第10話 長期休暇

第10話 長期休暇


私の会社では、管理職は毎年強制的に連続10日休むルールとなっている。その理由は第一に、部下に仕事を任せているかチェックするためだ。自分で仕事を抱え込んでいると、この10日間で破綻することになる。そしてその年の評価は最低となり、ガクンと給料が下げられる。

それから第二の理由は、不正の発見である。10日も休んでいると、社内か取引先のどちらかからボロが出る。実際この制度のおかげで、いくつかの不正事件が発覚した。悪質なリベートを受け取っていた奴は、懲戒免職になった。

しかしもう部下を持たない私は、この制度に無関係だった。むしろ若者の部下のような仕事をしているのだ。私は対象から外すべきだろう。しかし休んでいいと言うのなら、こちらも断る理由はない。

私はこの休みを、毎年登山に使っていた。晩秋の北アルプスや南アルプスを、一人でゆっくり何日もかけて縦走した。私は基本的に、孤独な人間だった。

しかし今年は違う。どこかに出掛けている場合ではない。私は二人のために、毎日栄養バランスの取れた食事を作る必要があった。テレビとダブルベッドの問題も、答えを出さなければならない。部屋だって、女の子らしい飾り付けに変えないといけない。壁にAKBのポスターを貼ってもいいし、あるいはハートマークを貼っても良かった。

それから私は、もっと実際的な問題について考えた。まず掛け布団を、もっと厚いものに替えないといけない。真理ちゃんの冬物の可愛い衣装を買わないといけないし、涼ちゃんにも本格的な冬に備えた服を買わないといけない。

それから、化粧品は大丈夫だろうか?もう足りないものが、出てはいないだろうか?シャンプーやボディーソープは大丈夫だろうか?歯ブラシは、ボロボロになっていないだろうか?考えるべきことは山ほどあった。

そして何より、二人を前に進ませなければならかった。私の家には、何もない。私といても、どこにもいけない。二人はいつか、私の家を出て行かなくてはならない。私はこの休暇を使って、この問題を大きく前進させたかった。

そう思いながら、私はたまらない寂しさを覚えた。片方でうつ病の症状が生じるほどプレッシャーを受けながら、もう片方で私は幸福を覚えていた。二人のいない生活なんて、恐ろしくて考えたくもなかった。私の心は、完全に分裂した。私は涼ちゃんと真理ちゃんの魅力に、完全に参っていた。二人を失いたくないと、本気で思った。しかしそれでは、二人のためにならない。私は涙を飲んで、二人と別れる道を探す気だった。

 

その週の土曜日は、車でいったん銚子まで行き、車を駐車場に停めてわざわざ銚子電鉄にわ乗った。このあまりにレトロな電車に、二人は驚いて大はしゃぎだった。私の狙い通りだ。終点の銚子駅でお土産屋に寄ると、涼ちゃんと真理ちゃんは貝殻で作った小物を買った。部屋に飾るつもりなのだろう。これで元私の部屋が、少しだけ女の子らしくなるのかな。

もう一度銚子電鉄に乗って引き返して、車に戻った。私は次に、ウォッセ21という海産物直売店に行った。ここは巨大なお店で、今日の朝採れた魚介類をたくさん売っている。私はそれらを大量に買い込んだ。こいつを材料に、今夜はシーフードカレーを作る。それから私は、日持ちする干物もたくさん買った。

 ウォッせ21を出ると、九十九里海岸に沿う道をひたすら突っ走った。国道からは残念ながら海は見えない。だから私は時々道を左に曲がって、休憩がてら海岸まで行って車を停めた。どの海岸も、サーファーばかりだった。波打ち際に立って、自分の彼氏を見守る女の子たちもチラホラ見えた。彼女たちは自分は何もしないで、つまらなくないのかなと私は思った。

「すっごい。ずっと砂浜なんだね」と、真理ちゃんが言った。

「そうだよ。ここはずっと砂浜が続くんだ」

「うわー、先が見えない」と涼ちゃんが言った。

「真夏なら、ここの海水浴は最高だよ。ずっと砂浜だからさ、あんまり混まないんだよ」と私は教えた。でも、今はもう10月の終わりだった。サーファーの他に、海岸は誰もいなかった。そして二人の家出は、四か月になろうとしていた。

私はさらに南下し、長い長い砂浜の終わりにたどり着いた。ここからは海岸は一変して、荒々しい岩場になる。その隙間に、狭くて小さいけれど素敵な砂浜があるのだ。

私はあるところで、国道を左に曲がった。森の中を進み、その途中で車を道の脇に停めた。

「ねえ、拓ちゃん。どこに行くの?」と真理ちゃんが、ワクワクした様子で私に聞いた。彼女ももう、だいたい予想はついているのだろう。

「もちろん綺麗なところだよ」

ここで、先週使った登山靴の出番だ。私は二人に、靴を履き替えさせた。そして、雑草をかき分け、隠された小さな小道へ二人を連れて行った。その小道を20mも進むと、トンネルが現れる。先の見えない真っ暗闇のトンネルだ。

「ここを通るよ」と私は言った。

「ヤダあ、何にも見えないー」

 真理ちゃんは涼ちゃんにしがみついた。涼ちゃんも、「拓ちゃん、怖いよ・・・」と私に不安を訴えた。

「いいから、いいから」と言って私は涼ちゃんの手を握り、暗闇のトンネルに入った。二人は仕方なく私に着いてきた。トンネルの中を30mくらい進むと、出口の明かりが見えてくる。トンネルの出口に、日差しが差し込んでいるのだ。私たちは小走りで、その出口に向かった。すると目の前に、小さいけれど美しい砂浜が見えた。

「すごい・・・!」

「めっちゃ綺麗・・・!」

 トンネルの出口は、2、3mくらいの崖になっている。私は先にトンネルを出て砂浜に下り、二人に手を貸して崖から下りるのを手伝った。そして私たち三人は、自分たちだけで独り占めの砂浜に下り立った。

 ここはもちろん、二週間前の砂浜とは別の場所だ。房総半島には、こういう場所がいくらでもある。だがここは、私が大学生の頃からお気に入りの砂浜だった。

「さあて、お昼にしようぜ」と私は言った。時計を見ると、13時を回っていた。少し遅い昼食だ。私は二人のために、朝サンドウィッチをたくさん作ってきた。玉子サンド、ハムサンド、野菜サンド、カツサンド、コロッケサンド、フルーツサンド。六枚切りの食パンを三つ使って作った。食べきれないくらいの量だが、贅沢なムードを二人に味わって欲しかった。

 私は砂浜にレジャーシートを敷き、四隅に砂をかけた。そこに砂の小山を作り、レジャーシートが風で飛ばないようにするのだ。この作業に二人も大喜びで手伝ってくれた。飲み物は、ホットの紅茶を入れたものと、レモンを絞った冷たい水の二つ。両方とも保温性のボトルに入れて用意した。完璧だろう。

「俺は運転に疲れたから、1時間くらい車で寝てるからね」

 そう言って私は、トンネルの中へ戻った。二人だけの時間を作りたかった。二人は私の前では、絶対にキスをしない。抱き合う姿すら見せなかった。目黒駅のホームでは、一目もはばからずキスしていたのに。私に見られるのは、なぜだか恥ずかしいのだろう。夜の声で、あんなに過敏に反応したのだ。もしかすると、真理ちゃんは別に良いのかもしれない。あの性格だから。涼ちゃんが嫌なのだろう。真っ暗闇のトンネルを歩きながら、そんなことを考えた。

 車に着くとドアに座り、サンドウィッチを食べようかと考えた。しかし、やめることにした。また腹痛に襲われるかもしれない。運転中で、しかも渋滞中だったら悲劇だ。涼ちゃんと真理ちゃんに、とんでもない醜態を晒すことになりかねない。私は昼飯を抜くことにした。

 そもそも私にとって、食事は作業でしかない。毎日こなさなければならないタスクでしかなかった。歯磨きや風呂と同じだ。上手くても不味くても、どうでも良かった。もし独りでこのルートをドライブをしたなら、私は家に帰るまで食事をしないだろう。自分のためにサンドウィッチを作るなんて、思いつきもしない。

 私は運転席のシートを倒して、しばらく仮眠を取ることにした。今なら眠れそうな気がした。昨夜も半覚醒して、起きているような寝ているような状態だった。本当に眠れたのは、二時間くらいだと思う。

 とにかく、運転して疲れたし眠ることにしよう。そして1時間くらい、涼ちゃんと真理ちゃんに二人きりのプライベートビーチを楽しんでもらえばそれで満足だ。私のいないところで、好きなだけキスをすればいい。自分の役割を果たしたことに満足して、私は最近では珍しくすぐ眠りに落ちた。


 ドンドンっとウィンドウを叩く音で、私は目を覚ました。車の外に、真理ちゃんと涼ちゃんが立っていた。時計を見ると、30分も経っていなかった。おいおい、せっかく二人の時間を作ったのに何だよと私は思った。運転席のドアを開けると、真理ちゃんが興奮気味に言った。

「すっごい綺麗なの。拓ちゃんも来て、来て」

「本当だよ。すごいんだから」と涼ちゃんも言った。

 私は、世のお父さんの苦労を知ることになった。私は今眠いのだ。やっと眠れたんだ。静かに眠らせてくれよ、と思った。しかし仕方がない。私は二人と小道を抜け、トンネルに戻った。出口の崖を、二人はピョンピョンと跳ねて軽く砂浜に下りた。私の出番はなかった。二人は砂浜を左に進み、端にある岩場へと私を連れていった。

 そこには10m四方くらいの平らな岩場があり、その真ん中に直径5mくらいの大きな潮だまりがあった。今は干潮だった。その中には潮が引いて取り残された、無数の魚やカニやエビやナマコやウミウシたちがいた。魚は小魚から、大きなものは20cmくらいのものもいた。まさに、天然の水族館だった。私たちはしばらく、その潮だまりの中で彼らが織り成すショウに見入った。

「魚、捕まえられるかな?」と真理ちゃんが言った。

「うーん、どうだろうね」と私は答えた。

 魚たちは、その岩礁に取り残された潮だまりの中をビュンビュンと猛スピードで泳いでいた。私は子供の頃、こういう場所で飽きることなく遊んだものだ。その記憶を思い起こして、私は泳ぐ魚を目で追った。そして、今だという瞬間で海水に手を突っ込んだ。幸いなことに、一発で私は小魚を握って捕まえた。

「すっごーい」と真理ちゃんが歓声を上げた。

「拓ちゃん、すごい」と涼ちゃんは、真理ちゃんよりやや冷静な言い方で私を賞賛した。

「ねえ、その魚食べる?」と真理ちゃんが私に聞いた。

「うーん、食べても美味しい魚じゃないと思うよ。それにこいつらは、干潮でここに取り残されちゃった奴らなんだ。海に返してやろうぜ」

 私はその岩礁を歩いて海のそばに近づき、手に握った小魚を海に向かって放り投げた。彼は海に戻ると、スイスイと泳いで離れて行きやがて見えなくなった。

「私も、そうする!」真理ちゃんは大声で宣言した。彼女は靴と靴下を脱ぎ、スカートをこれでもかというくらいめくり上げた。そしてその裾を太ももの付け根できつく縛って、落ちないようにした。それから彼女は、その潮だまりの中にジャブジャブと入っていった。

 その潮だまりは結構深かった。真理ちゃんは、太ももの真ん中まで水に浸かっていた。その様子を見て、涼ちゃんはしばらく思案していた。今日の彼女は、いつもの黒いジーンズを履いていた。ジーンズの裾をまくっても、海水に濡れるのは真理ちゃんの様子で明らかだった。考えたあげく、涼ちゃんはジーンズを脱いでしまった。上に着た薄手のセーターの裾が、かろうじて彼女の下半身を隠していた。

 こうして私たちの、魚救出作戦は開始された。とは言っても満潮になれば、この潮だまりはまた海に飲まれる。だから魚たちにとって、私たちのしていることは余計なお世話でしかなかった。だがそれを子供に言っても、せっかくのムードをぶち壊しにするだけだ。私は二人に従うことにした。童心に戻って、楽しめばいい。

 この遊びに、涼ちゃんは圧倒的な才能を発揮した。次々と魚を捕まえ、海に逃がしてやった。私は潮だまりに入らず、自分のすぐそばに来た魚だけを捕まえた。

 対して真理ちゃんは、全然ダメだった。めくったスカートが濡れるまで水に浸かって魚を追うのだが、さっぱり捕まえられなかった。うーん、運動神経の差だ。別に悪いことじゃないのだが、涼ちゃんと私が魚をドンドン捕まえている横で、彼女だけ潮だまりの魚と格闘していた。真理ちゃん、早く魚を捕まえてくれ。私は心底願った。涼ちゃんも同じ気持ちだったと思う。

「やったー」

 とうとう真理ちゃんが魚を捕まえた。それも、15cmくらいの大物だ。きっと、小魚より動きがノロかったんだと思う。得意気に魚を手にしている真理ちゃんを、涼ちゃんがiPhoneで何枚も写真に撮った。これも、おじいちゃんとおばあちゃんに送るのかな。

「海に逃がしてあげるんだよ」と私は言った。

「うんっ!」と言って真理ちゃんは裸足で岩礁に上がり、波打ち際へと向かった。いつのまにか彼女はさらにスカートをまくり上げ、もう下着が丸見えだった。まあ、いいか。誰も見てないんだし。

 下着か、と私は思った。下着も新しいのを買わなくてはいけないんじゃないか?私は女性の下着に興味を持たないが、安いのから高いのまであることぐらいは分かる。真理ちゃんが履いている下着は、明らかに安物に見えた。何回も洗濯して、へたってきているようにすら見えた。それなら明日は、下着を買いに行こう。

 しかし、一人はパンツ丸見え、もう一人はジーンズを脱いで下着姿だ。まるで小学校の低学年の子みたいだった。もしここに男がいたら、女子高生二人のセクシーな格好に大興奮することだろう。幸いこの浜辺に、男はいなかった。私を含めて。涼ちゃんと真理ちゃんは、何も気にせずに魚捕りに熱中した。

 ふと私は、この二人は子供の頃こんな遊びをしてないのかもしれないなと思った。ごく普通の子供が、当たり前にする遊びを経験していないのかもしれない。そう想像して私は、たまらなく切ない気分になった。取り返さなくてはいけないな。無邪気な心を。私はさらに精を出して、魚を捕まえた。

 一時間くらいで、その水たまりから5cm以上の魚はいなくなった。みんな大海原に還ったわけだ。おそらく70%は、涼ちゃんの活躍のおかげだった。私が25%、真理ちゃんは5%くらいか。

「さて、救出作戦終了だ」と私は言った。

「うんっ!楽しかったあ」と一番貢献度の低い真理ちゃんが言った。彼女が喜んでくれて、私もいい気分だった。

 二人は洋服を直し、レジャーシートを敷いた砂浜に戻った。私はまた車に戻ろうとしたが、二人に止められた。私たちはレジャーシートに腰を下ろし、巨大な太平洋を眺めながら、サンドウィッチの残りを食べた。と言っても、私は一つも食べなかった。しかし二人は食欲旺盛だった。涼ちゃんと真理ちゃんは、大量のサンドウィッチを全部食べてしまった。

「全部食べちゃったの?」

「うん」

「すごい、美味しかった」

 美味しいと評価されて、私は嬉しかった。魚捕りで、体力を使ったからお腹が空いたのかもしれない。私たちはしばらく黙って、ただ海を眺めていた。海というものは不思議だ。いくら見ても飽きない。私たちはそのまま、ボケっと打ち寄せる波を眺めて30分くらい過ごした。誰も何も言わなかった。

 

 さて私たちは、今日も渋滞を嫌って早々に帰ることにした。涼ちゃんと真理ちゃんは、今日も交代で助手席に座った。帰りの一番手は、真理ちゃんだった。

「私の家は、居酒屋なの」と真理ちゃんは、出発するとすぐに話し始めた。「ママが経営してて、毎日繁盛してるの」

 私は、真理ちゃんのお母さんが「忙しい」と何度も言ったことを思い出した。夕方だったから、開店直前に私は彼女に電話したわけだ。悪いことをした。

「小さい頃は、居酒屋の中が私のお遊び場だったの。お客さんたちがたくさん座っている横で、床におもちゃ広げて遊んでた。家に一人でいても寂しかったから」

「そうだったんだ」

「でもね、小学生の真ん中くらいになって気がついたの」

「どんなことに?」

「お客さんたちが、私のパンツを覗いていることに」

 はああっと、私は深いため息をついた。真理ちゃんのことだから、その頃すでに相当な美少女だっただろう。その子のパンツを覗いて喜ぶ酔客。私は男の醜さに、ただただやるせなさを感じた。

「だから居酒屋で遊ぶのはやめた。寂しいけど、家でテレビばっかり見てた」と真理ちゃんは言った。

「そりゃそうだよな。そんな馬鹿どものいる場所で遊べないよな」と私は同意した。

「拓ちゃん」

「なあに?」

「私、男の人がダメなの。小さい頃から」

「うん」

「幼稚園の時から、好きになるのは女の子だった。小学校に入っても、それは変わらなかった。私が好きになるのは、そのクラスで一番綺麗な女の子。男の子を好きになったことは一度もない」

「昔から、綺麗な女の子が好きだったんだね。涼ちゃんみたいな」

「そうだね」と言って、真理ちゃんは少し笑った。そして話の続きをした。

「小学校の頃、よく女の子で集まって自分の好きな男の子を言い合うの。私はあれが、嫌で嫌でしょうがなかった。みんな、クラスの一番格好いい男の子の名前をあげるでしょ。私だけ、自分が本当に好きな女の子の名前を言うわけにいかないでしょ。だから、みんなの真似をしておんなじ男の子が好きだって言って切り抜けてた」

「なるほどね。そういう時に苦労するんだ」

 真理ちゃんは、本当に小さい頃から自分がレズビアンであることを自覚していた。それに気がついて、どれほど孤独な思いをしたことだろう。まず自分と女友達の間にある、深い深い溝を思い知ったろう。そしてさらに重要だが、真理ちゃんは自分の好きな女の子が、別の男の子が好きだという事実を認めねばならない。真理ちゃんが、その女の子と幸せな関係を築く可能性はゼロだった。幼い真理ちゃんが、どれだけつらく、寂しく、苦しい思いをしたか。真理ちゃんと一月近く生活を共にしながら、私はそこまで深く考えたことはなかった。まったく48歳にもなって、俺は何もわかってないなと私は思った。

「小学校の五、六年生になったらね、男の子から『告白』されるようになったの。それも何人も。あれは本当に困っちゃった」

 まあ、真理ちゃんなら当然だよな。続々と、男たちが寄ってくるだろう。真理ちゃんは、洋服の趣味を抜きにしても、いわゆる『お姫様』のような女の子だった。体型も女性らしく、そして何より人を一発で虜にするような、幸福そうで母性の象徴のような笑顔を持っていた。私だって真理ちゃんと同じクラスにいたら、彼女を好きになるだろう。

「でもダメなの。男の子と話すくらいならいいけど、二人でどこかに遊びに行くなんて考えられなかった。だって、ちっとも楽しく思えないんだもん。私は、女の子と遊んでいれば、それで十分満足だった」

「そりゃ、そうだよね」

「そしたらね、その頃仲のいい女の子たちでFacebookをやってんだけど、私の悪口が書かれるようになったの」

「何で?」

「うーん、私が男の子を振ったからだと思う、多分」

 嫉妬がひっくり返った感情か、あるいは真理ちゃんに対する反感なのか。小学生の女の子がすることだから、私にはわからないけれど。とにかく真理ちゃんは、クラスで孤立していったわけだ。私は隣に座っている小さな女の子に、心から同情した。そして驚いた。小さい時にそんなつらい経験をしながら、どうしてこんな大らかな性格に成長できたんだろう?私には、巨大な謎だった。

「私も何もかも嫌になって、六年生になってしょっちゅう学校を休んだの。『お腹が痛い』とか、『頭が痛い』とか仮病を使って」

「学校に行くのが、嫌になっちゃったんだ」

「うん、そう」と真理ちゃんは言った。「でもね、学校休んで一生懸命勉強してた」

「何で?」

「今の学校に入りたかったから。女子校だし、中高一貫だし、制服もすごく可愛かった。小学校のクラスメイトなんか全部捨てて、その学校に行きたかったの」

 また胸の苦しくなる話だ。真理ちゃんは12才にして、全てを捨ててしまったのか。つくづくこの世は厳しい場所だ。彼女のこれまでの苦労に比べたら、私の人生のそれなんて全然大したことがない。48年間も、極めて平和に暮らしてきた気がした。

「ママは私がその学校を受けたいって言ったら、ものすごく嫌な顔してた。授業料が高いのが、最大の問題だったの。私は『大人になったら、働いて全部返すから受験させて』って何度も頼んだの。何回も大泣きして頼んだ。そしたらついにママも許してくれた。中学受験用の参考書も買ってくれた」

「それで、見事合格したんだ」

「そう、超嬉しかった・・・」隣の真理ちゃんは、そう言ってしばらく黙った。合格した時の喜びを思い出して、もう一度噛み締めているようだった。

「女の子しかいない学校は、ほんと居心地が良かった。私ね、六年生ぐらいの頃から、クラスの男の子にジロジロ見られるようになったの」

「ジロジロって?」

「あのね、足の先から頭のてっぺんまで全部見られるような、いやーな目。私はそれも嫌でしょうがなかった。だから女子校に入って、その嫌な思いもせずにすんで、ほんとせいせいしたの」

 マセガキが、いやらしい目で真理ちゃんを見ていたのだろう。私は六年生のとき、そんなこと考えたかなと私は記憶を辿った。でも、思い出せなかった。あまりにも昔の話だった。

「学校に入学して10日も経つと、別のクラスにものすごく格好いい子がいるよって噂を聞いて。クラスでまだ知り合ったばかりの友人たちと、休み時間にその子を見に行ったの。それが、涼ちゃんだった。もう別格。オーラが出てて、周りから浮き上がって見えた。もう一発。私は涼ちゃんの大ファンになった。私とおんなじ気持ちの子は、学年で100人くらいいたんじゃないかな」

「そんなに、いっぱいいないよ。オーバーだよ」と、後ろでずっと黙っていた涼ちゃんが口を挟んだ。

「でも涼ちゃんは、誕生日とかバレンタインの時に200個くらいプレゼントもらってたじゃん」と真理ちゃんが涼ちゃんに言った。

「それを言うならね、拓ちゃん、真理ちゃんは私よりもっともらってたんだよ。同学年だけじゃなくて、先輩の人気もすごかったな。バレンタインデーは、下駄箱も机の上もロッカーもチョコで一杯、それでも置ききれなくて袋に入れて椅子の脇に置いてた」と涼ちゃんは私に説明した。

「なんか、わかる気がする」

「女子校だとね、女の子同士で付き合っている人もそこそこいるの。もちろん、他の学校の男の子と付き合ってる子もいるけど」と真理ちゃんは私に言った。

「そうなんだ」

「私も、何回か女の子に『付き合って』って告白された」と真理ちゃんは言った。

「何回じゃないよ。ものすごい回数だよ」とまた、後ろの涼ちゃんがフォローした。

「でも私の頭は、涼ちゃんだけでいっぱい。でもね、涼ちゃんはすごいクールなの。カッコ良すぎて近づけないの。もう何度も諦めようと思った。そして夜になると、しょっちゅう部屋で泣いてた」

 私はもう、完全に真理ちゃんに肩入れしていた。涼ちゃん、早く真理ちゃんの気持ちに気がついてくれ。

「涼ちゃんは、その頃真理ちゃんのこと知ってたの?」と私は大きな声を出して、後部座席の涼ちゃんにたずねた。

「もちろん知ってたよ。真理ちゃんは超有名人だったから。すごい可愛い子だって。でも私は・・・」そこまで話して、涼ちゃんはしばらく言いよどんだ。真理ちゃんと私は、涼ちゃんの話の続きをじっと待った。

「その頃の私は、誰かと付き合う余裕がなかったの。家はめちゃくちゃだったし、ママは他の男を作って出ていっちゃったし。私はおじいちゃん家に逃げ込んで、もうボロボロだった」

 二人とも、聞けば聞くほど気の毒な子供時代だった。私も片親だったが、のほほんと過ごしていた気がする。本を読み、好きな音楽を聴いていれば満足だった。

「中学二年の秋の文化祭の時に、大チャンスが訪れたの」と真理ちゃんは言った。「クラスから何人か実行委員が選ばれるでしょ。私もそうだったんだけど、涼ちゃんもその中にいたの。投票で、涼ちゃんが委員長に選ばれたから、私は副委員長に立候補した。そうして、涼ちゃんと話すチャンスができたの」

 真理ちゃんはまるで昨日のことのように、楽しそうに話した。

「涼ちゃんは、どう思ってたの?」と私は、後ろの涼ちゃんに聞いた。

「よく話す子だな、と思った。最初は。友達作りが積極的だなというか・・・。でもそのうち、真理ちゃんと話してるとすごく楽しくなれることに気がついた。嫌なことが、いっとき忘れられるの」と涼ちゃんは言った。

「それでね、ある日実行委員会が終わった後、涼ちゃんを屋上に誘ったの」と真理ちゃんは言った。「そして屋上で勇気を振り絞って、『好きです。付き合ってください』ってお願いしたの」そして、ふううっとため息をついた。

「それで、どうなったの?」と私は聞いた。早く続きを教えてくれ。

「涼ちゃんはやっぱり超クールで、『いいよ』とだけ言ったの。ほとんど表情変えずに。私は、本当にOKなのか心配になるくらい」

「涼ちゃんは、真理ちゃんに告白されてどう思ったの?」と私は涼ちゃんに聞いた。

「私は女の子と付き合ったことなかったから、正直言ってよくわからなかったな。真理ちゃんと話すのは楽しかったけど、付き合っても今までと変わらない気がした。でも、いつも二人でいるようになって考え方が変わった。なんていうのかな・・・。真理ちゃんにパクッと飲み込まれた感じ」

 涼ちゃんは、真理ちゃんの母性的な魅力に気づいたと言いたいのだろう。母親のような、人を包み込む優しさと大らかさを知ったのだろう。

「付き合いだしてすぐ、涼ちゃんがものすごい甘えん坊だってわかった。いつもはすごい格好いいのに、ものすごいギャップ。びっくりした」と真理ちゃんが言った。

「ちょっとやめてよ、もう」と涼ちゃんが、恥ずかしそうに抗議した。

「それはさあ、真理ちゃんにお母さんみたいなところがあるからじゃないかな」と私は涼ちゃんに助け舟を出した。

「そう、そう、それなの!」と涼ちゃんは即座に同意した。

「そうかなあ?私、自分では子供っぽいって思うんだけど・・・」と真理ちゃんは、不思議そうに答えた。

「自分で思っている自分と、人が見ている自分って結構違うものなんだよ」と私は説明した。

 こうして、幸せなカップルが誕生したわけだ。映画やドラマなら、ここでハッピーエンドで物語は終わりだ。だが現実はそうならなかった。真理ちゃんは顔を切られ、二人は全てを放り投げてしまった。そして私というつまらない男の家に、緊急避難している。

 脱出しなければならない、この現実から。今日は楽しい一日だったけれど、それだけじゃ足りない。彼女たちに、未来を見つけてもらわないといけない。この二週間のうちに、その手がかりだけでも見つけなくては。私はそう改めて考えた。

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