第9話 手紙

第9話 手紙


10月も半ばを過ぎ、街はすっかり秋の気配に包まれた。真理ちゃんは、自慢の衣装の上にユニクロで買ったハーフコートを着るようになった。その恰好で、仕事から帰ってきた。二人は充実した毎日を楽しんでいたが、私は歯ぎしりをしていた。一日、一日と真理ちゃんの欠席日数は増えていく。私は何とかして、真理ちゃんに学校に戻って貰いたかった。

しかしそのためには、まず7月に二人が何もかも捨てて家出した謎を解く必要がある。次に、真理ちゃんの顔の傷の謎を解く必要がある。それが理解出来なければ、先には進めないだろう。

約束通り、私は土曜日に美容院に二人を連れていった。店選びは、完全に彼女たちに任せた。デスクトップPCで西千葉近辺を調べ、二人は一つの店を選んだ。よく考えれば、千葉大に通う女子大生が沢山いるのだ。大学のそばに気の利いた美容院があって当たり前だった。

「拓ちゃん、私ベリーショートにした方がいい?」と涼ちゃんが私に聞いた。

涼ちゃんは、実に綺麗なストレートの髪を持っていた。陽の光を浴びると、それは宝石のように眩しく輝いた。それを切ってしまうのは、あまりに惜しいと私は思った。

「涼ちゃんは、髪が長い方が似合うと思うよ」と私は答えた。

意外な答えに驚いた涼ちゃんは、とっさに真理ちゃんを見た。真理ちゃんは、私の意見に賛成した。

「涼ちゃんは髪が伸びると、いつもばっさり切っちゃうの。だから、私もロングの涼ちゃんが見てみたい」

二対一だった。涼ちゃん自身は、髪を短くしたかったようだが、私たちに説得されて自説を撤回した。涼ちゃんは髪を伸ばすことになった。

美容院のソファで待つこと、一時間半。全てを終えて私の前に現れた二人は、見事なまでに何も変わってなかった。美容院とは、髪を切って減らすところだと私は思っていた。しかしその考えは間違いだった。だいたい私は、涼ちゃんに髪を伸ばせと言ったのだ。髪が短くなるわけがなかった。

真理ちゃんは髪の長さはそのままに、それを綺麗なブラウン色に染め直してもらった。その仕上がりに真理ちゃんは大満足のようで、「どう?どう?」と何度も私に聞いた。そして私の前を、クルクルと回った。私は思わず、思いついた言葉を口にしてしまった。

「俺も高校生の時に、真理ちゃんみたいな女の子と付き合いたかったなあ」

 真理ちゃんは笑顔のまま、少し困った顔をした。それはそうだ。真理ちゃんは、涼ちゃんのように綺麗で、かつ格好いい女の子が好きなのだ。高校生だった頃の私と、付き合ってくれる訳がなかった。涼ちゃんは隣で、クスクスと笑っていた。彼女も、いまや肩を超えた髪をまっすぐに下ろして整えてもらっていた。髪を頭の後ろで縛ってはいなかった。高校生に戻った私は、彼女とも付き合いたいと思った。

 美容院の後、また私たちは千葉大学前の店で食事をした。食事の後、電車に乗って千葉駅に向かった。登山用のスニーカーを買うためだ。

 駅を降りて、私たちは登山専門店に行った。それは明日、筑波山に登るためだった。筑波山は、標高は1,000mもないけれどその登山道はなかなか趣があった。そして1時間半もかければ登れてしまうので、初心者には手頃な山だった。

 登山専門店で、涼ちゃんは紫の靴を、真理ちゃんはピンクの靴を選んだ。二人の個性が現れていた。

「拓ちゃん。私、山なんて登ったことないよ」と真里ちゃんが言った。

「山に登るなんて、すっごい不安なんだけど」と涼ちゃんが言った。

「大丈夫。大丈夫。簡単に登れるから。海の次は、山に行かないとね」と私は答えた。


 夕食の後、私は二人にある提案をした。

「ねえ、ご両親に手紙を書こうよ」

 私の言葉を聞いて、二人ともものすごく嫌な顔をした。

「家出してから、ご両親に連絡してる?」と私は聞いた。二人とも首を横に振った。やっぱり。

「あのさ。三ヶ月も連絡してないんだから、せめて『無事に生きてます』くらい手紙に書こうよ」

 そう言って私は、二人に縦書きの便箋を二枚ずつ渡した。

「今ここにいるって書いて。俺の名前も住所も、電話番号も携帯番号も全部書いて。そうすれば、きっと安心してくれるから」

 私は二人に、ボールペンを渡した。渋々という様子で、二人は手紙を書き出した。しばらくすると、まず涼ちゃんが手紙を書き上げた。一応念のためと思い、彼女の書いた手紙を読んでみた。そして、びっくりした。

 涼ちゃんの文章は、一文がとにかく長い。四行も五行も一つの文章が続いて、その中に濁点が十箇所くらい打ってあった。手紙全体として、心配するなと言いたいことはなんとなく分かるのだが、とにかく一文が長い。文の意味が、あっちに行ったりこっちに行ったりして結局何が言いたいのかよく分からない。私は唖然とした。

 私は自分の部屋に行って、赤ボールペンを持ってきた。そして、涼ちゃんの手紙のあちこちに区切り線を入れた。ここで、文章を切れという意味だ。それから、どうにも意味が分からない箇所は二重線で消した。その代わりに、わかりやすい言葉を書き込んだ。

「拓ちゃん、きびしいー。先生みたい」

「厳しいんじゃないよ。相手に自分の言いたいことが伝わらないと、手紙を書く意味がないでしょ」

 涼ちゃんは、私の指示通り手紙を書き直した。

 真理ちゃんは、もっと酷かった。海が綺麗だとか、イタリア料理が美味しいとか、スーパーのバイトが大変だとしか書いてなかった。私はおろか、涼ちゃんと一緒にいることすら書いてなかった。私は頭を抱えた。

 高校三年生の文章力って、こんなもんだっけ?私は自分の高校生の頃を必死に思い出そうとした。しかも彼女たちは、名門女子校の生徒のはずだった。それで、こんなものなのか?真理ちゃんの手紙は、文章の骨格から直すことになった。ほとんど私が手紙を書いたようなものだった。

 涼ちゃんは父親宛に宛名を書き、真理ちゃんは母親宛に宛名を書いた。その理由は、いろいろな事情があると推察された。しかし私は、その理由をあえてたずねなかった。そして私は、二人の姓をやっと知ることになった。涼ちゃんは、斉藤涼。真理ちゃんは、平松真理だった。

 最後に手紙に私の名刺を入れて、封を閉じた。これで私の素性は、全部二人のご両親に伝わることになる。まず私の正体は、全部相手に晒す。これが私が仕事で覚えたやり方だった。全部見せた後で、相手と交渉する。その方が話が早い。


 翌日の朝手紙をポストに投函した後、私たちは車で筑波山に向かった。登山道近くの駐車場に車を停め、車道をしばらく歩いた後、私たちは神社の中を通り過ぎた。ここから本格的な山道が始まる。鬱蒼とした薄暗い森の中をしばらく歩くことになる。

「ぎゃあー」

「ぎーっ」

 涼ちゃんと真理ちゃんは、また大騒ぎを始めた。進んだり、戻ったり、普通の人の倍の労力をかけて山道を歩いた。私は二人の体力にびっくりした。まだ18才なんだ。元気で当たり前だな。

 山頂近くなると、道は岩山に姿を変える。また「ぎょえー」とか、「きーっ」とか騒ぎながら二人と、山頂まで登った。山頂は狭いが、360度の景色が楽しめる。涼ちゃんも真理ちゃんも、その眺望に黙って見入っていた。

 狭くて尖った山頂から降りると、一転して広くなだらかな下り坂になる。両脇にベンチがいくつもあり、私たちはそこで休憩することにした。

 私がベンチに腰を下ろすと、涼ちゃんが当たり前のように私の膝に座った。真理ちゃんが見ているのに。私は焦った。

「涼ちゃん、ずるいー」

 真理ちゃんが発した不平はこれだった。涼ちゃんは仕方なく私の膝から下り、私の隣に座った。すると今度は、真理ちゃんが私の膝に座った。ドスン。

 重かった。真理ちゃんは涼ちゃんとほとんど身長は変わらなかったが、グラマーな分だけ重かった。その重量が私の腰に効いた。いてててて。もちろん、痛い素振りなど見せられるわけがなかった。真理ちゃんが涼ちゃんより重いという事実を知られたら、真理ちゃんは食事制限を始めかねない。私は耐えるしかなかった。

 通り過ぎる登山客たちは、不思議そうな顔をして私たちを見ていた。高校三年生にもなって、お父さんの膝に乗る女の子はまずいない。しかも、真理ちゃんと私はまったく顔が似てない。年甲斐のない中年男が、金に物を言わせて少女を買っているのだろう。そう思われても仕方なかった。

 真理ちゃんは、そんな周囲の雰囲気など一向に気にしなかった。私の膝の上で、誰かの曲をハミングで歌い出した。そのリズムに合わせて、身体を左右に動かした。いてててて。私は腰の痛みに、ひたすら耐えた。

「真理ちゃん、長いー」と、今度は涼ちゃんが不平を言いだした。

 これ幸いとばかりに、私は真理ちゃんと一緒に立ち上がった。二人の無用な喧嘩のタネを作りたくなかった。

「さあ、帰るよ」と私は二人に言った。

山頂近くにあるお土産屋を軽く冷やかした後、私たちは下山を始めた。登山をしたことがある人なら知っていると思うが、山道を下ることは想像以上に体力を使う。一歩一歩下る度に、全体重を足一本で支えることになる。これを繰り返すと、次第に太ももの筋肉がへたって踏ん張りが効かなくなる。その疲労がひどくなると、しょっちゅう転ぶようになる。

案の定、涼ちゃんと真理ちゃんはすっかり静かになった。表情は厳しくなり、濃い疲労が顔に浮かんだ。登りであんな大騒ぎをするからだ。

「ねえ、拓ちゃん。まだ着かないの?」

たった一時間下るだけで、真理ちゃんが弱音を言い始めた。

「大丈夫。もうすぐ終わりだから」

私たちは、スタート地点の神社に帰って来た。今にも泣きそうな二人を励まし、私は以前にも来たことのある大きな食堂に入った。涼ちゃんと真理ちゃんは、その店自慢の釜飯定食を頼んだ。私は蕎麦にした。

「山登り、つらいー」と真理ちゃんが、不平を言った。

「でも、綺麗だったでしょ?」

「うん」と真理ちゃんは認めた。当たり前だ。山頂までは、大はしゃぎだったんだから。

「拓ちゃんは、山登り好きなの?」と、涼ちゃんが聞いた。

「そうだよ。ここより、ずっと高い山に沢山登ってるよ」

「どこ?」

「長野県とか、山梨県が多いよ。千葉県から近いからね」

「高い山に登ると、一日何時間歩くの?」

「だいたい、六時間から七時間くらいかな。でも俺が、涼ちゃんや真理ちゃんの年の頃はもっと歩いたよ」

「ぎょえー、信じらんなーい」と釜飯を食べながら、真理ちゃんが言った。どうやら彼女は、海に行く方がいいようだ。

山登りで疲れ、お腹も釜飯で一杯になった二人は車の後部座席に乗り込んだ。私が車を走らせると、二人はすぐ寝てしまった。バックミラーを動かして様子を窺うと、二人は抱き合い頬をくっつけて眠っていた。よほど疲れたのだろう、口を半開きにして熟睡していた。


かくして私は、女子高生二人の子持ちになったわけだ。毎週末、家族サービスで何処かに出かけねばならない。そもそも私は、遊びのバリエーションに乏しかった。アウトドアの遊びなら任せろだが、ディズニーリゾートとかの人混みは大嫌いだった。人が集まるのは、朝夕の通勤電車でたくさんだ。しかしこのまま二人と付き合っていたら、いつかは行かないといけないだろう。

 いや、涼ちゃんも真理ちゃんもディズニーリゾートに行く前に、遅かれ早かれ私から去るのではないか?そんな気もした。だって、私と付き合った女の人は、一人残らず私から離れていったから。二人も同じだと考えるのが自然だった。

私は付き合った女の人たちと、些細なことでよく喧嘩をした。でもそれは、誰だって同じだろう。私の場合人と変わっているのは、付き合っている女の人たちがある時を境に、すっと音もなく去っていくことだった。彼女たちは今までの親密な二人の関係を、ゴミ箱に空き缶を捨てるように躊躇なく放棄した。

まだ若い頃、私は昼間に待ち合わせ場所で当時の彼女を待っていた。30分待っても、1時間待っても彼女は現れなかった。まだ携帯のない時代だったから、私は電話ボックスに入って彼女の家に何度も電話した。何回ベルを鳴らしても、誰も電話に出なかった。私は電話ボックスを出て、また彼女を待ち続けた。

待ち合わせの時間から2時間を過ぎたとき、私は理解した。彼女は私を捨てたんだ、見限ったんだと。その考えが、ストンと腑に落ちた。私はトボトボと家に帰った。もう彼女の家には電話しなかった。私がその日ずっと家にいても、彼女から連絡はなかった。

 予兆はあった。その日の二ヶ月くらい前から、彼女は明からさまに私をバカにするようになった。私の言うことに反論し、私のすることにことごとく異議を唱えた。そしていつも「バカじゃないの」という彼女の嘲りが、私に伝わってきた。私は全部我慢した。彼女が好きだったから。

 その日から二週間経っても、彼女から電話はなかった。私は悟り切っていた。二週間後の夜7時頃、私は彼女の家に電話をかけた。家族が取り次いでくれて、彼女は電話に出た。

「借りてたCDを全部返すよ。今から家まで持ってくね」私はそれだけ言って、電話を切った。そして、彼女のCD3枚くらい袋に入れて、彼女の家へ向かった。

 暗がりの中で、彼女は玄関の前に立って私を待っていた。

「汗臭くてごめんね。バイトでものすごく汗かいたからさ」

 私はその日、引越しの手伝いのバイトから帰ってきたところだった。巨大な家具をいくつも運び、一日中全身汗びっしょりだった。家に帰って着替えたが、汗の匂いは残っていた。

 彼女は何も言わなかった。私がCDの入った袋を差し出すと、彼女は無言で受け取った。用が済んで、私たちにはもう何も話すことがなかった。

「それじゃあ、さようなら」

 私は、「さようなら」を一音ずつはっきり発音した。そして、彼女に背を向け歩き出した。結局彼女は最後まで、一言も口を聞かなかった。

 嫌な思い出だった。後味の悪い記憶だった。私は帰りの高速道路を走りながら、なぜかとても若かった頃の記憶を引っ張り出した。

 私と女の人との付き合いは、いつもそうだった。付き合ってあるポイントまで来ると、彼女たちは判を押したように私の前から消えていった。いったいなぜなのか、私には理由がわからなかった。

 三十代の半ばになって、私はある仮説を立てた。「私には、女の人が絶対に許せない欠陥がある」と。私を通り過ぎていった全ての女性たちの行動と照らし合わせてみると、この仮説はほぼ正しい気がした。だが問題は、その欠陥が何ものか私が気がついていないことだった。問題がわからないなら、対策の打ちようがない。

 今にして思えば、たくさんの女の人が私にヒントをくれていただろうと思う。大喧嘩の最中に、彼女たちは「あなたのここが許せない」というようなことを言っていたはずだ。しかし私は熱くなると、人の意見をまともに聞かなかった。相手の言葉を退け、自分の言い分を彼女の言葉に被せるように怒鳴り散らした。だから私は手がかりを掴めぬままにしてしまった。

 そして私は、「人を好きになること」をやめた。諦めた。その代わりに仕事に打ち込んだ。仕事は毎日、新しい問題が降ってくる。手がつけられなくて放置されている大問題もある。私はそれを、一個ずつ解決していくのが好きだった。

 仕事漬けの毎日を送りながら、私の頭の中に空白が生じていた。それは年を重ねるに連れてどんどん膨らんでいった。しかし私は意図的に、その空白を無視した。寂しさや悲しさから、目を背け続けた。

 いかん。こりゃ、完全に「うつ病」の状態だ。「うつ」症状が始まると、考えることがどんどん悪い方向に進んでいく。自己嫌悪にずっと苛まれ、体調もおかしくなり、最終的に完全な自己否定まで行き着く。私はその戸口まで行ったことがあるので、よくわかる。

うつ病は、過労死のような働き過ぎ以外でも発症する。大学入学や、就職や、結婚でもうつ病になる人がいる。おめでたいことなのに、彼(彼女)は、その新しい世界に戸惑い、悩み、苦しみ耐えられなくなってうつ病になる。

つまり私は、涼ちゃんと真理ちゃんと暮らすことに、相当なプレッシャーを感じているということだ。そう考えれば、このところの不眠の理由も説明できる。このところは、お腹の調子も悪くなり会社では始終トイレと往復していた。その原因は、涼ちゃんと真理ちゃんだった。

はたから見れば、綺麗は女子高生と暮らせて羨ましいですね、となるだろうが、現実は甘くない。そんな楽なもんじゃない。毎日五時半に起きて、疲労は着実に蓄積していた。それから、彼女たちを社会に戻す方策を考えねばならない。私は実は二人との生活に、クタクタに疲れ始めていた。一時間置きに下痢をし、表情も苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

会社の男子トイレなら下痢をしても目立たないが。家に帰ってからが問題だった。自分の匂いが残ったトイレを、二人に使ってほしくなかった。解決策として、食事を最小限にし、ビールも一本に制限することにした。朝飯だけしっかり食べて、昼飯は抜き、夕食も最小限にした。食べないことで下痢の元を断つわけだ。足りない栄養は、ビタミン剤で凌ぐことにした。ネットでいろいろ調べ、ドラッグストアで必要なビタミンA、B、C、D・・・と何瓶も購入した。

 うつ病は、想像以上に恐ろしい。もうだめだと、疲れに対して後ろ向きな考えをするようになると、自己嫌悪→自己否定と進んで行く。完全な自己否定が完成すると、次はもう死しか選択肢はない。ある時私は、本気でその手段を吟味した。

 まず、電車に飛び込むのはバツで消した。たくさんの人に迷惑をかけるからだ。首吊りもだめだ。首を吊って死ぬと、筋肉の踏ん張りが聞かなくなり、小便や大便を漏らすそうだ。そんな無様な姿にはなりたくなかった。飛び降り自殺は、少し魅力的に思えた。高いビルから空中に飛ぶ。爽快な気分になれそうだった。しかし、下のコンクリートやアスファルトに叩きつけられたら、グチャグチャだ。これもみっともない最後だ。

 悩んだ挙句、私は山に登って遭難することにした。季節は真冬だったので、軽装で山に登れば簡単に凍死できる。登山は大好きだし、登山道の途中で道なき道に外れて奥へ進めば、誰にも止められることはない。森の中を好きなだけ歩いて、日が沈む頃に最後のビールを飲む。そして、病院でもらっている睡眠薬をたっぷり飲んで眠ればいい。翌朝には死んでいるだろう。完璧なシナリオだった。

 しかしその頃はまだ、父も母も生きていた。彼らは私を探すだろう。母は私が登山に出かけたことにすぐ気づくから、捜索隊を出して私を探すだろう。父も母も、自分の老後の蓄えを切り崩して何百万も使って私を探すだろう。でも、私の遺体が見つかるだけだ。完全な、金の無駄遣いだ。とても不当なことだ。

 私はいったん死ぬことを躊躇し、病院に行った。そして医者にストレートに伝えた。死にたいんだと。ドライな医師は、私がそう言ってもまったく表情を代えなかった。眉ひとつ動かさず、「何バカなことを言ってるんだ、こいつは」とでも言いたげだった。

「薬を増やしましょう」とだけ彼は言った。

 私は大量の薬を受け取った。お金も五千円以上かかった。しかし、この薬は効いた。二週間くらいして、私は死ぬことを考えなくなった。


翌日の仕事中に、私の携帯に電話がかかってきた。

「てめえ、この野郎、ふざけんなよ。殺すぞ、コラ」

「失礼ですが、どちら様でしょうか?」私は携帯を握って、事務所のデスクから廊下に移動しながら答えた。

「てめえを殺す。わかるか?ふざけんな、コラ」

「あの、どちら様ですか?」私はあくまで冷静に対処した。

「俺が涼の父親だ。涼を返せ。殺すぞ、てめえ」

明らかにチンピラだった。涼ちゃんの父親?これで?本当かよ。

「涼さんが帰りたくなったら、帰ればいいと思います」

「今すぐ返せって、言ってるんだよ。わかんねえのか?殺すぞ。コラ」

もはや「殺す」というのは、彼の口癖のようだった。しかし私も、現場で散々土方たちとやり合った経験がある。なんと言われようと、どうでも良かった。

「涼さんと今夜話します。それで彼女が帰るというなら結構です」

「この野郎、なめてんのか。お前の会社に行って暴れるぞ」

「どうぞ、好きになさって下さい。一階のセキュリティで中に入れてもらえないと思いますけど」

「てめえ、ふざけんなよ。殺すぞ、コラ」

「私は仕事中なので、そろそろ失礼しますね」

私はそう言って、電話をブチっと切った。すぐにまたかかってくるかと思ったが、意外にもう電話はなかった。


 その晩家に帰ると、いつものように涼ちゃんが玄関で出迎えてくれた。しかし今日の私は、昼間の涼ちゃんの父親と名乗る男のことが気になっていた。

 夕食を作りながら、私は涼ちゃんに報告をした。

「今日の昼間、涼ちゃんのお父さんだと言う人から電話をもらったよ」

 涼ちゃんは、テレビから目を外し私をじっと見た。怖いくらい、真剣な目だった。

「あいつ、なんて言ってた?」

「うーん、涼ちゃんを返せとか、俺を殺すとか、その繰り返しだったな。あの人、本当に涼ちゃんのお父さんなの?」

「私の父親は、ヤクザなの。下っ端だけど」

 やはりあいつが、やはり涼ちゃんの父親なのか。私はその事実を、なかなか受け入れられなかった。信じられなかった。

「ねえ、まだご飯できないの!」涼ちゃんは珍しく、イライラした様子で私にたずねた。お父さんの話をしたせいか、珍しく彼女は不機嫌になっていた。私は大急ぎで食事を作った。

 食事を作り終え、缶ビールを片手にキッチンを出ると涼ちゃんはもうソファの前に立っていた。彼女はソファを、片手でパンパンっと叩いた。早くここに座れという意思表示だ。私がソファに座ると、当然のように涼ちゃんは私の膝に乗った。後ろ姿しか見えないので正確ではないが、彼女は右手の親指を唇につけ物思いにふけっていた。

「私、あいつが嫌で、中学から高校までおじいちゃんの家で暮らしてたの」

「お母さんは?」

「私が中一の時に、出て行った。それ以来、どこで何してるか知らない」

 なんてことだ。あまりにもきつい子供時代だった。私は涼ちゃんが最初の頃見せた、容易に人を寄せ付けない視線を思い出した。あの視線には、それなりの理由があったということだ。

 涼ちゃんは、私に寄りかかった。また両腕を私の首に巻きつけ、頭を私の右肩にのせた。これが彼女にとって、一番落ち着くポーズなのだろう。

「おじいさんって、お母さん方?」

「そう」

 自分の子供を捨ててしまった娘の代わりに、孫の面倒を見ているということか。おじいさんとおばあさんの苦労に、私は同情した。

「おじいさんは、どこに住んでるの?」

「目黒」

 ええっ、高級住宅地じゃないか。普通の人が家を持てる場所じゃない。

「おじいさんは、会社をもう辞めてるんじゃないの?」

 私は彼らが、老後の蓄えを孫に捧げているのだろうと私は思った。心から気の毒に思った。しかし、涼ちゃんの答えは違った。

「いや、まだ働いてる。BBB自動車の社長をしてる」

 嘘だろ、と私は思った。BBB自動車は、日本だけでなく世界中で車を売りさばく大会社だ。私はiPadを手に取ってBBB自動車のホームページを開いた。当然、社長挨拶が掲載されている。

「この人?」

「そう。この人が私のおじいちゃん」と涼ちゃんは、事も無げに言った。

 まず、私の出る幕なんてないじゃんと私は思った。こんな強力な後ろ盾がいるなら、涼ちゃんは何の心配もないはずだ。しかし、だ。涼ちゃんはこのおじいちゃんとの生活も捨ててしまった。真理ちゃんと二人で、東京を彷徨っていた。身体を売って生活費を稼ぎながら。

 ただ学校に行きたくないのなら、おじいちゃんの家にこもっていればいいだけの話だ。それができない理由が、二人にはあったのだろう。それはいったい何なのか?

「おじいさんに、手紙を書けば良かったんじゃないの?」と私は涼ちゃんに聞いた。涼ちゃんが「あいつ」と呼ぶ父親に手紙を書くより、孫を可愛がるおじいさんとおばあさんと連絡を取るべきだ。

「それは大丈夫。おじいちゃんんとおばあちゃんには、毎日LINEで連絡してる。拓ちゃんの写真も送ったし、昨日の筑波山の写真も送ったよ」

「それで、おじいちゃんとおばあちゃんはなんて言ってるの?」

 彼らから見れば、私は子供に性欲を抱く変態中年としか思えないはずだ。しかも相手は、現役のBBB自動車の社長だ。どんな手を使っても、涼ちゃんを取り戻そうとするはずだ。

「最初はここからすぐ出ろって言ってたけど、拓ちゃんがどんな人か説明したら何にも言わなくなったよ。私も拓ちゃんと離れないって言ったし。もう、諦めたみたいだよ」

 話はもう、私の理解を超えた世界に飛んでいた。私はしがない中年サラリーマンだ。BBB自動車の社長の庇護のもとにいた方が、いいに決まっていた。だが待てよ、と私は思った。その社長は、涼ちゃんが真理ちゃんを愛していることを受け入れられるだろうか?

私は二人が愛し合おうがどうしようが、どうでも良かった。世間の常識から、私は外れていた。人は簡単に言う。LGBTの人権を尊重しろと。口で言うのは簡単だ。だがそれを日常のこととして受け入れることができる人は、どれだけいるだろうか?涼ちゃんのおじいさんとおばあさんに話を限っても、涼ちゃんが幸せな結婚をして、ひ孫を持つことを望むだろう。それはそれで自然なことだ。

 だが現実を見つめればわかる。プラトンの書いた「饗宴」は、男性同性愛擁護の哲学書だ。ギリシアのレスボス島は、レズビアンの語源となった場所だ。我々は動物ではない。一人一人が固有の個性を持った人間だ。そして理性を使用して物事を判断する。誰が誰を好きになるかは、アンコントーラブルだ。自分に正直であることが、私はその人にとってベストだと思う。

「おじいちゃんとおばあちゃんは、真理ちゃんのこと知ってるの?」

「私が真理ちゃんを好きだってこと?」

「そう」

「知ってるよ。すごく困った顔をしてたけど」

彼らは、涼ちゃんがレズビアンであることも、真理ちゃんの存在も仕方なく受け入れたようだ。ならばなおさら、おじいちゃんとおばあちゃんの家にいた方がいればいいのに。私は涼ちゃんの家出の理由が、まだ理解できなかった。

そして彼女はさらりと言ったが、私と離れないと宣言までしたらしい。これも私にとっては謎だった。48歳のパッとしない中年男と暮らして、何が楽しいのだろうか?しかし現に、涼ちゃんは毎日私の膝に乗っている。それを彼女が楽しみとしているのは、さっさと食事を作り終えない私を怒った姿からもよくわかった。しかし、なぜ私なんだろう?おじいちゃんではないのだろう?わからないことばかりだった。


涼ちゃんのお父さんと違って、真理ちゃんのお母さんは電話をくれなかった。三日経っても、四日経っても電話はなかった。私はとうとう痺れを切らし、真理ちゃんにお母さんの携帯番号を教えてもらうことにした。

「ママに電話するの?」と真理ちゃんは私に聞いた。

「そりゃそうだよ。大事なお子さんを預かってるんだ。一言でも、ご挨拶しなくちゃならない」

真理ちゃんは、露骨に嫌な顔をした。そして、「うちのママは変わってるから。気をつけてね」と言った。

「真理ちゃん、ちなみにお父さんはどうしてるの?」

「私に、お父さんはいないの。生まれた時からいない」

こりゃ参った。ある意味、うちと同じか。真理ちゃんのお母さんは、父親の反対を押し切って彼女を生んだのだろう。あるいは、中絶する時期を逸したのか?

とにかく涼ちゃんも真理ちゃんも、とてもハードな子供時代を送ったということだ。彼女たちが、年令の割に過剰に私に甘える理由がわかった気がした。何の対価も必要としない、無条件な愛情に飢えているんだ。

次の日の夕方、私は真理ちゃんのお母さんに電話した。昼間は仕事が忙しくて、電話する暇もなかった。

電話をかけ、私が名を名乗ると真理ちゃんのお母さんは「ああ、あんたね」とだけ言った。それしか、言わなかった。

「事情があって、大切な真理さんをお預かりしています」

「あの子はね、自分の好きにすればいいよ」と真理ちゃんのお母さんは、面倒くさそうに言った。

「今は私の家のそばで働いていますが、いずれ学校に戻ってもらいたいと考えています」

「あんた、柿沢さんだったね。真理と寝たの?」

「いいえ、私は不能ですから。できません」

 しばらく沈黙が続いた。真理ちゃんのお母さんも、私も何も言わなかった。

「あんた、今どこにいるの?」

「会社です」

「私は仕事が忙しいんだよ。私はもう真理のことなんて、どうでもいいよ。18才になるんだし、自分で生きていけばいい。私だってそうしてきたんだ」

まるで話が噛み合わなかった。これを真理ちゃんは、私に警告したのだろうか?

 電話の向こうで、また真理ちゃんのお母さんはしばらく黙っていた。そして、独り言みたいに話し始めた。

「まったく、女で女が好きなんて信じられないよ。あの子は、子供の頃から女のケツばっかり追いかけてたんだ。おかしいんだよ」

 私は真理ちゃんのお母さんに、語るべき言葉が思いつかなかった。彼女は典型的な、古い人間だった。いや、この表現は正確ではない。人の愛情というものを、理解することなく年を重ねてしまったのだ。愛の正体を知ることなく、彼女は一生を終えるのかもしれない。

「だから、同級生に大怪我までさせられて。身から出た錆だよ」

「ちょっと待ってください。それは、どういうことですか?」私は大声を出した。

「あんた、何も知らないの?」

「知りません。何も知りません」と私は言った。

「まったく忙しいのに、病院に呼び出されて。私にゃいい迷惑だよ」

「すみません、私は本当に何も知らないんです。お母さん、詳しく教えてくれませんか」

「馬鹿か、お前は。私はあんたのお母さんじゃないんだよ」

「真理ちゃんの顔の傷の話をしてるんですよね?」私は食い下がった。しかし、真理ちゃんのお母さんは私の質問に答えなかった。

「女で女を好きになるなんて、気持ち悪いんだよ」と彼女は言った。

「私は真理ちゃんの顔の傷の理由を知らないんです。忙しいところ申し訳ありませんが、教えてくれませんか?」

「真理に聞きなよ。一緒に暮らしてるんだろう?」

 真理ちゃんのお母さんは、人の心の痛みも理解しない人のようだった。あるいは、それくらい人生は厳しいのだと、言いたいのかもしれなかった。

「ねえ、あんた」と真理ちゃんのお母さんは言った。「私にもう電話しないでくれる?」

「私はあなたと、真理ちゃんの今後について話し合わなければいけないと思います」と私は言った。

「だから、さっき言っただろう」と、彼女は怒り出した。「真理はもう大人なんだよ。女が好きならそれでもいいよ。勝手にしてくれ、だ。わたしゃ知らないよ」

「わかりました。お時間を頂いて申し訳ありませんでした」

 私はそう言って電話を切った。この人と話しても、どこにも行けないことはわかった。また、あの真理ちゃんの傷は、同級生がつけたものだという事実もわかった。そのあまりに恐ろしい話に、私はなかなかそれを受け入れることが出来なかった。お母さんのいう通り、真理ちゃんに聞くべきか。あるいは、涼ちゃんに聞くべきか。私は迷った。迷ったまま、家路に着いた。


 真理ちゃんのお母さんと長々と話したせいもあり、帰りがすっかり遅くなった。私は涼ちゃんの携帯に電話をかけ、帰りが22時になることを伝えた。

「ええーっ!そんなのヤダ!。速攻で帰ってきて」と涼ちゃんは、頭から角が出そうな勢いで私に言った。私は東京駅から特急に乗って帰ることになった。

 特急のおかげで、21時30分に帰り着いた。私は着替えて、いつものように夕食を作った。涼ちゃんは目の前のテーブルに座っていたが、私は真理ちゃんの傷の話をする気にならなかった。

 食事を作り終えてソファに座ると、涼ちゃんはすぐに私の膝には座らずに、私にたずねた。

「拓ちゃん、どうしたの?元気ないよ」

「うん、でも大丈夫だよ」と言って、無理矢理笑って見せた。涼ちゃんは不審な表情のまま私の膝に乗った。勘のいい女の子だ。それでも、やはり真理ちゃんの傷について話す気は起きなかった。


真理ちゃんが帰ってきて、三人で夕食を摂りながら私は、真理ちゃんのお母さんと電話で話したことを報告した。

「なかなか話が噛み合わなかったんだけど、真理はもう大人だから大丈夫だと言ってたよ。俺は真理ちゃんの将来について話し合いたいって、言ったんだけど。もう一人で生きていきなさい、という勢いだったな」

「ママはね、もう私と関わりたくないと思ってるの」と真理ちゃんは言った。

「何で?」

「私がレズだから」

ううむ、と私は胸の中でうなった。父親がいなくて、母親にも見限られたら真理ちゃんは一人ぼっちじゃないか。

真理ちゃんは、お母さんの件に関してびっくりするほど冷静だった。もう散々親子ゲンカをして、結論は出ているのかもしれない。

だが生みの親だ。相当偏屈だけれども。いつか真理ちゃんとお母さんが和解してくれることを、私は祈った。

それから私は、あらためて人の個性の不思議さについて考えさせられた。真理ちゃんは、無防備なほど開けっぴろげな明るい性格の持ち主だった。とてもあの母親の子供とは思えなかった。

「ママと私は合わないの、全然」

そう真理ちゃんは、悟りきったように言った。私は何も言えなかった。

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