第18話 水族館
第18話 水族館
次の日は、葛西臨海公園の水族館に行くことになった。
「拓ちゃん、マグロの水槽が復活したんだよ」と、朝食を食べながら涼ちゃんが言った。葛西臨海公園のマグロが、原因不明の理由で全滅したというニュースは知っていた。そのマグロ水槽が復活したらしい。
「観たいー」と真理ちゃんが、駄々をこねる子供のように言った。二人はもう、今日の予定を決めていたのだ。はいはい、わかりました。仰せの通りにいたします。
葛西水族館に入って五分もすると、私は魚を鑑賞することに飽きてしまった。あれ、おかしいな。子供の頃は大好きだったんだけどな。しかしよく考えれば、不思議なことではない。私は年齢を重ねるにつれ、いろんなことから興味を失いつつあるのだ。
それは猫に似ていた。子猫にボールなんかを渡すと、熱心にじゃれていつまでも遊ぶ。それに対して、老いた猫はそんなことはしない。もう世界の全てを知り尽くしたとでもいうように、丸くなって寝たまま動かない。だが、知るべきことがなくなったのではない。興味を失ったのだ。私も徐々に、この世のありとあらゆることから興味を失っていくのだろう。そして本当に何もなくなったとき、死を迎えるか痴呆になるのだろう。そう考えると、死はとても自然なことに思えた。
涼ちゃんと真理ちゃんは、全く逆だった。
「でけー」
「グロー」(グロテスクという意味だろう)
「キモー」
大騒ぎをしながら、まさに館内を跳ね回った。
「何これ、不思議ー。こんなやついんの?」と真理ちゃんが水槽を指差して言った。彼女が指指す先には、昆虫みたいな生き物が水の中を漂っていた。オーストラリアの海に住む、「ビッグベリードシーホース」というタツノオトシゴの仲間だそうだ。まるで折れた枝に枯葉がついているような姿だった。
「ギャー」と真理ちゃんが言うと、「ギー」と涼ちゃんが返す。私は展示された魚を見るより、騒ぐ二人を見ている方が楽しかった。この二人は、18歳とは思えなかった。同じ年令で、水族館でこんなに大騒ぎするやつはいないだろう。
その様子は、二人の子供時代の欠落を改めて私に示した。誰もが小さい頃に享受する、娯楽の経験を欠いているのだ。そう想像するだけで、私の胸はまた痛んだ。と同時に、強烈なエネルギーも湧き上がった。涼ちゃんと真理ちゃんを、ごく普通の生活に戻さなければ。そして未来を描く、希望を取り戻さなくては。
深海魚のコーナーに移った。二人はダイオウグソクムシという、深海生物の水槽の前に座り込んだ。そしてじっと水槽を覗き込んで、動かなくなった。
「いいよね・・・」
「なんかいい・・・」
そのグソクムシは、私にはダンゴムシが巨大になった不気味な生物にしか見えなかった。おまけにこいつは全く動かない。解説によると、食事以外は無駄なエネルギーを使わないよう動かないらしい。そういえば、深海魚が女性の間で人気だと、ニュースで聞いたことがある。何か魅力があるのだろう。
二人の後ろからグソクムシを見ていて、「平穏な生活」という言葉が浮かんだ。グソクムシの毎日に、争いごとはないだろう。競争も見栄もエゴも嫉妬も、一切ないだろう。全て無駄なエネルギーだからだ。だが人はグソクムシとは違う。見栄や自分のエゴにこだわり、学校でも会社でも競争に明け暮れ、他人を嫉妬し、そして取り返しのつかない間違いを犯す。馬鹿げたことをやってるよな。でも私も、そんな世界に48年も身を置いてきた。もう十分だという気がする。
しかし、だ。私たちには理性がある。グソクムシにはないものだ。理性が、美や幸福を求める。成功や、名誉を求める。それを得るために、莫大なエネルギーを費やすのが人間だ。そして何より愛情だ。私自身に限っても、涼ちゃんと真理ちゃんに自分の限界までエネルギーを注いでいる。グソクムシくんは言うだろう、それは無駄なことだと。
だがその無駄な努力をやめられない。グソクムシくんに笑われようと、私は力の限りを涼ちゃんと真理ちゃんに注ぎ込む。それが、今私が生きている理由だからだ。
グソクムシくん、君と私は意見が合わないね。私は世界と戦う気満々なんだ。涼ちゃんと真理ちゃんのためなら。
さて、次は巨大な水槽をマグロが猛スピードで泳ぐ、この水族館の目玉コーナーに移った。
「おっきいー」
「キラキラしてるー」
二人は水槽の目の前まで行って、必死に泳ぐ大量のマグロたちに見入った。
そこへ、修学旅行の団体がガヤガヤと近づいてきた。うるさいな、と私は思った。二人に声をかけて、彼らと一緒にならないよう先に行こうかとも思った。しかし、その集団は女子高の生徒たちだった。
彼女たちの制服は、まさに真理ちゃん好みの可愛らしい服だった。真理ちゃんは振り返ってマグロのことなど忘れ、彼女たちに見入った。そんな真理ちゃんに涼ちゃんも気づいて、百人以上はいる女子高生たちを見つめた。
その修学旅行の生徒たちも、水槽の前に立つ涼ちゃんと真理ちゃんに気がついた。そして二人が持つ、並外れた美しさに圧倒されて立ち止まった。彼女たちもマグロのことを忘れた。
「ねえ、君たちはどこの学校?」と私は聞いてみた。
「DDD学院女子高」と一人の女の子が教えてくれた。名前から、京都の学校だとわかった。
「何年生なの?」
「二年です」と別の子が答えた。そしてその子は私の隣にいる涼ちゃんと真理ちゃんを見て、私に質問した。「芸能界の方ですか?」
「違うよ。二人とも普通の高校三年生だよ」と私は、二人を横目に見ながらその子に答えた。。
「綺麗な方たちですね・・・」と、別の女の子の一人がため息をつきながら言った。周りの子たちも、大きくうなずいた。
「そうだね」とだけ、私は言った。
マグロコーナーは、涼ちゃんと真理ちゃんコーナーに変わってしまった。DDD学院女子高の生徒たちは、希少な生物でも見るような目で二人を見た。涼ちゃんと真理ちゃんは、彼女たちに注目されても気にならないようだった。むしろ二人は二人で、制服姿の彼女たちに見入っていた。マグロは完全に無視された。まあ、マグロはどちらでも構わないだろうけど。
修学旅行の生徒たちが全員通り過ぎた後も、私たちはマグロコーナーに残った。涼ちゃんも真理ちゃんも、しんみりとした表情になった。
「私たちも、高校生だったんだよね・・・」と涼ちゃんがさみしそうに言った。
「そうだったね・・・」と真理ちゃんが悲しそうに答えた。
来た!待ちに待ったチャンスだ。まさかこんなに早く、機会が訪れるとは。しめしめ、と私は思った。
「あの高校生たち、可愛いかったね」と私は二人に言った。
「うん」と涼ちゃんが答えた。
「制服可愛かった・・・」と真理ちゃんが言った。
よし、今だ。準備は整った。
「真理ちゃん、明日の昼間に学校に行こうぜ」と私は言った。
「ええっ、なんで!?」と真理ちゃんは聞いた。
「なんで?」と涼ちゃんも言った。
「決着をつけよう。大丈夫、全部俺に任せなさい」
キョトンとしている二人をよそに、私はルンルン気分で明日の作戦を立て始めた。さて、どうやって切り崩すか?
私はその日寝るまで、嬉々として計画を練り続けた。
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