第15話 殺意

 その夜、私は泣いている人の声で目を覚ました。床に入って二、三時間寝付けず、やっと眠り始めた後だった。例の「歌」ではなかった。それはピッタリと締めたダイニングルームの扉を通しても、小さく聞こえてきた。

 まず思いついたのが、涼ちゃんと真理ちゃんの喧嘩だ。犬も食わないというやつだ。もちろん私は、二人の関係に立ち入るつもりはまったくなかった。泣きたいときは、好きなだけ泣けばいい。笑うのと同じように。そこまで考えて、私はまた寝付くことに集中した。泣き声はかすかにしか聞こえなかったから、まったく支障はなかった。


 朝食のとき、私は涼ちゃんと真理ちゃんに、涼ちゃんのおじいちゃんの家に行くことを提案してみた。

「もう四ヶ月も会ってないんでしょ?連絡は取っているとはいえ、涼ちゃんのおじいちゃんもおばあちゃんも寂しがってるはずだよ」

「うん。それは、そうだね」と涼ちゃんは同意した。しかし、少し元気がない気がした。おじいちゃんに会うのが気が乗らないのか、あるいは生理か?私はまだ、二人の生理周期を把握していなかった。とはいえ、堂々と聞くものでもない。だが知っていて損はない。むしろ、得るものは大きい。

 涼ちゃんは食事をやめて、iPhoneをいじっていた。LINEで、おじいちゃんとおばあちゃんと連絡を取ってるらしい。涼ちゃんが食事を再開するとすぐに、ビビッとiPhoneが鳴って返信が届いた。

「誰から?」

「おじいちゃん」と涼ちゃんは答えた。

「早いね。仕事中じゃないの?」

「おじいちゃんは、仕事より私を優先するの、いつも」

 おいおい、軽く言わないでくれよと私は思った。そんなに可愛い孫と、四ヶ月も会っていない彼を心から気の毒に思った。

「土曜の午前中なら大丈夫だって」と涼ちゃんは言った。

「土曜の午前中だけ?」

「うん、あとは全部夜まで仕事だって」

 はあ、サラリーマンって本当につまらない仕事だ。社長まで上り詰めて、プライベートな時間は全然なしか。

「涼ちゃん、おじいさんって何歳?」

「うーんと、61かな」

 60歳を過ぎて、そんな激務をこなして健康は大丈夫なのだろうか?まあ、世界のおそらく誰もが知っている大会社の社長だ。疲れたとか、つらいとか言ってる暇はないのだろう。社内の権力闘争も激しいはずだ。隙を見せれば、刺される。

「おじいちゃんとおばあちゃんは、真理ちゃんと会ったことはあるの?」

「私がおじいちゃん家に寄ったときに、ちょっとおばあちゃんに会っただけ。おじいちゃんとは会ってないと思う。そうだよね?」と涼ちゃんは真理ちゃんに聞いた。

「そう、涼ちゃんのおじいちゃんとは会ってない」と真理ちゃんは答えた。

「そうか、そりゃいい機会だ。俺と真理ちゃん、二人で涼ちゃんのおじいちゃんに会おうぜ。正面玄関から堂々と入って、挨拶するんだ」と私は言った。

 私は昔から、困難な仕事に関わると逆に燃えてくるという変な性格がある。それをやりすぎて、オツムを壊したわけだが。私は土曜日の午前中が楽しみになってきた。

「何時に行けばいいのかな?」と私は涼ちゃんに聞いた。

 涼ちゃんは食事を続けながら、iPhoneをささっといじった。すると、一分もせずにビビッと返信が帰ってきた。「八時でも、九時でもいいって」

 私の家からだと、目黒はたっぷり二時間はかかる。私は構わないが、二人に過剰な早起きはさせたくなかった。

「じゃあ、九時にしよう。土曜は六時に起床。朝食を食べて、七時出発。車は渋滞して時間が読めないから、電車で行こう。いいね!」

 二人は大きく、しっかりとうなずいた。


 涼ちゃんがバイトに出かけると、私と真理ちゃんは「泉自然公園」という大きな公園に出かけた。深い森があり、広い芝生の広場があり、広大な園内を巡るハイキングコースが所要時間ごとに何本も用意されていた。

 駐車場に車を停めると、15分ぐらい歩いて一番広い芝生の広場を目指した。私は片手に、アコースティックギターのケースを持っていた。

「なんで、ギター持ってきたの?」真理ちゃんが聞いた。

「曲を作るんだよ」と私は答えた。

 広場に着くとベンチに座り、私はギターを取り出した。そんな様子の私を見た真理ちゃんは、掲示板に書かれた園内の案内図をじっと見ていた。そして、「散歩してくる」と言った。

「OK」と私は答えた。

 平日なので、園内はガラガラだった。幸いだ。公園のベンチで一人ギターを弾く中年親父なんて、不気味でしかない。周りに誰もいないと、作曲に集中できてありがたい。私は、ある作りかけの曲と格闘した。

 その曲はまだ、一番しかできていなかった。もう一回同じことを繰り返して二番とすることもできるが、それでは退屈だ。変化を与えなくてはならない。それからイントロも考えなくてはならない。歌が始まる前に、メロディを導くようなイントロを生み出さないと行けない。そして、大サビだ。ポップソングの大半は、曲の最後のサビを歌う前に、これまでと全く異なるメロディを入れるのがお約束となっている。あえてそれまでと関連性のないメロディを差し込んで変化をつけ、最後のサビのリフレインを盛り上げる。これを大サビという。

 作曲とはとても不思議だ。調子のいいときは、さらさらと水が流れるようにできる。できないときは、全然できない。もっと正確な言い方をすると、いろんなメロディを作ってみるのだが、どれもさっぱり気に入らないのだ。

 ボツ、ボツ、ボツ、ボツ。これが延々と続く。まるで嫌な上司にいびられて、何かの報告書を何度も書き直されてるみたいだ。当然、気分もどんどん落ちて行く。今日はその日だった。一つもいいメロディを作れなかった。

 三十分くらいして、真理ちゃんが一人の散歩から帰ってきた。私はちょうど、ギターを投げ出したところだった。

「気持ちよかったー」と真理ちゃんは眩ゆい笑顔で私に言った。まったく、この女の子は。作曲で落ち込んだ私の気持ちは、いっぺんに吹き飛んだ。

「拓ちゃん、私にもギター教えてよ」と真理ちゃんは言った。

「何か楽器はやったことある?」

「まったくないー」

「うーん、そりゃ相当苦労するな」

「大丈夫。私頑張るから」

 私は真理ちゃんの左手を見てみた。案の定、彼女は爪を伸ばしていた。右手はいいのだが、左手の爪は困る。弦を弾くとき邪魔になってしまうのだ。

「本当は爪が短い方がいいんだけど」

「そうなの?爪で弾くんじゃないの?」

「弦はね、爪じゃなくて指先の肉の部分で押さえるんだ。ほら、ここ」

 私は真理ちゃんの左手を手に取り、自分の人差し指の指先で彼女の指先を撫でた。人差し指から、小指まで。柔らかくて小さな手だ。改めてそう思った。

「痛くないの?」と真理ちゃんは私に質問した。

「最初ははっきり言って痛い。指先が柔らかいし、初めての人は思いっきり力を入れて弦を押さえちゃうからね。でも慣れてくると、力が抜けてくる。指先も皮が厚くなって痛みを感じなくなる」

「指の皮が厚くなっちゃうの?」

真理ちゃんは、指が変形するのを恐れているようだ。

「ギターは大丈夫。指先の皮が少し厚くなるだけ。べースは違うよ。弦に触れる部分が5mmくらい膨らんで、タコみたいになっちゃう。女の子のベーシストは大変だね」

私は真理ちゃんに、EーDーAーEのコード進行を教えることにした。どんなメロディをのせてもロックを感じる、強烈な進行だ。私はまず、真理ちゃんにこのコード進行を弾いて見せた。

「格好いい!」

「ギターは単音でメロディを弾くこともできるけど、最初はコードを弾いてみないとね。和音の響きが、ギターを弾く喜びのもとだから」

さて。まずはEコードだ。中指を5弦2フレットに、薬指を4弦2フレットに、人差し指を3弦1フレットに置いて押さえる。そして、六本の弦全部をジャランと弾く。

案の定真理ちゃんは、この指の形をなかなか作れなかった。そして長い爪が他の弦に触れてしまう。まあ、細かいことには目をつむろう。

「難しい・・・」

「最初はみんなそうなんだよ。この指の型を覚えるのに苦労する。これは時間かけて練習するしかない。さあ、指を全部押さえたら、右手で弦を全部弾いてごらん」

ジャラーン。ところどころで爪が他の弦に触れちゃっているので、お世辞にも美しい響きではなかった。でも真理ちゃんは満足のようだった。

「気持ちいいー」

続いて私はDコード、さらにAコードを教えた。指の押さえ方が全く違うので、真理ちゃんは頭がこんがらがった。

「最初の押さえ方、忘れちゃったよ」と彼女は言った。

「当然、当然。コードは他にもたくさんあるから、全部覚えるのにだいたい一年はかかる」

「そんなかかるの?」

「かかるね。難しいんだよ、ギターは。まあ、楽器はどれも難しいけど」


公園を出て、近くの定食屋でお昼を食べた。私はうどん、真理ちゃんは親子丼にした。親子丼が、この店の一押しメニューだった。だが私は、うどんにして下痢のリスクを避けた。

「何日練習したら、今日教えてもらった曲が弾けるようになる?」と真理ちゃんが私に聞いた。

「そうだねえ、俺は若い頃どれぐらいかかったかなぁ」私は昔の記憶を引っ張り出そうとした。しかし思い出せなかった。それはあまりに遠い出来事だった。

「早くて、二週間かな。自信ないけど」と私は答えた。

「そんなにかかるの?!」

「いやぁ、自分がどれぐらいかかったか思い出せないんだよ。遠い昔だからね。ただ言えるのは、さっき教えたコードの型があったでしょ。あれを完全に手に覚えさせるのが、時間がかかるんだ」

私は左手を出して、EーDーAーEをささっと動かして見せた。

「手が型を覚えちゃうと、こんな風に動かせるんだ。頭はほとんど使ってない。勝手に手が動くんだ」

「ふうん・・・」真理ちゃんはそううなって、黙って考えこんでいた。

「ギターを弾く誰もが、この壁を乗り越えるんだよ。みんなメチャクチャ苦労してるんだ」


家には、14時頃着いた。ダイニングルームに腰を下ろすなり、真理ちゃんは自分の鞄から爪切りを出した。そしてテーブルに座って、せっかく伸ばした爪を全部短く切ってしまった。

「いいの?」と私は心配になって聞いた。

「ギターを弾くには、邪魔なんでしょ」と真理ちゃんは、なんでもないという調子で答えた。そして私のアコースティックギターを取り、早速練習を始めた。どうやら本気なんだ。

私は、冷蔵庫から冷やしたアイスティーを出し、真理ちゃんのために彼女の前に置いた。そして私は、隣の六畳間に腰を下ろした。気分を変えて、読みかけの本を読むことにした。それは、太平洋戦争末期の「特攻」について書かれた本だった。


戦争末期、追い詰められた日本軍は、戦闘機による体当たり攻撃を始めた。操縦桿を握ったのは、20才かそこらの少年たちだ。

私はふと、テーブルで懸命にギターを練習する真理ちゃんを見た。特攻をした少年たちは、彼女よりちょっと年上なだけだ。私たちは、とんでもないことをしてしまった。取り返しのつかない罪だった。

私は48年も生きた。馬鹿げた、くだらない人生だった。どうせなら、私のような中年親父やじいさんが死ぬべきだ。若者を死なせるべきじゃない。

少年たちを飛行場から送り出した大人たちは、多くが生き残って戦後の平和な日本を生きた。彼らはどんな気持ちだったのだろうか?

多くの軍人が選んだように、終戦とともに切腹しろとは言わない。死んでも何にもならない。謝罪しろとも言わない。彼らだって、軍隊の駒の一つでしかなかったのだから。命令に従って行動しただけだ。

 だがあの1945年8月15日の後、彼らには言うべきこと、やるべきことがあったはずだ。時間もあったはずだ。彼らが、そちこちに記念碑を建てたことは知っている。だが、やるべきことはそれではなかったと私は思う。彼らは自分が見たもの、知ったものから自然に湧き出てくることを、言葉に、行動に表すべきだった。

 その本には、ある少年の遺書が紹介されていた。まだ20歳だった。彼は今まで親孝行できなかったと詫びていた。そして、戦場に出ることで今度こそ孝行をしますと誓っていた。「父上様、母上様には、自分のことにはご懸念なく、末長くご繁栄のことを祈ります」と彼は遺書を結んでいた。

 違うよ、違うんだよ。君がすべき孝行とは、戦後の日本を生き続けることだったんだよ。死ぬべきは、君のお父さんや私みたいな中年親爺だったんだよ。

 私はそばにいる少女を見つめた。彼女が奏でるギターの音色に聞き入った。そのたどたどしい、拙い響きに私は心を打たれた。私は若い命の重みに、動揺するほど考え込んだ。それは、震えるほど尊いものだ。

 さっきの話と矛盾しているが、私は自分も「生きたい」と考えた。単純に。ついこの間までの私は、自分の命などどうでもよかった。妻子がある人は生きなければならない。しかし、何もない私は社会のゴミでしかなかった。無駄に食料とエネルギーを消費する、社会の寄生虫だ。こんな奴は、姥捨山にでも捨てた方がいい。そう思っていた。

 しかし、私は涼ちゃんと真理ちゃんに会い、一日一日と二人との生活を積み重ねるうちに「生きたい」という思いが強まっていった。よく眠れない日々は続いていたが、私は自己否定へとは進まなかった。私は、この二人を守りたい。そのために生きたいと考えるようになった。

 だがそれは、身勝手な考えだ。彼女たちには、無限の可能性が詰まった未来がある。私の家に泊まって、家出を続けている場合ではない。寂しいけれど、仕方のないことだ。

 まず、涼ちゃんのおじいさんに会おう。涼ちゃんの、それから真理ちゃんの今後について、じっくり話し合おう。それがトリガーになる可能性はある。私が上手く話を運べば。そこまで考えて、私は腹を決めた。


 涼ちゃんが帰って来た。二人は寄り添い、真理ちゃんがギターを抱えたまま涼ちゃんに熱心に話していた。私はキッチンに入り、夕食の準備を始めた。

 真理ちゃんがバイトに出かけると、涼ちゃんがこの間と同じようにパンッパンっとソファを叩いた。早くそこに座れ、という意味だ。

「まだ、夕食作ってないんだけど」と私は言った。

「真理ちゃんが帰ってくる直前に作ればいいじゃん。私は、拓ちゃんの小説の続きが読みたいの」と涼ちゃんは言った。

 熱心な読者を得て、私は嬉しかった。しかし、包丁を扱う前にビールを飲むわけにはいかない。私は昨日のコンソメスープの残りを温めた。それを二つのカップに入れて、ソファの前のテーブルに置いた。それから、彼女が私の小説を読むのならば、自分は新しい小説の続きを作ろうと思いノートPCをソファに乗せた。

 涼ちゃんは私の膝に乗り、iPhoneで小説の続きを読んでいた。「どこまで読んだの?」と聞いてみると、「12話」という短い回答が帰って来た。その小説は、21話まであるので、一日で半分まで読んだことになる。

「ねえ、涼ちゃん。千葉の港にホテルがあってね、その最上階にレストランがあるんだよ。夜景がすごい綺麗なんだ。行ってみない?」と私は彼女を誘った。毎日真理ちゃんと遊んでばかりいて、不公平だと思ったからだ。

「明日でいい」

 涼ちゃんの答えは短く、キッパリとしていた。彼女は答えながら、iPhoneから目を離さなかった。私が作った小説の世界に、集中しているようだった。私は仕方なく、出かける提案を取り下げた。涼ちゃんは、21時に小説を読み上げた。


 私はキッチンに入り、夕食の支度を再開した。野菜を包丁で刻みながら、涼ちゃんに「感想はどう?」と聞いてみた。

「わかんないことだらけ」と、涼ちゃんはまず答えた。「わかんないことだらけだから、自分の頭を整理してみる。質問できるようになったら、聞く」と彼女は言った。

 それはそのはずだった。まず、この小説は中絶と自殺を主題にした小説だった。おまけに小説のあちこちで、カントやヘーゲルが出てくる。高校三年生が理解するのは、相当困難だろう。

「この太田くんって、拓ちゃんだよね?」と涼ちゃんはたずねた。

「うーん、最初はそのつもりだったんだけど、途中から太田くんがパワーアップして俺じゃなくなっちゃった。彼みたいなことは、とても俺にはできない」

「でも、これは拓ちゃんだと思って読んだよ」

「小説を作るにあたって、全く自分と無関係な人を主人公にすることもできる。作者は中立な第三者で、他人の主人公を書くって感じかな。でもこの小説はそうじゃない。俺が言いそうなこと、やりそうなことを物語にしてみようと思ったんだよ。でも最後は過激になっちゃった」

「すごく面白かった。次はどうなるんだろうって、のめり込む話だね」

 作者としては、これ以上はない誉め言葉だった。嬉しくて、涙が出そうになった。


翌日は、残念ながら朝から雨だった。真理ちゃんはまたギターに取り組み、私は午前中に心療内科に行くことにした。そろそろ。薬がなくなる時期だった。

 千葉駅から2、3分歩いたオフィスビルにある、その心療内科はいつも繁盛していた。予約制ではないので、好きなときに行けるのはありがたいがいつも一時間以上待たされた。

 私は病院の待合室で、本の続きを読んだ。特攻を行なった少年たちの多くは、宗教的な正義感に燃えていた。神国日本のために、天皇陛下のために喜んで自分の命を捨てた。しかしそれは、本音だったのだろうか?

当時の日本は、狂った国だった。大人たちが日本を、天皇を頂点とする全体国家にした。そして少年たちを戦場に送った。大人たちは、何の根拠もなく自分たちは負けないと信じ、無垢な少年たちにそう教えた。少年たちは、大人たちの言葉を疑いもしなかった。

大人の責任は重い。子供が、理屈で大人に刃向かうなんてまずできない。だから大人が、まともなことを子供に教えなくてはならない。私の責任も重い。涼ちゃんと真理ちゃんに、真摯に接しなくてはならない。正しいことと良くないことを教えなくてはならない。

 一時間半ほどして、やっと私の名前が呼ばれた。私は診察室に入り、医師に「おはようございます」と挨拶した。彼も「おはようございます」と返してくれた。

 私は基本的にこの男を、信用してはいなかった。だから本当は良くないのだが、今の私の事情、涼ちゃんと真理ちゃんと暮らすプレッシャーに悩んでいることを話す気は無かった。彼には、また不眠の症状が出て下痢も続いているとだけ訴えた。

 この医師は、いつものように私の話をメモに取るだけで何も言わなかった。そして最後に「薬を変えてみましょう。ぐっすり眠れるタイプを加えます」と言った。これで、診察は終わりだった。

 薬を大量に受け取って病院を出たのは、もう午後一時前だった。私は真理ちゃんに電話をかけた。

「昼ごはんは、もう食べた?」

「うん」

 私は出かけるときに、病院は時間がどれくらい診察にかかるからわからないので、お昼は一人で食べておいてと、彼女に頼んでおいた。

「そしたらさ、千葉駅まで出てきてよ。改札で待ち合わせて、一緒に図書館に行こう」

 午後になり、雨は上がった。私は真理ちゃんと、千葉中央図書館に行った。私は読み終えた特攻やその他の本を返し、新しい本を選んだ。真理ちゃんは週刊誌コーナーで、ずっとファッション雑誌を読んでいた。真剣な目で。

そうか。ファッション雑誌か。うちには、そんなもの一冊もないぞ。新刊は借りれないが、前月分は大丈夫だ。いろんなファッション雑誌のうち、私たちは今年の秋・冬特集をしている号を五冊選んで借りた。

「涼ちゃんの趣味は、この雑誌でカバー出来てる?」と私は真理ちゃんに聞いた。

「うーん、涼ちゃんの服の好みって、私にも未だ謎なんだよね」

「そうなの?」

「うん、はっきり言って雑食。何でも着る。でも、全部似合うけど」と真理ちゃんは言って、得意そうに笑った。


夕方家に戻った。まもなく涼ちゃんが帰ってきた。真理ちゃんと涼ちゃんはテーブルいっぱいにファッション雑誌を並べて、大激論が始まった。今年の最新の流行動向をチェックして、意見を述べ合うわけだ。楽しいんだろうな。私には未知の世界だ。

ふと私は自分の服装を考えてみた。いつもジーンズ。夏はTシャツで、冬はフード付きのスウェットだ。さらに思い出してみると、それは18才の頃からだった。つまり、私は30年同じ服装をしていることになる。いくらなんでも、あんまりじゃないか?

とは言っても、私は違う服装がひとつも思いつかなかった。涼ちゃんみたいに革ジャンでも着てみるか。無理です。恥ずかしくて着れないです。しかし、いつも同じだと、二人に嫌われはしないだろうか?そんなバカなことを考えながら、私は夕食を作った。


真理ちゃんがバイトに出かけた後、私はまた涼ちゃんを千葉のホテルに誘ってみた。今夜はOKだった。

そのホテルは、千葉港のすぐそばにある。十階建てで、最上階が展望を楽しむバーになっている。よくある話だ。昼間にそのバーから千葉港を見ても、ちっとも楽しくないだろう。しかし、夜は違う。港の灯りや、その先の工場地帯や、脇を走る国道の車が、光の海となって見える。それがとても綺麗なのだ。

バータイムは、18時からで二千円で飲み放題だった。しかし涼ちゃんはまだ18才だし、私は運転があるので飲めない。もったいないが、四千円払う。でもここの夜景は、見る価値がある。

「すっごー」

店に入るなり、涼ちゃんの目の色が変わった。

「すごい、すごいよ。拓ちゃん」

「でしょ?」

私たちは、窓際に並んだ二人席の一つに座った。丸テーブルに、1人掛けのソファが二つ向かい合わせに並んでいた。涼ちゃんは、窓ガラスに顔をつけそうにして、目の前に繰り広げられる光のショウを見ていた。

涼ちゃんはグレープフルーツジュースを、私はホットコーヒーを飲んだ。ケーキも二つ頼んだ。私はいらなかったが、涼ちゃんに付き合わされた。

涼ちゃんは、ほとんど何も言わなかった。窓の外を見たまま、沈黙していた。その様子に、私はだんだん心配になってきた。そういえば、彼女は朝から元気がなかった。

「涼ちゃん、どうかしたの?」

「拓ちゃん」と涼ちゃんは言った。何か思い詰めた言い振りだった。

「なあに?」

「人はそれぞれの形で、幸せにならなくちゃいけないんだよね?拓ちゃんの小説に、そう書いてあった」

「そうだよ。それがどうかしたの?」

「私には、無理だなって思って」

「どうして!?」

いったいどうしたと言うのだろう。君には真理ちゃんがいるじゃないか。誰もが羨む美貌の持ち主じゃないか。高校はやめちゃったけど、また時間をかけてやり直せばいい。私はそう言おうかと思った。

「太田くんがいたら、どんな悩みも解決しちゃうのかな?」

太田くんとは、私が書いた小説の主人公だ。

「涼ちゃん、何か悩みがあるの?」

私はここでようやく、昨夜に聞いた泣き声を思い出した。あれは、涼ちゃんの声だったのか?

「拓ちゃん」と涼ちゃんは言って立ち上がった。そして私の側に来て、いつものように私の膝にのった。そして横を向いてぼんやりと夜景を見た。

普段なら、人前で膝に乗るのはやめろというところだ。しかし今の涼ちゃんには、そんなことを言える雰囲気ではなかった。私は恐ろしくなった。心底怖くなってきた。

「私ね、ママとあいつが喧嘩してる夢をよく見るの。今でも。小学校の途中から、ママが出ていくまでほぼ毎日だったから」

「そんなに喧嘩してたの?」

「うん。理由はいつもあいつの浮気、それからギャンブル。ママが工場で働いて稼いだお金を、あいつが使っちゃうの。だから多分、生活費はおじいちゃんがママに渡してたんだと思う」

ひどい子供時代だ。私は片親だったが、喧嘩する相手がいないから静かなものだった。もちろん大人になってから、父と母が繰り広げていた大喧嘩を知ることになったけれど。

「喧嘩が早い時間に始まる時はいいの。おじいちゃん家に電車で行けるから。最悪なのは、あいつが酔っ払って真夜中に帰ってきたとき。それから喧嘩が始まったら、私は布団の中で耳を塞いでるしかなかった」

「そう・・・」

「ママはひどいの。本当に頭に来ると、真夜中でも出て行っちゃうの。私を置いて。多分友だちの家に行ってたのか、もしかしたら他の男のところに行ってたのかもしれない」

子供時代の経験は、その人の人格形成に圧倒的な影響を与える。だから両親は、たとえこころが離れてしまっても、子供には幸せな時間を演出しなければならない。それは、大人の責任だ。

「中一の時、またママとあいつが喧嘩して、真夜中に出て行った。そしたら、あいつが私の布団の中に入ってきたの」

「えっ!?」

私は文字通り、凍りついた。そして、確かめずにはいられなかった。涼ちゃんを傷つけるかもしれないけれど、聞かずにはいられなかった。

「あいつって、お父さんのことだよね?・・・」

 涼ちゃんは、夜景を眺めながら小さくうなずいた。彼女は泣いてはいなかった。というより、無表情だった。涼ちゃんの目は、完全に死んでいた。夜景など、本当は見ていなかったと思う。

「怖かった・・・。本当に怖かった・・・。終わってあいつが布団を出てった後も、身体が動かなかった」

情けない話だが、私は腰が抜けた状態だった。ショックで、彼女にかける言葉がひとつも浮かんでこなかった。だだ、近親相姦というおぞましい単語だけが、私の頭を支配した。

「世が明けて電車が走り出したから、私は起き上がって家中から鞄を掻き集めた。それに制服や下着や私服や教科書を放り込んだ。四つくらい鞄を抱えて、おじいちゃん家に行った。それ以来家に帰ってない。だから本当は、ママは私を捨ててない。私が先にママを捨てたの」そう言って、涼ちゃんは自虐的に少し笑った。カラカラに乾いた笑いだった。

あの大馬鹿野郎、人間じゃない。激しいショックの後に私を襲ったのは、殺意だった。これほどはっきりと、真剣に誰かを殺そうと考えたのは初めてだった。

涼ちゃんは横向きに座り直した。そして身体を少しひねって、両腕を私の首に絡ませた。自分の顔を私の顔に近づけて、私の頬に唇を軽くつけた。さらに自分の頬を私の頬に、何度も擦り付けた。

「この話は、真理ちゃんしか知らない。ママにも、おじいちゃんにもおばあちゃんにも話してない」

こんなにつらくて重大な話を、よくまだ会ってひと月も経たない私にしてくれたものだ。それくらい私たちは、急速に親密になっていた。私たちは親友だった。18才と48歳の親友だった。私は涼ちゃんを強く抱き締めた。ちょうど、この間の真理ちゃんのように。それしか出来なかった。

待て、拓郎。と私は自分に言った。なぜ涼ちゃんが、この話をお前にしてくれたかわかるか?きっかけは、拓郎、お前の小説なんだ。難題を解く太田くんに刺激を受けて、涼ちゃんは教えてくれたんだ、お前に。さあ、お前はこの問題にどう対処する?

私と涼ちゃんは、その格好のまま一時間くらいじっとしていた。周りの客たちは、明らかに好奇の視線を私たちに向けた。関係ない。子どもが親にしがみついて寝ているだけだ。ただ涼ちゃんが、もう18才だから目立つだけだ。

どうする、どうする、どうする?涼ちゃんを抱き締めながら、私は眉間に皺を寄せて考えた。このとき私は、人を殺すことを決意した表情をしていただろう。

「さあ、もうすぐ真理ちゃんが帰ってくる。家に帰ろうぜ」

私と涼ちゃんは、手を固く繋いで店を出た。

「ねえ、涼ちゃん。俺って30年間、同じ格好しかしてないんだよ。イメチェンするとしたら、どんな格好が似合うかなあ?」

私はあえて、全く違う話題を涼ちゃんにしてみた。

「ええっ、むずかしー」と涼ちゃんは言った。「拓ちゃんは、自分の世界持ってるから。どんな服でも拓ちゃんだろうな」

「そこをあえてコーディネートするとしたら?」

「うーん」涼ちゃんは、必死に考えてくれた。そして、「茶色の皮のハーフコート。黒い薄手のタートルネック。下はカーキ色の柔らかい生地のスラックス。靴はハイカットでこげ茶のアメリカンなブーツ。こんな感じかな」

とても覚えられなかった。運転しているので、メモも出来ない。とにかく、一回言われた通りの格好をしてみよう。私は自分の洋服と、涼ちゃんのお父さんに対する殺意を同時に考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る