第8話 歌

第8話 歌


 私たち三人の生活は、安定期を迎えた。働き出した二人は、目に見えて明るくなった。社会に参加することは、人の心を安定させる。誰がも仕事の愚痴を言って辞めたいという。だが、実はそうではない。仕事は人にとって、とても大事なことだ。洋服みたいなものと言える。それを失うと、誰も裸でいるようなつらさを味わうことになる。


 私は毎日5時半に起きて朝食と昼食を作った。涼ちゃんのために弁当箱を買ってきて、昼食をそれに詰めた。21時に帰ってきて夕食を作り、その後涼ちゃんとニュースを見ながらいろんな話をして、真理ちゃんの帰りを待った。真理ちゃんが帰ってくると、食事をしながら録画したAKBのライブを見たりした。AKBの出る番組は片っ端から録画予約して、真理ちゃんが好きなときに見れるようにしておいた。

「拓ちゃんは、誰が一番可愛いと思う?」と真理ちゃんが、私に質問したことがあった。私は困った。私は何度見ても、この大勢の女の子たちの見分けがつかなかった。じっと立ってくれていればまだ顔を覚えられると思うが、彼女たちは激しく踊りながら歌っているので目がついていかなかった。そしてもう一度言うが、涼ちゃんと真理ちゃんほど可愛い女の子は一人もいなかった。

「いやあ、年が離れすぎてるからさ。みんな可愛いと思うけど、特別誰かがいいとは思わないな」

「強いて挙げれば、誰かいるでしょ」真理ちゃんは、引き下がらなかった。

 仕方がないので私は、ショートカットの女の子を選んだ。

「げええっ!」

「うっそー!」

「信じらんなーい!」

「拓ちゃん、XXXがいいんだ・・・」

 私にとっては、予想外の反響だった。まあ、どうでもいいんだけど。

「拓ちゃん、ベリーショートが好きなの?」と真理ちゃんが私に聞いた。

「私もベリーショートにした方がいい?」と涼ちゃんが言った。

 そう言われて、私は気がついた。そうだ、美容院に行かなきゃいけないんだ。二人は果たして、家出してから美容院に行っているだろうか?行ってるわけないよな。

「別にショートカットが好きなわけじゃないよ。あの子の雰囲気がいいな、と思っただけ。髪型は関係ないよ」

 また二人の秘密会議が始まった。顔を寄せ合って、二人は熱心に議論を交わしていた。

「それより、今度の週末美容院に行こうよ」と私は二人を誘った。二人は心から幸福そうな笑顔を見せて、こっくりとうなずいた。

 しかし美容院と言っても、どの店に行けばいいのだろう?私は新たな悩みを抱えることになった。


 真夜中に、歌がどこからともなく聞こえてくることがよくあった。不眠症の症状が続く私は、眠りにつこうと努力しながらその歌を漫然と聞いていた。

「あっ、あっ、あっ、あっ」

 私は覚醒したまま、そのスタッカートのついた8分音符を聞いた。

「あーっ。あーーー!」

 今度は2分音符と全音符だ。そして歌はまた、鋭く音を切る8分音符に戻る。それが交互に繰り返された。その歌を聞きながら、私はそれを少し変えて新しいメロディを考えた。

「ルー、ルルー、ルッ、ルッ、ルッ、ルルー、ルルルー」

 ところどころ立ち止まりながら、ゆっくりと上行していくメロディだ。なかなかグッドだ。悪くない。私はそう思った。もし今夜運良く眠れたら、朝起きた時には覚えてないだろうけど。起き上がってギターを取り、思いついたメロディを弾いてメモすることもできた。しかし、そこまでするのは億劫だった。私は自分のメロディを考えながら、遠くから聞こえてくる歌を聞いていた。

 私はその歌声の主は、真理ちゃんだろうと想像した。それ以上は、何も考えなかった。私には何の関係もないことだ。ただ、私は聞こえてくる真理ちゃんの歌に合わせて、さらに自分の作ったメロディを変形させた。

「ルルー、ルルルー、ルルルー」

 メロディはさらに上がる。ピアニストが右手を高音域に移動させ、鍵盤を強く叩く。

「あっ、あっ、あっ、ああっ、あーっ」

 歌というより、ジャズピアニストのソロのようになってきた。ピアニストは技巧の限りを尽くし、細かいパッセージを猛スピードで弾く。左手で複雑な和音を刻みながら。

 そんなことを想像しながら、私はようやく眠りに落ちる。やっと、睡眠薬が効いてくれたようだ。歌のことなどすっかり忘れ、私は意識を完全に失う。だけど、夜明け前には目が覚めてしまうのだが。

 そんな夜が、よくあった。


 私が朝食事を作っていると、6時半頃涼ちゃんが起きてくることが何度もあった。

「おはよう、涼ちゃん。早いね」

「うん・・・」

 早起きをした涼ちゃんは、いつも明らかに元気がなかった。沈んだ表情をして、私の顔色をうかがうような様子を見せた。朝食も食べようとしなかった。

 生理かな、と最初私は思った。化粧品を買ったとき、生理用品も入ってたかな?あのとき私は「化粧品を買え」とは言ったが、「生理用品も買え」とは言ってない。そもそも、男が口にしていいものでもない。買いだめがあるかもしれないが、そろそろ切れるかもしれない。その解決策として、私は二人に3万円ずつ渡すことにした。「困ったときに使うんだよ。バイト代が入ったら返してくれればいいから」と言って。

 しかし、何度も涼ちゃんは6時半頃に起きてテーブルについた。やはり元気がなかった。二人はおそらく、1時か2時まで起きているはずだ。もっと遅いかもしれない。

「涼ちゃん、寝不足は美容に良くないよ。10時からバイトなんだから、もっと寝てなよ」と私は言ってみた。

 すると涼ちゃんは顔を真っ赤にし、下を向いて動かなくなってしまった。

「気にしないでよ!」

いかん。逆効果だ。涼ちゃんは怒ってしまった。18歳の女の子と接する難しさを、改めて思い知った。私は怒った顔のまま、うつむいて何も言わない涼ちゃんに困り果てながら、朝食を全部口の中に放り込んだ。そしてほとんど噛まずに水と一緒に飲み込んだ。5分でヒゲを剃って顔を洗い、会社へ出かけなくてはならない。私は私に腹を立てている涼ちゃんに後ろ髪を引かれながら、家を出た。

 朝の満員電車の中で、鈍感な私もようやく涼ちゃんの行動の理由に気がついた。それは「歌」だった。昨日も真夜中歌が聞こえてきた。私は起きていたが、ほとんど無視してベッドに横になっていた。よくよく考えると、涼ちゃんが早起きしてくるのは、歌が聞こえた夜の次の朝だった。

 あの歌声の持ち主は、涼ちゃんなのかもしれない。しかし、そんなことは私に一切関係がない。真理ちゃんが歌おうが、涼ちゃんが歌おうが、二人が交互でも私は全く興味がない。知ったことではない。

 しかしだ。歌が聞こえてくるのは、おそらく2時か3時だ。仮に3時に歌が終わるとして、二人はすぐ寝たとしよう。3時に寝て6時半に起きたら、3時間半しか寝てないことになる。他の全てはどうでもいいけれど、涼ちゃんの睡眠不足は大問題だ。二人の健康を何より気遣う者として、由々しき事態だった。

 私は日中も、仕事そっちのけでこの問題の解決策に取り組んだ。要は、「歌」を私が聞かなければいいわけだ。そうすれば、二人は朝もぐっすり眠れる。そして思いついたのが、部屋の交換だった。

 私のマンションには、ダイニングルームの隣に畳の六畳間がある。母の遺したタンスや仏壇があるが、布団を敷くスペースは十分にある。私は21時に家に帰り着くと、真っ先に自分の部屋からギターとベース、最近弾いてない電子ピアノまでせっせとその六畳間に運び込んだ。最後に目覚まし時計とオーディオインタフェースを運んで、引越しは完了だ。涼ちゃんは、いったいこいつは何をしてるんだという目で私を見ていた。

 真理ちゃんが帰ってきて、三人で夕食を食べるとき、私は新しい提案を説明した。

「俺の部屋に、デスクトップPCがあるからさ。二人は今夜から俺の部屋に移りなよ」

 びっくりしている二人に、私はさらに説明を続けた。

「俺だけ、デスクトップPCを独占してるのはずるいと思ってさ。俺はノートPCもあるから大丈夫。今夜から、この六畳間で寝ることにするよ。だから好きなだけ、デスクトップPCを使っていいよ」

 私はどこまでも、デスクトップPCのせいにした。

「寝るのは今の部屋のままでもいいし、俺の部屋のベッドを使ってもいいよ。シングルベッドだけど、涼ちゃんも真理ちゃんも小柄だからなんとかなるんじゃないかな」

 テレビも私の部屋に移そうかと提案すると、二人は反対した。それならば、小さなテレビでも買うか。Amazonで注文すれば、明日届く。ベッドを大きなものに変えても良かった。まあ、その辺は二人の意見に従うことにしよう。

「寝るときは、ダイニングルームのドアをしっかり閉めてね」

 これが最大のポイントだった。このドアを閉めてしまえば、リビングルームの物音はほとんど私に届かない。私が「歌」を聞くことはもうないわけだ。涼ちゃんが先に、私のこの提案の意味を理解した。例のごとく、小声で真理ちゃんに事情を説明した。

「拓ちゃん、いいの?」と涼ちゃんが言った。

「ここは俺の家なんだよ。どこで寝たって構わないよ」と私は答えた。

 夕食の後、私は六畳間に移った。ダイニングルームとの間の襖を締め切り、ギターを弾いてその音をヘッドフォンで聴いた。どうせならばと、涼ちゃんと真理ちゃんの「歌」を聴いたときに思いついたメロディを思い出そうとした。それはいくら頑張っても、思い出せなかった。まあ、そんなもんさ。

 24時過ぎ、二人はテレビを消しダイニングルームの電灯を消して部屋を出て行った。その気配を感じて私は薬を飲み、灯りを消して布団に入った。あたりを完全な静寂が包んだ。問題がまた一つ解決だ。さて今夜は眠れるだろうか?それは、やってみないとわからない。私はいつもの不安を抱えながら、布団に入った。

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