第25話 大月先生

 茗荷谷の女子大の、AO入試の過去問題を調べてみた。今年の正試験の二次で出された論文の問題は、「人間と動物の関わりについて、自由に論じなさい」だった。私ですら、頭を抱える問題である。この出題者は、いったい私に何を求めているのか?さっぱりわからない。

 その前年が、「言語のもつ力について自由に論じなさい」だった。これなら、私の授業で十分対応できる。ソシュールが証明したように、言語とは言葉と言葉との差異の体系でしかない。言葉や、一文だけには力も価値もない。文章を組み合わせた論理ステップにこそ、人を動かす力があるのだ。説得できたり、魅了したり、あるいは悲しませたりできるのだ。その観点からいくと、「言語のもつ力」という言い方はあまり褒められた言葉遣いではない。

 さらに、一昨年の問題を見ると今度は「水」!。ここまで来ると、舐めてんのかと怒鳴りつけたくなる。しかし、大学と喧嘩しても何も得るものはない。彼らの流儀に合わせるしかない。

 しかし、私の組んだ二ヶ月のプログラムでも、「動物」と「水」には対応していない。この強敵に対して、作戦を立て直さなければ。二次募集の、この論文試験は1月14日に設定されていた。センター試験が1月19日と20日なので、その前に終わらせておこうという目論見なのだろう。

 そしてこの女子大は、そもそも毎年AO入試で10人前後しか合格者を出していないこともわかった。今回の二次募集は、九月に実施した正規募集の追加である。欠員が出たらしいが、一人か二人しか募集していないんじゃないだろうか?そんな狭き門に、偏差値40台の涼ちゃんと真理ちゃんが挑むのは無謀極まりなかった。

 しかしだ。一生懸命にやることに無駄はない。合格しようがしまいが、二の次なのだ。「知る」ことに意義がある。知りたいと思って、知ることに価値がある。私は自分がやっていることに、間違いはないと思った。とはいえ、「動物」と「水」である。これを出題した先生は、何を考えているやつなのか?考えるべき深刻な問題は、他に腐るほどあるぞ。それを全部無視して、「動物」と「水」ですか?

 しかしよくよく考えると、人間による自然資源の過剰な消費や、地球温暖化に対する危機感という大学の問題意識が見えてきた。おそらくこの問題を出題した先生は、地球の自然環境に対してどんな考え方を持っているかと問いたいのだろう。

これに対する私の考えは、ふたつある。まず第一は、自然は難しいということだ。この世には莫大な種類の生命が存在し、雨、風、海流、噴火といった自然現象がある。これらについて、私たちはまだ僅かな知識しか持っていない。まずこのことを、謙虚に認めなくてはいけない。

しかし、「エコロジー」「生態系」といった言葉を好んで使う人々は、一様に地球を静的で完成されたシステムと思い描く。これはあまりに素朴な、一元論的発想だ。彼らは人間さえいなければ、地球は永遠に上手くいくと考えているようである。

しかし自然は、ダイナミックに動くものだ。考古学の知見から、生物は約五、六億年前から現代までに、少なくとも五回大量絶滅を経験していることがわかっている。全生命の90%前後が死滅する、という過酷極まりないものだ。その原因は諸説あるが、未だによくわかっていない。地球はちっとも、静的で調和の取れたシステムではない。ドラスティックで残酷な変化に満ちた場所なのだ。

地球資源(生物、無生物とも)の消費を、最低限にするのはいいことだと思う。温室効果を生む、二酸化炭素の排出を抑えるのもいい。だが私が言いたいのは、自然をコントロールできると簡単に考えるなと言いたい。浅薄な思い込みだけで、行動すべきではない。

例えば、薬の販売認可について考えてみよう。人にとって身体は、最も身近な自然だからだ。製薬会社は莫大な費用をかけて新薬を開発し、動物実験を繰り返して結果を出したとする。ここからが大変だ。役所に認可申請をし、人を対象とした臨床実験に入る。何度も審査が入り、何度も人への実験が繰り返される。幾十も重ねられた実験と審査の結果、効能がやっと認められて販売にたどり着く。それほど人の身体は難しい。

バイアグラを例に挙げるとわかりやすい。あれは当初、心臓病の薬だった。しかし、臨床試験で被験者を集めて実験したところ、芳しい成果は出なかった。開発者としては、絶望的な結果である。しかし、おかしなことが起こった。被験者が、試験薬を返してくれないのである。その理由を聞き出して、開発者は腰を抜かしたことだろう。かくしてバイアグラは、全く違う用途で発売されることになった。

私は、自然保護を訴える人々に反対するわけではない。自然保護は、素晴らしいことだ。後世に、できる限り多くの自然を遺したいと私も思う。だが、自然を侮るな。良かれと思ってしたことが、まったくの勘違いだったということは常にあり得る。だから私は、全て知っているような顔をして、偉そうにしゃべるエコロジストを信用しない。それは、人間の奢りだ。

さて、第二の点について話そう。水もそうだし、石油に代表される化石燃料は有限である。また、食料として見た動植物も有限である。実際人類は、夥しい数の生命を乱獲により絶滅させてきた。最近は特に、海洋資源の枯渇が問題になっている。

「もう、こんなことはやめよう」と言ってもよい。だが私は、身の程を知って口を聞けと言いたい。現在の自然資源の乱獲、乱開発によって危機的状況を作ったのは、欧米諸国そして日本である。世界中の森林を伐採し、動物を乱獲し、大規模農場を作って生態系を破壊し、化石燃料を大量消費して二酸化炭素を撒き散らした。おまけにフロンガスを開発し、オゾン層を破壊して地球温暖化に致命的なダメージを与えた。そうして先進国に住む人々は、贅沢の限りを尽くして生活を楽しんだ。

 今はかつて貧しかった新興国が、経済的な力を持ちつつある。その先頭に立つのは中国であるし、インドや東南アジア諸国、中東やアフリカ、中南米の国々が続く。彼らに対して欧米諸国や日本は、資源(生物、無生物を含む)の消費制限を求める。だがこれは、正当な主張だろうか?

「俺たちはたらふく食った。贅沢もした。だが、お前らは食うな。贅沢もするな」と言っていることにならないか?これは正当な取引だろうか?私はそうは思わない。

 これは実は、人間の自由にかかわる問題である。誰もが自由に人生を選択し、幸福な生活を追求する権利があるという、現代社会の根幹にかかわる。新興国の人々は、先進国並みの豊かな生活を夢見ているだろう。そして一部の成功者たちは、それを手に入れている。しかしいまだ、過酷な貧困にあえぐ人々も何十億人もいるのだ。そんな彼らに、「貧しいままでいろ」という権利が先進国にあるのか?

 2015年のパリ協定は、画期的成果だ。だが、目標の達成は義務とされていない。貧しかった人々が徐々に生活水準を向上させ、資源やエネルギーを消費するようになったとき、私たちはそれを否定する原理を、いまだ持っていない。協定は、絵に描いた餅になる可能性はある。

 だから欧米諸国や日本は、自分が犯した罪を認めた上で新興国と交渉するべきだ。自分たちが絶滅させた生物を全てリストにし、手をついて謝ってから会議に参加すべきだ。オオウミガラス、リョコウバト、ドードー、ステラーカイギュウ、トキ・・・。

 その上で有限な全ての資源を、どう分配するか話し合うべきだ。先進国は進んで、自分の取り分を減らすべきである。先進国はどの国も、高齢化社会へとシフトしている。もうあまり食わないのだ。食料は、何人も子供を抱える新興国の家庭に回すべきだ。私はそう思う。

 これが私流の、「動物」と「水」に対する答えだ。果たして大学は、私を合格させてくれるかな?


「今週の土曜日、大月先生が来るってー」と夕食のとき、真理ちゃんが私に言った。「拓ちゃんが許してくれるか、とっても気にしてたよ」

「俺は全然構わないよ。進路相談のときに約束したし、都合のいいときに来てくれて構わないよ」と私は答えた。

「わかったー。明日先生に伝えるー」と、真理ちゃんは答えた。

今週土曜日のお題は、午前中が「カントとヘーゲル」、午後が「フランス革命の成功と挫折」である。期せずして、いい組み合わせになった。カントとヘーゲルとフランス革命は、密接に繋がっている。話し甲斐のあるテーマだ。

「ねえ、大月先生っていくつ?」と、涼ちゃんが真理ちゃんに聞いた。

「30」と真理ちゃんが答えた。

「独身?」

「うん、まだ独身」

「30かあ、せめて35くらいなら・・・」

涼ちゃんはいつもの彼女に似合わず、お節介な親戚のおばさんみたいな計算をしていた。顔をしかめ、思案に耽っていた。しかし私にはどうでもいいことだ。私は涼ちゃんの言葉を、ほとんど気に留めなかった。


土曜日の朝8時に、大月先生が稲毛駅まで来てくれることになった。西千葉の一つ手前の、快速停車駅だ。私たちはそれに合わせて7時に朝食を摂り、三人で車に乗って彼女を迎えに行った。涼ちゃんと真理ちゃんは後部座席に座り、あえて助手席を空けた。二人はなぜだか、とても楽しそうだった。朝から二人の笑顔を見て、私も気分が良くなった。

駅前のロータリーの端に、大月先生は一人で立っていた。まだ8時10分前なのに、彼女はすでに駅を降りていた。真理ちゃんが車の中から手を振ると、大月先生は走って車に駆け寄った。

 私は急いで車を停め、車を降りて助手席に回った。

「おはようございます」と言いながらドアを開けると、大月先生は恥ずかしそうに、「おはようございます。よろしくお願いします」と小さな声で言った。

大月先生は、とても背の高い人だった。ヒールを履くと、身長は私と変わりなかった。髪は肩にかからないくらいのショートカットで、彼女はそれをナチュラルに伸ばしていた。あまり髪型に凝らない人らしかった。

今日の彼女は、ベージュのブラウスの上に濃い茶色のカーディガンを着て、しっかりボタンを止めていた。その上に、襟の大きな薄い赤のハーフコートを羽織り、下は紺色で膝丈のスカートだった。なかなか悪くなかった。

 車を始動させると、すぐに大月先生が今日のお礼を言い始めた。

「今日は、お休みの日でお疲れのところにお邪魔してしまって、本当に申し訳ございません」

「いえ、家では毎週土日に勉強会してますから。横にどなたがいても、私は気にしません」と私は答えた。

 びしっと、後部座席から私の肩が叩かれた。涼ちゃんだ。もっと大月先生を労うようなことを言え、という指示だろう。しかし、私はいつもこんな調子なのだ。何と言えばいいのか、私は迷ってしまった。

 その後、しばらく車内を沈黙が包んだ。私は、大月先生にかける言葉が思いつかなかった。するとまた、びしっと肩が叩かれた。何か、気の利いたことをしゃべれという指示だ。

「い、いやあ、いい天気ですねえ・・・」

 大月先生は、くすくすと笑い出した。そして、私の天気の話題なんか無視した。

「三人で、本当に楽しそうに暮らされてるんですね」と彼女は言った。

「わかるー?」と、後部座席の真理ちゃんが言った。

「この車に乗っただけで、わかりました」と、大月先生は言った。「私、柿沢さんを怖い人だと思ってました。でも、真理ちゃんと涼ちゃんには本当に優しいんですね」

「優しいんだよ」と、涼ちゃんが言った。

「でも、厳しいんだよ」と、真理ちゃんが返した。

「大月先生、私は彼女たちの親の役目を果たさなければ、と思ってます。幸いというか、私は独身です。ですから、彼女たちにごく普通の家庭の雰囲気を味わってほしいと思ってます」

「柿沢さんは、お父さんとお母さんなんですね。二人の笑顔を見て、それがわかりました」と、大月先生は言った。


 家に着くと、車を車庫に閉まって家に帰った。すぐにダイニングルームで、授業の準備を始めた。涼ちゃんと真理ちゃんは慣れたものだったが、モニターから一つ奥に座った大月先生は緊張した面持ちだった。私は温かい紅茶とコーヒーを用意し、三人に振る舞った。涼ちゃんと真理ちゃんは紅茶を、大月先生はコーヒーを選んだ。

 大月先生が加わっても、私は何も変えるつもりはなかった。大月先生は、私にとっていないも同然だった。私はあくまでも、涼ちゃんと真理ちゃんに集中していた。AO入試で課せられるグループ討議を視野に入れ、授業に討論形式を取り入れようと工夫していた。授業のそちこちで間を作り、二人が発言する機会を与えた。彼女たちも、このやり方に徐々に慣れていた。

 さて、午前中のお題は「カントとヘーゲル」だ。私の理屈っぽい授業はもう辟易、うんざりだと思うので中身は飛ばそう。ただ、節目の場面だけ見てくれればと思う。

「カントという哲学者は、十八世紀の人だけど2018年の現代においても最重要の哲学者だ。なせかというと、人が自分は正しいと考えることの限界と失敗を見事に現しているからだ」と私は言った。

「拓ちゃん、カントってすごい人なんでしょ?」と涼ちゃんが言った。

「歴史で習ったけど、限界と失敗なんて習わなかったよ」と真理ちゃんが言った。

「そうだね、教科書はそんなこと書かない。でも、カントの哲学には致命的欠陥があるんだ」

 大月先生は、沈黙したまま目を白黒させていた。多分、カントの致命的欠陥なんて初めて聞いたのだろう。

「先生も、発言しないとダメだよ。拓ちゃんに怒られるよ」と真理ちゃんが彼女にアドバイスした。先生と生徒が逆転していた。

「簡単にカントの仕事を説明しよう。そのあとで、討論しよう」と私は、大月先生に助け舟を出した。

「まず、カントの目指していたものを説明しよう」私はスライドを指差しながら言った。スライドには、

① 神を使わない。

② 抽象概念だけで考える。

③ 理性の限界を見極める。

とだけ書いた。

「これがカントが使った武器だ。①、②はもう前に説明したから大丈夫だよね?」

 涼ちゃんと真理ちゃんは大きくうなずいたが、大月先生だけオロオロとしていた。

「カントにおいて、理性の限界という考え方が決定的に重要だ。詳細は省くけど彼は『純粋理性批判』において、人間が根本的に突き詰めたら論理的に答えが出ない問題が残ると言っている」

「何それ?」

「そんなのあんの?」

「一番重要なものだけ挙げよう。『神は存在する』。人はこれを、論理的に結論が出せないと彼は言ったんだ」

「神様はいるのか、いないのかわからないってこと?」と涼ちゃんが言った。

「それじゃ、みんな困っちゃうじゃん」と真理ちゃんが続いた。

「私も、わかりません」と、小声で大月先生が発言した。

「カントは用意周到で、『神は存在する」という証明と『神は存在しない』という証明の両方をやっている。そしてこの問題は両方論理的に証明できる、等価だ。だから、結論は出ないとしたのさ」

「なんでそんなことしたの?」と真理ちゃんが言った。

「結局、わかんないじゃん」と涼ちゃんが言った。

「カントが生きた時代を考えてみよう。キリスト教内部で、カトリックとプロステタント同士の悲惨な戦争が続いていた。一方で、ルネッサンス以降の自然科学は、神学から徐々に離れようとしていた。彼は一人でこの考えを全部統一して、人類が平和に暮らせる倫理的原理を作ろうと考えたのさ。

 そのために彼はまず、人間の思考能力を徹底的に疑った。そしてその限界を見極め、『純粋理性批判』を書いた。彼にしてみれば、これは彼流の倫理を築くための予備作業でしかなかった。続いて『実践理性批判』を書き、自分のやりたいことを仕上げた」

 大月先生は、もう完全についてこれなかった。目をパチクリするばかりで、口を半開きにしていた。理解できていない、ということを全身で現していた。

「大月先生、質問は?」と私は聞いた。

「あ、あの・・・」と、気の毒な大月先生は言葉が出てこなかった。

「OK。次のスライドで説明しよう」

 私は次のスライドをモニターに映した。スライドには、

純粋理性批判・・・人間の思考能力の限界を見極め、その限界以上は禁じ手とする。

実践理性批判・・・純粋理性批判の限界を元に、人間が限られた理性で考えられる倫理を構築する。

と書いた。

「カントがやりたかったのは、これなんですよ」と私は、スライドを指差しながら言った。

「つ、つまり宗教対立を克服するために、理性の限界に線を引いた。その線の中で、人類が平和を実現できる方法を構築しようとした、ということですか?」と大月先生が、やっとの思いで答えた。

「その通り。それがカントの構想です。彼は一生を費やして、それを証明しようとしたんです」と私は答えた。

「さすが、先生」と真理ちゃんが言った。

「先生だから、当然だよね?」と涼ちゃんが厳しいことを言った。

「い、いや、ギリギリです。しんどいです、ほんとに」と大月先生はしどろもどろで、片手を細かく降って否定した。

「大丈夫。ゆっくり理解してくれればいい。簡単に説明すれば、誰でもわかることだから」と私は言った。

「ねえ、カントの致命的欠陥って何?」と真理ちゃんが質問した。

「大月先生は、わかる?」と涼ちゃんが、可哀想な質問をした。

「無理。無理です。追いつくだけで、精一杯です」と、大月先生は言った。正直で結構だ。

「カントの欠陥について、いくらでも難しくしゃべることができる。でも誰でもわかるように言えば、カントの倫理はカント自身が描いた理想でしかないじゃん、ということになる。彼が自分で理想を描いて、人に合わせろと強要しているだけなんだ」

「ええーっ。そんなのヤダ」と真理ちゃんが言った。

「私もヤダ」と涼ちゃんも言った。

「でもね、現代に戻ってみよう。ニュースを見れば、毎日いろんな問題がある。それに対してコメンテーターが、自分の意見を言う。その言葉は、その人の自身の理念だけでしゃべってないか?人の異論を取り入れているか?カントが現代においても重要なのは、彼の理想の描き方が典型的な独善論の形を示しているからなんだ」

「なるー」と、真理ちゃんが言った。

「他人とすり合わせってないってことね」と涼ちゃんが言った。

 またも大月先生は、置いてきぼりになっていた。

「大月先生、理解できた?」と私は聞いた。

「すいません、わかりません・・・」と、彼女は小さな声で白状した。涼ちゃんと真理ちゃんの前で、恥ずかしかったろう。でも、わかった振りをするよりははるかにマシだ。

「どこが、わからなかったの?」と私は聞いた。

「カントが倫理哲学を作ったことはわかりますが、現代の問題につながるところがわかりません」と大月先生は答えた。

「一言で答えましょう。カントは自分の生み出した倫理を人に押し付けます。それに違和感を持つ人の意見を許容しない。これは、現代のグローバリゼーションや地域的な民族主義と相似形をなしています。絶対的な理念は、そこに属する異論を押しつぶす結果を生みます。だからダメなんです。だから現代の私たちは、カントを勉強しその功績と限界とを理解する必要があるんです」と私は言った。


 こんな調子で、私たちは午前の授業を行った。午前は、大月先生が一番ダメな生徒だった。彼女はマインドマップで引っかかり、レポートも褒められたものではなかった。さすがに涼ちゃんと真理ちゃんの前では気の毒だと思い、大月先生を六畳間に呼んでレポートに赤を入れた。まるで部下を指導しているみたいだった。

 四人で昼食を食べているとき、真理ちゃんが大月先生に質問した。

「拓ちゃんの授業、どう?」

「しんどい。こんなレベル高いと思わなかった」と大月先生は泣きそうな顔で答えた。

「午後は、フランス革命だよ」と涼ちゃんが言った。

「怖い。私に振らないでよ」と大月先生は涼ちゃんに言った。

「ダメだよー。拓ちゃんから、グループ・ディスカッションしろって言われてるんだから。どんどん発言しないとダメなんだよ」と真理ちゃんが言った。

昼食の後は、一時間の休憩である。真理ちゃんはギターを持ってきて、C-Am-F-Gを披露した。上達している。それは午後一番の私の家で、全てを優しく包み込むように響いた。私は彼女に、次に何を教えようかと悩んだ。

「真理ちゃん、上手いね」と大月先生が言った。

「拓ちゃんに、教えてもらったんだよ」と真理ちゃんは答えた。「ここまで来るのは、ほんと大変だったー」

「だから、最初に大変だって言ったでしょ。でも、一月でここまで上手くなるなんて、俺もびっくりだよ」と私は言った。

「才能あるのかも」と、大月先生が言った。

「じゃあ、次はとびっきりのフレーズを教えよう」と私は言った。私は真理ちゃんに、 Led Zeppelin の「天国への階段」のイントロを教えることにした。ロック史上に燦然と輝く、名イントロだ。私は真理ちゃんからギターを受け取り、イントロだけ弾いて見せた。

「綺麗ー」と真理ちゃんが言った。

「格好いい!」と涼ちゃんも反応した。

「これは、アルペジオと言ってね。コードを右手の指で順番に弾いていく奏法なんだ。左手は、コードが変わるまで押さえっぱなしでいいからね。さあ、指の形を覚えよう」

 私は真理ちゃんに、 Am - Am△7(9)(onAb) - Am7(onG) - D(onF#) - F△7 - G -Am のコードをどんどん教えていった。

「ひええっ、難しー!」真理ちゃんは、たまらず悲鳴を上げた。

「でも、格好いいでしょ?」

「うん、私頑張る!」

 真理ちゃんは、最初のAmで引っかかった。今回のAmは、前回の0フレットをルートとするフィンガリングフォームではない。5フレットから押さえる形である。だが彼女は、すでにFを覚えているので大丈夫なはずだ。

「柿沢さんは、いろんなことを教えていらっしゃるんですね」と大月先生が言った。

「拓ちゃんはね、曲も作るんだよ」と、涼ちゃんが自分のことのように得意げに言った。

「すごいですね・・・。どんな曲を作られてるんですか?」

「YouTube に、『まきりょうま』とひらがなで検索してもらうと、私の曲が出てきますよ」

「そうなの?初めて聞いた。聞いてみたいー!」と、涼ちゃんが言った。

「いや、これが全然評判悪くて・・・。友人、知人、親戚に聴いてもらったけど、誰からもいいと言われたことない」と私は説明した。

「でも授業の後、聴いてみる!」と、涼ちゃんは言ってくれた。


 時計が14時を指した。

「さて、始めようか」と、私は言った。三人とも急いで席についてモニターを覗き込んだ。

 私はフランス革命前夜から、革命の勃発と成功、ルイ16世の処刑、議会内の権力闘争の激化と恐怖政治まで、淡々と説明していった。そして、テルミドールのクーデターによりロベスピエールをリーダーとするジャコバン派の失脚、全員の処刑まで話したところで、授業をストップした。

「さて、ここまで一気に説明したところで、立ち止まってじっくり考えてみよう。フランス革命は、なぜ失敗してしまったんだろう?個人の自由と平等を追求しながら、政争に明け暮れ恐怖政治まで堕ちてしまったんだろう?」と私は問いかけた。

「これは、必然の結果だったんだと思う」と、涼ちゃんがボソッと言った。すごい。冴えまくった発言だ。

「何で?何で必然なの?」と、大月先生が驚いて涼ちゃんに聞いた。先生と生徒が、また逆転していた。

「ピラミッドの頂点に立つと、絶対自分が正しいと思って譲れなくなっちゃう。そんな人が権力を持つと、自分の反対派を殺しても構わないと考えてしまう。宗教と同じだよね?」と涼ちゃんは答えた。

「私もそう思う」と真理ちゃんが言った。「ロベスピエールは最初は自由と平等の実現を目指して政治家になったのに、自分の信念に凝り固まって反対派の意見に耳を貸さなくなっちゃったんだね。スタートが美しい心でも、人は簡単に失敗しちゃうんだね」

「な、何でそんなことわかるの?」と、大月先生が驚いて二人に聞いた。

「拓ちゃんの授業で習ったー」と、涼ちゃんと真理ちゃんが声を揃えた。

「さて、似たような例を、午前中話さなかったっけ?」と私は聞いた。

「カント!」と、真理ちゃんが大きな声で言った。

「その通り」と、私は拍手をしながら答えた。涼ちゃんも真理ちゃんも、確実に腕を上げている。堂々と自分の意見も披露できるようになってきた。さあ、もう一歩だ。いや、二歩だ。この調子でアクセルを踏んでいこう。


 授業が17時で終わると、大月先生はそろそろ帰ると言った。

「夕食も一緒に食べてけば?」と真理ちゃんが言ったが、彼女は固辞した。

「真理ちゃんと涼ちゃんの、勉強の時間を邪魔しちゃいけませんので帰ります」と大月先生は言った。

「では、駅まで送りますよ」と私が言うのを遮るように、真理ちゃんが「自宅まで送ります」と大きな声で言った。

「いえいえ、大丈夫です。駅までで結構です」と大月先生は言った。

 涼ちゃんが、ものすごい形相で私を睨んでいた。右手を大きく振り、早く大月先生のそばに行けと促していた。口パクで「行け!行け!」と言っていた。

「いや、夕ご飯の準備が・・・」

 私がそう言いかけると、涼ちゃんの顔はとうとう般若に変わった。やれやれ、大月先生を自宅まで送るしか選択肢はなさそうだ。私は大月先生と玄関を出て、駐車場に向かった。

「ご自宅まで送りますよ。送らないと、二人は納得してくれなさそうです」

 大月先生は笑うだけで、何も言わなかった。

 出発する前に大月先生の住所を聞き、ナビに打ち込んだ。彼女の家は北千住だった。住所を聞きながら、私は彼女の顔をまじまじと見た。細いが意思の強そうな目、鉤鼻に近い高い鼻。その下の小さいけれど厚く柔らかそうな唇。すらっとした両頬。白くすべすべした肌。大月先生は、なかなかの美人だった。今まで全然、注意を払っていなかったのだが。

 車を始動させて、駐車場から公道に出ながら、大月先生を男はほっとかないだろうな〜と考えた。おそらく数え切れないほどの恋を経験をして、現在に至っているのだろう。また独身だそうだが、彼女にも幸せになって欲しいなと私は考えた。

 涼ちゃんと真理ちゃんは、私と大月先生をくっつけようと画策しているようだ。しかしそれは、二人が茗荷谷の入試を突破するよりもさらに困難なミッションだ。まず、私は彼女より18も年上の汚い中年男だ。その上私は、全ての女性を怒らせてしまう正体不明の欠陥がある。おまけに、うつ病持ちで会社での未来もない。さらに私はインポだ。これほどバツだらけの男も、珍しいのではないだろうか?あまりの酷さに、運転しながら一人で吹き出してしまった。

 大月先生は、助手席でずっと黙っていた。考え事をやめて、私は前を見ながら彼女の気配を探った。たちまち彼女の緊張感が伝わってきた。いかん、いかん。彼女をリラックスさせなくては。私は家からすぐそばの国道に出たところで、彼女に話しかけた。

「大月先生、本日はこんな田舎まで来てくださってありがとうございました」と私はまずお礼を述べた。そして、「私の授業、いかがでしたか?」と聞いてみた。

「楽しかったです!」と、大月先生は待ってましたとばかりに力強く答えた。「斬新でした。大学のゼミみたいな・・・。でも、ゼミともちょっと違うなあ・・・」

 大月先生は、自分が感じたものを表現する言葉を探していた。でも、なかなか思い浮かばないようだった。

「これは、入試の論文対策でやってるんです。涼ちゃんと真理ちゃんの文章能力と言うか、思考能力は相当低かったですから。これじゃ、ヤバいと思ったんです。教科書や参考書広げて独力で頑張っても、レベルを上げるのは相当かかる。それでは、とても入試に間に合わない。それで始めたんです」と私は彼女に説明した。

「こんな授業、私にはとてもできません。カントとヘーゲルなんて、今日初めて理解できました」

「いやいや、私だって30歳のときはこんなことできませんでしたよ。莫大な時間をかけて、本を読んだ結果です。48になって、ようやくこれくらいのことができるようになりました」

「柿沢さんは、独学で今日話されたことを覚えられたんですか?」

「ええ。もともと人に習うのって好きじゃないんです。一人で、そのときに知りたいことを本で読む。それが好きなんです」

 私は幕張から、東関道に乗った。生憎すぐに渋滞が始まった。夕方だから、仕方がないか。だが、これじゃ北千住まで何時間かかるかわからないぞ。涼ちゃんと真理ちゃんは、自分たちで夕食を作れるだろうか?私はハンバーグを作ろうと思って、ひき肉を購入して冷蔵庫にしまっていた。彼女たちはひき肉を見て、何か別の料理を作るだろうか?それとも、途方にくれているかもな。

「私、教師を辞めようかと思ってたんです」

「えっ!?」

 突然大月先生は、とんでもない話を始めた。私は夕食の問題から、助手席に座っている女性に心を引き戻された。

「どうして、そんなことを考えたんですか?」と、私は聞いた。

「教師になってみて、あまりに締め付けが厳しいことがわかったんです。もう自分の裁量の余地なんて、まったくないんです。何をどう教えるか、きっちり決まっていて管理されているんです。特に今の学校は、それが厳しいんです」

「大月先生は、何の先生なんですか?」

「英語です。あと、社会科の免許も持ってます」と彼女は答えた。

「今の学校が合わないならば、別の学校に移ってはいかがですか?」と私は言った。

「今は少子化で、生徒の数が少ないんです。教師が余っていて、就職口を見つけるのは至難の業なんです。だから、今の学校にしがみついてるんです。嫌で嫌でしょうがないのに」

 大月先生は、ごく親しい人間にしかしないような打明け話を私にしていた。どうしてそんな気分になったのか、私にはよくわからなかった。だが考えてみれば、涼ちゃんも真理ちゃんも出会って一月も経たないうちに、誰にも話せないことを教えてくれた。今の私には、人の隠していることを引き出すキーが備わっているのかもしれない。年をとったからだろうか?

「真理ちゃんの事件が起こって、彼女も涼ちゃんも学校に来なくなったとき、学校から全教員に示されたのは、『この件に触れるな。何もするな』でした。親しい教員たちは、みんな『こんなのおかしい』と言っていました。でも、学校に歯向かってクビになるのが怖かったんです」

「それは、わかります。クビになったら、他の就職はまずないんでしょう?」と私は言った。

「そうなんです。だから、私は何もしなかった。何事もなかったように、普段通り授業をしてました。重苦しい、つらい日々でした。でも私は、どうしたらいいか思いつかなかったんです。学校の命令を無視するとしても、何をしたらいいかわからなかったんです。ただ、真理ちゃんの家にだけ通いました。私がしたのは、それだけです」と、大月先生は言った。渋滞なので私は、たまに横を向いて彼女の様子をうかがった。彼女は、言葉の調子よりもさらに興奮していた。身体を少し、小刻みに震わせていた。

「大月先生、そんなに自分を責めなくていいですよ」と私は声をかけた。

「いや、私は何かすべきだったんです。あの日、柿沢さんに怒られた通り、やろうと思えばできることは沢山あったんです。でも、私はしなかった。涼ちゃんの担任も、私の同僚も、田口主任も校長も何もしなかった。恥ずかしいことです」

 まいったなあ、もう結論は出てることじゃないか。それより前を見ようぜ。そう思って私がしゃべろうとしたとき、先に大月先生が話の続きを始めた。

「それを柿沢さんがひっくり返したんです。朝電話を下さって、ほんの一時間学校に来られて、何もかも解決してしまった。私には、衝撃的な出来事でした」

 もう一度、助手席へ顔を向けると、大月先生はプルプルと震えていた。感情が昂ぶっているのが、手に取れるように伝わってきた。こりゃあ、下手なことは言えない雰囲気だぞ。私が言葉を選んでいると、また大月先生が話し出した。

「あの日の放課後、全教員が集まって会議になったんです」

「そんな大ごとになったの?」

「はい。涼ちゃんの退学の取り消し、涼ちゃんと真理ちゃんの欠席の取り消しについて、全校で会議が開かれました」

 そんなめんどくせえこと、してやがったのか。何、そこで話がひっくり返されたなら、また叩きのめすだけの話だ。だが、そうはならなかったということだ。

「他学年の教員から、異論が出されました。長期欠席を取り消すなんて前代未聞だし、ましてや一度受理した退学届を差し戻すなんてありえないと。

 でもまず田口主任が、事情説明をしました。『本来警察に届けるべき傷害事件を、私たちは評判を恐れてもみ消してしまった。だから斎藤さんの退学や、平松さんの長期欠席を招いてしまった。そして私たちは、それを押しとどめる努力を怠った。その結果、事態をどんどん悪化させてしまった。だから、取り消すんだ』と」

 あの田口主任、なかなかいいこと言うじゃないの。そんな彼をボロクソに怒鳴りつけて、私は少し後悔した。

「田口主任がそう言っても、まだ教員たちはざわついていました。だって、『この件に触れるな。何もするな。』と指示しておいて、それをひっくり返したわけです。あの日あの美術室にいなかった教員は、訳がわからなかったと思います」

「私がその会議に参加して、怒ればよかったのかな?」と私は言った。

「そうですね。そうして下さったら、一番効いたと思います」

 そう言って、大月先生はしばらく笑った。ずっと続いていた緊張が、やっとほぐれたようだった。

「そこへ、大島教頭が発言したんです。『私たちは、教師だ。今回、教師として恥ずかしい失敗をしてしまった。問題は、どうしようもないほど悪化してしまった。犯した失敗は消せないけれど、その罪を今日から償うことは出来る。それが、斎藤さんと平松さんの学校復帰だ。今取りうる最良の手段は、これしかない。私たちは教師だ。勉学だけでなく、生徒に善悪を、生きる術を教える立場だ。二人を学校に戻しましょう。そして二人に、教師として出来る全てのことをしましょう。それが、罪の償いなのです』そう教頭先生が言ったんです」

「教頭って、あの校長の顔色ばかりうかがって何にも言わないやつ?」

 大月先生は、クスクス笑った。そして話を続けた。

「大島教頭って、本当に何も言わないんです。同僚の間でも、『教頭は、仕事してるのか?』て言われてるくらい、存在感薄かったんです。そんな大島教頭が発言したから、みんなびっくりですよ。で、横で校長が『うん、うん』ってうなずいてるから、誰も何も言えなくなっちゃった。こうして、真理ちゃんと涼ちゃんの学校復帰は正式に決まったんです」

 そこまで言い終えて、大月先生はふうっと大きなため息をついた。そして言った。

「柿沢さん、あなたが全部変えたんです」

「それは、違うんだよ」と、私は優しく大月先生に話しかけた。「俺は、学校に行って一時間しゃべっただけじゃない。たとえて言えば、倉庫の鍵をカチッと開けただけ。その倉庫の中には、涼ちゃんや真理ちゃんの問題や、加害者の少女たちの後悔や悲しみや、先生たちの鬱屈した思いが詰まってた。俺は、そのドアを開けただけ。パンドラの箱と同じさ。最後に希望が出てきて、田口主任や大島教頭に勇気を与えたんだと思うよ」

 車が少し流れ出した。私はハンドルを握り、前を見ながら周囲に気を配った。そんな私を、じっと見つめている大月先生を感じた。だいぶ経ってから、彼女は私に話しかけた。

「よくとっさに、そんな言い回しが思いつきますね。それとも、用意されてたんですか?」

「まさか!今思いついただけですよ。口からでまかせです」

「私、柿沢さんのような方に出会ったのは、初めてだと思う・・・」

 大月先生は、新興宗教の教祖に出会ったような言い方をして沈黙した。おいおい、そんな簡単に人を信用しちゃダメなんだよ。自分に論理的思考という武器を持ち、知識の引き出しをたくさん身につけて世界と対峙しなきゃいけないんだ。私はそう思ったが、雰囲気をぶち壊しかねないので黙った。まあ、別の機会があったら話せばいいことだ。

「真理ちゃんと涼ちゃんが、あなたに夢中になるのがよくわかります」と、大月先生は言った。ブーッ。ダメです。不正解です。

「大月先生」と、私は諭すような口調で話しかけた。「口が上手いだけでは、人は私を信頼してくれません。涼ちゃんと真理ちゃんは、誰にも言えないような問題を私に話してくれました。勇気を出して。先生も知らないことです。私はその問題に全力で応えたいと思い、行動しています。その姿勢を認めてくれたからこそ、彼女たちは私の言葉に耳を傾けるのです。時間とエネルギーを注ぎ込んで、私はそれを実行しています。だから彼女たちの、信頼を勝ち取っているのだと思います」

 私は大月先生と話しながら、とても申し訳ないのだがだんだんめんどくさくなってきた。彼女はあまりに平凡だった。私は彼女に、ほとんど魅力を感じなかった。

 首都高を降り、彼女の家が近くなった。もうあたりは、夜になっていた。しかし鬱陶しいほどの街灯が、あたりを昼間のように照らし出していた。

「今は教師を、続けようと思ってます」と、しばらく黙っていた大月先生が言った。

「ほお、何で?」と私はぶっきらぼうにたずねた。

「柿沢さんはイライラされるかもしれませんが、私もあなたのようになりたいです。しかるべきときに、しかるべきことを出来る教師になりたいです」

 げっ。私が大月先生に、イラついていたのはバレていたのだ。これが恋人に嫌われる理由の一つかもな、と私は思った。私は少し反省して、彼女にアドバイスを送った。

「組織というのは、個人では抵抗不可能に思えます。それは、学校でも会社でも同じです。でもしっかり考えたら、強固な組織を崩す手立てがあることに気づきます。方法はいくつもあるし、状況、条件によってベストな方法は変わります。

 私は仕事で、今ならこの手だろうという方法を見つけて問題を解決してきました。巨大な壁が目の前にあっても、『ここからなら切り崩せるな』という場所があるんです。私はそれを、三段階くらい考えます。第一の壁を崩し、第二の壁を崩し・・・、っていう感じです。その過程で賛同者を増やしていき、最終的に壁を無力化します。壁はあっても、壊す必要はない。越える必要もない。どんな壁にもドアはあるんだ。私はそのドアの鍵を開けてもらって、堂々と中に入ります。比喩なのでわかりづらいと思いますが、現実とはそんなもんです」

「難しいです。柿沢さんのおっしゃることは、本当に難しい・・・」

 大月先生は助手席で、頭を抱えているようだった。

 彼女の自宅付近まで到着した。「そこを、左に曲がってもらえますか?」と大月先生は言った。狭い路地を進むと、五階建てくらいの綺麗なマンションに着いた。そこが彼女の家だった。私はゆっくりと車を停めた。

 彼女は助手席から降りると、深々と私にお辞儀をした。私も車を降りて、彼女にお辞儀をした。

「また、授業に参加させてもらえませんか?」と、別れ際に彼女は言った。少し、切迫した雰囲気が伝わってきた。

「もちろん大歓迎ですよ。土曜でも日曜でも、毎週でも、都合のいいときに来てください。先生が参加してくれたら、ディスカッションが盛り上がります」と私は言った。

「ディスカッション、苦手ですう・・・」と彼女は大柄な身体を小さくした。そして、「私、日奈子っていうんです」と突然名乗り出した。「授業のときは、日奈子って呼んでください」

「大月先生じゃなくて?」

「私は先生じゃないです。柿沢さんの生徒です。だから日奈子って呼んでください」

「わかりました。そうします。日奈子ちゃんだね」

「はい、日奈子ちゃんです!」

 大月先生はそう言って、心から嬉しそうに笑った。「ちゃん?」と、思ったが何も言わないことにした。彼女は、私が運転席に戻って車を始動させても、その場に立って両手を振っていた。私も片手を振って、彼女に応えた。そして、長い帰り道へ向かった。


 家に帰ると、黒焦げになったハンバーグが私を出迎えてくれた。涼ちゃんと真理ちゃんは、私がハンバーグを作ろうとしていたことは見破った。しかし、火加減を知らなかった。これも経験である。

「大月先生と、ちゃんと話した?」と涼ちゃんが聞いてきた。

「たくさん話したよ。渋滞だったから、たっぷり話せたよ」と私は答えた。

「ねえ、どんな話したの?」と真理ちゃんが聞いた。

「それは、プライバシーだからダメ。知りたかったら、来週大月先生に聞きなさい」と私は答えた。

 ぷうっと、二人はふくれた顔をした。

「俺は人から聞いた話を、誰にも話さない。それは守るべき最低限のルールだ。だから、涼ちゃんから聞いた話も、真理ちゃんから聞いた話も誰にも話さない」

と言った。そう言われて、二人は納得したようだった。



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