第14話 人を好きになること

第14話 人を好きになること


 病院に行って、真理ちゃんは目に見えて明るくなった。彼女は悩んだ末に、薄くメイクする方法を選んだ。それで彼女は、本来の18才の女の子に戻った。朝から「ぎゃーっ」とか「ぎーっ」とか、涼ちゃんと大騒ぎして心底楽しそうに笑った。会社を休んででも、もっと早く病院に行けばよかった。私は一人、深く後悔した。

 私と真理ちゃんは、午前中また稲毛の浜に行った。そこでバドミントンをしたり、植物園を見学したりした。お昼には家に帰って二人で昼食を食べ、午後は家でゆっくり過ごした。真理ちゃんはデスクトップPCでネットサーフィンをしたり、ダイニングルームに来て夕暮れの日差しを浴びながらiPhoneをいじったりした。

「真理ちゃんは、誰と連絡を取ってるの?」と私はコーヒーを淹れながら聞いてみた。

「友だち」

「学校の友だち?」

「学校の友だちもいるけど、ネットで知り合った人も多いかな」と真理ちゃんは言った。

「会ったこともない人?」

「そうだよ」

 私には、理解できない世界だった。まあ、私がおじさんだからだが。私はコーヒーを片手に、テーブルの真理ちゃんの向かいに座った。

「それに私の場合、レズビアンだから。それで知り合った友だちは多いよ。学校で、私のこと好きって言ってくれる人は確かにいるけど、未来はわからない。みんなある年になったら、男と付き合ったり、結婚したりすると思うんだ・・・」

 私には、真理ちゃんにかける言葉がなかった。一生懸命、彼女を慰める方法を考えたが思いつかなかった。彼女はまだ18才なのに、苦しまなければならなかった。でもその苦しみのもとは、生まれたときから決まっていたのだろう。幼稚園の頃から、女の子が好きだったのだから。言葉を覚えるのと同じスピードで、彼女は女の子を好きになったのだ。

「でも私はダメ。男の人を好きになることは、一生ないと思う。今でも街を歩いていると、すれ違う男の人にしょっちゅうジロジロ見られる。胸だったり、お尻だったり、太ももだったり。もう、イヤになってくる」

 男とはそういうものだ。街で美少女を見かけたら、つい目で追ってしまう。申し訳ないけれど。

「私ね、ネットがなかったら自殺してたと思う」

「おいおい、物騒なこと言わないでよ」

「本当だよ。ネットでレズビアンていう言葉を知って。私とおんなじ悩みを抱えてる人が、たくさんいるんだってわかって本当に救われたよ。それで出来た友だちがたくさんいるの」

「その友だちには、今俺と暮らしてるって話してるの?」

「もちろん。みんな知ってるよ」

「やめろって言われない?」

「最初は、みんなそう言ったね。でも、拓ちゃんがどんな人か説明したら、みんな黙ったな」

「みんなに何て説明したの?」

「特別なことは何も言ってないよ。拓ちゃんが私と涼ちゃんにしてくれたことを、そのまま説明しただけ」

 ふーん、それで納得するのか。私は彼女たちの食事を作って、土日にドライブに連れてっただけなのだが。あと、洋服と化粧品も買ったか。いずれにしても、大した話じゃない。

「ねえ、拓ちゃんってやっぱり不思議な人だよね」

 なぜなんだろう?私のどこが不思議なのだろう?他の男と私は、何が違うのだろう?私には、一つ思い当たることがあった。

「それは多分、俺が『人を好きになること』をやめちゃったからじゃないかな」

「やめちゃったの?なんで?」

 真理ちゃんは目を大きく開いて、信じられないという顔をした。

「うーん、うつ病になって、父も母も死んで、すごくキツイ時がずっと続いたんだよ。そしてふと気がついたら、不能になってた。それも理由の一つではあるけど、それだけじゃない。人を好きになる気がまったく起こらなくなったんだよ。やる気がなくなったんだ。女の人を見ても、なんとも思わない。綺麗だな、とは思うけど、それ以上の気持ちは起きない」

「そんな寂しいこと言わないでよ!」と真理ちゃんは、強い調子で言った。「拓ちゃん、あなたは本当に素敵な人だよ。やる気がないなんて言ってないで、誰かと恋をしてよ。今からだって、全然遅くないよ!」

「はい・・・」真理ちゃんに怒られて、私はシュンとなった。

 私たちは、不思議な関係だった。私は真理ちゃんと話していて、自分が30才も年下の女の子と話している気がしなかった。真理ちゃんも同じだと思う。そして、涼ちゃんも。私たちは、同世代と話してるみたいに対等に話し合った。どうしてこうなったのか、わからないけれど。


 涼ちゃんが帰ってきた。涼ちゃんと真理ちゃんは、しばらく二人だけの世界に入った。私は隣の六畳間に退散し、ギターを弾いていた。やがて真理ちゃんがスーパーのバイトに出かけると、涼ちゃんはテレビを点けた。6時のニュースから、じっくりとテレビを見るつもりなのだろう。

 夕食は真理ちゃんが帰ってきてからなので、私は涼ちゃんのために少しだけコンソメスープを作った。出来上がって味見してみると、なかなかの出来栄えだった。

「美味しい」

涼ちゃんは、コンソメスープに満足してくれた。私は例の胃腸薬をたっぷり飲んでから、コンソメスープの入ったカップを持って涼ちゃんの向かいに座った。涼ちゃんは私に話しかけた。

「拓ちゃんの初恋の人って、どんな人?」

「初恋?そりゃまた、遠い昔だね。うーん」私は遥か遠くの記憶を呼び起こしてみた。

「小学六年生のときの、クラスメイトかな。綺麗というより、明るくて快活な女の子だった」と私は説明した。

「小学六年生?遅いねー」と涼ちゃんは、少し呆れたように言った。「私は三年生のとき。相手は、サッカー部のエースストライカー。格好良かったな、今思い出しても」と涼ちゃんは遠くを見つめながら言った。私は、あれっと思った。

「その相手って、もしかして男?」

「そうだよ」と涼ちゃんは、自然に答えた。

夕方真理ちゃんが話した恐れが、早くも現実になっていた。

「六年生のときは、水泳スクールにずっと通ってる、スラっと背の高い子が好きだった。県大会とか優勝しちゃう超優秀な人だったんだよ」

「その子も、男?」

「うん」

私は訳がわからなくなってきた。涼ちゃんは、ごく普通の女の子じゃないか。

「その子とは、二人で公園に行ってベンチで話したり、休日に遊園地に行ったりした」

「小学六年生で?すごいね」

私がその頃は、女の子と付き合うなんて思いつきもしなかった。私は見かけのいい子供ではなかったし、私を好きになってくれる女の子もいなかった。

「その男の子とは、中一の頃まで付き合ったな」

「なのに女子高に行ったの?」

「あれは、おじいちゃんとおばあちゃんのせい」と涼ちゃんは言った。「夜になると、ママとあいつが必ず喧嘩するの。毎晩。私はその度におじいちゃん家に逃げ込んでた。そんなだったから、もうおじいちゃんとおばあちゃんの子供みたいだった。六年生になったら、今の学校を受けろっておじいちゃんが言い出して。私は、おじいちゃん家が唯一の避難場所だったから、言う通りにするしかなかった。塾に通って、一生懸命勉強した。でも私が受かったのは、おじいちゃんの力だと思うよ。私そんなに勉強できなかったもん」

政治力を発揮したってことか。でもそれだって、限界はある。涼ちゃんは勉強ができたのだ。その頃は。

「入学金も授業料も、全部おじいちゃんが出してくれた。それで学校に入ったら、びっくり。もう女だけの世界で。休み時間になると、同級生だけじゃなく先輩まで私を見に来るの」

私にしてみれば、羨ましい限りだ。しかし相手は同性である。男にモテても、私は戸惑うだけだ。まあ、そんなことは起こらなかったけれど。

「手紙はたくさんもらうし、プレゼントももらうし、どうすりゃいいのって気分。でも、居心地は良かったな」

「どうして?」

「その頃私は、男がイヤになってたの。ほとんどはあいつのせいだけど」

「あいつって、お父さんのことだよね?」

涼ちゃんは声を出さずに、ただうなずいた。私たちはしばらく何も話さなかった。

「ママが出て行った。ママは私には、何も話さなかった。黙って、私をあいつと二人で残していなくなっちゃったんだよ。信じられる?」

「悪いけど、想像できないよ。俺はそんな経験したことないから。わかんないとしか、言えない」

 涼ちゃんはすくっと立ち上がった。そして、ソファの前に行って振り返り私を見た。例の、強い力のこもった目で。

 また膝に乗りたいという、意思表示だ。しかしいつものように、ビールを飲んで寛ぐムードではなかった。私はコンソメスープが少し残ったカップを持って、ソファに座った。

 涼ちゃんは膝に乗った。しかし、いつもと違い横向きに座った。そして両腕を私の首に回し、顔を私の胸に押し付けた。彼女が今抱えている不安に、私はすぐ気づいた。涼ちゃんは私の胸の上で目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。自分を落ち着かせようとしているようだった。

「水泳をしてた男の子とは、自然消滅になった」と涼ちゃんは、目を閉じたまま言った。男がイヤになったと、さっき涼ちゃんは言った。そいつが涼ちゃんに、性的な興味を示したからだろうか?それは誰にとっても、子供の頃に乗り越えなくてはならない大きな壁だ。

「中二の頃の私は、抜け殻だったな。何にもやる気が起きなくて、成績ががくんと落ちちゃった。でも、私の人気は変わらなくて」そう言って、涼ちゃんは少し笑った。私はやっと、緊張から解放された気分だった。

「そんな時に、真理ちゃんに告白されたの。真理ちゃんは、学校中の超有名人だったからびっくりしたよ。でも、ものすごい真剣な顔して言われたから、断るなんて無理だった」

「それまでも、告白されたことはあったんでしょ?」と私は聞いてみた。

「もちろんあったよ。何回も。でも私、女の子が好きなわけじゃないし。嫌いじゃないけど、私は別世界だと思ってたの」

「でも、真理ちゃんは受け入れたんだ」

「もう、凄みがあったからね。断ったら、屋上から飛び降りますってくらい迫力があった」

 私は思わず笑ってしまった。真理ちゃんには申し訳ないが。

「それで真理ちゃんと付き合うことになったの。付き合うっていっても、二人で一緒に帰ったり、休みの日に街に出てウィンドウショッピングしたり、そんな特別なことしてないよ。友だちと変わらない」

 彼女が言う特別とは、性的な意味を言っているのだろうか?多分そうなんだろう、友だちと変わらないと言うのだから。

「そうしてるうちに、私は気がついたの」

「何に?」

「真理ちゃんの強さに」

「強さって、例えばどんなこと?」

「例えばって言われると、難しいな。真理ちゃんはいつも可愛い格好をして、キャピキャピしてるように見えるけど正体は違うの」

「真理ちゃんの正体って、何なの?」

「芯が強くて、ものすごく包容力があるの。見かけと正反対。つらいことがあっても、それを見せないで笑ってるの。私なんかすぐメソメソしちゃうのに。真理ちゃんは自分のことを放っておいて、私を慰めてくれるの」

 私は思い当たることがあった。昨日超音波の器具を傷にあてたとき、彼女は一瞬だけ痛そうな様子を見せた。つまり傷は、ずっと痛かったはずなのだ。彼女はそれに耐え、痛みをこらえてそこに化粧をし、私たちに幸福そうな笑顔を見せていた。痛みはきっと、始終シクシクと続いていただろう。だが彼女は、それをこらえて平然としていた。

「確かに、真理ちゃんは強いね。昨日一緒に病院に行ってわかったよ」

「私、学校じゃ男役なの。女子校の格好いい男。でも本当はそうじゃない。本当に格好良くて男らしいのは、真理ちゃんなの。拓ちゃんに、わかってもらえるかな?」

「多分、俺にもわかると思う。真理ちゃんの強さは、本物だよ」

「そうでしょ!」と涼ちゃんは、目をキラキラさせて笑った。


「さあて、そろそろ夕食の準備をするよ」

 私はそう言って、涼ちゃんを抱き上げそっとソファに下ろした。それから、キッチンに入り食事の準備を始めた。今日のメインは焼き魚だ。私はまず味噌汁の準備を始めた。湯を沸かしながら、大根を刻み油揚げを適当な大きさに切った。続いて人参と玉ねぎを細かく刻み、大根も細切りにした。それに千切りキャベツを加え和風サラダを作った。お新香も複数組み合わせ、盛り合わせを用意した。ご飯は炊いてある。納豆も用意してある。焼き魚は、真理ちゃんが帰ってきてから焼けばいい。

 三人の食事を作ると考えると、人は三倍食費がかかると考えるかもしれない。だが、実際やってみるとこれが意外に安く済むのだ。高校三年生といっても、女の子はそんなにたくさん食べない。私はiPhoneで数年前から家計簿をつけているのだが、涼ちゃんと真理ちゃんがこの家で暮らすようになっても、食費は大して増えなかった。せいぜい1.5倍くらいだろうか。かえって、一人暮らしの方が不経済なのだ。一人暮らしだと、食べ物をダメにして捨てることが多かった。今はそれがない。効率的に使い回せる。肉や生魚はその日のうちに食べられる分だけにして、野菜やその他日持ちのする食べ物は、調理法を変えて料理する。作り方で、食べ物はまるっきり違う姿になる。

 

 食事を作り終えたら、ビールを持ってソファに戻った。また涼ちゃんは膝に乗った。でも今度はまっすぐに座ってニュースを見た。番組は、昼休みを使って事務所のそばに野菜を作っている会社を紹介していた。これが社員に好評で、ほぼ従業員全員が参加しているのだそうだ。

「趣味があるっていいね」と涼ちゃんは言った。「拓ちゃんの趣味はギター?」

「ギターだけど、詳しく言うと作曲かな。誰もいいって言ってくれないけど。あとそれから、小説を書くこと。最近はそれにハマってる」

「小説も書くの?」と真理ちゃんは驚いて私にたずねた。

「もともと若い頃から、詩は書いてたんだよ。曲の歌詞にするためにね。そして最近、これを長くすれば小説になることに気がついたんだ。で、やってみたらスラスラ書けた」

「すごーい、読ませてよ」

「うーん、涼ちゃんと真理ちゃんは好きにならない話だと思う。男の醜い部分がいっぱい出てくるから。ますます男が嫌いになると思う」

「そう・・・」と真理ちゃんはがっかりした様子を見せた。「でも、なんでそんな醜い小説を作るの?」

「女もつらいと思うけど、男だって結構つらいんだよ。世の中には、恋愛をテーマにした小説やドラマや映画はクサるほどある。でも、男の醜い部分にスポットライトを照てたものはまずない。そんなもの作っても受けないからね。俺は、誰も作らないものを作ってみたいんだ」

「そうかあ、なんか拓ちゃんらしい気がしてきた。ねえ、その他にはないの?」

「あるよ。19才の少年と二人の少女の話を作った。でもこれも、涼ちゃんにはドギツいかな・・・」

「いいよそれで。読ませてよ」と真理ちゃんは言った。

「ネットに公開してるから、URLを送ればiPhoneで読めるよ。まあ、気が向いたときに読んでみて。ピンと来なければやめちゃっていいし」

 私は涼ちゃんのiPhoneのメッセージに、その小説のURLを送った。

「涼ちゃんは、ふだん小説って読むの?」

「全然。学校の授業以外読んだことない」と涼ちゃんは答えた。

「それじゃ、ハードル高いな。多分俺の小説を読んでも、すぐ飽きちゃうんじゃない?。でも、別にそれでいいよ。フィーリングだから。合うか、合わないか。それだけだよ」

 涼ちゃんは送られたURLを開き、早速第一話を読みだした。そして、「なんかすごく難しいね」と感想を言ってくれた。

「そうかもね。本当の俺は、ものすごく理屈っぽいから。この小説には、ややこしい理屈がたくさん出てくる。うーん、大人でも全部わかる人は少ないかもしれない」

「そんな難しいの?」

「なんてったって、俺が48年で学んだことを片っ端からぶち込んであるからね。難しくなるよな」

「とにかく読んでみる。わからないところは聞くから教えて」

「かしこまりました」と私が答えると、涼ちゃんは笑った。


 涼ちゃんはその小説を、二日で読んでしまった。

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