第16話 決闘
第16話 決闘
朝私は起き上がり、淡々と食事の用意をした。昨日の夜はほとんど眠れなかった。私の頭は、涼ちゃんのお父さんでいっぱいだった。せっかくもらった、新しい薬もちっとも効かなかった。私は5時で、眠ることを断念した。そしてふらふらしながらキッチンに入った。足に力が入らず、平行感覚もおかしかった。でも私は、自分の仕事に専念した。
いつもならば、こんな朝は倦怠感に包まれて何もやる気が起きないものだ。しかし、今日の朝は違った。ふらついてはいるけれど、一方で燃え上がる怒りは激しかった。私は歯を食いしばって大根を刻み、湯を沸かしながらワカメを小さく切った。菜箸を折りそうなほど握りしめ、お味噌を湯に溶かした。包丁でガツガツとお新香を細切れにした。それは、涼ちゃんのお父さんに見えた。お新香は、可哀想にズタズタになった。
食事を作っている途中で、突然腹が痛くなった。私は火を止めてトイレに入り、また下痢をした。プレッシャーのせいだ。涼ちゃんから聞いた恐ろしい話のせいで、私の頭はビビりまくっているんだ。だが、これくらいで引き下がるのは私じゃない。
八時半に、私は庭に出て涼ちゃんのお父さんに電話をかけた。
「なんだ、てめえ。何の用だ、殺すぞ、コラ」前回と同じ調子で、彼は電話に出た。しかし私は、前回の私ではなかった。
「てめえ、涼ちゃんに手を出したな」と私は言った。たちまち、涼ちゃんのお父さんは沈黙した。まさかそんな話を、私にされるとは思っていなかったのだろう。
「近親相姦だぞ。てめえ、自分がやったことがわかってんのか?」と私は言った。
「どうしろってんだ。お前」とずいぶん経ってから彼は言った。いつもの勢いは消え、小さな声だった。
「今日、あんたと会いたい。直接話がしたい。どこでもいい。あんたの都合のいい場所と時間を教えてくれ」と私は言った。
「なんだ、急に、てめえ、ふざけんなよ、コラ」と彼は言ったが、弱々しかった。
「こっちが出向くって言ってんだ!さっさと場所と時間を決めろ」と私は自分の庭で怒鳴った。
「代々木駅の西口に、16時でどうだ?」と彼は、しばらく考えてから言った。
「いいだろう。俺は、16時に西口の改札で熊のぬいぐるみを抱えて待ってる。それでわかるだろう」と私は言った。私は部屋の戸棚の上にある、熊のぬいぐるみを睨みながら言った。それは確か、母の海外旅行のお土産だ。
「おう・・・」と、涼ちゃんのお父さんは言った。乗り気でないのは、口調でわかった。
「いいか、てめえ。絶対来いよ。来なかったら、てめえを探すだけだ。探し出して、殺す。いいな」と私は言った。しゃべりながら、私は怒りで震えていた。
涼ちゃんのお父さんは、ブチっと電話を切った。お互い、愉快な話ではない。それくらいは我慢しよう。
9時になって、涼ちゃんと真理ちゃんがダイニングルームに現れた。私は手早く、用意した朝食をテーブルに並べた。
食事の最中に、私は涼ちゃんに言った。
「涼ちゃん、今日君のお父さんに会ってくるよ。さっき電話で約束した」
涼ちゃんと真理ちゃんは、ハッとした顔で私を見た。特に涼ちゃんは、泣きそうなくらい不安な顔で私を見た。
「いいよお、そんなことしなくても」と涼ちゃんは言った。
「いや、これは俺が決めたことだ。そして会う約束もした。後は、おじさんに任せてよ」と私は言った。
涼ちゃんは不安そうな表情のまま、バイトに出かけた。私は朝食の皿を片付け、洗剤でゴシゴシと洗った。足元の戸棚には、包丁が数本あった。私は、手を止めて戸棚を開き、包丁を睨んだ。本気でこれを持って出かけることを考えた。
いつのまにか、キッチンの前に真理ちゃんが立っていた。
「拓ちゃん、バカなことを考えるのはやめて」彼女は、私にビシッと言った。
まったく、この女の子は。また真理ちゃんに怒られてしまった。私は戸棚を閉じ、両手を上げて手ぶらだよ、という風に手を振った。そして、精一杯笑って見せた。しかし真理ちゃんは、厳しい表情を崩さなかった。
16時まで時間は十分ある。私は、真理ちゃんと千葉港にあるポートタワーに遊びに行った。タワーの一階受付で入場料を支払い、エレベーターで最上階の展望室まで上がった。
東京湾が一望できた。海沿いに住宅や高層ビルや工場や倉庫が、どこまでもビッシリと並んでいた。数え切れない人々が、必死に自分たちの人生を営んでいる。私には私の悩みがあり、彼らには彼らのそれがあるだろう。
「ねえ、見て見て。あの船おっきー」と真理ちゃんが叫んだ。
見下ろすと、小さな東京湾にはとんでもない数の船が行き交っていた。衝突しやしないかと心配になるほど、海は混み合っていた。そんな船の中でも、真理ちゃんの指差した船は際立って大きかった。まるで五階建てくらいのビルを、船に改造したみたいだ。
「あれ、何運んでるのー?」
「俺もわかんない。車かなあ?」
私と真理ちゃんは、そんな普通の親と子のような会話をした。真理ちゃんは、こうすることで、私を落ち着かせようとしていた。彼女の目論見通り、私はだいぶこころが穏やかになった。
タワーを下りて、私と真理ちゃんは手をつないで浜辺を歩いた。身体がだるかった。歩くのも億劫なくらいだった。それくらい私は、激しく疲労していた。
しかしこんな美少女と、私も若い時に海に来たかったなあ。でも、私にそんな美しい思い出はなかった。若い頃は、全然女の子に相手にされなかった。こんなに年を取ってから、それが出来る機会に巡りあえたわけだ。人生は上手くいかない。
「涼ちゃんのお父さんとは、穏やかに話すよ」と私は、真理ちゃんに言った。
「ほんとにー?」
「本当だよ。手も出さない。約束するよ」
「でも気をつけて。涼ちゃんのお父さんは怖いから」と真理ちゃんは言った。
「俺はね、こんな頼りない男に見えるだろうけど、いっぱいいろんな経験をしてるんだよ。涼ちゃんのお父さんなんて、ちっとも怖くないよ」
砂浜は行き止まりになり、私たちは元来た道を引き返した。十月の平日の砂浜には、人はほとんどいなかった。引退して余生を過ごす老夫婦や、犬を散歩させている主婦くらいしかいなかった。
「涼ちゃんと知り合って、俺はいつか彼女のお父さんと対決しなきゃいけなかったんだ。それが今日になった。それだけのことさ」と私は言った。
「涼ちゃんは、拓ちゃんにそこまでしてほしいと思ってないよ」と真理ちゃんは言った。
「そうかもしれない。でも俺は対決したいんだ。そういうやつなんだよ。諦めてよ」
「拓ちゃん、私はあなたが心配・・・」
そう言って、真理ちゃんはこころから悲しそうな表情を見せた。
「だから大丈夫だって。俺も本当は怖いおじさんなんだよ。涼ちゃんのお父さんに負けないよ。安心してよ」
いくら言っても無駄だった。彼女は最悪の事態を恐れている。その疑念を解くのは、いくら言葉を並べても不可能だろう。
真理ちゃんと家に帰って、二人で昼食を食べた。私は、ほんの少しだけしか食べなかった。涼ちゃんのお父さんと会っている最中に、腹を壊したらかっこがつかない。私は素早く食事を終え、また胃腸薬を大量に飲んだ。
それから食事中、わざわざ録画したAKBのライブを二人で見た。少しでも、明るい雰囲気を作ろうとした。しかし、真理ちゃんの表情は沈んだままだった。
14時に家を出発した。私は、熊のぬいぐるみを無理矢理リュックに押し込んだ。玄関まで見送ってくれた真理ちゃんに、おどけて両手を振り私は出発した。
電車の席に座ると、私は涼ちゃんのことを考えた。たとえどんなことをしても、彼女が負った心の傷は治らないだろう。つらい記憶の夢を見て、彼女はこれからも眠りながら声を上げて泣くのだろう。それがこれからも、幾晩もあるのだろう。
その記憶を、私には消すことができない。私にできることは、それをささやかでも弱め、癒すことぐらいだ。では、その方法とは何だ?何をすれば、彼女の傷を少しでも小さくできる?何だ?何だ?何だ?私は頭を搔きむしり、はああっと大きくため息をついた。
隣に座っていた二十代の女性が立ち上がり、別の席に移ってしまった。そりゃそうだ。私は48歳の汚い、不気味な男だ。彼女に嫌われても仕方がない。だが、こんなくだらない人間にも、何かできることはあるはずだ。でも、それがなかなか私には思いつかなかった。
錦糸町で総武快速線を降り、中央線の各駅停車に乗り換えた。私はまだ、答えを出せずにいた。
御茶ノ水駅に着いた。お堀の樹々が、少しずつ紅葉を始めていた。午後の穏やかな光が、そんな樹々やお堀の水面を優しく照らしていた。心温まる光景だった。
守ることだ。私は思った。私が涼ちゃんにできることなど、ほとんどないに等しい。だが、彼女を守ろう。命をかけて。犬の糞ほどの価値もない命だ。それを涼ちゃんに捧げるなら、ちっとも惜しくはない。守り続けるんだ。大切な人を。特攻で戦場にに向かった少年たちも、そう自分を納得させて戦場に向かったんだ。国のためなんかじゃない。
涼ちゃんは、あまりにつらい過去を背負っている。それでも彼女には、目の前に無限に続く未来への階段がある。それを一段ずつ登る、彼女を守ろう。まもなく私たちは別れるだろう。それぞれの日常に戻るだろう。だが、私は離れても涼ちゃんを守り続けると誓おう。私にできることは、たったそれだけだ。そんな程度だと、自覚しよう。
代々木駅には、約束の十分前に着いた。私は西口の改札を出て、熊のぬいぐるみを胸の前に抱いた。間抜けな姿だ。私は、涼ちゃんのお父さんが現れるのをじっと待った。
16時を過ぎても、彼は現れなかった。予想通りだ。時間を守るタイプじゃない。私はぬいぐるみを抱いて、彼を待った。
15分経って、涼ちゃんのお父さんはやって来た。紫のとんがったスーツ。青いシャツに、真っ赤なネクタイ。サングラスをかけ、頭はパンチパーマ。いかにもヤクザだった。だが彼はとても小柄だった。160cmぐらいだと思う。
彼は私を見て、少し驚いたようだった。もう少し若い男を予想していたのかもしれない。
「忙しいんだぞ、てめえ。話はなんだ、コラ」彼は朝よりは、元気を取り戻していた。
私は、何も言わなかった。ぬいぐるみをリュックにしまい、あごで彼に外に出ようと意思表示した。
私は駅前に居酒屋を探した。16時だが、もう開店しているところはあるだろう。店はすぐに見つかった。格安の焼き鳥屋で、老人たちがまだ明るいのにガヤガヤと騒ぎながら酒を飲んでいた。
私たちは。二人席に向かい合って座った。私は店員に、中ジョッキを二つ注文した。涼ちゃんのお父さんの意見は聞かなかった。
「サングラスを外せ」と私は、涼ちゃんのお父さんに言った。
「何だ、てめえ。何様だ」と彼は言った。
「外せ」と、私はもう一度言った。私はずっと、彼の目をにらみつけていた。おそらく、とんでもなく私は怖い顔をしていたと思う。怒りで両腕が、ブルブルと震えていた。
涼ちゃんのお父さんは、仕方なくサングラスを外した。そして、彼の生き様に不釣り合いな澄んだ瞳を披露した。細いけれどくっきりとした眉毛。大きな目にきりりとした目尻。すらりと伸びた鼻筋。涼ちゃんにそっくりだった。間違いない。このふざけた男は、涼ちゃんのお父さんなんだ。彼の目は、右に左に泳いでいた。
「お前の奥さんの居所は、知っているのか?」
私はとっさに閃いたことを、彼に聞いてみた。
「何だ、てめえ。お前に関係ねえだろう」と彼は言った。
「あるんだよ!」と、私は大きな声で言った。
ビールの中ジョッキが運ばれてきた。しかし私は、こいつと酒を飲む気なんかかけらもなかった。涼ちゃんのお父さんは、緊張をほぐすようにビールを二、三口飲んだ。
「てめえを殺す。それもできる。だが、その前にやることがある」と私は彼に言った。
「何が言いてえんだ、コラ」と彼は言った。しかし、声は凄みがなかった。彼はまだ、三十代半ばに見えた。よっぽど若いうちに、涼ちゃんを作ったのだろう。涼ちゃんと同じ顔だ。若い頃は相当な美少年だっただろう。涼ちゃんのお母さんが、彼と恋に落ちたのもわかる気がした。しかしこいつには、生活能力がなかった。家庭を持って、それをメチャクチャにした。涼ちゃんを、涼ちゃんのお母さんを不幸にした。そして取り返しのつかない傷を、涼ちゃんに負わせた。
だが、人間的なくだらなさは私もこいつと変わらないんじゃないか?48年間かけて、私は誰ともまともな人間関係を作れなかった。父母も死んで、私は一人だ。ダメな人間であることは、彼も私も変わりなかった。
私は席を立ち上がった。中腰になり、テーブルの真ん中まで身を乗り出した。それから、涼ちゃんのお父さんの赤いネクタイをつかみ、思いっきり自分の顔へ引っ張った。私と彼は、テーブルの真上で鼻をくっつけあった。私は彼の両目を、これでもかというくらい睨みつけた。包丁を持ってこなかったことを後悔するくらい、激しい怒りが私を包んだ。しかし、真理ちゃんはそれを望まない。涼ちゃんも望まない。私はその姿勢のまま、両足をグッと踏ん張った。
「てめえを婦女暴行で、警察に突き出す。前科はあるんだろ?実刑は間違いない。しばらくムショで臭い飯を食ってこい」と私は言った。
「何だ、てめえ、何だ・・・」そう言いながら、彼は私から目を逸らし続けた。これで男の喧嘩は、決着がついたようなもんだ。
「わかってると思うが、ムショじゃ刑の重さで格が決まる。実の娘を犯したてめえは最低ランクだ。徹底的にいびられるぞ。覚悟しろ」
涼ちゃんのお父さんは、私から逃げようとした。私は左手で彼の頭をつかんだ。そして思い切り握りしめた。側から見れば、キスしようとしているゲイに見えたかもしれない。しかし、周りにどう思われようが関係なかった。私は涼ちゃんのお父さんを逃がさず、鼻をくっつけたまま彼の目をにらみ続けた。怒りは尽きることなく、こんこんと私の内部から湧き続けた。それを制御するのに、私はほとほと苦労した。
「だが、今はしない。涼ちゃんが望んでいないからだ。だが、涼ちゃんに近づくな。近づいたらお前を殺す。逃げても探し出して殺す。わかるな」
彼は何も言わなかった。肯定も否定もしなかった。私は両手を離し、彼を突き飛ばした。涼ちゃんのお父さんは、勢いで店の床に転んでしまった。しかし私の怒りが収まったわけではない。おずおずと立ち上がって椅子に座り直す彼を、私はにらみ続けた。
「奥さんの、涼ちゃんのお母さんの連絡先を教えろ」と私は彼に迫った。
「何だよ、それが何になんだよ・・・」
「黙れ。てめえの意見は聞いてない!」と私は怒鳴った。
彼は渋々、電話番号を教えてくれた。私はその番号を携帯に打ち、番号を何度も彼に確認した。
「デタラメ言ってないな。デタラメだったら、またてめえに会いにくるぞ」
「この番号しか知らねえよ。変わってるかもしれねえよ」と涼ちゃんのお父さんは言った。
「わかった、信じよう」
私はそう言って立ち上がった。一口もビールなんて飲んでなかった。私は伝票を持って彼を残し、レジに向かった。料金は216円だった。ここはファーストドリンクが、百円の店だった。私たちが行く店ではなかった。
涼ちゃんのお父さんを残して店に出ると、私は線路沿いに千駄ヶ谷駅まで歩いた。涼ちゃんのお父さんの、意表をつくためだ。背後から襲われる可能性はある。私は数回振り返って、彼が追ってきていないことを確かめた。
千駄ヶ谷駅に着くと、私は改札の前で教えてもらった番号に電話をかけた。
何コール鳴らしても、相手は電話に出なかった。私はじっと電話を握って待った。20コール目ぐらいで、相手は電話に出た。
「どなた?」と電話先の女性は私に聞いた。
「私は、斎藤涼さんの友人です」と私は名乗った。
電話先の女性は、しばらく絶句していた。そして、「なに、なに?」と私に問いかけた。
「今、お話ししても大丈夫ですか?」
「ええ、平気です」とひと息ついてから、彼女は答えた。
「私は柿沢と申します。建設会社のサラリーマンです。事情があって、涼さんを私の家に泊めています」と私は説明した。
「何で、何で・・・?父の家にいるはずなのに・・・?」
「細かい事情は、次の機会にゆっくりお話ししましょう。今お聞きしたいのは、涼さんのお母さんがどうされているかです。お幸せなのか、それを涼さんは知りたいのです」
「と、突然そんなことを言われても・・・。あなたは、どんな方なんですか?」
「さっきお話しした通り、ただのサラリーマンです。そして、涼さんの友人です。年は離れていますが。今、あなたはどちらにお住まいですか?」
「千葉の、我孫子です。そんなことを聞いてどうするの?」
「私も千葉の西千葉です。そこに、涼さんと暮らしています。機会があれば、すぐお会いできるということですね」
「そんな・・・。ちょっと待ってください・・・」
「あなたが戸惑われるのは、分かります。分かりますが、私は48歳の男です。世の中のことはもうだいたい分かります。だから、涼さんの代理として、あなたとお話がしたかったんです」
「涼は、元気ですか?」
「事情はいろいろありますが、とても元気です。そして、信じられないくらい美しい女の子です」と私は言った。そして、「ですが、私は男として不能です。ですから、涼さんに手を出すことはありません。安心なさってください」と言い足した。
「・・・」
涼ちゃんのお母さんは、沈黙してしまった。無理もない。突然わけのわからない男が、自分の娘の話で電話をかけてきたのだ。そいつを信じることは、おいそれとはいかないだろう。
「たった今まで、涼さんのお父さんとお会いしていました」
「へ!?」
「彼は、ああいう方のままでしたが、お元気そうでしたよ」
「そうですか・・・」安堵と諦めが入り混じった言い方だった。
「明日、涼さんのおじいさん、つまりあなたのお父さんと会います。涼ちゃんも一緒です。何か、お伝えすることはありますか?」
「・・・」
我ながら、私は話を急ぎ過ぎてるなと思った。涼ちゃんのお母さんも、心を整理する時間が必要だ。私は今日は話をここまでにすることにした。
「涼ちゃんには、あなたがお元気そうだったと伝えます。よろしいでしょうか?」
「結構です」と彼女は答えた。
「わかりました。また、落ち着いた時にお電話します。今日は突然ご連絡して失礼いました」
「待ってください。あなたは、か・・・」
「柿沢です」
「失礼しました。柿沢さんですね。娘と、西千葉に住んでるんですね」
「はい、そうです」
「私は涼と、あの子が13の時から会っていません。今さら会えるのか、私は自信がありません」と涼ちゃんのお母さんは言った。
「わかります。ですので、焦ったりはしません。また、日をおいてご連絡します。それは、許していただけますか?」
「わかりました・・・」
私たちは、そこまで話して電話を切った。
時計を見ると、ちょうど17時だった。涼ちゃんがバイトを上がる時間だ。私はまず真理ちゃんの携帯に電話をかけた。
「大丈夫だよ。全部うまくいったよ」と私は彼女に言った。
「良かったあ・・・」
彼女は心からホッとしたという様子で、ため息をつきながら言った。真理ちゃんに相当心配をかけてしまった。
「詳しくは、帰ってから話すよ。すぐ帰るから」
「うん」
私は真理ちゃんとの会話を終えた。そしてすぐに、バイトを終えたばかりの涼ちゃんの携帯に電話をした。
「拓ちゃん!」
電話に出るなり、涼ちゃんは叫んだ。
「お父さんと話したよ。『お前を刑務所にぶち込む。だが今はやらない、涼ちゃんが望まないから。その代わり、涼ちゃんに近づいたら殺す』と伝えたよ」と私は手短に涼ちゃんに説明した。
「そう・・・」とだけ涼ちゃんは言った。いろんな感情が、今彼女を包んでいることだろう。
「それからね。涼ちゃんのお母さんとも電話で話したよ。お父さんに、電話番号を教えてもらったんだ。千葉の我孫子市に住んでるんだって。我孫子って知ってる?」
「知らない」と彼女は答えた。都内育ちだからな。しょうがない。
「詳しいことは聞かなかったけど、元気そうだったよ」と涼ちゃんに言った。
涼ちゃんは何も言わなかった。言葉が思いつかないのかもしれない。もう何年も会っていないお母さんの話だ。冷静に考えるのは、大人だって難しい。
「涼ちゃん」と私は言った。「俺は涼ちゃんを守るよ。ずっと、守る。そう決めたんだ」と私は言った。
涼ちゃんはまた黙っていた。私が言った言葉の意味が、ピンとこないのかもしれなかった。
「これからも、大変なことがたくさんある。解決できないと思うほど、苦しいことがあると思う。涼ちゃん、俺は君の味方だ。君を守る。全力で、命をかけて守る。約束するよ」
「拓ちゃん、わかったから。お願い、早く帰ってきて」と涼ちゃんは悲鳴のように言った。
「わかった。大急ぎで帰る」私はそう言って電話を切った。
すぐに千駄ヶ谷駅で電車に乗った。帰りのラッシュが始まり、私はつり革を握って目の前を過ぎる風景をぼんやりと眺めた。
さっき私が涼ちゃんに言ったのは、恋の告白みたいだなと自分で思った。こんなことを、女の人に言った経験はなかった。私はこんなセリフを言うほど、人を好きになったことがなかった。そして考えた。私は同じセリフを、真理ちゃんにも言うだろうと。
私の考えはさらに進んだ。今日とっさの思いつきで、私は涼ちゃんのお母さんと話した。これも解決しなければいけない問題なのだ。涼ちゃんとお母さんは、不幸な別れ方をしてしまった。涼ちゃんのお母さんは、彼女に何も言わずに男を作って出て行った。しかしその前に、涼ちゃんは自分のお父さんとお母さんを捨てた。つまり二人は、それぞれに深い負い目がある。
そんな人生を送ってしまった人は、他人に平静を装って事情を説明する。昨日の涼ちゃんのように。しかし、目を凝らせばわかる。それが治療困難な傷となっていることを。私には、それが見える。
二人が未来に、歩み寄るかはわからない。本人たちにその意思がなければ、無理強いをしても無駄だ。しかし、それでもだ。私は機会を作ろう。そうすることが、二人の傷の痛みを和らげるに違いないからだ。時間はかかる。私は焦らない。涼ちゃんが流す涙を減らすことだ。そのための努力をしよう。
私は帰りの電車でも、怖い顔を保っていたらしい。正面の乗客たちが、驚いた表情で私を見ているのに気がついた。でも、我慢してもらうしかない。今日、私と一緒に乗り合わせた不運を我慢してくれ。私は、本当に怒っているんだ。そして、悩んでいるんだ。
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