大風の如く(8)

 宗宮そうみや駅に戻ってきた頃には、すっかり夕暮れが迫っていた。

 二泊三日の旅が終わる。短くも、実り多き旅行が。

入舟いりふね先輩は夏休みはどうするんですか?」

「受験勉強に決まってる。残りの一ヶ月は遊んでいる余裕なんてないから、もう遊びには誘わないで」

「分かってます。頑張って下さい」

「ただ、もし閑香しずかのお父さんの居場所が分かった時はちゃんと教えなさい」

「先輩は俺の誘いも断るの?」

「……当たり前でしょう」

 呆れたように更紗さらさがため息を吐く。

「オレもまずは受験勉強だな。そっちをやらねえと選ぶ進路がなくなっちまう」

「仕方ない。勉強するか。俺たちも、夏休み明けには試験があるしな」

「……まだ、考えたくないよ」

「過去は取り戻せる、か……。そいつは分からねえけど、二回目は同じ間違いを繰り返さない。そのために過去はあるのかも知れないな」

「突然、どうしたの?」

「別に、そう思っただけだ。じゃあ、帰るか」


 本屋に寄るという更紗が、別れる間際に打ち明ける。

 一泊目の夜、詩葉うたは啓人けいとと会う前に更紗と話をしていた。話だけならば部屋でもできたはずだが、何かを言い出せないままでいた更紗を誘ったのは、詩葉だった。

「結局、その時は何も言えなかった。だけど、最後はうめヶ枝さんが後押しをしてくれた。あの人の目は涼やかで、優しくて、だけど何もかも見通しているみたいに怖い。全てを許してくれるようで、だけど決して自分を許していないようにも思える。きっと、とても深い悩みがあるんじゃないかしら。……藍川、あなたが力になってあげなさい」


 詩葉も一人で帰ると言う。

「ありがとうございました。閑香の最後の想いを知ることができ、そして僕たち皆が、彼女と本当の意味で別れをすることができました。

 詩葉さんの助けがなければ、きっと成し遂げられませんでした」

 その言葉に、詩葉は静かに口元を緩ませて、

「では、これは貸しですね」

 と、冗談っぽく首をちょこんと傾げた。

 彼女もそのような仕草しぐさをするのかと、啓人も笑みを返す。


   ◇


 藍川さんたちと別れて、私は一時間ほどかけ、歩いて自宅まで戻る。疲れていたが、それでも歩きたい気分だった。もっと疲れたいと思った。

 タンポポのコーヒーを淹れて、二階に上がる。

 カーテンを開けて、沈む寸前の夕陽を部屋に入れる。本棚に囲まれた一室の、その真ん中に置かれた椅子いすに腰掛けた。苦みを口にして、長い一息を吐いた。

 藍川さんが初めてこの店を訪れた日のことを思い出す。彼がベルを鳴らして入って来た時、私はこの部屋にいた。

 誰かに……いや、誰かではない、母に呼ばれたような気がして二階にいたからだ。

 もちろん、それは気のせいで、誰もいるはずはなかったのだが。あの時、私はこの部屋で一冊の本を手にした。

智恵子抄ちえこしょう

 無人の室内で目に入った本を何気なく手に取り、ページを捲り、言葉を手繰った。

 その中には『郊外こうがいひとに』も納められていた。

 一人の女性を狂おしいほどに愛した詩人の言葉に意識を取られ、おまけに本を戻す際に誤って机の上の物を落としたせいで、藍川さんの来訪に気づくのが遅れた。

 もっとも、後から聞けば、その時の音のために藍川さんは店に留まったと言う。 

 不思議な縁だ。彼は母が呼び寄せたのかも知れないと、今となっては思う。

 ただの偶然とは思わない。

 母は未熟な私に道を指し示そうとしたのだろうか。もしそうであれば、どうか夢で良いから、もう一度会いに来て欲しい。

 たとえ、母の言葉が私を苦しめることになるとしても、真実を知りたいと願う。

 藍川さんが、そうしたように。


 私は立ち上がると、母が遺し、そして私も育んだ本の森に手を伸ばし、再び一冊の文庫本を開く。

 閑香さんが残し、更紗さんが守り、藍川さんが詠み上げた。それと同じ装丁だ。


 わがこころはいま大風の如く君に向へり

 そは地の底より湧きいづる貴くやはらかき温泉にして

 君が清き肌のくまぐまを残りなくひたすなり


 敢えて意味を読み解くことを放棄し音読する。詩は詩として、そのままを感じる。

 私は先人の詩いをなぞり、その想いを辿り、祈り、そして詠む。今はまだ、それをようやく始めたところだ。

 静けさと情熱が同居していた。ひとつの光景が思い浮かぶ。


 一面に大海原が広がっている。

 誰もいない青い空と、青い海だ。

 海面を風が撫でると白い波が立つ。

 波の間を泳ぐ一匹の小さな魚がいる。

 しばらく気ままに漂うと向きを変える。

 海の底へ底へと、魚は潜り、姿を消した。


 今もきっと、魚は眠っている。

 涙を湛えた海の底で優しい風を感じながら。

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