第13話 病院

第13話 病院


 次の日、私は5時半にアラームの音で目を覚ました。私はその日も、夜明け前くらいにやっと寝付いた。全身に重りを背負っているような疲労を感じた。だが、力を振り絞って大急ぎでキッチンに入り、三人分の朝食と、涼ちゃん用の昼食を作った。

 真理ちゃんは、6時半に起きてダイニングルームに入ってきた。明らかに眠そうだった。二人で朝食を食べながら、私は真理ちゃんに言った。

「真理ちゃん、今日は傷を医者に診てもらうからさ。メイクはしちゃダメだよ」

 真理ちゃんは少し悲しそうな様子で、でもしっかりとうなずいた。そして彼女は、七時きっかりに出かけて行った。四ヶ月ぶりに自宅に帰るってことか。


 九時に涼ちゃんが目を覚ました。私は六畳間でギターを弾いていたが、彼女が姿を現すと彼女分の朝食とお昼のお弁当を用意した。

「ねえ、涼ちゃん。真理ちゃんは家出してる間、傷は何にもしてなかったんだよね?」

「最初はね、もらった薬を毎日塗ってたんだよ。でも一月もしたらなくなっちゃった」と涼ちゃんは言った。

 仕方ない。家出して、一円も惜しい状況だ。保険証もないし、病院に行ったらべらぼうな額を請求されるだろう。とはいえ、傷を放置してしまったわけだ。私は医者になんと言われるか、怖かった。

 涼ちゃんが出かけると、私は家に一人になった。久々の一人暮らしだった。不思議なもので、涼ちゃんも真理ちゃんもいない家で過ごすのはなんとも居心地が悪かった。ずっと一人だったのに、三週間二人と暮らしただけで、それが私の日常に変わっていた。近いうち、二人は出て行くだろう。その後、私はどうやって孤独を紛らわそう?私には、一人の生活に耐える自信が湧いてこなかった。

 真理ちゃんが10時30分に帰ってきた。私の一人暮らしは、たったの30分だった。さあ出かけよう。


 千葉駅からバスで10分くらい離れたところに、千葉大学附属病院がある。駐車場もあるのだが常に満車で、病院は患者にバスで来るよう呼びかけていた。私はその助言に従った。

 千葉駅からバスに乗ると、車内は明らかに患者と思われるお客でいっぱいだった。その大半が、老人だった。私たちは通路に立ち、つり革につかまった。といっても、真理ちゃんは150cmちょっとしかないのでつり革に手を伸ばさないと届かない。代わりに彼女は、私にしがみついた。私のお腹に両腕を回し、ぴったりと身体をつけて揺れに備えた。彼女の大きな胸が、私の脇腹にあたった。もちろん私は、何も感じなかったけれど。

「拓ちゃん、私、超不安なんだけど」と真理ちゃんは言った。

「そうでしょ。だから病院に行くんだよ。いろんなことを、はっきりさせようぜ」と私は答えた。

 大学に着くと、私たちは総合受付に言った。問診票を記入し、病状から形成外科を紹介された。ネットで事前に調べた通りだった。

 形成外科の受付は、地下一階にあった。二人でそこへ行ってみると、治療を待つ人の多さにびっくりした。形成外科前の椅子はほぼ埋まっていて、私と真理ちゃんは離れて座るしかなかった。初診は予約客の後にされるから、これから何時間待つか見当がつかなかった。

 離れた真理ちゃんの様子を見ると、例のごとくスマホをいじくっていた。それならばと、私もノートPCを出して小説の続きを書いた。醜いと悩む少年の話だ。

 彼が住む街で、殺人事件が起こる。犯人はその少年の親友だ。推理小説ではないので、彼が犯人だとすぐわかるように書く。問題は、その過程だ。彼はなぜかわからないが、サディスティックな欲望を抱えていた。人を傷つけて性的な喜びを得るという、社会がまったく受け入れられない欲望だ。彼はそれを、現実に実行してしまう。

 私の分身である40歳の店長は、この問題を解いてみせる。原因は、「美の挫折」にあると。殺人犯の親友は、醜いと悩む少年よりさらに輪をかけて醜い。彼が自分が美しいと思う女の人に近づいても、受け入れてもらえる可能性はゼロだ。これが「美の挫折」だ。それならばと、彼はサディスティックな欲望をさらに先鋭化させる。復讐だ。自分を受け入れなかった世の中に対する。

 私は涼ちゃんが、真理ちゃんの顔を傷つけた全員をぶん殴った話を思い出した。これも復讐だ。「安心してね」と、彼女は私に言った。しかし、これじゃ暴力に暴力で対抗しただけだ。これでは何も生まれない。真理ちゃんを傷つけた女の子も、加害者であるという傷を負って生きて行く。この問題を解かなくてはならない。真理ちゃんにも、心を開いてもらわなければならない。そうしなければ、真理ちゃんと加害者たちとの間の溝は埋まらない。とても困難なことだけれど。自分の小説を書きながら、そんなことを考えた。


 2時間待って、ようやく真理ちゃんの番になった。看護婦は真理ちゃんだけを呼んだが、真理ちゃんは私の手を引いて離さなかった。一緒に、診察室に来てくれということだ。

「あなたは、お父さんですか?」と、三十代の太った医者はまず私に聞いた。

「いえ、友人です。今日は彼女のお母さんの代理で来てます」と私は説明した。

 医者は私の答えに納得したようで、小さなペンライトで真理ちゃんの傷を照らし診察を始めた。

「この傷、しばらく治療されてないですね」と彼は言った。

「はい、三ヶ月くらいしてないです」と真理ちゃんの代わりに私は答えた。

「なんで通院されなかったんですか?」と医者は聞いた。

「彼女が家出しちゃったからです」と私はストレートに答えた。ここは、嘘を着く場面ではない。医者に必要な情報を全てインプットして、最善の治療法を教えてもらわないといけない。

「家出ですか?」

「ご覧になられてすぐわかると思いますが、これは刃物による傷です。同級生に切られたそうです。彼女はそれ以来家出して、学校にも病院にも行ってないんです」と私は医者に説明した。

「傷の深さを診てみます。隣の部屋の椅子で、少し待っていただけますか?超音波の用意をします」

 私と真理ちゃんは診察室をいったん出て、すぐそばの椅子に座った。真理ちゃんはまた、私の左手をぎゅっと握った。

 二、三分で、超音波の準備ができた。私たちはその部屋に入り、椅子に座った。医者が、小さな器具を真理ちゃんの傷をなぞるようにあてた。真理ちゃんは、少し痛そうな顔をした。しかし頑張って我慢した。

 私と真理ちゃんはまた部屋を出て、椅子に座って少し待たされた。「平松さん」と真理ちゃんの名が呼ばれて、私たちはもう一度診察室に入った。

「想像以上に、深い傷です。1cm近い」と医者は言った。「これだけ深いと、なかなか治らないです」

「いつかは、治りますか?」と私は聞いた。

「平松さんは、普段お化粧をされてますね?」と医者は私の質問に答えず、逆に質問をした。

「はい、傷が見えなくなるまで厚く化粧をしてます」と私は答えた。

「お化粧は、傷には良くないです。平松さんの傷口は、炎症を起こして盛り上がってしまっています。かえって傷が目立つようになってしまってます」

「どうすればいいですか?」

「炎症を抑えるステロイドのついたテープを出します。これを毎日張り替えてください。肌色なので目立ちません。その上から、薄くお化粧をしても大丈夫です。これで傷はほとんどわからなくなります」

 それだよ、それ。私もネットで調べてそのテープの存在は知っていた。今日是非、それを手に入れたかったのだ。

「それから内服薬も出します。これは傷が炎症で盛り上がるのを防ぎます」

 私は真理ちゃんを見た。真理ちゃんは、ホッとして笑顔を見せていた。

「ただ傷が深いので、治るまで相当の時間がかかることを覚悟してください」

「わかりました。でも、いつかは治りますか?」私はさっきの質問を繰り返した。

「しっかり治療を続けることです。もう三ヶ月も放っておくなんてことはしないでください。放っておかれたら、私たちも何もお約束できません」

「わかりました。ちゃんと治療を受けるとお約束します」と私は言った。

「しかしこれは、立派な傷害事件ですよね。警察にはちゃんと届けられたんですか?」

「そこは私も、よく知らないんです」

「最初に治療を受けた病院の名前を教えていただけませんか?私がカルテを取り寄せて、確認します」

「ありがとうございます。とても助かります」

 とてもいい先生だった。しかし、事件のもみ消しに加担した病院が、果たして素直にカルテを出すだろうか?それが少し心配だった。しかし医師同士なら、大丈夫な気もした。


「よかったね」と、病院を出た後私は真理ちゃんに言った。真理ちゃんは、薬局のトイレで早速肌色のテープを傷の上に貼った。よくできてる。肌にすごく馴染む色で、メイクしなくても言われないと気がつかないくらいだった。

「うん!全部拓ちゃんのおかげだよ」そう言って、真理ちゃんは私の左腕にしがみついた。

「もう、明日から厚くメイクしなくていいね」と私は言った。

「そうだね・・・」

 真理ちゃんは、明らかに迷っているようだった。私は絶対、ナチュラルな真理ちゃんの方が好きなのだが。でも真理ちゃんは、真っ白な顔の自分が好きなのかもしれなかった。こればっかりは自分の好みの問題だ。人がとやかくいう話ではない。

 それから私は、頭に引っかかっていることがあった。医者は、「傷は消える」とは一言も言わなかった。今後の経過を見ないと、わからないのかもしれないが。千葉駅行きのバスを待ちながら、私は不安が消えなかった。

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