機会に、彼女にそのことを伝えるべきだ。その上で、親友として一生付き合えばいい」

客観的に考えれば、こうなる。誰が一番好きか、という問題だ。一番でなければ、自分を偽って相手に合わせるべきではない。それは、お互いを不幸にしかねない。

真理ちゃんは、うるうるとした眼で私を見ていた。そんな眼で見ないでくれー。私は真理ちゃんのあの眼に、一番弱いのだ。涼ちゃんは、頬杖をついて横を向き、怖いくらい真剣な顔で考えごとをしていた。対して日菜子ちゃんは、ほとんど無表情だった。ただ少し、顔色が青かった。


午後の授業は、ボロボロだった。みんな私の話を聞いてくれてはいるのだが、「心ここにあらず」という様子だった。しょうがねえよな。それだけ日菜子ちゃんの話は、強烈なインパクトを私たちに与えた。日菜子ちゃん自身も、すっかり大人しくなってしまった。

16時半に、私は授業を短縮して終わらせた。そしてすぐ元私の部屋に入り、リュックに、青いウィンドブレイカー、オレンジの雨具の上着を詰めた。さらに今日は、薄手のウールのインナーを2着、黒の薄いダウンジャケットを1着リュックに放り込んだ。登山で使う、小さなカップもいくつも入れた。それからキッチンに戻って、紅茶、コーヒー、煎茶の金属製ボトルも詰め込んだ。リュックは、ぎゅうぎゅうになった。

「さあ、出掛けるよ」と私は、いまだにぼおっとしている三人に言った。

「なあに?どこに行くの?」と、涼ちゃんが聞いた。でもすぐに、彼女は笑顔を見せた。

「拓ちゃんはね、いつもどこに行くか教えてくれないんだよ」と真理ちゃんが、日菜子ちゃんに説明した。

私はいつものように、館山道に乗って半島を南下した。十二月の夕暮れは早い。私はみんなを包む雰囲気を一新したくて、先を急いだ。メーターは、時折140kmを指した。

三人は、私が真理ちゃんと学校に言ったときの話をしていた。

「とにかく、メチャクチャ怖かったんだから」と日菜子ちゃんが言った。

「うん、あのときの拓ちゃんは怖かった」と真理ちゃんが応じた。

「信じらんない。私もその場にいたかったー」と涼ちゃんが、残念そうに言った。私はずっと黙っていた。

 君津で高速を降り、国道を南に向かった。すっかり日は暮れてしまった。時折右側に夜の海が広がり、「ギャー」「イイーッ」と後部座席の涼ちゃんと真理ちゃんが騒いだ。しかし今日の目的地はここではない。私はある場所で国道を左に曲がり、真っ暗な道を進んだ。

 道はやがて坂道となり、つづら折りの道を何度もターンした。

「拓ちゃん、山に登ってるの?」と涼ちゃんが聞いた。

「そうだよ」

 道をどんどん登っていくと、時たま樹々の間から海沿いの街が見えた。それは、登るにつれどんどん小さくなった。

 今日の目的地は、マザー牧場だった。しかし、もうとっくに閉園している。でもそれでいいのだ。今夜の目的は、乳牛に会うことではない。私はマザー牧場の入り口まで着くと、道沿いに柵がある開けた場所に車を止めた。ここはあたり一面牧草地のため、この標高200mくらいの場所から下界が全て見下ろせた。

「イーーーッ」

「キーーーッ」

「ヒョーーーッ」

「ウイーーーッ」

 もうなんだか訳のわからない奇声を上げながら、涼ちゃんと真理ちゃんは車を飛び降りた。そして柵にしがみつき、下の世界を夢中で眺めた。直下の港町はもちろん、君津の工業地帯、千葉から市川に続く住宅街や港のあかり、そしてその奥のきらびやかな東京の街灯りまで見えた。さらに目を左に移すと、横浜、横須賀、そして鎌倉の辺りまで、東京湾の全てが手に取るように見渡せた。街はそれぞれに自己主張するように、精一杯光を放っていた。頑張っているんだぞ、と肩肘を張っているように見えた。その争いが無数に重なり合い、天の川のような光の帯を作っていた。

「宝石だね」と真理ちゃんが、ボソッと言った。

「うん、もうジャラジャラ」と涼ちゃんが言った。

 案の定三人とも、すぐに寒いと言い出した。私は涼ちゃんと真理ちゃんにウールのインナーシャツを渡し、日奈子ちゃんには薄手のダウンジャケットを渡した。そして、持ってきたボトルを出して、三人にカップを持たせて注いだ。これで暖が取れるだろう。

 私は何も言わなかった。言葉が不要なときもある。ただ景色を眺めていればいい。冬の透き通った空気は、東京湾の夜景をくっきりと私たちに見せてくれていた。

 私たちは柵に手を乗せて、この人々が織りなす光のショウに見入った。並びは左から、涼ちゃん、真理ちゃん、私、日奈子ちゃんだった。日奈子ちゃんは流石に大人なので、奇声を上げたりはしなかった。ただ、彼女の肩から肘までが、私の同じ部分にそっと触れていた。背の高い彼女は、ヒールを履くと私とほぼ同じ身長だった。だから肩から肘まで、ちょうど同じ高さで触れ合った。

 次第に日奈子ちゃんは、私の方へ身を寄せて自分の身体をしっかりとくっつけた。押し付ける、という表現が正確なくらいだった。彼女はじっと、前を見据えていた。何も言わなかった。だけど、体重だけは少しずつ私に預けた。

 甘えているのだ。涼ちゃんや真理ちゃんと同じだな、と私は思った。それだけ昼食の話題が重かったのか?あれは昼間にする会話じゃないよな。でも話の流れだから、しょうがないか。

 私は、日奈子ちゃんの親友のことを思った。彼女も真理ちゃんと同じく、女性しか愛せないのだろう。それはそれで、いいことだ。だが世間は、彼女をほっといてはくれない。両親や祖父母は、彼女に結婚を迫るだろう。30歳だから、それは口うるさいだろう。あるいは彼女は、もう両親たちに「女性しか愛せないこと」を宣言しているかもしれない。つらいことだが、本当のことは話すしかない。

 まだ彼女は、日奈子ちゃんのことが好きなのだろうか?これも私にはわからない。彼女が日奈子ちゃんに、「あなたが好き」と言ったのはもう五年以上前になる。彼女も成長しているはずだ。悲しいけれど、日奈子ちゃんのことは諦めようという気になってるかもしれない。

 涼ちゃんが柵から離れて、私に近づいてきた。しかし、何も言わずに元の位置に戻った。おそらく彼女は、「膝に乗りたい」とか「手をつなぎたい」と言いにきたのだろう。でも、日奈子ちゃんの様子を見て諦めたのだ。

 私は、日奈子ちゃんのことを考えた。彼女もまた、心に傷を負っている。今日の親友の話も、その一つに過ぎないだろう。私が彼女が抱えている謎を、一つ一つ解きたいと思った。この年齢になって、ようやく私はそれができるようになった。彼女は毎週末、家に来てくれる。チャンスはたくさんある。彼女が話したいときに、その話を聞こう。そして、絡み合った糸をほぐす方法を教えよう。私は自分に身を寄せて、様々な苦しみを紛らわせている女性にそう考えた。


 私たちは一時間近く、ほとんど口を聞かずに夜景を眺めて過ごした。時刻は19時近くなった。

「さて、帰ろうぜ」

 私はそう言って、三人を車に乗せた。そして、元来た山道を引き返した。

「ねえ、拓ちゃんの好きな曲をかけてよ」と、涼ちゃんが言い出した。

「俺の好きな曲?誰も知らないじゃん」と私は答えた。

「それでいー」と真理ちゃんが賛成した。

「私も聞きたいです」と日奈子ちゃんも言った。

 私は車を道の脇に止め、iPhoneをいじった。悩んだあげく、Whamの曲をミックスしたリストを選んだ。最初の曲は、「Freedom」だ。

 曲が流れ出すと、「この曲知ってるー」と真理ちゃんが言った。Whamは、世代を超えて生き残っているらしい。次は、誰でも知ってる「Last Christmas」だ。私は気分が良くなって、運転しながら歌い出した。

「上手いーっ」

「拓ちゃん、すごいーっ」

 涼ちゃんと真理ちゃんが、大きな声をだした。でも当たり前だ。私は自分で曲を作って、歌を録音している人間だ。歌が歌えなかったら、話にならない。

 曲がGeorge Michael のソロに変わった。「I Want Your Sex」だ。ソウルフルなボーカルテクニックが、ふんだんに出てくる。私は運転しながら、ボリュームを一段上げて歌った。

 もう車内は、ノリノリの雰囲気になった。涼ちゃんと真理ちゃんは、「ヤーッ」とか「ヒーッ」とか叫んでいた。次はWham に戻って『I’m Your Man」。これもソウルフルなダンス・ミュージックだ。車内はやんややんやの騒ぎになった。ずっと大人しくしていた日奈子ちゃんも、身体を動かしているのがわかった。

 次は一転して、「Kissing A Fool」。George Michael が作った、ジャズ・バラードだ。これも高度なボーカル・テクニックを必要とする。じっと、じっとタメておいて、最後に爆発させる。これはこれで盛り上がった。

 私は市原のサービス・エリアで車を停め、レストランで夕食を取ることにした。決して美味しいわけではないが、時間から考えてここで食べるのがベストと判断した。

「拓ちゃんの歌、超いいよー」と涼ちゃんが言った。

「知らなかった・・・」と真理ちゃんが、ため息をつくように言った。こんな身近に接していて、まだ知らなかった私の部分に驚いていた。

「並だよ。並。もっと上手いやつは、この世に腐るほどいるよ」

「すごく良かったです」と、日菜子ちゃんも褒めてくれた。

食事が終わって車に戻っても、三人とも私の選曲でいいと言った。私は、60年代から90年代までごちゃ混ぜのミックスリストを選び、歌える曲は大声で歌った。マービン・ゲイ、10cc、ホール&オーツ、そしてビートルズ。あっというまに、西千葉に着いてしまった。

私は涼ちゃんと真理ちゃんをいったん家に帰し、それから日菜子ちゃんを北千住まで送ることにした。もう21時を過ぎていたから、二人に疲れさせたくなかった。家でゆっくり過ごして、早く眠って欲しかった。それから、二人にエッチをする時間も与えたかった。夜景を見て、ロマンティックな気分になっているはずだ。私が家にいなくて、気兼ねなくできる時間を用意したかった。

「今日はもう、頭クタクタだから勉強しなくていいよ。やっても頭入らないから。無駄だから、やめるんだよ」

「あーい!」と二人は元気に答えた。気分が高揚して、とてもすぐ寝そうな雰囲気ではなかった。私は日菜子ちゃんを乗せて、車をスタートさせた。


さてと。私は国道に出て、高速に向かいながら考えた。まず二人はシャワーを浴びる。交代で一時間以上はかかる。それからテレビを見たりして、リラックスするだろう。するとベッドに入るのは、12時近くだろう。そこから例の歌が始まったとすると、私はいったい何時に家に帰ればいいんだ?

二人の歌を聴きながら曲を作った経験からすると、それは最長二時間はかかる。まさかことの真っ最中に、玄関を鍵でガチャガチャ開けて帰るわけにもいかない。こりゃ困った。日菜子ちゃんを送った後、どうやって時間を潰そう?

そんなバカなことで悩んでいると、ずっと黙っていた日菜子ちゃんが口を開いた。いかん、彼女のことを私は忘れていた。

「私、バカなんです」と日菜子ちゃんはボソッと言った。

「えっ!?」

「拓ちゃんは気づいてると思いますけど、私頭悪いんです」

「ちょっと、ちょっと。先生がそんなこと言わないでよ」と、私は言った。

「試験はできるんです。暗記すればいいだけですから。ものすごく時間はかかりますけど、丸暗記することで私は試験を切り抜けてきたんです」と日菜子ちゃんは言った。

助手席から、彼女の悲しみが伝わってきた。大事な話をしているのが、肌で感じられた。日菜子ちゃんは、話を続けた。

「普通のことはできるんです。でも、ちょっと難しい問題になるともうダメなんです。授業のレポートで、拓ちゃんに叱られた通りなんです。『ああ、なんで気が付かなかったんだろう』って、いつも思います。でも、頭から湧いてこないんです」

 高速は、市川あたりから渋滞を始めた。12月の深夜前でも混むのかよ、と嫌になった。だがその分、日奈子ちゃんとたっぷり話す時間ができた。

「日奈子ちゃん」と、私は優しく呼びかけた。「まずさ、俺だって日奈子ちゃんの年令のときは、こんなことできなかったよ」

「そうなんですか?」と、日奈子ちゃんは驚いたように言った。

「そりゃそうさ。俺だって三十くらいの頃は、自分のことしか考えてなかった。今みたいなことは、言えなかったよ。でもね、人の心を思うアンテナは持ってたよ」

「アンテナですか?」

「そう。このアンテナが大事なんだ」と私は言った。

 日奈子ちゃんは、助手席でしばらく考え込んだ。だがいくら待っても、彼女からは言葉が出てこなかった。私は、話を続けることにした。

「例えばね、涼ちゃんと真理ちゃん。彼女たちを家に泊めるようになって、すぐ俺は二人を学校に戻したいと思った。でもね、出会ってばかりでわからないことだらけだ。事情もわからず、彼女たちの気持ちも知らずに『学校に戻れ』というのはただのお仕着せになる。彼女たちが、私の言うことを聞くわけがない。だから、ずっと黙ってた。そしてちょっとずつ、ちょっとずつ彼女たちから、家出の事情を教えてもらった」

 日奈子ちゃんは、黙っていた。渋滞なので横を向いて彼女を見ると、助手席で固まっていた。緊張しながら、私の次の言葉を待っているのがわかった。

「二人と暮らしながら、一個ずつ一個ずつレンガを積むように彼女たちの信頼を勝ち取っていった。そうすると人は、徐々に心のシャッターを開ける。少しずつね。ボソッ、ボソッと胸に秘めていたことを語り出す。俺はそれに、一個ずつ答えを出していく。それができるのはね、涼ちゃんと真理ちゃんが何を考えているのか延々と考えているからなんだよ。二人の気持ちがわかるから、答えが出せる」

「私には、そんなことできないです」と、日奈子ちゃんは言った。

「ストップ!答えを焦らないで。涼ちゃんと真理ちゃんの問題は、校長だって教頭だって答えを出せなかったんだよ。日菜子ちゃんが何も思いつかなくても当然だよ」

「でも・・・」と、日奈子ちゃんはうめいた。それでいい。食いついてくるのは、いいことだ。

「自分で何かがしたいと思うなら、人の気持ちをわかることだ。人の痛みを感じることだ。その相手に、自分が彼または彼女の気持ちや痛みをわかっていると伝えることだ。これができないと、人は君を信用してくれない」

 日奈子ちゃんは、また沈黙した。私の話したことがピンとこないのか、あるいは自分はできないと考えているのだろう。

「私は、人の気持ちがよくわからないです・・・」日奈子ちゃんは小さな声で、ようやくそれだけ言った。

「正直でいいよ。それが今の君の課題だ。キツいこと言うよ。確かに日奈子ちゃんの言うことは、家の授業のレポートにも現れている。歴史の授業をしたとき、日奈子ちゃんのレポートはその時代を生きた人々の気持ちに対する配慮が不足している。論理的思考の授業のときは、君のレポートはその思想を作り上げた人の苦悩に対する想像力が欠けている。暗記じゃないんだ。その都度、目の前に提示された人の心を想像する力が必要なんだ」

「・・・」

 日奈子ちゃんは、思考停止状態に陥った。彼女を見ると助手席でうつむき、ずっと自分の足を見ていた。人がよく、困っちゃったときに取るポーズである。

「日奈子ちゃん、君が今の状況から脱出したいなら、月並みだけど勉強することだ。でも、文科省の指導要綱をしっかり読めと言ってるんじゃない。まず、本を読むこと。小説でも、歴史書でも、哲学の解説書でもなんでもいい。もっと言えば、映画でもドラマでも、ポップスでも演歌でもいい。好きなものをじっくり聞けばいい。なぜなら、時間を超えて残るものは、ポップスでも演歌でも価値があるからなんだ。それはね、人が共通して悩むことをつかんでいるんだ。だから、たくさんの人にずっと愛されるんだ」

「歌ですか・・・」と、日奈子ちゃんは半信半疑で言った。

「日奈子ちゃんは、ポップスだと誰が好き?」

「ミスチルです」即答だった。

「そりゃあ、いいじゃない。俺も数曲しか知らないけど、桜井さんの作る歌詞は複数通りに解釈できる複雑な歌詞だよ。想像力を働かせて、彼の歌を聴いてごらん。よく聞くと、今まで自分が思っていた意味と違う言葉がちょこちょこと出てくる。その理由を考えるんだ。それを繰り返すと、人の気持ちに対する想像力が養われてくる」

「桜井さんの歌詞に、複数の意味があるなんて考えたことありませんでした」

「日奈子ちゃんは多分、結論を出すのが早いんじゃないかな。さっき試験なんて暗記だって言ってたけど、それはつまり立ち止まって考えずに目の前のものを覚えりゃいい、って考えてたってことでしょ?

 だから家の授業のレポートも、ものすごく早い。自分でこうだと思い込んで、別の見方もあることが見えてないかもしれない。

「わかりました。立ち止まって考えるようにします」

「日奈子ちゃん、一人でやらなくていいんだよ。気心の知れた友人や彼氏に、自分の考えを相談してごらん。人は、それはそれはいろんな意見を持ち、いろんな見方をするものだ。その人たちに、自分の考えを曝け出して鍛えればいいんだよ。これが最も、ベストな方法だ」

「私、今付き合っている人はいないんです」と日奈子ちゃんは言った。

 いや、そこまでは聞いてないんだけどな、と私は思った。こんな美人なのに、不思議だ。それは例の、親友が引っかかっているからだろうか?

「日奈子ちゃん、ちょっとプライベートなことに立ち入るよ」と私は言った。

「どうぞ、おっしゃってください。構わないです」と日奈子ちゃんは答えた。

「例の親友の件だけどさ、日奈子ちゃんは彼女の気持ちが、よくわからないんじゃないかな?」

「・・・」

 また長い沈黙が訪れた。日奈子ちゃんは私の隣で、何かを言おうとしていた。それは気配でわかった。しかしそれが、言葉にならなかった。これも彼女の弱点の一つだった。自分の頭に湧き上がっている思念を、適切な言葉に当てはめることができない。

「今まずやるべきことは、彼女の気持ちを理解することだと思う。彼女の存在が、日奈子ちゃんの人生のつっかえ棒になっている可能性はある。それは、解決しなければいけないことだ。どんな選択をしてもいい。解決して、次に進むことが大切なんだよ」

 私たちはもう、北千住の街を走っていた。まもなく日奈子ちゃんの家に着く。今夜の私たちの会話はこれで終わりだな、と考えた。日奈子ちゃんは家に着くまで、黙ったままだった。何か言いたそうだったけれど。

 彼女のマンションに到着し、道の脇に車を寄せて停めた。さて、この後どうやって時間を潰そうか?私はそんなことを考えながら、車を降りた。そして助手席のドアを開けてあげた。

「少しだけ、私の部屋でお茶でもいかがですか?」と、ずっと黙っていた日奈子ちゃんが言った。

 ええっ!?それは、ちょっとまずいだろう。女性の部屋に、そんな簡単に男が立ち入るものではない。しかし、誘われているのだ。断ったら、彼女は傷つくだろう。

「大丈夫だけど、車はどこに停めればいいの?」

「あそこのスペースが、来客用の駐車場です」と日奈子ちゃんは、マンションの隅の駐車スペースを指差した。幸い、空車だった。私は運転席に戻り、車をそこに停めた。

 それから私と日奈子ちゃんは、並んでエレベーター前に立った。エレベーターはすぐ到着し、私たちは無言でその中に乗り込んだ。日奈子ちゃんは、5階のボタンを押した。

 いや、参ったなあ。これは全く予想していなかった展開だ。人の気持ちを分かれとか言っておいて、私は今の日奈子ちゃんが何を考えているのかわからなかった。しかし、これだけは確認しておかなければいけないことがあった。私は、思い切って彼女に言った。

「日奈子ちゃん、念のため断っとくけど、俺がインポだって話は、覚えてるよね?」私は、恐る恐る聞いてみた。

「ええ、覚えてますよ」と日奈子ちゃんは、爽やかな笑顔を浮かべて言った。表情に、母親のような優しさが浮かんでいた。オロオロしている私に対し、彼女はとても堂々としていた。立場逆転である。

 5階に到着し渡り廊下を歩くと、すぐ彼女の家だった。中に入って、日奈子ちゃんは電灯を点けた。玄関のすぐ側に六畳くらいのキッチンがあり、四人掛けのテーブルと椅子が置かれていた。その奥に寝室があった。日奈子ちゃんはその寝室の電灯も点け、私をそこへ招いた。

 寝室は十畳くらいの広さがあり、奥にベッド、その脇に小さな炬燵があった。そのそばの壁際には、テレビがあった。日奈子ちゃんは、炬燵を私に勧めた。確かに寒かったので、炬燵の温かみはありがたい。私は腰を下ろし、足を炬燵の中へ突っ込んだ。

「拓ちゃんは、お茶とコーヒーとどっちがいい?」と日奈子ちゃんは聞いた。

「お茶でいいよ」

「私は、ワイン飲んでもいい?」

「いいよ。自分の家だ。ゆっくり寛いでよ」と私は言った。

 日奈子ちゃんはお茶とワインをテーブルに運んでくると、私に向かい合って炬燵に入りテレビを点けた。ありきたりな、バラエティ番組が映し出された。私は普段、バカバカしいのでその手の番組はまず見ない。日奈子ちゃんは、その番組でいいようだった。

 それから私たちは、日奈子ちゃんの学校の話をした。名門校ならではの厳格で重苦しいムード。それから、高校三年生の担任であることの大変さ。特に進路指導や、調査書を採点することの苦しみ。彼女はワインを飲みながら、それらを笑い話のように話してくれた。車の中のような、深刻な話題ではなかった。彼女はきっと、もうキツい話はしたくないのだろう。私はひたすら聞き役に回って、相槌を打っていた。

 一時間くらいして、日奈子ちゃんはトロンとした目に変わった。そして、会話が途切れた。彼女は眠そうな眼で、私をぼんやりと見ていた。私もとくに話すことがないので、黙っていた。チラチラとテレビを見ながら、私なりに今日一日の緊張をほぐしていた。

 突然、日奈子ちゃんが炬燵から出た。彼女は立ち上がらず、猫みたいに四つん這いになって私に近づいてきた。彼女は何も言わなかった。私は驚いて、思わず後ずさりした。

 日奈子ちゃんは私のすぐ側まで這ってくると、あぐらをかいた私の右膝に、コロンと頭を乗せた。そしてその場に、横向きで炬燵の脇に寝転んだ。彼女は炬燵布団を自分の身体まで引っ張り、全身を覆った。両手を軽く握り、手を合わせて自分の顎あたりに添えた。そして、目を閉じた。

 あらら。どうしてこうなるんだ?私は後ろに両手をついて、バランスを取った。そしてこの状況になったら、当分動けないぞと覚悟した。

 案の定日奈子ちゃんは、ワインの酔いに任せてすーっ、すーっと寝息を立て始めた。せめて、一言断れよと思ったが、そういう気分になっちゃったんだからしょうがない。寝かせるしかないだろう。

 腕時計を見ると、23時だった。まあ、どうせ早く家に帰れない夜だ。こうやって時間を潰すか。涼ちゃんと真理ちゃんは、どうしているだろう?歌の真っ最中だろうか?それともまだ、テレビでも見ているのかな。

 目の前のテレビは、お笑い番組に変わっていた。若い芸人たちが、懸命にコントを演じていた。スタジオには観客がいるようで、たびたび爆笑が起こった。よく考えれば、このお笑い芸人たちも「ことば」の魔術師だよな。どのポイントでどんなセリフを言えば、人が笑ってくれるかを心得ている。それはすごいことだ。私には、とても真似できない。彼らはコントの節目節目で、キメのセリフを吐く。言葉だけでなく、表情の変化や身振り手振りも使う。そして人々を爆笑させる。それは綿密に計算され、言葉のアクセントやしゃべりのスピードも練っているのだろう。すごい人たちだ。

 明日の朝、電車に飛び込んで死にたいと考えている人たちが、この世にはたくさんいる。お笑い芸人は、そんな彼らにも笑いを届ける。それは、かけがえのないことだ。一生かけて取り組んでも、価値のあることだ。実際私も、彼らのコントに何度か笑ってしまった。

「ことば」か。私は日奈子ちゃんを膝に乗せたまま、考え込んだ。手を伸ばして、リュックからiPadを取り出した。茗荷谷の女子大のサイトを開いて「ことば素材の分析」と題したセミナーの紹介ページにたどり着いた。

「音声言語を中心にことばの特性に関する総合的知見とことば分析のための具体的手法の幾つかについて学びます」と、そのセミナーには書いてある。総合的知見?ことば分析のための具体的手法?そんなの、俺の年になってもわからないぞ。

 しばらく考えて、この講師は「ことば」を甘く見ているという結論に至った。真理ちゃんの「付き合ってください」ということばの重みや、日奈子ちゃんの親友の「あなたが好き」ということばの深度を、この講師は解けないだろう。だからたった一日で、答えが出ると考えられるのだ。

「ことば」は、過去と未来を持つ。思い出してみると、これはハイデガーが「存在と時間」で書いていることとほとんど同じだった。彼は、人間の分析に時間の流れを持ち込んだ。今までどんな人生で、これからどんな人生を送るのか。それをうすうす配慮しながら生きているのが人間だと、彼は分析した。その上で人は「ことば」を使う。そこまで考えて、やっと真理ちゃんや日奈子ちゃんの親友のことばが理解できるのだ。

 その上で、再来週の試験に向けて私が涼ちゃんと真理ちゃんに語るべきことは何か?それは「ことば」の機能的側面だろう。「ことば」、例えば日本語に絞れば、日本語の文法があり国語辞書があり、不動の巨大なお城のように思える。絶対に揺るがない、完全な構築物のように思える。しかしこれは、典型的な間違いだ。

 ポップスや演歌、ドラマや映画のセリフ、テレビのコマーシャルや新聞や雑誌の見出し、電車の中吊り広告まで、「ことば」は人の気を惹くために常に新しい意味を持って提示される。巨大なお城からはみ出した「ことば」を敢えて生み出し、人の興味を引こうとするのだ。そうやって私たちは、既存の「ことば」の秩序を食い破っていく。そのうち文法が変化し、辞書にのせる言葉の意味も変質する。これは誰もが日常的に経験しているが、気にもしていない事態だ。

 だが立ち止まって「ことば」とは何だろうと問うたとき、まずこの「ことば」の機能面に、その旧来からはみ出していく力に驚くことになる。よし、これに的を絞って次の土日話をしよう。お笑い芸人たちも同じだ。彼らも既存のことばを壊して、笑いを取ることばを探し求めている。

 そんなことをぼんやり考えていたら、深夜2時になってしまった。日奈子ちゃんは、私の膝の上でぐっすり眠っていた。誰かに頼るということは、人をこんなに安心させるのだろう。彼女の寝顔は、小学生くらいの子供と変わりなかった。

 起こすのは忍びなかったが、私も明日会社がある。帰らねばならない。私は日奈子ちゃんの肩を揺すって、目を覚まさせた。眠りから目覚める彼女は、赤ん坊のように可愛らしかった。

「日奈子ちゃん、そろそろ帰るよ」と私は言った。

 日奈子ちゃんは、子供のようにむずがった。彼女の頭を少し持ち上げて、そっと炬燵布団の上に下ろした。頭を下された彼女は、すぐに寝息をたて始めた。ワインが効いているらしい。こりゃダメだな、と考えた私は彼女の身体を炬燵から引っ張り出した。そして抱き上げ、ベッドに運んでいった。

「ううん、んん」

 日奈子ちゃんはまだ、夢の中だった。彼女の頭を枕の上に乗せ、ベッドの中心に仰向けに身を横たえた。それから全身に、掛け布団をかけた。まったく、涼ちゃんと真理ちゃんと全然変わらないな。私は子供がもう一人増えた気分だった。そしてベッドルームの電灯を消し、ダイニングルームの電灯も消した。

 一番苦しんだのが、ドアの鍵である。私は日奈子ちゃんの家の鍵を持ってないので施錠ができない。でも、彼女は寝ている。起こすのは可哀想だ。そこで、ドアに付いている鎖の鍵を、外側からかけた。真っ暗にした部屋に、ドアの外から手を突っ込んで施錠するのは一苦労だった。無事鍵がかかったので、私は安心して彼女の家を後にした。

 家に帰ったのは、3時半だった。



 

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