第6話 マツモトキヨシとユニクロ
第6話 マツモトキヨシとユニクロ
次の日は日曜日だった。さすがに二日連続で出かける気はなかったので、今日は二人とゆっくり過ごそうと考えた。7時に起きて朝食の準備をし、母が遺したコーヒーメイカーで、豆からコーヒーを作った。私は全然コーヒー好きではなかったが、彼女たちが喜ぶかと思ったのだ。
私は8時に二人を起こした。外は今日も晴れていて、気持ちのいい朝だった。それを彼女たちにも味わって欲しかった。
まず、涼ちゃんが食卓に座った。彼女は今日も薄い紺の長袖シャツを着ていた。
「涼ちゃん、もっとあったかい服は持ってないの?」と私は聞いた。
「ない」と彼女は答えた。無理もない。二人は7月に家出したのだ。秋の準備なんかしてるわけがない。
「今日は、秋の服を買いに行こうか」と私は提案した。涼ちゃんは、また困ったような表情を見せた。
「お金のことは気にしなくていいよ。おじさんは、ちゃんと働いて稼いでるからさ」
私には、両親の生命保険と彼らが遺した預貯金があった。金持ちではないけれど、女の子の洋服を買うくらいの余裕は十分にあった。
真理ちゃんは例のごとく、洗面室に入ったままなかなか出てこなかった。いつものことなので、涼ちゃんと私はテーブルに並べた食事に手をつけずに彼女を待った。
やがて真理ちゃんが、ダイニングルームに姿を現した。明らかに様子が変だった。そして彼女は例の厚化粧をしていなかった。うっすらとしかメイクしていなかった。あんなに、洗面室で時間をかけたのに。困惑した表情で、少し震えながら真理ちゃんは椅子に腰掛けた。そして、今にも泣きそうな様子で私を見た。そのとき、私はやっと気づいた。真理ちゃんの顔の傷に。
その傷は、鼻の上部から左目の下を通り、目じりの先までまっすぐに伸びていた。深い、くっきりとした傷だった。彼女の美しい顔には、あまりにも不釣り合いだった。
私は心臓が止まりそうな衝撃を受けた。食欲なんて、いっぺんに吹っ飛んだ。しまった、と私は思った。真理ちゃんの似合わない厚化粧の意味が、いっぺんに理解できた。化粧品がなくなったのだ。私はその可能性に気づくべきだった。
「ごはんを食べたら、駅前のマツモトキヨシに行こう」
私は静かに、それだけ言った。でも、真理ちゃんも涼ちゃんも黙ったままだった。
「お金は気にするな。好きなだけ買え」と私は付け足した。しかし、静かな朝食の雰囲気はそのままだった。私の淹れたコーヒーも、ほとんど二人に受けなかった。
私たちは、9時45分に家を出発した。15分ほど歩いた西千葉駅のショッピングモールに、マツモトキヨシがある。私たちはほとんど会話をせずに、駅へ向かって歩いた。真理ちゃんの痛々しい傷は、朝日を浴びてさらにくっきりと見えた。
開店と同時に、私たちはマツモトキヨシに入店した。すると二人の表情が一変した。彼女たちはまっすぐに化粧品売り場に直行し、そこにしゃがみ込んで商品の吟味を始めた。
女の子にとって、マツモトキヨシは宝の山なんだ。私はそう気がついた。私は髭剃りの替え刃だけ握り、二人が化粧品を選び出すのをじっと待った。
長い。本当に長い。私は自分の買い物だけ済ませ、店の外にある椅子に座った。本でも持ってくるべきだった。でももう遅い。ぼうっと考え事をして時間を潰した。
真理ちゃんのあの傷は、どうしてできたのだろう?私の考えはそこに行かざるを得なかった。事故で出来る傷とは思えない。鋭い刃物でできた傷に見えた。誰かがやったのだろうか?しかし、真理ちゃんのような女の子の顔を傷つけるなんて、普通の人が思いつくこととは思えなかった。わからない。わからないことに、妄想を膨らませるにはやめよう。私はそう思った。真実はいつかわかるだろうから。
結局、二人の買い物は2時間かかった。
買い物かごいっぱいに化粧品を入れて、二人はレジ前に現れた。でもこれは、2時間かけて選びに選び抜いた商品なんだ。私はレジに立ち、先に二人を店の外に行かせた。会計の金額を見せないために。合計で、約2万円だった。
私は今にも切れそうなビニール袋を下げて、まずショッピングモールのトイレに向かった。女子トイレの前で、いったん袋を二人に渡した。真理ちゃんと涼ちゃんは、袋を受け取るとふっ飛んでトイレの中に消えた。私はまた、彼女たちをひたすら待つことになった。
15分で、二人は出てきた。最短記録だ。真理ちゃんの傷はまったく見えなくなった。その代わり、彼女の顔はいつものように真っ白になっていた。とにかく、目下の問題は解決したのだ。私は、胸を撫で下ろした。涼ちゃんも、淡くメイクをしていた。
「ねえ、拓ちゃん。私、綺麗?」笑顔の真理ちゃんが、私の目を見て言った。
突然、強烈なパンチが飛んできた。私は、真理ちゃんの厚化粧が好きではない。ナチュラルな真理ちゃんの方が良かった。あの傷さえなければ。私は明らかに迷ってしまった。そして取りつくろうように、「うん、綺麗だよ」と言った。真理ちゃんは、私の動揺を見逃さなかった。
「やっぱり。拓ちゃんは、私より涼ちゃんが好きなんだ」
真理ちゃんは不満でふくれた顔をした。愛らしいふくれっ面だった。私は涼ちゃんの方を向いて、彼女に助けを求めた。涼ちゃんは、静かに微笑を浮かべるだけだった。もう何を言っても、ドツボにハマるだけだ。私は無言で笑って誤魔化した。
それから私たちは、千葉大学前にあるイタリア料理屋に行った。千葉大学は西千葉駅前にあって、キャンパスは巨大な樹木たちに囲まれていた。森の中にある大学だった。そこに通う学生目当ての品のいい店が、大学前にたくさんあった。
日曜日のお昼なので、店は大繁盛していた。私たちは店の入り口の椅子で、20分くらい待つことになった。待っている間、二人はまたiPhoneをずっといじっていた。今時の子らしいな。彼女たちにとって世界は、この携帯端末を通して広がっているんだ。私には信じられなかったが、自分がもし今18だったら、きっと彼女たちと同じことをするんだろう。そういうものだ。
「拓ちゃん」と真理ちゃんが、iPhoneをいじりながら、私に話しかけた。「拓ちゃんは、スマホ使わないの?」
「使うよ。今も持ってる」
私はポケットからiPhoneを出して、真理ちゃんに見せた。
「でも君たちほど、使わない。必要な時だけ」と私は言った。
「 何で?すごい便利じゃん」と真理ちゃんは私に言った。
「真理ちゃんは、携帯で何してるの?」
「友達と連絡取ってる」と彼女は答えた。そして、「私の友だちの中で、もう拓ちゃんは超有名だよ。昨日撮った写真も送った」
げっ。いつのまに写真を撮られたんだ?きっと真理ちゃんの友だちは、みんな私をロリコンの変態親父と思ってるだろうな。 まあ、仕方ない。それより二人が、ご両親と連絡を取っているのか気になった。してるわけないよな。してたら、家出を続けられるわけがない。
席がようやく空いた。私は真理ちゃんと涼ちゃんを奥の席に座らせ、私は通路側の席に座った。
真理ちゃんは魚介類のドリアを、涼ちゃんはイカスミのパスタをメインに頼んだ。私は、和風パスタを選んだ。
「イカスミ?歯が真っ黒になっちゃうよ」
「歯磨き持ってきたから、大丈夫」と涼ちゃんは言って、にっと笑った。
メインが出てくるまで、私たちはサラダを摘みながら話をした。
「高校は、どこだったの?」
「AAA女子校」と涼ちゃんが答えた。驚いた。私でも知っている、名門女子校だった。
「制服が可愛いから、そこにしたの」と真理ちゃんが言った。なるほど、とは思った。だが、そこに受かるのは並大抵の努力では無理なはずだった。それなのに二人は、その成果を放り投げてしまった。何かとんでもないことがあったはずだ。理由は何か?
だが、まだ早い。私はまだ、彼女たちと本物の友達ではない。だからそれ以上は聞かなかった。
メインの食事が出てきた。二人は昨日と同じくペロリと全て食べてしまった。食欲旺盛な年頃なのだ。私は、毎日の食事の量を考え直さなければと考えた。
食後に、私はホットコーヒーを飲んだ。涼ちゃんと真理ちゃんは、アイスティーを選んだ。コーヒー豆じゃなく、紅茶を仕入れないといけないな。
涼ちゃんがトイレで歯磨きをしている間、私は真理ちゃんと話した。
「真理ちゃんは、本当に可愛い服が好きなんだね」
「うんっ!」と彼女は、目をキラキラさせて答えた。
「普段着って言うより、衣装みたいなのがいいんだね」私は、AKBを目を輝かせて見ていた彼女を思い出しながら言った。
「衣装じゃないよ。普段着だよ。みんな着てるよ」
確かに、同じ趣味の女の子はたくさんいるんだろうと私は気付かされた。彼女だけが、特別なわけじゃない。
「涼ちゃんも、可愛い服が好きだよ。でも、かっこいい服も好きなの。涼ちゃんは、それも似合うの」と真理ちゃんは言った。
「ふーん」
私は昨日の涼ちゃんの姿を思い出した。水色の長袖シャツを着て、青い格子柄のスカートを履いた彼女の姿を。年相応の高校生の服装だった。今日の彼女は、薄い紺の長袖シャツの上に革ジャンを着て、下は黒いジーンズの格好に戻っていた。
「ほらやっぱり。私より涼ちゃんが好きなんでしょ」真理ちゃんは、さっきの話題を蒸し返した。
「違うよ。そんなことないよ」
今度は即座に否定できた。だが真理ちゃんは、私の言葉を信用していないようだ。明らかに不審な表情で、私を見ていた。そこへ涼ちゃんが戻ってきた。さて、そろそろ出発だ。
私は西千葉から電車に一駅だけ乗り、千葉駅に着いた。駅を出て、まっすぐに千葉そごうの中にあるユニクロに向かった。
「いろんな店があるからさ、何でも好きな服を選んでいいよ」と私は言った。しかし、涼ちゃんはユニクロでいいと言って譲らなかった。
ユニクロの店舗に入って驚いた。その物量とバリエーションの多さに。ユニクロって、こんなにいろんな服を売っているのか。私は初めて知った。もちろん普段私が、ユニクロで女性物の洋服を物色するわけはない。知らなくて当然だった。
涼ちゃんと真理ちゃんは、昨日と同じくらいぎゃあぎゃあと騒ぎながら洋服を選んでいた。とはいえ、さすがのユニクロにも真理ちゃん好みの洋服は置いてなかった。だから、涼ちゃんの服だけを選ぶことになった。
「一着じゃダメだよ。着まわしできるように、たくさん買うんだよ」と私は二人に言った。二人は、私の話を聞いてるのかわからなかった。
「お父さん、どうぞこちらにお座りになって下さい」と二十代の女性店員が、店の中央に置かれた長椅子を勧めた。お父さんか、と私は感慨深い気分になった。独身の私には、その呼びかけはとても新鮮だった。
本を持って来ればよかった、と私はまた後悔した。DNAの話でも、インフレーション宇宙論でも、幕末の志士の話でも、太平洋戦争の記録でもいい。本は私に現実を忘れさせてくれる。私は昔から本が好きだった。
「拓ちゃん、来て来て!」と真理ちゃんが私を呼んだ。私が彼女のもとへ行ってみると、試着室のカーテンが開いていた。その中に涼ちゃんがいた。
涼ちゃんは、ベージュのセーターに赤いフレアスカートを履いていた。そして少し恥ずかしそうな表情で、私を見た。
いいんじゃない。おそらく涼ちゃんは、どんな服を着ても自分のものにしてしまうのだ。そういう能力を彼女は備えていた。「すごく似合ってる」と私は言った。
「でしょ!」と真理ちゃんは、まるで自分のことのように得意気に言った。厚化粧で傷を隠せた彼女は、いつもの快活な少女に戻っていた。
「上着も買ってね。もうすぐ寒くなるからさ」そう言って私は、また長椅子に戻って腰掛けた。
「お父さん。よろしかったら召し上がって下さい」
長椅子を勧めてくれた女性店員が、今度は紙コップを持ってきてくれた。ホットコーヒーだった。かくして私は、この店で高校三年生を二人抱えた父親になっていた。ちっとも顔が似てないし、お店の人もおかしいとは思ったろうが。
また2時間かけて、二人は山のような量の洋服をレジに運んできた。ハーフコートが中に二着入っていた。ブラウンが涼ちゃんで、ブルーが真理ちゃんのものだそうだ。私はまた二人を店の外へ導き、一人で会計を済ませた。
さて次は、真理ちゃんのための服を買わねばならない。
「たくさんお店があるからさ。次は、真理ちゃんの服を探そうよ」
私の提案を、真理ちゃん自身が却下した。16時までに家に帰りたいと言う。時計を見ると、15時15分だった。もう帰らなくてはならない。
「すぐ寒くなるよ。大丈夫?」と私は真理ちゃんに聞いた。
「インナーを着込むから、大丈夫」と彼女は言った。まあ、来週また買いにくればいいさ。私たちは家に帰ることにした。
家に着くと、真理ちゃんはテーブルの椅子ではなくテレビ画面の前にペタンと座り込んだ。そしてテレビを点けて、16時が来るのを待った。真理ちゃんの隣に、涼ちゃんも腰掛けた。
16時になると、AKBのスタジオライブの番組が始まった。これか。私は急いで、ハードディスクレコーダーの録画スイッチを押した。画面の中では、二、三十人の可愛らしい女の子たちが踊りながら歌っていた。昨日、車の中で聞いた曲もあった。
私は彼女たちの後ろから、画面の中の少女たちをまじまじと見てみた。みんな綺麗な女の子だったが、涼ちゃんと真理ちゃんほどの子はいなかった。身びいきだろうか?真理ちゃんは画面をじっと見つめて、笑顔で曲に合わせて小さく踊っていた。涼ちゃんは画面を見ずに、そんな様子の真理ちゃんの横顔を見ていた。その表情は厳しく、少し怒っているように見えた。要するに、やきもちを焼いているのだ。もう私の立ち入る世界ではない。私は早々に、自分の部屋に引き上げた。
さて。私は自分の部屋で「素敵な奥さん」の熟読を始めた。本の巻末に付録としてついていた「陰陽表」をハサミで切り、自分の机の前に画鋲で止めた。それをじっと見つめながら、私はノートパソコンでエクセルを開いた。そして、新規ファイルに明日から一週間の日付を横軸に入力し、縦軸に朝食、昼食、夕食と打ち込んだ。
涼ちゃんと真理ちゃんは、三ヶ月間ろくなものを食べてないだろう。ファーストフードか、コンビニ弁当だ。そのマイナスを取り返さなくてはならない。私はエクセルに、どんどん献立を入力していった。そしてその下に調理時間を目安として加えた。その結果、毎朝5時半に起きなくてはならないという結論に達した。
朝食、昼食、夕食。朝食、昼食、夕食。一週間分を並べて見ると、莫大な労働力が必要だと思い知った。世のお母さんの苦労を、あらためて考えさせられた。献立の中には、私の大嫌いなピーマンや茄子や、アスパラガスやカリフラワーも入れた。正直言って私も食べたくないが、栄養バランスを考えると取り得れざるを得ない。彼女たちも、高校三年生の女の子だ。嫌いな食べ物はたくさんあるだろう。今日までは、私に気を使ったのか全部食べているが、まったく手を出さない料理もあるかもしれない。ノートパソコンに献立を入力したのは、その状況に対応するためだった。食べなかった料理があったら、それを補うよう週の途中で献立を変える。仕事の昼休みにできる仕事だ。
献立を立て終えると、私はギターを手に取って弾いた。コードをいくつか弾いていると、新しいメロディが浮かんできた。私は手を止めて、思いついたワンフレーズをデスクトップPCの作曲ソフトに打ち込んだ。いつか涼ちゃんと真理ちゃんの曲を作るだろうな、と私は思った。
18時近くなった。ダイニングルームに戻ると、AKBの番組はまだ続いていた。涼ちゃんと真理ちゃんは寄り添い、手を握り合ってお互いの存在を確認しあっていた。私はキッチンに入り、夕食の準備を始めた。
夕食を作り終えると、私はずっと気になっていることを二人に聞いた。
「ところで、洗濯物は?」
涼ちゃんも真理ちゃんも、ドキっとした顔をした。二人で顔を見合わせ、また小声で相談を始めた。
「沢山溜まってるでしょ?恥ずかしがらないで全部出して」
私は二人を、洗面室に連れていった。そしてその脇にある洗濯乾燥機を指差した。それから、洗面台の下の戸棚から、ネットをいくつも取り出した。母が死んだ後、捨てようかと考えていたものだ。まさか役に立つ日が来るとは、思いもしなかった。
「俺は見てないから、この中に全部入れて」と洗濯乾燥機の扉を開けて、二人に頼んだ。「知っていると思うけど、下着はこのネットに入れてね。他の衣類を傷つけちゃうから」
私はダイニングルームに下がった。涼ちゃんと真理ちゃんは、二人でこそこそ話し合いながら、リビングルームと洗面室を往復した。真理ちゃんが、自慢の衣装を運び込もうとしたところで、私は待ったをかけた。
「真理ちゃん、この服洗濯機で洗って大丈夫?」と私は聞いた。真理ちゃんのフリルやリボンが付いた服は、どれも明らかに高そうだった。
「平気だよ。コインランドリーで何度も洗ってるから」と真理ちゃんは笑って答えた。うーむ、本当は洗濯機の強度を下げて洗った方がいい気がするが。散々悩んだあげく、私は別に洗うことにした。
「真理ちゃんのフリルのついた服は、最初の洗濯が終わった後で設定を変えて洗おう。大丈夫、今日中には終わるから」と私は真理ちゃんを説得した。そして「他は全部入れた?」と私は聞いた。
洗面室で、私は二人に説明をした。
「洗剤はもう洗濯機に入ってるから。後はスタートボタンを押すだけ。3時間待てば洗濯して、乾燥まで終わるよ。簡単でしょ」
涼ちゃんと真理ちゃんは、大きく何度もうなずいた。私は母の死後、この洗濯乾燥機を購入した。とても高かったが、洗濯物を干さなくていいのはとても助かる。
「この洗濯機、いつでも使っていいからね。毎日洗濯してもいいよ」
そう言ってから私は自分の部屋に戻り、今度は書きかけの小説の続きを書いた。誰も読むことのない小説だ。だがその小説には、私という個人がこの世に存在した証が詰まっていた。世界中の誰も、そんなものに興味を持たないだろう。でも、何もなくなった私は、何かを創作するという作業を心の支えにしていた。
私は醜いために、女にモテないと悩む19才の少年の話を作っていた。彼はやがて、ある殺人事件に巻き込まれることになる。その小説の中で、私は彼をなんとかして救おうとしていた。論を尽くして、彼を「悩むな」と説得しようと試みた。しかし19才の彼は、48歳の私が知っている思考テクニックを知らない。だから、瑣末な問題で悩むことになる。だから私が身につけた思考テクニックを、簡単に翻訳して彼に教えなければならない。その説明の書き方に、私は四苦八苦していた。
そんなことに悩みながら、ふと居間に目を向ければ高校三年生の少女が二人いた。19才の架空の少年すら説得することのできない私に、彼女たちに何ができるのだろうか?何が言えるのだろうか?真剣にそう思った。
ダメだ。何もできない。私は白旗を上げて、降参するしかなかった。私にできることは、部屋を貸して、食事を作って、洋服や化粧品を買って、たまにドライブに連れて行くことぐらいだ。それぐらいしかできない。彼女たちが抱えている悩みを、解き明かすことは不可能だ。自分の無力を認めよう。
19時になったところで、私は部屋を出てダイニングルームに戻った。二人はテーブルに座って、テレビを点けながら必死にiPhoneをいじっていた。
「そろそろ、ご飯にする?」
「いや、まだいー」二人が声をそろえた。
「何時頃がいいの?」
涼ちゃんと真理ちゃんは、例のごとく秘密会議を始めた。協議の結果、夕食は20時開始と決まった。やれやれ。
私は19時45分にキッチンに入り、夕食を温めてから皿に盛ってテーブルに並べた。終わったら、19時55分だった。5分フライングだが、さて夕食にしよう。
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