第5話 ドライブ

第5話 ドライブ


 次の日私は、7時に目を覚ました。顔を洗ってヒゲを剃り、朝食の準備をした。そして、8時になるのを待った。

 涼ちゃんも真理ちゃんも、8時を過ぎても起きなかった。しびれを切らした私は、二人を8時10分に叩き起こした。この子たちは、普段何時まで寝ているのだろう?

 涼ちゃんは、長袖の薄い水色のシャツに、膝丈で青い格子柄の入ったスカートを選んだ。今日は、肩まで伸びた髪を縛ってはいなかった。革ジャンも着なかった。昨晩私が怒ったから、真逆の服装にしたのかもしれない。その格好じゃ海辺では絶対寒いと思い、自分の部屋に戻って登山の時に使うウインドブレイカーと雨具を、リュックに積めこんだ。

 問題は真理ちゃんの化粧だった。涼ちゃんは今日はほとんどすっぴんだったが、真理ちゃんは鏡の前に立って念入りにメイクした。これが長い。8時30分を過ぎても終わらなかった。仕方ない。待つしかない。8時45分になってようやく真理ちゃんは洗面台から出て着た。彼女は今日は、オレンジ色がベースのワンピースを選んだ。襟や袖やスカートの裾に大きなフリルがついていて、腰には巨大な二本の布がついていた。彼女はその布を、腰の後ろでリボン結びにしていた。涼ちゃんは、満足そうに真理ちゃんを見ていた。

 私たちは早々に朝食を済ませ、出発することにした。


 私の車は、ミニワンという英国製の小さな車だった。しかもスリードアで、後部座席は申し訳程度のものだった。まさか女の子二人を乗せて、ドライブに行く機会がくるなんて思わなかったのだ。こんなことならファイブドアにしておけばよかった。

 しかし二人は、その小さな後部座席に並んで座った。二人ともとても小柄だったので、この座席でも大丈夫かなと私は思った。

「ねえ、君たちのiPhoneの曲をかけられるよ」と私は後部座席の二人に話しかけた。

「ええっ?そんなことできるの?」

「Bluetoothをオンにして、飛ばせばいいんだよ。順番に二人の好きな曲をかければいいじゃん。さて、どっちが先にする?」

 二人はいつものように、小さな声で熱心に話し合った。長い討議の結果、涼ちゃんの好きな曲をかけることになった。それは、日本語ラッパーの曲だった。もちろん私が知らない曲だ。でも二人の気分が良くなれば、それでいいのだ。


 出発してまず館山道を目指した。館山道に乗ると、飛ばして一気に富津まで行く。館山道はその名の通り、館山まで続いているが私はあえて富津で高速を降りた。そして国道を南下する。するとやがて道は、海沿いの崖に沿うようになる。そこに差し掛かったとき、目の前に海がパッと見えるのだ。私はその景色が若い頃から好きだった。

「わああっ」

 海が見えた瞬間、二人は歓声を上げた。10月の東京湾は穏やかで、私たちを心の芯から和ませた。遠くに大きな貨物船が、ゆっくりと東京湾を進むのが見えた。そしてその先には、緑に満ちた三浦半島がぼんやりと見えた。

 後部座席の二人は、きゃっ、きゃっと大騒ぎを始めた。昨日私が怒ったことなど、すっかり忘れてしまったようだ。

「ねえ、今日は房総半島を一周するんだよ。これから、飽きるほど海を見るからね」と私は釘を刺した。しかし二人は、私の話など聞いてなかった。目の前に広がる風景に夢中だった。

 休憩は頻繁に取るようにした。私の運転の疲労を取るためではなく、まず彼女たちがトイレに行けるようにすることと、それから真理ちゃんのお化粧直しの時間が必要だと思ったからだ。1時間走って、15分休憩。こんなペースで私たちは進んだ。

 鋸南町の、道の駅で休憩した。すると二人が、交代で助手席に座りたいと言い出した。もちろん助手席の方が眺めは良い。最初は、なんと涼ちゃんが私の隣に座ることになった。かける曲は、真理ちゃんの選曲に変わった。これも私の知らない曲だ。女の子のアイドルが歌っていた。

 涼ちゃんが助手席に座ったので、私はとても緊張した。まだ彼女は私を警戒している。私はそう思っていた。真理ちゃんとは、二日一緒に夕食を食べた。AKBのライブも二人で見た。真理ちゃんは、とてもおおらかな性格なのだと思う。社交的で、友だちもたくさんいるだろう。

 涼ちゃんは違った。とても繊細に思えた。容易に人に心を許さず、あの鋭い視線で相手をじっと見つめるのだ。そして相手を追い払う。そんなタイプに見えた。

 道は、トンネルをいくつもくぐった。風景は、向かって左が森、右はずっと海。たまにポツポツと家があるだけになった。しばらく進むと、小さな駅が現れてその周りに小さな町があった。古い造りの商店があって、地元の特産品を売っていた。小さな町を抜けると、また森と海だけになった。

「おじさん」と涼ちゃんが、私に話しかけた。彼女に話しかけられたのは、この時が初めてだと思う。私は、内心びっくりした。海が彼女の心を、解きほぐしたのかもしれない。

「なんだい?」

「おじさんは、名前はなんていうの?」

「拓郎、吉田拓郎の拓郎」そう説明した後で、彼女たちは吉田拓郎を知らないだろうと思った。

「じゃあ、拓ちゃんだね」と涼ちゃんは言った。

「おいおい、俺は48歳のオヤジなんだぜ。いまさら、ちゃん付けはきついよ」

「いいの。拓ちゃんで。ねえ?」と、涼ちゃんは後ろの真理ちゃんに同意を求めた。

「いい。拓ちゃんでいい」と真理ちゃんは言った。やれやれ。でも彼女はようやく、私に一歩近づいた。身にまとった鎧を、涼ちゃんが少しずつ外すのを感じた。


「私、学校やめたの」と涼ちゃんは、今度は自分の話を始めた。私はまた驚いた。話の内容もそうだが、得体の知れないおじさんに身の上話をする涼ちゃんにたまげた。

「なんで?」

「気に入らなかったから」と涼ちゃんは答えた。高校中退か、と私は心の中で頭を抱えた。今の彼女に、帰る場所はないということだ。

「ところで、涼ちゃんはいくつなの?」

「18になった」

「てことは、高校三年生だったんだ」

「うん」

「真理ちゃんは?」

「同い年。でも、まだ17才」

「真理ちゃんも学校やめたの?」

「ううん、真理ちゃんはやめてない。でも7月から学校行ってない」

「涼ちゃんが、学校辞めたのはいつ?」

「7月」

 7月に、何かがあったようだ。だが私は、それを今聞き出そうとは考えなかった。彼女たちが話したくなったときに、聞かせてくれればいい。私はそう思った。

「7月に、二人で家出したってこと?」

「そう」

「それで、都内でインターネットカフェとかに泊まってたの?」

「そう。それが一番安くすむから」

 7、8、9。三ヶ月、この二人は都会を彷徨っていたわけだ。社会からドロップアウトし、何にも目指すものもなく。私は真理ちゃんの欠勤数を計算してみた。7月は20日頃から休みに入るから、7月は10日として、9月は20日。今日は10月6日だから、全部で35日になる。卒業に必要な出勤日数は、何日だったけ?退学した涼ちゃんは仕方ない。でも真理ちゃんには、いつか学校に戻ってもらいたいと私は思った。しかし、そんな気持ちにさせるには、それ相当の根気と努力を必要とするだろう。私は覚悟した。


「ねえ、拓ちゃん」と涼ちゃんは言った。

「私と真理ちゃんは・・・」と涼ちゃんは、そこまで言って言い淀んだ。まるで教会の懺悔室みたいな雰囲気になってきた。私が牧師で、涼ちゃんの告白を聞くのだ。私に、そんな役目はできるだろうか?

 しばらく沈黙があった後、彼女は話を再開した。

「私と真理ちゃんは、付き合ってるの。レズビアンなの」

「知ってるよ」と私は言った。助手席で、涼ちゃんが驚いている気配が伝わってきた。私は説明した。

「君たちは覚えてないと思うけど、君たちがうちに来る二日前、俺たちは駅のホームで会ってるんだよ。君たちはずっとキスしてた。それを見て覚えてたから、涼ちゃんと真理ちゃんが電車で寝過ごしたときに声をかけたんだよ」

「そうだったんだ・・・」涼ちゃんはそう言って、また少し黙った。一生懸命、何か考えているようだった。

「ねえ、レズって変だと思う?」

「いいや、全然」と私は答えた。助手席の涼ちゃんが、また息を飲む気配を感じた。

「全然?」

「全然」

「どうして?」

「ある調査によると、この世に生きている人の、約7.6%は同性愛者なんだよ。これは最近の定説となっている。実際に、俺の仲のいい人にもいる」

「そうなんだ・・・」

「君たちはまだ若いから、知らないことが沢山あっても仕方がない。これから覚えていけばいいんだよ。時間はたくさんある。焦ることはない」と私は言った。「同性でも異性でも何でもいい、お互いに好きってことは素晴らしいことだ。人生を長く生きてみると、お互いに好きでいられる時間が、びっくりするほど少ないことに気がついた。だから俺は、涼ちゃんと真理ちゃんが羨ましいよ」

涼ちゃんは、そして後ろの真理ちゃんは、私の言ったことについてしばらく考えていた。難しいことを言い過ぎたかな、と私は少し不安になった。


「ねえ、拓ちゃんは恋人はいるの?」とだいぶ時間が立ってから、涼ちゃんが私に質問した。

「いないよ」

「どうして?」

「俺は、インポテンツだ。うつ病になって、その副作用で性欲を全く感じないんだ。医者によると、10%くらいの患者はそうなるんだって。だから、恋人はいらない」

「寂しくない?」と、涼ちゃんは私にたずねた。

「寂しくないと言ったら嘘になる。少しは寂しいよ。でも仕方がないし、我慢できる範囲だよ」

 おいおい、高校三年生の女の子にインポの説明なんかしていいのだろうか?まあ、話の流れだ。どうしようもない。


 館山に着いた。国道を右に曲がってわざわざ海沿いの道へ向かう。このときの風景が最高だ。フロントガラスいっぱいに、館山湾の海が広がる。二人はまた大騒ぎを始めた。

「すっごー」

「メッチャいいー」

 道は右手に海を眺めながら、細い道を進む。やがて道は、崖をくねくねと曲がりくねっていく。そしてその場所を抜けると、いよいよ房総半島の最先端だ。もう正面も左右も全て海になる。涼ちゃんは後ろを向いて、真理ちゃんと話しながらゲラゲラと笑い出した。それがいつまで経っても続いた。そういや、この年頃の女の子って、どんなことでもばかみたいに笑うんだったっけ。私は遠い高校時代の同級生たちを思い出した。しかし、私はこの二人がこんな風に笑う姿を見ていなかった。おそらく本人たちも、家出してから、本気で笑えるときなどなかったのではないだろうか。そう想像すると、私の胸はキリキリと痛んだ。


 昼食は、まさに半島の先端にある海岸前の食堂で、定置網丼という料理を食べた。採れたての刺身がたっぷりのっていてすごいボリュームだったが、二人はペロリと平らげた。おまけに、デザートのアイスまで食べた。私は拒んだのだが、「拓ちゃんも食べろ」と説得されアイスに付き合う羽目になった。

 そこから車で10分ほど移動し、直線に海岸を沿う道路を走った。右に松の防風林があり、その先に砂浜がしばらく続く。左には森があり、可愛らしいペンションや瀟洒なホテルがポツポツと建っている。

 私はまた、道の駅の駐車場に車を停めた。時間は12時を少し回ったところだ。涼ちゃんと真理ちゃんは、車を降りると道路を渡って防風林の森を抜け、まっすぐに砂浜へと向かって走っていった。私は走って追いかけたが、追いつかなかった。

 砂浜に到着すると、すでに二人は靴を脱ぎ、波打際で足を海に浸していた。そして打ち寄せる波に、進んだり退いたりを繰り返して遊んだ。スカートの裾をつまんで少し上げ、歓声を上げなら走り回る姿は天使そのものだった。

 天使がこの世に舞い降りた光景を、私は見てるんだと思った。二人が浜辺で遊ぶ姿に、私は震えるほどの神々しさを感じた。参った。二人とも本物の美少女だ。

 私は浜辺から離れた草の上に腰を下ろした。そして、波打ち際ではしゃいでいる二人を見ていた。だが、私の心はすぐに醒めてしまった。二人が美しかろうが、醜かろうが私にはどうでもいいことだ。むしろ、私は二人の若さについて考えていた。若いとは、とても困難でキツい体験だ。

一方で、私がインポでなかったら二人のどちらか、あるいは両方に心を奪われ、虜になっているだろうなと思った。それじゃまるで、ナボコフの「ロリータ」だ。身の破滅だった。

「インポでよかった」

 私は、心からそう思った。そして一人で吹き出した。インポで良かったなんて考える男は、この世にまずいないだろう。だが今の私には、それが合っていた。

 そして私は同時に、涼ちゃんが昨日まで自分の身体を売っていた事実に目を向けざるを得なかった。こんなに綺麗な女の子だ。100万円出しても触れたいと思うのが男の本望だろう。

 しかし私は、彼女の保護者の立場にいた。18歳で、見知らぬ男に自分の身体を自由にさせることはよくないことだ。彼女はその行為により、確実に傷を負っている。そして、その傷はおそらく、ずっと消えない。

「拓ちゃん」と真理ちゃんが大声で私を呼んだ。「拓ちゃんも来て」

 私が波打ち際に行って楽しいわけないだろう、と思った。しかし、呼ばれたからにはしょうがない。私は二人のそばに行った。

 波は次々と打ち寄せた。太平洋の波は、東京湾と違って荒々しかった。ちょっと気を許すと、すぶ濡れになりかねなかった。私は靴を脱がなかった。だから、波が打ち寄せると懸命に逃げた。その必死さがおかしかったようで、涼ちゃんと真理ちゃんはゲラゲラ笑った。彼女たちは靴を脱いでいたから、波に足を飲まれても平気だった。

「拓ちゃんも、裸足になればいいじゃん」と涼ちゃんが言った。

「いや、濡れたくない」

「なにそれ、つまんなーい」と真理ちゃんが言った。私は靴と靴下も脱ぐことになった。

 こうなったらやけくそだ。私はジーンズを膝までまくって、ジャバジャバと海へ突っ込んだ。するともちろん、二人もついて来た。

 そこへ予期せぬ大波が打ち寄せた。私と涼ちゃんは逃げ切ったが、真理ちゃんは遅れた。彼女は全身ずぶ濡れになってしまった。しかし二人はゲラゲラ笑っていた。濡れても関係ないようだった。笑いがようやくおさまったところで、私たちは波打ち際から引き上げた。

 二人が浜辺での遊びに満足した後、問題は真理ちゃんの濡れた服をどうするかだった。浜辺を離れて防風林を抜け、車に戻った。そして、私は用意していた登山用の雨具上下を真理ちゃんに差し出した。彼女は涼ちゃんと防風林の中に消えた。やがて真理ちゃんは、私の登山用の雨具に着替えて涼ちゃんと帰ってきた。それはオレンジ色で、サイズはかなり大きいけれど、彼女にはよく似合った。

「ゴワゴワするけど大丈夫?」と私は聞いた

「全然平気!」と真理ちゃんは答えた。

 私たちは真理ちゃんの濡れた服を、下着まで車の上に広げて乾かすことにした。真理ちゃんが私の前で下着を干すのを恥ずかしがったので、私は車から100mくらい離れた。 服を干し終えた二人が、私のそばに来た。私たちはそこで、ジュースを飲みながらゆっくり服が乾くのを待った。二人はまたゲラゲラと笑いながら話をしていた。私はその様子を、黙って見守っていた。

10月の日差しは、夏ほどの力がなくてなかなか乾いてくれなかった。1時間くらい待って、なんとか我慢できるところまで乾いたので、真理ちゃんは元の姿に戻った。


次は、近くの植物園を訪れた。世界中の植物を栽培している、なかなか見所のある場所だ。

実はこの小旅行は、遠い昔に当時付き合っていた人と通ったコースだ。私はその記憶をなぞった。

その彼女は、さんざん私を罵倒して去っていった。そんなに罵倒されるほど、私は彼女にひどいことをしただろうか?私は身に覚えがなかった。わからない。いや私は、きっと彼女を深く傷つけたのだろう。全部昔のことだ。

その植物園は、大成功だった。二人は奇声を上げて大騒ぎしながら、園内を走り回った。また追いつくのが、大変だった。南米産の、グロテスクな植物に二人は大声をあげた。

「何、これー?」

「キモいー!」

 他のお客たちがびっくりするくらい、二人は大騒ぎした。その代わり、清楚な花々が咲き乱れる場所に着くと、うっとりとした表情をして黙った。その美しさに見入っていた。


 さて。私は二人のために、とっておきの場所を用意していた。植物園から1時間ほど海沿いを走った。どんどん変わっていく景色に、涼ちゃんも真理ちゃんも目を奪われていた。

 ある場所で、私は海から離れた国道を右に曲がった。細いくねくねした森の中の坂道を、上がったり下がったりして進んだ。そして辺鄙な場所に車を停めた。

「ここから山道を少し歩くよ」と、車を降りた二人に私は言った。私はリュックから青いウィンドブレイカーを取り出し、涼ちゃんに渡した。真理ちゃんには、さっきのオレンジの雨具の上着をまた差し出した。

「風が強いと寒いからね。無理矢理でも着て」と私は言った。

 二人とも、低いヒールの靴を履いていた。山道を歩くには、ギリギリのラインだ。私は舗装された道路から森の中へ入り、細い山道へと二人を案内した。私たちは、森の中をゆっくりと進んだ。起伏があり、スニーカーではない二人は大変だったろう。でも、この先にはその苦労が報われる場所がある。五分ほど歩いたところで、浜辺に出た。誰もいなかった。小さいけれど、プライベートビーチだった。砂浜があり、その脇にはゴツゴツとした岩場があった。目の前いっぱいに太平洋が広がっていた。岩場のそばには、何mもある巨大な奇岩がいくつもそびえていた。

「すごい・・・」と真理ちゃんが、ため息をつくように言った。

「俺たちの他に、誰もいないよ。独り占めだよ」と私は言った。二人は大きくうなずいた。

 私は、「おしっこしてくる」と言って二人から離れた。わざとだった。私は、しばらく岩陰で時間を潰した。そして、そっと首だけ伸ばして二人の様子を窺った。

 涼ちゃんと真理ちゃんは大きな、そしてちょうど良く平らな岩の上に腰掛けていた。そして寄り添い、抱き合い、キスを交わしていた。何度も、何度も。

 そりゃそうだろう。そのためにここに連れてきたんだ。そんな気分にもなるさ。私は二人のキスシーンを覗き見しながら得意になってそう思った。それでいて、ある意味他人事だった。私は不思議なほど冷めた目で、涼ちゃんと真理ちゃんのラブシーンを見ていた。それは、私が失ってしまった感情のせいだった。人を好きになるという感情を、私はずいぶん前に失った。

 これ以上遅くなるとうんこしてると疑われかねない頃になって、私は「戻るよ」と大声を上げた。そして二人のところに戻った。涼ちゃんと真理ちゃんは、もうキスはしていなかった。でも岩の上で、二人はその小さな身体をぴったりとくっつけ合っていた。その簡単に壊れてしまいそうなか弱い姿に、私の胸は激しく痛み出した。さっきの二人のラブシーンはなんとも思わなかったのに。我ながら不可解だった。


 時計は15時を指していた。

「さあ、そろそろ帰るよ」と私は言った。

「ええっ?」

「やだあ。夕陽が見たい」と真理ちゃんが主張した。

「そうなんだけど、今帰らないと大渋滞に巻き込まれるんだ。車の中で、何時間も閉じ込められてトイレにも行けなくなるんだよ。そんなの、嫌でしょ?」

 私に脅されて、彼女たちは渋々帰ることに従った。帰りは、助手席に真理ちゃんが座った。

 案の定、もう渋滞は始まっていた。動けなくなるほどではないが、車が多くてノロノロと進むしかなかった。

「ねえ、拓ちゃんは何人女の人と付き合ったの?」と、突然真理ちゃんが私に聞いた。音楽は、真理ちゃんの選んだ曲が流れていた。

「大した数じゃないけど、いろいろな人と付き合ったよ。何人って言われると、ちょっと困るな」

「何で?」

「どこまでで数えたらいいか、わからないんだ。デートした人なら、沢山いる。付き合っていた人もそこそこいる。でも、その分かれ目って難しい」

「よくわかんない」と真理ちゃんは言った。

「うーん、つまりさ。ちょっとデートしただけで、ものすごく好きな人がいた。その一方で、大して好きでもないのに付き合ってた人もいた。どっちが本当の恋愛なのか、実は今でもよくわからない。だから、数えられないんだよ」

 真理ちゃんは、黙っていた。私の説明が悪すぎたのだろう。

「拓ちゃんは、女の人が好きなの?」大分経ってから、真理ちゃんは口を開いた。

「そりゃそうだよ。俺は、女の人が好きだよ」

「何で?」

 私は答えに窮した。彼女に何と説明すればいいのか?

「うーん、やっぱり女の人が美しいからかな。そうとしか言いようがない」

「私も女の人が好き。というか、可愛い女の子が好き。どうしてか、わからない」

 48歳になった私でも、太刀打ちできない話になってきた。ハンドルを握り、運転に気を配りながら私は必死に考えた。

「大事なのは、自分に正直なことだと思うよ。真理ちゃんは女の子が好き。その気持ちに正直でいようよ。無理して男と付き合う必要はない。無理したら、自分が壊れちゃうからね」

 私の言葉は、真理ちゃんの疑問を解く回答ではなかったようだ。彼女は黙ってしまった。懸命に考えている様子がうかがえた。しかし、彼女の疑問はまだ彼女の中で言葉にならなかった。真理ちゃんは口をつぐんで、悩みに悩んでいた。


 そのうち、疲労が襲ってきた。真理ちゃんは静かな寝息を立てて、眠り始めた。涼ちゃんはとっくの昔に、後部座席で寝ていた。二人の寝息は、まるでオルゴールの音を聴くようで心地よく、私を心から幸福な気持ちにさせた。この二人を守りたい。その言葉が、圧倒的な力で私を襲った。私は唇を噛み締め、ハンドルを強く握った。私に何ができるのか?さっぱり、アイデアがなかった。ただ、涼ちゃんと真理ちゃんを守りたかった。なんにもない私に、その思いはやがて太い槍となって、私に深く突き刺さった。私はさらに強く、ハンドルを握りしめた。

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