第12話 傷

第12話 傷


 さて、月曜日。私の長い休暇の始まりだった。来週の金曜まで、まるまる二週間の休みだ。涼ちゃんと真理ちゃんには、土曜日のうちに説明しておいた。二人とも、私と遊ぶ時間が増えて嬉しそうだった。

 私は七時に起きた。昨夜は、久々によく眠れた。身体が楽だ。やはり毎日5時半起きはつらい。遺品のコーヒーメイカーでコーヒーを淹れ、ブラックでゆっくり飲んだ。完全に頭を覚ましてから、朝食と夕食を作り出した。音楽は、ビル・エヴァンスをかけた。いつもなら、早朝なので音楽を控えていたが、お気に入りの曲を聞きながら食事を用意するのはなかなか気分が良かった。

 二人は9時に起きて、ダイニングルームに入ってきた。私が「おはよう」というと、二人とも少し照れ臭そうに「おはよう」と言って笑った。真理ちゃんのメイクはこれからだったから、左目の下の傷がはっきりと見えた。でも彼女は、もう私にそれを見せても気にしないらしかった。

 二人はテーブルに並んで座り、食欲満々の雰囲気だった。私は大急ぎで朝食をテーブルに並べた。

「拓ちゃんの会社は、いい会社なんだね」と涼ちゃんが、朝食を食べながら言った。

「なんで?」

「だって、お休みを沢山くれるじゃん」

 私は説明した。この休みは、仕事を一人で抱えていないか、悪いことをしていないかチェックするための休みなんだと。

「でも拓ちゃんは、悪いことしてないから関係ないんでしょ?」と、今度は真理ちゃんが聞いた。そう言われて、私はちょっと考え込んでしまった。私は悪いことをしなかっただろうか?これまでの会社員生活で。

「今は大丈夫だけど、昔を思い出すと結構悪いことしたかな」と私は白状した。

「拓ちゃんが?何をしたの?」涼ちゃんが、大きな瞳をさらに見開いて私にたずねた。

「俺の会社って、建設会社の親玉だからさ。その下に、たくさんの会社を子分にして工事をするんだよ。俺が担当した工事は、俺が王様なんだよ。子分の会社を奴隷みたいにこき使って、納期までに完成させるわけ。どこかで工事に遅れが生じたり、技術的な問題が起こったりすると、もう俺は激怒。大勢の人を会議室に集めて、怒鳴って、問い詰めて、最後は脅迫まがいのことまで言ってたなぁ。今から思い出すと、嫌なやつだったよ」

「うっそー!?拓ちゃんが?」と涼ちゃんが言った。

「信じらんなーい!」と真理ちゃんが大声を出した。

「自己弁護をさせてもらえば、誰でも戦わないといけないときがあるんだよ。俺の普段は、こんな感じ。のんびりしてるけど、戦わないといけないときは徹底的に戦うよ」

「そうなんだ・・・」

「想像できない!」

「ねえ、涼ちゃんと真理ちゃんには、俺はどんな奴に見えるの?」と私は二人にたずねた。二人は困った顔をした。

「謎の人かな」と涼ちゃんが言った。

「私もそう。拓ちゃんは、不思議な人。おととい話したけど、私男の人ってダメなの。嫌な思い出ばっかりあるから。でも拓ちゃんは違う。なんか全然違うの」と真理ちゃんが言った。

 それは私が、性欲を持たないからだろうか。それはきっと大きいだろうな。

「さて、涼ちゃんはそろそろ出かけないと」と私は言った。彼女に弁当箱を渡し、真理ちゃんと一緒に玄関まで行って、彼女を見送った。

「私、17時過ぎに帰ってくるからね。必ず家にいてよね」涼ちゃんは真剣な顔をして、そう訴えた。

「わかった。17時には必ず家にいるよ」


 さて、私は真理ちゃんと二人になった。私は彼女を、すぐ病院に連れて行きたかった。しかし、焦ってはいけない。彼女がその気になってくれないといけない。私は真理ちゃんに、近くの海岸に行くことを提案した。

 それから真理ちゃんの長いメイクが始まった。私は六畳間に入り、ギターを弾きながら作りかけの曲の続きを考えた。その曲はほぼ完成していたが、何かがまだ足りなかった。悩んだあげく、私は別に作った曲のサビをその曲にドッキングさせることにした。そしてその部分には歌詞は入れず、「ラララー」という異なるメロディを複数重ねる手を取ることにした。ビーチボーイズが得意としていたやり方だ。

 アイデアが固まると、するするとメロディがいくつも浮かんできた。私はそのメロディをマイクでノートPCに録音し、いくつも重ねた。それが済んだら、曲全体を何度も聴き直した。悪くない。まあどうせ、誰も評価してくれないけれど。

 メイクを終えた真理ちゃんが、襖を開けて六畳間に入ってきた。いつものように彼女は真っ白な顔になっていた。私は、彼女を見てハッとさせられた。メイクの腕が上達しているのだ。ネットを使って、いろいろ調べているのかもしれない。彼女たちを私の部屋に移してよかった。

 家のすぐ近くに、稲毛の浜という人工海岸がある。昔の海岸は埋め立ててしまったので、埋立地の端に砂浜を作ったのだ。そこは大きな公園にもなっていて、広い森の先に海岸があった。森の中には、芝生の広場もあった。休日になると、家族連れがサッカーをしたり、野球をしたりして遊んでいた。

 駐車場に車を停め、街路樹が並ぶ大通りを海に向かって歩いた。真理ちゃんは自然に右手を差し出し、私の左手を握った。私たちは手を繋いで、ゆっくりと歩いた。完全にお父さんだな、と私は思った。しかし、真理ちゃんにはお父さんはいない。今もどこかで生きているのだろうが、彼女の前に姿を現したことはないのだろう。

「ねえ、拓ちゃん」

「なあに?」

「涼ちゃんは、マジで拓ちゃんのこと好きだよ。羨ましいくらい」と真理ちゃんは言った。

 私は今日の「17時に家にいろ」とか、この間の「速攻で家に帰ってこい」とか命令する涼ちゃんを思い出した。でもそれは恋愛感情ではない。普通の子供が親に求める、無条件の愛情の問題だ。それを欲しているのだ。単に、それだけの話だ。

「でも、拓ちゃんなら許す」と真理ちゃんは言って、繋いだ手をさらに強く握りしめた。今は真理ちゃんも、私の愛情を求めていた。それは彼女の短いが大切な子供時代で、得られなかったものだ。そう考えて、私はまた呼吸が苦しくなった。私も真理ちゃんの手を強く握り返した。

 私たちは砂浜に出た。その狭いが穏やかな海岸を端から端まで、ゆっくり歩いた。時々私は、左を向いて隣にいる小さな少女の存在を確かめた。真理ちゃんは真っ直ぐに前を向いて歩いていた。何か別のことを考えているように見えた。

「拓ちゃん」

「なあに?」

「私の顔の傷のこと、知りたいよね?」

 私は一瞬ためらった。もちろん知りたいが、今はその時だろうか?中年から壮年になろうとしている私も、まだわからないことがたくさんある。そう思い知らされた。だいぶ経ってから、私は「うん」と答えた。

「三年生でクラス替えがあって、その新しいクラスメイトとLINEのグループを作ったの。最初は楽しくやってたの」

「うん」

「女子校で、女の子同士付き合ってる人が多いってことは話したよね?」

「うん、聞いた」

「涼ちゃんと私が付き合ってることは、多分全校生徒が知ってたと思う。涼ちゃんって綺麗で格好いいからさ、もう憧れの的なの。だから、私のこと嫌いな人も多いの」

 それは裏返しの話でもあった。真理ちゃんが好きな女の子もたくさんいるわけだ。真理ちゃんが好きな子は、涼ちゃんが嫌いだろう。真理ちゃんは話を続けた。

「高校三年生にもなると、他校の男の子と付き合ってる人も増えてくるの。自分の高校の中だけじゃなくて、外の世界で男の子に向かうの。私は、それが理解できなかった。私男嫌いだから。だからつい、それをそのまま言っちゃった」

「そりゃ、ちょっとまずいね」

「うん、あれはマズかった」と真理ちゃんは言った。「グループのメンバーには、男の子と付き合ってる人もいれば、涼ちゃんが好きな人もいたの。私はその両方から嫌われちゃったの」

 私は考えた。そのメンバーには、もちろん真理ちゃんが好きな子もいたはずだ。でも、涼ちゃんがいる限り彼女に勝てる見込みはほぼない。たどり着く先は、絶望だ。

「それで、クラスメイトと関係がおかしくなっちゃったの?」

「うん」とだけ、真理ちゃんは答えた。そして黙った。

 私は、彼女の思い出したくもないことをほじくり返していた。しかし真理ちゃんは勇気を出して、私に傷の理由を教えてくれようとしていた。私は、全身全霊でそれを受け止めようと思った。

「私は、男の子と付き合ってる子のことを悪く言ったの。その男の子の写真とかLINEに載せてたから、『こんな気持ち悪いうやつ』とか言っちゃったの。その前にその子が、私と涼ちゃんのことを変態とか言ったから、完全に頭に来てたの」

「そうだったんだ」

「私のことなんかどうでもいいけど、涼ちゃんの悪口は許せない。私がその子の悪口を散々書いたら、他の子も私の敵側に回って。みんなから総攻撃を受けた。でも私は引き下がらない。涼ちゃんの悪口なんて許せないから」

「それをLINEでやり取りしてたの?」と私は聞いた。

「そう」と真理ちゃんは答えた。

 もう砂浜の端まで来てしまった。私たちは気分を変えて、森の中を歩くことにした。砂浜から上がり、道路を横切って、森の中にある遊歩道をのんびりと歩いた。

「私と涼ちゃんのことを変態って言った子に、私『殺してやる』って言っちゃたの。そしたらすぐ、「殺す」ってその子から返信があって。私は「やれば』って返した。それでその日のやり取りは止まっちゃった」

 私の手を握っている真理ちゃんの手が、震えているのがわかった。私たちは、遊歩道に設置されたベンチに腰を下ろすことにした。平日なので、周りには誰もいなかった。実に静かで、平穏な午前中だった。それなのに私たちの話題は、震えるほど恐ろしい話だった。

「次の日の昼休みに、私はその子にトイレに呼び出されたの。他に五人いた。私は彼女たちに囲まれて女子トイレの中に入ったの・・・」

 そこまで話してから、彼女は立ち上がって、私の膝に横向きに乗った。そして真理ちゃんは身体をひねって私に抱きついた。自分の顔と胸を、私の胸に押しつけた。

「トイレに入ったらすぐに、カッターで顔を切られたの。びゅうって。自分でもびっくりするくらい血が吹き出た」

 私は思わず真理ちゃんを、これでもかというくらい強く抱きしめた。彼女も私を抱きしめ返した。今の私たちには、それくらいしかできなかった。

「その子たちは、私の顔を切ったらさっさとトイレから出て行っちゃった。私は一人でどんどん流れる血を見てた。私、死んじゃうのかなと思った。死ぬ前に、涼ちゃんに会いたいと思った。でも涼ちゃんはしょっちゅう学校を休んでて、その日も休みだった。だいぶ経った後で、私はクラスに戻ったの。もう五時間目は始まってて、私を見た先生は真っ青になってた。すぐ救急車が呼ばれて、私は保健室で応急処置されながら、救急車が着くのを待ってた。

 保健室で少し時間があったから、涼ちゃんに電話したの。『顔を切られた』って。そしたら、涼ちゃんはわんわん泣き出して、どうにもならなかった。『病院が決まったら、連絡するよ』って言って電話を切ったの。もう、涼ちゃんは泣いてばっかりで会話にならなかったから。

 それから救急車が来て、担任の先生と病院に行った。病院が決まったら、すぐ涼ちゃんに連絡した。すぐ来てくれたよ。涼ちゃんと担任の先生で、私の傷を塞ぐ手術が終わるを待ってくれてた。

 傷を縫って、輸血もして二、三時間くらいかかったと思う。手術室から出て来たら、涼ちゃんはまだ泣いてた。担任の先生は、ぐったり疲れた顔してたな。ママも来てて、面倒臭そうな顔してた。ママらしいんだけど」

 私は真理ちゃんを、ソフトな抱きしめ方に変えた。優しく。気持ちを落ち着かせるように。そして考えた。この愚かな凶行は、単純な話ではない。レズビアンが変態だというわかりやすいストーリーではない。そこには、真理ちゃんが涼ちゃんを独り占めにしている嫉妬があり、そして何より真理ちゃんの圧倒的な美しさに対する嫉妬もあっただろう。それらがないまぜになり、真理ちゃんの攻撃的な言葉に少女たちは反応してしまった。悲劇としか、いいようがなかった。

「あの日以来、学校に行ってない。もう、行く気が起きないの」

「そりゃ、そうだよな。そんな学校行く気になるわけないよな」

 そう同意しながら、私はまだ真理ちゃんに学校に戻って欲しいと考えた。今の告白を聞いて、それがどんなに困難な道であるかはわかった。だが、私はある意味ずるい大人だった。今朝二人に正直に説明した通り、私は白を黒と言いくるめるような男だ。幸い、休みは二週間ある。私の事務処理能力の全てをつぎ込んで、この難問を解け。なんのなんの。解決してみせるぞ。真理ちゃんの素直な告白に、私は逆に全身からエネルギーが湧いてくるのを感じた。私は自分に抱きついている小さな女の子に、背中をトントンと優しく叩いた。

 私たちはそのままずっと抱き合っていた。次第に、真理ちゃんは眠り始めた。おいおい、9時までぐっすり寝ただろう。そう思ったが、まだ子供なのだ。寝たいだけ寝ればいい。私は真理ちゃんを抱いたまま、じっと時間が経つに任せた。トイレも我慢した。

 

 真理ちゃんが目を覚ましたのは13時だった。たっぷり2時間寝たことになる。

「あれえ、もうお昼?」

「そうだよ。お昼ご飯を食べに行こうぜ」と私は言った。

 真理ちゃんがぐっすり寝てくれたおかげで、ランチタイムを外すことができた。私は彼女を、お気に入りのインドカレー屋に連れて行った。そして、店に入って席につくと、すぐ胃腸薬を口に放り込んだ。この薬が効いてくれることを祈った。

 この店のカレーは辛い。だが確かに美味しい。そして焼きたてのナンが絶品だった。私は若い頃は、ナンをお代わりするのが当たり前だった。私は一番辛くないチキンカレーを頼んだが、真理ちゃんは一番辛さのグレードが高いものを選んだ。

「大丈夫?この店のカレーは、本当に辛いんだよ」

「大丈夫」と真理ちゃんは自信満々に答えた。さっき事件の告白をしていたときの、脆くて今にも壊れそうな女の子からは一変していた。

 辛い。一番最低でも辛い。私は水をお代わりして飲んだ。しかし、真理ちゃんは平然とずっと辛いカレーを食べた。ナンもお代わりした。私は一枚で十分だったけど。

「美味しい!」

「真理ちゃんは、辛いのが好きなの?」

「いや、別にそういうわけじゃないよ。でもこのカレーはすごく美味しい!」

 店を出ると、14時半だった。今日これから病院は厳しいな、と思った。17時に家にいないと、涼ちゃんにめちゃくちゃ怒られることになる。まあ、明日行けばいい。私はそう考えて家に帰った。薬が効いたのか、私のお腹は平穏を保ってくれた。


 涼ちゃんが17時10分に帰ってくると、真理ちゃんは早速インドカレー屋の話をした。案の定、涼ちゃんは「私も食べたい!」と言い出した。やれやれ。真理ちゃんがスーパーのバイトに出かけた後、私は1日2回目のインドカレー屋に行った。胃腸薬の瓶を抱えて。

 いくら好きとはいえ、1日2回はきつい。どうしようかと思ったが、私はマトンカレーの一番辛くないのを選んだ。涼ちゃんは、真理ちゃんと同じく一番辛いカレーを選んだ。

「拓ちゃん」と、料理を待っている間に涼ちゃんが私に話しかけた。「真理ちゃんの傷の理由は、全部聞いたんだよね?」

「うん、聞いた」と私は答えた。

「拓ちゃん、安心してね。私、そいつらを一人ずつ呼び出して、ボコボコにぶん殴ったから。血を見るまで許さないぞと思って、鼻血出したり、口切るまでぶん殴った。もう、拳が痛くてしょうがなかった。全員やっつけた後で、退学届を学校に出した。こんな学校、二度とくるもんかと思ったもん」

「すごいね」

 涼ちゃんの逞しさというか、男性的というか強靭な部分が現れた話だった。とても私の膝に乗るのが好きな女の子と、同一人物には思えなかった。

「でも拓ちゃんも、会社じゃ凄いんでしょ?」と涼ちゃんは聞いた。

「うーん、凄いんじゃなくて、自分の思い通りじゃないと嫌って感じかな。ほら、この間説明したでしょ。仕事を自分色に染めるって。それにこだわりだすと、俺も涼ちゃんくらい凄いかな。俺は手は出さないけど、その代わり言葉で相手をコテンパンに叩きのめすから。言われた方はきついよな。長期休暇の最中だから冷静になれるけど、ひどいこといっぱいしたよ、俺も」

 いつのまにか私は、18才の女の子に自分の人生相談をしていた。でも涼ちゃんは、それを受け止めるだけの器量をすでに持っていた。豊富な人生経験を、彼女は備えていた。それはある意味、悲しいことだけれど。

「拓ちゃんが厳しいことを言っても、相手にはきっと自分を励ます言葉として伝わるよ。拓ちゃんは優しいから。もっと、自分に自信を持ちなさい」

「はい・・・」

 とほほ。30歳年下の女の子に怒られるとは。私はシュンとして下を向くしかなかった。

「ねえ、涼ちゃん。真理ちゃんを傷つけた女の子たちはどうなったの?」

「どうって、なんで?」

「刃物で人を傷つけたんだ。りっぱな傷害事件だよ。病院から警察に連絡が行くはずだ。黙って治療だけするわけには、いかないはずだよ」

「私にはよくわかんないけど、真理が手術を受けてる間、真理ちゃんの担任の先生はあちこちに電話かけまくってた。多分、校長とかいろんな人と話してたんだと思う。そして、ナースステーションに何度も行って、『穏便に済ませてくれ』って、頼んでた。おおごとにしたくなかったんだと思う」

「つまり、揉み消したってわけだ」

「私はその日は、もう大パニックだったから。全然頭が回らなかった。包帯ぐるぐる巻きの真理ちゃんを見て、生きてた、良かった。それしか考えられなかった。

でも次の日になって、メチャクチャ腹が立ってきた。真理ちゃんを傷つけた奴らは、普通に学校に来てるんだよ。もう頭に来て、一人ずつ片付けたの」

学校は、体面を気にしたということか。何かを使って、病院にただの怪我として処理させたのだろう。名門女子高だ。世間の評判を恐れた。そういうことだ。


店を出ると20時だった。大急ぎで家に帰ることにしよう。家に帰って、真理ちゃんのための夕食を作る。そしてソファに座って、涼ちゃんを膝に乗せる。これが何より、彼女が楽しみにしていることだ。

 家に着き、仕事を済ませてソファに座った。待ってましたとばかりに、涼ちゃんは私の膝の上に乗った。そしてニュース番組を熱心に見ていた。

「拓ちゃん」

「なあに?」

「パレスチナ問題って、どうしてこんなにこじれるの?」

「ニュースキャスターの解説を聞いててもわからない?」

「うん。今揉めてることはわかるけど、どうしてこうなったのかわからない」と真理ちゃんは言った。

「それがわかるためには、たくさん勉強するしかないね」と私は答えた。

「拓ちゃんの部屋って、本だらけだよね。あれ、全部読んだの?」

「もちろん。でも、半分くらいは忘れちゃったけどね」

「それくらい本を読まないと、パレスチナ問題はわからない?」

「そうだね。あれはややこしいから。世界史全部知らないとわからない」

「ねえ」と涼ちゃんは言った。「超簡単に教えてよ」

「まず、キリスト教の学校に通ってたんだから、モーゼがエジプトからイスラエルの地にユダヤ人を連れてったのは知ってるよね?」

「なんとなく。真剣に聞いてなかったけど」

「あれは旧約聖書の話だから、本当かはわからない。ただ、ユダヤ人は侵略者だったんだと思う。問題はそこから始まってる」

「うん」

「そこからユダヤ人は、いろいろあったけどそこに国を造った。そこへ、ローマ帝国が侵略してきた。当時のローマ帝国は、今のアメリカみたいなもんだからさ、軍隊はメチャクチャ強かった。ユダヤ人は神殿に立てこもって、必死に抵抗したけど負けてしまった。神殿は破壊され、ユダヤ人はイスラエルの地から追放されてしまった。今のシリア難民と同じだね。壊された神殿の一部が現存していて、ユダヤ人の信仰の対象になっている。それが嘆きの壁だ。

彼らはヨーロッパから中東まで、散り散りに移り住んだ。そこら中で、差別された。ゲットーという狭い地域に押し込まれ、そこでしか生活することを許されなかった」

「なんで、そんなに差別されたの?」

「現代の俺たちは科学文明が発達したから、宗教から中立でいられる。でも昔はそうじゃない。宗教は人生にとって絶対だったんだ。キリスト教も、カトリックとプロテスタントの間で、二百年も三百年も戦争してる。さらにキリスト教にも少数派がいて、信条が少しだけ違う人たちがたくさんいた。そういう人たちは異端として、迫害され処刑された。それくらい宗教の違いは大変だったんだよ」

「ふーん、私には理解できない」

「そこで想像力を働かせるんだ。今の俺たちの常識は、いったんチャラにする。そしてその時代に自分が生きていたら、どう考えるだろうと想像してみる。これをやらないと、歴史はわからない」

「そんなこと、学校の先生は言わなかったよ」

「それが学校教育の悪いところだ。彼らは、一年で世界史を説明するのに汲々としてる。とても深く考える余裕がない。ゆっくり教えてたら、自分のノルマがこなせないからね」

「それで、ユダヤ人はどうなったの?」

「授業で習ってないの?」

「ごめん。真面目に受けてなかった」

「しょうがないなあ。19世紀になると、産業革命とともにユダヤ人の中から成功者が現れた。ロスチャイルド家なんか典型だけど、大金持ちになった人たちがどんどん増えた。そこで、シオニズム運動が起こった」

「何、それ?」

「簡単に言うと、イスラエルに帰ろうっていう運動だよ。小金を貯めたユダヤ人たちは、ヨーロッパを捨ててイスラエルの地に移り住んだ。でもそこには、パレスチナ人がいた。20世紀の始めから両者の小競り合いが始まった」

「上手くいかなったの?」

「パレスチナ人はみんなイスラム教徒だ。そこへ、大量のユダヤ人が移民してきた。信仰の違いはいかんともしがたい。そこへさらに、ナチスドイツが現れた」

「それはわかるよ。ユダヤ人を大虐殺したんでしょ」

「そう。正確な人数はいろいろ説があるけど、約六百万人がナチスドイツに殺された」

「すごいよね・・・」

「人間にこんなことが出来るのか、という人数だ。でもそれだけじゃない。ナチスドイツの支配下に入ったポーランドの話だけど、ポーランド人がナチスの庇護をいいことに、ユダヤ人を虐殺した。街中のユダヤ人を集めて、小さな小屋に押し込んだ。生まれたばかりの赤ちゃんも中に入れた。そして小屋に火をつけて、その中にいる全員を焼き殺した」

「そんな・・・。信じられない・・・」

「この話の恐ろしいところは、これを普通のポーランド人がやったことだ。ナチスドイツじゃない、たった今まで一緒に暮らしていた街の人たちが犯人だってことだ。人間はね、特殊な状況に置かれると平気で残酷になれるんだよ」

 私はこの話をしながら、真理ちゃんの顔を傷つけた少女たちのことを思った。彼女たちも、涼ちゃんや真理ちゃんと同じ可愛い女の子だ。それなのに、とんでもない間違いを犯した。その可能性は、誰にでもあるということだ。被害者はもちろんだが、加害者も深く傷つく。ポーランドの事件は、20世紀の終わりになって明らかになった。加害者だった老人たちは、自分の犯した罪を子や孫に説明しなければならなかった。おそらく彼らは、自分が犯したことを、ずっと胸に秘めて生きてきたのだろう。私は涼ちゃんへの説明を続けた。

「さて、第二次世界大戦が終わった。ナチスドイツのユダヤ人虐殺が明らかになり、世界中が戦慄した。そして連合国は、国連でイスラエルの建国を認めてしまった。すぐに戦争が起こった。第一次中東戦争だ。パレスチナ人と宗教が同じ周辺国がこぞって戦争に参加した。イスラエルは、男も女も銃を取って戦った。そして勝った。国連でパレスチナ居住区とされた地域まで、占領してしまった。被害者が、加害者になったんだ」

「なんで国連は、イスラエルを認めたの?」

「ヨーロッパの国々は、みんなユダヤ人に後ろめたさを持っていたんだと思う。ナチスドイツほどではないにせよ、ユダヤ人差別はどこの国にもあった。それに、第二次世界大戦の直後でもあった。みんな自国の復興で、頭がいっぱいだった。ユダヤ人問題は、二の次だったんだと思うよ」

「でも国連決議よりも、イスラエルは占領したんでしょ?」

「国連はそれを黙認した。国連と言っても、力を握っているのは五大国だ。彼らに他の国は反抗できない。収まらないのは、自国に大勢のパレスチナ難民を抱えることになった周辺国だ。そして、第二次、第三次中東戦争が起こった」

「どうなったの?」

「イスラエルは強かった。散々いじめられてきたから、強くなければならないとみんな考えたんだと思う。軍隊は強い。兵器開発能力もすごい。おまけに、公然と核兵器も開発した。使わなかったけど。戦争の結果、エジプトからはシナイ半島を、ヨルダンからは東エルサレムを、シリアからはゴラン高原を奪い取った」

「そんなに強いの?」

「強いね。世界最高の能力を持った兵器を、次々と開発する。その上彼らは、軍事力だけじゃなく政治力も使う。莫大なお金をかけて、アメリカの議員と癒着する。アメリカには、キリスト教原理主義と呼ばれる教義に厳格な人たちが今も沢山いる。そういう人たちを、自分の味方につけるわけだ。その代表が、上院、下院の議員たちだ。彼らも原理主義の人々を味方につけないと選挙で勝てない。だからイスラエル寄りの立場を取る。彼らの力が強大だから、アメリカ大統領も気を使うことになる。かくして、アメリカはずっと親イスラエルの国になる」

「だから、パレスチナ問題はどの国も本気で介入しないのね」

「そういうこと。さっきも言ったけど、ヨーロッパはユダヤ人問題に対して長年の後ろめたさがある。アメリカには、熱狂的はキリスト教信者たちがいる。だから、イスラエルの味方になってしまう。これでは、パレスチナ人は納得できない」

「どうしたらいいの?」

「実は、簡単なんだ。共存することだよ。自分が何を信仰しているとか、これまでの恨み辛みをご破算にして、原点に還ることだ。原点とは、自由と平等だ。ユダヤ人も、パレスチナ人も自由で平等なんだと認め合う。ここまでが俺の陣地だ、とか言うのを止める。陣地が出来て境界ができたら、お互いに軍隊を出して銃を構え合うだけだからね。それを止める。選挙をして、共同の政府を作る。そしてユダヤ人がパレスチナ人を傷つけたり、その逆があったら刑法に基づいて罰する。みんな平等なんだからね。喧嘩はダメなんだよ」

「そんなことができるの?」

「うーん。おそらく俺が生きているうちは難しいかもしれない。涼ちゃんの世代に任せるよ。でもね、『自由と平等』という原理はフランス革命が生み出したものだ。もう二百年以上経っているんだよ。でも今でもそれが、俺たちの社会の根本の原理だ。自由と平等という原理は、世の中の様々な問題を解いてしまう力がある。そこから、信仰の自由や、ユダヤ人もパレスチナ人も対等だという考えを導ける。両者の個々人が、それぞれの仕方で自分なりの幸せを追求していい、という考えも導ける。相手の自由や平等を侵害しない限り、どこに住み、どんな仕事をし、誰と結婚してどんな家庭を築こうと自由だとなる。2018年現在も、これを上回る原理はない」

「涼ちゃん、すげー、頭疲れたんだけど」と涼ちゃんは言った。「でも、よくわかった。すごいわかりやすかった」

「そう?だけど、これでも相当はしょったんだよ。2500年を一気に説明したからね」

「でもわかったー。ユダヤ人も、パレスチナ人もつらいんだね」

「でもね、今もパレスチナ人のデモ隊をユダヤ人の治安部隊が殺してる。そこでもう一回想像力を働かせてね。パレスチナ人を銃で撃ってるのは、涼ちゃんと同じくらいの年の青年なんだよ」

 涼ちゃんは、しばらく何も言わなかった。随分経ってから「怖いね」と言った。

「怖いことだよ。彼の心には、パレスチナ人を撃ち殺した記憶がずっと残る。それを抱えて、彼は人生を生きることになる。こんなこと、確かにニュースじゃ言わないね」

「拓ちゃん、先生になれば良かったのに」と涼ちゃんは言った。「拓ちゃんの授業なら、私一生懸命受けるよ」

「いやあ、俺は先生って柄じゃないよ。学校も好きじゃないし」

「でももったいない。こんなにわかりやすいし、拓ちゃんは熱い。拓ちゃんって、もっと冷めてると思ってた・・・。いや、違うな。拓ちゃんは時々熱くなるな。もう、有無を言わせないくらい」

 そうなんだろうか?私は涼ちゃん最初の「冷めてる」という評価の方が、今の自分にしっくり来る気がした。

「ねえ、拓ちゃん。真理ちゃんにはもう話したけど、私あなたのことが好きだよ。本当に好き」

 なんと答えていいのか、わからなかった。誰かから「好き」なんて言われたのは、何年ぶりのことだろう?私は記憶を辿ったが、思い出せなかった。

「なあに。イヤなの?」と涼ちゃんが、ムッとした様子で言った。

「いやいやいや、そうじゃないよ。嬉しいよ。嬉しいけど、なんて答えていいのか、わからなかった」と私は正直に答えた。

 涼ちゃんの機嫌は、なかなか直らなかった。


 真理ちゃんが帰ってきた。私はホッとして、夕食の準備をした。そして三人で食事をしながら、真理ちゃんに提案をした。

「真理ちゃん、明日病院に行こう」

 私がそう言うと、真理ちゃんは午前中に家に帰って、保険証を取って来ると言い出した。

「朝何時に出るの?」

「7時」と真理ちゃんは答えた。確かに、大きな病院の初診は何時間待たされるかわからない。保険証を取って来るのは、早ければ早いほど良かった。しかし、これで私の朝5時半起きは確定した。とほほ。7時起きは、一日しか持たなかった。 

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