第19話 学校(罪の償い)
月曜は、朝六時にパッと目が覚めた。昨夜は、久しぶりに熟睡できた。心がリラックスできている証拠だ。私は、今日の戦いを前にして、ワクワクするほど楽しみで愉快な気分だった。布団から身を起こして、全身にエネルギーが漲っているのを感じた。窓の外は、秋晴れ。最高の朝だ。
朝8時に、私は二人の学校に電話をかけた。私は、真理ちゃんの担任の先生を呼び出した。大月さんという、まだ二十代の女性だそうだ。
「おはようございます。柿沢と申します。平松真理さんの友人です。」と私は彼女に挨拶をした。
真理ちゃんの名を聞いて、大月先生は明らかに平常心を失った様子だった。
「ど、どんなご用件でしょうか?」
「平松さんの顔の傷について、お話がしたい」
「・・・」
大月さんは凍りついたように黙ってしまった。私は話を続けた。
「大月さん、いいですか。この問題はあなた一人が抱えることはない。学校の問題だ。あなたのせいじゃない」
大月さんはまだ黙っていた。仕方がないので、学年主任の先生に代わってもらうことにした。
「田口と申します。はじめまして」とその男は電話口で名乗った。四十代か、五十になったくらいの男性に思えた。彼ほどの年齢でも、緊張しているのが電話口から伝わってきた。
「柿沢と申します。訳あって、今平松さんと、斎藤さんをお預かりしています」
「斎藤さんもですか?」
学年主任は、涼ちゃんの名前も出て驚きを隠さなかった。彼も二人の問題は、充分認識しているようだった。
「平松さんと斎藤さんは、七月からお宅の学校に行っていない。その理由を私は全て知っています。あなたもご存知ですよね?」と私は彼に言った。
「は、はい。理解しています」と彼は答えた。
「本日、二人の問題についてみなさんと話し合いたい。時間は、13時でいかがですか?」
「じゅ、授業があります」
「そんなもん、自習にすればいいでしょう!」私は、学年主任の彼を怒鳴った。「私は、学校にとってとても大事な話をしたいと考えている」
「急にそんなことを言われても・・・」と彼は口ごもった。
「急ではないです。七月の話をしたいんです。今は十月の終わりです。四か月も経ってるんですよ。あなたは、そして学校は、その間この問題について何かされましたか?」
「・・・」
学年主任も、だんまりを始めた。どうやら、この学校では涼ちゃんと真理ちゃんの問題について箝口令が敷かれているらしい。だから、誰も何も言わないのだろう。私は、さらにたたみかけた。
「会ってくれないと言うのなら、それでも結構です。その代わり、私は平松さんと警察に行きます。平松さんの顔の傷について話をします。これが何を意味するか、あなたわかりますよね?」
「うう・・・」彼はうなっただけで、何も言わなかった。
「田口さん」と私は彼に語りかけた。「私は、あなたの立場もわかります。あなただけを責めるつもりはない。校長先生はもう出勤されてますか?校長先生と代わってくれませんか?」
「ちょ、ちょっとお待ちいただけますか?」長い沈黙の後、ようやく彼はそれだけ言った。電話は保留され、私は保留音の賛美歌を聴かされることになった。
私はどうしても、賛美歌が好きになれない。音楽的に、簡単過ぎるのだ。だが、ゴスペルは好きだ。アメリカに連れて来られた黒人奴隷たちは、無理矢理キリスト教に改宗された。それなのに彼らは、キリスト教を苦難に満ちた人生に耐える拠り所とした。そして賛美歌に、ブルースとビートを付け加えた。ゴスペルは、震えるほど素晴らしい音楽だ。
十分近く待たされた後、校長先生が電話に出た。
「おはようございます。校長の佐々木と申します」
「もう学年主任から、お話は聞いていると思いますが、本日私はあなたと会ってお話がしたい。平松さんと一緒にです」
「ど、どのようなお話でしょうか?」と彼は言った。怯んでいるのが、口調でわかった。
「難しい話じゃありません。平松さんは七月から学校に行っていない。斎藤さんは、退学届を出した。その理由を私は全て知っています」
電話の向こうの校長先生は、何か言おうとした。それを私はあえて遮った。
「私は平松さんのお母さんとも、斎藤さんのお父さんとも、おじいさんともお話しています。私を彼らの代理だと思っていただきたい」
ウソ八百だった。でも、今はそれも必要な時だ。後ろに大会社の社長がついているぞ、と匂わせたのだ。汚い手だ、我ながら。
「今日13時に、平松さんと学校に伺います。校長先生、あなたと学年主任と大月先生と話がしたい。部屋を用意してください。どんな部屋でも構いません。校長室でもいいですよ」
「わかりました。13時にお待ちしております。部屋はどこか用意します。学校に着いて、受付に聞いてくだされば分かるようにしておきます」と彼は言った。
「お忙しいところありがとうございます。ご迷惑をおかけしますが、本日はよろしくお願いいたします」と言って、私は電話を切った。
私は庭に出て、携帯で電話をしていた。涼ちゃんと真理ちゃんに、余計な心配をかけたくなかった。しかし二人はダイニングルームのテーブルについて、庭で怒鳴っている私を見守っていた。
「拓ちゃん、怖い」と、家の中に戻ると涼ちゃんが言った。
「怖いわけじゃないよ。悪いことをした奴を叱ってるだけさ。インチキをやった野郎は、怒らなきゃいけないんだ。本人のためにもね。俺はそう思う」
私は急いで朝食をテーブルに並べた。しかし涼ちゃんも真理ちゃんも、食事になかなか手を出さなかった。女の子は難しいな。こんなことなら、外に出て電話をかけるべきだった。私は深く反省した。
私はビル・エバンスの「ワルツ・フォー・デビー」をかけた。彼が奏でる美しいピアノが、私たちの緊張感を解きほぐした。私たちはやっと朝食を食べ始めた。
朝食を終え、まだ涼ちゃんが出勤する前に私は真理ちゃんにお願いをした。
「真理ちゃん、つらいと思うけど学校に着いたら傷のテープを剥がしてね。予備のテープを持っていって、校長との話がついたら貼ってくれればいいから。悪いけど、ここはおじさんの作戦に任せて」
「わかったー。いいよー」と真理ちゃんは明るく答えた。こういうところが、彼女の強いところだ。話を聞いた涼ちゃんのほうが、不安そうな顔をした。
「涼ちゃん、さあ仕事に行って。後のことはおじさんに任せなさい」
「拓ちゃんは、おじさんじゃないよ」と涼ちゃんは言った。いや、それはさすがに無理だろう。私はおじさんというか、もうまもなくおじいさんだ。
真理ちゃんと二人で涼ちゃんの出勤を見送った後、私は真理ちゃんとダイニングルームでアイスティーを飲んだ。
「学校で、どんな話をするの?」と真理ちゃんは私に聞いた。
「言いたいことは山ほどあるから、一言では説明できないな。まあ、ここは俺に任せてよ」と私は答えた。
10時半に私たちは家を出た。バスに乗って稲毛駅まで行き、総武快速線で東京駅まで行く。そこで丸ノ内線に乗り換え、茗荷谷まで行く。所要時間は、二時間弱だ。
私は会社に入ってずっと、現場の人間だった。工事ってものは、すんなりと出来上がることなんてまずない。次々に問題が持ち上がる。まず天候不順で工期が遅れる。発注したはずの資材が期日に届かないなんてこともある。挙句には、建設中に致命的な設計ミスが見つかることもある。
二十代の終わりくらいになって仕事を覚えた私は、そういう問題が起こるたびに関係者全員を集めて会議を開いた。そして、吠えまくり暴れまくった。まず、事実を全部関係者に吐き出させてテーブルの上に並べる。ホワイトボードを引っ張り出し、解決策を参加者から聞き出してマジックペンでボードに書く。全員を恫喝して、策をどんどん引っ張り出す。10個くらい出たところで、その策の吟味を始める。メリットとデメリットを策の下に書いて、デメリットのでかい策は大きなバツで消す。それを何時間もノンストップで続ける。最後に残った一個が、最善の解決策だ。会議参加者全員に、これでいいなと念押しをした後で、私はずっと黙っていた上司に命じる。この解決策で、社内の関係各部や関係会社を全部説得しろと。それは私の仕事じゃない、あんたの仕事だ。上司は仕方なく、私に従う。私は本当に生意気で、イヤな奴だった。
今日の私は、若い頃に戻った気分だった。私はやる気に満ちていた。相手が校長先生だろうが関係ない。絶対に勝つつもりだった。
しかし、茗荷谷の駅を降りると真理ちゃんは震えだした。私の左手を握ってブルブルと震えた。それは、学校に近づけば近づくほど酷くなった。私は必死に彼女の小さな手を握り返した。しかし、震えは鎮まらない。私はさらに燃えてきた。
真理ちゃんの恐れの根本的な原因を解け。そうしなければ、この震えは止まらないんだ。望むところだ。私の得意分野だ。私は何度も、真理ちゃんの手を握り返してサインを送った。大丈夫だよと。
茗荷谷は、都内なのに閑静な住宅街だった。昔ながらの細い路地を登ったり、下ったりした。本当に静かな街だ。千葉の田舎者には、都心のど真ん中での生活は想像の彼方だ。近くには筑波大学やお茶の水女子大学や、その付属校まである。そんな街の中に、AAA女子校はあった。他の学校にも引けを取らない、超名門女子校だ。
校門をくぐり、50mくらい先の正面玄関に入った。受付に「柿沢です」と名乗ると、事務員が3階へと案内してくれた。真理ちゃんは約束通り、傷口を覆っているテープをベリベリと剥がした。病院に行ったとき以来に見る傷口は、今でも痛々しく、生々しかった。直視するのが苦しいほど、その傷は激しいものだった。
さあ、この傷の意味を明らかにしろ。この傷を放ったらかしにした、この学校の連中を改心させろ。それが救いなんだ。宗教の力を借りずに、それを成し遂げろ。それが私にできる、ささやかながらまともなことだ。馬鹿げていて、くだらない私の人生にとって。
私たちは、誰もいない教室に案内された。教壇があり、真四角な机が部屋に9つ並んでいた。部屋の端には、イーゼルがたくさん並んでいた。戸棚に、石膏で造られた人の顔や上半身が飾られていた。それで私は、ここが美術室だと理解した。
私たちをこの部屋に案内してくれた女性が、「どうぞ、お好きなところにお座りください」と言った。私たちは、教壇に一番近い机に向かうように座った。
時計を見ると、まだ12時半過ぎだった。ちょっと早すぎた。約束の時間には、ピッタリに現れた方がいい。相手もそれなりに準備があるはずだ。失敗したな。しかし私はそれくらい、前のめりになっていた。
13時10分前になって、ジャージ姿の男たちが三人現れた。彼らは長いテーブルとパイプ椅子を、教室の中へ運びんこんだ。
「こんにちは」と彼らは私に挨拶した。
「こんにちは。お手数をおかけしてすみません。本日は、どうかよろしくお願いいたします」と私は答えた。
長いテーブルは、私と真理ちゃんが座っている机の正面に置かれた。そのテーブルの奥に、パイプ椅子が三つ並べられた。まるで記者会見でもするようだった。
「真理ちゃん、ここは美術室なんだね」と私は彼女に話しかけた。話すことで、少しでも彼女の緊張を解きたかった。
「そうなのー。わかる?」
「だって、後ろにイーゼルがいっぱいあるじゃん」
真理ちゃんは私の左手を握ったままだった。表情は冷静を装っていたが、身体の震えは止まらなかった。
13時5分前になって、先生たちは現れた。六十台の男性が二人、五十代の男性が一人、そして二十代の女性だった。一番年上が、校長先生だろう。二十代の女性は大月先生だ。あとの二人は、学年主任と教頭先生だろうか?
年配の男三人は、目の前の長椅子に座った。大月先生は、私たちから向かって右側の、教室の出口に近い端に椅子を置いて腰掛けた。その彼女の隣にジャージ先生が三人、やはり椅子を持ってきて座った。みんな三十代ぐらいで、スポーツをしている人らしく体格が良かった。ボディガード役かな、と私は思った。きっと、私が暴れたときの保険だろう。私は笑ってしまった。私は拳もカッターナイフも使わない。私は「言葉」だけを使う。それで十分だ。
「早いですが、始めてよろしいですか?」と、長椅子の中央に座った一番年上の男が言った。やはりこの人が、佐々木校長だろう。
「その前に、ご挨拶させてください」と私は言い、集まった先生たち全員に名刺を配った。頭を下げ、一人一人丁寧に挨拶をした。これも私のやり方の一つだ。自分の素性は全て晒す。その方が、あとあと楽なのだ。
挨拶を終えて、私は席に戻った。すぐに真理ちゃんは私の左手を握った。そうせずにはいられないのだろう。おじさんに任せなさい。私は彼女の手を、二回握り直してサインを送った。
「さて、始めましょう」と私はあえて大きな声で言った。イニシアチブは私が取る、という意思表示だ。先生たちが全員、身構えるのを感じた。
「お忙しいのにお時間を取らせてしまって申し訳ありません。しかし、私はこの学校に重大な問題があると思っている。だから、今日ここに来ました」
「あの、重大な問題とは、いったい何でしょう?」と校長先生は私にたずねた。私は右手をあげて、少し待ちなさいというポーズをした。
「順を追って話しましょう。まず私は、今月初めに平松さんと斎藤さんに出会い、以来うちに泊めています。見てすぐ、家出少女だとわかったからです。放っておけませんでした。
一番最初に、大事なことを断っておきます。私は、インポテンツです。ですから、平松さんや斎藤さんと性的な関係を持つことはありません。そのことを、よく理解してください」
これも最初に、晒しておかなければいけないことだ。でないと、私は二人の美しさに狂った中年親父としか先生には見えない。性的な衝動で行動しているわけではないことを、彼らの頭にインプットする。私は話を続けた。
「平松さんと斎藤さんは、七月からこの学校に来ていない。斎藤さんは、退学届も出している。なぜか、ご存知ですよね。平松さんが顔をナイフで切られたからです。おたくの生徒に」
「わ、わかっています。理解しています」と、校長先生は小さな声で答えた。
「それで、警察に通報はしたんですよね?」
美術室全体が、シーンと静まり返った。誰も何も言わなかった。
「田口先生、それから大月先生。警察に通報したんですよね?」私は同じ質問を繰り返した。
「いや、じ、実はしておりません・・・」と校長先生が答えた。彼の声は、さらにか細くなっていた。
「何で!」と私は一段声の大きさを上げて言った。「何でしなかったんですか?」先生たちは、また何も言わなかった。私は、話題を変えた。
「平松さんの顔の傷を、よおく見てください。鼻の脇から、左目の先まで線になった傷をしっかり見てください。病院の先生に診せたら、深さ1cm以上あると言われました。大怪我ですよ。もし手元が狂ったら、目を切って失明していたかもしれない。もっと傷が深かったら、出血多量で死んでいたかもしれない。いいですか。これは傷害事件じゃない。殺人未遂だ。それをこの学校の生徒がやった。それを、あなたたちは黙認した。そういうことですか?」
「あの、該当の生徒には、指導をしております・・・」と田口先生は、答えた。彼の声も弱々しかった。
「ほお、そうですか」と私は言った。そしてすぐ反撃に出た。「あのね、これは殺人未遂だと私は言いましたよね。そんな罪を犯した者が、先生の指導だけで済みますか?済むわけないでしょう。実行犯は警察に連れて行くべきだ。そして法の裁きを受けなければならない。こんな簡単なルールをみなさんは捻じ曲げるんですか?それで良いと、この学校の生徒たちに教えているんですか?」
「いや・・・、その・・・、ううう」
校長先生は、もはやクソの役にも立たない男になってきた。部屋の隅にいる大月先生は、いつのまにか泣き出していた。
「もう一つ、先生たちに聞きたいことがある」と私は言った。「加害者に指導をしたのはわかりました。では、被害者の平松さんには何かされたんですか?」
「あ、あの、平松さんが怪我をされた後、彼女は学校に来なくなってしまったので・・・」と大月先生は泣きながら、しどろもどろで話した。
「当たり前だろう。こんな傷を負わされて、高校三年生の女の子が学校になんか来れるか!」と私は怒鳴った。
「あの、平松さんのご自宅に何度も伺ったんですが・・・。会うことができませんでした」と大月先生は泣きながら、か細い声で答えた。
「あのね、平松さんは傷つけられたショックで、この世界から逃げ出してしまったんです。高校三年生の女の子がこんな怖い思いをしたんだ。当然でしょう。それで、大月さん、あなたは平松さんを探したんですか?」
「・・・」
大月先生は何も言わなかった。探さなかったということだろう。
「大月先生、あなたはまだ若い。問題が起こった時、どんな風に対処すれば良いか、これから覚えてくれればいい。彼女は携帯電話を持っているんだ。警察を通して携帯会社に連絡を取れば、平松さんの居所なんてすぐわかるよ。あなたは平松さんを探し出すべきだったんだ。そして彼女と話すべきだった。私なら絶対そうする」
「いや、私どもの対応に、至らぬ点がございました・・・」と校長先生は言った。
「至らぬ点なんて、生易しい表現じゃないだろう。殺人未遂は警察に通報しない。平松さんに怪我を負わせた少女には、ちょっと話しただけですましてやはり警察に連絡しない。肝心の平松さんは、長期欠席しても放っておく。やってることが無茶苦茶じゃねえか。ここは学校でしょ?生徒を教育する場所でしょ?なのに、こんなデタラメを教えてどうするの?」
大月先生は、さらに声をあげて泣きだした。ジャージ姿の先生が、何とか彼女を慰めようとした。でも、彼にも適切な言葉が出てこないようだった。校長先生は、顔をぐしゃぐしゃに歪めて苦悶の表情をしていた。隣の田口先生ではない六十代の男は、そんな校長先生をやはり困り果てた顔で見つめていた。彼は、校長先生の指示を待っているのだ。こういうやつは、どこにでもいる。自分でものを考えない、決めない。他人に決めさせて、自分のせいにならないようにする。
「それに斎藤さんのこともある」と私は、涼ちゃんの話を持ち出した。「田口先生、平松さんと斎藤さんが恋愛関係にあることはご存知ですよね」
「は、はい。承知してました」突然自分の名を呼ばれて、ビックリしながら彼は答えた。
「それなら、彼女が取った行動も理解できるでしょう?」
「それは、そのう・・・」
「平松さんが怪我を負って、斎藤さんは子供のように泣き続けたそうです。大月先生、あなたは病院にいたから知ってますよね?」
「ふぁ、ふぁい」とまだ泣いている大月先生は、変な喋り方で返事をした。
「なのに学校は、加害者を警察に託そうともしない。斎藤さんは激怒した。そして彼女は、平松さんを傷つけた六人を一人ずつ呼び出してぶん殴ったそうです。そして、退学届を学校に叩きつけた。
校長先生、斎藤さんの退学届を受け取って、平松さんの事件との関連を考えなかったんですか?」
「いやっ、それは・・・」
「考えたんですか?考えなかったんですか?」
「あ、あの、もちろん、それは考えました」と校長先生はやっとという様子で応えた。
「私も、それは考えました」と田口先生も答えた。
「それならば、なぜ本人に退学の意思が本気か確認しないんですか?たった18歳の女の子の、一時的な激情だ。教師として、それを諌めるべきでしょう。なぜそれをしない?授業料は年払いでもらってるから、もういいの?学校にいようがいまいが、関係ないの?」
「いや、退学届には保護者の署名もありましたから・・・」と田口先生は言った。
「あのね、田口さん。斎藤さんのお父さんがどんな方かご存知ですか?」
「はい、わかっています」と彼は言った。
「ご存知なら話は早い。斎藤さんのお父さんはチンピラヤクザです。私は実際にお会いしましたから、間違いありません。ものをまともに考えることはできない方です。
そんな方が署名した退学届は有効ですか?形式的には有効でしょう。でも、斎藤さんの授業料を全額払っているのは、彼女のおじいさんです。斎藤さんのおじいさんがどんな方かもご存知ですか?」
「は、はい、もちろん承知しております」と田口先生は答えた。
「それならせめて、斎藤さんのおじいさんの意思を確認してくださいよ。退学は本気かと。考え直す余地はないのかと。みなさんはそれをするべきだった。でもしなかった。私は斎藤さんのおじいさんともお会いしたので、経緯は知っています」
私はそこで間をおいた。そして、哀願するような声色で彼らに語りかけた。
「ねえ、先生のみなさん。あなたたちは、数ある職業の中から教師を選んだんでしょう?一生子供と向き合って生きようと決めて、実際そうしてきたんでしょう?それなのになぜ、平松さんと斎藤さん、そして平松さんの顔を傷つけた少女たちを放っておいたんだ。このままじゃ、今挙げた全員の心の傷は治らないよ。教師として、何とかしなければと考えないの?それとも、何もできない特別な事情があるの?あるなら、教えてくださいよ?」
誰も何も言わなかった。答えは一つ。学校の保身だ。名門女子高で、いじめによる傷害なんて不祥事はあってはならないのだ。
「わかりました。みなさんが何も言わないのなら、私にも考えがあります」と私は言った。ここからが勝負だ。昨日の夜、練りに練ったプランを披露する。
「私はこの後、平松さんと警察に行きます。彼女の傷の理由を説明し、加害者の少女全員を告訴します。それから、学校が通報義務を怠ったことも伝えます」
美術室に、ピンっと張り詰めた緊張感が走った。しかし、この程度では私は済まさない。
「これが一つ目。二つ目に、この学校の財団と理事長を相手にして、損害賠償請求の訴訟を起こす。まず平松さんの傷に対する損害賠償。それから傷から受けた精神的苦痛に対する慰謝料。最後に、平松さんと斎藤さんが学校からドロップアウトしてしまったことによる逸失利益の請求。これを今晩中に書き上げて、明日東京地方裁判所に提出する」
「そんな・・・、そんな・・・」と校長先生はうめいた。隣の男は、相変わらず校長の顔色を伺っていた。田口学校主任は、下を向いて全て諦めたような様子だった。
「私の父親は弁護士だったんです。私は若い頃、父の代筆で何度も訴状を書いた経験がある。訴えるなんて簡単なんですよ。知り合いの弁護士もたくさんいる。誰かに訴訟代理人を頼む。電話一本で済む」
訴状の話は、本当のことだ。私は父のために、訴状の下書きを何度も書いた。なあに、簡単なことだ。似た事件を見つけて、それに日付と事実関係だけ変えて書き直せばいいだけだ。私の家には、父が遺した裁判種類がどっさり保管してある。その中から、一番今回のケースに近い裁判を見つければいい。そして私は、まだ終わりにするつもりはなかった。
「最後に、週刊文春に連絡を取る。あそこの記者に、今回の事件を話す。記事にしてくれるよう頼む。やつらもバカじゃないから、ちゃんとウラを取るはずだ。校長先生や大月先生や、この学校の生徒たちに彼らは取材をするよ。そして、事実だと確信したところで記事にする。名門女子校で起こった、同性愛がからむいじめ事件、しかも殺人未遂だ。さらに訴訟中でもある。ニュースバリューはあるよ。理事長は、何度も記者会見することになるね。そして、この学校の評判はガタ落ち。来年度の受験生はゼロだ。残念だな」
「くうううう」と校長は、鳥が鳴くような変な声を出した。彼は、脂汗をかいていた。まさに、私はモンスターペアレントだ。私は自分を本当に嫌な男だな、と思った。私は昔から、相手を追い詰めて追い詰めて結論を出してきた。
さて、私は立て続けに三枚カードを切った。一枚目は朝の電話で匂わせていたが。これは取引(Deal)だ。しかし私はまだ、矛を収めるつもりはなかった。
「平松さんを傷つけた六人を、ここに連れてきてください」と私は言った。
「いや、それは・・・」と田口先生がそれは困るという様子で、顔をしかめて言った。
「俺は、彼女たちのために言ってるんだよ!」と私は立ち上がって、バンッと手が痛いくらい思い切り机を叩いた。その音に、その場にいた先生全員がビクッと飛び上がった。
「彼女たちを平松さんに会わせなさい。そして、彼女たちに罪を少しでも償う機会を与えるんです。あなたたちが何もしないなら、私がする。さあ、彼女たちを連れて来なさい。六人全員連れて来なさい」
大月先生がすっと立ち上がった。そして、ジャージ姿の先生たちと小声で相談を始めた。彼ら四人は、校長に断りもせずに美術室を出て行った。
長い沈黙が美術室を包んだ。私は椅子に腰を下ろして、彼女たちが現れるのを待った。真理ちゃんは、私の左手を両手で強く握った。私はまた、大丈夫だというサインを送り返した。
五分くらい待って、先生たちが六人の少女を連れてきた。誰もが下を向いて、怖くてしょうがないという様子だった。彼女たちが大月先生の脇にずらっと並んだ。みんな可愛いらしい、高校三年生の女の子だった。この子たちが、真理ちゃんの顔をカッターナイフで切ったのかよ。嘘だろ?私は信じられなかった。
「こんにちは。柿沢拓郎と申します。平松真理さんと、斎藤涼さんの友人です。年はだいぶ離れてますが」私は立ち上がって、彼女たちに挨拶した。「普段は、会社員をしてます。今日は会社から休暇をもらって、ここに来ています」
少女たちは全員、下を向いていた。私の顔を見ようともしなかった。そして、真理ちゃんのことも見ようとしなかった。その理由はわかる。だから私は次に、こう言った。
「君たち、平松さんの顔の傷を見なさい」
私の言葉に驚いて、二、三人が顔を上げた。顔を上げない子もいた。現実から逃げているのだ。
「全員顔を上げて、平松さんの傷をよく見なさい!」私は大きな声を出した。
全員が真理ちゃんを見た。そして、思い知っただろう。自分たちがしたことの恐ろしさを。真理ちゃんが、立ち上がっている私の左手を握り直した。
「この傷が顔にあることが、どんなにつらいことかわかるよね?わからない人は手を上げて。おじさんが、真理ちゃんと同じ傷をつけてあげるよ」と私は言った。そしてすぐに、「もちろん冗談だよ」と取り消した。
「ねえ君たち。平松さんはね、茗荷谷の駅を降りた時から震え出したんだよ。学校に着いたら、震えはさらに酷くなった。こうやって、私の手を握って恐怖と戦ってるんだよ。その気持ちがわかる?
もう一つ質問しよう。平松さんがガタガタ震えるほど、この学校は恐ろしいところなのかい?君たちは、そんな怖い学校に通っているのかい?」
少女の一人が、我慢できないというように真理ちゃんの足元に駆け寄った。そして、「ごめんなさない、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、・・・」と念仏でも唱えるように小さな声でしゃべり続けた。膝と手を床につけて顔を伏せ、這うような格好で。
他の少女たちも、彼女に続いた。たちまち全員が、真理ちゃんの足元にひざまずいた。一人が泣き出した。すると涙はたちまち全員に伝染した。六人の少女がおいおい、びいびいと泣きながら、「ごめんなさい」と連呼し続けた。「本当は、あなたが好きだったの・・・」と告白する子もいた。この一種異様な光景がしばらく続いた。
「もういいよ」と真理ちゃんは彼女たちに言った。「私も言い過ぎたから・・・。ごめんね」
「ねえ君たち。よく覚えておきなさい。人はたまに、取り返しのつかない間違いを犯してしまうことがある。今回はその典型的な例だ。もう二度とするな。感情的になっても、踏みとどまることを身につけなさい。キリスト教でも、仏教でも、イスラム教でもなんだっていい。宗教の力を借りてでも、自分を律する力を持ちなさい。いいね!」と私は少女たちに言った。彼女たちがどこまで聞いているか、怪しいもんだが。それから、ここが熱心なプロテスタントの学校であることを思い出した。まあ、いいか。
「さあ、君たち。もう教室に帰りなさい。私はまだ、校長先生と話が残っている。君たちは帰りなさい」
大月先生とジャージ姿の先生たちが真理ちゃんのそばに来て、泣き止まない少女たちを一人ずつ立たせた。そして、全員を美術室から外へ連れて行った。
さて、部屋には私と真理ちゃん、そして校長と学年主任、そして何も言わない六十代の男が残された。
「先ほどの話に戻りましょう」と私は言った。「私が考えている案は、さっき披露しました。さて、どうされますか?」
「なんとか・・・。なんとか、お許しを・・・」と校長が言った。あなた時代劇の見過ぎだよ、と私は思った。それじゃ私は、百姓をいじめてる悪代官みたいじゃないか。
「条件があります。それを了承してくれたら、私はさっきお話ししたことを実行しません」
「そ、それは、なんでしょうか・・・?」
「まず一つ目です。平松真理さんの欠席を、すべて出席扱いにしてください」
「ええっ!?」目の前の三人の男たちは、いっせいに驚きの声を上げた。
「それは、それは無理ですよ。いくらなんでも・・・」と田口学年主任が言った。
「無茶なのはわかってますよ。でもね。私はあなたたちの、事件に対する対処を問題にしている。平松さんをすぐに説得して学校に戻し、彼女たちと和解させればよかったんですよ。そうすれば平松さんは、七月からずっと学校を休まずにすんだんだ。それをあなたたちはしなかった。
私が今、和解の機会を作ったでしょう?あなたたちは自分の目でそれを見たでしょう?私にできて、なぜあなたたちにはできないんだ?平松さんの欠席の責任は、すべてあなたたちにある」
三人とも、黙りこくった。私はさっきから黙っている、六十代の男を睨みつけた。私はさっきから、こいつに腹が立って仕方なかった。
「ねえ、あなた」と私はその男の目を見て言った。「あなたの役職は何?」
「教頭です」と彼は答えた。今日彼が発した、初めての言葉だった。
「教頭先生、立場もあるので迂闊なことは言えないのはわかります。だが、こう考えてください。教頭という役職を離れて、一人の教師として平松さんの未来を考えてください。一人の教育者として、何が平松さんに最善かを考えてください」
教頭はやっと自分で考え始めた。うつむき、目の前のテーブルの木目を睨んでいた。
「け、欠席を取り消します」と小さく彼は言った。校長は驚いて、教頭を見た。
「結構です。で、校長。あなたは?」
校長は汗まみれになっていた。それを拭きもせず、彼は考えた。
「平松さんの欠席を取り消します。出席扱いにします」と校長も同意した。
「いや、それは・・・」と学年主任が口を挟んだ。「全然、授業も試験も受けてないんです。それを出席扱いにするのは・・・」私は、まだ彼が喋り終わらないうちに怒鳴りつけた。
「補習でも臨時試験でも、なんでもやればいいでしょう。それぐらいの罪滅ぼしはしなさい。事態を悪化させたのは、明らかにあなた方なんだ。その罪を償えよ」
田口学年主任は、真下を見て黙った。
「これが一つ目の条件。これは、お互いに合意した。二つ目の条件。斎藤涼さんの退学手続きを取り消してください」
「えええっ!?」また、この三人組は大声を出した。私はだんだん、三人が漫才トリオみたいに見えてきた。
「当たり前でしょう。そもそも、平松さんの傷害事件をあなた方がもみ消すから、斎藤さんは退学届を出したんだ。それをわかっていて受理するか?バカじゃないの?俺が斎藤さんの担任だったら、そんな退学届を受け取らないよ。彼女と、とことん話し合うよ。それが教師じゃないの?違う?」
私はだんだん言葉遣いが乱暴になってきた。実際、私は本当にこいつらに頭にきていた。大月先生と、ジャージの三人が美術室に帰ってきた。私はちょうど怒りの頂点に達しているところだった。
「こんな退学届は無効だよ。みんな、あんた方がまいた種なんだよ。自分の罪をはっきり自覚しろよ。あなた方が斎藤さんときちんと話をしていれば、退学なんてならなかったんだよ。それを何も言わずに、ホイホイと受け取って受理しちゃったんでしょ?一体何考えてんの?自分のやったことが分かってんの?あなた教師じゃないの?生徒のことを真剣に考えたことないの?本当にバカなんじゃないの?」
校長、教頭、学年主任の三人は、首を九十度に折り曲げて私が浴びせる大量の言葉に耐えていた。
「もういい!」と私は吐き捨てるように言った。
「条件が飲めないなら、この取引は無しだ。俺は、警察と裁判所と週刊文春に行く。それだけだ。数年は、生徒が集まらないかもしれないよ。校舎はしばらく空っぽだ。それでいいんだね?」
「わ、わかりましたあ」と校長は顔を上げて、悲鳴をあげるように言った。彼の目は空を見ていた。もはや、イカれた老人だった。「斎藤涼さんの退学を取り消します・・・」
「あの、分かってると思うけど、退学を取り消しにして出席扱いにするんだよ。平松さんと同じだよ」
「わかりました・・・」もう、校長は悩む気力も残っていなかった。
「では、こうしましょう。平松真理さんと、斎藤涼さんは来週の月曜日から学校に復帰します。私は今週のうちに、二人の今のアルバイトを辞めることができるようにします。それでいいですね?」
「わかりました」今度は、三人とも次々にそう言った。
「平松さんと斎藤さんの勉強の遅れを取り戻すために、通常授業の後に、補習と期末や中間試験を臨時に行うプログラムを組んでください。そのために追加の授業料が必要なら、喜んで支払います。いいですね」
「わかりました」今度は学年主任が、力強く答えた。この仕事は、彼が調整することになるのだろう。
「さて、私の顔なんてもう、みなさん一秒も見たくないでしょうからこの辺で帰ります。本日は貴重なお時間を下さり、本当にありがとうございました」私は立ち上がって、深々とお辞儀をした。こんなことをしても、さっきの罵詈雑言が取り消せるわけではない。
「最後に一つだけ教えて下さい。この件について揉み消しと箝口令を命じたのは誰ですか?」
「理事長です」と、無抵抗になった校長はすんなり答えた。
「やっぱり」と私は言った。潰すべき虫は、もう一匹いたわけだ。だが、もういいだろう。
「私は何もしませんから、安心して下さいね」そう言って私と真理ちゃんは、校長たちを残して美術室を出た。そしてすぐ真理ちゃんは女子トイレに入り、大切な保護テープを傷の上に貼った。
階段を降りていると、ちょうど休み時間になった。たちまち真理ちゃんを数十人の少女たちが、階段の踊り場で取り囲んだ。私はその場から離れようとしたが、真理ちゃんが私の手を離さなかった。私は少女たちが作った輪の中心で、居心地悪く立っているしかなかった。
「真理ちゃん、真理ちゃん」と少女たちは、興奮気味に騒いだ。きっとみんな、真理ちゃんの友達だろう。彼女の交友関係の広さを象徴する光景だった。
「私、来週から学校に戻るよ」と真理ちゃんは、集まった女の子たちに言った。
「うっそー」
「良かった・・・」
「すっごい、嬉しいよ・・・」
「それから、涼ちゃんも来るよ」と真理ちゃんは付け加えた。
「ええっー」
「嘘でしょ?」
「だって、斎藤退学しちゃったじゃん」
「涼ちゃんの退学は、取り消しになったの。ここにいる拓ちゃんが、校長先生を説得してくれたの」と真理ちゃんは説明した。
「ええええええ!!?」怒号のような唸り声が、廊下中に響き渡った。集まった少女たちが、全員で私を見た。
やめてくれ。私は、こういうのが一番苦手なのだ。大勢の女に人に注目されることに、私は慣れていない。私は苦痛でしょうがなかった。
「この人が、あの拓ちゃん?」と真理ちゃんの友達が、彼女にたずねた。
「そうだよ」と真理ちゃんは、ニコニコしながら答えた。
「へええ・・・!」
「写真と、印象違うね」
私は、グソクムシくん並みの注目を受けた。ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
幸い休み時間が終わってくれた。少女たちは、教室へ帰っていった。私はホッとした。
さて、全ては思い通りになったわけだ。私が立てたプランは、完遂された。
真理ちゃんと手を繋いで校舎を出て、校門に向かった。ジャージ姿や自転車に乗った女の子たちが、次々に私たちを追い抜いていった。これが日常だ。涼ちゃんと真理ちゃんは来週からここに戻れる。
「拓ちゃん、格好よかった」と真理ちゃんは言った。
「あれは汚い大人のやりかただ。真似しちゃダメだよ」と私は答えた。そして、「あとは、涼ちゃんが納得するかが問題だな。彼女に何にも説明してないし」と言った。
「それは大丈夫。私が説得するから。もともと、勢いで学校やめただけだし。あのとき、涼ちゃんは怒り狂って普通じゃなかったから」
私たちは茗荷谷の駅に戻り、電車に乗った。その頃になって、私は猛烈な寂しさに襲われた。
この週末には、二人は家に帰るだろう。涼ちゃんはおじいちゃんの家へ、真理ちゃんはお母さんの家へ。家出は終わりだ。それでいい。それがずっと私が望んでいたことだ。しかし考えれば考えるほど、私は寂しくて堪らなかった。
私の家は、いわばエデンの園だった。涼ちゃんと真理ちゃんがアダムとイブで、私は蛇役だ。私たちは幸福なひと時を過ごした。旧約聖書の蛇は禁断の実を食べさせたが、私は朝昼晩規則正しく食事を用意した。そして二人をそそのかし、厳しいけれど未来のある現実社会へと彼女たちを追い出した。私は、悪くない蛇だった。
だが二人の去ったエデンの園に、蛇は一人残るわけだ。そこはもはや、荒涼とした砂漠と変わらなかった。私はその孤独に耐えられるだろうか?二人のいない生活に、生きる理由を見つけられるだろうか?働く意欲を持てるだろうか?私は、自信がなかった。
黙り込んでいる私の左手を、真理ちゃんは両手で握った。さらに彼女は、私の左腕に自分の腕を絡ませ、頭を私の左肩にのせた。勘のいい女の子だ。本当に。そして彼女は、何も言わなかった。
家に帰り着いたのは、17時だった。すぐに、涼ちゃんが帰って来た。真理ちゃんと一緒に出迎えると、彼女は照れ臭そうに笑った。もう真理ちゃんから、LINEで事情は全部聞いているのだろう。
「涼ちゃんの退学と真理ちゃんの欠席は、全部取り消しにしたから。来週の月曜日から学校に行くんだよ」と私は短く説明した。涼ちゃんは恥ずかしそうに笑ったまま、コックリとうなづいた。
さて、仕事がまだたくさん残っていた。まず私は、涼ちゃんのおじいさんに電話をかけた。出てくれないだろうと予想していたが、ツーコールで彼は出た。私は、手短かに涼ちゃんの退学を取り消しさせたと説明した。
「いったい、どんな魔法を使ったんだ、君は?」とおじいさんは言った。
「いえ、私の正体はたちの悪い建築屋ですから。脅しで白を黒と言いくるめただけです」と私は説明した。
次に真理ちゃんのお母さんに電話をかけた。気が重かったが仕方がない。開店前の忙しい時間ではあった。しかし、彼女は経営者だ。よく考えれば忙しいわけではない。10コールくらいで、彼女は電話に出た。
「また、あんた?」と真理ちゃんのお母さんは言った。私は、真理ちゃんが来週から学校に戻ると告げた。
「あんた、真理と寝たの?」
「いいえ、私は不能です。できません」と私は答えた。前回と同じ問答だった。この人は、それしか興味がないのだろうか?
続いて真理ちゃんと、隣のスーパーに行った。店長に会い、来週から学校に行くのでアルバイトを辞めさせてほしいと頼んだ。急で申し訳ないと、腰を90度に曲げてひたすら謝った。店長は三十代で眼鏡をかけ、えらく太った男だった。彼はシフトに穴が開くことよりも、真理ちゃんが辞めることを心から悲しんだ。わかるよ、私も同じ気持ちだ。
次に家に戻り、今度は涼ちゃんを連れて彼女が働いているコンビニに行った。幸い店長は店にいた。私は事情を説明し、今週いっぱいで辞めることを懸命に詫びた。
「斉藤さんは、退学したんじゃなかったの?」と五十代の恰幅のいい店長は私に質問した。
「いや、それを取り消させたんです。学校に落ち度があるから無効だと。そういって校長を納得させたんです」
「あなた、すごいね・・・」と店長はうなった。
四十代のパートの主婦は、涼ちゃんが辞めると聞いて涙ぐんでいた。彼女と涼ちゃんは抱き合って別れを悲しんだ。
「金曜までは、ちゃんと働きます。でも、来週からは穴を開けてしまいます。本当に申し訳ありません」と私はまた土下座寸前まで腰を折って謝った。
「でも、学校に戻れるんだろ。それが、一番いいことだよ」と店長は言ってくれた。
「私もそう思う。涼ちゃん、ちゃんと勉強するんだよ」と四十代のパートの主婦が言った。みんなに迷惑をかけるけれど、涼ちゃんの学校復帰に賛成してくれた。
家に帰った後、私はキッチンで水餃子を作り始めた。私の最も得意とするメニューだ。私は雑念を全て振り払って、食事を作ることに集中した。
「今日は、食事作るのに時間かかるからね」と、私は涼ちゃんに断った。
「わかった」
涼ちゃんはテーブルの椅子に座って、私が薦めた夏目漱石の「こころ」を読んでいた。
私は二時間かけて水餃子を作り、ビールを持ってソファに座った。すると涼ちゃんは当然のように私に膝に乗り、「こころ」の続きを読んだ。
「ねえ、夏目漱石ってなんでこんな人のこころに刺さるような文章を書けるんだろうね?」と真理ちゃんは言った。私も同じ意見だった。
「夏目漱石はね、友達に宛てた手紙で『幕末の志士と同じ気合いで小説を書く』と言ってるんだよ。つまり、死ぬか生きるか、何が善で何が悪か、命をかけて小説を書くという意味だ。ちょっと大袈裟に聞こえるけど、実際彼の小説は、時代が変わり世界が変わろうと、誰ものこころを刺す力を持っている。世の中がどう変わろうと、人が共通に悩む問題を彼はつかんでいたんだと思う。だから、今読んでも面白いんだ」
彼が晩年突きとめようとしたのは、エゴの問題だ。周囲の人々の思いを無視して、自分のエゴが満足することだけを求める。そしてそのエゴを貫いた結果、脱出不可能な苦しみに陥る。だから「こころ」に出てくる先生は、自ら命を断つ道を選んだ。
私はその解決策を知っている。自分のエゴは、周囲の人々に晒さなければならない。そして周囲の各人の、審判を受けなければならない。そして人々の評価を受けたとき、エゴは自分のものではなくなる。それは修正され、角を削られて丸められ、穏やかな合意が形成される。この面倒で長い過程を経ない思念は、エゴのまま止まり自己の解決不可能な問題となって残る。これは、ヘーゲルがこんこんと主張していることだ。
二人を失いたくないというのは、私のエゴ以外の何物でもない。口に出すのも恥ずかしい話だ。なぜなら今日私は、涼ちゃんと真理ちゃんを社会に戻すために奮闘したのだから。そうしておいて、二人を失いたくないなんて分裂症だ。私は自ら望んで、二人を失った。
真理ちゃんが帰ってきて、いつも通り遅い夕食を食べた。水餃子を、二人とも喜んで食べてくれた。こんなひと時もまもなく終わりなんだ。私は食欲がわかず、無理矢理ご飯を飲み込んだ。
「あの涼ちゃんを好きな子、亜紀ちゃん」と真理ちゃんが涼ちゃんに言った。
「ああ、あの子ね」
「涼ちゃんが来週から学校に来るって聞いたら、目をキラキラさせてたよ」
「参るね」
「アタックしてくるかもよ」と真理ちゃんは、涼ちゃんをからかうように言った。彼女には、絶対的な自信があるのだろう。誰が相手でも、涼ちゃんには自分が一番だと。現実に、真理ちゃんに敵う人はなかなかいないだろう。美しさを脇に置いても、彼女のような人間的魅力を持つ人がこの世にどれだけいるだろう?
私は自分の食事を強制的に食べ、キッチンにさっさと片付けた。それからテーブルに戻り、水を飲んで黙っていた。
「拓ちゃん、お願いがあるんだけど」と涼ちゃんが言った。
「なあに?」と私は答えた。彼女の最後の望みは、なんでも叶えたいと思った。
「今週の土曜に、真理ちゃんの家と私のおじいちゃんの家に車で行ってくれない?」
「なんで?」
「制服と教科書を取ってくるから」
「なんで?」
なんで?私の涼ちゃんの言うことの意味がわからなかった。
「月曜から、ここから学校に行くんだから。制服と教科書がないと困るじゃん」
「へ?!」
私は、事態を理解するのにとても時間を要した。だいぶ経って、ようやく私は彼女の言いたいことがわかった。それは、予想外の申し出だった。
「学校に行くんだから、涼ちゃんはおじいちゃんの家に帰った方が楽じゃないの?真理ちゃんも自分の家に帰った方がいいんじゃないの?」
「帰らないー」と涼ちゃんと真理ちゃんは、二人声をそろえて宣言した。
「私たちは、この家から学校に通うの」と真理ちゃんは言った。
「おいおい、ここは千葉のど田舎だよ。学校まで二時間近くかかるんだよ、毎朝早起きしなきゃいけないよ」と私は、まくし立てた。
「拓ちゃん」と涼ちゃんは静かに言った。「私はあなたと離れない」と彼女は、キッパリと言った。
「私も、拓ちゃんと離れない」と真理ちゃんも言った。「ねえ、料理も覚えるよ。ちゃんと勉強もするよ。だから、ここに居させて」
私はあまりのことに、ただ戸惑って黙っていた。すると涼ちゃんが、いつもの機嫌が悪いときの口調で言った。
「なあに、イヤなの!」
「いやいやいやいや、イヤじゃないよ。全然問題ないよ。ただ、涼ちゃんのおじいちゃんや、真理ちゃんのお母さんになんて説明すればいいか・・・」
私は完全にうろたえて、しどろもどろになった。
「それは拓ちゃんがすることじゃない。私と涼ちゃんが説明する」と真理ちゃんは言った。そして彼女は、テーブルの上で私の右手を自分の両手で握った。すぐに、涼ちゃんも私の左手を握った。
「拓ちゃん、あなたが好き」と真理ちゃんは言った。
「私も、拓ちゃんが好き」と涼ちゃんが言った。
「私たちはここにいたい。拓ちゃんと一緒にいたい。だから、制服と教科書を取りに行くのを手伝って」と真理ちゃんが言った。
「わかった。そうしよう」
私はようやく、それだけ何とか答えた。
電灯を消し、布団にもぐると私は考えこんだ。果たして、これでいいのだろうか?私にとってはこの上ない提案だが、二人にとってはどうだろう?正しい選択だろうか?
涼ちゃんと真理ちゃんの思う通りにすればいい。それが私のたどり着いた結論だった。彼女たちがこの家から学校に通うというなら、それでいいじゃないか。私は何も困らない。
しかし「好き」というのは、不思議な言葉だ。私は十数年ぶりに、人から好きだと言われた気がする。あまりに遠い記憶だ。もちろん二人の「好き」は、恋愛感情ではない。だがそれとは別種の、同じくらい強い思いだと感じた。私はどう振る舞っていいかわからないほど、戸惑い動揺した。いつもの薬を飲んで布団に入っても、全く眠気が起きなかった。
そこへ、例の歌が聴こえてきた。かすかに。ダイニングルームの扉を閉めても聴こえるほど、それは大きな声だった。
まるでべートーヴェンの「歓喜の歌」だ。悪くない。しかし、残念ながら彼の曲にはブルースの翳りやロックン・ロールのビートがない。生きた時代が違うのだから、仕方がないのだが。
「ラッ、ラッ、ラッ、ララー」
かすかなメロディが、私の耳をずっと捉えた。どうせ眠れない。私は布団から起き上がり、小さな電気スタンドの灯りだけ点けた。そして、手もとにあるエレキギターを手に取った。聴こえてくるメロディを、ギターで弾いてみた。
「ラッ、ララー、ララッ、アアッ」
刻々と変化する歌に耳を澄ませ、私はそのメロディをギターに弾いた。しばらく繰り返すと、骨格となるメロディができた。
骨格が出来ると、次はそれに合うコードを探す。普通の人は、一つのメロディに一つのコードがあると思うだろう。だがそれは違う。あるメロディに、いくらでも異なるコードを弾くことが出来る。その無限の可能性から、私は今の気分に一番合うものを選び出す。
「アアッ、アアッ、アッ、アーッ」
現実の歌は、どんどん変化した。私はそれに刺激を受けて、曲を繋いでいった。最初は静かに、そしてサビに向けて徐々に盛り上がっていく。これは、歓びの歌だ。ブルージィーでソウルフルだが。
私はノートPCに電源を入れた。作曲ソフトを起動させ、作り上げたばかりのメロディをPCに打ち込んだ。ギターとPCを繋ぎ、そのメロディを包むコードをアルペジオで弾いた。
アイデアは、続々と湧いてきた。好調なときだ。やがて歌は全く聴こえなくなった。しかしそれが生み出したメロディは、私の目の前にあった。私は曲全体を引っ張るべースラインを考えて弾き、PCに録音した。次に曲の雰囲気を決定するギターのオブリガードを考えてこれも録音した。続いてピアノを考え、ストリングスについて考えた。ドラムのリズムパターンに悩んでいると、外が明るくなってきた。
いかん、寝よう。朝食を作らなくてはならない。涼ちゃんのお弁当も作らなくてはならない。少しでも、寝なくては。
さて、この曲の曲名はどうするか?私は、「歓喜の歌」でいいと思った。べートーヴェンとは全く違うけれど。彼と私は、好みが少し違う。レベルも月とスッポンだけどね。私は自虐的に笑いながら、ようやく眠りについた。
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