第11話 下着
第11話 下着
次の日は生憎の雨だった。朝食を食べた後、二人とまた車で出かけた。下着を買うためだ。千葉駅前にあるタワー型の大型駐車場に車を停めると、千葉そごうへは外に出ずに行ける。この駐車場と千葉そごうは、四階の空中通路でつながっていた。
さて、女性の下着が売っているフロアに着いた。こっから先は、私にとって未知の世界だ、永遠に。私は、下着売り場に近づくつもりはなかった。
「いいかい。俺はここで座って待っているから、新しい下着を選んで。
ルール1。値札は見るな。
ルール2。二人で相談して、お互いが似合うなと思う下着を買うこと。店員の言うことは聞くな。
ルール3。一週間着れるぐらい、沢山買うこと。しょっちゅう洗濯しなくてもいい数を買うこと。いいね」
「ルールが多いなあ」と涼ちゃんが言った。でも、目は笑っていた。
「選び終えたら、俺を呼びにきてね。会計は俺がするから」
私がそう言い終えると、二人は小走りで下着売り場へと向かって走っていった。さあて、何時間かかることやら。私は覚悟を決めた。
トイレの前に、長椅子が三つ並んでいた。開店直後だったので、まだ誰も座っていなかった。私はその一番奥に座り、ノートパソコンを開いた。小説を書いて、時間を潰すためだ。トイレが近いのも助かる。いつまた、腹が痛くなるかわからない。
私は醜いがために、絶望している少年の話の続きを書いた。私の分身である登場人物が彼を慰め、気力を取り戻させようと必死になって説得する。彼は40歳で、その少年が働いているアルバイト先の店長という設定だ。
少年は、容易には納得しない。醜いという問題は、そう簡単に解決できない。だから、私の分身の店長も焦らない。じっくりと時間をかけ、何晩もかけて少年に様々な知識を与えていく。そして最終的に、少年の醜いというコンプレックスを砕く。
涼ちゃんや真理ちゃんには、無縁の悩みだった。だが真理ちゃんには、左眼の下に大きな傷跡がある。同級生がつけた傷が。あれはいつか消えるだろうか?それとも、一生残ってしまうのだろうか?そうならば、整形手術で消せるだろうか?この休みで、真理ちゃんを病院に連れて行こう。インチキ臭い美容クリニックじゃだめだ。歳をとったとき、傷跡の肌が崩れてしまうんじゃ話にならない。
私はしばらくキーボードを叩くのをやめて。真理ちゃんの傷のことを考えた。まずは病院だ。傷のことは、医者じゃなきゃわからない。しばらくして、私はまた小説に戻ることにした。
店長は、少年にいろんな話をする。戦争のこと。イデオロギーのこと。美とは何か、恋とは何かということ。エロティシズムのこと。性的な暴力のこと。そして時間とは何かについて。実に様々なことを教える。自分の持つ知識を総動員して、私は少年を救おうと努力した。しかし頑なな彼の心は、なかなか晴れない。当然だ。醜いとは、それほどつらいことだから。
ふと私は時計を見た。もう11時半だった。想定通りであるが、やはり長い。私が服を買うときは、5分かからない。店に入ってぱっと見で気に入ったものを手に取り、すぐレジに出す。選ぶより、包装したり会計をする時間の方が長いくらいだ。まあ、私が極端過ぎるだろうけど。
私は小説の続きへ戻った。そして「美は恐ろしい」と書いた。普通の人なら、こんなことは書かないだろう。だが、「美」は恐ろしい魔力を持っている。人は「美」のために、ほかの全てを簡単に捨ててしまう。その証拠は、小説や映画やテレビドラマを見れば、いくらでも転がっているだろう。あるいは、J−POPや演歌を聞いてもわかるだろう。自分の美の象徵である恋人を得るためなら、人はこれまでの人生で築いてきた全てを捨てることがある。奥さん、旦那さん、子供、仕事、友人、財産まで。なぜそんなことをするのか。それは、それが「正しい」ことだからだ。彼または彼女は、恋人のために全てを捨てることが正しいと直感する。この直感は一度訪れると、その確信は容易に揺るがない。だから「美は恐ろしい」。
私は、涼ちゃんと真理ちゃんのことを考えた。二人は、お互いの美に惹かれあっているのは間違いない。だが美は、時間が経つとともに錆びていく。腐食していく。「正しい」という直感は、いつのまにか薄れていく。その時、どうするかだ。二人の関係を、これまでと違った形に編み直さないと維持できないだろう。
明らかに、余計なお世話だ。二人の関係をどう維持するかは、涼ちゃんと真理ちゃんが考えることであって私が悩む話ではない。
私は小説に書いた。「美は、挫折を伴う」。要するに失恋だ。誰しもが、この苦しみを味わうことになる。よく考えると美は、幸福とかたく結びついていることに気づく。美しい人と結ばれ、美しい家に住み、美しい家具で部屋を飾り立て、美しい食事をし、美しい車を買う。やがて、美しい子供に恵まれ、美しい学校にその子を通わせる。人はこれを、幸福な人生と呼ぶだろう。なぜだろうか?その理由は、大勢の人々の賞賛を受けるからだ。誰も褒めてくれなかったら、彼らは人生を考え直すだろう。幸福であるためには、周囲の人々の賞賛を必要とする。
しかし、もしどんな美にも触れることができないとしたら?醜いために、失恋して挫折してばかりだとしたら?それを繰り返して、もはや美を手に入れることも、周囲の賞賛も諦めるしかないという境地に至ったとしたら?その人はどうすればいい?この問題に答えを出すことが、この小説の目的だった。
物騒な小説を書いている私をまったく知らない二人は、ついに欲しい下着を決めたと私に知らせに来た。店の配慮か、レジに行くとすでに二人の新しい下着は綺麗に袋に詰められていた。これで私が金を持ってなかったらどうするんだろう?
まあまあの値段だった。でも、ユニクロに毛が生えた程度だ。値札は見るなと言ったのに、彼女たちは私に気を使ったに違いない。まあ、気に入った下着であればいくらでもいいだろう。
下着を二袋抱えて、私は千葉そごうの食堂街に行った。「何が食べたい?」と二人に聞くと「和食がいい」という答えが返ってきた。私たちは蕎麦屋に入った。
「ねえ」と、私は二人に話しかけた。「ちょっとした縁で千葉に住むことになっちゃったけど、ここでの暮らしはどう?」
「すごくいいよ」と涼ちゃんが答えた。「静かだし、落ち着く。都内にいると、24時間起きてる気分になる」
「海が近いのがいい!」と真理ちゃんが言った。彼女はよほどプライベートビーチが気に入ったのだろう。
「涼ちゃんが成城で、真理ちゃんが江戸川だったよね」
「私の場合、成城より目黒かな。中学に入ってから高校まで、おじいちゃん家から学校に行ってたから」
AAA女子校は、茗荷谷にあった。二人の生活圏は、これまで都心のど真ん中だったことになる。涼ちゃんの言う通り、東京は24時間活動している街だ。千葉だけでなく、埼玉だって、神奈川だって、茨城だって住宅街は夜は寝静まる。真夜中に走り回るトラックを除けば、物音はほどんどない。彼女たちにとって、ここは異質な世界なんだろう。
私は二人に、学校に戻りたいかたずねようと考えた。だがやめた。二人の心の傷に、触れてしまう可能性がある。彼女たちが、私に話す気になった時でいい。時間は確かに刻一刻と過ぎていったが、もっと大事なことがある。守らなければならないルールがある。私は自分の胸にある疑問を、すべて押し殺した。
食事を終えた後、千葉そごうを出てまたマツモトキヨシに二人を連れていった。幸い雨はもう上がっていた。
「化粧品でなくなってきたものがあったら、また買うんだよ。それだけじゃなくて、他にも必要なものも買って」
「他って?」と涼ちゃんが聞いた。
「例えばシャンプーとかリンスとか、フェイスウォッシュとかボディシャンプーとか、歯磨き粉とか歯ブラシとか、デオドラントとか芳香剤とか、それだけじゃなくいろいろ女の子に必要なものがあるでしょ。男にはわからない買い物が、きっとたくさんあると思うんだ。それを買ってね」
「要は、生理用品も買っとけって言いたいんでしょ」と涼ちゃんが言った。彼女は笑顔で、堂々としていた。
「わかった。生理用品もしっかり買うよ」と真理ちゃんが言った。二人はもう、私に恥ずかしがらなかった。私はドギマギした。しかし、遠慮しているのは私だけだった。
マツモトキヨシでの買い物を終えると、残った問題は真理ちゃんの冬の衣装だった。店選びは二人に任せた。そもそも、私にわかるわけがない。
「真理ちゃんの服を買おうよ」と私が言うと、待ってましたとばかりに二人は歩き出した。もう事前調査は済んでいたようだ。もともと二週間前から買おうと言ってたし。私は両手に下着の入った袋と、マツモトキヨシのビニール袋を下げて二人についていった。
千葉駅を遠く離れ、大通りも外れた狭い通りに目的の店はあった。小さな店だったが、店の前にいかにもという洋服がたくさん並んでいた。真理ちゃん好みの服の、専門店だった。とても私が中に入れる店じゃない。私は外に立って、彼女たちを待つことにした。
「一着だけじゃなくて、冬を越せるくらいたくさん買うんだよ」
「わかってる。でも、お金は働いて必ず返すよ」と真理ちゃんは言った。それを聞いて、私は複雑な気持ちだった。
他に何もすることがないので、私は店の軒下に飾られた洋服たちをしげしげと眺めた。そして、共通項がいくつかあることに気がついた。原色。巨大な襟。リボン。フリル。そしてAラインの膨らんだスカート。スカートの丈は短過ぎず、長過ぎずちょうど膝くらいだ。
暇なので私は、iPadでこのファッションを調べてみた。「ゴシック・アンド・ロリータ」、通称ゴスロリが一番近いらしい。でも、真理ちゃんが着ている服とはちょっと違う気がした。ゴスロリは、圧倒的に黒が多い。でも真理ちゃんは、黒の服は一着も持っていなかった。店員に聞けば、店の方針はすぐわかるだろうが、恥ずかしいのでやめた。48歳の中年親父に、商品のことをたずねられても店員に不審な目で見られるだけだ。
私は服のことを考えるのはやめにして、今作っている曲の歌詞を練ることにした。自分の子供を殺してしまった、かわいそうなお母さんの歌だ。
「披露宴に招かれてる それなのにあなたは着ていく服がない」
この曲は、この歌詞で始まる。彼女が裕福な生活を送っていないことを暗示する歌詞だ。
「最後に彼と話したのは いつだったかあなたは思い出せない」
次の歌詞で、彼女が彼とも上手くいっていないことを歌う。そしてサビは、こうだ。
「誰か(助けて)」
「助けて」は歌わない。「誰か」だけ歌う。その呼びかけに「助けて」という意味が含まれている。この曲の歌詞は、比較的スルスルとできた。問題は大サビだった。
この彼女は、鬱屈した感情を自分の子供にぶつけて殺してしまう、衝動的に。私はこの歌詞を、実際に起きた事件を参考にして作った。
彼女は殺人犯だ。それに異論はない。しかし、刑務所で刑期を務めれば彼女は救われるだろうか?そんなことはない。彼女は社会復帰しても、自分の子供を殺したという十字架を背負って生きるだろう。私は、そんな彼女を救う言葉を生み出したかった。それを大サビにのせたかった。
答えは、夏目漱石から借りた。彼はあるところでこう言っている。「ある罪について、『なるほど。そういう動機で罪を犯したのか。それなら理解できる』と誰もが納得できたら、その罪は消えてなくなる」と。とても引っかかる言葉だ。常識的じゃない。だが、「こころ」に代表されるように、自分のエゴのせいで犯した罪に一生苦しむ人間を、くどいほど描いた小説家の言葉だ。
彼は自分の小説で、罪が消える場面を描くことはなかった。だがもっと長生きしたら、そんな作品を描いたかもしれない。彼が亡くなったのは、49歳。私の一つ年上でしかない。私の人生も、残り少ないということだ。
「僕らが本当にあなたを理解できたら 消えるんだ あなたの犯した罪が」
これが私の作った歌詞だ。夏目漱石のまるパクリだ。しかしいいのか、こんなことを言って。ううん、と悩んでいると涼ちゃんが私を呼びに店から出てきた。
「ねえ、真理ちゃんの選んだ服を見てあげて」
私は涼ちゃんと一緒に、狭い店の奥へと入った。そして試着室の前に立っている真理ちゃんを見た。彼女は、薄い黄色というかベージュのような色の洋服を着ていた。
「いいじゃん」
私は感じたことを、そのまま口にした。真理ちゃんは両手を斜めに広げ、膝を少し曲げて「どうだ」という表情をした。
「センスいいよ。いいと思う」と私は付け加えた。この原色の服だらけの店から、よくこんな微妙な色合いの服を見つけたものだ。私は感心した。
真理ちゃんはすぐに試着室に入り、中でごそごそと着替えを始めた。そして今度は、淡いブルーのワンピースを着て出てきた。今度も特殊な色の服だった。水色ではない。でも、ブルーよりはずっと薄い。そして今度は襟に大きなリボンがついていた。彼女らしい服だった。
「今度もいいと思う。すごく綺麗な色だ」
「そうでしょ?」と涼ちゃんが言った。彼女も気に入っているのだ。
そんな真理ちゃんのファッションショウが、しばらく続いた。すべて文句なしだった。というか、真理ちゃんが着たら何でも良く見えてしまうのかもしれないが。
かくして、真理ちゃんの暖かい洋服を買うというミッションは完了した。二人が下着の入った袋を持ち、私が真理ちゃんの洋服が入った袋とマツモトキヨシのビニール袋を持った。10月の終わりは、もう日が短い。私たちは満足して家に帰った。
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