第17話 おじいさんとおばあさん

第17話 おじいさんとおばあさん


 土曜日の朝は、早起きとなった。私は五時に起きて、朝食を作った。六時になったら二人を起こしに行った。涼ちゃんと真理ちゃんは、元私のベッドで小さくなって眠っていた。それでも足が少し、ベッドからはみ出ていた。やっぱり、もっと大きなベッドを買わないといけないな。

 六時過ぎから朝食を食べた。眠気の抜けない二人は、とても不機嫌そうだった。私は怒られやしないかと、びくびくしながら食事をした。いつものように口の中に食べ物を少量、片っ端から放り込んで水で胃の中に流し込んだ。早々に朝食を食べ終わり、隣の六畳間に退散した。

 六時二十分になり、涼ちゃんと真理ちゃんは食事を終えて身支度を始めた。涼ちゃんは、ユニクロで買った真っ赤なスカートを選んだ。真理ちゃんも先週買った、淡いブルーのワンピースを着てダイニングルームに現れた。二人は、出かける前にハーフコートを羽織った。ブラウンが涼ちゃんで、ブルーが真理ちゃんだ。それは、今日の二人の服装にとてもマッチしていた。

 

 さて、目黒までの長い道のりだ。総武快速線は、運良く四人席に座れた。涼ちゃんと真理ちゃんは、ひっきりなりにiPhoneをいじっていた。真理ちゃんに友だちがたくさんいるのは教えてもらったが、涼ちゃんは、そんなに友だちを作らないタイプな気がする。

「涼ちゃんは何を見てるの?」と私は聞いてみた。

「ニュース」と彼女は答えた。涼ちゃんは、この前も言っていたように自分がバカになってしまうことを恐れているようだ。それは、退学してしまったせいだろう。同級生たちは、受験に向けて猛勉強している時期だ。でも彼女には、その手がかりすらない。

「拓ちゃん、部屋の本読んでもいい?」と涼ちゃんは私に言った。

「もちろんいいよ。好きなものを読んで」

「実はもう、何冊か読んじゃったの」と彼女は言った。「でも、どれも難しすぎて。私には、全然理解できない」

「そうだなあ。確かに、高校生には難しすぎるかも」と私は答えた。そして、「でも、コンピュータ関係の本なら大丈夫だと思うよ。コンピュータも、iPhoneにたどり着くまでの長い道のりがある。ハードウェアはCPU、メモリ、ハードディスクがあり、ソフトウェアには、BIOS、オペレーティング・システム、アプリがある。通信には、プロトコルがある。昔の本を読んで、そういう基礎を押さえておくと将来役に立つよ」と言った。

「むずかしー」と言って、彼女は笑った。深い森の中を流れる、清流のような笑いだ。本当に爽やかな笑顔をする女の子だ。言葉では表現できない。

 目黒駅に着くと、涼ちゃんの案内に従って歩いた。西口を出て、目黒通りの坂をどんどん下りていく。山の手通りを過ぎてしばらく行ったところで、涼ちゃんは左に曲がった。細い道に入るとそこは一転して住宅街になった。一軒家の駐車場には、判を押したようにベンツが必ず停まっている。高級住宅街だ。私とは別世界だ。

 真理ちゃんはとても緊張して、ほぼ無言だった。初めて恋人の両親に挨拶する気分なのだろうか。家についたら、両手をついて頭を下げ、「涼さんを私にください」とか言うつもりなのかな。実に不謹慎だが、そんな真理ちゃんの姿を見て、つい笑ってしまった。


 涼ちゃんのおじいさんの家は、想像していたよりはずっと小さかった。その代わり敷地は広かった。庭は森だった。樹齢百年以上の大木がたくさん並んでいた。涼ちゃんが呼び鈴を押すと、すぐに彼女のおじいさんとおばあさんが出てきた。二人とも、満面の笑顔で私たちを迎えてくれた。それはそうだろう。可愛い孫に、久しぶりに会えたのだ。おじいさんとおばあさんは涼ちゃんを見つめて、笑いを通り越して泣きそうに見えた。

「はじめまして。柿沢拓郎と申します」と私は言った。

「は、はじめまして。平松、真理と申します」と緊張が解けない真理ちゃんは、私の真似をして挨拶をした。

「柿沢さん、平松さん。よく来てくれました。どうぞ、どうぞ。中に入ってください」と涼ちゃんのおばあさんは言った。

 私たちは、庭に面した応接間に通された。全ての家具が、アンティークでべらぼうな高級品だとすぐわかった。私と真理ちゃんは、四人くらい座れそうな巨大なソファに二人で座った。座ると、身体がソファの奥にめり込んだ。向かいに涼ちゃんのおじいさん、おばあさん、そして涼ちゃんが座った。テーブルの上には、ホットコーヒー、紅茶、煎茶、そして高級そうなお菓子がたくさんのっていた。

「なんでも好きなものを召し上がってね」と涼ちゃんのおばあさんが言った。

「柿沢さん」と、おじいさんが私に話しかけた。「涼がお世話になり、本当に感謝しております。ありがとうございます」彼はテーブルに両手をつき、額までテーブルにつけて私に感謝の意を表した。

「いや、そんな勘弁してください」と慌てて私は言った。しかし彼は、その格好でしばらくじっとしていた。とても大会社の現役社長に見えなかった。

「土曜日のこんな朝早くに来ていただいて、本当に申し訳ありません。柿沢さんや平松さんと、ゆっくりお話ししたいのですが、午後には出社しなければいけないのです。私の勝手な都合に合わせていただき、誠に申し訳ありません」

 おじいさんのあまりの低姿勢に、私は驚くばかりだった。彼の日常は、部下たちを叱り飛ばし、政財界の重鎮たちと対等に意見を戦わせているはずだ。私みたいなダメ社員に、こんなにへりくだる必要はないと思った。

 庭で犬がワンワンと吠えた。「ドリー」と涼ちゃんがその犬の呼びかけに応えた。涼ちゃんは立ち上がり、真理ちゃんの手を取って二人で庭に出ていった。ドリーという名の犬は、久しぶりに涼ちゃんに会えて上機嫌だった。庭で涼ちゃんは、ドリーを抱きしめた。そして広い庭をドリーと歩いた。彼女はドリーに、真理ちゃんを紹介しようと試みた。真理ちゃんは、優しくドリーの頭を撫でた。

 応接間には、大人たちが残った。私たちは自然と、大人の話をした。

「柿沢さん。初めてお会いしますが、私は初めてという気分がいたしません。涼から、毎日あなたのことを聞かされているからです」とおじいさんは言った。

「涼と主人と私は、LINEでグループを作っているんです。涼がたくさんメッセージや写真を送ってくるんです。今日柿沢さんとどこに行った、今日柿沢さんに、こんな料理を作ってもらったと。だから主人と私は、もうあなたが初めてお会いする人とは思えないんです」とおばあさんは言った。

 そんな細かいことまで連絡してるのか。参ったなあ。この調子じゃ、涼ちゃんはなんでも話してるぞ、と私は覚悟した。

「柿沢さん、涼は私にとって命です。長く一緒に暮らしたせいもあって、涼が何より大事なんです」とおじいさんは言った。「柿沢さんは、もう全て事情はご存知なのでしょうが、説明させていただきます。涼は七月、この家から出ていきました。私たちに、何の説明もせずにです。学校に連絡をとると、退学届を出したという。私はもう、気が狂いそうでした。仕事なんて上の空でした」

「あの、涼さんの家出の理由はご存知ですか」と私は聞いてみた。

「いや、今だにわかりません」とおじいさんは答えた。おばあさんもうなずいた。

「理由がわからないとは、本当にお気の毒です。もう、涼ちゃんもちゃんと説明すればいいのに」と私は言った。そして、少ししまったと思った。おじいさんとおばあさんより、私の方が涼ちゃんに近いと宣言するような言い方だったからだ。

「教えていただけませんか?」とおばあさんは言った。

「今あそこで遊んでいる平松真理さん、彼女の顔をクラスメイトたちがカッターナイフで切って大怪我させたんです。はっきりお断りしますが、涼さんは平松真理さんを愛しています。同性ですが、本物の愛情です。ですから、涼さんは怒った。加害者を一人ずつ呼び出して、ぶん殴ったそうです。それから、加害者を罰しない学校に怒った。怒りのあまり退学届を出した。そして真理さんと二人で、今いる世界から脱出することにした。お気の毒なのですが、涼さんはこの家から出ることを決断した。あとは三ヶ月くらい、都内を転々とさまよっていたようです」

「そうだったんですか」「なんて酷いことを・・・」おじいさんとおばあさんは、あまりの厳しい事実に当惑した表情で言った。

「くっそう、ふざけるなよ」

と、ようやくショックから覚めたおじいさんは眉間にシワを寄せて怒り出した。「あの学校を選んだのは、私なんだ。経営者たちともみんな知り合いだ。それをこんな・・・。ふざけやがって」おじいさんは今にも学校に電話しそうな勢いだった。

「まあ、ちょっと待ってください」と私は言った。「涼さんの気持ちを大事にしましょう。彼女は今、私の家の近くのコンビニエンスストアでアルバイトをしています。働くということの意味を、学んでいるところです。それはとても大切なことだと私は思います。彼女はまだ生き始めたばかりです。いろんなことを、これから学べばいいと思います。時間はたっぷりある。寄り道をいくらでもしたっていい。彼女が最終的に、幸せになってくれればいいんです。私たちには、残念ですがささやかなことしかできません。彼女の意思に従いましょう。彼女が何か決断をした時、私たちはその手助けをすればいいんです。それしか出来ないんです。それを自覚しましょう」

 いつのまにか私は、世界中を相手に商売をする大社長に説教を始めていた。私の悪いところだ。身の程を知らない。思ったことを、全て口にしてしまう。

「柿沢さん。あなたと私は意見が違う」とおじいさんは言った。大会社の社長が持つ威厳を、彼は取り戻していた。彼は少し厳しい表情をして、私を見つめた。彼を怒らせてしまったのかもしれなかった。彼はしばらく無言だった。代わりに、おばあさんが話を始めた。

「涼が家出して、私と主人は何度も電話したし、LINEにメッセージも残しました。でも返答はない。で、十日にいっぺんくらいLINEで『心配するな』というメッセージがくるだけです。もう、頭がおかしくなりそうでした」とおばあさんは言った。

「私は探偵を雇いました。涼の居場所を突き止めたかったんです」とおじいさんは口を開いた。「さすがプロです。すぐに見つけました。何の事はない、都内の二十四時間営業の店を転々としているだけです。私は探偵に金を渡し、涼に渡そうとしました。LINEでメッセージを入れ、金を受け取るように言いました。しかし、涼は受け取りませんでした。指定した場所にこないのです。私は途方にくれました」

「私にも、その頃の涼さんの気持ちはわからないですね。うーん、一つ仮説を立てるとすれば、おじいさんからお金を受け取るという世界からも、脱出したかったのかもしれません」と私は言った。

「お金なんかないはずなんです。なのに私の金は受け取ろうとしない。私は訳がわかりませんでした」とおじいさんは、当時の苦しさをそのまま表すような表情をした。

 私は迷った。ほとほと迷った。この二人に、涼ちゃんが味わった現実を突きつけていいのかと。だが、だ。涼ちゃんを愛する立場は同じだ。事実を知って、それを受け止めよう。その上で、私たちは彼女と接しよう。そうするべきだと、私は思った。

「涼さんは、男に身体を売ってました。それで生活費を稼いでいたんです」と私は言った。

 おばあさんは顔を両手で覆った。おじいさんは、「うおおおっ」と叫んで天井を見つめ、そのまま絶句した。

「涼さんと真理さんを家に泊めて、三日目に私は気がつきました。涼さんは、目を覆いたくなるほど扇情的な格好をしてましたから。私は怒りました。もう二度とそんな格好をするな、もう二度と一人で夜の街に行くなと。涼さんは従ってくれました」

「主人と私は涼と、中学、高校と一緒に暮らしてきました。でも私たちの言うことなんか、涼はちっとも聞いてくれませんでした。でも柿沢さんの言うことには、涼は従うんですね」

「何ででしょうね。私にもわかりません」

「あなたの家に住むようになってから、涼からのLINEのメッセージが途端に増え出したんです。1日何回も届くんです。それまでは、十日いっぺんだったのに。柿沢さんが連れていってくれた場所や、作ってくれた食事はもちろん、今日柿沢さんがこう言った、次の日はこう言ったとこと細かに送ってくるんです。

 私たちはもちろん、そんな独身の方の家にいるのはやめろと言いました。でも、涼はいつものように私たちの言うことなど聞き入れません。でも、どんどん明るくなっていくのがわかるんです。柿沢さん、あなたのお力としか思えません」とおばあさんは言った。

「いいえ、私は普通の人間です。平々凡々な、出世街道からも外れたダメサラリーマンです。会社でも、若い人の仕事を手伝うような簡単な仕事しか与えられていません」と私は言った。「でも、思い当たる事はあります。もう、涼さんからお聞きかもしれませんが、私は男として不能です。仮に、涼さんがここで裸になったとしても私は何も感じません。うつ病で、そういう気持ちを失ったんです。

 あるとき、涼さんは私に話してくれました。『中学校の頃から、男が嫌いになった』と。涼さんにとって、私はきっと男ではないのです」

「そうだったんですか・・・」おじいさんは、それだけ言って沈黙した。同じ男として、それがどれだけつらいことかわかってくれたのだろう。

「私は、涼さんのお父さんとお母さんを兼ねているのだろうと思っています。彼女と私は毎晩、二人でニュースを見ます。機嫌の悪いとき、彼女は私に当たります。他人だけれど、普通の親子関係みたいだと思います」と私は説明した。

「たったひと月も経たないうちに、あの気難しい涼と信頼関係を築いたのですね。信じられないとしか言えないです」とおばあさんは言った。

「涼さんを支えているのは、私ではありません。今庭にいる平松真理さんです。涼さんは彼女を愛しています。同性ですが。平松真理さんは、見た目も美しいですが内面も素晴らしい女性です。私も度々彼女に怒られるくらいですから。どうか、涼さんと彼女の関係を認めてくれませんか?」

「真理さんの存在も大きいと思いますよ。でも柿沢さん、あなたの存在も大きいんだと思います」とおばあさんは言った。「真理さんとは、中学の頃からの付き合いでしょう。でも涼はずっと苦しんでいた。私たちと暮らしていても、滅多に笑うことなんてなかった。それなのに、庭にいる涼を見てください。あんなはち切れそうな笑顔は、主人も私も見たことがないです。真理さんも大切でしょうけど、本当に大きいのは、柿沢さん、あなたです」

「そんな、まさか」と私は苦笑した。

「この間は、涼にユダヤ人について教えてくださったそうですね。どんな授業より分かり易かったと、涼は申しておりました」

 話が逸れた、と私は思った。私は涼ちゃんと真理ちゃんの関係を認めて欲しいのだ。私の賛辞なんかどうでもいい話だ。実際、私に未来はない。ただ少しずつ死んでいき、やがて土に還るだけだ。だが二人は違う。

 あともう一つ、心に引っかかる問題があった。涼ちゃんのお父さん、あの馬鹿野郎の問題だ。あれは涼ちゃんと私の胸に仕舞って置くべきか、それともおじいさんとおばあさんに話すべきか。私は一人苦悶した。

「おじいちゃん、来て、来て。ドリーが呼んでるよ」と涼ちゃんが大声を出した。「おばあちゃんも来て」

 涼ちゃんに呼ばれて、「失礼します」と言って二人は庭に出た。ドリーは大喜びだった。大好きな飼い主がみんな集まったのだ。尻尾をこれでもかというぐらい振って、はしゃいでいた。

 ドリーが涼ちゃんに乗りかかった。バランスを崩して倒れそうになった涼ちゃんを、真理ちゃんが抱きとめた。真理ちゃんは両足を開いて、涼ちゃんをしっかり抱きしめた。てこでも動かないという意思が伝わる姿だった。涼ちゃんのおじいちゃんとおばあちゃんも、笑ってその様子を見ていた。言葉で語るよりも、現実を見ればわかるといういい例だ。

 私は一人応接間のソファに座り、その和やかな様子を見ていた。つらい現実を忘れられる、ささやかなひと時だ。だが私は、現実をにらみ続けた。次にどんな手が打てるか?涼ちゃんを、今の窮地から救い出す方法は何か?それを、涼ちゃんのおじいさんとおばあさんと話し合いたかった。

 15分くらいドリーと遊んだ後、おじいさんとおばあさんは部屋に戻ってきた。涼ちゃんと真理ちゃんは、庭の真ん中にある小さな池のそばに行き、そこにあるベンチに座った。涼ちゃんの隣にドリーが座った。二人の女の子と犬が肩を寄せ合っていた。

「中座してしまい、大変申し訳ありませんでした」とおじいさんは私に謝罪した。

「いいえ、大切な時間だと思います。ドリーも喜んでくれたでしょう」

 私がホットコーヒーを飲み干したので、おばあさんがお代わりを注いでくれた。私は、本題に入ることにした。

「涼さんは、せっかく入った学校を退学してしまった。さっきご説明した通り、学校に対する抗議のためです。しかし、退学した事実は元に戻らない。私たちは、涼さんのこれからを考えないといけません」と私は言った。「一番現実的な方法は、別の高校に編入して高校三年をやり直すことです。二年生までの取得単位は認められます。時間を無駄にしますが、私は涼さんに学校に戻って欲しいと思っています」

「柿沢さん、私は涼が考えていることがわからない」とおじいさんは言った。「今の学校は、私が選んで無理矢理入れたようなものだ。涼はそれをやめてしまった。あの子の本当に望んでいることが何なのか、今の私にはわからないのです」

「涼さんは最近、熱心にニュース番組を見ています。新聞も隅まで読んでいます。知識欲を、取り戻しつつあると私は見ています」

「そうなんですね。だから、ユダヤ人の話を長々とメッセージで送ってきたんですね」とおばあさんは言った。

「率直に申し上げますが、私は涼さんにお父さん宛の手紙を書かせたんです。家出していても、ここにいるから心配するなという内容で。お父さんが、あんな方だと知りませんでしたから。で、彼女が書いた文章を読んで、びっくりしました。申し訳ないですが、ひどい文章でした。とても名門女子校の高校三年生とは思えなかった。今の彼女の実力はそんなもんです」

 おじいさんとおばあさんは、口を開けて呆然とした表情を見せた。信じたくない事実なのだろう。だが、しょうがない。私は話を続けた。

「今の実力じゃ、別の学校に編入したとしても名のある学校に合格するのは無理です。」と私は言い切った。

「最高の環境を用意する。超一流の家庭教師を用意する」とおじいさんは、力強く言った。世界を相手にする大会社の社長に、私はふっと笑って首を左右に振った。かちんときたのだ。人任せにすんなよと。

「駄目です。なぜなら、涼さんが本気にならないからです。彼女がやる気のない時に、何を与えてもダメです。私はほんの少しですが彼女と接してわかった。彼女がやる気になった時を捉えて、そこにエネルギーをつぎ込むしかない。それが到来するかは、彼女次第です。おそらく、学校の成績はずっと悪かったんじゃないでしょうか?どうでしたか?」

「あなたの言う通りだよ。中学一年から、涼の成績は最低ランクだ。あの子は、まったく勉強しなかったよ」とおじいさんは言った。

「見方を変えましょう。それって、当たり前じゃないですか?お母さんは、中一の時に男を他に作って涼さんを捨ててしまった。彼女はこの家に逃げ込むしかなかった。涼ちゃんはこの間、私に言いました。『中学二年の頃は、抜け殻だった』と。普通の人が、普通に与えられるお父さんとお母さんの愛情を、彼女は受けられなかったんです。そんなつらい思いを抱えて、勉強に身が入るとは思えないです」

「私と家内は、できる限りのことはしたんだよ」とおじいさんは、言い訳するように言った。

「もちろん、おっしゃる通りです。でも申し訳ありませんが、涼さんが求めていたのは実のお父さんとお母さんの愛情だったんです。当然のことじゃないですか。誰も代わりは出来ないです。

 今週の真夜中、私は泣き声で目を覚ましました。それは、涼さんの泣き声でした。時々、お父さんとお母さんが喧嘩する夢を見るんだと。それは今でも続いているんだと、涼さんは私に教えてくれました」

 おじいさんは、苦悶の表情で天を仰いだ。そして、「うううっ」と大きな声でうなった。泣いているのかもしれなかった。こんな調子で午後の仕事が務まるのか、不安になるほどだった。

「涼は、そんなことまであなたに話すのですね。あなたを本当に信用しているのですね」とおばあさんは言った。

 今は、泣いたりしているときではいい。私は、涼ちゃんの今後について実際的な方向性を生み出さなくてはならない。それを、この二人と話し合いたかった。

「まず、涼さんが勉強への興味を取り戻してくれることです。その時が来たら、どの学校に編入するか具体的に対策を練りましょう。誠に僭越ですが、涼さんの意思を最優先しましょう。行きたくない学校に行かせることはない。レベルの低い学校だって構わないじゃないですか。行きたいところに行かせればいい。そして、本人に責任を持たせるです。『お前が選んだ学校だろう』と。

 涼さんは、とても頭のいい子です。勉強とは関係なく。私たちがついた嘘を、すぐ見破る能力があります。だから彼女とは、本音で接する必要があります。繕うようなことを言ったら、彼女はすぐ見抜きます」

 おじいさんは、口を半分開けてぼうっと私を見ていた。私が話したことに、ついていけていない雰囲気だった。私も現場のリーダーをやった人間だ。こういう雰囲気の男は、全然役に立たない。ショックから立ち直れていないのだ。たとえ、大社長でも。私は、おばあさんに狙いを定めた。

「私は知ることの楽しさ、喜びを、涼さんに少しずつ教えていきます。実際彼女には、その兆しが見えている。『もう一度学校に行きたい』と彼女が言うのを待ちましょう。長期戦になるかもしれない。でも私は構わないです。独り者ですから」と私は、おばあさんの目を見て言った。

「あなたにそんな大変なことをお願いして、私たちはいいのでしょうか?」とおばあさんは私に言った。彼女は迷いを見せた。本当は、今日からでも涼ちゃんとの生活を再開したいだろう。だが涼ちゃんと二人の間には、私という得体の知れない障害物が挟まっている。おばあさんは自分が手を差し出したいけれど、諦めるしかない。

「構いません」

「私に、できることはないのか?」と、少し平静さを取り戻したおじいさんが言った。

「さしあたりはありません」と、失礼な私はおじいさんに言った。「私に時間をいただけませんか?私は涼さんに、子供時代のつらい記憶を少しでも和らげる努力をします。そして涼さんに、自分の未来があることを教えます。そして彼女がチラッとでも学校に戻る意思を見せたら、ねじ伏せてでも学校に戻します。どんな学校でもいいと思います。高校を卒業させてあげたいと思います。そして願わくば、さらに進学を希望するように持っていきたい。私はその作戦を練ります。そんなチャンスが訪れたら、またご相談させてください」

「君にそこまでお願いしていいのか、私もわからないよ」とおじいさんは言った。ここだ、と私は思った。もう一度、彼らを説得する機会が訪れた。

「私には、一つだけ有利な点があると思います。涼さんと真理さんと海に遊びに行った時、涼さんは『私はレズビアンだ』と私に言いました。私は『普通のことだよ』と答えました。二人は驚いていましたよ。

 涼さんと真理さんが愛し合っていること、これを自然に受け止めましょう。その考えを、涼さんに示しましょう。これが彼女の信頼を勝ち取る、第一歩です」

 我ながら、無茶苦茶なことを言っているなと思った。おじいさんもおばあさんも、高度成長期の日本で子供時代を過ごした世代だ。高学歴を競い、大会社に入ってさらに出世争いに勝ち、結婚して子供を持ち幸福で裕福な家庭を築く。それが、彼らに当たり前の価値観だろう。そんな彼らに私は、自分たちの価値観を捨てろと迫った。初対面だというのに。

「柿沢さん、私は古い人間だからかもしれないが、あなたの言っていることが理解できない。あなたはゲイなのかな?」とおじいさんは私にたずねた。

「いいえ。私は、普通の異性愛者です。私も涼さんの気持ちを、本当に理解することは永遠にないです。でも、彼女が真理さんを好きだというなら『いいじゃないか』と答えるだけです。私は小さな声、少数派の言葉を大事にしたいと考える人間です。ただそれだけです」

 おじいさんもおばあさんも、しばらく何も言わなかった。私は冷めたホットコーヒーをチビチビと飲んだ。もう、自分の言いたいことは言い尽くした気分だった。

「さっきも申し上げたが、あなたと私の考えは違う。だが、あなたは強い信念を持つ男だと理解できた。あなたに従おう。涼と真理さんの関係を認めろとおっしゃるなら、それに従おう。涼と真理さんに、いつでも家に遊びに来てくれと伝えてくれませんか?それが私と家内の、何よりの喜びです」とおじいさんは言った。彼は少しずつ、本来の威厳を取り戻しつつあった。

「ありがとうございます」と私は答えた。


涼ちゃんと真理ちゃんが、庭から戻ってきた。涼ちゃんは、真理ちゃんと一緒に私の隣に座った。そして彼女は、房総半島のプライベートビーチや、筑波山、インドカレー屋や千葉港のホテルの夜景やらを、熱心におじいさんとおばあさんに説明した。涼ちゃんは、30分くらいノンストップでしゃべり続けた。おじいさんとおばあさんは目を細めて、彼女の話に聞き入った。

「千葉って、すごくいいところだよ」と涼ちゃんは言った。世の中でも、極めて少数意見だろう。

「さて、私は残念ですが仕事に行かなくてはなりません」そう言って、おじいさんは残念そうに立ち上がった。時計を見ると、11時だった。彼は、私と真理ちゃんを見た。

「柿沢さん、平松さん。いつでも、お好きなときに遊びに来てください。どうか、よろしくお願いいたします」彼は腰を折って、深々とお辞儀をした。

「わかりました。こちらこそ、よろしくお願いいたします。私も立ち上がって、彼にお辞儀をした。

「おじいちゃん、またすぐ来るね」と涼ちゃんが言った。大社長はにっこりと笑って、部屋を出ていった。


昼食は、おばあさんの手料理をご馳走になった。野菜をたくさん使った、ハヤシライスだった。

「柿沢さん、涼は好き嫌いが多くて大変でしょう」とおばあさんは言った。

「えっ、そうなんですか?」

「やめてよ。おばあちゃん」と涼ちゃんが言った。

「涼が嫌いな食べ物を挙げたら、キリがないです。玉ねぎ、人参、ダイコン、キャベツ、レタス、ジャガイモ。だから、このハヤシライスも、わからないくらい野菜を小さく刻んでるんです」

おいおい、それじゃ野菜はほぼ全滅じゃないか。でも私は、毎日三食涼ちゃんに野菜を食べさせてるぞ。彼女は私に気を使って、我慢して食べていたわけか。涼ちゃんも真理ちゃんも、食事を食べ残すことはまずない。

「今はちゃんと食べてるんだよ」と涼ちゃんはおばあさんに言った。

「本当?私には信じられない」と、おばあさんは言った。


「今晩は、平松さんとうちに泊まっていかない?」とおばあさんは涼ちゃんに言った。

「いいですね。そうすれば?」と私も涼ちゃんに言った。

「いや。もう帰る」と涼ちゃんは素っ気なく言った。おばあさんがかわいそうだった。

「今日は泊まっていけば良かったのに」と私は、目黒の豪邸を出たあと涼ちゃんに言った。

「だって泊まったら、明日もここで朝ご飯食べることになるでしょ。それから帰ったら、千葉に着くのは午後になっちゃう。拓ちゃんと、遊べなくなっちゃうじゃん」

「ふうむ」と私はうなった。確かに午後になると、行けるところは限られるな。

私たちは、目黒駅から山手線に乗った。品川で総武快速線に乗り換え、家に帰る。山手線では座れなかったが、総武快速線は八人掛けの席に並んで座れた。涼ちゃんと真理ちゃんは二人だけの世界に入った。私はその隣で黙り込んだ。

 涼ちゃんのおじいさんは、正直期待外れだった。涼ちゃんは自分の命とまで言いながら、彼には涼ちゃんの今後に対するヴィジョンがなかった。それでいいのかよ、と私は思った。私の方が、よっぽど彼女の未来を考えているぞ。

愛情が深すぎて、目が曇るのかもしれなかった。あるいは、ずっと暮らしていながら、涼ちゃんの傷の在り処をようやく知ってショックなのかもしれなかった。本当のことは私にもわからない。だが今日の彼は、大した男じゃなかった。問題解決能力が欠けていた。

 彼は探偵を使って、涼ちゃんの居場所をつかんでいたんだぞ。その時点でなぜ、何か手を打たない?涼ちゃんが金を受け取らなかった事情があるとはいえ、結果として彼女は自分の身体を男に売り続けたんだ。

 血の繋がった関係だから、かえって冷静に判断できないのだろうか?私の家にいることを知りながら、涼ちゃんに会いに来ようともしない。私が変質者だったら、いったいどうするんだ?涼ちゃんとおじいさんとおばあさんがやったことは、ただ待っていただけだった。

 涼ちゃんのお母さんという、自分の娘が捨てた子という事実が彼らの行動を制約してしまうのだろうか?罪の意識が、涼ちゃんを厳しく育てることができないことに繋がっているのだろうか?孫どころか、子供も持たない私には謎だらけだった。

「拓ちゃん、なんでそんな怖い顔するの?」と涼ちゃんが聞いた。

「まるで怒ってるみたいだよ」と真理ちゃんが言った。

「怒ってないよ」と私は答えた。「ただ、涼ちゃんと真理ちゃんのこれからのことを考えてたんだ」

「何で?拓ちゃんはそこまで考えてくれなくていいよ」と涼ちゃんは言った。

「そうだよ。拓ちゃんは、自分のことだけ考えてよ」と真理ちゃんは言った。

「そうは、いかないんだよ」と私は言った。「俺は、涼ちゃんと真理ちゃんが大人になって、おばあちゃんになる頃まで考える。俺は面倒くさい男なんだ。どこまでも考えちゃうんだよ」

「私がおばあさん?」

「何それー?」

 二人は驚きの声を上げた。無理もない。高校三年生だ。そんな先を想像することすら困難だろう。

 だが私は違った。友人たちはみな家庭を持ち、自分の子供を育てることに苦闘していた。莫大な金を教育費に注ぎ、子供たちに少しでも多く知を身につけさせることに汲々としていた。具体的には、少しでもレベルの高い学校に行かせようと努力していた。子供のいない私は、彼らを失礼ながら冷めた目で見ていた。「知」というものは、学校という建物にはない。自分を取り囲む、人々の中にあるのだ。金を百万円かけたから、百万円相当の知識が得られる訳ではない。先生や友人たちが与えてくれる、無償の刺激にこそ「知」の手がかりがある。私は涼ちゃんと真理ちゃんに対して、そんな友人の役割を努めなければならない。

 だが、いざまるで自分の子供のような二人と接していると、少しでもレベルの高い学校に行って欲しいと考えてしまった。友人たちと同じだ。世の中の、教育熱心な親と同じだ。はあ、結局みんなそう考えるんだな。。

私の頭は、次の手に移っていた。私は自分のことはどうでもいいが、涼ちゃんと真理ちゃんの問題についてはそう考えなかった。さあ、次はどうするか?考えろ。私は自分に命じた。独りよがりな戦いはダメだ。単純な理屈だ。涼ちゃんと真理ちゃんが、戦ってくれと言うときに戦えばいいのだ。私はその時に備えて、作戦を練る。いつでも刀を抜くぞ。そんな気分だった。ドリー、君も私を応援してくれ。君の大好きな涼ちゃんのために、私は頑張る。約束するよ。

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